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北御門二郎さんに会いに行った話
今年の2月で90歳の北御門さん
北御門二郎
さんに会いに行った話
(昭和60.10記)
いつかふと考えた。いったい自分は死ぬまではたしてどれだけの人に会えるのだろうかと。そしてまだ見ぬ友が必ずいると思うと、毎日の繰り返しに何となく物足りなさを感じていた自分に何かしら元気が湧いてくるのだった。
昨年5月頃 毎日新聞に『新鈍行有情』という大好きなコラムに、北御門さんの紹介がしてあった。熊本県球磨郡水上村湯山で農業をしながらトルストイの翻訳を続けているという(当時74歳)。それも完全な無農薬である。また、北御門さんは『人に殺されても人を殺すことはできないと、兵役を拒否された人だという。絶対に会いたいと思って手紙を出したのは昨年(昭和59)の春であった。
手紙のこと
さて、手紙である。初めて手紙を出すのだから、どう書いたものか、とさんざん考えた。
結局、その年の2月に菊池養生園の竹熊先生の講演を聴いて「医は食から食は農から農は土から」とすっかり影響を受けていたので、その知識を駆使して今の農業のあり方に疑問をもっていること、自分のいのちは自分で守ろうと、今土地を借りて野菜を作っていること、そして将来米作りをやってみたいということをいろいろ書き並べた。
そして、いつか一度出かけて田んぼや畑を見たいということも忘れず添えて返事を待った。12月半ば過ぎであった。
手紙がきた
手紙は出したものの本当に返事が来るのだろうかと思った。忙しい身であるだろうし、たくさんの手紙にいちいち返事を書いていたらキリがないだろうとか、本当にすごい人なら若者の期待に応えてくれるはずだ、とかいろいろ考えながら半ばあきらめた気持で返事を待った。
年の暮れ、分厚い封筒が新聞受けに届いていた差出人を見ると北御門二郎と書かれてあった。『やっぱりすごい人だ』とそれだけで感激し、ドキドキしながら丁寧に封を切った。
たくさんの翻訳書の出版案内(北御門訳)とともに、2枚にわたり書かれた便箋が入っていた。内容は『トルストイは真にイエスの法灯を受け継いだ人だ、どうかトルストイと仲良くして欲しい。そして、トルストイを読むときは私の訳で読んで欲しい。他の人の訳には思いやりが欠けているように思う。また、今の政治家という人たちは、みなトルストイを読むのが嫌な人たちだ、自分はひとりの農業者であるが中曽根や二階堂よりは幸福な生活を送っていると思う。』ということが書かれてあった。最後に一度湯山に遊びにおいで、という言葉もあったりして心は有頂天だった。
来年は早々からいい年になりそうだと大晦日の紅白歌合戦も耳に入らなかった。
会いに行く前に
返事をもらってさっそくおじゃまする旨の手紙をしたためた。お会いするのは嬉しいが、こちらは農業のことは全くわからないし、トルストイなど読んだことがない。これでは話にならないので、北御門さんが原文で読もうとするきっかけとなったという『アンナ・カレーニナ』を新潮文庫(北御門さん訳ではない)で読んでみることにした。
トルストイの三大長編の中の一つといわれるだけに根気がいる。しかし、読み進んでいくうちに本を置いてため息をつくことしばし、すごい小説だということを実感する。中でもトルストイの分身分身といわれるリョーウィンの生き方に共鳴、共感し、『ああ、ぼくも同じだ』と何度も思った。あとで、北御門さんが東京大学在学中にリョーウィン君と呼ばれていた話をあとで知ると、他人と思えないような親しみが湧いてくるのだった。
以前ロマン・ロランの『ジャンクリストフ』感激しながら読んだことがあった。そのときはこれを超える小説はないだろうと思っていたが、『アンナ・カレーニナ』を読んでいたならどう思っただろう。
(続)会いに行く前に
『アンナ・カレーニナ』を興奮しながら読み終えたら、注文していた北御門二郎著『トルストイとの有縁』が届いた。
「兵役を拒否すれば、いったいどうなるか見当がつかなかった。まず逮捕され軍法会議にかけられることは間違いあるまい。軍法会議の結果、いずれにせよ投獄、最悪の場合は銃殺刑・・・」。という兵役拒否のいきさつを読むとき、胸の鼓動が激しくなり恐怖と不安で一杯になった。40年を経た今(昭和60年当時)再びきな臭い雰囲気が漂い始めており、そんな中で、魂を売ることなく兵役を拒否できるかと問いかけてくる。
また、ロシア文学の権威といわれる人たちに対する、トルストイの誤訳指摘には、トルストイをもっと正しく理解してもらいたいという純粋な願いが込められていた。そして、トルストイにより絶対平和の思想を学び兵役拒否を貫いた経験を通して、トルストイが読まれれば必ず世界平和につながっていく、という信念が感じられた。
先日、新聞に宇野千代さんが「本を読んで理解するためには著者を尊敬することだ、私は小林秀雄を尊敬しているので『本居宣長』をたちまち理解してしまった」という内容の文章を書いていた。尊敬しているという言葉だけではとても言い尽くせないトルストイへの思いをもって産み出される翻訳は、ものの良し悪しのわからない自分でもそのいのちに触れられるような気がして、いつか北御門さんの訳でトルストイを全部読んでみたいと思うようになった。
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