「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2014.03.19
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カテゴリ: 旅のアイテム

【スイス旅行】の為にスイス連邦の歴史を勉強中です。1523年から、宗教改革の嵐が・・・・戦い、もろもろ、永世中立国、原爆非保持の国へ



◎宗教改革の嵐(1523年-1648年)

宗教改革者

フルドリッヒ・ツヴィングリはもともと

1518年に

チューリッヒの大聖堂の説教師として招聘された。

1523年に始まる

ツヴィングリの宗教改革運動は

チューリッヒ市の政治体制と

不可分の政教一致運動でもあった。

ツヴィングリの始めた改革運動は

他の州にも拡大したが、

森林五州とよばれる5つの州は

従来のカトリック信仰の保持を表明した。

プロテスタント諸州と

カトリック諸州は

争いを避けようと交渉を繰り返したが、

自らの力を頼みとするチューリッヒが

プロテスタント陣営の中でも独走気味となった。

1529年の

第1次カッペル戦争は

ぎりぎりのところで交戦が回避されたが、

ついに1531年の

第2次カッペル戦争で

チューリッヒ軍が

カトリック連合軍と激突し、

ツヴィングリ自身も戦死した。

1531年に

和平協定であるカッペル協定が結ばれ、

スイスにおいてカトリックと

プロテスタントは

互いを攻撃することなく

共存していく体制を作ることで合意した。

ここでは各邦が宗教問題に対応すると決められ、

アウクスブルクの和議の先取りとなった。

また、この決定により、

西南ドイツ都市と締結していた同盟は破棄され、

ツヴィングリの死(西南ドイツ都市はルター派の影響下となる)とともに

スイスが

神聖ローマ帝国から分離していく原因の一つとなった。

このころ、ジャン・カルヴァンが指導していたジュネーヴが盟約者団の一員として加わった。

三十年戦争(1618年-1648年)の間、

ヨーロッパ全土が戦乱によって荒廃したが、

スイスは

直接の戦場とならなかったため国土は被害を受けなかった。

しかし

傭兵として戦った多くのスイス人の血が流された。

列強がスイスを戦場としなかった最大の理由は、

スイス人傭兵の戦力が重要だったからである。

とりわけ、

三十年戦争で勇名を馳せた

スウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍には、

多くのスイス人傭兵が参加していたと言われている。

プロテスタント陣営に優勢をもたらしたグスタフ・アドルフは、

スイス人の多勢を占めるゲルマン人と

スウェーデン人の祖先を同一視させる政策(古ゴート主義)をとった。

この王の死後、

フランスでも

スイス人の傭兵を得るために同様の政策をとり、

スイスの独立を後押しした。

三十年戦争の最中、

スイスは「武装中立」という立場を初めて公式に宣言した。

そして、

中立を維持するための国境防衛軍として連邦軍が創設された。



◎アンシャン・レジーム(1648年-1798年)

1648年の

ウェストファリア条約で

スイスは

法的にも神聖ローマ帝国から独立した。

1653年、

ルツェルン、ベルン、ソロトゥルン、バーゼルに属する

共同支配地の農民たちが

通貨の切り下げに反発して蜂起した。

反乱軍は

ルツェルンとベルンを囲んだが、やがて和解した。

しかし、

農民の不満は収まらず、

以後も1656年と1712年の

ヴィルメルゲンの戦いとなって爆発した。



◎ナポレオン時代(1798年-1848年)

フランス革命が起こると、

その影響はスイスへも波及した。

フランスの革命軍は

オーストリア帝国との戦いを通じてスイスを脅かした。

1798年、

フランスの総裁政府の強力な圧力の下で、

スイスにヘルヴェティア共和国が設立された。

この共和国は、

従来の地方自治制を廃して

中央集権政府の確立を目指したが、

スイスの国情にそぐわなかったため、やがて瓦解した。

1803年、

第1統領のナポレオン・ボナパルトが調停者となり、

スイス各州の指導者がパリに集まって協定を結び、

スイスは

地方自治の体制に戻った。

このとき、

それまで共同支配地とされて格下の扱いだった

アールガウ州、トゥールガウ州、グラウビュンデン州、ザンクト・ガレン州、

ヴォー州、ティチーノ州が同格のカントンとして

同盟の一員に加えられた。

1815年、

ナポレオンの後のヨーロッパについて協議したウィーン会議で、

スイスの独立が改めて確認されると共に、

永世中立国として国際的に認められた。

このとき、

ヴァレー州、ヌーシャテル州、ジュネーヴ州

(フランスの占領下に置かれていたため)が連邦に加わった。

同盟構成州の増加はこれが最後となった。



◎スイス連邦の成立(1848年-1914年)

1847年、

カトリック諸州とプロテスタント諸州の緊張状態が紛争に発展した。

自由主義の気運の高まりと進展に危機感を抱いたカトリック諸州が

独自の同盟(分離同盟)を結び、

盟約者団が同盟の解散を命じたため、

争いになったのである。

紛争は1ヶ月続き、

100名あまりの犠牲者が出た。

これがスイス領内で起こった最後の大規模紛争である「分離同盟戦争」。

この内戦で、

スイスの永世中立は危機にさらされた。

近隣諸国は、

スイスでの自由主義陣営の勝利が

他国へ影響することを恐れ、

軍事介入をしようとしたが、失敗した。

結果として、

スイスでの自由主義者による国家の成立は、

ヨーロッパ諸国へ飛び火して

「1848年革命」へと発展し、

ウィーン体制は事実上崩壊した。

スイスの紛争は、その序曲となった。

内戦の結果、

1848年に連邦制度が採択された。

各州の代表からなる連邦議会が

防衛、通商、憲法に関する事項を扱い、

それ以外は全て各カントンに委ねられた。

このとき出来たスイス連邦の基本的な枠組みは、

現代まで維持されている。



◎2つの世界大戦(1914年-1945年)

第一次世界大戦と第二次世界大戦では

スイスは常に中立の立場を取り続けた、

中立といっても全く無関係であったわけではなく、

逆に中立ゆえにすべての陣営が

スイスを舞台に

国際諜報、外交、通商を行い、

政治難民たちの避難地ともなった。

1917年に始まったダダイズムの動きは

戦争に対する文化的反応ともいうべきもので、

スイスに逃れてきた芸術家たちによって推進された。

レーニンもチューリヒに逃れていたが、

そこから直接ペトログラードに向かってロシア革命を指導した。

1920年、スイスは国際連盟の一員となった(1938年脱退)。

両大戦間、

ナチスはスイス国内で反ユダヤ主義の扇動を行い、

隠然と勢力を広げていった。

その立役者となったヴィルヘルム・グストロフは

ユダヤ人の若者に射殺され、

故郷のドイツで国葬を行われている。

ナチス・ドイツが

ポーランドに侵攻して

第二次世界大戦が勃発した事で、

スイスでも緊張が高まり

43万人の民兵が兵役に動員され、

アンリ・ギザン将軍のもとで非常体制がとられた

(軍最高司令官による統治体制は非常時のみ行われる)。

1940年5月11日、

ドイツがベルギーに侵攻すると、

スイスでは国民総動員の態勢がとられ、

史上初めて15000人の女性兵士も動員された。

スイスは中立を標榜していたため、

難民の受け入れはしていなかったが、

それでも26,000人のユダヤ難民を受け入れている

(だが、相当数のユダヤ人の入国を拒否した事や、

密入国を許可した警察担当者が戦後になって有罪となった事実もある)。

連合軍は

スイス側のドイツ寄りの中立を牽制するためか、

バーゼルなどの国境の都市に空襲

(表向きは誤爆としている)を行っている。

だが、

1940~44年にかけて、

スイスの国境の向こう側は

全てドイツとその同盟国であるイタリアに占領されており、

この時期のスイスは

枢軸国によって生殺与奪の権利を握られていた事情もあった

(実際にドイツは極秘裏に

スイス侵攻の作戦(タンネンバウム作戦)を

計画していたが、実行されなかった)。

このような状況下において、

スイス政府としては

「中立違反」の非難を受けたとしても、

ドイツ側とある程度の妥協をせざるを得ない側面もあった。

大戦中に

スイスの銀行が金を中心とする

ナチスの資産の隠し場所となったことが

戦後になって明らかになり、

1995年から2000年にかけて

詳細な調査が行われた。

スイスのこの行為は

重大な中立違反であるとして

国際的な非難を受けた。

ナチスの資産と称するものは

ほとんどが迫害したユダヤ人から巻き上げたものだったといわれている。

スイスは

1952年に

旧連合国側に対して

中立違反の賠償金を支払っているが、

1999年にアメリカのホロコースト基金に対し、

改めて12億ドルを支払っている。


◎1945年以降のスイス

戦後、

スイスは

原子爆弾の製造と所持を検討し、

連邦工業研究所の

ポール・シェラー博士に

計画の作成を依頼した。

しかし、

1958年の国民投票で

原爆非保持が決まり、

計画は破棄された。

1959年以降

政府に任命された連邦議会は

4つの政党の代表者によって構成されている。

プロテスタント自由民主党、カトリック・キリスト教民主党、

左派の社会民主党、右派の人民党である。

1960年5月3日、

イギリス、オーストリア、スウェーデン、スイス、デンマーク、

ノルウェー、ポルトガルの7か国で欧州自由貿易連合を結成。

1963年5月6日、

スイスは

欧州議会に参加した。

スイスは

中立を国是としているが

国際的な承認を得続けるために

国際活動には積極的に参加している。

1971年の国民投票で女性の参政権を認めた。

1979年、ベルン州の一部が独立、ジュラ州となった。

戦後、

何度か国際連合加盟の是非を問う国民投票が行われたが、

賛成票が必要数に満たず見送られていた。

しかし、

2002年の投票で賛成派が可決数を超えたことで加入した。

スイスは

国民投票によって国際連合への加入を決定した唯一の国である。

ただ、依然としてEUには加入していない。

1995年、

オーストリアのEU加盟によって、

リヒテンシュタインを除く全ての国境をEU加盟国に囲まれることになった。

2004年10月26日、

シェンゲン協定に加盟(2008年12月12日に施行)し、

シェンゲン圏に入った。 

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最終更新日  2014.03.19 08:55:14
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