ひよきちわーるど
1
前回の日記に引き続きこのたびも、氏の著作「白洲正子 私の骨董」について。今回は仏像、壷について書いてみたいと思う。・・・自身のことを書けば私は仏像に対し特別の信仰心を持っていない。もっと正確に言うとひとつの美術品として仏像を見ることにしている。(全く変なことを書くようではあるが)それは、自分自身が仏教徒であるからである。釈迦がその生涯を通し 一体私たち人類に何を言い遺したかったかを考えればとても、仏像を信仰の対象として考えることは出来ないからだ。・・・こういうことはここでは余り書かないことにする。著作「私の骨董」の中におさめられている北魏時代の坐像について。・・・心が澄んでゆくようである。西暦464年と書かれてあるので今から1545年前のもの。何だか、こちらがわの心に添うて下さるような感じ。この坐像を前にしたら素のままの自分を ふと出してしまいそうだ。そして、すごく素直になってしまう。次いで 「降三世明王像」。これは鎌倉時代。うーん・・・体の線が実に美しい。躍動美、とでも言えばいいのだろうか。そのままモダンバレエの舞台に立っていてもおかしくない。惚れ惚れ、である。殊に、後ろ姿。次に「李朝面取小壷」。備前説もある、とのこと。時代は書かれていない。・・・不思議なことにこの壷はそこに在るだけでよい、そんなふうに感じさせてくれる。花を生けずとも。色も深く、美しい。氏の収集なさった骨董は(上手く言えないけれど)まろやかで澄んでいる、そんなふうに思う。だから、この本の隅々にまで目を通しているうちこちらの心も澄み透ってゆく。・・・天平古材、藤原時代の金銅鈴などそれらを眺めているうちに何だか、しん となってくる。そして遙か天平 東大寺建立の折風にひるがえっていた幡の色までも目に浮かぶようで ふと 目頭が熱くなってしまった。
2009.06.17
閲覧総数 33