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ひとりの人間の中に、色々な人格があるのです。 人間とは、全くややこしい存在でありましょう。
2024.11.13
仏像の御眼はいずれも、薄目状態である。これを半眼と言うらしい。円らな瞳、カッと見開いた眼はない。尤も、密教系の明王像の怒りの眼はゾロアスター教の影響で、直接仏教の影響ではないらしい。 大きく見開いた眼でものを見ると、却って見違えることが多い。真実の姿は見えぬところにあるものだから、という教えらしい。 話もそうで、最近のもっともらしい報道、記事だけのことでも、我々はいかにいい加減な記事・報道が多かったかというのを今一度振り返った方がいい。 祈ることは、家族の健康ばかり、それ以外は神のみ心のままに…というF・キャプラの映画に出てくるセリフが昔から気に入っている。
2024.11.11
ブックオフの功罪はこれまで散々言われ続けてきたので今更であるが、街のこじんまりした個人古書店が一番割を食ったというのはどうやら本当だろう。ただ、人口逓減期においては、早晩のことだったというのも事実である。 小説を読む歓びもさるものながら、あとがきや対談集なんかも中々に興味深い。作品中ではうかがい知れない他の作家との交流や人間関係なんかもそういった形でしか知ることが出来ないから貴重である。 ブックオフで他のお客さん同士の会話を小耳にはさんで心が和んだ。オジン一年生と思しき人物が年嵩の女性とかわす会話である。「死んだ母親の遺品整理をしてましたら、池波正太郎の本が大量に出てきたんです。」と、それまで母親の趣味趣向を全く知らなかったとビックリしているのだった。「どれどれと、僕も読んでみたんですが、実におもしろいと今更ながら感心して」それから池波さんの他の作品を探して読んでいるという内容であった。 清少納言ではないが、本ばかりは簡単にできるタイムトラベルである。
2024.11.09
数日死んでしまったノラの仔猫のことで少し気が滅入っていたが、昨日ベランダをウロウロする生命体があるので何やらんと思えば、何とノラの風子である。お前さん、生きていたのかね。「♪死んだはずだよ~、ふう子さん~♪」と思わず口ずさむところであった。嬉しくなって、魚肉ソーセージを一本余分にやってしまった。 先日路傍で見た骸はどこのネコだったのだろう。この近辺のノラは風子と〇子さんくらいしか見たことはないのだが。もしかしたら、不憫に思った閻魔さんが帰して下すったのかもしれないと思うことにした。 ろくでもない人生を送ってきた身の上ながら、近頃は生けるものが全て愛おしく思えてきたのは、俺っちも随分焼きが回ってきたということだろうぜ。
2024.11.02
昔はTVの人気番組があると、銭湯がガラガラになったと聞くが、今やスパ銭にも大型TVはあるから、逆に人気番組などはスパ銭で見た方が更に気持ちが良かったりする。 あれはどういう仕組みになっているのか、スマホでもABEMATVとかいうのでお笑いやMLBの試合がタダで視れたりする。勿論権利の関係で毎回ではない。NHKがスマホでの番組視聴にも課金するという。されば、こっそりNHKの番組を見てやろうとすれどもちっとも叶ったことがない。ほんまに今現在地上波のTVの視聴が可能なのか?これからのことなのか? しかし、MLBと言うのは迫力があっておもしれえなぁ。俺っちの様な爺さんまでも、MLBの選手を随分覚えたよ。流石だわさ。彼らは自分自身で野球のエリートと公言するだけのことはあるぜ。勢いのある男の活躍はおもしれーぞ。こんなことを知ったのも、それもこれも大谷君がアメリカに行ったおかげだよ。 この数日、ノラながら可愛がっていた仔猫が路傍で骸を晒しているのを発見して気が滅入っていたが、少しは気の晴れることである。
2024.11.01
双葉のまだこの世を愉しまずして去りんぬ 汝子猫他人呼んで風子、思ひは残ろう されど所詮すべてのものは限りあるもの 残るものとてやがてはゆく道 少し早きか遅きかだけのこと 先に行きて待てかし
2024.10.30
どんな大企業でも、初めは創業者の一室から始まったのである。そこから上場までの過程を想像してみても、猛烈で、苛烈で、ダーティーだったことは容易に想像がつく。勲一等は、創業時から上場までの従業員にあるのではないかと思ってしまう。 近所に上場企業、優良企業の本社・工場がいろいろあるが、何れも近頃は見栄えが良くなった。会社の見栄えなんかどうでもよく、要は製品の質でございましょう!という野武士的な姿勢はもう時代遅れなのかもしれない。詳しくは避けるが、戦前の歴史的兵器の一部品製造だけに特化した企業も近頃は新社屋を建設中で少しがっかり。これまでの古びた社屋が質実剛健という雰囲気を醸し出していたのだが。 社宅・独身寮・給食室のある企業と言うのは、やはり若い人には魅力的だろう。近所の優良企業の本社工場の給食室からは、いつも魅力的な芳き香りが漂ってくる。
2024.10.25
わが苫屋にも非常に簡便なる浴室はあるが、初老ひとりばかりが入るくらいなら銭湯の方がどう考えても都合がよい。昔ながらの銭湯でもよいし、スパ銭でもよいが、足裏にジェット水流を当てるのが非常に心地よいので、好都合な銭湯を選好してしまう。 諸経費高騰の折、銭湯も随分値上がりしたが、こればかりは仕方がない。家人に言わせると、鶏卵も米価も着実に高騰しているそうだ。そりゃ、そうだろう。わが年金も僅かばかりは上積みされたそうだが、物価の高騰には到底追いつかない。追い付かないのに、先に金融増税をすると宰相閣下は宣う。ちょっとセンスのないお方なのだろう。 当たり前のことながら、10月の後半になってやっと涼やかになった。少し早いが、首にはタオルを巻いておく。風邪ばかりは憎々しいので対策は怠るなかれの精神である。
2024.10.23
家人は貧乏暮らしに慣れておるし、生意気を陳ぶれば家長が不機嫌になるのは分かっているからだろう、余り食には文句を言わないが、当の家長も今年のサンマが余り美味くないのは承知している。何だか痩せっぽっちで今一だが、去年だか全く払底してなかった時のことを思えばと、黙っておったのである。ところが、昨日ラジオを聴いていると、悪口大好きメッセンジャーが同じ思いを述べて居ったので、小膝を叩いて合点した次第である。思うことはみな同じであるようだ。 やっと涼やかになって、嬉しいことの一つは熱い茶やコーヒーが美味いことである。暑い季節は冷たいお茶がどうしても必要である。淹れ過ぎない茶やコーヒーが実に美味い。出来れば上等なものが良いが、無理は言わない。 伊達政宗の言葉だそうだが、「この世に客に来たと思えば、不平は言えまい」が俄然気に入っている。不平はなければ人間の進歩はないが、多すぎる不平は身を亡ぼすのである。多少の不自由は受け入れねば、世渡りは出来まい。
2024.10.20
言葉は変遷するんだからいい悪いはないと言う立場だが、「ドヤ顔」だけは何か下品でイヤだ。同じ意味で「したり顔」でいいんじゃねえのか?
2024.10.18
「他人んちにお呼ばれすんのに、ケーキの2~3個は買っていくでしょう?先生のお宅にお邪魔するのに羊羹やカステラくらい持って行くでしょう?だったらお寺や神社にお参りするのに、賽銭は最低500円でしょう」とは旧竹田宮の恒泰さんの言である。 竹田さんは麻生さんと同じで、生まれが高貴だからだろう、敢えて下卑た言動をする。全面的に肯定するわけではないけれども、この言はしたり。令和の御代になっても、財布から5円を取り出して喜捨する人がいるが、あなたねぇ~、今どきバスに乗るのも200円からよ~と言いたいのであります。
2024.10.16
高校に入って間もなくして泊りがけの研修セミナーという名の、一種の馴れ初め行事の様なものがあって、神戸は摩耶山中腹の通称マヤカンに出かけた記憶がある。それが摩耶山に登った最後である。マヤカンとは、摩耶観光ホテルの略称である。今では廃墟となっていて色々な意味で喧しく人口に膾炙する場所である。 定年退職組が暇にかまけて、父祖の地を訪ねてみたくて、摩耶山登頂を急に思い立ったのである。高校時分と変わってしまったのは、こっちは心臓病が顕在化したことである。子供のころから何度も登った山であるから勝手は知っているが、今ではこっちには事情というものがあるんだから、西灘からは坂バス、ケーブルカー、ロープウエイと文明の利器にすっかり頼り切った行程である。 山上から天上寺までは流石に歩く。山門からお寺までがこれまた大層な階段攻撃である。近頃では自転車にも乗らなくなったからこれだけでも身体に堪えた。境内には渡り蝶が飛来する時期というので写真マニアが大勢でびっくりしてしまった。宗教的因縁のない人たちだから、賽銭も入れていかない。寺としては全く迷惑な「客人」だろう。 今回はリハビリの第一歩で、ケーブルにロープウェイ利用と全く情けなかったが、そのうち昔日の様に文明の利器否定を高らかに謳えるようになりたいものだと祈念するばかり。
2024.10.15
Z世代と言う言葉をよく聞くが、何のことはない。生れた時からネット環境がある世代と言うほどのことだそうである。専門家は別にして、ウインドーズ95とか98が爆発的に売れて、世間にインターネットが普及したんだから、30歳以下の総称でもあるということだ。 生まれる時代ばかりは自分ではどうしようもない。少しばかり羨ましいのは比較的簡単に調べ物が出来ることであろうか。俺たちジジイの時代は、百科事典と首ったけで調べても、時代の齟齬があったりで調べるだけ徒労というのも多かった。 耳の底に残った言葉があって、無性に気になることがある。その一つが「ユングフラウ」。そうかドイツ語だったのか。そりゃ全く分からんわけだ。我が生家は貧しかったが、それでも昭和50年代も後半になるとやっと海外旅行へも行けるようになった。ということはそこそこの階級なら昭和50年代なら海外旅行へ行けたということである。 兼高かおるや開高健はその魁、パイロット役となったのである。この世代の人たちの語感とは、また違ったものがあるようで、どうやらその一つが「パタゴニア」であるようだ。というのが、いま80歳代の先輩方の書棚を見せてもらうことが多いのだが、どの人の書棚にも、パタゴニア関連のものがある。このワードは今の日本人にとっては凡そ死語の域であろうが、年配者にとっては、ある種の桃源郷のイメージなのかもしれない。
2024.10.12
世の中は単純でいい。公園なんかでサッカーをする子供ばかりで、草野球やキャッチボールをする子供の少なくなったを嘆いたが、近頃では拮抗してきたのは大谷選手の活躍だろうとみている。まことに結構である。 結構ではあるが、危惧もしている。大谷選手に続けとばかりに、日米共にツーウエイプレイヤーに挑戦するアマチュア選手が増えてきたのである。 次元の違う才能・出来に接して言葉を失う最上級の誉め言葉に、「頤を外す」というのがある。頤とは顎のこと。顎が外れて、言葉が出てこない状態である。大谷選手の存在がそれであろう。ツーウエイプレイヤーはこれからも出てくるであろうが、その誰しもが大谷選手と比べられてしまう。そうなっては、不幸であろう。勝てる訳などあるはずがないからである。 大谷選手は、ただ愉しんで見ておるだけでいいのである。
2024.10.07
一体全体、日本人は馬鹿になったのか?新紙幣が発行になったら、これまでの紙幣が使えなくなるのか?だとか、新紙幣との交換を求めて銀行窓口に殺到するとかを先月か先々月に耳にした。いまでは誰も言わない。コメがスーパーの店頭から消えただのサンマが高いだの安いだのと大騒ぎをする。日本人はどうかしてしまったのか。 若い人なら経験値が少ないからそんなこともあろうかとも分かるが、いい年をしたオジサンオバサン迄も同様である。面妖である。どうかしてしてしまったのか?日本人。 経済成長やら偽造防止から紙幣は一定期間で切り替わる。板垣退助の百円紙幣、岩倉具視の五百円紙幣は消えた。千円・五千円・一万円紙幣も我が人生だけでも何度も変わったが、それまでの通用紙幣が無効になるだなどと思ったこともないし、噂になったとも聞いたことがない。それが令和の御代になるとニュースになる。老人たちもいそいそと交換を求めて銀行窓口に並ぶと聞いた。新紙幣なんぞこれからいくらでも出てくるのに。日本人は退化してしまったのか。 夏の終盤に、コメ不足が聞こえた。不足なのに政府が備蓄米を放出しないと不平を言う馬鹿なコメンテイターもいた。若い人なら知識がないのもしょうがないが、初老以降ならもう数週間で新米が出る時期だと分かろうと言うものを。スーパーでお婆さんが血相を変えて求めているのを実際に見て、ビックリしてしまった。この端境期に昨年のコメを高値で買う馬鹿を知れば、ご先祖はさぞかし悲しむであろう。 サンマが高い、キャベツが高いと不平を言う。こんなものは相場があるんだから、安くなれば買う。高ければ遠慮をすればよいのである。 日本人は、バカになったのである。
2024.10.04
国威発揚などを政府が音頭を取ってせねばならぬ状態は、まだ後進国であろう。先進国は、自ら先進国でございなどとは言わぬものである。シナやコリアなどはまだまだでござる。うちの方言で言えば、彼らはまだ「ジゴロ」である。 まぁそうは言ってもわが国も余り大きなことは言えない。我が国の’70年代にも最早欧米から学ぶものはないのだと豪語するバカはいたもんだ。’80年代には”Japan as NO1”なんていうアメリカの書籍に煽てられ浮かれた連中がいたのは記憶に新しい所。 俺っちが若い頃は円高で、輸出企業が円高不況だと言われたもんだが、生活水準は今より悪かったような気がする。いまや円安でアジア諸国からも不憫がられて、それにヒクヒク呼応したかのように日本のマスコミも円安をやたら悪者にするきらいがあるけれども、生活は格段に向上したのである。スイスなどでは公立学校の平教員でも月収60万円あるけれども、物価も比例して高いから節約しても殆ど貯蓄は出来ない。米国でも時給2000円あるのだろうが、ラーメン一杯が3000円と知れば、単純に日本ばかりがダメな訳ではないとすぐに分かりそうなものである。 非学菲才の若者は、世の中を分かった上で発言されよ。
2024.10.02
たまたま植え込みに姿を見せたノラの子猫に竹輪を投げてやったがキッカケで、近頃はうちのベランダに上がり込むようになった猫を名づけて「風子」と呼ぶ。来るときは日に二度三度も現れながら、二日三日と姿を見せぬ風来坊の不良少女に因んだものである。 どうやら猫の世界でも情報の伝播があるようで、近頃もう一匹のデブ猫も現れるようになった。因みにこの猫は太々しい風体から「〇子」さんと呼んでいる。〇子さんとは、我が遠縁の百貫デブのおばさんに因んだものである。 腹をすかしたはずの風子が、餌を残してそそくさと去ったことがあった。暫くして〇子さんが現れた。どうやら風子と〇子さんは犬猿の間柄だと知った。 そりゃ、猫の世界もいろいろあるんだろう。
2024.10.01
ドジャースの大谷君の活躍をニュースや動画で知る。陋巷のジジイがいちいち歓喜するのも今更と思うので控えるが、やはり好きこそものの上手なれと言うもんだと改めて納得するわけである。 彼の成績は、やはり優れた体格から生まれるものであるのは当然ながら、半ばはセンスなのだろうと思うことである。センスばかりは先天的なものである。その先天的なものの上に、工夫や努力が積み上がるんだから凡人には遠く及ばぬものになるのである。 お笑いグループ「ロバート」の秋山君なんかも、あの芸は半ば天性のものだろう。それに工夫が加わるから、余人には及ばぬ芸となってしまう。「ロングコートダディ」の堂前君なんかも同様のことだろうと思われる。 天賦の才を持ち合わせながらも、朽ち果てる人のなんと多いことか。努力をなさいませ。
2024.09.24
総論に合意はすれど、各論には異論があるというのは当然のことながら、一時はこの御仁の言説はなかなか傾聴に値するじゃねえかと思うことがあっても、ある時期を境に首を傾げるようになる場合もある。主因は年齢かもしれない。 わが師は、上智の渡部昇一さんと共に保守論客の代表的人物でもあって、頭脳は相当に切れたが晩年は確かに可笑しな言説も多かった。それからも分かるように、人間は高齢になると頭脳は退化するということである。こればかりは例外はないと思った方がいい。 人間は60歳以降は、やはり身を退いた方が賢明だ。この世は若い人たちのものだ。老人は、家庭菜園でもやっておるのがよろしい。
2024.09.21
客観的に、今の俺っちは経済的に中の下である。それでも両親が所帯を持った頃の話を聞けば、随分と出世したものである。逆に言えば、この程度になるのに我が家は二世代を要したことを思えば、可憐すぎるほどでもある。 貧と言えば貧であるが、それでもマッサージチェアくらいなら無理をすれば買えぬことはないので、この際無理をしてみた。高齢の尊属とこれまた卑属ながら肩凝りの馬鹿タレがおる所為である。 買うのに随分と逡巡した。値段は一度きりなのでいいが、随分と重いのと場所を取るのと処分する時に一苦労するのは想像に難くないからである。もっと言えば、使用頻度が低くなって取り込んだ洗濯物の避難場所になってしまいそうな気が多分にするからでもある。 さてどうなる事やら。活躍を期待する。
2024.09.17
ままならぬのが人生である。努力がすべて報われるなら、こんな楽なものはない。写経に明け暮れ、念仏を唱えて道が開かれるなら、こんなに楽なことはない。
2024.09.11
天然自在に生きるのが猫の特徴のようだ。ベランダに日に2度3度と現れる日もあれば、二日ほど全く姿を見せぬ日もある。用意してあったカリカリを食えば、叢の蝶を追いかけ、木によじ登り、それも飽きると人間の背丈以上もある塀に平気で飛び乗って何処かへ出かけてゆくのである。その身のこなし、若さ、何れも実に羨ましい。 うちのネコでもないのに、その容姿の愛らしさは堪ったものではないのでスマホで写真に収めたが、残念ながらここに添付するスキルが当方にない。その老体に慚愧すべきものあり。 少年老い易き…とは実に名言。この世は若い人たちのものである。老体は、余程の間違いがない限り黙って後見しておけばよろしいようで。
2024.09.10
気まぐれに日に一二度、我がベランダにひょっこり現れて、餌を求めにやってくるようになった野良猫を名付けて風子と呼ぶ。両目の色が違っていて中々エキゾチックな女の子である。うちの婆さんは、孫かひ孫のつもりなのか、随分高価なカリカリを用意している。 猫の方は、こっちの懐事情なんか知ったことではあるまい。食うだけ食うと会釈も挨拶もなく、街路樹によじ登ってゆく。食に飽き足らず、蝉でも所望かと見ておれば、どうやらあれは爪とぎの一環のようである。 猫とは暮らしたことがないから、色々新鮮なことである。
2024.08.26
もう随分とPC用の背面の長いオフィス用の椅子が欲しいと思っていたが、今あるものが使えるうちは贅沢なような気がして躊躇っていたのである。 この度勇気を振り絞って、通販で所望の椅子を買ってみた。一部は自分で組み立ても必須ながら、快適さに感心している。こんな値段で躊躇うのは馬鹿げていた。 長年、最後の方は意地になって、エアコンを買わず、使わずのつもりだったのを諦念して使ってみての感想と全く同じことだった。 なに、掛かる費用なんて言うものはたかが知れている。最先端なんかは分からぬことながら、世間の人が10年前くらいから平気で使っているものは、躊躇せずに使ってみるが宜しい。
2024.08.22
若い時分は多分に多感である。長じて沈浮は世の常と諦観できるが、幼い時は自身の家庭が貧しいのが羞恥の秘部であった。 三代続く分限なし、三代続く貧乏なし、と言うがあれは本当である。富貴が没落し、寒門が後に隆起するから人生は面白い。そういう意味では、普段は憎悪の対象としている日本の税制も案外正しいものかもしれない。 どうやら我が先祖に村の中ではほんの少し金満と言う程度の者がいて、進んでか乞われてかは不明ながら金貸しをしていたらしい。支払いのできぬ者から田畑や山林を対価に取っていたらしく、それがいまだに我が家のものらしい。尤もその時その時で相続登記を敢行していけば、いくら田舎の土地とて何とかなろうが、当時の登記のままであるから、今となってはもうどうしようもないそうである。 我が従兄弟に変り者がいて、田舎の土地の登記状況を調査したらしい。4代前から相続手続きをしていないから、その時代の兄弟の卑属全員の承認を貰わねば、相続登記も売買もかなわぬということらしい。そんな報告を聞いて、すっかりと呆れ果てたここ数日であった。
2024.08.16
ほんの偶さか目覚めて牛丼屋の朝定食が恋しくなる。まだ6時にもならぬ時間ながら、案外先客がおるものだ。そして意外に若い女性も多い。始発はもうとうに始まっている。夏休みの思い出作りか、朝帰りの女子高生らしいグループもいる。 俺っちからすると孫のような年頃だが、「ウンコしたいから、食券買っておいて~」と言ってトイレに駆け込む女の子がいる。こういったシシュエ―ションに近頃遭遇することが多い。これで分かるのは、俺っちはもう若い女の子からすれば恋の対象なんかでは毛頭ないことだ。余りに腹立たしいから、この女子がトイレから出てくるところをしかと見届けて、顔を拝見してやった。下膨れの可愛い女子高生のそれであった。 若い時分に何の間違えか学校に奉職したことがあった。その頃でも女子高生は教師なんかは恋愛の対象ではないからか、あけすけに裏の事情まで語り始めるのでびっくりしたことがある。いかにオッサン相手で、ジジイ相手でも、もう少し恥じらいがあった方がいいよと、小さな心で言っておく。
2024.08.08
口だけは達者だが、その実なにも自分からは行動をしないのを、罵って「言うだけ番長」という。まぁここまで言っておけば、自分でもそういう人物は馬鹿にされるのだというのを分かっているのだと言うくらいは分かって貰えると思う。 金満家になりたい。寄付などが定期的に無理をせずにできる程度の金満家でいい。寄付と言っても、ある研究者の研究だけを応援したいのである。あぁ~、金満家になりたい。尤も今でも細い応援ならできる。出来るが、研究費の捻出にいまだに研究者が苦労するほどだという状態は宜しくない。そんな捻出に苦労せずとも好い環境の提供をしたいのである。 研究とは実にカネのかかる事業なのである。
2024.08.05
ここ最近の酷暑の上に、額にしわしわ波の寄せくる年頃となりては、日盛りはエアコンを除湿モードにして冷した部屋でゴロンゴロンと怠惰に暮らすより術はない。 それでは日々の暮らしが成り立たぬと言うても、掃除などぜずとも死ぬわけではなし、他人が訪ねてくるではなし。片付かぬ住まいとて生きてゆけるものだと思い定めて生きるよりしょうがない。 なに、年金暮らしのジジイの一年生でも、朝ばかりは元気だから、5時から7時までと限って、金魚の水槽の掃除や洗濯ばかりはやってのける。セブンのおにぎり2つを食って、朝はこれにて終了、後は怠惰に生きる。
2024.07.30
竹輪を求めて時々我が家のベランダに姿を見せるようになった猫を名付けて風子と呼ぶ。か細い鳴き声で、見ればなかなかの器量よしである。人間なら、田中律子のような美人に違いない。 前世は余程に徳を積んだと見えて、あちこちでお婆たちがこの猫に手招きして声をかけているのを見たことがある。ウチになんか来ずとも食いっぱぐれはないようだ。やはり器量よしはケダモノの世界にあっても得だと見える。 ウチの婆さんは、可愛いが餌付けなんかしてご近所に苦情でも言われては難儀だと心配していたようであるが、うちのベランダに上がりこんで、撒いた竹輪を勝手に食ってゆくだけから心配は無用だと言ってやったら、安心したようだった。 婆さんになると、心配と暢気が逆転していて困ることである。
2024.07.17
何をする気も元気もなくなって、だらしない日々を過ごす。別段どうという目的もないのだが、一般の読者向けに砕いて書かれた「孫子」の一章を少しづつ読んでみる。 戦争というのは、国力を相当に損なう。金品も人命も。しかしながら、戦争せねばならぬ時も当然に起こりうる。街にはならず者というのが当然にように湧いて出るように、国家間においても同様なことはしばしば起こるのが普通だからである。こういった事態に、暢気なことを言うのが共産党や社会党である。 万が一にも戦争せねばならなくなった場合には、当然勝たねばならぬ。勝算のある戦争をせねばならぬ。そのためには軍事力増強であろう。 保険は手厚い方が安心であるのと同様で、軍備は他国より優位であるに越したことはない。無差別殺人者が時々現れるが、被害者は決まって女性や子供が多い。犯罪者は、見るからに格闘技経験者の様な大丈夫にはかかっていかないのと同様な理由からである。 バカを制するのは、やはり大丈夫なのである。
2024.07.14
季節の変わり目は、尋常ならざる荒天になることが殆どである。この梅雨も台風も各地に甚大な被害をもたらすことが度々あるが、この雨で国土が、国人が、潤っていけるのも事実なのである。 時々老後は、海外移住をしたいなどとのたまう各位もおられるが、どうぞご自由に!われはこの国土に生まれて、この国土に生きてゆくより他にないと信じる者である。万が一に将来荒廃したって、小松左京が描くように沈没したって、この国と運命を共にするつもりである。 ベランダ前の植え込みに時々は姿を見せるようなった野良猫に、刺身の切れ端や竹輪を気まぐれでやってみれば、日に一二度は姿を見せるようになった。まだまだ警戒していて、近づき過ぎると逃げてしまう。しかし、腹が減ってどうしようもないと言うのもあってこちらが身を引けば、身軽にベランダに上がり込んでくる。 当地、昨日より雨続きで特に今朝などは大雨だ。風子と勝手に名付けた子猫も腹が減って難儀しておるだろうとおもうが、こればかりはどうしようもない。
2024.07.12
「お~いお茶」を買ってみたら、ラベルが大谷君バージョンである。例の俳句コーナーも大谷君の作で「いつの日も 僕のそばには お茶がある」。王者ぶりで、上手いことつくってやろうという作為がまったくないのが実にいいのである。 昭和天皇が初めて新幹線に御乗車あそばされたのが、昭和40年。この時のご体験からの御製がある。 「四時間にて はや大阪に着きにけり 新幹線は すべるがごとし」 陛下らしいまさしくの王者ぶり である。謡曲『高砂』が御心に浮かんだのではないか。 近頃は、何事においても皆が巧者になってうまさを競うようになってめでたいことじゃが、作為のない大らかなさまも実に良いものですよと小さな心で言っておきたい。
2024.07.11
貯めてあった落語のCDでも聴いてみようと思ったが、そういえば今のノートパソコンになってからはCDの挿入口がないことに今頃気が付いた。昔に買ったどでかいCDコンポもとうの昔にない。卑属に量販店で探してきてくれと頼んでみたが、もう肩で担ぐような昔日のCDラジカセはないらしいと知る。そんな馬鹿なとネットサーフィンして物色してみたが、どうやら本当のようだ。 CDの再生・AMラジオだけが愉しみという世代はどうしているのかと言えば、どうやら小型のCDラジオだけは、ジェネリック家電として中小メーカーが細々と作っていたり、ソニーや東芝、パナソニックも一応申し訳程度に販売しているのだと知った。当然のことながら、前者は6000円前後、後者は1万円前後が主流のようである。 書籍は電子化すれば、紙の書籍化に比べて3割ほどの低価格で販売できるそうだが、今後の新刊分は可能ではあろうが、本当に読みたい過去の分すべてを電子化できるわけもない。さればオンデマンド化となるが、これはこれで非常に高価になろう。しかも、値が張った割には、出来は非常にチープさを免れない。 出版業界にせよ、音楽業界にせよ、昭和末期の方が面白かったような気がする。
2024.06.28
尤もこれまでもあったのかもしれぬが、近頃顕在化してきたのが、アレルギー体質である。まさかこの自分にこんな弱点があるとも思ってみなかったので、自分自身で軟弱な身体にすっかり呆れているところである。 ここで言っておきたいのは、メーカーの責任では全くないということである。善悪などはない。アレルギーに関わらず、合う合わぬというのは何についてもある事だという程のことである。 グリコの『アイスの実(グレープフルーツ味)』 ロッテの『クランキチョコ』 喉の奥が強烈に痒くなり、ひいては下痢になるという症状。初めは、急に風邪でも引いたのかと思ったものである。何度も言うが、メーカーの責任ではない。アレルギー体質を持ったこちら側が袋記載の成分表を確かめなかったのである。もっと言えば、自分がアレルギー体質だということさえ認識していなかったのではあるが。 全くつまらぬ人生になった。
2024.06.26
すべて投げてしまっていると言えば、なんだかシラケ人生のようで斜に構えた人間のように思われるのはイヤなものであるが、実際個人がいくら肩を怒らしてみても、濁声を枯らして叫んでみても、世の中はピクリと微動だにしない。株式投資にしたって、為替相場にしたって、個人の力ではどうにもなるものではない。 こう言ってしまえば、何とも無機質で、参加の意味もないようにも思えるが、さにあらず。個人の取れる対策は、出来るだけ安値で拾って、あとは知らぬ顔の半兵衛を決め込むことだわえ。 色々な勝負のし方があって、優劣をつけられるものじゃあないけれども、俺っちはインカムゲイン礼賛型だ。参加者が怖がって手放す局面で、コッソリ買いを入れるのである。底だと思ってもまだまだ下がる局面もあるはずだから、数回に渡って買いを入れる。参加者は皆、動向に不安だから報道なんかも論調が暗いけれどもそこが、胆力の試され時である。 あとは、ず~っとほったらかしである。なにもしない。 取引の回数は恐ろしく少ない。良いか悪いかはわからない。これしかできぬから、こうやって生きる。
2024.06.21
犬ばかりは十数年飼ったことがあるが、猫は全くの門外漢で、マタタビやチュールが大好きなことくらいしか知らない。 この春ごろから、植え込みの中に時々は現れるようになって、ご近所に見つかれば叱られることながら、気まぐれで竹輪を投げてやったら時々姿を見せるようになったというのが、馴れ初めである。 はじめのうちは距離を詰めたら、警戒していたのだが、一メートルくらいまでは近づけるようになってきていた。よくよく見たら、ノラながら実に綺麗な子猫である。人間ならかなりの別嬪である。尤も性別は分からない。 昨日から姿を見ない。ノラが見えないねと言うと、家人が犬と違って猫は風来坊だから、またそのうちやって来ますよと言う。そんなものなのか。だったら、ノラながら風子とでもなずけておこう。風子や~い
2024.06.19
バスや列車を使ってもよいのだが、この度は卑属も着いてくると言うので、安心して自動車で温泉旅行に出掛ける。卑属の運転する自動車なんて恐ろしくてたまったもんじゃないと思っていたが、豈にはからん、安全運転で、婆さんも安心だったと後に言う。 東の草津、九州の別府などもよいのは分かるが、やはり自動車で数時間と言うのでなければ、なかなか体力的にもしんどいのが正直なところ。されば、やはり関西圏の温泉地が第一候補先になるのである。 去年に引き続きの宿で、別段趣向もあったものではないけれども、逆に勝手は分かっている安心感もある。 外国人が大挙してやってくる場所なんか真っ平である。金満外国人に狙われていない鄙びた温泉街が一番良いと思し召せ。
2024.06.17
場所は大阪梅田。平日ながら正午前のデパ地下は大賑わいである。金満家は実に多いのである。 昔々の大王は、小高い丘にお登り、国見をなさり、立ち上る炊飯の煙を見ては、「民のかまどは賑わいにけり」と嘉されたと漏れ聞く。国力の衰退時には、茅茨を剪るをお許しにならなかったと聞く。帝王のあるべき立派なお心掛けかと思い奉る。 今我が国は、世界有数の経済大国である。その国の大王御一族の暮らしぶりは誠に慎ましやかである。左掛かった人々は、それでも庶民と比較して容喙して、不経済を叩いて攻撃するが、全く世の中が分かっておらん。 大王家の人々が、庶民と同じものをお召しになったりすること自体が、お気の毒なのである。よいか。上場する不動産屋の末席役員でも年収なんか平気で一億円なんか優に超えている。経済大国の数少ない宮様方の維持費など些少に過ぎるのである。 バカは口を慎むのが良い。
2024.06.07
江戸時代の商家では、息子が二十歳にもなろうもんなら若旦那にして、親旦那は隠居してしまったようである。四十代のご隠居なんていうのは、いくらなんでも若すぎるが、若旦那修業を監督もできるし、自分の代からの番頭さんも健在でバックアップもできる環境づくりは、継続組織の安寧装置だったものと思われる。家庭でも商家でも、実に3代続けるのは中々難しいものなのである。まぁだから、世の中はやってられるともいえる。大きな家が没落して離散し、また逆に寒門が富栄えたりするから、世の中は面白い。 関西の一陋巷に知る庶民のなかの金満家の話を聞けば、その殆どは元貧家の出である。親兄弟すべてが貧しくて義務教育を終えるや、住み込みや寮に入って社会生活の第一歩を始めたというのが殆どである。そこからの苦労譚は止す。子供の時からの貧乏暮らしにはホトホト飽き飽きしているから、それが原動力になっているのが共通点であるが、面白いのは、同じ貧乏暮らしをしたはずの兄弟姉妹たちは金満家にならなかったという点である。されば、やっぱりここでも「運」だということである。
2024.06.04
これほど簡単な家庭菜園と言うものはなかろうというのが、ジャガイモ栽培である。植えたら、植えっぱなし。ソ連崩壊後の経済混乱の中で、特に年金暮らしの高齢者などは困窮して、支給の年金ではソーセージの一本も買えぬのだとかいう話も漏れ聞こえたりしていたが、その真偽は今も分からない。ただ、困窮していたのは容易に想像は出来る。社会混乱時に、年金受給者に手厚い施策なんか取られた例は、時代と国境を越えて絶対に「ない」からである。ジャガイモは少々環境が悪くとも育つのだという証拠に、ソ連崩壊時の混乱のなかでも、庶民の食卓を支えたというのを、旧ソ連のYOUTUBE動画で知った。さもありなん。 畳4枚分ほどの狭小菜園に、この春にジャガイモを植えておいた分の収穫である。我が家の、初夏のカレーライスやポテサラに変身する。己の拵えたものは実に美味である。 増長なのか老成なのか、はたまた負け惜しみなのか分からぬことながら、貧しき子供時代に食っていたものが今でも実に美味いことである。
2024.05.27
新聞は取らぬ、TVはもとより無いと来た日にゃ、世間様のことは全く分からぬようになるのも無理はない。ほんのたまに聞くラジオで、Z世代というワードを知るが、どうやら生まれながらにインターネット環境が存在する若い世代のことを言うらしい。 当方は阪神地区のど真ん中に棲息するつもりだが、うちの近所のZ世代は俺っちの頃と同じような遊びをして実に五月蠅いことである。モバイルゲームやPCゲームの果てはやはり終焉があるのだろう。はたまた、うちの周りだけが特に時代遅れなのかもしれない。 なに、時代遅れだって何だって、健康が一番だわさ。元気なら、それでいい。
2024.05.21
話し上手の人の特徴として、独特の価値観、思考回路、史観と言うものがある。学者先生の話とは、根本的に依って立つところが違うというのを理解せねばならない。 時々、司馬遼太郎をこき下ろす人がいらっしゃるが、それは小説家だというのを忘却しているからであろう。谷沢永一はかつて「司馬遼を論じてはならぬ。愉しめばそれでいいのである」と断じた。それと同様に理解せねばならないのが、橘玲という御仁である。 この人は、小説家である。学者先生ではない。この人の優れている点は、人間にさほどの期待をしていない所にある。鬼神を語らない所にある。当方が、橘玲を推す理由はそこにある。
2024.05.10
証券会社などは、ちょっとした小金を持つ階層にもいい気持ちにさせて投資させるべく準富裕層だ、富裕層だ、といっておだてようと躍起だが、1~5億円の金融資産が富裕層と言うのは現在では全く的外れで、令和の御代においてはやはり10億円以上が富裕層であろう。1億円ほどをまあ上手く運用しても得られる利子や配当金は、ひと月30万円にもならないからである。これでは旦那業は務まらない。 何の生産活動をせずとも、ひと月300万円の「あがり」があれば、それはやはり富裕層であろう。
2024.05.07
「人間が歩く道」で「歩道」と言う。自転車はまさしく「車」だから車道を走るものなのである。されどそこは、それ融通があって、子供と老人は動きが緩慢だろうから自転車でも「歩道」を走ってもよろしゅうございます、となっているのである。 ところが、いつも間にやら「歩道」を自転車の通行OKのようなカン違いが横行して、電動アシストの重装車や高速運転の若者が通行して平気な顔をする世の中である。そりゃ、事故も起こるべくして起こるのである。
2024.04.30
こちらがいくら気を付けていても、難儀は向こうからヒタヒタと忍び寄ってくるものである。 難癖。借金の申し込み。事故。病気。まったくイヤなものだ。 テーブルワインの首に「レシートの送付で100円もれなくご返金!!」との札がぶら下がる。帰宅して、QRコードを読み取って操作を進めていると、クレカの情報を記入せばならぬと知って疑問噴出。100円ばかりの報酬で、こちらの大切なクレカ情報を聞き出そうという体の良い一種の詐欺ではないかと思い至る。馬鹿々々しい。メルシャンさん、おかしな企業と組まない方がいいですよ。 スマホの通信会社にしても、新規加入者は半年間激安!!とかにも要注意。結局は通信会社が損をせぬように仕組まれた罠である。ソフトバンクにしたって、AUにしたって同じ事。なに、この俺っちが実損を被ったんだから、いくらでも証言してやる。 通信品質をあまり問題にせぬなら、楽天モバイルが一番だ。「トク」もないし、品質もあまり褒められたものではないが、止める時に余りストレスがない。ストレスがないというのは実は有難いことなのである。
2024.04.11
つらつら思うに、イヤなことも言われたし、された記憶もあるけれど、自分だって言ったし、して来たに決まっている。そんなことも、あんなことも、すべては忘却して生きるのが一番だ。 禅宗では、「不思善、不思悪」という教えがあるそうで、これは尤もなことである。
2024.04.09
人はそれぞれ価値観が違う。そして変わる。当然である。だからいいのである。 俺っちは心臓があまり良くないから、ほんの少しだけ早めにリタイアした。本当は椅子が無くなったから、いっその事と身を引いたというのが本当である。幸いなことになんとか暮らして行ける目途があったためでもある。 群れたいのに遊んでくれる友人がいないのは寂しくもあるが、居たら居たで所詮は気に入らぬところが出てきてイヤになるのがオチだから、所詮人生は一人きりと諦観して生きてゆくよりしょうがない。 人生の意味などあまりない。方丈の部屋の炬燵に脚を入れて、昔々の本を読んで暮らしてゆくのにかかる銭などタカが知れている。
2024.03.25
ネットオークションに時々参加してみたりする。売るのも買うのも、である。お店屋さんごっこと言うので、先ずは楽しい。弘法市の様なものである。玉石混交。目利きが必要であるのは当然のことながら、そこまでカンカンにならずに、気軽に参加している。 オークションの面白さは、通常価格から乖離して異常なる安価で買える時がある事である。全二十巻完結の全集の1冊が欠品しているものながら、この時は市場価格の十分の一程度で落手した。勿論いずれは何処かでその一冊だけを入手せねばならぬし、単品購入は往々にして割高になるもんだが、コレクターではないので、気長に探す心算である。その前に十九冊を読破できるのかが問題である。 売る方の要諦は、買い手が実際に手に取って実見できるわけではないから、出来るだけ正直に、とくに欠点がある場合は先に洗いざらい開示しておくことである。なに特別に下手に出る必要もない。そのくらいの欠点なら許容範囲だという人もいる。そんなのは欠点ではないと言ってくれる人もいる。売り買いに上下はない。ただ、嘘はいけない。たったこれだけで、そうそうトラブルなんてあるもんじゃない。 この世には変わった人がいるのも事実である。学校時代を思い出してみれば、関わったら難儀をするという人が何人かは絶対に居たのである。あんな難儀な人が、社会のどこかに紛れ込んでいる。根拠のない肌感覚だが、人口の3%くらいではないかと思っている。
2024.03.20
自分でもよく分からぬものに投資するなんて言うのは、悪手中の悪手である。そんなことは教わるまでもない。 死んだ親父の教えで、株なんて言うのはしょっちゅう売り買いするものではなく、一度買ったらずっと持ち続けるもんだと思ってきた。キャピタルゲインではなく、インカムゲイン。配当だけを狙うもんだという考え方である。 別段金科玉条の様に守るつもりもないが、流石に親の言なれば心には留めてきた。お陰でそう大過はない。株取引のイロハのイほどは知っているつもりだが、さっぱり分からんのはビットコインをはじめとする暗号資産である。 分からぬものの代表である。さはあれど、口座に僅かばかりの残金があったので、遊びで買ってみたら、あれよあれよと1.5倍になった。これ、種銭が種銭ならば、若い人ならカン違いを起こすのかもしれない。
2024.03.05
本来自分が支払わらねばならぬ金銭を他人に支払わせて平気な人物を、ケチと言う。褒められた性格ではない。こういった人物は周りに必ず存在する。 なに、金銭に限らない。他人の情報ばかりを手に入れたくてウズウズしているのも多々居る。そして自分からの情報を一切出さない。 自分の物は自分の物、他人の物も自分の物とばかりに、他人の物をあたかも自分の物の様に利用して一切恥じない人物は、人間界の最低ランクに属すると思って間違いはない。盗人、詐欺師、殺人犯。皆このランクに属すること、例外がない。
2024.03.05
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