Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

蘇州旅情3



「蘇州旅情35」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

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寒山寺の大雄宝殿の釈迦如来像を、
撮影しようとしたところ制止された。

大雄宝殿の中は撮影禁止とのことで、
外からなら良いかと聞いたところ、
外での撮影は構いませんよと言われた。

外に出る前に参拝の親子を撮影し、
敷居を、またいで外へ出た。

外から望遠レンズに交換しMFに切り替え、
ISO値を上げ、連写をした写真の一枚が、
上の写真であるが、やはり手ブレしている。

再度、大雄宝殿の敷居を越え中に入った。
レンズを交換しカメラをバッグの中へ入れて、
見上げるように釈迦如来像を見た。

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係りの中年女性が近づいて来て、あなた撮影は、
禁止ですよって言ったのに撮影していましたねと。

私よりは、外からの撮影は問題ないとの事で、
中での撮影はしておりませんよと話すと、
お釈迦様の撮影は禁止になっていますので、
外からでも撮影は困りますと、
中国人が近くで釈迦像を撮影していても、
注意をするわけでもなく私に話していた。

私は中年の彼女を手招きして外に出た。
バッグからカメラを出し釈迦像を撮影した。

望遠レンズから広角に代えてあったので、
撮影した画像を液晶パネルで再生して見せた。

広角レンズなので、私も驚くほど釈迦像が、
小さく写っていたが、係りの女性は不服そうに、
基本的に撮影は禁止ですからと中に入った。

相変わらず中ではフラッシュが焚かれていた。

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「蘇州旅情36」

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江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

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寒山寺の大雄宝殿から少し行くと、
五重の仏塔、普明宝塔を見上げる。

寒山寺が出来た当時は妙利普明塔院と、
呼ばれており、また北宋の時代には、
七重の仏塔が建っていた。

北宋(10世紀頃)の七重の宝塔は、
元代の末期(14世紀頃)戦火で焼失。

それ以後寒山寺は何度も戦火に見舞われた。
約700年の長きに渡り仏塔の再建はなかった。

20世紀も終わりが来た頃、寒山寺普明宝塔の、
再建事業を始め4年の歳月を掛けた後、
五重の宝塔が建てられ今日に至る。

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普明宝塔の中には、東西南北方向を向いて、
座した普明如来の仏像が静かに微笑む。

普明宝塔は普明如来と共に、寒山寺を、
象徴するに値する存在となっている。

普明塔院の南側に法堂が建てられているが、
寒山寺を訪れる高僧が仏法を論ずる場所である。

また僧侶の教学水準や文化的知識を高めるため、
各地から多くの書籍を買い整え、パソコンもある。

ネットができるかどうかは分からないが、
寒山寺の文化的水準は高くなったようである。

寒山寺の僧侶は36人で昔に比べれば少ないが、
近隣の寺から比べれば、僧侶の数は多い方である。

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「蘇州旅情37」

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寒山寺の五重塔普明塔院の階段を上り、
上から周辺の景色を見た。

蘇州の最北端に位置する北寺塔の、
階段の幅に比べると半分ほどの狭さ。

狭いため人と人がすれ違う事が出来ずに、
人が階段を降りるときや登るときに、
上下を確認して待っていなければならない。

その狭さは上に行くに従って狭さを増した。
何とか階段を下りて外に出て普明塔院と、
同じ敷地内にブロンズの獅子像があり撮影した。

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子供獅子が母獅子を見上げるかのように、
子供をあやしている母獅子像と手まりを置く像が、
ブロンズで出来ていること自体珍しいが、
獅子のリアルな造りに新鮮ささえ感じた。

今まで見てきた獅子像は石で出来ているものが、
多く、また姿も厳格な感じがしたが写真の、
ブロンズ獅子はゆったりとした感じが伺える。

法堂へ進み右方向へ進んで行くと回廊に、
造られたガラス張りの中に、僧侶たちが、
太い筆で書いた詩が飾られていると思って、
眺めていたが、回廊には歴代の有名な書道家の、
書跡を彫った石が入っているとの事だった。

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「蘇州旅情38」

「中国写真ライフ」では、
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回廊を右に曲がると張継が詠んだ詩が見える。
張継は唐の詩人で、寒山寺に詩を贈った。

その詩のタイトルは楓橋夜泊と言い楓橋は、
蘇州の楓江にかけられた橋のことをさす。

張継は官僚政治家になる前、科挙の試験に落第し、
落胆のあまり船の旅に出て、楓橋の船着場の船の中で、
夜を明かしたが、その折に詠んだのがこの詩である。

「楓橋夜泊」の詩
月落烏啼霜満天 江楓漁火對愁眠 
姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声至客船 

「楓橋夜泊」の訳(落第した心境)
霜が夜空に満ち月は隠れ鳥が啼いている。
紅葉の川辺の楓が漁火で照らされ眠れない。
蘇州郊外に建つ寒山寺から時を告げる鐘の音が、
客船にまで聞こえてくる。

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3年後、張継は科挙試験に合格し官僚になるが、
この時は、科挙試験に落第した心境を詩っている。

忍び寄る冬の中で詠んだ詩であるが、
蘇州の川に浮かぶ船で一夜を過ごす彼の、
やるせない思いを、霧が空を覆い月の灯りもなく、
鳥(カラス)が虚しく啼くと自分の心境を、
上手く状況を反映させた詩である。

西条八十の詩に蘇州夜曲があるが、よく似ている。
季節は桜咲く春と秋口の肌寒い季節の違いあり。

「君がみ胸に抱かれて聞くは 夢の船唄鳥の唄
水の蘇州の花散る春を 惜しむか柳がすすりなく

花を浮かべて流れる水の 明日の行方は知らねども
今宵映した二人の姿 消えてくれるないつまでも

髪にかざろか口づけしよか 君が手折りし桃の花
涙ぐむよなおぼろの月に 鐘が鳴ります寒山寺」

(ネット上では歌詞をコピーペーストしては問題あり)

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「蘇州旅情39」

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寒山寺を出てより地図を見ながら、
西園へ向かって歩きだした。

タクシーに乗った方が早いのだが、
のんびりと西園向け歩くことにした。

寒山寺から西園までは1キロもなく、
周りの風景を眺めながら歩いていると、
西園へ着き、入場券を購入し中に入った。

一人旅の場合には集合時間は全く心配しない。
だが、予定の目的地を消化できない事も、
多く発生するが、致し方ない事でもある。

上の写真は西園の鼓楼であるが、中には、
太鼓が保管してあり普段は鍵が掛かっている。

鼓楼の向かい側には、鐘楼があり、
古き時代より、時を告げるために打って来た。

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上の写真は、西園禅宗の寺院の大雄宝殿前の、
香炉であり、中に入ると、いきなり撮影禁止と、
係りの人が歩み寄ってきた。

私は、仕方なく裏側へ回って直ぐにシャッターを、
切ったものの、私の横には先ほどの係りの人が、
ニッコリ笑って、撮影は駄目ですよと言われた。

写真は観音菩薩像であるが、色鮮やかな塗料で、
塗られており、暫しの間眺めていた。
この観音像のマントはベージュ色だが場所によっては、
真っ赤なマントを羽織らせている寺もある。

写真では、慌ててシャッターを切ったために、
観音の足元の動物が見えないが、龍の頭に、
魚の体をもつ「鰲」という動物である。

「鰲」の説明は、またの機会に説明しようと思う。

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「蘇州旅情40」

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西園を出るときに、振り返った時に、
屋根の魔除けたちが目に飛び込んで来て、
レンズを交換して撮影した写真。

中国の宮殿や寺院の建物の屋根には、
数種類の動物の形をした装飾施されている。

通常は走獣などと呼ばれているが、
原型となった魔除けの装飾は昔から存在している。

大棟の両端部には、大きな口の龍が置かれている。
日本の鯱のように火災から守ることのようである。

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隅棟の先端には、獣が並んでいたりする場合も多い。
走獣の装飾をで先頭には霊鳥に乗る仙人の像や、
その後ろにつづき、色々な霊獣が並んでいる。

霊獣の置かれる順番は決められた順序があるようだ。
だが、寺院が建つ土地や宗派により順番が違う。

屋根の先端を保護する役割を担っていることに、
間違いはないが、意味合いについては不明。

屋根の上に並べて置かれている龍や獅子や麒麟など、
想像上の動物が一列に並んでいるのを見るのは楽しい。

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「蘇州旅情41」

「中国写真ライフ」では、
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西園を出て西園の前を流れる川に架かる橋を、
渡って広い道路へ出たが、次に向かう、
「留園」の位置を地図を見ながら確認していた。

気がつくと、オートバイの後に荷台を牽引した、
3台の三輪車が私の周りを取り巻いていた。

三輪車の事を中国では「サンルンche」と、
呼んでいるが、いわゆる輪タクなどと呼ぶ。

西園から留園まで2キロ足らずの道のりだが、
歩いて行こうと考えていたものの、2元(30円)で、
乗せて行ってくれると言う人の車に乗った。

乗り心地はお世辞にも良いとは言えなかったが、
便利な乗り物ではあると思った。しかし一般には、
初乗り4元なので私は3人の中で一番安い賃金に乗った。

だが、中国ではボッタクリも横行するから、一人旅の、
場合は、やはり中国語だけは話せると良いかも。

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もう少し話していたいと思うほどに早くに留園へ、
着いたが、運転手には気の毒に思い3元を手渡した。

初乗り4元からすると、1元安いが、
私と交渉した賃金からすると1元多くなり、
笑顔で3元を受け取ってくれた。

留園の中に入ると、どこかで見たような風景に、
今まで見てきた拙政園と獅子園を併せたような、
そんな景色が目の前に広がっていた。

留園は蘇州の西にあり、拙政園と並び、
中国四大庭園のひとつに数えられ世界遺産である。

明代に西園と東園と造られ、その後西園は寺院に、
東園は園主の劉恕名の姓にちなんで劉園となった。

留園は清代に大改修が行われたが、蘇州の各名園の、
長所を取り入れられており私も何所かで見た庭園と、
思ったのも納得ができると思った。

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「蘇州旅情42」

「中国写真ライフ」では、
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今回の旅の重要な目的は世界遺産に指定の、
滄浪亭、獅子林、拙政園、留園の四大名園を、
見ることが最大の目的であった。

蘇州の四大名園は上記の四庭園だが、
中国の四大名園は、蘇州の拙政園と留園に、
北京の?和園と華北省の避暑山荘を呼ぶ。

留園は中国の国宝庭園で1997年に、
世界遺産に登録されている。

蘇州の四大名園の中で一番広いのは、
拙政園であるが、二番目に留園が続く。

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留園の入口から回廊を進んで行くと、
それほど大きくない池に出る。

どこからともなく中国琵琶を奏でる音色に、
引かれ歩いて行くと草庵の中で、
当時の姿をした女性が琵琶を弾いていた。

彼女一人しか居なかったが、近くには、
二胡も置いてあり、ここで琵琶や二胡で、
演奏会が開かれるのだとも思った。

下の写真は太湖の石を築山にした近くの庵で、
留園の到る所に、庵が建てられており、
庭園の中で緑と築山と池の青さによく似合っている。

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「蘇州旅情43」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

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蘇州の庭園には東屋とか亭などと呼ぶ、
休憩場所が造られている。

日本でも森林公園やゴルフ場などで、
東屋と呼ばれる休憩所を見かける。

その東屋の天井から灯篭が吊下げられ、
旅ゆく人たちの心を和ませてくれる。

灯篭は主に人を迎え入れる応接間などや、
回廊の天井から吊下げられている。

イギリスよりの旅行客たちも灯篭を見ては、
ビューティフルを連発していた。

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上の写真や下の写真の塀の上の姿を見ると、
龍を連想するのではと思うが如何だろうか。

塀の上に作られた龍の胴体のように見える。
龍と言えば、大蛇から想像されて作られたもので、
架空の動物であるが、日本にも浸透している。

横浜などの中華街で、龍を躍動的に操る祭りがある。
龍の胴体に何本もの棒をつけ、それを大勢の人が、
上手く操り、龍が宙を舞っているように見える。

そのような躍動感を感じさせる龍の背を、
回廊横の塀の上に模り庭園造りをしている。

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「蘇州旅情44」

「中国写真ライフ」では、
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留園の中を一人で自由気ままに、
観て回っていると、同じ所に戻ったり、
まだそんなに時間が経っていなくても、
出口に出たりして、一体何処をどのように、
観て回ったのかさえ分からなくなっていた。

15人前後で行動をしガイドが着いていたが、
やはりガイドと共に見て回った方が、
良いとも思ったが、自由に観て回った。

下の写真は池の対岸に建つ建物で明瑟楼と呼ぶ。

留園は徐泰時が明代に造園した個人庭園。
庭園の中ほどに造られた池や築山は殆ど、
明代に造られた当時のまま残されている。

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明代や清朝と書いても西暦が分らないと思うが、
北宋は960年~1127年 南宋は1127年~1279年

元代は1271年~1368年 明代は1368年~1644年 
清朝は1644年~1912年 中華民国 中国

下の画像は徐泰時が留園を描いた絵である。

徐泰時の死後、留園である「東園」も、
荒廃の一途を辿ったが、清代末になり、
劉恕の手によって改築され、東園から劉園へ。

その後も時の流れと共に人から人へと、
持ち主が入れ替わり、庭園もそのたびに、
改築されたが自然は変わらぬまま人を和ませる。

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「蘇州旅情45」

「中国写真ライフ」では、
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留園の資料室を過ぎると土産物売り場へ着いた。
外の土産物店とは違い、売られている品数は、
さほど多くはなく、目についた絵皿に興味がいった。

土産物屋で多く売られているのは、刺繍や書画、
また掛け軸など、特に多いのは紹介DVDや本など。

大きな陶器の皿に生き物の絵が描かれていた。
鶏の絵やカエルから魚など色々な絵が描かれ、
展示されていたが、清朝時代の陶器も沢山陳列。

写真の白い器肌にコバルト一色で絵模様を、
描き出したもので、白い器面によくうつる。

店の人は、この器は清朝時代に絵付け職人が描き、
これほどの筆遣いのものは、中々ないですよと、
勧められたが、偽物が横行するなか写真だけにした。

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土産物店を出ると出口で、少し離れた所に、
入口があったが、道に迷ったと言って、
再度留園の中へ入ってみると建物の位置関係が、
よく分かり苦笑いをしたものの、すぐに外へ出た。

留園から、さほど遠くない所にバス停があり、
留園から北寺塔まで行き、そこから15分ほどの、
私が宿泊しているホテルまで歩いて帰った。

時計を見ると、まだ4時前だったが、庭園周りには、
中途半端な時間であるし、虎丘へは翌日にして、
ホテルでシャワーを浴びた後、夕方の蘇州の街へ、
繰り出し、お酒と食事を十分に堪能した。

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「蘇州旅情46」

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江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

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宿泊している北寺塔の近くのホテルから、
徒歩にて北寺塔バス停まで行った。

ホテルからバス停までの道のりは10分ほど、
その道のりの歩道には、個人個人の朝市が出ていた。

もぎたてのトウモロコシや果物、マントウから、
健康食品まで、色々な物が並べて売られていた。

朝市の様子を見ながらバス停まで歩いたが、
思いのほか早くに着いた感じがした。

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蘇州游2線バスに乗り、最終駅の虎丘へ着いた。
私は虎丘の入口がバス停の近くにあると思い、
言われた方向へ歩いて行くと10分以上して、
呉中第一山と書かれたゲートへ着いた。

「東洋のピサの斜塔」と呼ばれる八角七層の、
「雲岩禅寺」がある「虎丘景区」の参道を歩いた。

中に入り少し行くと回廊の壁に虎丘の資料が、
ガラス張りの中に展示されていた。

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更に歩いて行くと、広場があり女子中学生達が、
ダンスをレオタード姿で練習していた。

広場から虎丘への登り道になる所に「虎丘剱池」と、
彫られた中を赤く塗料で塗られた岩を撮影した。

この付近に呉王の遺体が葬られ、副葬品として、
剱が3000本埋められたと伝えられている。

呉王の墓の建設に携わった千人以上の人が皆殺しに、
その血で石を赤く染めたという言い伝えがある。

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「蘇州旅情47」

「中国写真ライフ」では、
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春秋時代に呉の最後の国王であった夫差が、
虎丘に埋葬されたが、埋葬された3日後に、
白虎が埋葬した周りに出没していた。

白虎の虎にちなんで、虎丘と呼ぶようになった。

下の写真には「入解脱門」と書かれたゲートを、
潜りしばらく進むと虎丘塔が見上げるほどに、
目の前に広がり、そのスケール圧倒される。  

解脱に入るとは、煩悩の縛られた苦痛から、
解放され、安らかで自由な悟りの境地に、
達することであるが、煩悩から離脱しても、
一瞬であり、次の煩悩が待ち受けている。

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下の写真は虎丘塔で、別名「雲岩寺塔」と呼ぶ。
造りは八角形で七層になっている。

虎丘塔は、レンガで建てられたが風化が進み、
中国国務院や江蘇省また蘇州市の歴史建物の、
文化保存会では、宋代960年に建てられた塔の、
美観を損ねないように修復作業に当たっている。

虎丘塔の高さは48mほどあり15階建てビルの、
高さがあるが、地盤沈下のために、およそ、
400年程前から傾き始めたと説明にはある。

現在は禁止されているが、数年前までは、
2階までの見学は許可されていたという事だ。

だが、登る人数を制限して、一度に多くの人が、
登らないように係りの人がチェックしていた。

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「蘇州旅情48」

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蘇州市内バスの游1線と游2線共に、
蘇州駅から直通で虎丘まで行ってくれる。

タクシーに乗る必要は、あまりないと思う。
私の場合は、バスを利用して土地感覚を、
養いたい思いで利用している。

確かにタクシーを利用した方が例え寝ていても、
確実に目的地まで行ってくれる。

だが、バスの次は何駅と言うアナウンスを、
聞きながら目的地までワクワク向かうのも、
また一人旅の醍醐味である。

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上の写真は、虎丘塔に登ってみようと、
列を成し待っている旅行客たちである。

だが、登れるのは2階までで、それ以上は、
階段に鉄格子が置かれ鍵が掛けられている。

虎丘塔の近くまで寄ってみると新しいレンガや、
色褪せたレンガがまた時代を感じさせていた。

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私は虎丘公園を横切るように、反対側の、
虎丘入場入口まで歩いて来た。

虎丘塔もかなり遠くに見えるが写真でわかる。
外に出てバス停まで来たもののバス路線の時刻表も、
設置してなく、車で来ている人に聞いてみた。

私の次の目的地である盤門風景地へは、どのバスに、
乗ればよいかと聞いたところ、バスを3度乗換して、
行かなければならないと言われ、それに従った。
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「蘇州旅情49」

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当初の予定では虎丘から蘇州游2線バスで、
1回乗り継ぎ、目的地である盤門の予定だった。

だが、私が虎丘にて虎丘塔を見た後で、直ぐに、
引き返さず、反対方向へ歩いて行ったため、
バスの本数が少ない上、目的地へ行くには、
2回の乗り継ぎをしなければならなかった。

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虎丘から游2線バスに乗り、游5線に乗り換えれば、
盤門テーマパークへ着く筈が、バス路線も、
分らず、地元の人の案内で、心配いらないと、
言われたものの、その人は先にバスを降りてしまい、
この先6つ目か7つ目のバス停を降りて、
そこで、もう一度聞いた方がいいよなどと言われ、
着くのかという心配から不安に変わった。

横に座っていたご婦人が、何処へ行きたいのと、
聞いて来たので、盤門を告げると、友人に聞いていた。

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蘇州語で話をしているので詳細は分らないが、
あなた、モス少し行った所で降りてタクシーに、
乗った方が間違いないなどと言われた。

予定では虎丘から50分ほどで着く筈が、1時間半、
経ってもまだ目的地へ着かなかった。その時、
ここで降りてタクシーに乗りなさいと言われた。

タクシーに乗ってものの8分足らずで目的地へ、
着き、料金を支払うとき、何となくホッとして、
笑顔になっていたのか、運転手から、何か良い事が、
あったのですかと言われるほどであった。

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「蘇州旅情50」

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当初(秦)蘇州城の城門は8か所にあったが、
現在に至っては写真の盤門一つのみ残る。

秦代に建てられた城壁は、三国時代に破壊され、
宋代になり改修されたが、元のモンゴル時代に、
破壊され、明代に入りすぐに再建されている。

破壊と再建を繰り返してきた盤門だが、
現在では、写真の城門一つだけになってしまった。

文化大革命時代にも城壁が破壊されたが、
戦争のない今、盤門三景の中心的存在になっている。

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盤門三景は、古城遺跡公園としても知られる。
公園内は、きれいに整備されゴミ一つたりとも、
落ちてはいないほど、観光客の意識も向上。

盤門は陸門と水門に別れており、写真の錆びた、
鎖を巻きあげる道具は敵の侵入に対する工夫の、
一端であるが、古代の戦略が随所に見える。

下の写真は、ウェーディングドレス姿の花嫁の、
写真撮影であるが、中国では結婚式前に、
花嫁花婿の撮影にお金をかけている。

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