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ラウドネスの高崎晃氏の特集です!!高崎氏といえば、ランダムスター!キラーギター!抜群の音抜けの良さ!太く重いサウンドは、最高です!まさしくロック!という感じです!
June 21, 2007
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ギターが弾きたいと思えば、まずは、ここ!!^^ 初めての人にも、もの凄くわかりやすく説明がされていて、ギターも選びやすいよ。^^自分だけのギターを持ってみよう。^^
March 29, 2007
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今夜は、友達から、猿マンの歌を作ってほしいと、いう事で簡単につくりました。^^ザ☆猿マン!ウハウハウハウハウハウハ~!!ウハ!ウハ!ウハ!玉子焼き!猿マ~ン!!夢で現れ幸せ残す~!見つからない!見つからない!見つからない!見つけた~~~~~!!ハッピー!猿マン!猿マン!猿マン!ロックンロ~ル!!ウハウハウハウハウハウハ~!!猿マン!猿マン!さ~る~マ~ン~!!寂しい~夜だから~君に抱かれていたい~いつもの集合場所に居るから~信じてね♪ウハウハウハウハウハウハ~!!猿マン!猿マン!さ~る~マ~ン~!!やきそば!やきそば!やきそば!ウハウハウハウハウハウハ~!!猿マン!猿マン!さ~る~マ~ン~!!すき焼き!すき焼き!すき焼き!ウハウハ系!?エロ系!?ハッピー猿マン~~~~~~~~~~~~~!!OK♪by Cherry,Tかなり、イメージの違う事をしてしまいました。^^;↑ これは、現在、僕が使っているボリュームペダルです。 リフとソロの切り替えなどでは、便利ですよ。 楽天で調べたところ、これが安かったので乗せました。^^
March 28, 2007
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最近では、ギター用のエフェクターもマルチエフェクターとなって、かなり便利なものになった。なんといっても配線が少なくてすむのがいいよね。^^持ち運びもらくだし、作った音をメモリーすることも出来るからね。^^
March 27, 2007
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これは、かなりの種類があるからいろいろ探してみてね。^^ギターの雰囲気がグン!とかわるよ。^^
February 23, 2007
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激安!!ギタースタンド!!見逃すな~!!これは、安いよ!ギターは、ちゃんと立てて管理しようね。^^
February 18, 2007
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チューナーがあれば、半音上げたり下げたりいろんなチューニングが簡単にできるよ。オープンGなどのチューニングも簡単~!有名ギタリストたちも、けっこういろんなチューニングをしているよ。さりげない演出だけど、インパクトのある演奏が出来そうだね。いろいろあるから、使いやすそうなのを選んでね。^^
February 12, 2007
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ジェフリー・アーノルド「ジェフ」ベック(Geoffery Arnold "Jeff" Beck, 1944年6月24日 - ) イギリス、サリー州ウォリントン出身のギタリスト。エリック・クラプトン、ジミー・ペイジと共にUKロック3大ギタリストに数えられる。「ロックギタリストには2種類しかいない、ジェフベックとジェフベック以外だ。」とポール・ロジャースが言った(ジョン・ポール・ジョーンズが言ったとする説もある)ことが象徴するように、非常に個性的なギタリスト(奏法、フレーズ、エフェクターの使用法等)であり、各時代ごとに音楽性を変化させながらも常にギターを追求し、音楽的挑戦を止めようとしない姿勢などが高く評価されている。他に類を見ない独特の存在感などから「孤島のギタリスト」としばしば形容される。生い立ちと初期ジェフ・ベックは1944年、ロンドン南方のウォリントンで中流家庭に生まれる。一家は両親と姉の四人暮らしであった。ジェフは地元の私立小学校に入学し、12歳になるとジュニア・アート・スクールに通い始める。ロックン・ロール、ロカビリーに興味を持ったジェフは、友人から弦が三本しか張られていないガット・ギターを手に入れる。それに満足できなくなると、ベニヤ板を使い黄色いペンキを塗ったギターを作り上げた。ギターにのめり込むジェフの姿を見て、母親は25ポンドのグヤトーンを買い与えた。16歳になるとウィンブルドン・アート・スクールに入学する。ジェフは学友達と最初のバンド、ナイト・シフトを結成し、ローカル・クラブへの出演を果たすようになる。1962年、エプソム・アート・スクールに通っていた姉から、同校に在籍していたジミー・ペイジのことを知らされ、意気投合する。まもなくジェフはアート・スクールを退学、ナイト・シフトを解散し新たなバンド、トライデンツを結成する。トライデンツで活動する傍ら、セッション・ギタリストとして様々なセッションにも参加している。トライデンツでの音源はアルバム『ベッコロジー』に三曲が収録されている。1965年、スタジオ・ミュージシャンとしてセッションワークで多忙だったペイジに紹介される形で、エリック・クラプトン脱退直後のヤードバーズに参加する。ヤードバーズは1966年、ベースのポール・サミュエル・スミスが脱退、その後任としてペイジがベーシストとして加入。やがてベースをクリス・ドレヤと交代したペイジは、ジェフと二人でリード・ギターを担当、ヤードバーズはツイン・リード編成で活動、シングル「Happenings Ten Years Time Ago / Psycho Daises」が発表した。この時期にバンドはミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』に出演、この映画でジェフはギターを破壊している。様々な活動やツアーを行いながらも次第にメンバー間の確執が表面化し、ついにはアメリカ・ツアー時にジェフはステージを放棄し、12月中旬に健康上の問題を理由に脱退することとなる。ジェフ・ベック・グループヤードバーズ脱退後、ジェフはミッキー・モストとプロデュース契約を結び、ソロ・シングル「Hi Ho Silver Lining / Beck's Bolero」を発表する。この「Hi Ho Silver Lining」は大ヒットし、NME誌のチャートで17位を記録するが、こういったポップス路線に対してジェフは否定的な気持ちを抱いていた。その後新たなバンド、第一期ジェフ・ベック・グループを結成する。(注;「第一期」という名称は、後述の「第二期」が出来てから、双方を区別するため便宜上付けた名称である。「第一期」のアルバムの正式な名義はジェフ・べックであり、ツアーもジェフ・べックの名義で行われた)ジェフのリード・ギターをフィーチャーし、ヴォーカルにはショットガン・エクスプレスに所属していたロッド・スチュアート、ロン・ウッドがベース、ニッキー・ホプキンスがピアノ、エインズレイ・ダンバーがドラムスというラインアップであった。バンドはこのラインアップでシングル「Tallyman / Rock My Plimsoul」を発表するが、ほどなくエインズレイが脱退、代わってミック・ウォーラーが加入し、アルバム『トゥルース』を録音する。この『トゥルース』はわずか4日で録音された物であった。その後、ドラムスがトニー・ニューマンに交代し、セカンド・アルバム『ベック・オラ』を発表するが、メンバーの確執が表面化、バンドは活動を停止し、ロンとロッドが脱退してしまう。その頃ジェフは、ヴァニラ・ファッジのティム・ボガート、カーマイン・アピスと接近、彼らにロッド・スチュワートをボーカリストとして加え、新たなバンドを結成する予定であったが、直前の1969年11月2日にカスタム・メイドのT型フォードを運転中ロンドン南30マイルのメイドストーンで交通事故を起こし重傷を負い、三ヶ月の入院を余儀なくされる。この出来事により、新バンドの構想は白紙となってしまう。怪我が完治したジェフは新たなメンバーを集め、第二期ジェフ・ベック・グループを結成する。ベースにクライヴ・チャーマン、キーボードにマックス・ミドルトン、コージー・パウエルがドラムス、ヴォーカルにボブ・テンチというメンバーであった。この第二期ジェフ・ベック・グループでは第一期よりも洗練されたサウンドで、ジャズやモータウンといったブラック・ミュージックからの影響を大きく受け、それまでのブルース路線から新たな方向への転換がなされた。1971年の『ラフ・アンド・レディ』、翌年『ジェフ・ベック・グループ』を発表し、その活動も好調に行われたものの、ジェフは再びカクタスで活動していたティム、カーマインと接触、8月のアメリカ・ツアーで突如メンバーを変更、その後第二期ジェフ・ベック・グループは空中分解してしまう。残ったティム、カーマインに加えてヴォーカリストとしてポール・ロジャース招聘を図るもこれに失敗し、結局ベック・ボガート・アンド・アピスとして活動することとなる(ベック・ボガート・アンド・アピスに関してはその項参照)。ベック・ボガート・アンド・アピスは二枚のアルバムを残し、1974年にはジェフとティムの対立から自然消滅する。フュージョン期翌1975年、初のインストゥルメンタルアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』を発表。ビートルズのレコーディングプロデューサーでもあったジョージ・マーティンをプロデューサーに迎え、当時流行していたフュージョン色の濃い傑作アルバムとなった。セールス面でも成功し、インストゥルメンタルアルバムにもかかわらずアメリカでゴールドディスクを獲得。ブロウ・バイ・ブロウ発表の1年後、またしても全編インストゥルメンタルの『ワイアード』を発表。 前作が丹念に作り込まれたフュージョン色の強い作品であったのに対し、ワイアードでは、当時ジョン・マクラフリンなど技巧派のミュージシャンばかりを集め、異彩を放っていたジャズ・ロック、フュージョンバンド、マハビシュヌ・オーケストラのナラダ・マイケル・ウォルデン(ドラム)やヤン・ハマー(キーボード)らを起用し、ジャズ・ロック的な要素を全面に出した非常にテンションの高いサウンドとなった。この『ブロウ・バイ・ブロウ』、『ワイアード』は最高傑作として挙げられることも多く、これらの作品以降、ボーカル入りの曲もあるものの、現在までほとんどがインストゥルメンタルアルバムであることから、ジェフベックがロックギターインストゥルメンタルアルバムの先駆者であると言える。1980年代に入ると、同じくヤードバーズ出身のジミー・ペイジ、エリック・クラプトンと共に、A.R.M.Sコンサートに参加し、三人が共演。エリックと共に、シークレットポリスマン・コンサートで共演。アルバム、「ハニードリッパーズ」に参加し、ジミー・ペイジ、ロバート・プラントと共演した。1980年代頃から、ピックを使わなくなり、フィンガーピッカーに移行している。(ただし、現在でも「スキャッターブレイン」のリフはピックを使用して弾いている、テンポが速くフィンガーピッキングでは正確に演奏するのが困難なため。)その理由は本人曰く「70年代、俺はかなり酔っぱらってる事が多くなって、ピックを落とすようになり、最後には自分の指だけで演奏するようになった。」と、冗談めいた説明をしている。エレクトロニカ、テクノロックサウンドに接近1989年にアルバム『ギター・ショップ』を発売した後、10年の間隔を置いて1999年に『フー・エルス!』をリリース。サイドギターにマイケル・ジャクソンのツアーなどに参加した経歴のある凄腕女性ギタリストのジェニファー・バトゥンを起用し、打ち込みを多用したテクノサウンドがメインのアルバムとなった。本アルバム発表に併せて来日ツアーを行う。10年の沈黙を破った『フー・エルス!』のリリースの僅か1年後、前作のテクノロック路線をさらに押し進めた『ユー・ハド・イット・カミング』をリリース。前年に引き続き来日ツアーを実施。来日時に久米宏がメインキャスターであったニュース・ステーションにも生出演し、「ナディア」(オリジナルはニティン・ソウニー)を演奏している(ただし演奏は本番前に収録したものであった)。さらに2003年、自身の名前を冠した『ジェフ』をリリース。プロツールスを使用した大胆なドラムンベース、ギターサウンド自体も過激になっており、前2作のサウンドをさらにアグレッシヴにしたアルバムとなった。『ジェフ』の制作時59歳と還暦を目前にして、音楽的挑戦を止めないジェフにファンの評価も高いものとなった。2003年には9月にロイヤル・アルバート・ホールでのデビュー40周年記念コンサートを行う。また同年インターネット上でのみ「オフィシャルブートレグ」というかたちで、ライブアルバム『Live at BB King Blues Club』を販売。この作品は2005年の来日に併せて『ライブ・ベック!』のタイトルで一般発売されている。1977年以来のライブアルバムとなり、「フリーウェイ・ジャム」や「スキャッターブレイン」といった往年の名曲も収録されている。2006年は世界ツアーを行い、日本ではウドーミュージックフェスティバルに参加。現在次のアルバムを制作中である。インタヴューではリリースは「2007年の冬ごろ」と語っている。
February 11, 2007
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コンパクトで使いやすそうだよ。マルチエフェクターは、あるほうがいいぞ~!^^ いろんなギターを探してみよう~!^^
February 7, 2007
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少し変わったギターがあるよ。^^クリックしてみてね。↓ 自分らしい、個性的な1本がみつかればいいよね。^^
February 4, 2007
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ゲイリー・ムーア(Gary Moore, 1952年4月4日 -)はシンガーソングライター・ギタリスト。北アイルランドのベルファストに生まれる。父親は地元で有名なプロモーターでクラブの経営などに携わっていた。小学生の頃ピアノを習い始めるが教師と合わず挫折。10歳の頃にギターを始める。当初はTHE SHADOWSのコピーに明け暮れるが、やがてジェフ・ベック、エリック・クラプトン、さらにジミ・ヘンドリックスなどの影響を受け始める。特にピーター・グリーンからは強い衝撃を受けプロギタリストになる決意を固める。略歴1966年、父親のクラブにてレジデンシー・アクトとして演奏。グループ名はThe Beat Boys。当時14歳。1968年、交通事故で代わりのメンバーを必要としたベルファストのアマチュア・グループ、ザ・メソッドThe Methodのギタリストになりダブリンへ。数カ所のギグをこなしている間にダブリンのビートニク・シンガー、ブラッシュ・シールズbrush Sheildsに誘われスキッド・ロウへ加入。当時のメンバーはブラッシュ、ノエル・ブリッヂマンNoel Bridgeman、フィル・ライノットPhillip paris lynatt、そしてムーア。1980年、UKにてアルバム『G-Force』をリリース。Uk国内にてディヴィッド・カヴァーディルのホワイト・スネークWhite Snakeのサポート・アクトを務める。アルバムではLA風のサウンドを狙った割にUS国内での配給先が見つからず、この一枚でG-Forceは消滅。レデイング・フェスティヴァル出演をキャンセル。G-Forceの活動停止によりJETレコードとの間に違約問題が生じ、顧問弁護士をつけて『Corridors Of Power』の発売にこじつけるまでの間活動を制限されること余儀なくされる。同年11月、新たなるメンバーにてマーキー他でのライヴ・レコーディング、翌1981年、スタジオ作品を制作するも契約は解消できず、マネージメントを結んだ先のタレント、グレッグ・レイクGreg Lakeの二枚のリーダー・アルバム製作に参加。ソング・ライティングの他、プロモーション・ツアーにも同伴する。ツアー・メンバーはレイクとムーアの他、テッド・マッケンナTed Mckkena、トリスタン・マーゲッツ、トミー・アイレTommy Eire。アメリカのFM番組King Biscuit Flower Hours録音時のムーアによるELPの『市民のファンファーレ』やキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの王宮』などの楽曲演奏があまりにも直線的で、プログレッシヴ・ロックという幻想をぶっつぶしているあたり、この時代のムーアの持ち合わせた破天荒さと適当さが世間に迎合せず好感を持てる。1982年、短期裁判によりアーディンとの契約破棄問題を多額の支払いにて解消。かねてからハード・ロック・マーケットに興味を持っていたサー・リチャード・ブランソンSir Richard Bransonのヴァージン・レコードVirgin Recordsと契約を結ぶ。4年越しのレディング・フェスティヴァルに初登場、同年『Corridors Of Power』をリリース。このアルバムは日本のマーケットでは前代未聞のヒットを記録となる。1983年、1月に初来日公演。即日チケットは完売し、追加日程も組み込まれた。来日メンバーはイアン・ペイス、ニール・マーレィ,ドン・エイリー、ジョン・スローマンであまりにも豪華なメンツで一部ファンの間ではコロシアムIIIともエクスペンシヴ・バンドともよばれていた。プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組、『ベストヒットUSA』に出演、シンコー・ミュージックから『100% Gary Moore』なる特集/スコア本が発刊された。同年には日本公演を収めたライヴ・アルバム『Rockin' Everynight』が日本市場のみで発売。尚、日本のマーケットでの異常なまでの人気ぶりに便乗してJET時代のお蔵入りになっていた作品が日本でのみソニー・レコードが版権を得て『Live at Marquee』、『Dirty Fingers』として相次いでリリースしたため、84年のUS,UK,日本ツアーを録音/編集したLP『We Want MOORE!』の日本発売は見送られた。1984年、Virginのニューライン10 Recordsから『Victims Of The Future』リリース。2月に来日公演。メンバーはイアン・ペイスとオーディションで獲得、アルバムに参加したソングライターのニール・カーターNeil Carter、クレィグ・グルヴァーCraig Gruber。アメリカ・ツアー前にイアン・ペイスがディープ・パープル再結成のために契約を解除した。ツアーはセッション・ドラマーにより行われたが、これを境に様々なドラマー、エレクトリック・ドラムスやプログラミング・ドラムを導入する傾向になる。そして同年ポップ・ミュージックも手がけるプロデューサー、ピーター・コリンズを起用してリミックス・シングルでリリースした『Empty Room(カーターとの共著)』がUKでヒットする。12月北アイルランド、ベルファストのアルスター・ホールにて凱旋コンサート。フィル・ライノットと共演。この演奏の模様はドキュメント・ムーヴィー『エメラルド・アイルス』(VHS)としてリリースされる。1985年、フィル・ライノットとの共作シングルGary Moore/Phil lynott/"OUT IN THE FIELS"をリリース,二人による競演は評判を呼びUk国内でスマッシュ・ヒット。シングル第2弾として再録によるEmpty Rooms / Out of My Systemを発表。 9月にはバラエティに富んだアルバム『Run For Cover』をリリース。ハマースミス・オデオン等数公演でライノットがスペシャル・ゲストで参加。10月に来日公演。 同年日本で配給先の東芝EMI契約の歌手浜田麻里に楽曲提供(LOVE LOVE LOVE)した(レコーディングのギターはゲイリー・ムーアではなく後のB'zの松本孝弘が演奏している)。1986年にも当時アイドルから脱皮をはかろうとしていた本田美奈子(故人)に楽曲提供("the cross ~愛の十字架~")(東芝EMI)した。日本ではムーア自身による原曲『クライイング・イン・ザ・シャドウ/ワンス・イン・ア・ライフタイム』EPでリリースされている。1987年にはアイリッシュ・ケルトを主題としたアルバム『Wild Frontier』をリリースし、ヨーロッパでヒットを記録する。このアルバムは前年1月に亡くなった盟友フィリップ・ライノットの捧げられた。4月スウェーデン・ストックホルムにてドキュメント・ヴィデオ『Live At Isstadion』(VHS)を収録。7月に来日公演。来日時にはプロモーションの一環としてフジテレビジョンの音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演した。1989年、『After The War』をリリース。5月に来日公演。これ以降日本でのライブは行われていない。1990年、ブルース・アルバム『Still Got The Blues』をリリース。アルバート・キング、アルバート・コリンズ、ジョージ・ハリスンもゲスト参加している。当初は軽い気持ちで企画されたものだったがアメリカで200万枚を超えるヒットを記録。(全世界で300万枚)以後ブルース路線へと切り替える。1992年、多額の制作費を得て『After Hours』リリース。アルバート・コリンズ、B.B.キングがゲスト参加。同年4月ジョージ・ハリソンのロンドン・ロイヤル・アルバート・ホール公演のサポート・アクトを担当。US、EUなどでプロモーション・ツアー。この頃から何らかの理由によるツアーのキャンセルが相次ぐ。1993年6月、After Hoursのツアーを記録した『Blues Alive』を発表。11月ドイツ、ケルンにてジャック・ブルースJack Bruceのバースデイ・コンサートに参加。元クリームのメンバーであるブルース、ジンジャー・ベイカーGinger Bakerと共演。1994年、ジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルース、ムーアでBBMを結成(バンド名はメンバーの頭文字から取られた)。『アラウンド・ネクスト・ドリーム~白日夢 - Around The Next Dream』をリリース。ライブを数回行った後ベイカーがグループを離れる。その後レベル42などで活躍したゲイリー・ハズバンドを迎え入れ、トリオの演奏は完璧なものとなる。同年、そのトリオで録音した新曲『ワン・デイ - One Day』を含む初の公認ベスト・アルバム『ベスト・オブ・ゲイリー・ムーア~バラッズ・アンド・ブルーズ~ - Ballads&Blues 1982-1994』をリリース。1995年、ピーター・グリーンに捧げた『Blues For Greeny』をリリース。ロンドンで記念ライブが行われた。(この様子は1996年に"BLUES FOR GREENY LIVE"(VHS)としてリリース。)1997年、『Dark Days In Paradise』リリース。ドラムンベースなどを導入しテクノ音楽との融合を試みるスタイルがファンの間で物議をかもした。本作から次作にかけて自己のギターとモダーン・ミュージック(ダンス・ミュージック)の融合を計るアプローチや、デジタル録音機材の使用などが際立ち、ブルース・ギターリスト=古典派のイメージを払拭する。virgin Recordsとの契約を終結。1999年、UKキャッスル・コミュニケーション傘下のRaw Powerと契約。『A Different Beat』リリース。ファットボーイ・スリム(ノーマン・クック)にインスパイアされたビッグ・ビートを導入。ヘンドリックスのカバー、"Fire"に挑む。2001年3月、『Back To The Blues』リリース。2002年9月、『SCARS』リリース。SCARSとしてトリオ編成のバンド結成。メンバーはセッション・ドラマーのダーレン・ムーニーDarren Mooneyと元スカンク・アナンシーSkunk Anansieのベーシスト、キャス・ルイスCass (Richard Lewis)。10月、ZZトップのサポート・アクトとしてEUでのツアー。メイン・ギターはサーモン・カラーのフェンダー・ストラトキャスターを使用。2003年5月、モンスターズ・オブ・ロックUKツアー2003に参加。(メインアクトはWHITESNAKE)。この時のライブとして『Live at the Monsters Of Rock』をCDとDVDでリリース。怪我により後半ツアーをキャンセル。7月頃、SCARS活動停止。2004年、再びリーダー名義によるソロ作品『Power Of Blues』リリース。2005年、1990年7月に行われたMONTREUX JAZZ FESTIVALのライブを収録したDVD『Live At Montrenx 1990』リリース。ボーナス映像として1997年のライブ映像(Out In The Fields、Over The Hills&Far Away、Parisienne Walkways)を収録。8月20日、フィル・ライノットの故郷ダブリンにフィルの銅像が立てられることを記念して行われたライブに元THIN LIZZYのメンバーと共に参加。2006年4月、B.B.KingのファイナルUK・ツアーをサポート。同月新作『Old New Ballads Blues』をリリース、数年ぶりのプロモーション・コンサート・ツアーに挑んでいる。 同年8月12日に行われてた慈善コンサート『Vibes from the Vines』ではMo FosterとGary Husbandらとともに演奏、自己のWEBでのセット・リストにはMo Foster作曲による約20年ぶりの"So Far away"が含まれている。
February 3, 2007
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高崎 晃(たかさきあきら、1961年2月22日 - )は、日本のミュージシャン、ギタリストである。大阪市東住吉区出身。ロックバンドLOUDNESSのギターを担当している。 愛称は、「タッカン」来歴アイドルバンド「レイジー」のギタリストとしてデビュー。レイジー解散後、同じくレイジーのドラマー樋口宗孝とともにLOUDNESSを結成し、同バンドのギタリストとして再デビュー。LOUDNESSはメンバー交代の多いバンドであるが、高崎はデビュー時から在籍している唯一のメンバーである。また2000年からは個人プロジェクト「JI-ZO」(じぞー)を立ち上げて、作品を発表している。2001年にはテレビアニメ『ジーンシャフト』の音楽を担当、劇伴を作成した他、オープニング、エンディング曲を担当した。ライトハンド奏法を駆使したその高度な演奏技術は、1980年代初頭のヘヴィメタル界では世界的にも群を抜いており、ポール・ギルバートなど多くの技巧派ギタリストに影響を与えた。2006年2月、80年代末~90年代初期頃に盗難にあったギターがYahoo!オークションに出品される事件が発生した。俺も高崎モデルのギターは、何種類か使いましたがキラー、ランダムスターともに俺が弾いていて感じたのは、なんといっても音抜けの良さ!!1度は、使ってもらいたいギターです。^^
February 2, 2007
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ランディ・ローズ(Randy Rhoads、男性、1956年12月6日 - 1982年3月19日)は、クワイエット・ライオットやオジー・オズボーンのバンドメンバーとして活躍したロックギタリスト。カリフォルニア州・サンタモニカで生まれた。ワイルドなプレイで後発のギタリストに大きな影響を与えた。しかし、1982年にオジー・オズボーン・バンドの全米ツアー中に遊覧飛行で乗った飛行機の事故により短い生涯を終える。享年25。プレイ・スタイル ロック・ギターの進化の一端を担った人物とされる。クラシックギターの素養を持ち、同世代のイングヴェイ・マルムスティーンより早くクラシック的な雰囲気を曲中に組み込んだ。ただし、イングヴェイのギターがあくまでリード・バイオリン的であるのに対し、ランディのそれは必要に応じてバイオリンにもチェロにもなりうるもので、バンドの一員としてのポジションを重視しているとも言える。同時期の改革者としてエディ・ヴァン・ヘイレンが挙げられるが、アメリカ的な明るさを前面に出したエディのプレイに対して、ヨーロッパ的な湿っぽさを残したギターでクワイエット・ライオット時代はともかくオジー・オズボーン・バンドに最高のマッチングを見せた。 クワイエット・ライオット時代のランディのプレイは、後にオジー・オズボーン・バンドでみせる個性がみられず、あまり目立ったギタリストではなかった。当時のライヴ映像と言えるようなものは殆ど残っていないが、TV出演の映像によると当時からアグレッシブなプレーヤーではあったようだ。クワイエット・ライオットがヒット作を出すのは皮肉にもランディの脱退後、死後のことであるが、おそらくケヴィン・ダブロウ(ヴォーカル)の声質とランディの音の相性が良くなかったのだろう。 早すぎる死の直前の晩年、ランディはクラシック・ギターへの思い入れが強くなり、ロックギタリストとしての自分との葛藤に悩んでいたようである。親族の話によると彼はクラシック・ギタリストとしての生き方への転換を本気で考えていたようだ。 ライブ盤での演奏にはクレバーかつワイルドなプレイにやや荒さも見え隠れするが、主に使用していたとされるギブソン・レスポールから発せられる芯の強いプレイ(彼のモデル、ジャクソン・ランディVギターも有名ではあるが、使用機会はさほど多くなかったようだ)は正に現代のロックギターのお手本とも言え、存命ならさらに多くの素晴らしい曲や名演を残していただろう。余談だが、3月19日は同様にレスポール・モデルで数々の名演を生み出したギタリスト、ポール・コゾフ(ex.フリー)の命日でもある(1976年)。使用機材Gibson Les Paul Custom彼のメインギターの一つ。クリームホワイトのボディに黒のピックガード、パーツはゴールドでピックアップはカバーが装着されたままであった。ペグ、ノブ、セレクタースイッチプレートなどが交換されている。本人は64年製と言っていたがその頃にはレスポールモデルは発売されていなかったので70年代前半のものと推測される。クワイエット・ライオット時代から愛用している一番使用期間が長いギターである。Original Flying V type Polka Dot Finish1979年7月にランディがカール・サンドヴァルなるクラフトマンにオーダーしたとされるワンオフモデル。カール・サンドヴァルは元シャーベル社のクラフトマンであったと言われている。ギブソン社のフライングVを模したボディ・シェイプでネックはセットネック。ヘッドストックの形状は鏃のようになっており、ギブソン社のフライングVとは明確に異なる。ピックアップはフロントがディマジオ社のPAFモデル、リアが同スーパー・ディストーション。ペグはシャーラー社のM6。トレモロ・ユニットはシェクター社製のシンクロナイズド・タイプが搭載されている。レスポールと共に出番の多かったギターである。Jackson Randy Vジャクソン社から現在も販売されている彼のオリジナルシェイプ。ジャクソン社独特のコンコルド・ヘッド、VといいつつフライングVとは相当に異なるボディが印象的なモデルである。1980年に開発されたプロトタイプモデルはホワイトカラーで2ハムバッカー・2トーンコントロールにゴールドのシンクロナイズド・トレモロ・ユニットを搭載した個体である。続いて1981年に開発された黒のランディVは、客がプロトタイプのランディVをフライングVと間違える為デザインを更に鋭角的に変更して製作された。プロトタイプモデルとの違いはトレモロ・ユニットが取り外され弦が裏通しになったことである。コントロールノブの位置も違っている。残念ながらライブではプロトタイプモデルほど出番はなかった。
February 1, 2007
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ブルースでは、おなじみのスライドバーだよ。^^甘いバラードにもスライドバーは、大活躍するよ。俺は、リッチーが使っているのを見て使ってみた。滑らかなサスティーンが最高だよ。値段が手ごろだから、ためしてみては、いかがでしょうか?^^
January 31, 2007
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ジミ・ヘンドリックス(James Marshall "Jimi" Hendrix, 1942年11月27日 - 1970年9月18日)はアメリカ合衆国の黒人ロックギタリスト、シンガー、ソングライター。日本では(特に中高年から)「ジミヘン」と呼ばれることがある。死後35年以上経った現在でも、「天才ギタリスト」として多くのミュージシャンに多大な影響を与え続けている、現代的ロックギターのパイオニアの一人。右利き用のギターを逆さまに構えて演奏するスタイルや、ギターを歯で弾いたり、ギター自体に火を放ったり、破壊したりするパフォーマンスはあまりにも有名。ジミ・ヘンドリックスについては、かなり沢山の話があります。こちらのリンクに詳しく説明されています。^^
January 30, 2007
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以前は、これを使っていました。メモリーしておけば、一発で呼び出しが出来ます。また、グループ設定しておけば、リフ、ソロ、と音の使い分けが簡単です。また、性能もプロの機材にひけをとりません。マルチエフェクター、使えば、絶対にはまりますよ。おすすめで~す!!^^
January 29, 2007
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ブルースロックなら絶対にこれ!!レスポール!!いいの探そう!!^^
January 27, 2007
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俺は、なんといってもフェンダーストラトキャスターが大好き!!^^探してみよう~!^^
January 26, 2007
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やっぱり、俺はフェンダーストラトキャスターが好きだな。^^あこがれたギタリストのほとんどがそうだった。 楽器って、ほんとうにいいよ。自分に合う楽器、さがしてみよう。^^
January 25, 2007
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タッピング奏法はエレクトリックギターやエレクトリックベースの奏法の一つ。ピッキングに使用する手で、フィンガーボード(指板)上の弦を叩き付けたりそのまま横に弾いたりして音を出す。ロック(特にハードロック、ヘヴィメタル)に於いて広く用いられているが、ロック専門のテクニックというわけではない。ハンマリング・オンとプリング・オフ元々ギターにはクラシックギターからの奏法として、弦をフレット若しくは指板に叩き突けるように勢い良く押下する事で発音させるハンマリング・オン、押弦している指を弦に引っ掻けるようにして離脱させる事で発音させるプリング・オフの二つの奏法が存在した。(なお、バイオリン、チェロ、ビオラ、コントラバス等の他の弦楽器に於いてもハンマリング・オン、プリング・オフ、トリルは用いられるので必ずしもギターに特化した技法ではないが、擦弦楽器では弓で振動を与え続けているため厳密なプリング・オフの必要がないことも多い)。この二者は間断なく繰り返す事でトリル奏法が成立する。一般的にトリルとハンマリング・オン、プリング・オフは別個のものであるかのように思われている節がある(事実、関連性を指摘しない記載のギター教則本も少なくない)が、上述のように原理的に同じものである。区別する必然性があるのは、ハンマリング・オンとプリング・オフを繰り返さない場合(つまりトリルではない場合)もあるので、フレーズの流れの中での便宜上の区別であろう。ライトハンド奏法エドワード・ヴァン・ヘイレン登場当時はいわゆる「ライトハンド奏法」として華々しくギター雑誌等で紹介されたので、「ライトハンド奏法」はヴァン・ヘイレン(Van Halen)のエドワード・ヴァン・ヘイレン(Edward Van Halen)が作った奏法という説が広く流布してしまっているが、それ以前にジェネシス(Genesis)のスティーヴ・ハケット(Steve Hackett)が既にタッピングによる奏法を行っていたし、クイーン(Queen)のブライアン・メイ(Brian May)も右手でハーモニクス・ポイントに触れて倍音を出すタッチ・ハーモニクス奏法と併せて行なっていた(*2)り、ゴング(Gong)時代からアラン・ホールズワース(Allan Holdsworth)も行なっていた。またJAZZギターではタッチと呼ばれて比較的よく使われる技法でもあった。エレクトリック・ベースにおいても、ビリー・シーンはタラスに在籍していた時代から既に行っていた。エドワード・ヴァン・ヘイレンはアラン・ホールズワースのフォロワーであったし、時期的にもスティーヴ・ハケット、ブライアン・メイ、アラン・ホールズワースが音楽活動をし始めたのが多少前後はあるが1970年代初頭、ヴァン・ヘイレンがデビューするのが1970年代中盤であるので、アラン・ホールズワースからインスパイアされたものをエドワード・ヴァン・ヘイレンがロック的で派手な奏法として徹底的に進化させたのだと考えるのが妥当であろう。その中には、タッピングを大きくフィーチャーし、一つの楽曲内でより連続した音符や音階で演奏、間奏において長時間行った、その奏法の為の楽曲も作り上げたという意味合いはある。1970年代に於いて、ロックギタリストに対するより派手な印象を、聴く者に与えたなどの功績はあったといえる。左手とともに右手も押弦に使用することは誰でも思い付き得ることで、以前に誰かが思い付いて実行していたと考えてもよい。ライトハンド奏法が独立した奏法として扱われるに至った理由はいくつか考えられる。主なものは弦の太さとディストーション・サウンドの普及である。エレクトリックギターに於いてはライトゲージと呼ばれる細めの弦が好んで用いられる。ジミー・ヘンドリックス、エリック・クラプトン登場以来ロック・ギターに於いてはチョーキングを多用するのが当たり前となったことで、よりチョーキングのしやすい細い弦が好まれるようになっていたのだと考えられる。実際、今でもチョーキングをあまりしないオーソドックスなジャズ・ミュージシャンの多くは太いゲージの弦を使っている。これは、歪ませないギター・サウンドに於いてはその方がコードバッキングの際にリッチなサウンドになるからである。一方、フォークギターやクラシックギターは太い弦を用いるのが普通であり、特にフォークギターは張力も強いため、指板上で指を叩き付ける程度の力では大きな音を出しにくい。また同じくジミー・ヘンドリックス、エリック・クラプトンらによって「ロック・ギター=ディストーション・サウンド」という定式が確立された事も影響していると思われる。強く歪ませると小さな音でも拾われやすいため、ピッキングとハンマリング・プリングの音量差が出にくくなり、奏法として使いやすくなる。ただ改めて記すると、エドワード・ヴァン・ヘイレン以前のものは、明らかに「ピッキングによるハッキリしたアタック音を避けて柔らかい、または優しい音色を出したい意図」で用いられていたのが殆どだった(唯一の例外と云って良いのがスティーヴ・ハケットで、彼のものはその後のシンセ・サウンドを先取りしていたと言える自然界には存在しない特殊音的アプローチであった)。 これを「より攻撃的」で「より現代的」な音色提示手法として、またステージ・パフォーマンスの栄える(ロック的)奏法として強くアピールした用い方をしたのはエドワード・ヴァン・ヘイレンが元祖であると特筆しておくべきであろう。また、音楽シンセサイザーの登場に拠り、輪郭のクッキリしたリリース音の長い持続性のある音色が「斬新なサウンド」と受け取られる時代であった事も「ライトハンド奏法」の成立に大きく寄与しているものと考えられる。なお、左利きの奏者が(楽器を右利き用とは逆に構えて)行う際に半ば冗談で「レフトハンド奏法」と称されることがあるが、奏法としては同じものである。2:「タッチ・ハーモニクス奏法」もエドワード・ヴァン・ヘイレンの発明とされるのは虚偽である。 ブライアン・メイの場合、年代、交友関係から考えてスティーブ・ハケットが右手も使っているのを見て参考にしたものと思われる。
January 24, 2007
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エドワード・ヴァン・ヘイレン(Edward Van Halen、本名:Edward Lodewijk Van Halen、1955年1月26日 - )はアメリカのギタリスト、作曲家、音楽家。「エディ・ヴァン・ヘイレン」とも呼ばれる。ロックバンド、ヴァン・ヘイレンのギタリストで、同バンドのドラマーのアレックス・ヴァン・ヘイレンは実兄。姓はオランダでは「ファン・ヘレン」と読むが、この兄弟に関してはオランダ生まれながら英語読みが一般化したようである。経歴1955年1月26日、オランダのナイメーヘンで生を受ける。 1967年にオランダからアメリカ・カリフォルニア州のパサデナへと移住する。父親がクラリネット奏者であった事もあり、幼少の頃よりピアノやヴァイオリン楽器を演奏していたヴァン・ヘイレン兄弟だが、そこでロックに影響され、弟のエディがドラムを、兄のアレックスがギターをはじめる。しかしほどなくして二人とも互いに楽器を交代する。その後バンドを結成し、活動を開始する。 ヴァン・ヘイレンとしての活動はそちらの項目を参照のこと。 2000年に、喉頭癌が発覚し、バンド活動を中断する。その後完治し、2005年7月現在次回作の準備を進めている模様だったが、2006年春、「Van Halen」のメンバー間での不仲により、解散状態に陥り、2006年現在、どのような活動をしているかは不明な点である。 音楽性デビュー前から右手の指でギターの弦を叩きつけるようにして音を出す「ライトハンド奏法」(現在では「タッピング」という呼び方が一般的)を駆使した独特のギターサウンドを作り上げ、後世のギタリストに多大な影響を与えた。またライトハンドだけではなく、速弾きや過激なアーミングなどの革新的なテクニックを取り入れ、アメリカンハードロックのスタイルを確立させた。 歴史を紐解くと、厳密には世界で最初に「ライトハンド」を始めたのは彼ではなく、その以前にもその様なスタイルで演奏するギタリストはいたらしい(ジェネシスのスティーヴ・ハケットや、クイーンのブライアン・メイなど)。しかしながら、世にその技術を一般的に知らしめたという意味では彼が第一人者である。なお、彼がライトハンドを始めたのはアラン・ホールズワースの曲をコピーしていて、どうしても左手だけでは届かない音が出てきたのでそれを右手の指で叩いたのがきっかけだといわれている。 アイディアマンとしても知られており、電気ドリルをギターのピックアップ(弦の振動を拾って電気信号に変換する部品)の近くで鳴らして独特の音を得たり、いわゆる「付点8分ディレイ」といわれるディレイの使い方を考案したりもした(「大聖堂」など)。また、ストラトタイプのボディ(トレモロアームがついている)にハムバッカーのピックアップを載せて使うなど、今では一般的になったギターの構造を開発したのも彼であった。(これは間違い。アラン・ホールズワースの方が明らかに使い出したが早い。) ギターのほかにはヴァイオリンだけでなく、ピアノも演奏することができる。ヴァン・ヘイレンの曲のPVの中で自身が実際にキーボードを演奏している様子が映し出されているものもある(「ジャンプ」「ノット・イナフ」「ホウェン・イッツ・ラヴ」など)。 VAN HALENの1stアルバムあたりで聞かれるMARSHALL社1968年製PLEXIとMXR社のDistortion+から生み出されるギターの音は、いわゆるブラウンサウンドといわれ、多くのギタープレーヤーを虜にしている。(MXR/DISTORTION+は使っていない。エコープレックスとマーシャルヘッド、あとはフランジャー、フェイザー、BOSS/GE-10など) デビュー当時はストラトキャスタータイプのボディを独自に改造したギターを主に使用していたが、1980年代にはKramer(クレイマー)と契約を交わし、自身が作ったギターを基にしたシグネチュアモデルを使用していた。1990年代にはERNIE BALL MUSIC MAN(アーニーボール ミュージックマン)と契約し、エディ自ら開発に携わったギターを10年ほど愛用。このギターは彼以外の多くのギタリストにも愛用された。その後はWolfgangと言う自分の息子の名前を冠した新たなギターをPEAVEY(ピーヴィー)と製作し、それを使用するようになる。また、ピーヴィーとはシグネチュア・アンプ(5150)でも契約を交わしており、その二つの組み合わせがしばらく彼のスタンダードとなる。ピーヴィーとの契約が切れた後はCharvel(シャーベル)と契約を結んだ。ちなみに「5150」とはアメリカの警察の無線で使用される暗号で、精神異常者の事を指す隠語である。同時に、エディ自宅のスタジオの名前であり、ヴァン・ヘイレンの7枚目のアルバムのタイトルでもある。 ありとあらゆるギタリストの憧れとされ、「生ける伝説」と称する人もいるほどである。裏を返せば、彼の世間に与えた影響と衝撃の大きさをうかがい知る事が出来る。 彼以前のロックギタリストは怖い顔(しかめっ面)をしながらギターを演奏していたが、「ジャンプ」のPVでニコニコ笑いながらギターを演奏する姿がありそれ以降のギタリストの姿に少なからず影響を与えた。
January 23, 2007
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まずは、安く手ごろなものを探そうね。 かならず自分にあったものがあるよ。^^
January 22, 2007
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まずは、興味のある楽器や好きな音をさがしてみよう。 さあ~楽器が手に入れば、練習するだけ!!これからの音楽をリードしよう!!
January 21, 2007
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ジェームス・パトリック・"ジミー"・ペイジ OBE(Jimmy Page, 本名James Patrick Page OBE 1944年1月9日 - )は、イギリスのロックギタリスト、作曲家、プロデューサー。日本では「ブリティシュ・ロック3大ギタリストの一人」という冠と共に語られる事も多々ある。 当時の音楽ジャーナリズムからは「1970年代のパガニーニ」と形容され、世界で最も成功したロックバンドの一つであるレッド・ツェッペリンのリード・ギタリスト兼リーダー。レコード、ステージなど全般のプロデュースも担当した。イングランド・ロンドン出身。ツェッペリン時代は黒魔術に傾倒していたとの噂がある(詳しくは後述)。活動及びキャリアアート・スクール、セッションマン時代1963年頃からアートスクールとの二足の草鞋でセッション・ギタリストとして活躍、数々のレコードに参加する。当初は「クルセイダーズ」などにも参加し、パーマネントなバンドでの活動を志望していたが、体調不良から断念することになる。セッションマン時代は主に師匠格のビッグ・ジム・サリバンと行動を共にしており、ビッグ・ジムに対して「リトル・ジム」の愛称で親しまれていた。余談だが、サリバンは『レッド・ツェッペリン III』以前のペイジに対しては「ファッション・リーダーとしてのギタリスト」としての評価しかしていなかったが、「天国への階段」を聴いた際に「やっと自分の音楽を見つけたな」と心からの賛辞を送ったという。またサリバンはリッチー・ブラックモアが14歳の時に家が近所だったという縁で彼にギターのレッスンを施したという。黎明期のハードロックの人気ギタリストの双璧がビッグ・ジムの薫陶に源を成すという事実もまた興味深い。 ペイジは後にアートスクールを退学、プロのセッションギタリストを志向するようになる。以下にセッションマン時代の主な活動を記す。1969年のジョー・コッカーのデビュー盤でのハイライト曲「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・マイ・フレンズ」は同年のウッド・ストック・フェスティバルでのパフォーマンスが有名だが、元のビートルズ作品を3拍子のゴスペル調にアレンジしなおしたのはジミー・ペイジであり、イントロでの印象的なディストーションの効いたダブル・チョーキングも含めて、コッカーのデビュー盤ではペイジが全編を弾いている。 1966年にデビューしたフランスのミッシェル・ポルナレフのレコードにも参加。 ザ・フーの数曲(「アイ・キャント・エクスプレイン」「ボールド・ヘッディド・ウーマン」など)に参加。ただしどれもリード・ギターとしてではなく、飽くまでアシスト的役割に徹している。 この他にもキンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」のディストーションの効いたリフが彼のプレイという説もあり長らくファンの間で信じられてきたが、ペイジ自身が1970年代に「トラウザー・プレス」誌のインタヴューでこれを否定している。当時は演者側、セッションマン側、プロデューサー側それぞれに守秘義務があり、ペイジ自身も自分のどのプレイがどこで使用されているのか知らされないことも多かったと発言している。また、プロデューサー側も保険をかける意味でセッションマンを雇うときもあり、演奏したものが一切使用されなかったことも度々あったという。一時信じられた「60年代のレコードの8割に参加している」と言う俗説は恐らくこの辺りから来ているものであろう。ソロ・デビューは1965年。フォンタナ・レコードからシングル「シー・ジャスト・サティスファイズ/キープ・ムーヴィン」をリリース。また、この前後、エリック・クラプトンとのツインギターによる非公式セッションの様子を録音したブルースナンバーもリリースし、クラプトンの顰蹙を買っている。この件に関してペイジは、レコード会社が勝手にやったと主張しており、後のレッド・ツェッペリン発足の際まで遺恨を残すことになる。ヤードバーズクラプトン脱退後のヤードバーズへの参加を要請されるもののこれを辞去し、以前からの知り合いであるジェフ・ベックを推薦する。ところがその後ベースのポール・サミュエル・スミスが脱退し、後の1966年6月にヤードバーズにベーシストとしての加入。その後ベックが扁桃腺炎で療養に入ったため、ベックの代役でギターパートへ転向。ベック快気後は彼とのツインリード・ギターのスタイルがバンドの売りとなった。その後「トレイン・ケプト・ア・ローリン(ストロール・オン)」、「幻の十年」、「アイム・コンフューズド(後の『幻惑されて(原題Dazed and confused)』)」などの名曲を残すが、後にジェフ・ベックが脱退、更にメンバーの音楽性の違いによる不仲からヤードバーズ自身も1968年に空中分解、解散状態となる。ペイジのヤードバーズ加入の直接の動機はとにかくスタジオから抜け出て、ライブ演奏をしたいということだったらしい。その熱意たるや、周囲のバンドマンたちが「もしヤードバーズがドラマーを募集していたらジミーは叩いたんじゃないかな。ベーシストでもなんでも良かったのだろう。とにかくセッションの仕事は嫌気がさしていたようだ。」と証言していたらしいことからも明らかだ。ライブバンドで演奏がしたいというのが彼の本来の動機ではあったが、結果的にペイジがヤードバーズを乗っ取った形になってしまったことは否定出来ない。レッド・ツェッペリン結成バンドの継続に意欲があり、また契約も残っていたペイジは新メンバーを集めヤードバーズとしての活動を続けようと試みた。まず、ベーシストにセッション・ミュージシャンとして親交のあり、技量も折り紙つきであったジョン・ポール・ジョーンズが決定するものの、その他のパートは順調には行かず、困難を極める。当初ヴォーカリストには、スティーヴ・ウィンウッド、若しくはスティーヴ・マリオットを加入させようとしたのだが、共にすでに他のマネジメントと契約を結んでおりうまくいかず(ただこの二人のスカウトはこのレッド・ツェッペリンにではなく、それより以前に「キース・ムーン或いはジョン・エントィッスル考案のレッド・ツェッペリン」に対してなされたものであると言う指摘もある)、次にテリー・リードを起用しようとしたものの、彼もまた契約の壁から加入は叶わず、リードの推薦でロバート・プラントをヴォーカリストに決定する。ドラマーはプラントの強い勧めによりジョン・ボーナムが加入することとなった。レッド・ツェッペリンの誕生である。当初はレコード会社との契約が残っていたので当初はニュー・ヤードバーズと名乗り活動したが、契約満了に伴って、「ヤードバーズを超えてしまった」ことから新たなバンド名として「レッド・ツェッペリン」を名乗り始める(グループ名の由来はレッド・ツェッペリンの項参照)。ただ、ヤードバーズは近年再結成を果たしており、その際「ツェッペリンの前身バンド」という扱いに対して不快感を表明している。彼らによれば、ニューヤードバーズ(ツェッペリン)とヤードバーズは全く別のバンドであり、ヤードバーズは、特にクラプトンが在籍していた頃は、ツェッペリンに負けないほどのバンドであったと主張している。また、その立場から、ツェッペリンによるヤードバーズ楽曲の使用(「幻惑されて」「トレイン・ケプト・ローリン」「タンジェリン」など)はペイジによる盗作であったと表明している。その他のツェッペリンの活動についてはレッド・ツェッペリンの項参照。 因みに余談ではあるが、ツェッペリンは1971、72年に来日公演を果たしており、71年の広島公演では広島市名誉市民として表彰されている。また、広島原爆記念館を訪れ「二度と戦争は起こしてはいけない」と涙ながらに語ってもいる。ツェッペリンは1980年、ジョン・ボーナムの死去により活動を停止する。使用楽器・特殊奏法ペイジのサウンド追求に対する情熱は素晴らしく、使用楽器・特殊奏法の多さで知られている。 代表的なものとしては、間奏中のテルミンを使ったパフォーマンス、ギターをヴァイオリンの弓で弾くボウイング奏法、ボトルネックを使用したスライド・ギター、ペダル・スティール・ギター、またペイジの弓弾きをヒントに開発された補助楽器ギズモ・トロン(弦をモーターにより回転する6つのプラスチックの円盤でこする構造になっている)の使用、同じフレーズを繰り返してアドリブの印象を強めるラン奏法、ストラトキャスターのアームを弦が完全に張力をなくすレベルまでダウンさせる独特の奏法など。 また、アイリッシュ・トラッドのギタリストが好んで使うオープン・チューニングの愛用者としても知られており、オープンD、オープンG、オープンC6、そして最も有名なものに「カシミール」などで使用された6弦からDADGADとチューニングする変則チューニングがある。これらの事から、彼の興味はロック、ブルースからアイリッシュ・トラッド、中近東音楽まで多岐に渡っていることが分かる。リフ作りの天才ペイジと言えばリフ作りの天才として有名である。「胸いっぱいの愛を」、「カシミール」に代表されるリフを中心とした曲作りの手法はAC/DCなど後進に多大な影響を与えた。その一方で、同じフレーズを繰り返すという曲構成はロックの曲作りにおける質の低下を招いたとも批判される。ツェッペリン及びペイジ自身は決して単調なフレーズを繰り返していたわけではなく、リズムの緩急の変化やアドリブの挿入などによって単調になることを注意深く避けていたわけではあるが、ツェッペリンのフォロワーには単調なフレーズを繰り返すだけのものも多く、ツェッペリンの作曲の意図が十分に伝わっていないことも多かった。因みに、ツェッペリンのリフは全てペイジによって考案されているかと思いきやそうではなく、近年の音楽メディアのインタビューでは「コード中心或いはコード分解系のリフはペイジ、ベースライン、単音系のリフの作曲者はジョーンズ」であったとジョーンズは強く回想している。つまり「ブラック・ドッグ」や「ハートブレイカー」「オーシャン」「ミスティマウンテンホップ」「モビー・ディック」などツェッペリンを語る上で欠かせない名曲たちはジョーンズが筆頭作曲者(クレジット上は共同作曲者)だったらしい。ペイジからこの件に関して特に反論はされていない。それを追認したとしても殆どのツェッペリンの代表曲(「コミュニケーション・ブレイクダウン」、「胸いっぱいの愛を」、「ランブル・オン」「カシミール」「天国への階段」など)はペイジ作曲によるものであることに変わりはない。だがジョーンズもまた超一流の才能の持ち主であったことは心に留めておかねばならないであろう。
January 20, 2007
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チューナーは、必要だよ。^^あれば、楽々チューニング。チューナー全種類だよ。^^
January 20, 2007
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ピックアップ(pickup) 拾い上げる事。振動や情報を電気信号に変換する部分。 エレクトリックギターやエレクトリックベース等の電気楽器の部品の一つで、弦などの振動を電気信号に変換する電子部品。⇒ピックアップ (楽器)を参照。 レコード、CD、MD等の機器でソフトの再生時に、記録されている情報を読みとり電気信号に変換する電子部品。 電話などに取り付けて、音声を録音するための付属品(テレホンピックアップ)。
January 19, 2007
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マイケル・シェンカー(ミヒャエル・シェンカー、Michael Schenker、1955年1月10日 - )は、ドイツ出身のハードロック・ヘビーメタルのギタリスト。使用するギターの形がV字型になっている、フライングV・ギターもあわせて有名。 ドイツのバンド、スコーピオンズに結成時より参加。まもなく英国のバンドUFOに加入。数々の名演を残す。脱退後は自らのバンド、マイケル・シェンカー・グループを結成。ロック・ギターの名手として一時代を築いた。 「Michael Schenker」のドイツ語読みは「ミヒャエル・シェンカー」(なお、一部の方言を除き、Schenkerはシェンケルとは発音されない)。ドイツではミヒャエル・シェンカーと呼ばれる。 スコーピオンズのリーダー、ルドルフ・シェンカーはマイケルの実兄。特徴 「メタル界で “神” と言ったら、このマイケル・シェンカーをおいて他にいないとすら言われている。彼の超人的ギター・プレイに触発され、いままでに何人のミュージシャンたちがフライングVを手にしたかは計り知れない。静と動、緩急自在の流れるようなメロディック・ソロ、確実に昇天へと導く炎のリフ……メタルファンなら、80年にリリースされたM.S.G.(マイケル・シェンカー・グループ)名義の記念すべき第一作目『神(帰ってきたフライング・アロウ)』は必ず聞くべしとまで言われている。スコーピオンズ~UFO時代も素晴らしいが、『神』を聴かずしては何も始まらないのだ。」…というのはシェンカー心酔者特有の言い回しで、これ自体はやや演劇的すぎるが、これほど人を感化させ、また心酔者に言わしめる「何か」を持っているのは事実だろう。 奏法そのものはペンタトニック主体の極めてオーソドックスなロック奏法(セオリー通りの奏法)の積み重ねで、アイディアや速弾きはあっても、革新的な奏法を開発したわけではない。しかしながら彼の使用するギターにはトレモロアームが付属しておらず、また当人もそれを設置することに能動的ではないが、ギターボディーを固定し、ネックを歪曲することでトレモロアームを使用するのと同様のサウンドエフェクトを発生させることがある。これはパフォーマンス的な意味合いもあるだろうが実際のサウンドが明確にその効果を表現していたことからもサウンドとしての必要性から行っていたと思われる。またそのような奏法のため、ネックを折ってしまうことも多く、ツアー時にはマイケルのリペアマンはギターの修理・調整、ストック本数には神経質になっていたようだ。 にも関わらず「マイケル・シェンカー特有」に聞こえるのは、情感あふれる音色とキャッチーなメロディ、そして聴く者をはっとさせるような速いパッセージが共存した、他に真似のできないエレクトリック・ギターの達人ぶりが唯一無二だからである。またロックの世界では音楽以外の部分の伝説も重要な一部であるが、マイケルの場合もこれらの伝説(しかも殆どは実話だといわれる。下記参照)には事欠かない。その苦境がまた音に反映されているように聴こえるのも、彼の人気を高めた重要な要素であろう。経歴と逸話兄・ルドルフと結成したスコーピオンズではリード・ギターとしてデビューアルバムにも参加している。1972年、スコーピオンズがドイツ・ツアー中のUFOの前座を務めることになったが、UFOのギタリスト、ミック・ボルトンが突如失踪。困ったUFOは前座バンドからマイケルを借りることでなんとかステージを終える(当時のUFOはスタンダード・ナンバーの他は、即興演奏が殆どを占めるバンドであったために、こういったことも可能だったのだろう)。その後ギタリスト探しは難航し、マイケルを英国に呼ぶことになるが、英語ができない上に内気な性格だったマイケルは最後まで難渋したらしい。もちろんと言うべきか何というか、最後に決断させたのは兄・ルドルフの励ましだったという。当時、わずか17歳。 なお、ミック・ボルトンの行方は杳として知れなかったが、随分経った後年になんとマイケル・シェンカー・グループのローディ(コンサートスタッフ)として活動しているのを伊藤政則氏が紹介され、大変驚いたという。 そのスコーピオンズでマイケルが弾いているのはレスポール・モデルのギターであり、フライングVではない。ギブソン社の変形モデル再生産シリーズの第1号であるこのギターを購入したのはルドルフである。UFO加入時に兄と交換したと言われているが、その後兄もフライングVを再度購入し、幾多の名演を重ねてゆくのは周知の事実であろう。 日本人ファン誰もが真似をした、フライングVを白黒に塗り分けるのは主にUFO脱退後。それ以前は白一色。 UFOでの名演・名曲の数々は言うまでもないが、英語が話せない上に、気むずかし屋で英国流の冗談・偏屈のきついリーダー、フィル・モグと理解し合うのは至難の業だった。そういった環境に加えてもともと内向的な性格だったこと、しかし演奏については極端な完璧主義者であることなどから、精神的に追いつめられることが多かったと言われる。またUFO全体がアルコールや麻薬の問題を抱えていたとも言われている。伝説によればバンドを飛び出して放浪すること数回(しかし無理矢理連れ戻される)、新興宗教にのめりこみ、美しい金髪を自ら切り刻み…となるが、本人によれば気晴らしに旅行をした程度で宗教には深く関わっていない(後にラエリアン・ムーブメントには傾倒するが)とのこと。但し金髪をずたずたに刈った後の異常な様子は現存するライブ映像でも確認することができ、何らかの錯乱があったのだろうと推測できる(その状態で演奏される"Let It Roll"でのギター・プレイは凄絶の一言に尽きる)。 UFO脱退後、アルコール中毒の治療をうけ音楽シーンに復帰。そのころには多少英語もマシになり、MSGでの活動はUFOよりも順調に見えたが、今度は自らバンドを率いてゆくプレッシャーからトラブルを抱え込むことになる。特に活動絶頂期において、故コージー・パウエルが神経質にリハーサルを繰り返すマイケルに嫌気がさして脱退した事件は、多くのファンを嘆かせた。 その後ロビン・マッコーリーと双頭体制を組み比較的安定したように見受けられたが、1990年代に入ると音楽シーンは伝統的ハードロックを受け付けないようになってしまい、本来不器用な彼にとっては活動しにくい時代になってしまう。以降はアコースティックへの傾倒や宗教的発言の数々など、独自の活動に入っているが、UFOやMSGの再結成で見せるエレクトリックのプレイの方を好むファンも多い。そのUFOの再結成(1995年)は、予想通り(?)フィル・モグとの仲違いで分裂した。 近年ではライブの途中でギターを放り投げて演奏を放棄してしまうことがしばしばある。このことに関してファンの間では「マイケル・シェンカーだからしょうがない」という同情的な見方と、「マイケルふざけんな!」という怒りの反応に2分されている。最も最近では2006年11月の中野サンプラザ公演で二日酔いの殆ど演奏が不可能な状態でステージに登場し、2曲が終わった所でステージから降りてしまうという事件が発生した。 自身の公式ウェブサイトにおいてメンバーとやりとりした電子メールの内容を公開したり、ツアーの不出来を謝罪する文言を掲載したベーシストのレヴ・ジョーンズのウェブサイトや、彼のアジアツアーの不出来を報じた日本人のファンサイトを名指しで非難するなどの奇行を繰り返している。 ↑ マイケルシェンカーのコピーをするなら必需品だよ。 クライベイビーは、いろんな場面で大活躍だよ。^^
January 19, 2007
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俺は、いつも切れにくいダダリオの弦をつかってるよ。音もよく、チョーキングなどのニュアンスもいいよ。ためしてみてね。^^
January 18, 2007
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楽器用アンプ(がっきようアンプ)とは、もっぱら電気楽器、電子楽器と組み合わせて演奏することを目的として設計、製造された音響機器である。発音機構を持たない電子楽器類の、発音を担う。アンプとはいうものの、家庭でのオーディオ再生用のアンプや計測用のアンプと異なり、ほとんどがスピーカを持つこと、あえて平坦な周波数特性や低い歪率を狙わない場合が多いこと、各種エフェクタを内蔵する場合があることなど、楽器の一部としての機能を追求している。これらの特徴は楽器用アンプを音作りの一環として用いるエレキギター用アンプに著しく、楽器本体である程度音が完成されているキーボード類では比較的フラットで低歪率のものが用いられる。↑俺、これがほしい。^^用途別分類楽器用アンプとして概ね以下の分類が可能である。エレキギター用 一般的にアンプ部分とスピーカー部分が一体化されたタイプ(コンボアンプ)と、アンプ部分とスピーカー部分でそれぞれ独立したキャビネット(ボックス)に分離されたタイプ(スタックアンプ)に大別できる。 コンボアンプの多くは、キャビネットは後面開放型である。このためにサイズから求められる一定の波長以下はキャビネットの前後で打ち消しあい、低域の周波数特性は減衰する。 スタックアンプの場合は大音量で鳴らすと「箱鳴り」という、キャビネット自体が共鳴して音を出す現象が生じる。あまり目立った箱鳴りは敬遠される事もあるが、アンプ自体の音のキャラクタの一要素にもなるため、アンプシミュレータでは、箱鳴りを再現する機能が付いている事が多い。 アンプ部分) アンプ部分は音量、音質をコントロールするプリアンプ部とリバーブ、トレモロなどのエフェクター部、スピーカーを駆動するパワーアンプ部からなる。 初期のギターアンプはボリューム+簡易なトーンコントロールという組み合わせだったが、奏法の変化により、アンプの音量を上げない状態でも歪んだ音を出したいという要求が高まり、プリ部とパワー部で独立した2ボリューム構成とすることで、プリ部のボリュームを上げてパワー部を絞れば、プリ部で発生した歪みをパワー部で任意の音量に出来、また、パワー部のボリュームを上げた状態でプリ部のボリュームでコントロールすればクリーンなトーンが得られるようになった。後にはメサブギーに見られるように、さらにオーバードライブ段を追加して3ボリュームとしたモデルも出現した。 トーンコントロールの設計はオーディオ用とは全く異なり、Hi(高音域)、Mid(中音域)、Low(低音域)の3バンドを中立位置にしてもフラットな周波数特性にはならない。中立位置においては一般に中音域を減衰させ、高音域、低音域を強調するカーブが用いられる。 スピーカー部分) スピーカーはもっぱら全音域に対応出来るようにフルレンジユニットが用いられる。1基~4基のスピーカーを単一のキャビネットに装着する。また、スピーカーキャビネットを複数台積み重ねたり並べたりして使う事もある。大規模なコンサートでは、壁のように横一面に並べて設置することもある。1つのキャビネットあたり、12インチx4が一般的なプロの標準である (ヘヴィメタル、ポップバンドなど)。アマチュア用でも音域を出すのなら、12インチが好ましいとされている。日本家庭では大音量を出すのは騒音公害となり問題となるため、小型アンプでも、大型アンプを大音量で出力した際の音の響きを再現するタイプも増えている。 エレキベース用 基本的にギターアンプと構成が近いが、アンプ自体で歪ませる用途はさほど考慮していない。 トーンコントロールはギター用に近いカーブのものからオーディオ用に近い中間値でフラットになるものまで各種あり、トーンコントロールに加えて数バンドのグラフィックイコライザーを搭載した機種もある。バンド形式の場合エレキギターに歪みをまかせイコライザーのみの調節で別につなげるエフェクターは使わない場合が多い。 奏法の変化に伴い、特にチョッパー奏法が一般化して以降は高域の再生の為にアンプ、スピーカーともワイドレンジ化が進んだ。 スピーカーはフルレンジ~マルチウェイまでバリエーションに富んでいる。 スピーカーキャビネットはギター用で一般的な後面開放型は用いられず、密閉型、バスレフ型、各種ホーン型などが用いられる。これは低域を十分な音圧で再生する為である。 アコースティックギター用 もっぱらアコースティックギターに内蔵されたピックアップの出力を受け、演奏するために用いられる。 エレキギター用に比べて歪ませて使う用途が想定されにくい事からアンプ、スピーカーとも低歪みに設計されている物が多い。 キーボード用 電子ピアノ、シンセサイザーなど音域の広い楽器を再生するために、楽器用アンプの中ではもっとも広帯域、低歪み率が要求される。 キーボード専用アンプとして設計された物を用いる場合と、小型のPAシステムを流用する場合がある。 ロータリースピーカー ロータリースピーカーの項を参照の事。 その他専用 オンド・マルトノなど楽器の一部として特殊な構造のスピーカーをセットで用いている。 構成別分類アンプスピーカー一体型 コンポーネント型-アンプ・スピーカ別体型、さらにはプリアンプ・メインアンプ別体型など。 アンプシミュレーター 路構成増幅素子として半導体あるいは真空管を用いる。特にギターアンプに関しては柔らかく温かみのあるディストーションサウンド(歪み音)が得られるとされ、根強い真空管信仰があり、現在でも真空管を利用した多くの新製品が登場している。 スピーカーユニット オーディオ用と異なり、常時大音量で使用されることから耐入力および耐久性が重要なスペックとなる。 かならずしもフラットな特性は必要とされず、ギター用の場合は数kHz付近にピークを持つ特性の物が要求される場合がある。 複数本搭載される場合は、デザイン上、前面ネットを通して本数を表わせるようにセンターキャップは銀色などに彩色される場合がある。 キャビネット 持ち運びを前提として設計されているので、外装にはコーナープロテクター、キャスター、ハンドル(持ち手)など様々な工夫がなされている。 ギターアンプの場合、傾斜して設置できるようなスタンドが装備されている場合がある。 一般にスピーカーユニット保護のためのサランネットが必ず装備されており、アンプによってはより強固な金属製ネットが用いられている。これらのネットは通常取り外しができず、ユニットの交換はキャビネット後面より行う。付加機能エフェクター ギター用としてはスプリングリバーブやトレモロ等が一般的であったが、ローランド社のJC-120で装備されたコーラスアンサンブルは大ヒット商品となった。 昨今はDSPなどのデジタル信号処理を用いたエフェクターが小型かつ廉価になったため、搭載している機種が見られるようになった。 アクセサリーアッテネーター スピーカー出力を減衰させてラインレベルとし、録音用に用いる。 電源極性反転スイッチ 入力インピーダンスが高いためハムノイズを拾いやすく、電源プラグをコンセントに挿しこむ向きを変えると低減する場合がある。これをプラグの差し替えではなく操作パネルで行なうためのスイッチ。ON(ノーマル)-OFF-ON(リバース)の3点トグルスイッチを用い、電源スイッチと兼用したものも多い。
January 17, 2007
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ギターを覚えるなら、まずは?そう~~~~!!ギターが必要で~す!!そこで、こいつがお勧め。^^俺も最初は、安いので練習したよ。^^
January 16, 2007
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お前は、どうしてストラトキャスターなのか?リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore, 1945年4月14日 - )は、イギリス出身のギタリスト。ディープ・パープル、レインボーの元メンバー。彼の生み出した「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の明快なリフや「ハイウェイスター」の速弾きソロは非常に有名であり、ハードロック・ヘヴィメタルのジャンルにおいてはギター速弾きの元祖とされる。J.S.Bachのフーガ等のクラシック曲をギターフレーズに取り入れ、ロングヘアー、黒い上下の衣装、ストラトキャスター、ステージの最後のギター破壊(ただし破壊用ギターと演奏用は別)などのスタイルを確立した。略歴 本名リチャード・ヒュー・ブラックモア。ワーナーミュージック社が自社製品の解説書を通して説明した通り、大部分のファンは彼のミドルネームを「ハロルド」と間違えている。正しくは「ヒュー」である("Deep Purple-Shades of 1968-1998"参照)。イングランド西部の保養地、ウェストン・スーパー・メアで生まれる。11歳の誕生日に父親から当時の価格で7ポンドのアコースティック・ギターをプレゼントして貰い、その後クラシック・ギターのレッスンを約1年の間受ける。14歳の時、初めてのエレキ・ギター、ホフナー・クラブ=50を手にした彼は、人前で初めての演奏を披露した。エレキ・ギターの魅力に取り憑かれた彼は、当時近所に住んでいたギタリスト、ビッグ・ジム・サリヴァンの師事を受け、着実に自らのギターの腕前を向上させていく。1960年、初めての本格的なエレキ・ギター、ギブソン=ES335を手に入れる。学校を卒業した彼はロンドンのヒースロー空港で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれずジャズギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。最初にザ・ドミネィションズというバンドに加入した後、ザ・アウトローズやスクリーミング・ロード・サッチなどのバンドを渡り歩き、売れっ子プロデューサーのジョー・ミークの下で多くのセッション活動をこなし、その名を伸ばしていく。なお、ジェフ・ベックやジミー・ペイジとセッションを行ったのもこの頃である。 その後、国内での活動に見切りをつけた彼は、ドイツのハンブルグに渡り、最初の妻バブス・ハーディーとの間に初子ユルゲン・ブラックモアを設けている。1967年、当時フラワー・ポットメンのメンバーであったキーボーディスト、ジョン・ロード及びクリス・カーティス(ヴォーカリスト)に誘われてイギリスに戻り、ボビー・クラーク(ドラマー)、デイヴ・カーティス(ベーシスト)を加えて、ラウンドアバウトを結成。若干のメンバー・チェンジを経た後の1968年、バンド名をディープ・パープルに改め、アメリカの新興レコード会社のテトラグマンよりデビューを飾る。オリジナル第一期~第三期及び再結成第五期~第七期を支える。ジミ・ヘンドリックスに強い影響を受けた彼は、使用するギターをギブソン=ES335からフェンダー・ストラトキャスターに変え、アンプも小型のヴォックスAC-30から大型のマーシャル (200W) へと衣替えした。ジャズ等に影響された長時間の即興を初めとする独創的な演奏スタイルもさることながら、コンサート終盤近くになるとギターを振り回し宙に放り投げて破壊する狂気のステージ・アクションは観る者の目を奪った。1975年6月に音楽性の違いなどからディープ・パープルを脱退。その後、1975年にレインボー(当初はRitchie Blackmore's Rainbow)を結成。ロニー・ジェイムス・ディオをボーカルに迎えて、当初はディープ・パープルの路線を踏襲しつつも、ポップさと中世的な音楽を取り入れてリッチー自身のやりたい音楽を目指していた。その後、ドラマーとしてコージー・パウエルを迎え入れ、第1期の黄金時代を迎える。ロニー脱退後、スマートなボーカリストグラハム・ボネットを迎え入れ、商業ロック路線を取り入れてスマッシュヒットを連発するが、それまでのファンからは賛否両論をうける。特に、当時としてはハードロック/ヘヴィメタル・ボーカリストに似つかわしくない、短髪・レイバンのサングラス・スーツ姿で歌うグラハム・ボネットには、リッチー自身も不満を感じていた。また、同時期にパープル黄金期(第2期)を共に支えたベーシストロジャー・グローヴァーもプロデューサー兼ベーシストとしてグループに加入することとなる。その後、ポップ路線に不満を感じたコージー・パウエルが脱退し、本来親友のコージーに誘われて加入したグラハム・ボネットも脱退。新たなボーカリストジョー・リン・ターナーが加わることになる。ここではポップ・センスと欧州的な透明感にあふれた佳曲を多く生み出すとともに、クラシックとの融合にも再度トライするなど、ギタリストとして成熟の域に達するが、強くなって行く商業ロック路線に初期のロニー時代のファンは離れていくものもいた。1984年に活動を休止。ディープ・パープルの再結成に参加。しかしイアン・ギランとの確執などから1993年に再度脱退。そのため、翌年の来日公演の時はジョー・サトリアーニが代役を務めた。(脱退時に来日公演を行うために必要なビザを破り棄てたとも言われている)1995年にはリッチーブラックモアズレインボー名義のアルバム「STRANGER IN US ALL」をリリースしているが、メンバーも全盛期の70年代とは異なっており、音楽的にも当時とは大きく異なるが、1993年にリリースされたD.Pのアルバム「紫の聖戦」が、あまりに酷かった事もあって批判的な意見はそれほど無かった。実質的にこのアルバムはリッチーブラックモアのソロ・プロジェクトのようなもので、その後リッチーブラックモアズレインボー名義のアルバムはリリースされていない。現在は婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと共にブラックモアズ・ナイトというプロジェクトで数枚のアルバムを発表し、ライブも行っている。彼のルーツの一つである、リュートなどを主体とした中世音楽を現代風にアレンジした、吟遊詩人的な音楽であり、非常に独創的なもので、かつ聴きやすい。また偶然とは言え、もともとアメリカのテレビレポーターで音楽とは何の関係もなかったキャンディスの、曲世界に絶妙にマッチしたリリカルなヴォーカルを見出すあたりは、ミュージシャンとしての目や大胆さもまだまだ衰えていないと思わせるところである。演奏はアコースティック・ギターがメインである。人物リッチーは非常に悪戯好きな人物として知られている。過去の悪戯には嫌いなマネージャーのパスポートの写真をE.T.にすり代えたり、レインボー時代にはプロモーターと揉めた挙句、プロモーターの社長をステージ上に全裸で吊るし上げたり、メンバーの衣装にヘアクリームを入れたりと軽い悪戯だけでなく度を越えた悪戯をする、ある意味永遠の悪ガキ少年でもある。度を越える悪戯の中にはゴミ袋に自らの排泄物を入れ、こっそりと各メンバーの楽屋に置いていくと言うとんでもない行為をしたこともあった。
January 16, 2007
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これからギターを始めるなら、これがお勧め。^^ストラトタイプなので、バラードからハードロックまでなんでもOK!! とにかく、ギターを握ってみよう!!弾けるサウンドに熱くなれ!!
January 15, 2007
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とにかく、安くていい!!これからエレキギターをはじめるなら、この1本!!まずは、クリック!!遊びにも十分使えるよ!!
January 15, 2007
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どこででも大活躍の予感!じつは、俺・・・このギターが今、一番ほしいねん。楽天ポイントで達成できるだろうか?^^;
January 14, 2007
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ピック奏法(ぴっくそうほう)とはギターなどの撥弦楽器の弦をピックではじいて演奏する奏法。口語で「ピック弾き(ぴっくびき)」とも呼ばれる。カッティングを多用して演奏する場合において比較的指先にダメージを受けにくく、輪郭のはっきりした音色が得られる。 単音でメロディ等を演奏する場合には細かい演奏が比較的容易となる。 ピックの振り抜き方なども音色に多大な変化を与える。とくにギターの演奏において、アルペジオや主旋律と副旋律等を同時に演奏しようとした場合の自由度はフィンガー・ピッキングの方が高い。ピックそのものや性質をうまく利用した、トレモロ奏法やピックスクラッチ等の独自の表現方法がある。奏法ピックを使用した演奏方法には以下のようなものがある。ダウンピッキング上から下へ、ピックや指、爪等を使用して弦を弾く演奏方法。 テンポが遅めの曲ではダウンピッキングのみで演奏される場合も多い。アップピッキング下から上へ、ピックや指、爪等を使用して弦を弾く演奏方法。オルタネイト・ピッキング弦を弾く動きが、ダウンピッキングとアップピッキングの規則的な繰り返しによって行われ、弦を移動した場合や休符を挟んだ場合にもその動きが持続される演奏方法。 リズムキープがしやすく、テンポが速くなっても安定したサウンドを維持しやすい。エコノミー・ピッキング弦移動の際に、高音弦に移る場合はダウンピッキングで、低音弦に移る場合はアップピッキングで弦を弾く演奏方法。 オルタネイトピッキングで演奏した場合に起こる移動ロスを少なくできる。スウィープ奏法基本的にエコノミー・ピッキングと同様だが、特に3弦以上に渡って連続して行う場合にこう呼ばれる。 そのメロディがアルペジオの体をなしている場合はブロークン・コードとも。この奏法はフランク・ギャンバレによって広く知られるところになり、後にイングヴェイ・マルムスティーンのプレイの影響から多くのプレイヤーが取り入れるようになっていった。 スウィープ・ピッキングの名称は『ほうきで掃く (sweep)』動作に由来する。トレモロ奏法手首を震わせることで同音を反復させながら保ち続けること。 ハミングバード奏法基本的にトレモロ奏法と同様だが、エドワード・ヴァン・ヘイレンは中指と親指でピックを持ち、弦に対してより垂直に当てることでより軽やかで早いトレモロ奏法を行う場合があり、これをハミングバード奏法と呼ぶ。チェットアトキンス奏法チェット・アトキンスが生み出した奏法。4~6弦(ベース担当)をミュートして親指で弾きながら、1~3弦(メロディ担当)を人差し指と中指で弾く奏法。または低音弦はピックで弾き、同時に高音弦を中指や薬指で弾くという奏法。これにより、ベース音とメロディ音が分離し、二本のギターで弾いているかのように感じさせることができる。ピックスクラッチ弦に対してピックを垂直に当てて滑らせることにより独特の効果を得ること。 ディストーションをかけたラウンドワウンド弦(巻弦)に対して行われることが多い。
January 14, 2007
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とにかくギターは、握った瞬間に感じるものがあればそいつが一生の相棒になる!形や格好より、まずはギターそのものの音を好きになろう!
January 13, 2007
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January 13, 2007
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