いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2007.11.20
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陶器7

 昔、ダウジングがブームになっていましたね。

 「石や金属を使った振り子」や「L字に曲げられたロッド」など、特にその形状や質に意味を持たないと思われる道具を使ってモノを探し出すアレです。そうそう、親指と人差し指で輪を作り、その指が離れる力具合で物事を判断する「Oリングテスト」もありましたね。私ももれなくそのブームに乗っていました。

 姉弟でその道具を作って三択程度の遊びをしていた記憶があります。そして、ハズれた記憶が無いくらいの確立で当てていた記憶が残っています。ただ、自分でやっている時はなかなか気がつけないものですが、他人がやっているのを見ていると、直接道具自体が反応しているのではなく、それを使っている人間の体が反応し、道具を動かしている様に感じていました。

 自分自身で無意識に感じたことを、一度自分が信頼を置くモノ(反応)に置き換えて自分に確信を得ているように感じます。得てして人は頭で理解出来ない力(他世界観)に関しては、自分以外のモノに対しての方がその存在の確信を強め易い様に感じます。面倒な事は何でもヒトのせいにした方が楽ですからね。失敗しても自分の根底のプライドは守られると感じます。

 だからといって、モノに「力」(気?)が無いとも言いがたいです。私がモノから感じるのは・・・その時の自分やそこに関る人の『想い』をそのまま映し返してくる様な質が特化したもの・・・です。別の乱暴な言い方をすれば、「その気にさせてくれる力」と言いましょうか・・・。

 よく良質な「気」を発している物質について語られる事がありますが、私が感じる所では・・・心が良質な方向に向いた時、その人の心が理屈無く(逆にその人の強い理屈の基に)しっくり来て、おもいきり頼り切る事が出来るモノなら何でも・・・です。あくまでも自分自身の「気」の投影的な質のモノと感じています。

 また、良質の気場に関して・・・極めて近い世界観を持つ人や、上記の物質に囲まれる事が出来たと思える場所・・・と感じます。(時には似た世界観を持った人ほど距離を感じる事がありますからね)昔、ダウジングで高い確率を出せたのも、一緒にやった姉達が近い世界観を持ち合わせていた事に大きな要因を感じています。

 そして「何だか解らない(理屈無い)力」には、今回の「ダウジングロッド」や「石や金属を使った振り子」等の「何だか解らない(理屈無い)モノ」に対しての方が、その力の存在の確信を置き易いように感じます。(07.7.9著)


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 私の知人に何人か「占い」に関わっている人がいます。

 彼女達は、それぞれに信頼を置く占い手法(世界観)にドップリ浸かり(頼り)切る状態を創る事で、まず相手のその時の「想い」に無意識に繋がる様に感じられます。 そして、それを1度信頼を置く占い手法(世界観)のルール、例えば「手相」であれば「シワ」などに 無意識に置き換え(創り出し・見えるモノを選択し)ているように感じます。

 意識上の自分自身に確信を与えてから相手に伝えるといった作業が成されているように感じます。よって、後に相手のその時の「想い」が変化すれば、違った「手相」(シワ)を無意識に創り出し(選択をし)、「手相は変わる」という現象が起こると感じます。そして、信頼を置く占い手法(世界観)の役目は、結局は話し出す「きっかけ」のように感じます。

 話のほとんどは、相手と接する中で無意識に感じているように感じます。そして回数を経て自分の回答に対して相手の同意を積む事によって確信が増し、自分への世界観へ移り変わり、後に、人によっては「他世界観」や「道具(モノ)」などに頼らずに相手の「想い」に繋がるように感じます。

 占いを受ける側も、元々自分の中にあった「想い」(過去の出来事も含め)に触れられたために信頼が芽生え、占い師が創り出した視覚(シワ)を共有し、その後に発する言葉(アドバイス等)に信頼を置き易くなり、自分のその時の「想い」の後押しをされ、「想い」が強まって確信になった時、後に「想い通りになった」(予言的)な結果が得られるように感じます。

 あくまでも「未来が決まっていた」ではなく「想う通りになった」という質のモノに感じます。そして時に「選択系」の占いを受ける側の「選択」にも、占い師の意図するモノを無意識に事前に察知する力(手相のシワの創造も含め)を感じ、そこにも大きな要因を感じます。そういった「想い」のやり取りが成されているように感じます。

 そもそも同じような世界観に興味・関心を持っている人達が集ってしまうということ自体必然的で、すでに多くの事象・物質すら共有できる環境になってしまっているということでしょうね?また、占いに関る彼女達から共通して伝わってくる感覚は(本人が聞いたら気分を害するかな?ごめんね)、基本にあるのは、とても強く自己表現の場に飢えている様な「気」です。

 時に有り余る力から、普段の生活に抑圧も感じます。ただ「占い」に入ると「気」が鎮まり、相手を気持良くさせたり傷つけないように言葉を選ぶなど相手の事を気遣っています。私の中にも強く感じますが、他人の目を非常に気にする質をその根底に感じます。そしてヒトが創り出した「世界観」には、「想い」を増幅させる強い力も感じます。

 宗教や占いなど、その世界観の思想に大きく影響されると感じています。共感を覚え、その世界観にドップリ浸かり、精神的に頼りきることで力を得ると感じています。そして時に「他世界観」や「モノ」に、自・他を潰してしまう様なその人の有り余った力を逆にセーブする役割も感じます。

 私の「世界観」も私にとっては紛れもない「真実」ですが、心にしっくり来るものが無く、共感を得られなければ他人にとっての「真実」にはなれず、良い力の助けにはならないでしょう。ただ人は、「共感」(信じる・信じない)に拘らず、普段から自・他の気持ちを傷つけたり、感動させたりといった「気」のやりとりを行っていると感じます。(07.7.11著)

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 私も昔はよく、色々な意味で事が調子良く進んでいる時は「自分のせい」(実力)に、調子悪い時は「ヒトのせい」(他力)にしていたように感じます。

 調子良く進んでいる時はむしろ「ヒトのせい」(他力)が大きく働いていたり、調子悪い時は「自分のせい」(実力)が働いていたりするようにも感じます。今は何でも「自分のせい」(自分次第)と考えるようになっていますかね。一見立派なように見えますが、単に「ヒトのせい」にすることが何かに負けるような感覚があり、プライドが許さないのだと感じます。

 ただ、「自分のせい」に出来ている時は、なかなか事が動き出さない感覚もありますね。気功治療においても、病気の原因が全て自分にあると「悟り」のようなモノを築いてしまっているような人よりも、何でも「ヒトのせい」に出来る人の方が、良い成果が得られることも少なくないようにも感じています。

 「ヒトのせい」に出来ている時のほうが、色々な(良い方向・悪い方向を含め)意味で事が転回し易いように感じます。行き詰まりを感じたときは、むしろ「ヒトのせい」・・・他人や他人の世界観(占い・宗教・各種法則等)、物質(鉱物・各種道具等)、本能や無意識(自分の中の他人格的なモノ)・・・に一時的に頼ることも1つの効果的な手段のようにも感じます。

 また、精神的に「ヒトのせい」に出来た時は、事を動かすチャンスとも感じますが、その時の外的関わり方がその動き出す方向にかなり影響を及ぼすように感じます。

 私のようにプライドが高く、「ヒトのせい」になかなか出来ない人間が、ある意味勇気を出して「ヒトのせい(頼る)」をした時、例えば「他にもっと大変な人はいるんだから・・・」的な諭しや意見はきついものがありますね。あらためて言われなくても解っているつもりですし、あえて変化を求めてヒトを頼っている訳ですからね。かえって反発したくなる言葉ですね。

 そして、心にも無い言葉を発してしまって後戻り出来なくなったりするんですよね。確かにその言葉がきっかけになって事は動き出すかも知れませんが、その方向にはあまり良いモノを想像できませんね。そんな時は、ひたすら弱音を聞いてくれたり、時には自分のワガママに気付きながらも単に同情の言葉が欲しかったりするように感じます。

 そしてまた逆に、厳しかったり理性(理屈)的に諭されないと(尊敬できる人の言葉でないと)動き出せない人も少なくないようです。それもある意味「ヒトのせい」効果と感じます。とにかくその時々で、自分自身も含め何かしらに「信頼」を置かないと動き出す事が難しかったりする事も少なくないように感じます。(08.6.3著)

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 最近また「パワースポット」という言葉をよく耳にしますかね。

 私も若い頃はそういった場所を巡ったものです。確かに当時はそういった所に行くと体中が痺れたり、何か身の周りが良い方向に動き出したりと言ったような感覚を得られたものです。ただ現在は、同じ場所にいってもそのような感覚を得られることはありませんね。私の強い客観視的資質が自分の正直な感覚とのズレ・矛盾によって整理をしてしまいましたかね。

 簡単に言うとその矛盾によってそのモノにたいする信頼から「冷める(醒める)・飽きる」と言ったところでしょうかね。「不信」という負の信頼が生まれたとか?現在の私が感じる「パワースポット」(良質の気場)とは・・・極めて近い世界観を持つ人や、その時に強く心惹かれる(信頼を置ける)物質に囲まれる事が出来たと思える場所なら何処でも・・・です。

 確かにそれらを信頼している時にはそれなりの感覚を得られていた事実の確信もありますし、また初体験であっても全ての人にその成果があらわれている訳ではないという事実がありますからね。そしてそこには、信頼を置く人間(友人や専門家等)、多くの人間(歴史等も含め)による「クチコミ・マスコミ」による「想い込み(信頼)」的力を強く感じますかね。

 つまりは「力」は直接的には場所やモノではなく、「信じる(強い想い)」に宿る・・・と言うよりも、「信じる」することで、各々ヒトが持つ力(欲求・ワガママ等も含め)を解放し易くなると感じます。ただその「信じる」をし易くしてくれるのがまた自分以外の「モノ(言葉・物質・場所)」(ある意味他人のせいにする)であることが少なくないとも感じます。

 あえて「力」という言葉を遣って表現するなら「その気にさせてくれる力」とか、広い意味の「個人から責任を外す力」とか。(10.4.10著)



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Last updated  2012.04.07 13:26:54
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