ハードヒット

ハードヒット

教育について語る


これが現在の教育の結果である。・・・教育とはなんだろう?教育とは狭い教室という場所でひたすら公式を暗記させそれをテストで発表するだけのことなのか。もちろん教科書から学ぶことは多く、大切なことである。しかし、それに偏重し過ぎではないだろうか。もっと大事なことは他にあるはずではないのか。教育をサーヴィスとすれば、進学に良い教育とそうでない教育に分割される。よりよい教育が、よりよい進学のための、よりよい暗記なのであればそんな教育はいらない。人間にとってまったく意味が無いからである。そしてそれにより偏差値・学校名(学歴)で平然と差別化された世界には必ず差別されるものが出てくる。それが結果として現代に見られる学校諸問題として溢れ出る。競争社会は勝者と敗者を明確につくる。やり場の無い虚しさは登校拒否、犯罪、自殺へとつながっていく。
教育をサーヴィスとしてはいけない。教育とは人を育てる、もっとも崇高で素晴らしい営みである。それを金儲けとして資本主義を利用してはならない。
今の教育にもっとも必要とされているのは「熱き想い」(情熱)ではないか。ちょっとしたことで新聞に載ってしまう身分の低い、そして疲れきっている現代の教師は深く生徒と関わることを避ける。だから子供が何に何で苦しんでいるか分からない。紙の上の点数で「いい子」を演じきらねばならない。いい点を取ればまた次もとらねばならない。重圧。点が下がれば怒られる。塾通いの毎日、習い事。親や先生の「がんばれ」「ガンバレ」子供は安らぎの場所を失っている。テストで良い点数を取れない子供は親や先生に関心をもたれず、辛い思いをする。『どうせ俺なんて・・。』
教師・親も勉強優先、『勉強のできる子=まじめでよい子。問題の無い子。』そんな図式を消さねばならない。
教師は労を惜しんではならない。教師は子供を一人一人しっかりと見つめなければならない。人は誰か支えてくれる人の存在があるだけで安心できるものである。そのためにも子供と一緒にいる時間をもっと増やさねばならない。そして共有する時間を過ごすことにより絆を深めなくてはならない。
私の尊敬する人の一人である義家先生(「ヤンキー母校に帰る」のモデルになった先生)によれば教育は「共育」である。教師と生徒、保護者、地域の人みんな一体となり人間として成長することを目指すものである。人に「一番良い人」なんてものは無い。だからこそ「良い」人間になれるよう努力すべきである。大人だから傲慢になって子供を糾弾してばかりではいけない。共に苦しみ、喜び、悲しみ、さまざまな苦難・試練を乗り越え、成長してゆく。その中で、家で、学校で失敗してもいい。失敗から学ぶものはたくさんあるからである。学校は勉強・運動の出来る、出来ない、それでもお互いのよいところを認め合い、共に歩む。まさにそれこそ「共育」である。それを実現していかねばならない。それを目指さなければならない。


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: