別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

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2005.10.10
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●死への先駆的決意

 だれしも、いつかは、死ぬ。死んで、この世から、消える。いくら、「私は自由だ」と叫んだところで、その自由には限界がある。最終的には、だれしも、その「死」から、逃れることはできない。死は、その人から、あらゆる自由を奪う。

 ここまでは、みなわかる。みな同意する。しかしそのあと、2つの考え方に分かれる。

 だから生きている間、人は、懸命に生きなければならないという考え方。もう一つは、どうせ死ぬのだから、楽しく生きなければならないという考え方。ほかにもう一つ、あの世があると信じて、あの世での生活(?)に望みを託す生き方もある。が、ここでは、考えない。

 どちらにせよ、こうした、せっぱつまった意識のことを、「死への先駆的決意」という。

 もちろんあの世があれば、もうけもの。しかしそれは死んでからのお楽しみ。あるかないか、わからないものに、自分を託して生きることはできない。一応、あの世はないと考える。が、そのとたん、人は、絶壁に立たされる。

 ……と書いたところで、私は、頭の中で、砂漠を思い浮かべた。灼熱の太陽が、さんさんと輝く、かわいた砂漠である。

 私はそこを歩いている。しかし手にもつのは、小さな水筒だけ。その水筒には、かぎられた量の水しかない。その水を飲みほしてしまえば、そのあとしばらくして、私は死ぬ。

 あまりよいたとえだとは思わないが、命というのは、その水のようなものではないか。たいへん貴重な水である。一滴とて、ムダにはできない。飲むときも、心して飲む。

 同じように、「時」も、一瞬たりとも、ムダにはできない。刻一刻と、私の人生は短くなる。やがて、虚無の世界へと、私は、消えていく。

 しかしこうした、せっぱつまった感じがあるからこそ、私は、今の人生を懸命に生きようと思う。さらに言えば、死への恐怖があるからこそ、生きることを大切にしたいと思う。が、それだけではない。

 死への恐怖があるからこそ、そこから生きている喜びが、わいてくる。

 そこでまたふと、考える。もしあの世があると、本気で信ずることができれば、死への恐怖は、なくなる。なくなるとは思わないが、半減する。気が楽になる。しかし死への恐怖がなくなれば、ひょっとしたら、懸命に生きようという気力も、半減してしまうかもしれない。

 どちらがよいのか。

 「どうせ死ぬのだから、楽しく生きよう」という生き方については、私は考えたことがない。ないので、これ以上のことは、ここでは、書けない。

 そこでもう一つ、たとえをあげて考えてみよう。

 あなたが、今、もし、医師に、死の宣告をされたら、あなたは、どうするだろうか。余命は、あと1年としたら……。

 その1年間、あなたは嘆き悲しみながら、過ごすだろうか。それとも、その1年を、懸命に生きようとするだろうか。私の知人にこんな人がいる。

 2年前に、がんの手術を受けた。それで治ったとその人は思っていたが、やがてがんが、体のあちこちに転移していることがわかった。言い忘れたが、その知人は、今年、ちょうど80歳になる。

 で、今は、在宅ホスピスというサービスを受けている。ときどき、(今は、週に1度程度だが)、訪問介護の看護婦がやってくる。あとは、ふつうの人と、どこもちがわない生活をしている。ちがわないばかりか、町内の会合に顔を出したり、意見を述べたりしている。

 ときどき酒を飲んで、フラフラと通りを歩いていることもある。「酔っぱらってますね」と声をかけると、「会合で、酒を出されまして……。断れませんでした」と笑う。そういう人もいる。

 そこで私たち。健康な人もいるが、そうでない人もいる。余命が、10年でも、20年でもよい。30年でも、よい。大切なことは、余命がいくらあるかということではなく、どうその余命を生きるかということ。

 そこで改めて、「死への先駆的決意」。

 もしあなたが、今日の夕方、交通事故か何かで、死ぬかもしれないとわかったら、あなたはどうするだろうか。あなたは断崖絶壁の崖っぷちに立たされたような緊張感を覚えるに、ちがいない。

 刻一刻と、時計が時をきざむ音を聞きながら、何かをしなければいけないと、あなたは思う。あるいはひょっとしたら、何も手につかなくなってしまうかもしれない。ともかくも言いようのない緊張感を覚える。

 その緊張感を生み出すのが、「死への先駆的決意」ということになる。その「死」を、健康なときから意識し、自ら、緊張感をふるい立たせて生きる。それが結果的に、「懸命に生きる」、その力の原動力になる。

 もちろん、そうでない人もいる。退職してからは、趣味と道楽、それだけで人生を過ごしている人もいる。しかしそういう生きザマが、理想的な生きザマかというと、私は、そうは思わない。またそうであっては、いけないと思う。

 が、自分がもつ自意識だけの力で、その生きザマを変えることは、たいへんむずかしい。そこで私たちは、ここでいう「死への先駆的決意」をもつことによって、それまでの生きザマを変えることができる。

 そこで今日という一日を考えてみる。そのとき、もしあなたが、(私なら私でもよいが……)、ただぼんやりと起きて、ただぼんやりと、気が向くまま、一日を過ごすとしたら、それこそ、時間の無駄ということになる。

 が、そのとき、心のどこかで、「今日というこの日は、一日しかない」と思えば、一日の過ごし方も変わってくる。

 ……と、話が繰りかえしになってきたので、この話は、ここまで。

 最後に一言。この「死への先駆的決意」という言葉は、実存主義の世界では、常識的な言葉になっている。実存主義の世界では、いつも、「死」が、大きなテーマになる。「生」は、その「死」の裏がえしの世界にあると、とらえる。この「死への先駆的決意」という概念も、その一つだが、私たちが学生時代のころには、「死への恐怖」とか、「不条理」とかいう言葉で、それを学んだように記憶している。哲学のT教授が、「死は不条理なり!」と、私たち学生に向って叫んだのが、私の印象に残っている。

 むずかしい話はさておき、要は、毎日を、日々の健康を大切にしながら、懸命に生きることこそ、大切ということ。

 みなさん、今日も、がんばりましょう!
(はやし浩司 死への先駆的決意 先駆的決意)






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Last updated  2005.10.10 09:57:08


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