「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2011.04.06
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歴史2【ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争】とは? ・・・・・辞書ウィキペディアさま参照

1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、

ボスニア・ヘルツェゴビナでは、

それぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。

1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が

相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、

クロアチアでは、クロアチア紛争が始まった。

相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、

次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には、緊張・不信が広がり、

一部では武器を準備する動きも進んだ。

正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、

セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、

イスラム教徒中心のボシュニャク人や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人は

ユーゴスラビアからの独立を望んだ(この3つの民族は互いに言語・文化の多くを同じくする一方、異なる宗教に属していた)。

1992年、ボスニア政府は、

セルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定した。

3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。

大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチなどの、

数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、

ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって、

自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。

これに対して、セルビア人やクロアチア人は、

ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。

クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、

セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、

それぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。

ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、

ラドヴァン・カラジッチを大統領とする

「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」として

ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。

1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、

その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。

また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、

マテ・ボバンの指導のもと、

「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、

同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、

クロアチア人による統一的な軍事組織とした。

2つの民族ごとの分離主義国家、

および事実上ボシュニャク人主導となった

ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、

それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、

それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で

虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。

1994年にはアメリカ合衆国の主導で

ボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。

これによって両勢力は

セルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、

またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。

1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、

紛争は終結した。



【ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後】

デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナは、

ボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、

セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)

という2つの構成体から成る連合国家となった。

民生面を上級代表事務所(OHR)、

軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、

停戦の監視と和平の履行を進めた。

また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、

民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や

民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、

住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。

選挙では民族主義政党が勝利し、

民族間対立によって政治が行き詰まり、

国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって

政治的困難を打破せざるを得ない事態もたびたび起こっている。

2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮し、

SFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。

2004年12月からは

EUの部隊である欧州連合部隊 アルテア(EUFOR Althea)が

ボスニアの治安を維持する目的で展開している。

EUFOR Altheaは順次部隊を縮小しており、

当初7,000名であった兵力は

2008年時点では約2,200名となっている。



国民 【民族】

住民はボシュニャク人が48パーセント

クロアチア人が14 パーセント

セルビア人が37パーセントなどである。

それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるものであって、

それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。

それ以外の少数民族としては、ロマなどが住んでいる。


民族構成(ボスニア・ヘルツェゴビナ)

ボシュニャク人 ? 48パーセント

セルビア人 ? 37パーセント

クロアチア人 ? 14パーセント

ロマ他 ? 1パーセント

元々この地域には、

ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が概ね拮抗する割合で暮していた。

その為、ユーゴスラビアが連邦制を実施する際、

他の5つの共和国は主要民族に基づいて樹立されたのに対し、

ボスニア・ヘルツェゴビナは地域を基礎として樹立された


【言語】

言語は、

公用語がボスニア語、クロアチア語、セルビア語である。

それぞれボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の言語とされるが、

これらの言語は

19世紀から20世紀末にかけて

セルビア・クロアチア語と呼ばれ、同一視されていた。

多民族が混住するボスニア・ヘルツェゴビナでは、

実際には、民族ごとに言語が異なることはなく、

住民は民族の別に関わらず地域ごとの方言を話している。

自らの話す言語に対する呼称の違いは、

ほとんどの場合話者の民族自認に基づいている。

セルビア語はキリル文字、クロアチア語とボスニア語はラテン文字を用いる。


【宗教】

ボシュニャク人の多くはイスラム教、

クロアチア人の多くはローマ・カトリック、

セルビア人の多くは正教会である。

メジュゴリエでは聖母の出現があったと主張されているが、バチカンはこれを公認しておらず、メジュゴリエの教会もローマ・カトリック教会に属するものではない。


【文化】

ボスニア・ヘルツェゴビナ2つの世界遺産が登録されている。

モスタルにあるスタリ・モスト(古い橋)の周辺と、

ヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋で、

ともにボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築である。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上 辞書ウィキペディアさま参照・・・・・

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最終更新日  2011.04.06 23:25:51
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