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前代未聞の大地震が起きて、大津波が発生した。押し流されていく家、車、船・・・テレビの映像を見ていると、誰かが作った映画そのもののようだった。
2011.03.11
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何もかもうまくいかないときは、試されるときであると同時に、癒しのときでもあります。私たちはとかく、大事なのはテストに合格すること、すなわち問題を克服することだと考えます。しかし、そのようなことでは、ものごとは真の意味では解決されないのです。うまく整理され、また混乱が起きる。それもどうにかおさまったかと思うと、また混乱する。それだけのことです。癒しは、それらが起こるままにしてやる心の空間をもつことから生まれます。悲しみの空間、ほっとする空間、惨めさの空間、歓びの空間です。 たとえ嬉しいことが起こるだろうと期待していても、実際に何が起こるかは誰にも分りません。惨めになるだろうと思うときも、同じです。最も大切なのは、何が起こるか知らないまま、ただ心の空間を持つことです。 何もかもがうまくいかず、お先真っ暗で崖っぷちに立たされたとき、私たちは試されます。その崖っぷちに、何もせず立ち続けることができるかどうかが試されます。精神の旅とは、天国の道でも、あらゆる願いがかなう場所への到達でもありません。それどころか、そういったものの見方が、私たちを惨めな場所にとどめつづけます。 体が震えるほどの激情と共にいる。傷ついた心、ひきつる胃、絶望、復讐を誓う心と共にいる…それが覚醒にいたる道です。見通しのなさと共にいて、パニックに陥ることもなく、その混乱の真っ只中でリラックスするコツを知る…これが精神の道です。(「すべてがうまくいかないとき~チベット密教からのアドバイス」ペマ・チュードウン著)
2007.10.22
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「人間」の本当の幸福は、相手の幸せのために自分がいかされていることが、感じられるときに味わえるものです。このことは本当に本当です。自分の幸せばかり追求することによって得られる幸せなど、本当の幸福ではけっして、けっしてないのですから。 私はいつも、人のためになにかをすることが、じつは、自分のほうが豊かに生かされているのだと実感するのです。そのことによって大きな幸せを感じることができるということを体験しました。自分がやりたいことだけを優先させてやっているという生き方の中には、幸福を見いだすことはできないということを、教えられる半生だったような気さえします。
2007.10.19
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「私たちは子どもをしつけするとか、いろんなことをするときにも、いまよりも、一歩前進ということを、たえず子どもに期待するわけです。けれども、その期待は子どもにたいして、「こうなってくれなくてはいやだ」とか、あるいは、「早くそうなってくれなくてはだめだ」とかいうのとはちがうのです。子どもに一定の成長や発達をうながしながら、けれどもその速さや限界は、子どものあゆみのままでいいというふうに、子どものありのままの状態を、親が本当に満足して、受け入れてあげられるかどうかが、たいせつなことなのです。 もうひとつたいせつなことは、子どもの望むことを望んだとおりに、どれくらいしてあげられるかということです。子どもが望んだら、その通りにしてあげればいいのです。それは子どもをあまやかすことだし、その結果、過保護にしてしまう、子どもを堕落させてしまうと心配している人がいます。こどもの言うことを聞いてあげすぎたら、子どもは依頼心が強くなって、自立しないのではないかという誤解というのは、非常に根深いものがあります。そんなことはぜったいないのです。おんぶとかだっこというから、そのたびにしてあげたら、子どもが歩けない子になったなんてことは、けっしてありませんね。おんぶというとき、おんぶしてもらえる、だっこといったとき、だっこしてもらえた子どものほうが安心して、自分を信じて自立していくのです。 では、そういう愛情がたりないと、なぜ自立しないだろうか、こういうことを考えてみてください。子どもは自分で望んだことを、十分してもらうことなしに、自発的に強い自立の意欲をわかせないのです。言われたことを不承不承、最低限度にやろうという感情にしかならないのですね。この関係はやってみるとよくわかりますよ。」(傍線今村)
2007.10.18
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朝の光の中でゆれるコスモスの花 「相手が私のことをどう思っているかということは、私が相手をどう思っているかということと、ほぼおなじことなのです。これは非常にわかりやすく重要なことです。ですから、こちらが相手を好意的に思えれば、相手だってかならず、そういうふうに思うようになるのです。」 「人の善意を感じにくくなったということは、自分が善意をなくしてしまったことですから、どんどん孤独になって、いきていることが苦しくなりますね。本来、善意のない人なんかいないのだ、そう思って生きるのが、本当は幸せなのだと思います。人を信じることができる自分というのは、自分でも自分のことを信じて好きになれるということです。」 「親子関係もまったくおなじなのです。ですから『親が僕のことを不足に思っている』と感じる子どもは、子ども自身も親のことを不足に思っているのです。親が子どものことを『ありのままでいいよ』と思っていれば、子どものほうでも、『僕にとっては、そのままのお父さん、お母さんで十分だよ』と思っているわけです。親が子どもにたいして、『まだあそこがだめだ、ここがだめだ、あるいは、ここがこうなればいいな、あそこがああなればいいな』と思っているうちは、子どもの方だって同じように、親に対して不足だらけに思っているわけです。」(佐々木正美著「子どもへのまなざし」より)
2007.10.17
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ブログを書くことと葉書きを書くことの違いは何だろう。葉書は一人の人のために書くけれど、ブログは不特定の人に公開する。読んでいただく人の数の差は歴然としているものの、葉書はどこか違った魅力がある。 6月13日から書き始めた入院中の恩師に対する葉書が100枚を超えてしまった。返事は来ないのだが、書くことが楽しい。それは恩師に読んでもらい大切にされ喜ばれているという気がする。 やはり僕は顔の見える付き合いがしたい。読んでくれている人が日々どんなことを思いながら暮らしているのか分かり合えるようなお付き合いがしたい。今、空のブログを前にして何もできない自分がいる。
2007.10.10
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人類の破滅のシナリオがあるといっても、あくまでも3次元の考え方。希望はあらゆるところにあるように感じるので、きっと善い世の中になるという希望は持っている。一番大切なことはみんながクリキンディになること。森が燃えていました森の生き物達はわれ先に逃げていきましたでもクリキンディというハチドリだけは行ったり来たりくちばしで水のしずくを一滴づつは込んでは火の上に落としていきます動物達はそれを見てそんなことして何になるんだと笑いますクリキンディはこう答えました「私は私にできることをしているだけ」
2007.08.05
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人類の破滅を救う手立てはないだろうかと考えた。 極端な話だが、1世帯5人として1反の田と5畝の畑を確保し食糧自給をめざす。都会に集まった人たちはみな田舎へ帰り、田畑を持つ。それまで勤めていた仕事はしない。借金も帳消しそのかわり預貯金も帳消し、持っている人もそうでない人も同じスタートラインに立って食糧を作る。高齢者や障がいを持つ人にはその地域で助け合う。 ただそれだけでいいのではないだろうか。 田植えや稲刈りはみんなで協力しないとできない。そこでコミュニケーションが生まれる。豊作を願う気持ちが祭りを復活させ、自然に対する畏敬の念が生まれる。命を大切にすることで人がお互いに慈しみをもって接するようになる。子供たちには基本的に読み書き、計算まで教えほかは自然から学ぶ。今の教育制度のように大学受験にいたる受験訓練ではない、生きた教育ができる可能性がある。 こう考えると江戸時代に逆戻りになってしまう。 江戸時代は百姓が90%くらいを占め残りは武士、商人その他だったらしい。百姓も地主から小作人までいろいろ分かれているから今と比べられないが、江戸時代の職業構成が未来永劫に人類が生き延びれるのかもしれない。 そう簡単に実現するとは思わないが、この自然を次代の子供たちに残すにはこれ以上の経済活動をしていたら不可能なところまできている。
2007.08.02
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日本熊森協会の森山まり子さんの講演会があった。森が荒廃することは水が守れないこと、そして人間が生きていけないこと、だれも森を守れないのなら自分ひとりでもやるという強い信念で立ち上がり、広大な山を買って熊を始めとする大型動物の餌になるどんぐりの木を植えている。現在会員1万人。100万人になれば国も政治家も動いてくれるだろうと言っておられた。 イギリスでは環境保護に携わる人が最も高給であるという。国民は生き残りをそれに賭けている。だから環境保護についてはいくらでも寄付が集まる。しかし、もうイギリスの森は再生できないだろう。なぜなら森を守ってくれる動物を殺し尽くしてしまったからとも言われた。 森がその役割を果たすには、大型動物をはじめ鳥や昆虫に至るまで生物の多様性が必要であるという。日本にはまだ熊の棲む環境が残っている。今立ち上がらねば永遠に自然を再生するチャンスを失うことになる。
2007.08.01
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今回の参議院選挙では民主党が圧勝だった。しかし、これにより政治は変わるのか、地球環境は良くなるのか、平和な世の中になるのか、と考えたら疑問符がつく。 今回の争点は年金問題、格差社会の問題、憲法改正の問題等が上がっていたが、ぼくの知る限り環境問題を真剣に考えそれを掲げている人はいなかった。 映画「不都合な真実」を観た。ゴア前副大統領が現在の地球温暖化の実例を挙げ将来の予測をしているが、全く根拠のない話ではない。その逆である。このまま行けば30年もすれば人類が滅びてしまうという説もあるくらいだ。 恋人と添い遂げたいという人も、誰の世話にもならないで生きようと思っている人も、お金持ちになりたい人も、世界を牛耳る権力の座にいる人も、体制を覆そうとしている人も、戦争で一儲けしようと思っている人も、人に優しくありたいと願っている人も、清貧に生きようと思う人も、趣味に生きようと思う人も、世界平和を祈っている人もそれらが実現できなくなってしまう。 今、一生懸命に環境運動をやっている人たちが、映画「タイタニック」で沈没しようとする船の甲板で、音楽を奏で続ける人たちと重なって見えてくる。
2007.07.31
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なずなの会の砂療法が7月29日お倉か浜であった。総勢45人。赤峰さんと久しぶり再会した。浜は先日の台風4号のため流木がたくさん流れついていて雑然としていた。 砂療法は体にたまっている毒素(陰性)を大地の陽、太陽の陽、きめ細かい砂の陽で出してしまおうという古くから行われた療法だ。10時から13時までの3時間、思い思いに砂の中にもぐった。 赤峰さんのから興味深い話を聞いた。新生臼杵市長が「本物でないといけない」と言って、無農薬で作っている赤峰さんの農場を訪れ、田植えを経験したという。そして、臼杵市の職員を何人か研修で農場に派遣しているということだった。 トップが変わらないと体制は変わらない。その点で臼杵市は期待がもてる。臼杵市のホームページには赤峰さんの田んぼの様子が紹介されているとのことであった。
2007.07.30
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仕事から帰ったら隣の黒木さんから今日釣ってきた魚(メジナ、アジ)が届いていた。しばらくすると鶴ちゃんから冷汁を作ったから持っていくと電話があった。 この前、野球の試合を応援に行ったときに鶴ちゃんとご飯を食べた。そのとき僕たち夫婦は冷汁を注文した。夫婦揃って冷汁が好きなんだなーと思ったのかもしれない。今夜はそれだけで夕食が食べられる。
2007.07.25
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涼平が中学校のとき進路調査で「コーエーボウサイ」と書いたことがあった。先生が何を意味するのかわからず尋ねられたことがあった。小学校4年生のときからソフトボールを指導しているKコーチが独立して始めた防災関係の個人で始めた企業の名前だった。 涼平がソフトボールを始めたのは同級生のKコーチの息子ヤスタカが始めたからだった。他に同級生が6人いて、自分の子どものように指導してくれるKコーチをお母さん達も子供たちも大好きだった。チームメイトの何人かが将来の職場に「コーエーボウサイ」と書いたのだった。 中学校に進み全員が野球部に入った。しかし、高校ではヤスタカ一人が野球部であとは別の道に進んだ。Kコーチは彼らが中学時代に野球部の保護者会長を務めたが、日向高校でも会長になった。 そして今日は甲子園大会予選でベスト4をかけて日南学園と対戦した。運良く休みだったので応援に出かけた。日南学園と比べたら日向高校は大人対子どもほどの実力差があったが、3回の裏に2点先取したときはもしかすると…という期待を抱いた。しかし、4回の表にソロ本塁打が出ると相手打線に火がついてしまった。結果は9-2のコールドで敗れた。 だが、胸が熱くなるシーンがあった。1回戦のときもそうだったが、日向高校は野球部全員で応援に参加していなかった。それならばオレたちが何とかしようとKコーチが保護者で即席の応援団を作った。選手も監督も大喜びだった。 今日は試合開始前にKコーチがメガホンを持って「日南学園の健闘を祈りエールを送ります」と言ってエールを送った。相手チームの大応援団は全員立ち上がって手を振って喜びを表した。そして、コールドで負けた後帰ろうとした瞬間、相手側から「日向高校の健闘をたたえエールを送ります」と思いがけない団長さんの声。こちらも全員立ち上がった。エールが終わるとKコーチが「ありがとう」と言うと向うのほうもそれに応えてくれた。「次も頑張れよー」と叫ぶと皆が手を振ってくれた。嬉しさがこみ上げ、何とも言えないさわやかさが残った。
2007.07.23
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K先生 2年生の途中から、お下げの長い元気がよくて可愛い女の子が転校してきました。ヨシエさんでした。一目見てからあこがれの存在でした。同級の男の子たちは、追っかけてランドセルを叩いたりするなどちょっとしたいたずらをしていたところをみると、みんな彼女が好きだったのでしょう。ぼくがいたずらしなかったのは、嫌われることが怖かったからだと思います。 よく放課後に教室の前にあるオルガンに集まって、ヨシエさんが面白い曲を弾くのを楽しんでいました。黒鍵の高いほう、右端から順番に弾いていくときれいな音階にになります。それに歌詞をつけて「う う ち の と う さ ん」というところまで来たら、折り返します「あ わ て ん ぼ」と歌うのでした。それがまた可愛くて好きになっていきました。
2007.07.22
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K先生 校舎の中庭にモニュメントが2年生のときにできました。上が大理石の球(直径50cmくらい)その下は自然石でした。高さは1m50センチくらいでした。地球をイメージしたものでしょうか、球が希望とか平和とかいったものでしょうか。 小学生のぼくにとってそんなことはどうでもいいことで、何とかして上まで登ってみたいと思っていました。大理石は丸くてツルツルすべるし全体が自分の背丈より高いし、上まで上るのは無理でした。その周りで馬乗りして遊んだり鬼ごっこするくらいでした。
2007.07.20
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K先生 父親が漁師町細島出身ということだけで、校区としては日知屋小学校なのに細島小学校になぜか通っていました。細島小学校のほうが近かったので都合はよかったのですが、近所の遊び仲間とは学校に関しては接点がなく今考えると寂しいような気がしますが、当時はそのことは気になりませんでした。 細島港を左に見ながら、丸通(日本通運)の前を通り、清水木材の貯木場の中をフォークリフトを避けながら通り抜け、吉野川の運河(すでにドブ川と化して異臭が漂っていた)の横を通り、人家の脇を、囲いはしてあるけれど庭に放し飼いのドーベルマン(を飼っているところがあったのですね。当時としては珍しいことでした)に追っかけられるように通って交番の通りに出ていました。 その先は沼地になっており、鉄筋コンクリートでできたまだ新しい学校はそのすぐ東側にありました。その沼地がどのようにできたのかはわかりませんが、米の山からの山水と水田の用水路からの水を溜めていたように思います。 春はたくさんのオタマジャクシを見ながら、夏はたくさんの種類のトンボを見ながら通っていました。またタニシもいろんな水生生物もたくさんあって僕らには魅力のあるところでした。 今はもうその沼地は埋められてしまって当時を偲ばせるものは何もありませんが、まだ当時の風景がまぶたに焼き付いています。
2007.07.19
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K先生 今日は昼から休みをもらい、評議員をしている日向中学校のオープンスクールに行きました。暑いため教室の窓を取っ払い大きな扇風機が各クラス唸りを上げていました。学校からはお客さんが来たら大きな挨拶をするようにと言われているのでしょう。それぞれの教室の横を通るたび、授業中であるにもかかわらず生徒がこちらを向き「こんにちは」と挨拶してくれます。 3年生のあるクラスは、全員が大きな声で挨拶してくれました。こちらもいやな気はしませんが、授業を中断してしまうため先生に気の毒でした。そして、皆に向かって「あっち向いて!」と教壇のほうを指差し叫んだため大騒ぎになってしまいました。でも挨拶は気持ちがいいものですね。 学校のトイレ掃除をすると学校が落ち着きいじめや校内暴力がなくなるという話はよく聴くが、実際この学校のトイレはきれいだった。男女とも便器の黄ばみはまったくなく思わずさわってみたくなった。
2007.07.18
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日向高校が甲子園予選で都城東高校との試合があったので休みをもらって宮崎まで応援に行った。結果8-4で3回戦に駒を進めることができ、応援に行った甲斐があった。6-2でリードしていた8回の裏、相手の8番打者がレフトスタンドに2ランホームランを打ったときは度肝を抜かれた。敵ながらあっぱれだった。K先生 時々おふくろが「今日はおかずがないので買いなさい」と言って10円玉をくれました。気に入っているおかずは、イカの佃煮で高級なものは赤や緑に染められた豆が入っていました。10円で買える量は少ないので、仕方なく同じイカの佃煮でも細く切ったものを買いました。これなら随分の量になりました。どちらも甘い味付けで当時はよくおかずになっていたものだと思います。 ぼくのほかにも「たから屋」は小学生がたくさん来ていましたが、他の人が何を買っていたのか記憶がありません。 それよりもまだ嬉しかったのは、おふくろが今日は弁当がないからパンを買って食べなさいと20円もらった時でした。そのころ食パンの一山(1斤)が15円でした。残りの5円でジャムやマーガリンや砂糖を買ってパンにつけて食べていました。その頃はまだ牛乳は普及してなくて、飲み物はといえば水くらいだったのでしょう。最近のパンは小麦粉にたくさんの農薬がかけられれいるというので、昔のほうが体によかったかも知れません。
2007.07.17
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朝から台風の影響で大雨が降っていた。いつものように出勤しようと車を走らせたが、雨のため前方がよく見えない。これでは危険すぎると思って休むことにした。帰ったら東側の物置から雨水が部屋の中に漏れていた。タオルやバケツを持って何とかそれを止めた。テレビを見ると日向は大雨のため被害が出ており、国道も冠水のため渋滞になっているとのことだった。 K先生からは手紙はもらえないだろうと思っていたが、看護師さんから便箋と封筒をもらって書いてくれた。右手に力は入らないらしく、判読しづらい文面ではあったが、思いは十分伝わってきた。最後に奥さんから「重喜さんが精一杯の力で書いたものです」と添え書きがされてあった。まだまだ生きる気力を失っていないことが一番嬉しかった。
2007.07.13
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涼平が腹痛を訴えて学校の保健室で休んでいた。そばにもう一人の生徒S君がいた。なぜそこにいるのか尋ねると「何で生きているのかわからない」という。そのことで悩んで授業にも出ていないらしい。親にそのことを告げると「お前はうちの長男だからそんなことは考えないでほしい」と言われた。S君とは一面識もないけれど便りを書いた。S様 涼平から話を聞きました。ぼくは30年以上前のことですが、延岡市役所に入るとき面接試験で「何か悩みはありますか」と尋ねられたことがあります。その時「特にありませんが、何で生きているのかわからないことです」と答えたことを思い出しました。お釈迦様やキリストを始めとする偉大な人たちは皆この問題に向き合っています。そしてその教えを何千年も経った今でもぼくたちは学んでいます。今の多くの大人たちはこの問題を避けているだけです。どうぞ向き合って考えてください。ぼくはトルストイの「アンナ・カレーニナ」やロマン・ロランの「ジャンクリストフ」を読んで感動したことがあります。それらの主人公達もこの問題に向き合っています。最近この本に出会いました。(スマナサーラ著「有意義な生き方」)何らかの答えが見出せるかも知れません。プレゼントさせてください。それではまた。
2007.07.12
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K先生 先生から人に会ったら挨拶をするようにと言われたので、登校の際会う人ごとに元気よく「おはよーございます」と言っていました。最初はぎこちなかったけれど、次第に調子が出てくるのでした。弁当を持った手も振って挨拶するので、次第に弁当を包んだハンカチがほどけていきとうとう落としてしまいました。 ご飯もおかずも無残な姿になってしまいました。その時のおかずは何だったのか覚えていませんが、大好きな煮豆でも入っていたのでしょう。親がせっかく作ってくれた弁当をすまなく思い悲しい気持ちになりました。 家に泣く泣く引き返しておふくろに言ったら、なぜかあまり叱られず、もう一度詰めなおしてくれました。その後は朝の挨拶は控えめにすることにしました。CM8月1日 19:00から「熊森協会」の森山まり子さんの講演会があります。このブログでも紹介しましたが、 とただ一人で立ち上がった森山さん。「人のために生き始めたとき初めて生きがいを感じることになる」という言葉が心に残っています。ところ:延岡市カルチャープラザ3Fハーモニーホール。入場料前売り800円。
2007.07.10
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今夜は図書館で劇団四季の青山弥生さんのトークショーがあった。青山さんは延岡市出身。話す言葉に少しも気負いがを感じられない、思いやりのある優しい人だった。 以前、中野裕弓さんが日木流奈くんとの約束で、お互い焼きが回ったら付き合うのはやめようと約束したことを思い出した。青山さんは努力を重ねて劇団の顔になるまでになった努力の人である。そんなビッグな女優になった今でもおごらずさわやかなトークは好感が持てた。 K先生 弁当の話です。僕が学校に持っていく弁当は、アルマイトで作られた弁当箱でした。おかずとごはんが別々に2段重ねになっていました。 おかずといえば、前夜のアジの煮付け、たくあん、梅干、漬物くらいのものでした。卵焼きが入りだしたのは中学校に入って安い卵が出回り始めてからでした。 弁当がかさばるので、ランドセルには入らず、手にぶら下げて持っていきました。(長くなりそうなので次回につづく)
2007.07.09
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K先生 そんな怖い先生から授業中前まで来いと呼ばれました。『また拳骨でももらうのではないかと恐る恐る教壇まで出て行きました。 ぼくの席は一番後ろでしたので、クラスメートの机にぶつかりながら前に進みました。先生の前に立つと突然、「鼻を拭け」とちり紙をポケットから出してくれました。たれてくる鼻汁をすすり上げながら授業を受けていたのでしょう。 叩かれないでホッとするやら気が抜けるやらでした。たぶんみんなから笑われたのではないかと思いますが、よく覚えていません。『ああ助かった』という安心感で一杯になりその恥ずかしい気持ちはありませんでした。
2007.07.08
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図書館には2000人を超すお客さんがやってくる。窓口にはいろんな苦情が寄せられる。今日は、ソファーで寝ている人がいるので注意してほしいと言ってきた。なぜ寝ていたらいけないのか、寝るのを目的に来館するのは好ましいとは思わないが…。ぼくでも本を開いたら3分もしないで眠ってしまう。 行ってみると60歳くらいの男性が本を枕もとに置いて、長靴を脱いで目をタオルで隠して気持ちよさそうな寝息をかいていた。いびきをかいたり歯軋りをしたりして周りに迷惑をかけている様子でもなかった。寝て間もないのかも知れないと思ってしばらく様子を見ることにした。 再度行ってみたが状況は変わらなかったので、腕に軽く触れ「すみません気分でも悪いですか?気分が悪ければゆっくり休んでいていいですよ」」と言ったらガバッと起きて大丈夫と言った。表情を見ると少しはゆっくり休めたようだったのでよかったと思った。K先生 小学校1年生のときの担任の先生は工藤先生という女の先生でした。先生は体調が悪く授業を受けた記憶がありません。途中で別の女の先生に変わりました。 誰が担任になろうと関心事は先生が優しいかどうかでした。僕たちの学年はほとんどが細島みどり幼稚園の卒園生でしたので、みんなお互いによく知っていて自由に好き放題していたようでした。 そして2年生。怖い先生(先生は戦時中から教鞭をとられていた)と定評のある男の先生になりました。それがK先生です。 掃除の時間でした。ぼくのところにツカツカとやってきていきなり平手打ち。そのまま床の上にぶっ飛んで倒れました。何がなにやらわかりませんでした。 あとで考えてみると、野球選手になりきって箒をバットがわりに振っていたぼくを、誰かが先生に告げ口をしたのだと思います。 ほっぺたの痛さより恐怖のほうが先に立つ出来事でした。でもその時も今も何とも思っていませんので安心してください。
2007.07.07
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K先生 複写ハガキを書き始めて1000枚を超えました。3年かかっているので1日1枚も書いていないことになります。このハガキを教えてくれた坂田道信先生は30年間1日30通書き続けているそうです。本当にたまがってしまいます。 さて、話は小学校時代。朝、登校していたら、吉野川の日本通運の北側の空き地にピカツと光るものがありました。近づいてみると50円玉でした。ぼくにとって大金でしたので、早速学校の近くにある交番に届けました。二人のお巡りさんがいました。そのうちの一人が正直な行いを誉めてくれました。そして10円貰いました。その時は嬉しかったけど、あのお金どうなったのでしょう。 その空き地にはいろんな思い出があります。昔は犬を放し飼いにしていたので、よく道に車にはねられて死んだ犬が転がっていました。その空き地にも道路脇に死んだ犬が放置されていました。毎朝それを見ながら登校するのですが、2,3日たつとものすごい数の蛆が湧いて10日もすれば骨だけになったのを覚えています。
2007.07.06
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K先生 「陰徳を積め」と言いますが、先生は永年、延岡市育英会に寄付されていたことを思い出します。また、県の文化財保護委員となって、よくひとりで自転車に乗って古墳をはじめ史跡を回ってその保護活動の一翼を担っておられました。みんなが知らないところで多くの徳を積んでこられたのでしょうね。 ぼくがハガキを書くのは神様の命令かもしれません。先生に教えてもらった小学校2年生の思い出がたくさん出てきます。3年生の時よりも鮮明なのです。そして何よりも書くことが楽しいです。 僕たちが少年時代を過ごした昭和30年代はとても良い時代でした。そして先生に出会えて『自分に厳しくあれ』と基本的なことを学んだことも幸運でした。まだまだ思い出話が続きますので、我慢して読んで下さいね。
2007.07.05
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今から7年位前、大分のなずなの会(代表:赤峰勝人さん)に出入りして勉強させてもらっていた。日向でもそんな会を作ろうと数人の仲間で始めた。玄米を使った料理教室、赤峰さんを招いて講演会や野菜作り講習など毎月1回4年間ほど活動していた。 (この続き) 4年も経つと組織の秩序が保てなくなって、会から手を引いた。先日、その会費が余ったまま使い道がわからないという相談を受けた。 以前、母が亡くなったあと満期になった定期預金のおすそ分けをもらったとき、その一部をアジアチャイルドサポート(ACS)に寄付してカンボジアかどこかに井戸を作ってもらったことがある。しばらくたってACSから両親の名前が入った井戸の写真が届いたときは感激だった。 東南アジアの諸国では飲み水がなくて、多くの子供たちが泥水を飲んで死んでいく。1基井戸を掘ることで100人の命が助かるという。「日向なずなの会」の名前の井戸が半永久的に人々の命を救い続ける、というのはどうだろうと言うと、集まった人はみな賛成した。 さっそく送金したところ、事務局からすぐに電話があり3ケ月後に写真を届ける旨の連絡があった。
2007.07.04
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今から7年位前、大分のなずなの会(代表:赤峰勝人さん)に出入りして勉強させてもらっていた。日向でもそんな会を作ろうと数人の仲間で始めた。玄米を使った料理教室、赤峰さんを招いて講演会や野菜作り講習など毎月1回4年間ほど活動していた。(少し長引きそうなので、つづく)K先生へのハガキ テストのこと その3 今もあるのか知りませんが、全校テストというのがあってその最中に突然誰かが大声で泣き始めました。河野ひろし君が消しゴムを鼻に詰め、それが取れなくなったのでした。鼻血も相当出ていたようで、クラスが大騒ぎになりました。 さっそく細島駅前の獅子目医院につれて行かれ、ほどなく帰ると何事もなかったかのように答案用紙に向かっていました。ひろし君は畑浦に住んでいたとき学校帰りに、吉野川の鉄橋を「オレ目をつぶっても渡れる」と言ってわたり始めたのですが、今日に姿が見えなくなりました。足を踏み外して落ちてしまったのでした。 びっくりして近くにいた鉄道工事をしていたおじさんを呼びに行きました。下で泣きながら助けを求めるひろし君を前にして、おじさんは準備体操を始めたのでした。その時間がとてつもなく長く感じました。 泣きじゃくるひろし君の手を引いて家まで連れて帰ったのを覚えています。
2007.07.03
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昨日日曜出勤だったので、今日は休み。天気予報では雨の予報だったが、朝は晴れていた。が、昼過ぎから雨が降り出した。 最近は飲む機会が多く、胃腸も疲れ気味だったので家でゴロゴロしていようと思ったが、わが家の隣の家が大改装していてなかなか思うようにいかなかった。 話は変わって、疲れたときに塩を摂ると効果があるのは長年の経験で分っていたが、この頃黒煎り玄米茶(玄米コーヒー)に美味しいくらい塩を入れて飲むとこれがよく効いている。飲んでしばらくすると疲れた体が動き回れるほど回復する。今飲んでいるのは販売元:湯布院「自然食ゆうど」のもの。K先生へ 国語のテストで漢字の書き取りを1問間違えて100点を取りそこなったときがありました。「知」という字でした。家に帰り母に見せると「この字は間違っていないよ」と言うのです。そのことを先生が家庭訪問に来たとき、言ったことがありました。 ぼくは先生のひざの上に乗せてもらって、そのやりとりを聞いていましたが、先生も戸惑っているようでした。ぼくにとってそのテストについてはもうどうでもよいことでしたが、よく見ると「知」という字は他の文字とは違って、字の太さも大きくかなり雑に書かれていました。先生からペケをもらって返された後、正解を書いたものと思われます。あの時は失礼しました。
2007.07.02
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昨日、久しぶり山の中に住んでいるイワンさんの家を訪ねた。何年も前から無農薬で米や野菜を作っており誰に対しても親切で優しい人柄のため訪れる人が多い。昨日も二人訪ねて来られた。 最近は野菜を作るより、周りの野草を採ってきて食べていること、山を買ってどんぐりの木を植えていること、最近はミツバチが周りから消えて巣箱にまったくいなくなったことなどをお茶を飲みながら話してくれた。 ミツバチについては日本全国そうらしく、実のなる植物に大打撃を与え最後には人類の存続まで左右するような大きな出来事だということをある講演で聴いていた。そうならないように祈るしかない。さて、K先生への便り 昭和34年、先生が担任をしてくれた細島小学校2年3組の思い出を書きます。退屈しのぎに読んでください。 「母ちゃん今度の国語と算数のテストで二つとも100点とったら何か買うてくれる?」とでも言ったのでしょう、お袋も約束してくれました。そうしたら見事二つとも100点とったことがありました。クラスでは吉田きみ子さんという小柄で目のくりくりした可愛い女の子の二人だけでした。 ぼくも嬉しかったけれど、お袋も嬉しそうでした。その様子を見ると次も100点とって喜んでもらおうと思ったものでした。その時お袋が何を買ってくれたのか覚えていません。いくらか小遣いをもらって駄菓子屋でチューインガムや雀の卵を買って食べたのでしょう。
2007.07.01
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突然不安が押し寄せて吐き気がし、どうしようもない状態をかかえて我が家で休養をとっている浩平。そしてその状態から何とか抜け出そうともがいている。 その彼が、今自分に何ができるか考えたとき、株をやってみようと思ったのだった。それを表面的に受け取って「株なんかつまらん、汗を流して働かないと」と株について訊かれたとき思わず言ってしまった。その後、彼は落ち込みふさぎこんでしまった。 なぜ話をちゃんと受け止められなかったのか悔やんだ。一番肝心なのは彼が元気になりいのちが花開くことではなかったのか。かつてお釈迦様は腐っていると知ったうえで施された食べものを食べて亡くなった。それは相手の施しを喜びを持って受け容れられた結果だった。 その後浩平になぜ株が嫌いなのかを説明した。でもその時は自分の考えだけを一方的に言っただけであった。 彼がどうすれば元気になれるか、ゆるぎない自信をもって生きていけるのかをいつも考えていよう、と素直に思った。 というわけで今日は反省のみ。K先生へのハガキは次回にしよう。
2007.06.29
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6月13日 今日は突然病院におじゃまして驚かれたことでしょうね。以前から体調を崩されていたとはいえ、自宅で療養されているかと思っていました。奥様からの代筆で返事を頂いた時、「行かなくては」と思いお邪魔したところでした。お顔を拝見し、色艶も良いし元気そうなので安心しました。いまだに頭脳もクリアーでおられるし、昔のことを話しても応えられるので『さすが僕の恩師だな』と感心しました。またお邪魔しますので、病院の先生や看護婦さんとこれまでどおり仲良くやってください。それではまた書かせていただきます。
2007.06.28
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最近、すっかり日記をご無沙汰していたらUZさんから電話がかかってきた。「元気してますか」の一声が嬉しかった。 4月から職場が図書館勤務となった。慣れない仕事のなかで5月の連休明けに体調を崩し、ずるずるとHPから遠ざかってしまった。 その間、ご無沙汰している人たちに少しづつハガキを書いていた。その中に85歳を超えた小学校の担任の先生がいる。脳梗塞で倒れて、リハビリを続けておられるはずだった。半年くらい前にハガキの返事をもらったときは、不自由な右手でびっしりと書かれてあった。 今回の返事は奥さんからのものだった。今K病院に入院していること、酸素吸入をしていて脈拍は40くらい、流動食ながら食欲はある、早く返事を出しておくように言われたので代筆をしている、このまま保ってくれればいいという内容が書かれていた。 早速、病院を訪ねた。3人部屋だった。他の患者さんも高齢で意識があるやらないやら分らない人と相部屋だった。先生のベッドに寄ると僕を見るなり、驚いた様子で名前を呼んでくれた。手をとって昔話をした。すると、「家に帰るから起こしてくれ」と言い出して困った。「外は雨が降っているし、今日は教え子の言うことをきいて」と言うと「ハイ」と素直な返事が返ってきた。 先生にハガキを書き続けてみよう、とその時思った。今から四十数年前の細島小学校時代を思い出して書き送っている。書くのが楽しいので次回からブログに書こうと思う。 UZさんの電話でブログが復活です。ありがとう。
2007.06.27
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5月3,4,5日は涼平のソフトボールの応援に諫早に行った。今シーズンで現役を離れる彼にはあと高校総体しか公式試合がない。3年生は涼平しかいなくて、彼はキャプテンと4番という重責を任されている。チャンスに弱くチームを引っ張るだけの実力がないため、下級生に申し訳ないといつも思っている。 練習試合とはいえ、九州各地から実力のあるチームが揃う。そのなかでも日向は弱いチームだ。VS大村工業高校との試合では、熊本工業高校の監督が手も足も出ませんでしたというほどのチームだったので、メッタメッタにやられることを覚悟していた。だが、点取ることもないが取られることもない緊迫した試合となって、結局判定戦までいって引き分けた。選手も親たちも優勝したような喜びに浸った。 3日目は全国3位の鹿屋農業高校との試合があった。ピッチャーの投げるボールのスピードは速く当てるのがやっと。相手のほうは強力な打撃陣だったが好守で点数を入れさせない。ただ、相手のピッチャーのホームランが出て1-0、このまま押さえられるのではと思っていた。最終回の攻撃、ツーアウトのあとエラーでランナーが出た。その次はキャッチャーのユウヤ君だった。それまで完全に押さえられていたのだった。監督が応援席に向かって「お父さん、お母さん祈ってください」と言った。すると速球を左中間にライナーで破るホームランが飛び出した。応援席の歓声が大きく周りでやっている試合中の選手達が一斉にこちらを向いたほどだった。結局その裏を0点で押さえて2-1で試合をものにした。 涼平にはチャンスに打席が回ってくるもののそれに応えられられない場面が何度かあった。その度、応援に来てくれた保護者の方に悪いと思ったが、みんなの優しい言葉に助けられた。部活動は勝つことは嬉しいのだが、それだけだったら何も残らない。選手も保護者もそれを通して出会いがあり、一生付き合っていく友達ができるところが一番の魅力だ。6年経った今でも涼平が小学校時代にソフトボールをやっていた保護者達との付き合いが続いている。
2007.05.06
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4月29日諸塚山に登る。アケボノツツジをめあてにたくさんの登山者が訪れていた。「今年は花が少ない」と途中で運良く会えた、諸塚村の職員の山本さんが言っていた。『やま学校』の二日目のプログラムに諸塚山登山を組んでいたので会うことができたのだった。 諸塚山は六峰街道に登山口があり、1時間くらいで山頂に着く。途中ブナ林があって楽しい。まだ若葉が出ておらず、ちょっと残念だった。
2007.05.01
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最近ぼーっとした生活をしていたら、悪友美鈴さんから日本熊森協会の森山まり子さんの講演CDが届いた。久しぶり興奮した。鍵山秀三郎先生以来だ。 森山さんは中学校の理科の教師。37歳でなりたかった先生の職についた人で、教え子の提出した自由研究に触れて人生が大きく変わっていく。その教え子はツキノワグマがハンターによって射殺された新聞記事とともに感想文を提出したのだった。 そこから森の生態系について、森にすむ動物達の研究をすることになる。知れば知るほど熊という動物をはじめ猪、鹿、猿等の動物達のおかげで奥山の森が守られている。それらの動物が絶滅寸前にあるということは、人間がそういう運命になるという結論に達する。そうならないためにはどうすればいいかを考え悩む。それらの動物を守る団体を探してもどこにもない。教え子達から何とかしてほしいと暗黙のプレッシャーがかかる。日本にある動物保護団体に持ちかけても取り合おうとしない。行政に掛け合ったり、大学の教授に応援を求めたりしたが相手にされなかった。それならと自分ひとりで立ち上がったのだった。 熊は凶暴だから見つけたら射殺するのが当たり前とされている。1頭殺せば100万円ほどの収入になるという。ハンターにとって魅力のある動物なのだ。だから熊は凶暴でないといけない。しかし実はフレンドリーで臆病で優しい動物である。奥山を駆け巡ってはその道によって風通しのよい森を作っていく。また、彼らはほとんど植物を食べて生きている。木に登って枝を折り葉っぱを食べる。人間に代わって枝払いをしてくれているという。そんな動物がいなくなれば森が死に、空気も水も人間に供給できなくなる。 これらのことを知ることができたのは驚きであったし、それよりすごいのは彼女の実行力だ。生徒とともに勉強して森の動物を守るべく立ち上がる。自分の本心を裏切らない生き方には、教科学習を超えた教育のありかたの生きた見本にもなっている。 現在は紆余曲折を経て広大な山を買って動物達が棲めるように実のなる広葉樹を植える運動を展開中。現代のジャンヌダルクだ。応援したい。
2007.04.26
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先日、テレビのスイッチを入れると爆笑問題というお笑いタレント太田光さんという方が、総理となっていろんな問題を考えるという番組をやっていた。 そのなかで集団的自衛権(これも政府がイメージを転換するために巧妙に名付けたよくわからない用語、だと思う)について防衛省の何とかいう不破とかいう人と激論を交わしていた。太田さんは戦争が起これば自分は先頭に立って死ぬ覚悟だ。だからあなたも一緒に戦場に行こう、と言ったら「自衛隊は志願している」と逃げた。 今からの世の中は霊性の高い指導者が求められる。霊性が高いというのは自分と他人の境がないということで、そこには自分のエゴは存在しない。太田さんは戦場に行く人も自分も同じだという視点に立っている。ところが不破さんは戦場で死ぬ人と自分は違った存在という考えだ。 昔、コマーシャルで『あなた作る人、ぼく食べる』というのがあって顰蹙(ひんしゅく)をかったことがある。差別意識を指摘されたのだ。 国家の将来を背負いすべての国民を救う立場にある者がそんなことでいいのか、やめてしまえと言いたい。が、そんな政治家がゴロゴロしている。この世を救う人は権力に関係ない心優しい市民だ。
2007.04.21
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四月の中旬にもなろうというのに、九州の中央部では雪が積もった。桜が散り終わって葉桜の季節になっているのに。 今、市議会議員選挙のたけなわ。宣伝カーが名前を連呼している。いつもと変わらない風景だ。今年は宮崎県知事が全国的に話題にされているが、もとタレントという話題性だけで騒がれるのは残念なことだ。しっかり勉強もしているし、私利私欲を超えたところで仕事をされている。 市議候補もそうあるべきだ。マニュフェストも主張することなく名前の連呼だけというのは寂しい感じがする。 しかし、嬉しい話を聞いた。熊本市の市会議員選挙に25歳の女性が立候補している。田中貴子さんだ。彼女は現在ホームヘルパー、ガイドヘルパーとして、実際に福祉の現場で様々な条件を持つ人とも向き合っている。彼女の約束。1「しがらみ」から「なかよし」へ 利害関係でなく信頼関係へ。無党派・市民派の市政であり続けます。2「だれか」から「みんな」へ 不透明な税金の使い道をガラス張りにし、一方通行の情報公開だけでなく、わかりやすい言葉での情報共有化を目指します。3「なか」から「そと」へ 深刻な問題は会議室でなく現場で起きています。現場と向き合い、その場しのぎでなく、根本的な解決へ向けた自立支援をします。4「もうだめだ」から「まだやれる」へ どんな状況になっても、自分を否定せず社会に否定されず、だれもが堂々と生きていけるまちを熊本市で実現させます。5「だれかが決める」から「自分がきめる」へ 「参画」「協働」を重点においた条例をつくり市民がさんかできる場を作ります。 当選しますように。
2007.04.18
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涼平のソフトボール生活もあと2ヶ月足らずで終わってしまう。昨日は宮崎県大会があり応援に行った。初戦の相手はこの前練習試合でボロ負けした宮崎日大高校。相手がなめてかかってくれるといいなーなんて思っていたが・・・ 初回いきなり3点をとられてしまった。その後は何とかピンチをしのいで無失点に押さえたが、打線がよくない。1回に2アウトランナー3塁で涼平に回ってきた。涼平はただ一人の3年生、あとは皆2年だ。意地でも1点もぎ取ってほしいところだったがセンターフライに倒れた。 そして4回。これまで応援に行っても芳しい結果を残せないでいたのでまたダメだろうと思っていたが、先頭打者に立った彼は1球目見逃しのストライク。2球目レフト側にファウル。危なかった。そして3球目の速球を振り抜くと一直線にライナーフェンス直撃、あわやホームランという当りが出た。こんな打球は初めてだった。その回味方打線も勢いづいて、2点をもぎ取り望みをつないだ。 涼平は数少ない3年生の上、キャプテンを任せられている。だからそれなりのプレッシャーがいつも付きまとっていると思う。打てない日が続くとこちらまで元気が出ない。だが、昨日のバッティングはすごいと思った。応援席から「さすが4番」という声も聞かれた。 思わず目頭が熱くなった。きっと「ついてる」という言葉を口ずさんでいたため神さまが打たせてくれたのだろう。
2007.04.15
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Aさんのご主人は技術屋から苦労されてある中堅の鉄工所の社長になられ昨年退職をされた。長年仕事人間としてやってこられたせいか、仕事を退かれて他にやることがなく、外出するときはお孫さんの保育園の送迎くらいという。 Aさんはこれではいけないと思い、どこかへ連れ出そうとするのだが、億劫がって話に乗ってこない。先日、言ってはいけないとは思っていたが、ご主人に対してそのことを責めた。するとご主人から『だめな旦那でごめんね。こんな自分ではいけないと思っているのだが、なかなか元気が出なくて』と携帯にメールがあったと涙を流して後悔していた。Aさんは本当に心優しい女性だと思った。 ぼくは、「言いたいことを我慢するのはよくないと思う。それは必要なことだった。お孫さんがもう少し大きくなったら一緒に川や海に遊びに行こうと思うかもしれないよ」と答えた。そして「Aさん自身が好きなことを見つけて熱中することのほうが大切ではないだろうか」と言った。
2007.04.12
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昨日は日曜出勤だったため、今日は休み。薫風の気持ちのいい一日だった。昼から嫁さんも休みがとれて、浩平を誘ってドライブに出かけた。まだ桜はいたるところで咲いており、山の若葉も出始めて美しかった。 先日、新聞でバスタオルは必要か?という記事が出ており洗濯係の自分としても、一人1枚使うのはもったいないと思っていた。その上、洗濯機を占領してしまう。 早速、嫁さんに「今日からバスタオルは使わないことにします」と言ったら、涼平にはちゃんと了解を得ていないとあとで「聞いてなかった」と言われるよと返ってきた。子どもに伺いを立てないといかんのか、とも思ったが、一応彼に話した。「涼平、今日からバスタオルを使わんでね」「なんで?」「バスタオルがたくさん入ると洗濯機が苦労するわけよ。だから普通のタオルで体を拭いて」「よっしゃ!OK,わかった」と、ものごとがうまく運んだ。
2007.04.09
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タミフルというクスリが問題になっています。国民の命を守るためには、「危険性が確認されない限り使用を中止しない」ではなく、「タミフルの安全性が確認されない限り使用させてはいけません」くらいの国の姿勢がないといけません。これと同じように食品添加物、あらゆる化学物質についても人体に安全であることが確認されてからではないと使わせない、生産できないとしないと人類が滅んでしまいます。
2007.03.27
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人事異動の内示があった。今度は図書館勤務となる。まともに勤めても定年まであと5年となってしまった。よく勤められたものだと思う。 仕事から帰って、テレビゲームに夢中の涼平にそのことを伝えた。「おとうさん。それって出世じゃね」「何で」「図書館に勤めたい人はたくさんいるし、それになれたのは出世じゃろ」と、こちらを元気付ける言葉を言ってくれる。「おとうさんの同期の人は随分課長さんになってしまった。おとうさんには声がかからんみたい」と言うと、「学校の先生にM先生がいるけど、先生は校長先生にならないんですかと言ったら、俺は校長よりもこうやってお前たちと楽しくやるほうがいい、と言っていた」と言ってくれた。 春は人事異動の季節。職場の桜もやっと花をひとつふたつつけ始めた。今年もみんなが元気に天命を完うしますように。
2007.03.26
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拉致事件で今息詰っているという。頼りのアメリカは北朝鮮といい関係になり、北朝鮮は日本は攻めてこないと安心して言いたい放題。国際司法機関はもはや用を足さない。 日本はますます孤立し、その裏で安倍総理は憲法改正を急ぐ。拉致事件の解決するためには「日本をなめるなよ」とあとは武力しかないという悪魔の声がどこかでささやく。同じ感情が大多数の国民の間に広まり憲法改正が現実化する。これこそ日本が再び戦争ができる国にする仕組まれた「シナリオ」では・・・。
2007.03.12
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ひょっとこマラソンがあった。今回新設された途中で自由に引き返しができる上、タイムは計らないという「ひょっとこの部」にエントリーした。 昨年の大会依頼、全く走っていないでも何とかなるだろうと思って参加した。ゆっくりのペースなら5kmくらい走れるという自信もどこかにあった。一緒に走った人は約40人。2キロくらい走ったとき、前方に幼稚園児と思われる女の子が走っていた。同時にスタートしたのだった。そのとき、今回は競争なしで参加したわけだが、彼女に対してライバル意識が芽生えてしまった。 それにしても、彼女はちょっと走っては歩くことを繰り返しているのだが結構速く、上位に食い込んでいる。一緒に走っている人の中には数名の銀行員もいて、彼らもあまり練習していない様子だった。それと3人の車椅子参加者がいたが、それらを押さえての力走だった。 ここで一挙に女の子を抜くと体力が持たないと思い、じっくりチャンスを待った。折り返し点から割と急な上り坂があって、何とか上り終えた。しかし、もう彼女はついて来れなかった。何とか面目を保てた一日であった。
2007.03.11
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我が家は小高い丘の上に建っている。この地を選んだのは、南側の景観が良くて視界が広く日当たりもよかったこと。そして南側には家はできないだろうと思ったからであった。ところが、地主の親戚であるTさんが息子さんと一緒に住むことになり、その地に家を建てることになった。 がっかりしていたら、Tさんが挨拶に来て「迷惑かけるけどよろしく頼みます」と言ってくれたので少し心も落ち着いた。人間の側からは何とか落ち着いたけれど、その地をトイレとしていた愛犬ミナミにとっては大いに迷惑だった。 地鎮祭が行われ、コンクリートで基礎もできあがった。それでもミナミはそこにウンチをし続けていた。そしたら犬を入れまいと地鎮祭に使った竹でミナミの出入り口をふさいでいた。 これは大変と今日は仕事そっちのけで帰ってきて、早速柵を作った。当のミナミはトイレの場所を失って当惑気味であったが、どこかにトイレを決めて用を足すことだろう。 近所付き合いは些細なことからトラブルが起きてうまくいかなくなる。早く対処しないと傷が大きくなるという思いが先にあり、今日は仕事も手につかなかった。
2007.02.28
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テレビニュースを観ていたら、どこかの退職した裁判官が死刑囚になっている獄中の囚人を「あれは無実にするしかなかった」と語っていた。一緒に裁判を担当した二人の裁判官はすでになくなっているという。 自分は無実と思っていたが、他の二人を説得する力がなかった、40年間一日も忘れたことがなかったと言っていた。「今その死刑囚に会ったら何を言いますか」という質問に「たぶん何も言わずに謝り続けるでしょう」と泣きじゃくっていた。 葬り去れようとした冤罪を話さずにはいられなかったのは、心の中に棲む神の声に違いない。彼はこれを公にすることによって幾分か心が晴れただろう。そしてよく勇気を出して言ってくれたと思う。 鹿児島であった選挙違反をでっち上げて闇に葬ろうとした捜査当局の責任者もやはり神からの声に悩み続けていたのだろうと思う。あの世に帰るときまでには真実を語って心の重荷を降ろして行ってもらいたい。
2007.02.27
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そのまんま知事が就任してひと月が経った。タレントの顔は消え去り知事の顔つきになっている。選挙前は誰がなっても同じこと、だったらこれまでにない知事に登場してもらおうと思っていたが、最近見方が変わってきた。 県政が茶の間まで届くようになってきている、というのがこの議会での印象である。普通、本会議では質問書と答弁書がすでにできていてそれを読みあうだけで、ほとんど議論を戦わせることがない。極端に言えば質問することで精一杯で『ちゃんと言えるだろうか、こんな質問しておかしくはないだろうか』と考えている人がいるかもしれない。答弁にしてもそうだ。 東知事は総括質問ではなく、一問一答でやろうとも言っている。大いに議論しようという気構えのようだ。本当に勉強していないとこういうふうには言えない。おかげで死んだ議会が生きたものになりつつある。これが本来の姿だと思う。これからも県政に風穴を開けていってほしい。 ただ、県民の健康を根本的に考えてこれからは食のことを真剣に取り組んでもらいたい。たとえばブロイラーが健康を害することをきちんと踏まえた上で、養鶏業者が立ち行くように生活を確保しながら少しづつ方向転換して健康なニワトリの生産を図る。そして、真に「宮崎の鳥は安全、安心」と情報を発信していけるよう今後は期待したい。
2007.02.22
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花粉症の症状が身の回りの人におきている。「濃い塩水を飲むと症状がすぐに治まるよ」と言うと飲んだ人は30分もすれば治まっている。しかし、その後のどが渇いて水分を摂るとまた元に戻る。また塩の摂り過ぎの害を刷り込まれているので、塩水を飲む人は少ない。 血液の塩分濃度は0.89%と決まっている。水分の摂りすぎでそれを下回ると、目汁、鼻汁として水分を出し血液の塩分濃度を上げているのが花粉症の症状だ。病気は欠乏症といわれる。それはミネラルが不足しているために起こる。 ルイ・ケルブランという人が原子転換を発見している。それは、たとえば牛や馬が草を食べてあのような立派な肉体を作っていることを考えてもよくわかる。肉体はタンパク質、だが彼らはタンパク質は摂っていない。今の科学では炭素がタンパク質の構成元素である窒素に変わるなどとは考えられないのだろう。 あらゆる元素は水素(原子1個、電子1個)が基本になっている。原子の数と電子の数の組み合わせの違いだけだ。体は生命維持のため足りないものを原子転換によって作り出す。だから、地球上のすべてのミネラルが含まれている自然の塩を摂るというのは理屈にかなっている。塩分は3%の塩水で摂る、これは海の塩分濃度である。 濃い塩水を飲むのが苦手なら、のどが渇いたとき以外一切の水分(お茶、コーヒー、牛乳、ジュース、アルコールなどすべての水分)を摂らずにいれば症状は治まると思われる。
2007.02.21
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日向高校の地区委員の会議があった。基本的に高校に入ったら親は学校に行かない子どもに任せると決めていたのだが、役員になって欲しいという甘い言葉にだまされて役員を引き受けた。3月一杯で役は終わるが、自分が何の役かまだ熟知していなかった。監査をする監事であった。会長に悪かった。 23日には早朝6時50分から生徒の送迎を自粛して欲しいというキャンぺーンがあるが、何のためにするかわからなっかった。聞くと、送り迎えの車で学校の入り口がごった返しして事故になりかねないので安全なところで乗り降りして欲しいというのが狙いであった。 それなら理屈が通る。こちらの考えでは、ただ単に送迎を止めて欲しいと考えたので、それはおかしい、人それぞれ事情がある。病気がちの人、宿題に追われてあまり寝ずにがんばったおかげで寝坊してしまった人などいろいろある。それだったら反対するが、安全のためだったらいいのかな、と納得した。
2007.02.20
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