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2008年06月30日
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テーマ: 精神の世界(125)
カテゴリ: 宗教
経典では、続いて悟りを四果に分類した預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の者について、その悟りの自覚に関わる観察が述べられている。その一々の論理的内実は同質故に、ここでは阿羅漢果の節だけを引用する。

   ☆     ☆     ☆
世尊「スブーティよ、どう考えるか。阿羅漢に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるであろうか。」

スブーティ「世尊よ、もし阿羅漢に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるなら、彼には、かの自我への執着が起こり、衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着が起こるでしょう。それは何故かと云いますと、かつて正しい悟りを得た如来は、『私は煩悩無く、無諍してある者のうちの最上の者である』と、仰せられました。世尊よ、私は欲望を離れた阿羅漢であります。しかしながら、私には『自分は欲望を離れた阿羅漢である』という考えは生じません。世尊よ、もし私に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるなら、如来は私について、『良家の子であるスブーティは、煩悩無くしてある者のうちの最上の者である。彼は、いずこにも在るのではない。だから、煩悩無くしてある者と云われる』などと宣言されることはなかったでありましょう。」
   ☆     ☆     ☆

何とも笑える文章である。一見して論理性に欠け、説得力即ち教導力の無い文章に見えるであろう。しかし語っている者には永遠の書を作成しているという誇りに近い真摯さもあったであろうし、また幾分かは菩提心無き劣根の読者を篩い落とすような気分もあったのであろうか。

しかし、このような舌足らずの説法の表意に迷い、勝手な思い込みでこれを納得して、巷で「自分で自分を悟った者だなどと称する者に、悟った者なんか居るわけがない」などと無意味な迷語で、対話の場を台無しにしている輩も出てくる始末である。こんなお粗末な説法を示した経典の著者にも、幾分かは迷誤者を輩出した責めが負わされるであろう。

ところで、このような一見笑える説法が出来上がった経緯は、二諦を故意に混合させ、面白可笑しく矛盾表現した処にある。

スブーティの発言を順番に見て行くと、「自分は阿羅漢であることに達した」は俗諦の語。故に「という考えが生じるなら、彼には、かの自我への執着が起こり、衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着が起こるでしょう」が界の理となる。

「かつて正しい悟りを得た如来は、『私は煩悩無く、無諍してある者のうちの最上の者である』と、仰せられました」もまた俗諦の語にして事実を表す。故に続く「世尊よ、私は欲望を離れた阿羅漢であります」の俗諦もまた事実であることを強調する語となる。

続く「しかしながら、私には『自分は欲望を離れた阿羅漢である』という考えは生じません」は聖諦の語。聖諦の界に個我無き故に、「世尊よ、もし私に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるなら、如来は私について、『良家の子であるスブーティは、煩悩無くしてある者のうちの最上の者である。彼は、いずこにも在るのではない。だから、煩悩無くしてある者と云われる』などと宣言されることはなかったでありましょう」が理を表す。

即ち「良家の子であるスブーティ」は俗諦の語。続く「煩悩無くしてある者のうちの最上の者である」の語も、四果の一である阿羅漢果を表現するための俗諦の界。「彼は、いずこにも在るのではない」は聖諦の語。「だから、煩悩無くしてある者と云われる」は俗諦の為の語である。

これがこの説法の構造である。それ故覚者は、迷妄の衆生界に在っては、「私は覚者である」と語る理と自由を持っている訳であり、悟りの理語や仏語が伝わらない衆生界に於いては、寧ろ「我は覚者なり」と明言することに基づいて生じる俗諦の利も大きいのである。





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最終更新日  2008年06月30日 10時26分43秒
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