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粛々と、赤い彗星の最後を看取るべく劇場へ足を運んだこの年。あの衝撃の中では、よもや永らえてはいないだろうと思っていましたが目を凝らしてよーく画面を見ると、噂どおり、かすかに彼の脱出の痕跡があって。この物語は、彼の存在なくしては成り立たない、また夢の続きを楽しめるのかもしれないと、淡い期待をしたのでした。 その後の彼の大復活劇が始まったときには、中学生は大学生になり、世間を震撼させる事件の不幸な影響も間にはさみ、意識は他に向っていてもう逐一のお付き合いすることはなくなっていましたけれども、いまも、こころときめきするもの 星は 彗星 色は 赤、そして、ついつい仮面の下に隠された傷に惹かれることに変わりはないのです。それにしても、この年は終末を強く意識させる映画の公開が続きました。 この頃読んでいたのがOUTという雑誌。アニメ雑誌が乱立し始めた当時、こちらはもともとは生活情報誌だったのが特集にアニメを取り上げたところ大ヒットしたため、だんだんとそれが主軸になっていったという変り種。物事のとらえ方、切り口が面白く、バラエティ豊かで、暮らしの手帳愛読者の好みにも合う、かなりハイブローな本☆たとえ超大作であろうとも、切るべきものは果敢に切り、きっちりと王様のそばの道化の役を果たし、いろいろな角度から事象を見る目を育てようとしてくれる存在でした。 大ブレイクする前のドラゴンクエストと桃太郎伝説の作家さんもたしかコーナーをもっていらっしゃいました。探し続けていた黒蜥蜴のコミックと少年向きの小説を手に入れたのもこのあたり。本を貸した友人の方が、すっかりはまり込んでしまい、二の腕に鉛筆で☆タトゥを入れて見せるので、クラブの合間に黒蜥蜴ごっこ。「覚えておいて、これがあたしの紋章!」などと打ち興じておりました☆ 長じてから、舞台で、本物中の本物にお会いできることになろうとは。劇場グッズに黒蜥蜴のタトゥシールがあったところをみると、子どもの頃、同じように遊んだ方がいらしたのかもしれません。年が明け、受験生となる中学生が、これでしばらくは見納めと決めた映画が小説も読んでいた「幻魔大戦」。当時は気がつかなかったのですが、後年、美輪明宏さんも声の出演をなさっていたと知り、深い感慨を覚えたのです。
April 15, 2007
春には大画面でのシャアに会うべく、初日に映画館へ。ほとんど全編のセリフを覚えた状態でご覧になり「坊やだからさ!」とご一緒につぶやかれた方、たくさんいらしたことでしょう☆夏には富野作品と松本作品の、それぞれ第二部が上映されます。このころは、今のように入れ替え制度がなかったため、2回、5時間あまり同作品を観続けることも。 平井和正さんの「幻魔大戦」と美内すずえさんの「ガラスの仮面」に出会ったのもこの年。両方とも膨大な量のシリーズなので、まずは父を作品のファンにする作戦に☆借りてきた一巻目を身の回りにおいておくと、大抵チェックして、子どもよりも続きが読みたくなって、全巻買ってきてくれる父でした☆幼稚園の頃から、トランプからバドミントンまで、手加減なしの真剣勝負の父子は、政治向きの話、歴史の話、文学の話などなど、ディベートする話題にはこと欠かず、ここに新たなタネが加わったことになります。 「マヤちゃんは天才型、亜弓さんは努力の人」「丈は…フロイは…ルナ姫は…」夕食時に一生懸命、話しかけてくれた父。中学生になって忙しくなり、なんとなく距離が遠くなった子どもと、セパレートでも同じ体験をしようと努めてくれていたのでしょう。五島勉さんの大予言シリーズに恐怖しつつ興味を持ったのもこの頃。学校で買わされることになった文芸書で「野菊の墓」を選んだのは松田聖子さんの同名映画が公開されたため☆ クラブの土曜の練習で、体育館が空くまでの待ち時間があるときは涼しい場所をみつけて、母の心づくしのお弁当を開きつつ、山と積まれたこれらの本を、友人と読み、話し込んだもの。あの子がいい、この子がいいといった話題と同時に 大国同士の睨み合いからスイッチひとつで地球がなくなる可能性をリアルに意識せざるを得なかった時代。批判すれども解決策はない、互いに高い高い壁を築き上げる大人を見ながら明るい未来など、大人になってからの美しい夢など、子どもたちも描きようがなかったとき。あの壁いっぱいに殴り描きされた、押さえつけられた情動が放たれたあと。子どものままの大人が溢れているのは、もういちど、夢描く絵筆を取り直すためなのかも。いまは私の子どもも、同じように友人と集うようになりました。
April 14, 2007
レノンへの銃撃で始まり、ベルリンの壁崩壊で幕を閉じた80年代。1980年は、私にとっては永遠の仮面の男☆シャア・アズナブルに出逢ってしまった年☆いえ、確かに、あの作品は放映当初から見るともなく見ていて覚えやすいあの主題歌も、知らず知らずのうちに口ずさむことができたのですけれども、ストーリーはあまり覚えていなくて。いつもの戦闘ロボットもののひとつだと、思い込んで見ていたのでしょう。それが、友人にアニメージュか何かの雑誌を見せられ彼が彼であるときちんと認識してからは、つまり仮面を取ったキャスバルに恋した小学生は、彼をきっかけに何度も何度も繰り返される再放送に、逐一付き合い続けることに。何故って。面白過ぎるから。難解なところも含めて。TVシリーズを元にした三部作の映画公開も始まっていて、あの数々の名セリフが、クラスのあちこちで飛び交っていたのでした。さて、同時平行してファンになったのが、田原俊彦さん。初代の3年B組は、すっかり見逃していて。気がつけばジャニーズのたのきんトリオなる三人のうち、誰かのファンでないと、女の子の間では話が通じない状態。シャアに気をとられて、歌謡界にとんと疎くなっていたためマッチこと近藤真彦さんに入れあげている友人にレクチャーしてもらい、ようやく三人の区別がつくようになったところで「あなたは誰のファン?」と言われましたので、相貌と声が好みのトシちゃん派に。そういえば、YMOのライディーンを聴いたのも、この頃。ラジオ世代の子どもは、田原さんの番組を聴いて、坂本龍一さんの語りにハラハラし、夜中にアニメ情報番組をキャッチし、かたや松田聖子さんの新譜も覚える。クラブ活動をこなし、来週のテストにも備え、「メリー・メリーを追いかけて」や「ガラスの仮面」を読みつつ、映画公開の初日には前夜から並ぶ…といった風で。アニメとジャニーズとテクノが同一線上に。まだゲームやモバイルがなかった分、時間があったのでしょうね。12月8日がやってきて、80年は悲しみのうちにその年代の初頭を飾る役目を終えました。ビートルズをきちんと聴いたのは、高校に入ってからでしたけれども、母が台所でいつもつけているラジオで、レノンの訃報を一緒に聞いたのは、のちに訪れるあの町のような薄曇の夕暮れだったように思います。何も知らぬ小学生にも、ビートルズ世代ではない母にとっても、只ならぬことが起こったということが伝わったよう。レノンの半神・ヨーコさんについて初めて聞いたのも、そのときの母からだったかもしれません。「チャックより愛をこめて」やベストテン番組で慣れ親しんでいた黒柳徹子さんと同じ自由学園出身のアーティストということなど。(「YES!」を虫眼鏡で読む作品をきっかけに二人が出会った日は、あの日と同じ11月9日だそう。)10年後の欧州旅行の際、リバプールをスケジュールに入れる最初の布石は、この出来事だったのでしょう。「欧州鉄道の旅~リバプール」
April 13, 2007
長患いをしていた叔父が逝ってひと月たちました。昨年暮れの祖母の十三回忌のときは元気に列席していたようですが年を越えて再入院、祖母と同じく、糖尿病が原因でした。母から叔父の死を知らされたとき、なぜか私は参列をすぐに決めていました。小学生の頃までは、盆暮れには家族と共に集まっていた親戚宅にも、長じるうちに縁遠くなり、従弟、従妹たちを見たのも祖母の葬儀が最後、それも彼らが献花をする姿を追うくらいで、言葉を交わすことなくまだ幼い子供が待っている自宅にとんぼ返りしたものでした。その祖母の十三回忌にも、縁遠くなった億劫さから足を運ばなかったのがひと月もしないうちに、叔父の訃報によって呼び出された形になったのです。母は5人兄弟で、亡くなった叔父は、母のすぐ下の弟。他にまだ下に二人の叔父と、母の兄である伯父は健在。つまり4人の伯父・叔父がいるわけで、物心ついた私を筆頭に幼い姪っ子、甥っ子たちが混乱しないようにと、亡くなった叔父は「おじさん」と呼ぶのは母の兄である伯父だけ、自分とその弟たちのことは「Mちゃん」「Kちゃん」「Sさん」と呼ぶように茶目っ気たっぷりに言い渡しました。間違って「おじさん」と呼びかけようものなら、「違うよ、俺は『Mちゃん』」当時まだ20代で結婚もしていなかった叔父達三人は、「おじさん」扱いされることに抵抗があったのかもしれませんけれども☆欲しい本が見つからないとうったえると何軒も書店を回ってくれたり、いろいろな場所に遊びに連れて行ってくれたり、延々とゲームに付き合ってくれたり、親戚一同の議論に子供も列席させて意見を取り上げてくれたり。私が足を運ぼうという気になれたのは、そんなこんなで、「おじさんたち」から幼いときに可愛がられた記憶が蘇ってきたからかもしれません。通夜に行くと決め、夫の帰りを待っていると大雪が降りだします。十何年ぶりで皆に会うことに対する気まずさに近い感情が天候も手伝って再び蘇ってきましたが「そんなこと気にしなくていいぞ」という呼びかけがふと心に浮かんだりパソコンのモニターが何度か理由なく消えたりしたこと、思いがけず夫が早く帰って来られたこともあってやはり出かけることに。通夜に出るのは初めての経験。祭事場の小さな部屋に名前を確認して入ってゆくと、たちまち「おお来た来た!」と、おそらくこういった席でなければ大きな声が上がったと思われる雰囲気に。十何年ぶりで見る姪が、夫を連れてやって来たことが嬉しくて珍しくてしょうがない相も変らぬ「おじさんたち」なのです。それは亡くなった叔父「Mちゃん」も一緒。促されて焼香をすませ、そっと覗き込むと長く患っていたとは思えない穏やかな優しい顔。祭壇の写真を見れば「おお、よう来たなー!」と両手で抱きしめんばかり。聞けば、最期もとても幸せなものだったよう。病院に親戚一同が集まる中、終始しゃべり続けていたそうで皆が近づくと話し出す。あまりにも元気なので「今夜はこれで」とすぐ下の叔父「Kちゃん」が言いかけ、ふと静かになったと見れば、亡くなっていたとか。「いやー、みんなを帰さなくてよかったよー」「そうそう」一緒に看取った従弟もうなずきます。兄弟や甥っ子に囲まれて、いつものように冗談を飛ばしながらの最期、とっても羨ましい。病院勤めをしていたいつもは辛口な母も(お正月に会ったばかりでしたが)「こんなにいい顔で逝く人を見るのは久しぶり。こうありたいね」との折り紙付。ふと見ると、夫は「おじさん」につかまって挨拶もそこそこに延々と松本清張(大フリークなのです)のお講義を受けていて「HELP…」の視線を送ってきます。私はごめんなさいと見ぬふりで、十何年ぶりに会った従弟たちと近況報告をしたり亡くなった叔父の思い出話をしたり。1時間があっという間にたちました。もっと居たいような気がしてきましたが次の日にも夫は仕事があり、子供も置いてきているため、やはりすぐに戻らねばなりません。最後にもう一度、叔父の顔を見ながら挨拶していると「僕は母(祖母)の葬儀のときも小説のトリックを考えていたんだよねー」と「おじさん」☆話が長くなりそうなので、夫にひっぱられるように席を立つと「Kちゃん」がいつものように駐車場まで送ってくれました。「幸せになー」「『叔父さん』も幸せにねー」また降りだした雪の中、手を振って別れます。「まいったー、よくしゃべる人たちだなー」「そうねえ、(私の☆)お母さんの兄弟だから」「僕が話していた人は誰?」「一番上の『おじさん』」「亡くなった人は?」「お母さんのすぐ下の弟『Mちゃん』」「送ってくれた人は?」「三男の『Kちゃん』」「珍しく黙って静かだった人は?」「四男の『Sさん』」「僕の後ろに座っていたのは?」「従弟の『M君』。あ、『Mちゃん』を看取ったのが『Dくん』ね」「…もう一回、訊いていい?えーっと送ってくれたのが『Mちゃん』で…」「違うわ、『Kちゃん』、話していたのが『おじさん』…」車中、4回ほど復習しながら帰路に☆ああ、お通夜ってもっとしんみりしたものではなかったの?いいえ、親戚一同の、のんびりまったりとした交流の場だったのですね。次の日は告別式。朝の8時過ぎにパソコンに向かいつつ、「そろそろ始まるなあ。『Mちゃん』、元気でね(?)」とつぶやいておりましたらまたもやモニターが消えて、すぐに復活。やはりお知らせは電気系統なのねと納得、それ以降は、電子箱はすこぶる快調なのです。通夜に行く直前に仕上げていたヨガ講座のレポートのテーマは、「糖尿病の1型と2型についてのそれぞれの特徴 糖尿病に対するヨガの作用」について。帰ってから、レポートに付記を加えて提出しました。***☆ 2007年1月、糖尿病で闘病中だった叔父が63歳で亡くなりました。健啖家で酒豪であった叔父は、祖母(叔父の実母)と同じ病になったとわかった後も、特に日常生活に支障がないためか、お酒に手を出し勝ちだったそうですが、3年ほど前に右足を切断し、経過観察中でした。昨年12月の祖母の十三回忌法要には比較的元気で参加していたとのことですが、年を越えて容態が悪化、家族、親族に見守られながら、最期まで陽気に話し続け、ふと静かになったと従弟(叔父の甥)が近づいたところ、亡くなっていたそうです。通夜で棺に横たわる叔父は今にも話し出しそうな、笑っているかのようなよい表情でした。大きな団地の中で長年のあいだ役員などの奉仕につとめ、子供はないながら、親戚はもとより、近所の子供達がすぐに寄ってくるほど愉しく周囲を陽気にさせていた生き様を懐かしく思い出しつつ、祖母や叔父の状態から糖尿病、腎臓病が発現しやすい家系であることを肝に銘じてヨガセラピーを学んでいることを報告しながら、一緒にヨガをやってみたかったと念じて手を合わせました。この経験をもとに、叔父のような方々が、病状を悪化させずに一日でも長く元気で周囲の方のために奉仕の道を生きられるよう、さらにヨガを深く学び、伝えてゆきたいと思います。読んでいただいてありがとうございました。***「Mちゃん」、ありがとう。この機会がなければみんなと会って話すことも、この先長いことなかったね。ヨガも愉しく続けてゆきます。これからもよろしくね。
February 6, 2007
学生時代のアルバイトのひとつが、鈴鹿サーキット。ウィークデーは一時間にバス一本通るか通らないかという地がレースのある土日祝日には、お祭りのような賑わいになるため付近の学生達も動員されて、様々な役目をもらっていて私もふと学生課で目にした駐車場整理の仕事に加わることがありました。特に八時間耐久レースとF1は、鈴鹿の華。市の人口が、一気に倍になるような人出が日本のみならず全世界から押し寄せ、木曜日から日曜日までの四日間は夜間も含めて24時間体制になります。運がよいとレースを見られる位置につくことができるこのアルバイト、私は大抵、管制塔と呼ばれる本部に。社長さんの指示を各所に伝えたり、交代で汗まみれ埃まみれになって戻ってこられる人たちにお茶や灰皿の用意をしたり。やりがいのある愉しい時間でした。 “Ground Control to Major Tom Ground Control to Major Tom Take your protein pills and put your helmet on・・・”Space Oddity David Bowie 1973時に外に立って通行整理することも。ものすごい勢いで流れてくる人並みが車両に巻き込まれないように「右側に寄ってくださーい!」とお声をかけたとき暑い最中のレースのせいか、終夜通して起きているせいか気が立っている人もいて怖い思いをしたこともありました。(その甲斐あって、アルバイト料は「欧州鉄道の旅」の資金に☆) 【Number 663号 F1鈴鹿のすべて】鈴鹿といえば、幼い頃に連れてきてもらった遊園地の印象しかなかったのですがこのアルバイトをするようになったのは、折りしもF1ブーム最盛期を迎える頃。少しずつ他の人たちから聞こえてくるドライバーや車の名前を覚えるようになりふと見たTVでアレッサンドロ・ナニーニの美しさに驚いてからは夜中の1時からの放送にも付き合うようになりました。この頃よく耳にした名前は、中嶋悟、鈴木亜久里、チェザリス、ピケ、モレノ、アレジ、プロスト、マンセル、そして音速の貴公子アイルトン・セナと彗星のごとく現れたシューマッハー。 【セナに捧ぐ】最終決戦でのセナとプロストの接触と、鈴木亜久里が三位入賞を果たした鈴鹿。ウィリアムズ・ルノーが全勝しそうな勢いの年、一騎打ちで見事セナがマンセルを破ったモナコ、土砂降りの中、中嶋悟が現役最後の戦いに挑んだオーストラリア。高速サーキットでセナが命を落としてしまった夜、眠れずに家族と語り合った時間。 【F1レジェンド ドライバーズアイズ MONACO】予備のドライバーとして控えていたシューマッハーが出場できなくなったドライバーの代わりに参戦し、予選で上位に入ってレギュラーの座を勝ち取り、やがてセナと入れ替わるように登りつめてゆく道程。(シューマッハーの親御さんは、サーキットでホットドック売りなどをして子供たちのデビューを傍らで働きながら支えていたそう。各地のサーキット中継で、こうした現場で働く方々が映ると、親近感を覚えます☆) 【WORKING CLASS HERO - The Definitive LENNON】 & 【Tin Machine『Working Class Hero』】一番、身を入れて観ていた頃のドライバーがほとんどいなくなったいま、鈴鹿でのF1開催が最後となると聞いたとき、いままで観たレースが走馬灯のように浮かび、同じ年にシューマッハーが去るということ、鈴鹿とホンダの香を色濃くうつしたセナの母国にまで決戦の舞台が持ち越されたということが、本当に象徴的に思えるのです。晩年の頃のセナがたたえていた、全てを見通し暖かく周囲を包むのと同じ雰囲気をようやく纏うようになったシューマッハー。鈴鹿でのリタイヤのあとも、微笑を浮かべていた彼が、車の制御が利かないことに警告を発しながらも高速サーキットに臨んだセナのように全てを手に入れたものが、全てを手放すことにならなくてよかったと。鈴鹿に続くブラジルでの勇姿が愉しみです。
October 9, 2006
二年前、実家に薩摩藩士が治水工事を行なった地の250年大祭に出席して欲しいとの連絡が入りました。江戸時代、治水工事が完成するまでに、幕府の妨害や様ざまな責任を取って落命された方がたくさんいらっしゃるのですが、幕府方から禁じられていたにもかかわらず、地元の方々が手厚く葬り、墓碑にも名を残して下さったのだそう。その中に、県下で一軒しかない実家の名字も含まれているとのことでお声がかかったのでした。確かに、父方はもともと鹿児島の出。それでも、かの地からはるか離れた地に居をかまえ、以来あまり交流もなかった故郷から、思いがけないご縁をいただいたものです。縁も縁もない土地の治水工事を請負わされたとき、薩摩藩では唯々諾々と引き受けるか、いっそ幕府と一戦交えるか、大激論が起き、「戦って落命するも武士、他国の民百姓の困苦を救うも武士の誉れ」との家老・平田靱負の言葉で、藩主は幕府の命を受けることに。長い時を経て、系譜も絶えてしまっている可能性もあるかもしれないのですがこの話を聞いて以来、公けのために身を捧げて尽くした方々がいらっしゃったということが、より身近に感じられるようになりました。また、ヨガで教えていただいた「スピリチュアリティ=自分の生まれ、出自」という教えがより鮮明に繋がるように思えました。自分が何ものであるか、何を守らねばならないかを意識できたからこそ、理不尽と思えることにも、全霊を傾けることができたのではないかと。ヨガ講座1460年前、全土をあげて臨んだ際も、自分が何ものであるか、世界の中で日本人であるということはどういうことかを真摯に見つめるものでもあったのではないでしょうか。
August 15, 2005
羽田つぐみちゃんが無事帰ったそうです。ご協力いただいた皆さま、ありがとうございました。つぐみちゃんのお母さまのページ-----仙台の小学五年生の女の子が3/16から行方不明になっていることをルカの街並さんのページで知りました。名前は「羽田つぐみ」ちゃん。お母さまがブログで情報を公開していらっしゃいます。お気持ちのある方、ぜひご協力をお願いいたします。追記 先ほど「携帯サイトでの呼びかけ」のご示唆をいただきました。 お詳しい方、ご協力をお願いいたします。お詫び 先ほどトラックバック先を間違えてしまいました。 羽田さま、お気づきになられましたら削除をお願いいたします。
March 27, 2005
「拉致された疑いのあるあなたの同級生について、なにか知っていることがあれば教えてもらえませんか?」他県の警察署から昨日、こんな電話がありました。大学で同じ学部だった同級生が韓国で行方不明になってから何年たったでしょう。ちょうどその前年に大韓航空でヨーロッパ旅行に行った際、私はソウルの市内観光が半日付いたチケットを利用していました。そのとき「絶対に一人で歩かないで。」と一緒にいた友人につよく言われたのです。韓国語のわかる友人は周囲の方が話している会話や情報を知っていて日本人の女性が単独で歩くと危ないということがわかっていたのだと思います。そして、翌年の同級生の失踪。特別に親しい友人ではありませんでしたが、とても印象に残りました。「私だったかもしれない。」という思いが強かったからです。去年、その同級生は「拉致の疑いが否定できない失踪者」のリストに載り、新聞にも写真付きで掲載されました。もし、私が失踪していたら、家族や友人はどう動いてくれただろう、国は何をしてくれただろう。何かできないか、という思いが強くなり、私は何人かの友人に連絡をとりました。「私のところにも警察の人が来たけれど、特に親しくなかったから。」「親しい友人って、いなかったんじゃないかな。」「あなたもそんなに親しくなかったのにどうして?」そんな言葉が返ってきました。親御さんに手紙を書いたところ数日後、丁寧な返事をいただきました。誰からも忘れられてしまうことが一番辛いとのことでした。「とにかく、覚えていて欲しい。」それから一年、目立った進展はなかったようです。警察の方も、情報を少しでも集めたいとわずかな繋がりしかない方にもコンタクトをとっているのでしょう。心にとめ、祈ることを続けています。
September 29, 2004
吊り尾根に抱かれるような雄大でさわやかな景色、梓川の峻烈なまでの冷たさと清らかさに魅せられて、毎年夏は上高地へ行きます。いつもキャビンに泊まるのですが、河童橋付近の喧騒とはうって変わってとても静かで落ち着くところです。お盆のころはペルセウス流星群をみることができるので、夜は降るような星空のもと、流れ星にたくさんの願いをたくすことができますよ。今年はアテネオリンピックの開会式を待つあいだに、木々の間からもこぼれそうな星を満喫しました。
August 15, 2004
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