今が生死

今が生死

2023.03.14
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カテゴリ: 読書

中村さんがパキスタンやアフガニスタンで医療活動を始めた動機やその後井戸を掘り、用水路を開くことに力を傾け始めたいきさつなどが主な内容だが、最初の方には生い立ちや幼い頃の思い出も書いてあった。
自分が縁もゆかりもなかった当地に赴任したのは強固な信念や高邁な思想があったわけではなく、現地就任までの経緯を思うと、生れてからのすべての出会いや経験が自分の意識を超えて導いてくれたのではないかと思うと述べていた。
昭和21年9月15日に福岡市三笠町に生まれたが2歳の時父母の生まれ故郷若松市に戻った。若松市では火野葦平の小説「花と龍」に登場する玉井金五郎(中村さんの祖父)の家に我が家のように出入りし、祖母マンの話を聞くことが多かった。弱者は率先してかばうこと、職業に貴賤が無いこと、どんな小さな生き物の生命でも尊ぶべきことなどの自分の倫理観の殆ど全てが祖母の教えからではないかと思えるとのことだ。
中村さんのお母さんは金五郎の娘でそのお兄さんが火野葦平で、中村哲さんの叔父にあたる。哲少年は売れっ子作家だった叔父さんの本は片端から読んだとのことである。
叔父は戦争に勝つという一つのことに命を懸けてきたが敗戦なってしまい、器用に転身出来なくて戦後14年経った時自決してしまった。
小学校1年まで若松市に住んでいたが、父が事業に失敗したり連帯保証人を気軽に引き受けたりして借金を重ねて食い詰めた挙句古賀町に引っ越した。そこで出会ったのが小学校3年時の同級生の父親郵便局長の吉川さんだった。吉川さんはその同級生と一緒に昆虫採集につれて行ってくれて昆虫の事だけでなく他の動植物や鉱物、地理、天気のことにも詳しく、色々教えてくれて哲少年を昆虫に夢中にさせるきっかけを作ってくれた人である。
昆虫を大好きになり将来九州大学農学部の昆虫学科に進みたいと思ったが、厳しい父親は「昆虫を好きだからと大学進学などとんでもない」というのは分かり切っていた。その頃内村鑑三の「後世への最大遺物」を読み、自分の将来を日本のために捧げるという幾分古風な使命感が湧いてきた。
当事全国で医療過疎が問題になっていたので、医者になろうかと思ったのが医学部受験の動機で、これには父親も賛成してくれた。
そうして医師になり、精神科を専攻して国内の病院に勤めていたが、山岳登山隊の同行医師としてモンシロチョウの原産地といわれるパミール高原に行った時、また訪れたいと思っていた矢先、その地域での協力医師要請の話があり、それに呼応する形でそこに就き、30年間現地の人達と共に暮らし、用水路建設等を行ってきた経緯が述べられていた。
しかしそれが出来たのは、子供時代色々話をしてくれた祖母、昆虫の面白さを教えてくれた吉川さん、ペシャワール会を作って援助して下さった日本の方々、理解してくれた家族、現地で協力して下さった現地人や日本人の方々、ハンセン病診療の先輩のドイツ人女医ルース先生等、皆さんんのお蔭で自分一人でできたとはこれっぽちも思っていない。
アフガにスタンは干ばつなどの自然災害だけでなくイギリスからの独立戦争、ソ連侵攻、アメリカがアフガニスタンがビンラディンを匿っているとして全面爆撃を開始して、自然災害と人工的災害に苦しめられてきた。
中村さん達が今力を注いでいる農村部の建設現場は、常に攻撃される危険地帯に指定されてきた場所だが、「こちらが本当の友人だと認識されれば地域住民は保護を惜しまない。信頼は武力以上に強固な安全を提供してくれて人々を動かすことが出来る。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さが人々の心に触れる」とどこまでもどこまでも誠実を貫いていた中村さん。
村人たちからの信頼は絶大だったが、この本の発行から6年後に銃弾に倒れてしまった。思いやり、信頼、感謝、愛情が分からない人間はどこにもいるものだなと思った。
世界中の人から惜しまれた中村哲さん、その後を引き継ぐ人材の成長を願っている。





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Last updated  2023.03.15 21:52:45
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