今が生死

今が生死

2018.09.30
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カテゴリ: 生き方
今大型台風が近づいてくるとして警戒情報が流されているが、地震や自然災害にはいくら人間でもどうすることもできず、早めに避難することくらいしかできない。そのような時に人は「神様、仏様こちらには被害が及びませんように」と祈ったりする。入学試験とか家族の病気の時などもいい結果になりますようにと祈る。その対象は神社やお寺だったり宗教の宗祖だったりする。目には見えないがどこかに万能の神がいると信じてお願いしているのだと思う。
神とはどのようなものであろうか?神道の神は天照大御神であり、自然そのものである。仏教では釈迦が悟りを開いた境地で宇宙の法則そのものが神であり、慈悲をその根幹においている。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などは太古の神の預言者が出現して、その人が神を紹介する形をとっている。仏教もキリスト教も人の道を説き、博愛、慈悲が神の姿であり、いかなる人間も尊いので神は全ての人に博愛を注ぐので、誰かを殺してよいなどの教義があるわけがない。
しかし厳しい環境である砂漠で生まれたマホメット教(イスラム教)はアラーの教えに背くものは殺してもよいとしている。イスラム教の勢力は増大の一途で世界第2位の勢力で今や一位のキリスト教にせまろうとしている。仏教では争いを好まずひたすら相手の幸せを願うがイスラムでは勢力増大のために剣を取って他の地域を占領してきた。彼らにとってはアラーが神であり、コーランに基づいて必要あらば戦闘も辞さないとしているので世界で争いの種は尽きない。私は仏教徒なので釈迦の教えの根幹である慈悲がで最も大切だと思っているが、イスラムでは必ずしもそうではないらしい。
冒頭で神頼みのことを書いたがそれは自分もしくは身の回りの家族の安全を願っての祈りが大半ではないかと思う。しかし仏教では災害で自分がまきこまれて死んでもそれは仕方ないので、基本的には自分のことは祈らない。日頃から常に人々の幸せを願っており、災害時でも自分のことより人々の安全を願うのが神との認識があり、それに近づこうと努力している。神のような人だとの表現があるが、意識の中で神を目指しているその人の一面を評価した言葉だと思う。しかし仏教の神はこのように闘争とかけ離れた存在なので勢力拡大を狙う他教団に次々と征服されて今では弱小教団になっている。正しい神を追及しても滅ぼされてしまっては意味はない。仏教も正義のために言論とか態度で大いに戦ってもらいたいと願っている。





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Last updated  2018.10.01 08:26:03
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