今が生死

今が生死

2024.04.16
XML
カテゴリ: 生き方


幸福とは才能に恵まれ、お金があって、健康にも恵まれ、願い事が叶い、周りからちやほやされている状態と仮に定義すると、不幸とは才能がなく、お金もなく、色々病気を持っていて、願い事が全く叶わず、周りから虐められたり、悪口を言われている状態と考えることも出来る。
しかし本当にそうだろうか?才能に恵まれ、お金があって、健康にも恵まれ、願い事が叶い、周りからちやほやされているのに少しも幸福ではなく、不幸だ、死にたいと思っている人もいる。反対にお金がなく食べるものにも事欠き、周りから「乞食がきた、汚い、追い払え」と言われているのに幸福感に満たされている人もいる。
幸福とか不幸というのは金があるとかないとか、容姿が美しいとか醜いとか周りの状況で決まるものではなく、自分がどう感ずるかで決まるのだと思う。
京アニ放火殺人事件では犯人は絶対の自信作のアニメを応募したが採用されず、自分の作品と殆ど同じものが自社作品アニメとして制作され、世に出された。盗作に違いないと怒り狂ってガソリンを撒いて恨みを晴らそうとした。アニメ会社に投稿するくらいだからアニメの才能はあったと思われる。金はなかったかも知れないが体は健康であった。作品を採用してもらいたい願いをずっと持っていたのだと思う。その願いが叶わず、自分を不運な不幸な人間と思い、破れかぶれで火をつけて多くの人を殺してしまった。これを地獄と言わず何と表現できようか。
ほとんどの犯罪は自分を不幸な人間だと思った人によって起こされている。願いが叶うことについては願いというものはめったに叶うものではない。叶わないことを数えていったらきりがない。叶わない事ばかりで失望し、自分は不幸だと思い込み、凶悪犯罪を起こして地獄に墜落する。まず願いは簡単に叶うものではないことを認識すべきである。その上で冷静に見てみると叶った願いも必ずあるはずである。直接願ったことでなくてもそれを願っていく過程で技術を向上させ生活が豊かになっていることもある。
幸福か不幸かは物事の判断の仕方だと思う。叶った願いをみつめ感謝するところに幸福はあるのだと思う。叶わなかった願いばかり、数えていたら惨めで不幸になる。よくよく考えてみると直接願って叶ったこともあるし間接的に願いが満たされていることも必ずあるものである。
自分は不幸だと思っている人は、願いがかなえられたことを探してみるべきである。必ずどこかにそれはあるもので、本当は幸せだったのだと気づくものである。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2024.04.16 17:15:52
コメント(8) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: