【結果は神の回答である】 4
キリスト教については、「ネジ山の教えを考慮すれば」イエスは一概に間違っていたと断言できません。(間違ったことを教えたとは言えない)あえて断言すれば教える相手が不適当だったと云うしかありません。ジョン、アダムススキー?の著作「金星旅行?」の金星人の長老の教説は参考になりますか?私は拾い読みしただけですが、教説の内容は無く雰囲気などの状況が書かれていました。同じ技(はじめは興味本位で関心を惹く)が、竹下にもありまか?あれば彼も「ただ者ではない」と言えます。物語の進展が横道に流されてはいいませんが、目的に不信感を感じるモノがあると言えます。私の地球儀の例で説明すれば、地球儀上の地理の変化は変化ではな く、他人のモノと同じなら、以前、私が記憶していた地理(地球儀に描かれていたモノ)錯覚としなくてはならないのです。
地球儀に関しては、他人の例を観なくては何とも言えないと思っています。他人の例が全て同じでも、測量しなくては断定できないと思っています。(超能力地球儀上の絵図だけ変えるいたずらもあり得る)超能力に関しては、人間が追及すればそれも過程に過ぎません。真理は無限の中にあると言えます。したがって感性で判断することも必要になります。感性で判断すれば、はじめに霊的関心で思想に呼び込むアダムススキーの著書は現在只今回想すれば、霊的絶対強権思想に行き着くと思います。人間は神の回答である結果を知ることはできません。理由は無限の中あって有権の存在としてに生きているからです。(器の中に生きている者が器の形を知ることは出来ない)結果は神のであったも指導ではありません。神の指導は動機に在ると捉ることができます。但し、動機は指示ではありません。神の指導はあくまでも自主的な言行です。(2013/06/25⇔記)
【宗教の反省は良心の働きを基準にしたものでなくてはいけない】 3
道徳を基準とした反省は、所詮道徳の教えですおしえです。私は宗教は道徳も含まれるものとしています。例えば、宗教が立方体とすれば、道徳は六つある面の内の一つと考えていただけば解りやすいと思います。ですから宗教的な生き方を志す者は、道徳の反省は必要と思っています。宗教の反省は良心の働きを基準にしなくてはいけないのです。しかし、良心の働きは固定的ではありません。心境によって異なった面がでてきます。宗教は何を基準にして反省するか?に答えれば心の働き方と言えます。宗教を行っていれば道徳は守らなくてもよいのではなく、歯止めとして道徳は守らなくてはいけないのです。
例えば、正当化を行っていないか?(正当化を行ってよいか?悪いか?⇔良心に訊くより仕方がない)すり替えてはいないか?流されてはいないか?原点は何か?目的は何か?(道徳のように普遍的なものではなく個人により全てことなります⇔良心を基準にするしかありません)等です。打算計算もありますが、これも目的や想いによって異なります。人殺しの計算は、どのような打算から生れるのか?(検察は大丈夫か?)政治家や実業家の打算計算は、個人によって全て内容が違うはずです。どのような打算計算を描いているか?(想っているか?)は、個人により全て異なります。
愛を基準とした想いであるか?どうか?が大切であると唱えることは易しいですが、愛とは何か?を正確に定義できる人はいないと思います。愛の名の元に行われた結果が不調和な関係になった。良からぬ現象が起きたと云う事態は少なからずあります。(宗教がらみの事件)又、故意に愛の名を使った悪行も無かったとは断言できません。やはり良心の働きを基準にするより仕方がないのです。(本当は愛が基準になることですが、愛か?どうか?ことさらに想%
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