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京都市の行なった記者会見が詳報されるようになりました(NHKはあまり報じていませんか?)。中止の理由としては、放射性物質が検出されたら取りやめることにしていたのでやむを得ない。燃やして良い基準値を国が示していないので、我々には許容する判断ができない。学者に意見を求めたところ「燃やして安全かはわからない」と言われた。といったものです(判断能力はゼロなのに余計な騒ぎを起こしていますとの告白のようですね)。 私は、次のようなことをする人間を人非人と蔑み憎みます。傷つき倒れている人に手を差し伸べ、倒れている人が伸ばすと慌てて手を引っ込め、何やら仲間内で話し合い、また近づいて行ってニッタリ笑い手を出して、手が触れたらその手を払いのけて、倒れた人の泥が移った自分の手を汚いものを触ってしまったと言わんばかりにパンパン叩くような奴です。今回の京都の地方行政府や五山の送り火主催者側の行なったことは、それと同じです。否、さらにひどいことに、倒れた人の衣服についた泥を検査して、「破傷風菌がついてたから、危なくて触れないから~」と言ってのけたくらいのものでしょう。 彼らの根本的な過ちは、住民を称する一部の愚者の妄言に乗せられ(たと称して)、放射能検査を行なったことです。住民エゴの愚者には、「180キロも離れていますから、その心配はありませんし、同じ日本人としての鎮魂の気持ちを表すためのものですので、ご理解ください」と言っておけば良かったのです。それをせず、無礼千万にも検査を行なったのは、実は主催関係者に同じ心配をする愚者がいたと類推せざるを得ません。次の過ちは、ものを頼んだ側が決して行なってはならないような余計な検査をした挙句、結果まるで検出されなかったにもかかわらず、漠然とした不安をもつ「世論」がある称して、それを現地で焼却したことです。現地で送り火に使用したのは、それ自体絵柄が綺麗でも目的外使用です。それだけでも十分すぎるくらいにふざけた背信行為ですが、理由が漠然とした不安に過ぎないのですから、最悪と言えます。非難轟々となるのは当たり前で、それすら予想できない脳みそと言うことです。さらなる過ちは、本当の世論によって非常識な行動を指弾され、慌てて再度調達した薪を、まるでそれが当然なことのように検査したことです。自分の不手際で、再三迷惑をかけながら、受け取ったものに難癖をつけるなど、非常識を通り過ぎて狂気の沙汰ですが、自分の狂気に気づかないほど、身勝手で無神経なのでしょう。 良識のある京都の人たちも気の毒です。これにより、「閉鎖的で独善的な京都」といったレッテルを、貼られてしまったからです。古都を愛する者で、これを悲しまない人がいて良いものでしょうか。 日本全国汚染されていない地域はなく、違いは濃淡でしかありません。それにさえ気づかず、事故現場から180キロも離れた被災地を、「東北ならすべて同じ」くらいの無知で差別し、魚目鷹の目で検査をして汚染地のレッテルを貼り、さらにそれを喧伝して回った報いは、必ず自分たちにめぐってきてしまいます。西日本でも、そこらの側溝にあるかもしれない、わずかばかりの放射性物質と引き換えにするには、あまりにも大きな代償ではないでしょうか。 東海テレビも放射能と無関係なほかの言葉なら、ただのテロップミスの放送事故に過ぎなかったものが、番組打ち切りとなってしまいました。ナーバスな問題なので、海の向こうの時事ネタのように他人事とせず、じっくり冷静に考えて、自他共に傷つけ、高すぎる代償を支払わないように気を付けたいところです。 【加筆】 その後、毎日新聞に詳しい記事を見つけましたので、ご紹介の上、私見を付け加えます。http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110813ddm001040109000c.html 基本的に調査方法が非論理的に過ぎます。「(薪の)500本すべてから表皮のかけら計1キロ分を集め」、食品の可食部に含まれるセシウム量の検査同様のことをした模様ですが、薪は食べ物ではありませんし、そもそも燃やすのは表皮部分だけではありません。一体何を検査したかったのでしょうか?私には、多少のセシウムが検出されるに決まっている方法で難癖をつけているようにしか思えない仕打ちです。 薪の表面線量を一応チェックするのなら、ガイガーカウンター(線量計)でその場でパッと見れば良かったのです。おそらく、検出された程度の超微量セシウムが発する放射線など、感知できないでしょうから、それで終わったはずでした。それでも、燃やした際に、なぜか放射性物質に限って周囲に四散し、不思議なことに周囲の人に影響を及ぼすと信じたいなら、燃やす物全体、この場合薪を輪切りのようにした1キロ分で検査しなければいけません。表皮だけ使用するわけではないのに、表皮部分だけ集めて検査するなど、意味が分からず、情報操作を疑られる検査方法と言わざるを得ません。常識的に考えれば、表皮部分の重量など全体のわずかであ、例えば10分の1が表皮だとすれば、他からはゼロ、未検出ですから、検査結果も113ベクレルとなっていたはずで、これは記事内で立派な専門家がご指摘されている以上に、食べてすら問題にならないレベルとなります。 そもそも、このような非常識極まる厳密な検査を行われたら、野ざらしになっているものでセシウムを全く含まないものなど無いのではないかと思います。検出した量の多寡ではなく、有無で決めることにしていたそうですから、試しに、大文字焼きに使用する普通の薪も調べたら如何でしょうか?検出されたら、中止していただきたいものです。 問題が生じる可能性のある部分をわざわざ凝縮して、食べ物ではないものを食べ物と同様の厳密さで検査し、「セシウムが出たからダメ!」などと、故意ではなく無知蒙昧のなせる技とは言え、己らの不適切な検査方法で大迷惑を巻き散らかしたことについて、しっかり検証し、猛反省していただきたいところです(個人的に責任を感じすぎる必要はない。無知を恥じれば、今後間違えないように、何が問題であったか真剣に学び考えるのみ)。
2011年08月13日
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いやはや驚き呆れ果てましたね。再度取り寄せた薪からセシウムが検出されたとして、京都の主催者連中は、再び使用しないことにしたそうなのです。今度は産経新聞にしておきますかhttp://sankei.jp.msn.com/politics/news/110812/lcl11081215500004-n1.htmhttp://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110812/dst11081221230017-n1.htm 当人たちは今ひとつ重大性に気づいていないようですが、これによって、慰霊鎮魂の意味もあった五山の送り火は、違うものに成り果てました。今後のそれは、観光目当てだけのセレモニーに過ぎません。魂など欠片もなく、心ある人にとっては、毎年嫌でも思い出させられる白々しく忌々しい、京都住民の一部のエゴを象徴するものとなってしまったのです。 はぁ~、陸前高田の住民の「セシウム、セシウムって...。不安は分かるが、ばかばかしいったらない。騒ぐのは被災地から遠方の人々だけなんじゃないのかな」との反応、誠にそのとおりです。京都には一切関係ありませんが、申し訳ない限りで、物静かな東北の人たちの代わりに、東夷(あずまえびす)が、良識のある京都の人々に物申したいところです。 福島第一原子力発電所から離れること180キロ超、仙台市や気仙沼市のさらに北の陸前高田市の松に、問題になるほどのセシウムが検出されるのか。検出されるならそれはなぜ故か、これは途方もない大問題ですね。 まずはどれほど検出されたかですが、産経新聞には載っていないようです(我が愛読紙ながら間抜けである【理由は広告が少なく薄っぺらで夕刊もなく安いから】)。朝日新聞にはありました(思想的に異常性が散見される新聞だが、ウェブ版は使えることが多い。担当者偉い)。表皮に限れば1kg1130ベクレル相当とのことです。http://www.asahi.com/national/update/0812/OSK201108120098.html この数値は騒ぐほどのものでしょうか。個人的な感覚で言うなら、自宅に暖炉があれば普通に使用しますが、削って食うのは遠慮したいといった数値です。送り火に使う?「何の問題もないジャン!」といったところですね。 なぜかは、それぞれで考えて頂きたいのですが、私の場合でしたら、いちおう食っても良いとされるセシウムの基準値は1kg当たり200~500ベクレル、それに比較すれば4倍以上なので、食べるのはやめたいになります。しかし、薪です。食うわけではありません。そこで、どういった基準を当てはめようか考え、例えば腐葉土の問題であわてふためいて設定した数値が1kg当たり400ベクレルでしたが、食うものより厳しい訳が分からない基準なので無視し(政府の基準には論理的な統一性がありません)、水稲作付は1kg当たり5000ベクレル未満で許されているので、それくらいを基準に考えることにしました。そして、ちょいと東日本の田んぼの土をすくって持ち出し、琵琶湖の水に放り込んでも「汚染される~」と騒ぐほどのアホにはなれそうもありませんから、「何の問題もないジャン!」となったわけです。 常識的に考えれば、ずっと外に置いてあり、その場所がたまたま吹き溜まりやすいポイントで、松の表皮の凸凹に蓄積していたのが、たまたまサンプリングの際に抽出されてしまい、1kg当たりに換算したら、ちょっと高い数値になったくらいのことでしょう。何しろ、処分してしまった最初の物では検出されなかったのですから、京都の担当者の心映えを図るためか、偶然の特例に当たってしまったのでしょうよ。気になるなら、ジャブジャブ洗ったら終わりの話で恥の上塗りとは、ご苦労千万と言うしかないです。 洗えば済むだけの、田んぼの土に許容されるより低い程度のものに対し、勝手に洗わずサンプリング検査した挙句、「セシウム出ました!」と騒ぎ立て、再度中止してしまったわけです。能書きは、前に検査して検出されず、鎮魂の言葉まで書かれた物を処分したことに対して、十分納得のいく説明をしてからにして頂きたいですな。前の検査は検出されなかったのに無視し、今回は検出されたから重視するのですか?それこそ、恥知らず、だと私は思います。 かくして、京都の鎮魂の志は、一部の愚者の妄動により、潰え去ってしまいました。名古屋の「セシウムさん」同様の風評被害まで、わざわざべったりと擦り付け、被災地の人々の心を弄び、五山の送り火という伝統行事に、拭いがたい汚点を残すことになったのです。誠に残念なことですが、私も今後送り火の映像を見るたびに、鎮魂の静かな気持ちではなく、苦々しい思いばかりを想起するでしょう。 京都を愛する、五山の火が見られる地域の住民の方々、よくよくお考えください。
2011年08月12日
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なお、俳優さんでもう一人気がかりな人物がいるので、付け加えておきたい。 山本太郎さんは、脱原発だか反原発だかの発言や行動を繰り返し、俳優としての仕事の機会を小さくしてしまっているらしく、『新選組!』での原田左之助役が似合っていたと感じていた者としては、残念に思っているのである。 おそらく一般的な日本人の圧倒的過半数は、脱原発を望んでいるはずで、このようなものは争点になるはずがない。そして、電力会社は、今後、電気料金の値上げ幅を大きくすることが難しい中、巨額の賠償を抱え、今までのように、本来は水道局員と変わらない立場にも関わらず、何を血迷ったのか「タニマチ」然としてマスコミやら教育界に金をバラマキ、経産省と癒着してのさばっていたようなことは出来るはずがない。金の切れ目は縁の切れ目どころか、あっさりきっかり即刻切れるのが世の常なので、彼が騒ぎ立て過ぎ去りし日の批判など大した意味をなさないように思える。つまり、彼氏は、非難するまでもなく、もはや木っ端微塵に消えてなくなるに決まっている旧体制を否定して、活躍の機会を失ってしまっているのではなかろうか。、 そのような人間を煽り立て利用しようとする動きもあるだろう。今現在、平和活動と脱原発を混同させようとする動きは、実に胡散臭い。これは脱原発の願いを、非現実的で無意味な念仏に変えてしまう危険性を持っているのではなかろうか。原発は「核の平和利用」などとされていたが、少なくともそれの従事者は犯罪者ではありえない。大量破壊を目的にした爆弾を作って使用する原子力爆弾と、人々の平和な日常生活に寄与していた原子力発電所は、まるで別次元の存在なのである。 大量破壊兵器を無くすなり使わないように努力するのは、平和にむけた活動と言えようし、大いに頑張って頂ければと思うが、原発推進の立場をとったところで、平和を乱しているとの烙印を押せる理屈などどこにもないので、誤解すべきではないし、妙なレッテル貼りは論理性の破滅以外ではない。反原発が正義のように思っているお調子者が出るのは仕方がないが、教条的な反原発運動により、万々一の事故の際の準備がお粗末になったのも、一端の真実であり(「危険があるなら原発は使用するな!」「事故の際の準備をするのは、事故が起きる可能性があるからだ!」などと喚くので、「事故は起きません。絶対安全です」などと『安全神話』を作り上げることになった。おかげで、危険が少しでも減るようにするための指摘をも看過され、今回の事態に陥ったと言える)、我が世の春のように勢いづかれても白むばかりである。 この間、忌野清志郎さんなどの反原発ソングを、何やら先見性のある警句のように持ち上げている人もいたが、あんなもの寝言である。キヨシローという人間は何となくその佇まいが個人的に好きだったが、ロックの歌詞など寝言であり、ほぼ無意味であり、ロック歌手などろくでなしが多いことくらい、当の本人たちすら自覚していたはずである(ジョン=レノンは妻のオノさんのプロデュースで平和を歌う詩人の扱いが付与されたが、本来、便所で用を足すのと同じに歌を作るだけで、意味などないと、「この歌は僕のことを書いている!」と言ってきたベトナム帰還兵の若者に答えたはずである)。寝言を教祖のご託宣として扱えば、照れくさそうに笑うか迷惑がるかで、図に乗るような者はむしろ少ないだろう(彼らは本来的には自分が気持ちよくなるために、黙々と曲を作りガチャガチャと奏でてギャーギャー歌う者であって、演説し群衆を啓蒙感化するのを目的にする者ではない)。歌詞に勝手な意味づけをするなど如何なものであろうか。言いたいことがあるなら、他人の歌に意味付などしないで、堂々と論じたら良いのだ。 常識はずれなことに、以上は前振りなのである。本題の方がずっと短い。 そのフジサンケイグループの雑誌(SPA!)は、節電ムードに否定的で、自販機が問題にならないような記事を書いている。http://nikkan-spa.jp/34737 せっかくの記事なので、全国にざっと250万台ある自販機が、すべて最新鋭で、電飾もつけずに時間あたり300Wの消費電力で稼働しているとして考えよう。単純に250万台で掛けたら75000億Wで、75万kWになるはず。この消費電力を大きいと見るか小さいと見るかはそれぞれだが、75万kWはだいたい原子力発電所の1炉分くらいで、「都知事が騒ぐほど」かは知らねど、私の感覚はこの雑誌の記者君とまるで反対に、この数値を大き過ぎると見る。自販機を存続させるために、原発一つを稼働させねばならないほどの価値があるか、読者諸氏にアンケートでもお取りになってはいかがであろうか? 存続させる理由も、付け焼刃でいただけない。夜道?街灯をつければ良い。道を照らすために、冷却装置は必要ない。ずっと節電できて明るいし無駄にならないことは、赤ん坊でもわかるだろう。冷たい飲み物の入手?、コンビニでもス-パーでも行って、好きなだけ買いたまえ。水筒持参もトレンドだし、逆に簡単に自販機で手に入ると習慣づいてしまっていると、偶然何もないところで熱中症に倒れるケースが見られるのだが、そういったことを理解しているであろうか。特に暑い時期は自販機に頼らず、飲み物を持参する習慣を身に付けた方が身のためかと思える。 この間、自販機業界の努力は涙ぐましく、敬意を表するべきものがあった。値引きをして客足を止めようとする努力も散見された(120円が100円に!しかも500ミリリットルで!みたいなものが)。しかし、脱原発の流れが決定的になり、近々の供給量の増大が見込めない現在、もはや現状の維持も望むべくもなく、早々に業界の縮小を視野に戦略を練り直した方が良いだろう。残念ながら、電力が足りないのに、道端の冷蔵庫を放置して置くというのは、土台無理な話なのである。 さてと、長々となって酔いも醒めてしまったので、震災5ヶ月での暴発は、この程度でやめておこう。
2011年08月12日
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高岡さんは、良い役者になる素質は十分に備えていると思えるのに、いちいち女房の話になってかわいそうだが、彼の女房の宮崎あおいさんが主演していたNHK大河ドラマは文鳥がずいぶん登場したので、その連想が働いているのである。今のそれにも、時代考証の上では、まず絶対有り得ないセキセイインコが登場となったが(飼っている秀吉の側室京極氏をおっとりした人物としているので、ちょこまか動き回る文鳥より適しているとの判断と見た。脚本家なのか演出家なのか、ずいぶん小鳥に詳しい)、渡り鳥の雁をモチーフにしている柴田勝家の家紋『二つ雁金』は、どう見ても文鳥的な小鳥なのでお気に入りだったが、その紋が実にもうやたらと強調されており、大いに喜ばせてくれた(ただし、どちらも歴史学的には滅茶苦茶)。 亡くなられた松田直樹選手の通夜を報道するフジテレビの女性アナウンサーが、あの方の場合、素がそうなのだから仕方がないというか、昔からそれが魅力でもあると思うのだが、中継に入っていないと思って、ヘラヘラと談笑している姿が全国ネットで流れてしまい、顰蹙を買ったのが8日だ。多少でも日本サッカーを知っている人間は、勘弁して欲しい精神状態になっているはずなので、そのあたりへの共感が無かったことは否めない。フジテレビ系列では、東海テレビで岩手県産のお米のプレゼント当選者として、「怪しいお米 セシウムさん」とか「汚染されたお米 セシウムさん」などと間違って表示してしまい、結局、社長が出てきて謝罪の上、番組も打ち切りとなったが、それが昨日11日のことだ。スタッフが冗談で作成したテロップが誤って放映されてしまった、他愛の無いいわゆる放送事故だが、そういった感覚が日常的に蔓延しているように思えるの点が、不愉快で苛立たしい。フジテレビは、今年も20何時間テレビとかいう、未だにバブル期の自己愛全開のお祭り騒ぎを、平気で放映していたような、浮き世離れしているところなので(喫緊に馬鹿騒ぎなどしていられなくなるだろうよ)、上から下まで全てが物事を深く考える習慣を欠如させていると、疑られても仕方があるまい。それにしても、福島県の原発事故で、宮城県を通り越した岩手県、しかも昨年秋に収穫されたお米と関連付けてしまえるのは、無知というより脳みそが無いに等しい。常日頃、テキトーな知識でテキトーに反応しテキトーな冗談を言い合い、何事も他人事で他人の痛みなど考えもしないため、テキトーな仕事で「やらかした」に相違ないが、知能レベルが低く、人間性が卑しく、まったく愚かとしか言いようがない。事実は、福島第一原発から岩手県南端まででも150キロ以上離れており、さらに「三日月の丸くなるまで南部領」と言われたくらいに陸奥の国は広大なので、盛岡市までは250キロ以上、北端では300キロ以上離れている。岩手県よりも事故現場に近い地域を含め、日本人にとって重要不可欠な穀倉地帯の農産品の安全性を確保しつつ、基準値以内なら、同じ日本人として黙って食うべき状況だということくらい、同国人としてのアイデンティティを共有するまともな判断力を有する者は、事故現場から400キロ程度の名古屋圏どころか、さらに遠く遠く離れたところの住民であっても、持っているはずである。有るか無いかの危険性ごときで、自分のつまらぬ人生の保全だけで頭をいっぱいにし、産地選びに狂奔するなど、浅ましいく醜いだけであろう。 同様な日本人の面汚しは、残念ながら全国的にごくわずかには存在し、ごくわずかに過ぎないのに、それにすら気づかず(『KY』なのである)、脊髄反射の素早さでしかも大声で反応するため、身の破滅を起こしてしまっている。自分だけ破滅するなら身から出た錆と言えるが、関係の無い周囲まで巻き込むことになるので迷惑だ。例えば、京都五山の送り火問題。津波で大きな被害を受け、多くの人命が失われてしまった盛岡県陸前高田市の倒木を、京都五山の送り火に薪として使用することが企画され、準備が進められていたが、「灰が飛んで琵琶湖の水が汚染される」などの無知蒙昧なうえに厚顔無恥な、箸にも棒にもかからぬ非科学的なクズ意見が、電話やメールでたった数十件あったために、「世論をみて難しいと判断」し、鎮魂の思いが書かれた薪を現地で処分してしまった事件である。その後、圧倒的な真の世論による非難が殺到し、実施されることになったが、処分してしまったオリジナルは戻らないし、古都京都の人々の良識を疑られることになってしまった。この京都市民の面汚しと言える連中は、東海テレビの担当者同様に、福島と岩手をごく近くと錯覚している。つまり、同じ日本人で、あのような災害のあった地域に対する知識を持とうともしていない(どこぞの軽躁病大臣が、現地の地理知識がないと公言していたのを思い出す。知らないなら学べ!)。その程度に、愚者の分際をわきまえず放射能に怯える。また、こうした愚者の戯言など、しっかりはっきり指摘して排除すべき主催者たちが、それを怠り安易に迎合したのははなぜか。本気で被災地の人たちの気持ちを汲もうとせず、たんに話題づくりで企画したからではなかったか。彼らが、毅然としてはねつけるべきことを怠ったために、今年の五山の送り火を見る目は冷ややかになり、京都のイメージが大きく損なった。その責任はあまりにも重い。日本人には、平和的に事を丸くしようと考えるあまり、何事にも妥協主義、事勿れ主義に陥る人が多いが、不当な圧力には断固屈してはならず、まして自分だけが耐え忍ぶのでは済まないことならば、闘わず屈するなど、不正義であり卑怯であり裏切りであり論外である。非を非と知りながら、それを許容するのは、論語に言う「義を見てせざるは勇なきなり」である。漢文を得意とされる博学聡明なはずの大臣が、最も勇なき泣き虫坊やだったように、論語の文字づらは知っていても、生活態度で実践するのは難しいものだが(『論語読みの論語知らず』)、事は公の行事だ。被災者の鎮魂を込めた薪は既にあったのだ。しかも、ご丁寧にある訳がない放射残留物の検査までおこなっていたのだ。なぜ中止にしたのか。自分の中に、結果的に被災者を踏みつけても恬として恥じない、他人事の感覚がなかったか、この間右往左往した主催者たちは、じっくり自省すべきだろう。朝日新聞の一連の記事http://www.asahi.com/national/update/0806/OSK201108060131.htmlhttp://www.asahi.com/national/update/0810/OSK201108090263.htmlhttp://www.asahi.com/national/update/0811/OSK201108110159.html 五山送り火の主催者も、悪意を持ってことを図ったわけではない。実行にあたって実際汗を流した人たちの善意も、疑いのないところであったはずだ(中止とか廃棄とか言われて、一番腹を立てたのは、京都市民のはずのこの人たちだろう)。しかし、この組織が、被災者の立場に立って真剣に行なっていたのなら、簡単に中止など選択しなかったはずだ。私は、そこに利用する気持ちがあったのだろうと勘ぐる。私が勘ぐるくらいなので、おそらく多くの人が同様の疑念を抱いてしまったはずで、被災された方々の失望も大きいだろう。被災して苦しみ、まるで関係のない放射能汚染を疑られ、「ガンバロー東北!」の善意の裏に、「東北は汚染地」との差別が潜んでいるように思えてくるのではなかろうか。なんとも情けなく、後味が悪い。 今回のような広域な被害を伴う、世界的な天災と人災においては、福島県を差別し、東北地方を差別し、東日本を差別したところで、最終的には日本として差別されているのだ。西日本だとて、例え福島原発の敷地内に生えていた数百本の薪を燃やしたところで、「灰が飛んで琵琶湖の水が汚染される」程度には、とっくの昔に汚染されている。放射性物質の一部は対流圏に達しジェット気流に乗って世界中を経巡っているのだから、琵琶湖にまるで影響していないはずがないのである。しかし、その程度、放射線で考えれば通常のシーベルトの値を押し上げることすら出来ない超微量なので、不安を感じて携帯電話で通話するのと、どちらが健康に良くないかと言えば、常識的には通話する神経状態のほうが危険と言うしかない。今後とんでもない失態を犯さないように、より汚染させられた地域のことを考えてから行動をとる習慣を身に付けたいものである。
2011年08月12日
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私のアノ者への失望・嫌悪を通り越した憎悪は、震災の2週間後に行なった会見に始まるが、それを決定づけたのは5月3日だ。この日、国政を預かっているアノ者とその母親と女房が、連れ立って飯を食いに出かけ、路上で記者に何を食べたのか尋ねられ、被災地に一度も行かないアノ女房がいつもの調子でしゃしゃり出て、「シャンハイヤキソバぁ!」と答えている姿が報道されたのだ。 当時、過度の自粛ムードによる消費の低迷が心配されていたので、それを払拭したいとの思惑だったかもしれない。しかし、未だに被災地では炊き出しが必要な避難所生活が続いており、原発事故現場では粗末な弁当と雑魚寝の劣悪な環境で、作業員が奮闘していた時に、為政者が「シャンハイヤキソバぁ!」など食って喜ぶなど、不謹慎を通り越して正気の沙汰ではないだろう。国民に対しては「キッキ!キッキ!」と危機感ばかり煽っていたアノ者が、一体何をどのように血迷えば、平和そのものの顔で、家族揃ってうまいものを食ったなどと語れるのであろうか? 5月3日と言えば、飯館村住民たちの避難も終わっていない時期である。福島第1原発の北西約40キロに所在する飯館村は、全くの不運な風の悪戯で、3月12日から15日にかけての水素爆発により四散した放射性物質が吹きだまってしまった地域だ。この地が注目を集めたのは、土壌に含まれる放射性ヨウ素131の値が、避難基準を上回っていると、国際機関(IAEA)が指摘した3月30日だ。それに対し我ら国民の安全を守るために存在するはずの保安院が即座に否定、4月2日にはIAEA側が修正することになった。同じ飯館村でも濃淡はあり、サンプル数を増やすと、基準値内だったということだったが、その後、同村の放射線量が高く、4月11日になって、ようやくアノ政府は飯館村の住民の全員を避難させることにし、1ヶ月内の完全実施を求めることになった...。 半減期が一週間程度の放射性ヨウ素131は、事故発生から一週間以上経ってから始めた調査時点では、かなり減っていたと考えられる。一方の放射性セシウムなどは、何十年にも渡って放射線を発生させ続けるので、それがこの地の放射線量を押し上げ続けることになり、避難が必要になってしまった。となれば、わずかばかり知識とまとも思考能力がある人間なら、放射線量が高い値を示した時点で、事故発生現場から20キロどころか30キロ圏外で、危険喚起がされなかった当該地域における、事故の初期段階における被曝の危険性を深刻に考え、格別な処置を迅速に行わねばならないことは明白だったと思う(20キロ圏内には、12日に1号機で爆発が起きた直後、避難指示が出されている)。 ところが、4月11日以前に放映されたNHKの特別番組では、「今日の放射能はどうだぁ?」みたいなことを、普段と変わらぬ恰好をした地元の人たちが野良で呑気そうに話している姿が映され(放射線の測定量が掲示されているのである。しかしそんなもの貼り出されても、普通の田舎の農家の人たちが、どうして良いかなどわかるわけがないだろうが!!)、すでに多くは避難させていると思い込んでいた私は唖然としてしまい、さらに同村に住む小さなお子さんたちを抱えたお母さんが、大家族と一緒に暮らしているし、仕事があるのでとどまっているといったことを涙ながらに話されているのを見て、強烈なショックを受けることになった。なぜ、放射線量などを発表するだけで、避難させていないのか?この人たちに自主的な判断など出来るはずがないので、飯館村がいわゆる『ホットスポット』になっている危険が高いと認識できた段階で(遅くともIAEAの指摘の直後)、なぜ早急な避難指示、少なくとも具体的な注意喚起の徹底を行なっていないのだろうか? しかし、愕然としたのと同時に、今更、すぐに逃げろ何のと余計なことを言うのは、厳に慎まねばならないとも悟った。最も危険と見なされる放射性ヨウ素の半減期は、はるか以前に過ぎていたのだ。今後は、継続的にしっかりと健康チェックを行い、万一影響が出てしまっても早期に治療できるようにし、故郷を離れなければならない住民たちには、早期に発見すれば治療も安易なことと(いずれの地に行っても、しっかり健康診断と治療が可能な体制の構築が必須)、子孫に影響は出ないといったことをしっかり伝える必要があるだけだろう。もちろん、正しい知識を共有し差別など間違っても起きないように、国民一般を啓蒙しなければなるまい。それを、今さら、煽りたて不安感ばかり広げているのは、無知で無責任な人の魯鈍で迷惑なヒステリー反応でしかないではないか。そして、わずかな期待をもって、政府の対応を見守ってきたのだが、棄民以外の何物でもない対応に終始するアノ政府に対しては、すでに抱き始めていた憎悪をいやましに増幅させたのであった。 事故からわりあい早くに、大した組織ではないIAEAなどが、わざわざ飯館村を調べたのは偶然であるはずがない。風向きなどを元にしたシミレーションで、事故発生当時、放射性物質の多くが北方に向かってしまったのは、おそらく周知の事実であった。その時のために、日本政府は『緊急時迅速放射能影響予測システム』を整備していたのであり、そのデータがなくとも、風下が危険なことくらい、3歳児にでもわかるし、分かれば風下の人たちに注意を促すのは、もはや人間としての義務と言っても良いだろう。 事故の際、当然第一に心配すべきはその影響を受けることになる住民の生命・生活のはずで、それを守るために国家はあり政府はあり首相がいるのである。彼らは悪魔教の信徒ではないはずなので、基本的にはそれほど悪い人間ではないだろう。危険な人に危険を伝えるくらいの人間性の持ち合せはあるはずだ。ところが、何もしなかった。彼らが人間である以上、それをしなかった理由は、それに気付かなかったことを意味する。つまり、どこぞの国(ドイツ)の大使館員のごとく、200キロも離れた己の生命の危険ばかりで頭がテンパってしまい、炉心に水をぶっかけることばかりに執心し、為政者として最重要なことを失念したと、彼らの人間性だけは信じている私には理解のしようがないのである。 震災発生当初、東電の本社(本店と書いたほうが宜しいですか?)に押しかけ、わめき散らし、水素爆発の危険が迫っている現地をヘリコプターで視察する、いやはや昔と変わらぬ行動派の正義カン氏のカンカラ頭には(O157の時はカイワレ大根が原因と風評被害を巻き起こし、それを頬張ってみせたり、薬害エイズの際は関係資料を探しに自ら部局に押しかけてみたり...)、万一の際の危険地帯に住む国民への配慮など、持てる余裕もなかったに相違あるまい(そうした単なる軽挙妄動を賞賛したのが全国紙があったのだから笑える)。誠に国民にとって不幸で、禍々しい限りではあるまいか。、 このように、個人的には、震災2、3週間にして、あの政府の面々は、民生、「国民の生活」など爪の先ほどにも考えない為政者の資格などか欠片もないクズの集まり、と結論づけたのだが、その理由を挙げて言い募れば、放置された人たちを被曝者として、その差別につながりかねないと、同時に思えたので、なるべく触れずに、悪口を書くように心がけていた。最悪であっても、次世代への影響はまず有り得ない(被曝したとしても、まだ生まれていない子供には影響しない)低レベル放射能などより、いつまでも続きかねない無知による差別の方がよほど忌々しい。軽挙妄動の人に、誤解の口実になりかねない知見など無用と考えたのである。 震災発生から5ヶ月、いろいろあって、それも現在進行型だ。政府の無能無責任に腹が立ち、そのバカどもを火事場泥ではあるまいに、利用して己の主張を通そうとするような輩(郵政亀さんやソン?トク?さんのことである)に腹を立て、あの歴史に残る棄民政府をまだ支持したがる人間のいるのに絶望を覚え、たんなる不安で近くの浜岡止めても東海村にもあることくらい首都圏の住民はわきまえるべきだと憤り、関西は原発依存が大きいことも理解せずに、脱原発と首都機能の誘致が両立すると誤解しているそそっかしい関西の首長に苦笑し、官僚出身で原発推進の立場のくせに表面上のカッコつけばかりして、実は補助金の条件闘争くらいしか頭にないことくらい見え透いていた九州の首長が、やらせに関わったとして糾弾されるのを冷笑し、「子供のため」と言えば免罪符になると信じているような人たちを憐憫し、その他諸々に脳内をかけまわる有象無象を、いちいち詳細に書いていたら、こちらの精神が崩壊してしまいかねない。控えて正解と言うべきだろう。 精神崩壊と言えば、もっとも冷静であるべき、もしくは冷静さを装わねばならない首相が、癇癪持ちのキッキキッキで、震災直後にすでに精神は崩壊していたと思っていたら、その下にいた九州B型男子は(私も血液型はB型である。しかし、あんなもので性格分けができると信じられるほど非科学的ではない)、妄言と暴言で大臣のイスからあっという間に消え、何と「軽躁病」だったと診察を受けたそうで、やはりキチガイ部落(前首相は「キチガイ」を連呼したではないですか?米軍「基地」は県「外」だと)のキイン内閣だったとの思いを深くしていたら(キチガイ印、キ印・・・。まさかそのような失礼を。あなた任せの両議院の意味で貴院ですよ・・・、ということにしておくぞ!)、中の一匹が国会内の質疑で公然環視の中で号泣する体たらくまで演じてくれた。感情の起伏が激しくなるのは、自律神経失調症とでも診断されようか?行動に現れない漢文の素養を深めるより、九州のB型同様に病院に行かれることをお薦めしたい。 ところが、アノ内閣の構成員諸氏には、大臣の辞表を書く時間も病院に行かれる暇もないらしい。次の首相を目指される方が、キイン内閣の一員の中に多いらしいのだ。・・・、期待しろという方が無理だが、精神病も治ることが多いはずなので、頑張って頂きたいものである。せめて、前任の二人よりも、常識的な責任感というか恥というものを知る人であって欲しいと切に願う。 さて、私個人にできることは節電程度だが、対前年同月比で24パーセントの減少となった。とりあえず「義務」は果たしたと言って良いかと思う。 なお、いまだに東京電力を叩いていて喜んでいる人もいるようだが、それはアノ内閣の責任逃れを助長する面があり、すべて自分に降りかかってくると心得られたい。確かに、あの会社は日頃の行いが悪かったので「ザマミロ」と思わないでもなく、安全対策をないがしろにした「原子力村」などという利権構造は、木っ端微塵に消えてしまえば清々するが、何でもかんでも彼らに賠償責任を負わせれば、電気料金は跳ね上がらずには済まないのも事実である。東京電力のみが高くなるということは有り得ないため、全国一律にアップする(日本の現状は地方分権社会ではない)。何事も他人事では済まないので、スケープゴートにして溜飲を下げるのは注意が必要だ。 他地域のことだと思っていたら、自分のところが電力不足になり、他人のことだと思っていたら、食べるものがなくなる。震災復興に思いを馳せる高邁な日本人であるなら、他人事とは考えず、よりリスクの高い人のそれを少しずつ分かち合うべきであり、日本という国は実際そうならずには済まないように出来ているように思う。後で、自分のことばかり考えていたと後悔しないようにありたいと思う(「ノーモア、ふくしま」となぜか平和活動と絡めて繰り返すより、原発事故のことなど忘れて生活を送るのが正解だと、私は強く思う)。
2011年08月10日
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先月新しいパソコンを導入し、1日早朝にかけデータを置いているサーバーの引越しを実施、その翌2日朝プリンター(『Canon PIXUS iP4500』)が壊れていた。前日は問題なかったのだが、朝になると通電しなかったのだ。 「せわしい時に限って不埒なキャノンめが!」と叫びつつぶっ叩くか、「引越し作業をしていた昨日でなくてラッキー!」と笑って撫でてやろうか、少し考え、どちらも実行した上でゴミ箱に放り込み、当面、複合機で印刷することにした。したが、無いと不便なので、買うことにする。もちろん市民税の納付までしなければならない季節だ。出費は抑えねばならぬ。そもそもモノクロ印刷ばかりなので、新品を買う気にならない。結論、中古。 ソフマップドットコムをのぞいたら、昨年秋発売の最新機種『Canon PIXUS iP4830』が6,980円だった。これならインクの残量がわずかでも損はない気がする。それにしても、ハードメーカーの矜持もなくインクで儲けるのをビジネスモデルにしているから、取替インクの純正品はやたら高い。その間隙に派生する半額以下の互換インクは、最新機のものは出揃っていないのでは・・・と思ったら、すでにかなり出回っていた。ハードメーカー様は、純正品を使わないとウンヌンカンウンと能書きを垂れるが、あんたらの作ってるものは、せいぜい数年使えば修理が必要となり、修理するなら買い換えたほうが安い代物である。能書きは、しっかり頑丈なプリンターを高く販売し、インクカートリッジの価格は抑えて、末永く愛用してもらえるようなビジネスモデルにして言ってもらいたい。大量生産・大量消費・毎年の新製品投入、そういったスタンスは限界が見えてきている。 それはともあれ、買うべし。・・・と購入手続きを済まして注文確認メールを見ると、なぜか7,980円になっていた。どうやら手続き中にセール時間が終わって元の値段になっていたらしい。これは仕様上の不可抗力だが、客としてはキャンセルする以外にない。野口英世さんがいれば、純正のインクカートリッジも買えてしまうではないか。 夕方、楽天で検索したところ、ソフマップが出店しているのに気づく。そして、『Canon PIXUS iP4830』が5,980円で売られていた。「・・・、いい加減な価格設定をしやがって、元値はいくらなんだよ!」と独りごちつつつ、速攻で購入手続きをする(今見たら↓6,980円になっていたけど・・・)。 かくして本日届いた。インク残量は5色中2色満タン3色半量の表示だ。文句はない。初めて見る『BCI-325PGBK』カートリッジ、側面を非透明にしたのは、インクを自分で入れ替える人たちに対する嫌がらせだろうか。入れ替えは面倒なので私はほとんどやらないが、プリンターのメーカーが本当にエコ志向なら、使用者が自分で充填しやすい仕様に純正品を作り、替えインクを安く用意すべきだと信じている(回収ボックス?ネットで買って量販店に捨てに行け?)。それをしようともしないのは、企業エゴ丸出しに悪しきビジネスモデルを引きずっているゆえであろう。替えインク業者とのいたちごっこの研究開発とは、何とも立派な一流メーカーですね! 嫌味はさて置き、とりあえず、純正カートリッジと互換品を、懐具合と気分次第で買い換えつつ運用したいと思う。【中古】【送料無料】CanonPIXUS iP4830【291-ud】【ポイント倍付0603-05】
2011年06月04日
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「復興の見通しもたたない段階で、総理の辞職を求めるなど有ってはならない!」これは普通(の思考能力を有する総理大臣が在職の場合)なら正論。そして、「不信任案が可決されれば解散総選挙!」も正論。自分に非がなければ、主権者である国民に信を問うのが、民主主義だ。 しかし、二つの正論を合わせれば、「不信任案が可決されれば、復興の見通しも立たないガレキの中を選挙カーを走らせる!」になってしまう。どうして、総理が辞職している場合ではないが総選挙をする、などとどうして言えるものだろう?血迷っているとしか思えず、震災復興を名目に政権の延命を図るだけなのは明々白々であり、露骨に過ぎて気が滅入ってしまう。 現政権のあの人らは、原発事故や震災対応を見れば、不定見で見通しが甘いのは、わかりすぎるくらいわかっている。したがって、彼らの目論見が外れて、あっさり不信任案も通ってしまうかもしれない。そして、癇癪持ちのカンカラは、論理的整合性も後先も考えず、選挙をする大義の欠片もないことにすら気づかず、衆議院を解散させてしまうかもしれない(いったい何人の閣僚が署名拒否するのやら...)。とんでもなく迷惑だが、そのようにすると、彼らは言っている。 数勘定など全く出来ず人望のかけらもない、与党の幹事長殿の締め付けが、『初めて』成功したところで、与党は分裂、野党との関係は最悪となった状態で、どうやって政権を運営するつもりなのだろうか...。無責任で目先のことしか見られないというのは、まったく度し難い。ため息しか出ない。
2011年06月02日
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日々の生活に追われているとあまり突き詰めて考えられないことも多く、そもそも何か言われたり書かれたりしたことを「本当かな?」「どういったことだろう?」と、多少の疑念を持って自分で考える習慣は、なかなか身につくものではない。 大抵は、専門めいた人がそれらしい説明をしていれば、疑いも無く信じてしまい、その断片的な知識を、自分なりに持っている知識と都合よく結びつけ勝手に納得して、それが実に合理的だと錯覚する。さらに始末の悪いことに、その妄想に近い結論を、なぜか『科学的』だなどと信じ込んで、他人にも宣伝して回ったりする。誰でもそうなるので、まったく肝に銘じて、知ったかぶりで恥をかかないように気をつけねばならない。 さて、先ごろ、「穀物は生きているので真空パックなどにすると死んでしまう!」などという話をインターネット上で目にして驚かされた。「穀物は生きている」のか?、確かに条件が整えば芽が出るのだから生きていると言えよう。熱処理などをして発芽しないようにしたものとは違うのは確かだ。では、真空パックは空気が無い状態にして保存するものだから・・・、「あら大変!酸素呼吸が出来ないから死んでしまう!」などと考えてしまっているのだろう・・・。 しかし、これはあまりに、お粗末な非科学的な短絡思考だ。穀物なり植物の種子の「生きている」は、生きるためのエネルギーを得るために酸素呼吸していることを意味しない。むしろ酸素などがあれば、いわゆる酸化するばかりで、徐々に劣化することになる。この劣化を防ぐために、種の周囲は殻などで守られているのである。例えばお米。外殻のついた籾状態では劣化しにくいが、外殻を取り除いた玄米状態では劣化しやすくなり、さらにヌカを取り除いた白米では長期保管が難しく、水に浸して炊いてご飯にしたら数日も持たずに腐敗する。つまり酸化しやすくなってしまったに他ならない。 「生きている」が酸化するしないの話なら、有機物はことごとく「生きている」。発芽するしないの話なら、何十年無酸素状態で冷凍庫に放り込んでいても、たいていの穀物・種子は「生きている」。発芽出来る状態を保つには、酸化は大敵なので殻などで保護されているのであり、さらに真空なり冷蔵・冷凍の状態になれば、酸化されないのでよほど長く「生きている」。つまり、「穀物は生きてい」て酸化するので、常温で放っておけば劣化し、いずれは腐る。そうさせないためには、酸素を遮断するのが大変に有効で、有酸素運動をしているわけではない穀物・種子は、酸素を必要としない休眠状態になり、場合によっては数千年後に発芽するだけのエネルギーを保持することが出来るのである。例えば、縄文時代遺跡(千葉県千葉市検見川の落合遺跡)で発見されたハスの種子は、泥炭中に無酸素状態で埋まっていた結果、少なくとも2000年の時を隔てて1952年に発芽成長している(大賀ハス)。 ようするに、「穀物は生きているので真空パックなどにすると死んでしまう!」などと言えば、動物と植物の違いもわからず、呼吸が劣化にもつながるものだということすら忘れはて(奥様たちは、お肌の劣化防止にあれほどご執心なのに!)、無酸素状態の種子ほど長期に生きながらえる事実も知らない、と宣伝していることに他ならない。間尺に合わない小理屈は控えたいものだ。 続いてクロムメッキ。ケージメーカーのHOEI社は、「環境にやさしい三価クロム仕上げ」を謳い、そのサイト上で次の一文を掲げている。 従来メッキ処理に使用されていた6価クロム化合物は人体や自然等に悪影響を与える物質であるといわれ環境基本法などの法律で環境基準値が定められています。海外の先進国では6価クロムから3価クロムへの移行が盛んにすすめられています。HOEIではいち早く、この「3価クロムのメッキ」に切り替え、「ペットへの安全性」と「環境への配慮」を大切に考えてきました。 これを見たメッキ加工技術のことなど知るはずの無い普通の愛鳥家は、「6価クロムを使用したケージは危ない!」と連想することになる。しかし、それは大きな間違いだ。なぜなら、6価クロム化合物の危険性が高いのと、それでクロムメッキを施したケージ製品とは、直接関係ないのである。クロムメッキは金属クロムをコーティングするのであって、常識的には触媒に過ぎないクロム化合物が残存することは有り得ない。従って、6価でクロムメッキ処理をしたケージを舐めようが噛もうが、3価で処理されたものと同様に無害なのである。それでも、念には念を入れたければ、ざっと水洗いするだけで十分だろう。 6価クロム化合物それ自体は有害なので、工場で使用した際の処理が適切でなければ、作業員に健康被害が生じたり、土壌汚染などを引き起こすことになり、その点「環境にやさし」くないと言えるだろう。しかし、それは製品そのものの有害無害とは無関係で、「ペットへの安全性」とはほとんど結びつかない。つまり、環境汚染のリスクを考え6価を3価に切り替えるメーカーは、『エコ』と評価すべきかもしれないが(特に宣伝しなくとも、ケージメーカー他社の取引先のメッキ工場が3価に変えている可能性も大きいかと・・・)、6価メッキの製品がペットに有害だったわけでもない(6価クロムメッキの製品が危険なら、御社が以前売っていたものによるペットの健康被害の苦情を受けないのかなぁ、と・・・)。その点、非科学的、非論理的な誤解をしないように気をつけたいところだ。 以上は、文系の一般人が、たまたま問題関心を持って、自分なりに客観性をもって情報を集めて考え、得た自分に対する結論。問題意識のある人は、安易に真に受けず、ご自分でしっかり調べて、他人にも説明可能な程度の論理性を持った結論を得てもらいたいと思う(認識違いがあればご指摘ください)。
2011年04月22日
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関連地震の揺れでメダカの水槽がこぼれると、鯰足が始まります。 さて、道端の電飾付き冷蔵庫(飲料水の自販機)が石原都知事閣下のご指摘で、今さらながらクローズアップされ、一日だけ空騒いだ者もいた水道水の放射性物質の話も聞かなくなった今日この頃(念のため言っておきますが、あからさまなイヤミですよ)、足立区の生んだコメディアン(ビートたけし)にして、世界的な映画監督で文化人でもあるのかもしれない北野武さんが、11日に「東京湾に原発作れ」と問題提起をされていたのを知りました(サンスポの記事)。 200キロも離れている場所で、これまで福島で作られた電力を消費して豊かな生活を送っていたくせに、多少の放射性物質くらいで大騒ぎする東京都周辺の人間に対する風刺なのだと思いますが、前に触れたように、現実には有り得ません。理由は、人口密集地帯に作れば、事故の際に収拾がつかなくなるからです。10万人は避難出来ても、1000万人は避難出来ません。それだけのことです。当然、万一の際に避難民を受け入れる体制を万全に整えておかねばならないはずでしたが、『安全神話』による思考停止により、政府も電力会社も、長らく本当に事故など起きないと信じ込んでしまっていたようで、受け入れるべき大都市圏の方もうろたえてしまったのですから、実に情けなく、福島県の方々には何とも申し訳ないことになってしまいました。 しかし、東京よりも原子力発電に対するリスクを背負っている大都市は、世界中にたくさんあるのも事実です。 例えば、アメリカのニューヨーク。何と50キロ程度しか離れていない場所に原子力発電所があり、また、北西のコネチカット川で稼働中の原発からも150キロ程度の距離でしかありません。今回、福島第一原発の事故に際して、アメリカ政府は最悪を考えて50マイル(約80キロ)圏外への退避を、早々に自国民に勧告しましたから、万が一にもインディアンポイントで事故が起きた際は、ニューヨーク全市を含む1000万人以上に対して退避勧告を出す覚悟と準備があるのだろうと思います。実に立派なものです(イヤミですよ~)。 イギリスの首都ロンドンにしても、100キロそこそこの位置に原子力発電所があり、200キロそこそこのウェールズ地方では、いくつもの原子炉が稼働中ですし、フランスの首都パリの北150キロそこそこの海辺は原子力発電所の密集地帯で(ロンドンからも200キロ程度の距離)、南のロワール川沿いの原発とも同程度の距離でしかありません。それでも100キロ程度は離れていますし、今回の件で、自国の万一の際の悪しき前例になるような振る舞いもなかったように思います。さすが、『先進国』といった趣です。 実に冷静な英仏両国に対し、驚かされたのがドイツの狼狽ぶりでした。今回、福島第一原発から200キロ以上も離れた東京の大使館員ほとんどすべてが家族を連れて、3月17日に関西へ遁走してしまったのです(4月11日になってようやく戻ったらしい・・・【大使館HP】)。しかし、ドイツにしても、首都ベルリンと北西の都市ハンブルグ間は250キロ程度に過ぎず、その途中のエルベ河沿いでは、原発が稼働中なのです。これらの原子炉に万一の事態が起これば、これまた1000万人をはるかに上回るはずの周辺住民を、どこか他所に退避させる覚悟と準備をお持ちなのでしょうか?外交官というギリギリまで職場を離れてはならない者たちが、事故現場から200キロもの距離にありながら、「友人」であり隣人であった東京都民を不安にさせてまで、遁走するくらいですから、万一自国で事故が起きたら、国民を放り出して政府機関がどこぞに逃げ出す気満々なのではないかと、疑られてしまうように思っていました。したがって、反原発を掲げる『緑の党』が躍進するのも当然で、それはドイツの現政府の身から出たさびではないかと思います。 私にとってドイツと言えばサッカーで、皇帝フランツ・ベッケンバウアーであり、爆撃機ゲルト・ミュラーであり、不屈のゲルマン魂でしたが、今回の狼狽ぶりを見せ付けられて、イメージが変わってしまいました(チェルノブイリの後遺症は根深いものと、同情はしていますが、それでもやはりがっかりです)。 一方、骨の髄まで日本の真の友人が、海外にたくさんいるのも、今回の震災で理解できたと思います。アメリカ軍は、実に親身になって救援してくれましたし、また、長らく日本文化を紹されてきたドナルド・キーン氏は、このたび日本国籍を取得し東京に永住されるとのことです(時事通信)。「雨の時に集まってくれる友こそ真の友だ」と、どこかの気色の悪い無責任な脱税宇宙人が言い、「雨の日にやって来る友人は本当の友人だ」と原発の超先進国フランスのサルコジ大統領が3月31日に来日した際に、どこぞのカンカラが言っていたようですが、発言者たちの人格を無視して、言葉だけはその通りだな、と身にしみているところです。
2011年04月16日
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昨日の今日で、まさか地震の話題を書こうとは、自分でも思わなかったのですが、地震に余震があるように、駄文にもオマケがあるものと、お許し頂ければ幸いです。 本日、大きな余震があり、本震の時よりずっと小規模ながら、またしてもメダカの水槽の水があふれました。業を煮やした私は、再三に備え、水槽を衣装ケースの中に入れることにしました。水受けにしようと思ったのです。そして、作業を終えてふと考えたのでした。貞観年間より千年余の時を経て再現された地震とのことですが、大きな地震の連鎖は無かったのだろうか、と。 そこで放鳥を終えて、つい十分ほど前に検索窓に「貞観地震」と入れてみたら、歴史学者の保立さんのブログの存在を知りました。保立さんと言えば、東大の史料編纂所の方で、歴史学、特に日本中世史をかじった人間で知らない人はいない存在だと思います。内容、さすが目の付け所がシャープで、当初より地震について歴史的な着想をされているようでした(先ほど気づいたばかりでして・・・。えーと、鯰絵についての論文は誰でしたか・・・。歴史学OBの記憶は古すぎて思い出せません。白状すれば、当時斜め読みしかしてません)。 ご紹介されているように、理科年表に詳しいようで、関連しての大きな地震被害の記録は無いようです。当時は全国に国衙という役所、中央政府の出先機関がありましたから、大きな地震で被害が起きると、案外記録に残っているはずです。となると、とりあえず千年余の例を踏襲するなら、余震は余震で治まってくれることになるのかなぁ・・・、と思いました。 ほら、また余震が・・・。しばらく、我慢、我慢ですね。
2011年04月11日
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明日で震災1ヶ月。 にもかかわらず、原発事故のせいで、収容できない遺体も多く、やるせない状態のままですが、この話題に触れるのは、これで最後にしたいと思います。他人の悪口になるので、くたびれるし・・・。 東京への一極集中は好ましからざることだと思うので、移住先で生計がたつ人は、この機会に、お好みの地へお移りになって良いかと、個人的には思っています(何とかクリエーターには悪いけど、西表島はあまり勧められないなぁ・・・)。 東京の大テレビ局、4チャンネルでおなじみの日本テレビの「報道局社会部デスク」という役どころであったという人も、放射能を恐れ、職場を放棄して関西地方に遁走したそうです(記事)。これは、臆病風に吹かれただけなので、職場放棄に対する社内処分は当然として、人間として責められることではないと思います。怖いものは怖いのです。それは理屈ではありません。例えば、大坂夏の陣で真田幸村の軍勢が乾坤一擲の突撃を敢行し、徳川家康の本陣に突き入った際、その勢いのすさまじさに、家康の身を守るべき旗本たちの多くが、主人を省みず脱兎のように逃げ散ってしまったと言われています。 しかし、この方、ご昵懇らしいクリエーター氏の西表島のお宅ではなく、関西でにあくまでも個人的な取材を重ねて、ブログ上に問題提起を続けられているのを知り、その内容を先ほど拾い読みしていて、何とも辟易とさせられました。 例えば、4月10日付に医師で岐阜環境医学研究所所長である方の話として、「現実に可能かどうかは別として、内部被曝という観点からしますと、中部より西日本の圏内まで退避するほうが望ましいと僕は思います」、とあります。そのようなご発言をされたのが本当なら、ご本人は気づいていないかもしれませんが、こういった発言こそが、世の中で「学者馬鹿」と呼ばれる由縁だと思います。現実に不可能なことをペラペラと話すのは、浮世離れした無責任と見なされるだけ、ということにすら気づかないのですから・・・。 感想としては、社会的身分を捨てて東京から逃げ出すほど関心が高かったはずの人間が、『内部被爆は危険だよ』程度の話を聞いて「改めて中身を聞くとびっくり」とか「発生する可能性を指摘され」ただけで「愕然する思い」になる方がむしろ不思議、というだけです(何を怖がって逃げたのかと・・・)。ごく微量でも問題あると考えるか、考えないか、つまり解釈の違いは専門の研究者の間に存在するわけで、どちらが正しいとは現時点ではわからず、とりあえず危険をそれほど過大視しない側が優勢(チェルノブイリの事例がある。ただし、データ不十分とは言える)、というだけの話です。研究的な学問を知らない人は、とかく白か黒か丁か半か、みたいにどちらか一方に割り切れると考えてしまいますが、いずれの専門的な学問でも、研究者の意見が一致することなどほとんど有り得ないものです(一致するくらいなら研究など無用)。 それを、素人が恐怖心に任せて、自分が指向する少数意見ばかりつまみ上げて、それを吹聴し、不特定多数の人の不安を助長させるなど、ずいぶんといい気なものだと思います。そして、いつもは学会で少数派として虐げられているのかもしれませんが(多数派は電力会社からお金をもらって研究費が潤沢だという話もありますし・・・)、ここぞとばかりに素人相手に学問的な自説、それも一般人の生活に大影響を与えるような内容を展開していると見なせば、社会人としての常識の欠如と、研究者として慎みの無さを感じるだけで、誠に遺憾です。そのようにお暇なら、せっかくの「好機」ですから、門下生でも引き連れて、さっさと現地で長期にわたる健康調査を敢行し、資料をそろえた上で、言いたいことは学会で述べて頂きたいです。 「リスクを軽視することが正しいと言う人々が、まさにそれを軽視することそのものが、国民の安全を最も損ねていく可能性があると僕は思うからです」と、書かれてもいました(ブログは紹介しません)。笑止千万ではないでしょうか。地位も名誉も職場も同僚も捨てて、臆病風に吹かれて行き着いた先で、その恐怖心に理由付けしようと奔走するのが、ジャーナリストの使命とでも信じていらっしゃるのでしょうか。それはジャーナリストならぬ「しゃーない人」・・・、いやいや、バーナード・ショーの言葉を謹呈します。 「愚者は自分が恥ずかしく思うことをすると、それは自分の義務だと言い張るものだ」 関西には比叡山とか高野山とか、じっくり自分を見つめなおすには良さそうな場所も多いので、そちらに行かれた方が、精神的な苦痛は和らぐかもしれませんね。 実証されていない危険性のみで、多くの人たちの生活を奪うようなことは、常識的に不可能です(何百万人以上の規模となると物理的に不可能)。しかも、チェルノブイリで30キロ圏の強制移住処置の前例がありながら、20~30キロ圏すら、自主避難の形で放っておくような無能な政府が、より前例のないことを実行に移せるはずがありません。 と言うより、すでにしなかったのが現実です。避難させなかった現実に立ち、放射能過敏派なり慎重派で晩発障害を心配するのなら、原発○キロ圏に住む人や何マイクロシーベルト以上が検出された地域の人は、今後の健康をしっかりモニタリングできるように、定期検査を密にし、その医療費などが一切必要でなくなるように、あの魯鈍な政府に強く要請して頂きたいところです。それが、現実に則した建設的な考え方のように思います。 原発の状態にしても、「予断を許さない」わけで、最悪の事態も絶対に無いとは誰も言えません(千年に一度の天災という話ですし・・・)。本来なら、最悪の事態となった時はどうするのか、「最悪とはコレコレで、その場合もかような処置をとるのでご安心ください!」くらい言って欲しいですが、あの政府に期待など出来ませんから、とりあえず昨日触れたアメリカの勧告が、最悪に近いケースくらいに考えて、不安な人は気の済む程度に具体的な準備をしておくのが、ネットでいろいろ頭だけ肥やすよりも、精神的にも良いかと思います。 私などは気楽なものなので、「苦しみが残していったものを味わえ!苦難も過ぎ去ってしまえば甘い」などとゲーテのように他人には言えませんが、一休さん(一休宗純)の言葉でもかみ締めつつ、余計なゴタクを閉じましょう。 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
2011年04月10日
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私は子供がを名前を出して公に意見を表明することを否定します。理由は、子供だからです。ただし、子供だからろくな意見を言うわけがない、などと決め付けているのではありません。若い方が脳細胞も活発なので、当然「スルドイ!」指摘を含んでいるはずです。しかし、それはその子の周囲の大人たちに対して発揮していれば良く(学校の先生をいじめていれば良いのです)、情報社会の不特定多数に表明するのは不適切だと信じています。 なぜか?今後の学習などで必ずや変わるに違いない可能性を、拘束する結果になることを恐れているのです。無恥な人間でなければ、自分の発言にはある程度責任を持たねばなりません。まだ考え方が定まるべきではない成人前の子供、これから学び取るべき知識や知恵によって己の意見を形成していかねばならない彼らが、未熟な段階での己の発言により、その後の可能性を制約されるべきではないと思うのです。実際見てご覧なさい。中高校生くらいの時期に、一方の思想にかぶれたようなことを、何たら集会などにいかがわしい大人の思惑で担ぎ出されてペラペラ話してしまった当時は子供のその後の人生を・・・。 子供は語らず学び、青年は語るより動く、壮年は暇なら語り、老年は呆けるまで語る、そしてボケたら隠居、これが長寿社会の望ましい有り様だと信じています。 さて、ソフトバンクの孫さんという人は、老若男女、種種雑多な人が意見表明することが出来るツィッターなりのネット社会を、志のある在野の人々が立ち上がり国家的危機を救う、幕末維新期の草莽崛起(ソウモウクッキ)の状況と重ね合わせているような気がします。坂本竜馬を尊敬されているそうなので、草莽崛起の社会で国事に奔走した彼に、自分を重ねているのかもしれません。 しかし、日本屈指の実業家である以上、草莽では有り得ません。草莽とは、本来世捨て人の隠者のことですが、とりあえず市井にあっていろいろ考える人のことです。政治への影響力としても経済力としても、幕末の藩侯に比すべき大会社の社長が、「私は草木のような者でございます」と気取ってみたところで、それは空言でしかありません。影響力が強すぎ、その発言は下からのものではなく、トップダウンにならざるを得ないのです。 孫さんは万機公論に決するのではなく、責任ある大人の議論とは異なるチュンチュンつぶやくツィッターを多用され、昨今次のようにチュンチュンつぶやかれたそうです。 「直ちに健康被害無し」というのは、おかしい。「直ちに健康被害有り。但し症状が直ちに出るわけではない。出た時は、概ね手遅れ。」これが、正しい表現なのではないでしょうか 市井の庶民がこのような内容をチュンチュン言っても、何か一方的な知識で脳内を占拠された人が、思い込みでつぶやいているだけと見なされ、特に取り上げられはしないでしょう。ところが、大会社の社長様となれば、何らかの明確な裏づけを持った上での責任ある発言と見なされてしまいます。それにしても・・・「出た時は、概ね手遅れ」とは何です?現在、人が住んでいて、そこの放射線は下がり続けている段階にあって、すでに一番高い濃度の状態を経験した人たちに対し、軽々に言えることでしょうか?言いたいのなら、少なくともあの程度の放射性物質で、癌や白血病の発生率や飛躍的に上がって、それも皆治療ができないと信じられるような、根拠を示して頂きたい。そういったことにはならないとする方の根拠なら、チェルノブイリ後の科学的な研究報告で確かめられるので、チュンチュンつぶやく前に、ご勉強になられることをお薦めします。 私には、あの魯鈍な政府や学者馬鹿な人たちの擁護をする義理など欠片もありませんが、「直ちに健康被害無し」と言うのは、吸い込んだらたちまち急性白血病にでもなって髪の毛が抜けるとか、多少放射性物質の濃度が高かった土壌に触れたら、なぜか放射性熱傷を引き起こす、といった、無知な一般人が妄想していると、浮世離れした学者が仮定しての、まるで不器用でかえって不安をあおるだけの「ダイジョウブですよ」、に過ぎないものと理解して、せせら笑っています。隠蔽とか陰謀とか、とっさに出来るような器用な学者など、まず居ません(時間をかけて裏で示し合わせることは有り得る。「御用学者」とはそういった手合いのこと。個人的にウソをつけるタイプの賢さの持ち合わせは、「学者馬鹿」にはございません)。 「直ちに健康被害無し」の意を、より間違われないようにするなら、「直ちに健康被害を及ぼすほど大量ではありませんが、その状況が数日以上も継続してしまえば、将来的に健康に悪影響を及ぼさないと、自信を持って言えません」になるだろうと、私なら理解します。そして、放射性物質の新たな飛散を起こす新たな事態が生じない限り、生活環境に存在する放射性物質は低下する一方なので、過剰に心配する必要はなく、ただ、土壌などは通常以上に汚染されてしまい(あくまで比較の問題)、それが風などで巻き上げられたものを吸い込むのは、健康上好ましいとは言えないので、花粉症対策並みの注意は、念のためしばらく続けた方が良いでしょうね。くらいが妥当なはずです。 「大したことはないダイジョウブ」も「爆発的なことがあったら1ヶ月ほど逃げろ」も、どちらも科学的には否定できませんが(前者は経験に基づき、後者は可能性に基づく)、生活者レベルの常識的なところは、以上のような感じなわけです。 小さな可能性で心配すること自体は、別に非難されることではないですが、周囲を巻き込んで不安を助長されても困ります。例えば、3月16日の段階でアメリカ政府は、自国民に対して福島第一原発の80キロ圏外への避難を勧告し、20~30キロ圏内の住民に対し屋内退避のみを求めていた日本政府との違いを際立たせ、人々をより不安な気持ちにさせましたが、ほとんど根拠もなく、有り得ない程度の最悪の事態を想定しての勧告だったとのことです(時事通信)。実に頼りがいのあるアメリカ政府様でも、こういったものなのです。 可能性がわずかでもある以上、万全の安全策をとっても間違いとは言えないでしょう。しかし、事故の可能性があるから車を運転しない、といった心配ばかりしていたら、生活は成り立ちません。生活者には生活者の知恵が必要だと、私は強く思います。
2011年04月09日
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いつの頃から言われ始めたものか、「ガンバレ!」と他人に言うのは、押し付けがましいのでやめたほうが良い、という見解があります。若い頃の私も、頑張っているに決まっている人や頑張ろうと思っている人に、「れ!」などと命令口調は如何なものかと考え、「オメーに言われたくネーよ!」と反応されて当然と思っていました。 しかし、間もなくこの考え方は改めました。「ガンバレ!」は自分への励ましで、ほとんど独り言の類であって、これをあえて他人に対して用いるのは、『惻隠の情』から出てくるもの、つまり相手の身に瞬間的になったつもりになって、一緒にがんばりたいとの意思表明と受け取るのが素直だ、と認識するようになったのです。 確かに、他人からの命令口調ととらえたら、「これ以上どう頑張れって言うんだ!」とつむじを曲げたくもなりますが、仕事にせよ生活にせよ、本当に苦労して額にも心にも汗して懸命に生きねばならない時、人間は「ガンバレ!ガンバレ!」と自分で自分を鼓舞せずにはいられないはずです(若ければ若いほど、恵まれていれば恵まれているほど、実感する機会に遭遇しないで済むかもしれない)。「コダマでしょうか?」「いいえ、誰でも・・・」といった詩のフレーズが、震災直後にやたらと放映されていたようですが(個人的にはNHKとニュースバードばかり見ているので気づかない)、他人からのかなり無責任な感じの「ガンバレ!」でも、自分の声のコダマだと思えば腹は立たないと思います。 今回の大震災において、その復興に向けた合言葉は「がんばろう日本」のようです(阪神淡路の際は「がんばろうKOBE」)。「がんばろう」の方が「がんばれ」より、勧誘的なやわらかな表現となり「一緒に頑張りましょうね」のニュアンスが強まるので、こちらの方が誤解を招きにくいかもしれません。しかし、苦境に立った時の自分自身にかける言葉なら、「気合だ~!」と言うのもありますが、やはり「ガンバレ!ガンバレ!」、方言なら「ケッパレ!ケッパレ!」の方が、歯切れが良いと思います。 被災地などで、いろいろ苛立ちや不安を抱えつつ奮励努力されている皆様に、「ガンバレ!ガンバレ!」。
2011年04月09日
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昨日、久しぶりに『荒澤山草園』さんのホームページを拝見したところ、お身内にご不幸があり閉店されていました・・・。少しずつ安いものばかり買う迷惑な客に対して、栽培方法などを丁寧にお書き添え頂いて、ありがとうございました。白花姫シャガ、白花ヒナ草、青軸ニリンソウ、ニリンソウ(銀盃)、白花ツリガネツツジ、カラフトビランジ、ミヤマアズマギク、黄花アズマギク、ヒナ草、白花大輪ヒメフウロ、ミヤマカタバミ、八重咲ミヤマカタバミ、大切にしないと。 ミニ盆栽をたびたび送って頂いた『はなだて』さんは、福島県双葉郡大熊町に所在されているはずです。大熊町は例の原発の20キロ圏内で、津波を免れた住民の方々も現在会津若松市に集団避難されていると聞き及びます・・・。小鉢のプレゼントは、いつも有り難かったです。サルスベリ(なごり雪)、白花キンロバイ、白花茶、香丁木、枝垂れ富士桜、ご無事を祈りつつ、大切にしないと。 春の芽吹きに、咲く花に、ゆっくり福島のお酒を酌みましょう。【記事】東北の日本酒蔵元「お酒飲んで!」「このままでは二次被害!」 とその前に、福島の人に対する差別をおこなう輩がいるそうなので、念のため一言申しそえます(昨日から小学館の回し者になっているような・・・。週刊ポストの記事・女性セブン記事)。 肩を叩こうと抱きしめようと舐めまわそうと、本人に殴られるか警察に捕まる以外の危険性などありません。 放射能漏れを起こしているものに近ければ近いほど、外に出れば放射性物質をより多く浴びる機会があったかもしれない、と言うだけです。万万万が一にも放射性物質を比較的多量に体内に吸い込んでしまった人がいたとしても、それはそのご本人の健康が心配されるだけで、他人に影響など与えません。 基本的に花粉症と同じなのです。外から戻った人の体や衣服に付着していた花粉を、無頓着に室内で払ってしまったら、室内の花粉症の人がくしゃみすることになりますが、玄関先で払って、さらに気を使うならシャワーを浴びて着替えてしまえば、花粉ゼロでしょう?問題は花粉の有無であって、人は無関係というわけです。避難されて来ている方は、特別な場所を経巡っていたわけでもなければ、普通に着替えもされていますから、我々とまったく同じです。 そもそも、福島県人でも東北人でも東日本人でも日本人全体でも同じでしょう?無知蒙昧なアジアの一部の国が、日本人渡航者全体に「放射線検査」をおこなっているではありませんか。同胞に対してそういった愚行を犯さないように、恥を知る日本人であれば、厳に慎みたいところです。
2011年04月08日
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奥の松酒造、会津若松市の造り酒屋さんかと思っていたら、本当は二本松市でしたか。早速いただきましたよ。春のしぼりたて。フルーティーで少々辛め。結構でございました。 盆栽の桜とプランターの桜草を愛でつつ一杯だけ飲んで、また一つ気になる記事があったので書いておきます。 犬のお父さんのCMで知られるソフトバンク社の孫さんは、この大震災後、実に精力的に活動されています。個人的には苦々しい面もありますが(簡単に広域の避難を呼びかけるのは軽率。出来る目処があって言わなければ無責任な扇動。ツィッターなどで脊髄反射をするのは、責任のあり影響力が大きければ大きいほど自粛すべきこと。行うなら偽名なり匿名が筋)、100億円を寄付するそうでもあり、真剣に危機感を持って事に当たられているのは間違いないと思います。この方も、どこぞのカンカラカン同様に坂本竜馬を尊敬されているそうですので、国家的危機に当たって国事に奔走する志士のイメージをお持ちになっているに相違なく、スッカラカンよりよほど志士とは言えるでしょう。その行動力と財力には敬服しており、また尊敬されている人物に恥じぬ行いと言えるかと思っています。 その孫さんが、また物議を醸しているそうです。「やりましょう。被災動物救済援助」「ペットも飼主にとっては、家族同様。愛動物家皆で援助しましょう」として、被災して野良犬かしたのか、飼い主が被災して世話が出来ない犬を疎開させる活動を支援するそうで、それに対しても、ずいぶんと批判も浴びているらしいのです。批判側の急先鋒は池田信夫さんという方だそうで、いろいろツィッターでの発言が記事で紹介されています。 個人的には、今現在こういったことを大見得を切る形で行えば、非難されるのは目に見えているので、粛々とやって頂きたかったのですが、私は孫さんの肩を持ちます。「犬だけ?」となると愛猫家や愛鳥家やその他からの批判もありそうですが、それは置いて、人間に依存して生活しているペットを守ることも、人間社会の豊かさを守る上では、必ず保持しなければならない不可欠な部分と考えているからです。 「災害の現場を見ればわかるが、救援活動は「捨てる」こと。10人を助けるために1人を見捨てることもある。犬が野犬化して困るというなら、檻に入れるか殺すべき。1万人以上も行方不明というのは、まだ救援の方法で救える人命があるということ」 このように批判される方のお気持ちはわかりますが、それは現代文明社会に生きる人間の発言として、如何なものでしょうか?言葉が過ぎているように、私には思えます。確かに、災害現場で生きるか死ぬかの状態にありながら、他人を助けず自分のペットを助けようとすれば、それは利己的な異常と指弾されてしかるべきでしょう。しかし、すでに数週間も経過し、曲がりなりにも避難所でも生活が可能になっており、ご不便な中にも復興の努力がなされるようになっています。そうした段階になって、人間が守る以外にないペット動物の保護にも目を向けるのは、当然の成り行きであり、それを行わない方がよほど人として無責任と言わねばならないのではないでしょうか。まして、他人の所有物に他ならず、また、亡くなった人が大切にしていたはずの「物」を、多少ゆとりのある状況になって、仇や疎かにするなど、人間性の欠如した人非人の仕業になりはしないでしょうか? いつまでも非常時ではありません。むしろ平常に戻る努力こそが被災した場合の糧になるはずで、現代の平常とはペットも豊かに暮らす状態に他ならないと思います。それを完全に切り捨てて、復旧なり復興などが有り得るものでしょうか?ペット動物が嫌いな人は、ペット動物はたんに飼い主の趣味で飼われていると見なされているのかもしれませんが、趣味だけとしても、趣味を否定して汲汲と日常生活のみを送らねばならないものでしょうか?皆様はそのように無趣味で禁欲な生活をなさっているでしょうか?そして、被災者にそのような生活を送るように強制されるおつもりでしょうか?ツィッターなどで、まさに趣味的な無駄話を脊髄反射で行う暇があるのなら、少々自省をされたらいかが、と批判される危険を自覚されませんか? もちろん、何事もペット優先の飼い主や人として生まれながらほかの生き物の生命の方を優先するような人がいるとすれば、そちらにも一言申し上げねばならないでしょう。 飼い主は人間で、人間社会に生きており、その人間社会で生きている飼い主が存在するからこそペット動物も生きていられるのです。つまり、人間社会は何よりも優先されねばならないのは当然ですね。 非常事態に際しては、自分のペットよりも他人の生命が優先されます。飼い主自身にとっては、見ず知らずの人間の生命よりも、何十年も伴侶として生活した最愛のペット動物の生命を優先したいかも知れません。しかし、それを実行したら、人間社会への裏切りとなってしまいます。そのペットに与えるエサは、人間社会があってこそ得られるものでしょう?その社会を無視して、ペット動物の飼育など有り得ません。人間でないものが飼い主になれるはずがないのですから、飼い主としての立場より、人間社会の一員としての立場が優先されなければならないのです。 したがって、非常時は、池田さんその他ペットに同情の薄そうな人たちの議論を甘受しなければならないでしょう。その覚悟が必要で、逆に言えば、その非常時にペット動物を保護できなくとも、自分を責める必要は無いのです。しかし、少しでもゆとりが出来てから気にするべきで、それはまだゆとりがない人たちの迷惑にならないようにしなければならないでしょう。こうした際の飼い主は、そういった感じでいるしかないと思います。
2011年04月07日
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ネットスーパーの配達で、福島県産の日本酒(名水「安達太良山の伏流水」と「福島県産米」を使用。酵母も含めてすべてが地元の奥の松)が届くまで、少しは参考になるように、原発や放射能関連の情報でも見ておきますか・・・。 チェルノブイリの場合、原子炉そのものが爆発して施設の大部分が吹き飛び(それでも原爆のようにきのこ雲が出来たり、まして大隕石の衝突のようにクレーターを形成する力は無い)炉心にあった放射性物質がかなりの高度にまで巻き上げられ、それが世界中に拡散しました。福島第一の場合、炉心部分が爆発したわけではなく、建屋の天井にたまった水素が爆発を起こし、建屋の天井や側面を吹き飛ばしたため、冷却出来ずに傷ついていた核燃料から生じていた放射性物質が空中に飛散しました。 素人の私から見ても、この両者の事故内容にはかなりの隔たりがあり、炉心部分の爆発と建屋天井での水素爆発の破壊力の違いを数値で考える専門性の持ち合わせは無いもののも、普通に考えれば、天井を飛ばす程度の爆発で、成層圏まで塵が運ばれ全世界に拡散する可能性は、かなり低いように思っていました。したがって、世界各地で検出された!などと騒いでいる国なり機関に対しては、どんなものだろうと眉唾に見ています(後進国ほど無知で不安がり、先進国は過敏症でヒステリーになります。日本も他国で起きれば似たような反応をするような気がしますが、どちらも見苦しいですね。それほど放射能恐怖症なら自国の原発をまず禁止すべきでしょう?欧米の皆さん。自国の風上である西域ウィグルで、驚くほどの核実験な繰り返しておきながら、基本的には風下の日本からの渡航者の放射線量を深刻面して測定するとは面白いですね?中国沿海部の皆さん。平和利用をしていて世界規模の天災で事故を起こしたのと、大量破壊兵器を所持するために空中や海中に放射性物質を何十回何百回と撒き散らすのと、どちらが罪深いか、核兵器所有国は少しばかり考えてから発言するなり行動をしたらいかがです?それが、歴史に学ぶというものではないでしょうか?)。 当然ながら、水素爆発で四散して地上の風により拡散するだけでも由々しき事態です。しかも、今回の場合は、問題を起こしている炉が4つも並んで存在しているという前代未聞の状況でもあります。どの程度を許容するかはそれぞれの考え方次第ですが、自然環境にも影響を与えてしまったのも事実で、その点日本には責任があります。しかしながら、事故が起きるかも?ではなく、すでに起きてしまっているのですから、今は悪化しないようにし、放射能漏れを早く止め、さらに汚染に対する事後処理を、淡々とこなしていくしかありません。200キロも離れた所にいる私などは、現場で努力されている作業員、対策を練っている技術陣、皆さんのご尽力に感謝しつつ、さらなるご健闘を期待するばかりです。 さて、社会科分野の人間としては、嫌味も言ったことだし、やはり核実験についても触れておきましょうか。 現在では核実験と言えば、最低でも地下で行われますが、昔は地上で普通に行われていました。砂漠とか孤島とか人が周囲に住んでいない場所で原爆や水爆を破裂させ、盛大なきのこ雲を形成させて、「どうよ、この破壊力、スゲーだろ~!」といった脳天気な態度でいたわけです。当然、放射性物質は、土壌を汚染し、海洋を汚染し、大気中も汚染し、結果、そうした実験の多かった1960年代には、今とは比べ物にならないほど多量の放射性物質が、大気中にも地上にも水中・海中にも満ち溢れていました。これについては、「今の1万倍!」などと説明している専門家もいるようですが、それほどではないのしても、今の基準値や指標など適用できるはずが無いほどであったのは間違いないところでしょう(今を限りなくゼロとすれば1万倍になるのかもしれませんが、そのような過大な言い回しはかえって疑われてしまうのではないでしょうか?詳細な検討をしたければ、大学に行って専門の研究をするしかないので、そのような志の欠片も無い文系の私は、一般感覚で理解できる範囲でしか理解しませんが、それでも放射線科学センターや環境放射能と放射線の読み取りづらい資料を何となく眺めただけでも、1960年代70年代の濃度が高いのはわかります。しかし、たんに一万倍と言われたら、何と何を比べているのか問い詰めたくなってしまいます)。 それでも、60年代生まれも元気で、特に甲状腺に問題を抱える人が多いわけでもないでしょう。ただ、まったく影響しないとは言えないので、余計な放射性物質をまき散らすべきではないだけのことでしょう。個々の数値で一喜一憂しても仕方がありません。 仕事の合間に、いろいろ見ていたら、週間ポストという雑誌が、この件については、実に真摯で立派な姿勢を貫かれているのに気づきました。目に付いた記事を挙げれば、ざっと以下のとおりです。 ・ヨウ素131による甲状腺がん 40歳以上は心配しなくていい(3/28) http://www.news-postseven.com/archives/20110328_15959.html ・政府機関による調査「放射能で遺伝的障害出る」説を否定(3/29) http://www.news-postseven.com/archives/20110329_15987.html ・自然放射線の多いブラジル・ガラパリ 日本の6倍以上(4/1) http://www.news-postseven.com/archives/20110401_16209.html ・1960年代の日本の自然放射線による被曝は今より高い(4/2) http://www.news-postseven.com/archives/20110402_16229.html そして、このような記事もありました。 ・宿泊施設 「除染していない」と福島からの宿泊客を拒否する http://www.news-postseven.com/archives/20110406_16759.html 無知で無恥、まったく許せない輩がいるものです。日本人の面汚しと言って良いでしょう。 何でも、福島県郡山市出身の俳優西田敏行さんが怒り心頭に発しているようですが(夕刊フジ)、故郷の山河を汚されたと感じれば当然でしょう。同じ日本人であれば、故郷を持つ者もそうでもない者も、せめて同情して、軽率でふざけた差別は、厳に慎みたいですね。 ・・・そろそろお酒、届くでしょうか?
2011年04月07日
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統一地方選の期日前投票に行きました。 神奈川県知事選、候補者3名、赤いおばさんと町長さんとアナウンサーですか・・・。横浜市民は神奈川県民であることを忘れているのが普通なのですが、それでも候補者の中からしっかり選ばないといけません。・・・「日曜朝のアレかょ」と考えた人は、一択になってしまうかと思うのですが・・・、アレでも知名度で知事になってしまうのですかねぇ。 東京都知事選の方は多士済々のようですが、普通に考えれば、閣下と居酒屋さんとコメディアンの争いでしょうか。嫌われているどころか憎まれている政党の支持を受けた時点で、無党派の支持は呼び込めないでしょうし、東京の人はほとんどがご自分たちも出身はそうであるはずなのに、地方色を無闇に嫌うところがあるので、結局こちらも一択なのでしょう。まだまだ、閣下には、晩節を汚さぬように、任期中に人生の『黄昏』を迎えるようなことのないように祈りたいところです。 はっきり言えば、個人的には地方選挙より、朝のNHKのお天気担当がカトーさんで無くなってしまったことの方が重大で、さらに、ニュース専門チャンネル『TBSニュースバード』で、原子力保安院の乱れない頭のおっちゃんや(ハーバード大卒で通産省の審議官というバリバリのエリートなのに、あ気安い雰囲気はただ者ではないですね。必ずや自虐ネタを決めてくれるものと期待しています)、何だか自信なさ気でしょぼくれ果ててしまっている東京電力の人たちの記者会見ばかりが流されているのも、大問題となっています。あのような会見は、一般視聴者が聞くだけの価値はないです。やめましょうよ。プロデューサー様?編成局長様?とにかく赤坂サカサカ・・・御殿のエライ人、景気対策のためにもお願いします。 そろそろ、放射能で空騒ぎするのも、付け焼刃の自粛を続けるのにも、疲れてきたのではないでしょうか。どうせ庶民は不謹慎なものですよ。そして、その図太いあつかましさで、社会経済は成り立っているものです。とりあえず、買ってきたビール片手に花見でもしますか。それより、やたらと安い栃木産のイチゴ(1パック150円!もちろん3パック購入)でも食べますか。 などと、前置きなく書くと、脳天気すぎると言われそうなので、やはり原発にも触れておきますか。 今日『News week』の記事を読んで、まったくその通りだとうなずきました。 「大災害は人間の本性をあらわにし、その強さを試す。一瞬にして日常が非日常に取って代わられたとき、人はどう振る舞うか。泰然と構えて冷静さを保ち、周囲に気配りを見せられるか──それとも、パニックに陥って取り乱し、自分のことだけを考えるのか。」 泰然、どうすれば出来るでしょうか。前も触れましたが「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は惑わず」のどれか一つでも心がけているか、もしくは何も考えないか、ではないでしょうか。孔子様的には「小人」となるでしょうが、何も考えていない庶民はすこぶる強いものです。「愚かな怠け者」は「愚かな働き者」よりも、よほど他人のためにも自分のためにもなる者なのだと、私は信じています。 知・仁・勇の内なら知が一番求めやすいのではないでしょうか。しかし、何か事が起きてから慌ててそれを求めると、たいてい「愚かな働き者」になると思います。文鳥の飼育に関しても見かけるではありませんか。何も知らない初心者ほど、予備知識を持たずに慌てふためき、たまたますがった何者かを無批判に信じてしまい、それを信じない人をすべて「何も知らない」とか「考え方が古い」などと決めてかかるような人が。獣医師だとかペットショップの店員だとかベテラン飼い主だとか、そういった者が何か飼育に対して絶対的な権威をもっているように錯覚し、その人の意見をご託宣のように後生大事にするばかりか、それに反する意見は全否定する、無邪気ですけど愚かと言うしかないような人のことです。 今回の放射能漏れについても同じような気がします。社会科大好き人間の私は、昔から、生活者の一般的なレベルでそれがどういうものか理解しているつもりなので、別に惑いません。専門家ではないので、専門的な知識など知りませんが(それでも臨界とか炉心溶融がどういったものかくらいは人文学的大まかさで知ってます)、それでも現在の事態など、想定内です。ほとんどファンタジーの世界でしかあり得ないような想定外の事態となっても、逃げ道などないので惑いませんが(首都圏の人間が逃げ出せるようなスペースはどこにも存在しない。みんな死ぬなら自分だけ生きようとは思わない)、福島第一原発が水素爆発を起こして建屋の屋根が吹き飛び、冷却機能が津波により完全に破綻していると聞いた時点で(この初動における認識不足が事態を悪化させた根本要因)、今日の姿はおぼろげに想定しています。 別に私が特別なわけではなく、相当多くの人がそれくらいの想定は出来ていたはずです。なぜなら、専門知識の有無より、それが論理的帰結だからです。放射性物質は、この場合放射性降下物とした方が良いでしょうが、あの水素爆発で吹き飛んだのが四散して土壌を汚染したはずで、それは雨によって水道施設に集まらないはずがありません。したがって、主に露地野菜に放射性物質が一時的に多く含まれるのも当たり前なら、水道水に多く含まれたのも当たり前すぎるくらいに当たり前です。そして、それは今さらどうしようもなく、結果2、3倍と言われたら、「ああ、たったの2、3倍か」でしかありません。その後、ジャバジャバ水を掛けて炉心や燃料棒を冷やしているおかげで、放射性物質の空中への四散はほとんど防がれるでしょうし、また四散してしまったものは半減期を迎えてゼロに加速度的に近づきますから、水道水の汚染も減るはずで、実際減っています。 「爆発的事象」が一時的なことであれば、汚染も一時的に過ぎないのが普通で、さらに放射性ヨウ素など成人には大して影響しないのはチェルノブイリで『人体実験』済みです。そして、内陸でヨウ素欠乏地帯であれば、放射性ヨウ素が甲状腺に集中しやすいでしょうが、日本のようにヨウ素を日常的に摂取していれば、放射性ヨウ素を取り入れる量はより限定的になる、という理屈も論理的なものですから(実験できるものではないはずなので、断定できる人はたぶんいないでしょうが、仮説として矛盾がないと思える)、大人であれば心配する方がおかしいはずです。 そして現在、放射性物質を生み出す物騒な代物に、水をジャバジャバ掛けているのですから、その水を処理する余裕がない以上、海洋に流れ出るのも当たり前です。わかりきっている事なので、放水を行う指示と同時に、漁業への影響を考えて、補償なりの対処方針を考えて、漁協なりに動揺しないように根回ししておかなかったのなら、よほど間抜けとしか言いようがないですが、これは、必然的なことと言って良いです(最善はあふれる前にタンクに移すでしたが、時間的にも量的にも無理だったのでしょう)。 最近風向きなどを気にしている人もいるようですが、これは今さら遅いでしょう。気にするなら水素爆発があってから、せいぜい数日程度のはずです。今は、汚染水を如何に上手に処理するか、汚染水を大量に出さないように、循環型の冷却機能を如何に早く起動できるか、のはずです。風など、どっちに向こうと大して違いはないと思います。 こういった専門的ではないにせよ知識があれば、何も考えていない鈍感でたくましい人と同じように、外に出て花見も出来るというものです。 「貯金通帳を持って1ヶ月遠くに逃げろ」などと発言する専門家まがいの教授もいるようですが(それはその方が「石橋を叩く」レベルで安全には違いないですが、そのような相手の人生に大影響を及ぼしかねないことを万人に薦められる感覚が不思議です。なお、通帳だけでは下ろせないのでハンコを。それよりキャッシュカードがお勧めでしょう)、この程度で職場を放棄したら経済基盤を失うことになる普通の人は、不安な情報より安心を得られる知識をしっかり持って、桜の花を見、被災地の酒造会社さんのお酒でも頂きながら、泰然としていたいものですね。
2011年04月06日
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少し前に『ハイパーメディアクリエーター』というお方が、「僕が選んだ場所は、国内であらゆる原発からもっとも遠い場所、西表島」とブログに書いて物議を醸しました。その時は聞き流していたのですが、今日になって特に脈絡も無く思い出し、不思議な気持ちになりました。 なぜなら、確かに、西表(イリオモテ)島は日本の原子力発電所からは遠いですが、この国境に近い野生の猫で有名な島の西、ごく至近に外国である台湾が存在し、その台湾も日本同様に原発所有国だからです。彼、それを考慮されているのか・・・。そこで、少し調べたところ、原子力発電所は西表により近い台湾島北端に複数存在し(2発電所の2炉ずつ、さらに1発電所を建設中)、萬里で稼働中の原発から西表島は直線距離で240キロしか離れていません。つまり、福島第一原発と東京都心の直線距離と、さしたる違いは無いのです(間はさえぎるものの無い海なので、万々一の際の影響はむしろ大きくなってしまうでしょうね。なお、貢寮に建設中の原発はさらに西表島に近いです【210キロ程度】)。 西表島で『自然派』な生活を実践されるのは、もちろんご自由であり大変結構なことではありますが、その理由付けとして「僕が選んだ場所は、国内であらゆる原発からもっとも遠い場所、西表島」とするのは失敗でしょう?何事も慎重でありたいものです。
2011年04月04日
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光栄にも、某巨大掲示板の文鳥スレッドで、当ブログについて下記の書き込みがあったそうで、昨晩その旨メールを頂いた。そのようなところで密かに文句を言われても、当方の関知するところではないのだが、ずいぶん気にされているので触れさせて頂く(2chは昔ほど影響力は無いのではないかと・・・)。 前のスレでちょっと話題になってた文鳥団地のブログ読んだけどすごいなこれ... 「完全に安全な放射能入り水道水をペットに飲ませるのに迷ってる人は頭がおかしいので心療内科に行くことをおすすめします(意訳)」 とやたらと力説してるんで、さぞそっち方面の知識があるのかと思ったら 「放射能が乳児に影響があるのは体重に比較してたくさん飲むからだ」だと... これが有名文鳥サイトの管理人か...名前だけは知ってたけどこんな人だったとは... 残念ながら、昔からこのような人なのである。それは、だいたいの人がご存知のことと思う。ただ、「意訳」と言うが、最初のカッコ内のようなことを書いた記憶が無い。水道水の放射性物質が基準値の3倍で不安なら、とりあえず3日だけミネラルウォーターを使用し、さらに不安でどうしようもなければ、心療内科を受診した方が良い、とメールで返答して、せっかくなので転載はした。そもそも、私は心療内科の受診経験は無いが、精神を病むことなど普通だと思っているので、悪化しそうな精神状態なら、特別なことなどと考えずに、すぐに受診した方が良いと考えている。何十年前かの精神病院ではあるまいに、「頭がおかしい」から心療内科に行くといった発想が、現在に存在するのかさえ不思議だ。 このブログ上で書いたことを意訳するなら『赤ん坊の方が3倍水分を摂取するから、濃度も3倍薄い方が良いのだ』のはず・・・。 これは再三断ってもいることだが、原子力や放射性物質について、私の知っていることなど高が知れている。しかし、知りたいとも思わない。専門の学問は専門の研究者が行うもので、その是非は専門の研究者の間で行われるものだ(素人の知ったかぶりは鬱陶しい。飼育経験の無い一部の獣医の『飼育指導』が鬱陶しいのと同じだ)。問題なのは、普通の人がどのように受け取っているかで、私もその普通の一人で、普通の人にわかるようなことしか知らないし話す気もない。 知っていることなど、チェルノブイリ原発の事故によって飛散した大量のヨウ素131を、短期間中に呼吸なり飲食によって体内に取り込んだため、半減期の8日以前に甲状腺が内部被曝を受けた結果、周辺住民に小児性甲状腺癌が増加した現実と、甲状腺では甲状腺ホルモンを合成するためにヨウ素が蓄積されるため、放射性ヨウ素もそこに濃縮されるという事実と、なぜ幼少期に多いかについては、成長期には甲状腺ホルモンも大量に必要になるため、幼少に被曝した人ほど危険性が高まる、と説明されていることくらいだ。 そして、成長期には栄養がたくさん必要なのは当然で、水も多く必要となるから、その水に放射性ヨウ素が含まれていれば、結果的に被曝リスクが高まるのは当たり前で、これをにわか専門家気取りではなく普通だと思っている感覚で表現すれば、『赤ん坊の方が3倍水分を摂取するから、濃度も3倍薄い方が良いのだ』になるわけだが、本当にそれだけ水を摂取するのか確認はした。すると、ちょうど大人の2、3倍とされており、基準値だか指標だかの大人と乳幼児の違いと符合しているので、普通の私はそれで納得しておしまいだ。それ以上専門的に考える必然性などどこにもない。 放射性物質の摂取量について、安全か安全でないかの濃度基準など、人体実験で調べるわけにもいかず、調べたところで濃度が薄ければ有意な相違などわからないと普通に想像できるので、よほど余裕のある数値なのだろうといった解釈を、ごく普通の感覚で持っている。その基準値内なら安全なのかは知る由も無いが、大騒ぎできるほどの発病リスクの増加を招かないと考えるしかないのだろうし、第一、基準内なら飲まされてもわからない状態で生きているので、今さらとやかく言っても無意味だと認識している(農薬の摂取基準など結構変わるもので絶対的なものでは有り得ないが、その基準内で生活している。私個人では、それに対して文句は無いが、気にする人は気にしているはず)。昔から、同じことなのだから、知識があって過敏な人は、とっくの昔に、水道水を飲まなくなっているのではないかと思っていたので(使用中のミネラルウォーターが安全と言い切れる保証がどこにあるのかは知らない。「無農薬」の実際が不明なケースもあるのと同じ)、今さら過敏になって大騒ぎする人が多いのに、少々不思議な気分にはさせられはした。スリーマイルもチェルノブイリもJOCもモンジュも刈羽崎も、原子力なり放射能について考える機会など腐るほどあったのに、今まで考えてこなかったのなら、今さら余計なことは考えずに、普通に生活している人たちの方がよほどすがすがしいと思っている。 第一、あのチェルノブイリにしても、被曝時に乳幼児だった世代に甲状腺異常が顕著に増大したのであって(事故後に生まれた世代はほとんど問題が起きていないようなので、継続的な被曝ではないことは明らか。事故発生時の高濃度での摂取が原因)、大人世代への影響は軽微だった。つまり、多少危険なので、乳幼児を抱えたお母さんたちが心配するのは仕方が無いとしても、大人が慌てふためくなどみっともない(近くにいれば私ならぶん殴る)。ヨウ素の話なら、チェルノブイリの辺りは内陸部で、通常生活時ではヨウ素欠乏を起こしやすいらしいので、その点日本とはかなり前提が違っている面もありそうで、なかなか事前に影響を想定しにくい面があるかもしれない。 で、文鳥なのである。これは、どういった影響があるかわからない。わからないからわからないと言うしかなく、今まで普通に水道水を使っていたなら、これからも問題ないと考えるしかないことは普通でもわかるが、それで良いのかどうか、マイクロシーベルトだか何だかの値がいくつになったらアウトなのか問い詰められても、その道の権威すらわからないはずだ。 文鳥は比較的には水を多く飲むので、影響は大きそうだし、それに比例するように代謝も活発なはずなので、影響が出やすいかもしれない。しかし、一部の獣医さんの主張とは別に、原産地も島国である文鳥の甲状腺が、多少のヨウ素の増大で影響するとは思えず、また寿命が短いので影響が出る前に他の要因で亡くなる可能性も大きいだろう。・・・いろいろ想像しても、わからないのである。 したがって、気になるなら、飲み水だけ、こっそりミネラルウォーターを小さな容器に入れて用い(日本は軟水地域なので常用するなら軟水の方が無難かと)、水浴びは水道水で(お風呂の水をミネラルウォーターにする人間はいないだろう。近くにいたら私が蹴っ飛ばす)、水浴びする時間だけ容器を設置したら良いだろう。これなら大量には必要ないので、買い漁り白眼視され、文鳥の飼い主全体の悪評を呼ばずに済むだろう。 このように素人説明されたら、水のことを気にするほど恵まれていても、さらに少しは気が楽になりますか?
2011年04月01日
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首相の悪口以外で書きたくなった・・・。 私は、自分の主張は論じるものでつぶやくものではない、と信じるので、ツイッターなるものに否定的だ。はっきり言えばろくなものではないと思っているし、それに興じる大人がいることだけでも大いに不思議だ。そもそも、「tweet」とは小鳥のチュンチュン鳴く声のことだそうで、文鳥愛好者にとっては毎日聞きなれたものではあるが、自分もチュンチュン鳴く必要も、大人のなりをしてチュンチュン発言している者どもに耳を傾ける必要などあるまい(実は文鳥を相手に「チュン・チュン」言ってはいる・・・)。 ところで最近、中学校2年生でアイドルをしているとかいう女の子のブログにおける発言を、大の大人で著名な人物たちがツイートして持ち上げているといった記事を目にした。 「微量とはいえ空気中の放射性物質を吸い続け、微量とはいえ、汚染された野菜を食べ続け、微量とはいえ、汚染された水を採り続ければ...影響があることくらい、バカな厨房2年の私でも分かる」 いいえ、わかっていない。人間の体は放射性物質の貯金箱ではない。少しずつ摂取しても、少しずつ排泄されるので、一度に大量に飲んだり食べたりしなければ、ほとんど問題ないのである(貯まり続けて健康被害を起こすのは重金属。水俣病やイタイイタイ病を中学校でちゃんと勉強しようね!)。君、便秘でなければ、昨日食べたご飯はもうお尻から出て行っただろう?同じだ。貯め続けられたら、ダイエットなど出来ないのだ。 ただ、悪影響が無いとは断言できない。短期間に微量でも放射線を発生させる物質が体内に存在すれば、細胞に悪影響を与える可能性はゼロではないのだ。限りなくゼロに近くても、ゼロではない場合、研究者と名の付く人たちは「無い」と白黒はっきりとは言えない。研究者には厳密差が必要とされるからだが、その白黒はっきりしないその態度に、研究者ではない普通の人たちは不安を持つことになる。そして、自分の表現で多くの人に不安を持たれた事を知った研究者は、今度はなるべくはっきり「無い」に近いニュアンスを用い始める。すると、少しばかり鋭敏な人は、さらに怪しいと感じることになる。悪循環。 その状況に、不安を持つ少しばかり賢い人は、不安を裏付ける証拠探しを自分で始めて、さらに脳内は不安で太ってしまう。さらに、外で普通に生活している人を見ず、職場に対する責任感も無く、家の中に閉じこもりがちな人ほど、自分の中の不安を太らせて、不安なあまり周りにも不安な情報を発信するようになる・・・。迷惑な話だ。 「電気が足らなくなるから、原子力が必要なんだじゃなく、火力と水力だけで、やっていける生活を一人ひとりが、やればいいんです」は、ありきたりで陳腐だと思われるかもしれないが、確かに正論。しかし、その存在で今までの生活が成り立っていたのも事実。自分の今までの生活を変えたいと思わなければ、原子力発電所を否定出来ないのが当たり前。「どんだけ、原発をかばうんだよぉ」と現状を肯定する他人を不思議に思うよりも、同じように原発の恩恵を受けてきた自分自身の生活を振り返り、これからどうすべきかを考えるべきだと思う。 「人にどう言われようが、叩かれようが、はっきりと、自分はこう思っているんだって言うことを言いたい」、実に正しい。若いのに見上げたものだ。しかし、叩かれるには叩かれるだけの理由もある。それをしっかり受け止めなければ、無責任に思いつきで語る者と見なされる。そして、若ければ若いほど、頭の回転は大人よりずっとずっと速くても、圧倒的に知識が足りない。また、知識を生かすだけの知恵も無い。それくらいに謙虚に考えて、よりしっかり考えてから、発言することを望みたい。
2011年03月30日
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しらばくれて震災関連の話題を持ち出すのは、これで最後にする(悪口が次から次に浮かんできてくたびれる)。 15日に「不眠不休で頑張っている」などと言えば、不眠不休でもその程度しか出来ない能無しと指弾される、といったような事を書いたが、フツーに言ってしまうから(産経新聞)、アイツはさすがにアイツだ。 アイツ・・・、いちおう我が国の総理大臣閣下だ。『さん』『君』くらいはを付けるべきか・・・。 人間を、有能な働き者、有能な怠け者、無能な働き者、無能な怠け者の4種類に分け、そのうち無能な働き者は有害なだけなので排除しろ、と言ったのは、ドイツの軍人だったと記憶するが、「下手の考え休むに似たり」とのことわざがあるように、無能な者が考えても良案など浮かぶはずもなく、間違った考えにそって行動されては、はた迷惑この上ないのは、古今東西を通じた真理だ。しかもその『無能な働き者』が責任のある立場にあり、戦場などの「キッキ」の状態であれば、足手まといどころか、積極的に周囲を巻き添えにしてしまう有害極まりない存在となってしまう。カンさん、怠け者にもなれないのなら、即刻、職を辞せ。 有能でないのは止むを得ない。馬鹿は馬鹿だ。その年齢で改めるのは、まず不可能だ。第一、上の軍人の話でも司令官に適任なのは、『無能な怠け者』とされているように、頭がカンカラカンのスッカラカンならそれで良い。物欲と権勢欲で妖怪じみた顔でふんぞり返り、有権者には作り笑いするような政治屋よりよほどマシだ。しかし、この危機にある時のリーダーとして、何故、怠けたように悠然とした態度が取れないのか?へたな演技で良いのだ。どうして腹をくくれない?「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」と言うが、カンさんは何だ?惑ってお追従のヘロヘロ笑い、憂えて「キッキ・キッキ」、懼れて雨の被災地にも行けず、挙句が「一生懸命やっているのに」とは! 貴君は坂本竜馬が好きらしいが、「志士仁人は生を求めて以って仁を害するなし、身を殺して以って仁を成すあり」という言葉など知るまい。坂本竜馬は幕末の志士で、国事を成すにあたって身を殺すことを惜しむわけがあるまい。実際、凶刃に倒れた。君、この幕末のあくの強い人物と比べ物に出来るところなど欠片もあるまい。竜馬なら日本全国飛び回るぞ。何故、君はいまだに現地に行かない?何故、雨が降ったらお休みなのか?真偽のほどは知るべくもないが、「黒い雨」などという非科学的な妄想に取り付かれていると見なされて、笑われているのがわからないのか? 怯懦は性格なので止むを得まい。しかし、それを責任感ではねのけるのがリーダーだ。とにかく、女房を連れてさっさと福島に行け。そして、少なくとも県庁所在地の福島市の職員を激励せよ。邪魔者扱いされるかもしれないが、とにかく、今、総理大臣の肩書きがある者が、日常の象徴である女房を連れてそこに行くことだけでも意味がある。内堀も外堀も埋められた大阪城に立てこもり、近習どもを周りに集めた豊臣家の末路のように、内閣府に仲良しの議員バッジをつけた奴らや学者なんぞ集めたところで何の意味がある。外に出ろ!ホウレン草を食え!牛乳を飲め!水も飲め。そして悠然としていろ。無い頭など使うな。腹を据えろ。 さて、カンさんへの激励はさておき本題へ。 特に外国人には、日本のことなどちっぽけな島国という誤った認識しかない人が多い。しかし、日本はちっぽけな島国ではない。かなり大きな島国だ。経済の話ではない。人口は世界で10番目、国土の面積にしても231か国中61番目、ドイツやイギリスより広い(ただし山岳が多い)。さらに領海(排他的経済水域を含む)の面積なら、世界で6番目だ。つまり、領土領海を含む領域は、世界でも有数に広大な国なのである。この事実の認識もなく、何となく小さな島の集合体といった認識でいれば、事実を履き違える(福島の原発と東京都がごく近いような印象を持つのがその例)。 日本は島国で、広大な領海を持つ海の国。それは森鴎外作詞による横浜市歌の冒頭にも示されている。 「我が日の本は島国よ 朝日燿う(かがよう)海に 連なり聳つ(そばだつ)島々なれば!」 これは洋行帰りの船上で、日本の陸地を目にした時の、明治日本人の感慨に相違ない。陽光に照らされてキラキラと輝く海を進んでいくと、その向こうに急峻な山並みが見えてくる・・・。ああ、我が国、日本に帰ってきたのだなぁ、と言うわけだ。日本列島のまさに背骨である脊梁山脈は総じて急峻で、それが故に川は滝のように流れて清冽、山紫に水清く瑞穂さざめく大和の国なのである(ここまでくると国学者めいてくる・・・)。 事ほど左様に日本の周囲は海で、海でこそ結ばれた国土だ。そこに住む日本人はほとんど海の民と言って良いだろうし、特に漁村の人は海の豊かさも怖さも知り尽くしている。それでも、あの大津波を知る人はいなかった。いくつかの映像を見る限り、あれは大きな波が押し寄せるなどといった代物ではなく、海そのものだ。その時、大きくうねった海そのものは、高さ10メートルの堤防、それも二重に築かれたそれをも、易々と乗り越える高さで迫り来て、備えの有無に頓着せず、海辺の町を渦を巻いて飲み込み、さらには奔流となって内陸部を侵食、破壊の限りを尽くした。 南からたどれば、宮城県牡鹿半島北方から岩手県の海岸線を縦断し青森県南部に達する三陸海岸は、海の影響を直接受ける地形で、昔からたびたび津波の被害に遭っている。それだけに津波への備えは、日本一どころか世界に類例の無いものがあったが、それでも歯が立たなかった(三陸海岸の女川原発の津波対策は万全だったが、それより南の福島は脆弱であった)。今回の津波は、まさに桁外れだったのである。その千年に一度とも言われる『海』の襲来を想定して、海の国日本の原風景のような海辺の町が成り立つものだろうか。今後どのように復興出来るであろうか・・・。 こういった災害が起きれば、とりあえず壊滅状態の地域から離れて安全な場所に移り住んだ方が良い、などと考えがちだ。中越地震の時の山古志村にしても、火山噴火の際の三宅島にしても、インフラの再建が困難で比較的に住民が少なければ、廃村にしてしまった方が合理的ではなかろうか、と言うわけだ。しかし、それは郷土愛という根を持たない、浮き草のような都市民の発想ではなかろうか。もちろん私も3代前から浮き草なので、数年前までは廃村が合理的と思っていたし、自分自身のことなら今住む場所などあっさり放棄してどこにでも移ってしまえるが(それが浮き草の強さ)、自分が生まれ先祖から引き継いだ土地に誇りを持つ根のある人たちに、その理屈は通用せず、強制するほどの力もないと最近は考えるようになった。 浮き草も、土に根を張る草も、どちらも無くなっては困る。もし、一つの土地に執着する意志の無い人ばかりなら、山奥にも海辺にも人は住みにくく、僻地はすべて廃れることになる。実際、災害は無くてもそうなってきてはいる。僻地のインフラを維持するのは経済的に難しく、またお住まいになっている方々が皆高齢となると、その生活を維持すること自体が難しくなるので、廃村し移住するのも止むを得ない事態が生じているのが、現在の日本だ。しかし、今回の被災地は、そういった限界集落の話ではなく、比較的には人口も多く、まだ十分に活気があり、高齢者ばかりではない地域だ。 もし、災害に遭った「田舎」と漠然と総括される地方を遺棄していけば、日本の海も山も人跡が絶えて荒廃した自然となり(人間にとっても、多くの生き物にとっても、自然なら良いというものではない)、都市ばかりの味気ないものになってしまう。そもそも海の幸も山の幸も入手できずに、如何にして都市生活が成り立つであろうか。田舎は都市より不便で自然の猛威も受けやすいかもしれないが、それだけに人間同士のつながりは温かく、もちろん自然も豊かなはずだ。海にしても、今回のような化け物でもあるが、沖合いで暖流(黒潮)と寒流(親潮)の出会う三陸の漁場は、世界でも有数に豊かではないか。荒廃させてはならない。 私のような生まれながらの浮き草には、十分に郷土に対する思い入れを理解出来ないが、それでもその必要性を認め、助力するべきだと思う。青・壮年層がある程度存在し、その人たちが郷土に生きる覚悟であるなら、それは是非そうしてもらうべきで、都市的な合理性や一時しのぎで、半強制的引き抜いて浮き草にするより、住み続けられるように、自分たちの手で復興出来るように、その前提にたって支援する方が良いだろう。 今回、甚大な被害を受けた地域の人たちも、復興を望みそれに向け働ける年頃の人には、現地に残って働いてもらうべきで、そのための対策が必要となるはずだ。具体的には、国や自治体が一時的な住宅を用意し、震災復興のための人材として雇用し、現地に止まってもらうわけだ。残念ながら、高齢者や子供たちなどは現地に止まっても、復興の足手まといになってしまうだけなので、数年後には郷土に戻れることを約束し、帰還できるまで一定の地域ごと移住してもらい、復興中の現地で働く人が頻繁に移住地と往復できるように便宜を図り、また復興の経過が移住地に伝わりやすいように配慮する必要があるだろう。 こうしたことは、今回よりはるかに規模は小さいが、三宅島や山古志村の前例があるのだから、頼りない首班を持つ政府ではあるが、しっかり参考にし、不足の無いように知恵を絞っての善処を願いたい。 個人には・・・、可能な限り義捐金は札で。ちりは積もっても高が知れているので、「金額より気持ち」ではなく、「金額に気持ちをこめて」かと思う。
2011年03月28日
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TEPCO流計画停電、グループ内で細分化するのも一つの手だが、それはグループに入ってしまっている「一部の地域」の問題で、なぜグループに入っている町と入らない町があるのかを明確に説明しないと、今後TEPCOのマークをつけて外を歩けなくなるものと、老婆心ながら心配しているところだ。 説明がないので、勝手に考える。我が家、なぜ停電しないで済むのか。所在する西区には横浜駅があり、高層建築の多いみなとみらい地区もある。確かにあの辺りが3時間も停電したら、それは大層なことになりそうだが、西区全体が同じ変電所なのであろうか?技術的な問題としてそうせざるを得ないなら、それならそれで、本来なら停電に協力できるはずの一般家庭には、陛下と同じように「自主停電」(誰でも考えることは言葉まで同じだ・・・)の実施を勧めたら良いだろうに。書き込まれた方もいるが、これでは停電になっている方たちに申し訳ない・・・。 天皇陛下を見習って(夕刊フジ)、四の五の言わずに、停電が実施されている時にブレーカーを落とせば良い(吹上御所に家庭用のブレーカーは無いだろうなぁ)。と考えて、ふと思ったのだが、我が家で最大に電力を消費しているはずの冷蔵庫(暖房は石油ストーブで、炊飯はガスコンロにしてしまっており、掃除はいつも箒とモップ。冷蔵庫は小さな業務用が2台あるので3台)、3時間消してからつけた方がつけたままより電力を消費するのではなかろうか・・・。消せばじわじわ庫内温度が上がっていくので、電力が復帰したら余計に冷却の必要が生じる・・・、さてどちらが・・・。緊急避難としてなら切ってしまった方が良いが、次の時間帯も停電が実施される状態なら、かえって足を引っ張ることになりかねない。・・・わからん。 うーむ。節電担当大臣とやらに、実際の家庭での電力消費パターンに則して、客観的に有効とみなされる節電を早急に検討の上例示してもらいたいな。「プラグを抜いて待機電力ゼロ」も結構だが、塵・芥は積もっても高が知れている。今は気持ちの問題ではないので、より消費電力の大きいものの節約方法を考えてもらいたいものだ。 とりあえず、私の見るところ、第5時間帯(18時20分~22時)の停電は、最大限避けるべきことなので(暗闇では何も出来ないし不安ばかりが募る。街頭も消え信号も消えれば危険極まりない【すでに死亡事故が起きているようだ】。この時間帯は特に、電力消費量が上がる原因を特定し、分散化するように啓発してもらいたい)。この時間帯に停電が行われる予定日に、18時20分頃から21時20分頃まで冷蔵庫3台の電源を落としてしまうことにした。これなら復帰して、冷却に余計電力が必要となっても迷惑になるまい(我が家の冷蔵庫については、近々安直な電力消費量計測メーターで実験しようと思う)。 当分そのようにして、・・・夏。しかし、夏の電力消費は、確か「1時、4時~」とでんこちゃん(あのキャラ再登場はあるまいな・・・)が言っていたように、暑い午後の冷房が最大の問題になるはず。・・・我が家は、日中冷房を使わない。良かれ悪しかれ風通しが良いからだ。となると、冷蔵庫は停電時間帯の夜にかかる部分がまだあればその時か、1~4時にするか・・・。臨機応変にし、夜、窓を閉めた後の冷房開始をなるべく遅らせるくらいになるだろうか。 管内にありながら、TEPCO流計画停電に幸か不幸か(実質的には停電にならず幸運だが、精神的には心苦しく不幸だ)、含まれない地域の人も、とろくさい政府や電力会社に言われなくても、節電の努力はしているだろう。その気持ちを上手に活用して欲しいものだ。
2011年03月26日
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こういった専門外のことをまた書き連ねると、自分の気を休めるためだと思われそうで癪なのだが、放射・放射とやかましく、何となく不安に駆られて自分を失う人も多く見受けられ(普段は賢い繊細な人ほどそうなる。不安になると不安を解消する情報よりも、不安を裏付ける情報を無意識に求めてさらに不安になる。不安なので不安を裏付けようとする心理が働くのだが、結果、情報の選択を誤る)、イラっときているのだ。 100キロも200キロも離れた地域に住みながら、放射性物質が気になって仕方がないなら、家も職場もすべてを放棄してどこか遠くで流浪したらよろしい。責任感のある人と、通常の生活が送れる限り別段気にしない、日本国籍所有者の圧倒的大多数は、その場を離れることはないので、流浪する人たちの欠は特に問題にならない。その点気に病む必要はないが、冷静に周りを見渡せば、天皇陛下も皇居に不動なら、日本の政治は永田町で展開中、NHKも民放各局も東京で放映中、会社の本社も東京に偏在中、通勤風景も変わらず、毎日スーパーに買いだしに行く庶民も健在だ。みんな普通にしているのに、何を一人で慌てふためくのか? 繰り返しとなるが、日経新聞の記事にもあるように、放射性物質や放射線など日常ごくありふれて存在するものだ。 放射性物質が体に入れば、そこから生じる放射線により遺伝子が傷つき、癌などの病気になってしまう危険性が高まるわけだが、今話題の放射性ヨウ素は1週間程度しか体内に止まらず、放射性セシウムも100日以上止まることはまず無いようだ。セシウムについては半減期が30年ほどとされているので、単純に誤解する人も多いようだが、それはセシウムがセシウム以外の物質に変化する(半減期)のに30年ほどかかるだけで、その期間体内に止まり蓄積されるわけではない。 そもそも、原爆で被曝された方が、何十年も経過して発病されるのは、体内に残留蓄積している放射性物質のためではない。被爆された際に浴びてしまった放射線、もしくは体内に入ってしまった放射性物質から生じる放射線により、比較的短期間の間に遺伝子が傷ついてしまい、その影響が後になって現われてしまったのである。つまり、大量の放射線を比較的短期間に浴びたのが問題で、発症の時点まで放射性物質が体内に残っていて問題を起こしているわけではない。 放射性物質の生物濃縮(食物連鎖の上位にいるほど高い濃度を体に溜め込むことになる)を気にされる人も多いようで、セシウムでは実際そういった現象も若干見られるようだが(セシウム自体が存在し続ける環境では、連鎖の上位にある生き物ほど濃縮するのは当たり前だが、生理的に排出もされるので、一定度より以上に濃縮されるとは考えられない。つまり、生物濃縮もその生物が生きている環境での濃度が反映されているだけと言える)、カドミウムや水銀などの重金属のような、ほとんど排出されずに数十年体内に蓄積されるものとは異なるので、混同して過大に危険視するのも妙な話だろう。それでも、何か特別な偶然で濃縮された海産物があって、それが出回らないように、モニタリングを厳重に行っておけば済むことだ。 さて、今、この国家的キッキ・・・、国難、非常時にあって、必要なホウシャは放射でなくて恩に報いる気持ちの報謝だろう。より考えるべきは、放射能ではなくて報謝脳、放射線ではなく「報謝せん」だ。 ・・・自分で書いていてすごく頭痛くなってきた。駄ジャレは、微量放射線より体に悪そうだ。健康のため、この辺でやめておこう。
2011年03月26日
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「ホウシャノーはいらね~、牛乳(が)飲みてぇ~」だと思っていたのだが、本当は「が」ではなく「を」であったか・・・。 何の話かと言えば、昔、忌野清志郎が唄ったLove Me Tenderの替え歌の歌詞だ。発表された当時どう思っていたかって?「ロッカーめ、アホぬかせ!!」である。もちろん私も放射能を浴びるより牛乳を飲みたいが、原発を無くせとも思えなかった。実際その存在により豊かな社会になっており、道端に便利な冷蔵庫(ジュースの自動販売機)が転がっているわけで、そもそも舞台の電飾に照らされエレキギターを弾いている電力消費の権化のような奴らに言われても説得力がない。まさに「なに言ってんだ~」である。 つまり、私は原子力発電否定論者ではないし、今現在でも、日本で稼働中のそれを停止させるような非現実的なことを要求すべきではないと思っている(安全性では止めても当分は大して変わらない。福島第一にしても原子炉自体は安全に止まったし、その前から定期検査で止まっていた炉もあったが、同じように事故を発生させている。それは余熱がなかなか取れず、冷やす手段がなくなっていたからだが、こうした事情はその他の原子力発電所も同じ)。ただ、もはや新設は不可能で、他を考えるしかない状態になったと、津波で冷却方法がなくなったと耳にした時に反射的に思った。そして、地震と津波で大打撃を受けた最中に、いかに愚劣怯懦であっても一億の国民の首相には相違ないアレの関心をすべて持って行ってしまうような大事故の経過を、今現在も見せ付けられ(アレは自分が怖いから自分の立場においての為政者の優先順位【事故の個別対応よりも民生の安定】もわからず前のめったものと私には思える)、その考えは確信になっている。今後の電力確保のため必要だと主張されても、すでに足りない状態を押し付けられ、『真っ平ご免』と特に東日本の大多数に、はっきりくっきり刻印された以上、どうあがいても少なくとも一世代が消滅するまでの数十年、原発の推進は不可能と考えるのが、論理的帰結なのである。 この震災により、一瞬にして人生が激変させられてしまった人は多い。原子力をめぐる環境も、この一瞬に激変した。良かろうと悪かろうと、元には戻らない。かくなっては、身も縮むような節電・省エネで時間的猶予を何とか得ながら、是が非でも他の「クリーンエネルギー」とやらを開発しなければなるまい。仕分けどころか、研究開発費を何十倍何百倍にして、まなじりを決して臨まねばならないだろう。 そういった悲壮な現実に対する視座が、もし所管の経済産業大臣にあったなら、事故現場に口をさしはさむような労力の無駄を行う暇などなかったはずだ(連続放水しないと東京都の消防隊を処分するとのたまわったそうな)。元から馬鹿なのか馬鹿になったのか知らないが、想像力やビジョンが決定的に欠如しているので、これから必要になる光明の見出しがたい大きな仕事が自覚できなかったのは残念なところだ。・・・この内閣、迷惑千万だが、総じて先が見えず、「ある意味」幸せな連中だと思う。 それでも少しずつ目が覚めてきているようで、アレよりはるかに血の巡りが良さそうな官房長官閣下は、「産業部門のあり方や国民の生活様式にまで踏み込んだ抜本的な対策が必要だ」としたのに対し、まるで人望がないものの有能なはずの与謝野大臣閣下が「自由な意思で協力していただける部分と、料金(体系)の持つ一定の効果を組み合わせて節電を実現したらどうか」と、本日、発言されたそうだ。震災から2週間が経過して、ようやく政府からのまともな日本語を耳にした心地だ(毎日新聞)。 生活様式のあり方、計画停電の悪影響を過小評価し、初日の朝、鉄道が止まって大混乱となっても、行政の非常権限を行使する発想もなかったらしいので、とても言葉はお好きらしい『維新』と言えるほどのドラスティックな変革など実行出来るはずもなく、サマータイムの導入程度が関の山だろう(サマータイムなどまた撤廃できるように1年の時限法)。それでも、願望を言うなら、この際より抜本的に、今年の4月の入学を(正式には)停止して、通常の一学期を移行期間に当て、7、8月を長期休暇として、9月入学という世界標準に合わせてしまったらどうだろう。夏休みの補習だとか宿題といった後顧の憂いは無くなるし、首都圏の大企業などにも長期休暇を勧奨させれば、お金のある人は家族そろって首都圏外に行ってくれるだろうから、万々歳だ(この間学校は閉鎖。宿直は日中冷房なし)。 何となく、今までの局地的な震災同様に感じていた遠隔地域の人々も、さすがにジワジワと影響が実感されてきたのではないかと思う。被害のなかった人たちは、むしろ普通の経済活動を続けるのこそが、他人事で冷たい態度のようでも、大きな目で見れば被災地の役に立ち、その復興の助けにもなるのだが、経済の中心である東京周辺が原発事故や計画停電で平常に戻れず、その余波を吸収できる地域は日本に存在しない以上、これからも、さらに影響が時間差で現われざるを得ないと、覚悟してもらわねばならない。原発にしても、自分たちの地域の電力会社も有しているはずで、すでにその稼動に支障をきたしており、被災地外の地域の電力供給の逼迫も危惧されるようになってきているのが現実だ。それでも、通常にふるまうべきなのだから、外見はいつもどおりでも、実際は他人事ではあるまい。 このような状況下で、大相撲とプロ野球を衰退させた人物として永久に名を残すであろう某新聞のあの方は、元から馬鹿なのかボケたのか昔から始終酔っ払っているだけなのかそれとも精神を病んでいる権柄症なのかは知らないが、王・長島時代のような人気など欠片もない自己の球団の現状も理解せず(そもそもあの方は、相撲も野球もろくに見たこともないのに口を出し、一度として未来につながる提言などしたことがない珍しい御仁だ)、国民一般にまるで支持されていない事実認識が出来ずに、計画停電中の首都の、空調を効かせたドームで煌煌と明かりをつけてナイター興行を打とうとしていた。このような不見識な年寄りが、政界のフィクサー面してのさばっていたのだから片腹痛い。 確かに国難なのである。無闇に萎縮すべきではないが、どのように考えても無関係な国民などない。そして、こういった非常事態ほど、その人の心底が試される時もない。後で、己が廉恥心で自分自身がさいなまれないように、しっかり考えて、行動をとりたいものだ(やましいところがあれば、即刻、改めようではないですか?良い機会ですよ)。 もちろん良いお手本も多い。被災者の方々は不満も多いはずなのに、おおむね粛々とされており、世界中から賞賛されている。自衛隊や消防隊や消防団、その他の方々は、悲惨な被災現場で、未だに収容もままならず泥と塩にまみれて瓦礫に埋もれたままのご遺体を、黙々と探してくださっている。地元自治体の職員の方々も、身を粉にして地域住民の方々のために働かれている。被災地でない人たちの多くも、日々の生活を慌てることなく過ごされている。そして、国民の象徴であらせられる天皇陛下も、朝日新聞によれば、千代田区の皇居で節電に励まれている。 行政府の長であるアレとその女房より先に両陛下が被災地にお見舞いに行かれることは無理だが、おそらく両陛下にあらせられては、本日直ちにでも、もちろん雨が降ろうと槍が降ろうと、お出ましになられたいお気持ちだろう。普段はテニスをされたり必要なのかわからない催し物に『公務』としてお出かけになられたり、昭和の陛下を敬愛する者としてはいかがと思わないではなかったのだが、さすが大御宝として民を慈しむ世にも稀なご皇室の伝統と、リーダーとしてのご修養は、このような国難の折りにこそ行動として表れ、国民一般を勇気付けてくださるのだろう。実に有り難く、それを感じるにつれ、自己修練の欠片もない軽薄短小な下民づれの行動を、同様な行動に走っても不思議はない庶民の一人として、恥ずかしく思う。 はぁ。警醒的言辞を弄するのにくたびれてきた。文鳥と遊ぶだけで良い・・・。【追記】アレが1週間ぶりに会見。今日は2キッキであった。
2011年03月25日
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原子力発電については、「キッキ・キッキ!」と不安だけをあおるくせに(18日の会見ではあの短い中で8回も言ったのだアイツは)、節電に対する政府の取り組みには、今のところ危機感が感じられない(危機感はあっても有効な手段を次々に立案する能力がない?)。しかし、原発事故にあたって政治が出来ることなど、現場の作業が円滑に進むようにするだけで、後は周囲が動揺して作業の邪魔をしないように気をつける程度だろう。 傍で無意味に騒ぐ奴には「うっろたえるな!このグシャ~!!」と問答無用で雷喝するのが世の情けだが(グシャは愚者だが、勢いなので意味などその場で通じなくて良い)、民主主義の政府にそのような高圧的態度は許されないので、より丁寧に状態を開示し(これは今でも出来ている。ただ情報が一元化されていないので混乱させている)、それによって起こりうるリスクを説明し(これが不足しているので、無知なら無知なほど不安になる)、それに対する備えも万全に存在することを示さねばなるまい。民生に対する危機感を持って、国民の危機感がやわらぐようにするのが、政府の役割だということくらい、いい加減に理解してもらいたい。「キッキ・キッキ」と有頂天になっているようでは「うっろたえるな!このグシャ~!!」と雷喝される対象になるしかないのだ。 さて、この程度の話は、私のような文系でも承知しているはずだが、なお念のため、この事故におけるリスクについて書いておく。 まず、原発事故で最悪のものは、昔ソ連のチェルノブイリで起きたものだが、日本の原発では、あれほど放射性物質を高濃度にまき散らすことは不可能と考えられている。つまり、チェルノブイリ以上の事態を起こりえない。それでも信じがたいほどの最悪の事態で、チェルノブイリ級の状態となったとしても、必要なことは30キロ圏内からの移住と、より広域に農作物などへの被害、一時的な飲料水の汚染くらいなものである。理由は、チェルノブイリの時がそうであったのと、今現在の福島第一原発事故と比肩されるアメリカのスリーマイル島原発事故では、20キロ圏外は問題とされなかったことが挙げられる(20キロ圏内も住民の被曝も健康被害が生じない程度)。 アイツ、のぼせあがったキッキキッキは16日の時点で「最悪の事態になったら、東日本がつぶれることも想定しなければならない」などと、国のリーダーとして不用意極まりない発言をして、東日本に住む国民の不安をあおったが、「東日本がつぶれる」とは、チェルノブイリを念頭したもだろうが、それにしても、農作物などへの被害と一時的な飲料水の汚染くらいのことであり、東日本が無人の荒野になることを意味しない(抽象的な表現で危機をあおるのは最悪のグシャ!)。どういったメカニズムでそうなるのかは知らないが、万々一にも放射性物質が撒き散らされる最悪の事態になっても、その状況が放置されることは有り得ないので、一時的な事象となるはずである。 そこでやたらと不安な人にお聞きしたいのだが、広島や長崎にアメリカが原子力爆弾を投下し、結果、何万何十万の犠牲者を出してしまったのはご存知だろうが、それで広島・長崎は無人の荒野になっているだろうか?残留する放射性物質により一定の期間健康被害を与えていたはずだが(何なんだあの原爆症に対する国の基準は!)、それでも両都市は極めて早期に復興し、普通に農作物も生産されている。そういったものである。放射性物質の発生源さえ押さえ込めば良いので、今、現場作業員のご努力による注水でわずかな放射能漏れすら抑制されている。その邪魔にならないように気をつけないといけない(議員バッジをつけたグシャ!は特に)。 なお、お手上げ状態であった短い間に漏れ出た放射性物質が、時間差をもって農作物や飲み水に現われるのなど当たり前で、そのようなもの今さら騒ぐ方がおかしい。また、わずばかりの放射性物質の元に水をぶっ掛け、その水は海に流れていくのだから、ごく近くの海域で放射性物質濃度が上がるのも当たり前すぎるくらいに当たり前である。そもそも沿岸部は漁港を含め壊滅状態であり、その中をわざわざ事故を起こしている原発の近くで魚を獲るようなグシャ!がいるわけあるまい。これも心配無用。
2011年03月22日
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電力不足に陥った東京電力が、管内の使用者の『一部』をグループ分けして、輪番で3時間ずつ停電を実施しているが、当然予想されたとおりに、経済やその他さまざまな面に多大のマイナス効果を与えている。そしておそらく、「自分の町はしばしば停電するのに、隣町は停電しない」という事実に多くの人が気づくのも時間の問題で、停電させる地域とさせない地域がある理由を個別具体的に説明せず、停電により強制的に節電に協力させられている利用者への電気料金減免などの提示もないので、不公平感は募るばかりで、怨嗟の声が満ち溢れるだろう。と、私が東京電力の社員なら夜も眠れなくなる危険状態である。 電力会社は独占企業で競争がないため、利用者の視点が決定的に欠如しているのかもしれないが、今、身に降りかかる火の粉を払うため、そのような殿様商売では済まない。現状を正しく認識し、打開策を構築しなければならず、おそらく、本店の上層部も使ったことのない頭を働かせ、努力しているに相違ないが、我々一般人にはその努力が今のところまるで見えないので、私ならこうする、といった感じで勝手に素人考えをしてみる。 【方針】 計画停電は基本的にやめ、政府を動かし節電と電力使用の分散化を強力に押し進める。 ただグループ分けは維持し、緊急事態時には実行する(全部消えるよりはマシ)。 【具体的行動】 会社に対しては、可能な限り就業時間に柔軟性を持たせ通勤時間の拡散をはかり(=鉄道本数の抑制)、残業を禁止し一斉退社するようにし(退社時間は企業ごとにそれぞれ設定)、その時間もなるべく早めるように要請する(=夏季はサマータイムの導入を検討。夏季休暇の長期間化も課題)。 工場などに対しては、休日や夜間操業に可能な限り移行してもらう(経済団体・労働団体の協力を、担当大臣とともに強力に要請する)。 家庭に対しては、節電によって前年同月比30パーセント程度使用量が減った場合、電気料金が大幅に減免されるようにする(『ニンジン作戦』)。そのような制度を導入し、家庭内での自主停電(一定の時間ブレーカーを落とす)など、大幅に節電できる具体的な方法をピーアールする。 政府は、具体的な節電を薦めるCMを作成しどんどん流す。待機電力など屁みたいなものよりも、とりあえず夕方の電気炊飯器の利用抑制、使用時間帯の分散やガスの利用を薦めるなどが有効と思われる。 さて、東京電力管外の人は無関係と思われるでしょうが、はなはだ残念ながら東京への一極集中は事実です。その即時解消を望んでも現実性が薄く、この地域が混乱し停滞すれば、日本国そのものが今のようには立ち行かなくなるのは明白ですから、冷静に考えられるなら、他人事で済む日本の他地域や日本国民はありません。 地方の人には、何となく「東京コンプレックス」を持つ人がいるかもしれませんが、首都が特別なのは仕方がないことです。首都は国の顔で、そこがしっかりしていることが、その国の安定につながり、外国からの評価にもつながるからです。まして、東京の場合は経済の中心でもあります。したがって、1923年の関東大震災で東京も壊滅しましたし、1945年には度重なる空襲で焼け野原になりましたが、それでも遷都などされずに復興しました(当時より現在の方が一極集中化が進んでいる)。それは、東京が復興し安定することが、好悪は別にして、日本そのものを代表してしまうからでもあるのです。 日本は、どこでも大きな地震が起きる可能性を持つ国土で、活火山も多く、台風などの天災もあり、また原子力発電所も各地に漏れなく存在しています。「東京コンプレックス」の人であっても、他人事のようでまるで他人事では有り得ず、我が身我が地域に降りかかってきた時に、政治経済の中枢がしっかりしてくれているように、しばらく「生暖かく」でも見守ってもらいたいところです。
2011年03月21日
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本日の夜の首相会見に寄せて。 震災に 缶(菅)切る音の 耳ざわり キッキ(危機)・キッキ(危機)と 夜も眠れず 責任ある立場の人間が、混乱状態に陥りそうな中、危機感を煽ってご満悦になれるのか?直接的な影響の無かった地域の人には、一見不謹慎なようでも、平静を保ちいつもどおりに生活してもらった方が良い。そうでなければ、被害にあった人を救う余裕が生まれない。 危機に臨む時は、絶えず平静が必要だろう。剣の立ち合いなら、一撃後すぐに構えに戻らなければ、次の攻撃に入れず、防御もままなるまい。「平成の開国」などと、何でも司馬遼太郎の幕末物が好きらしいが、幕末に生まれなかったことを幸せと思いたまえ。 福島第一原発の危機とは何か?放射能漏れの危険がある点で、放っておけば、それが高濃度での流出になる恐れがあることだ。高い濃度か低い濃度かほとんど漏洩しないか、漏洩したところでどの程度の期間で止められるかだが、最悪のチェルノブイリでも強勢立ち退きは30キロ圏内のはずだ。 ところが、一般国民には、原発=原爆といった途方も無い誤解が存在している。先日、福島市より茨城県の水戸市にペットを連れて避難された方から数度にわたりメールを頂いたが、昨日の夜「状況が深刻になってきています。不安です。不安で怖くてニュース見られない」とあり、東京に向かうとの話だったので、私は何をそこまで怖がるのか不思議になり、「何やら、巨大な爆発が起き、周囲数キロが吹っ飛ぶようなイメージの人もいるような気がします」と書いて送ったところ、「なるほど...。まさしくその通りです。私はそう思ってました...」と返信を受けた。そのような、無用な不安を持っているのだ。今こそ『国民目線』で不安を除き、『国民の生活を第一』に行動していただきたい。 ついでに、寄付金詐欺にご注意を。ユニセフに募金したつもりが、コニセフかも知れず、赤い羽根のつもりが、赤いピンハネかもしれない。まったく世の中油断も隙もない。ご用心、ご用心。 個人的には、鳥に縁があるということで、赤い羽根の中央共同募金会へ。あと当面出来ることは、節電くらいだ。暖房は電気無用の石油ストーブ、炊飯は当面ガスコンロで行う。ガスコンロ、その機能があるのも忘れていたが、勝手に火加減を調節してくれるタイプなので楽だしうまい。もう電気炊飯器には戻れないかも知れぬ。この発見は、ケガの小さな功名であった。
2011年03月18日
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菅直人氏は首相の器ではないと、多くの人は思っているし(奥様も?)、私もその意見にずいぶん以前から百パーセント賛成で、今もその見解を訂正しないが、無責任に怒鳴り散らすことしか出来ない頭がスッカラカンな男だとしても、現職の総理大臣閣下であり、今ただちにその首をすげ替える暇はない。・・・これだけ見くびられたら発奮せよ。死ぬ気でやれ、どころか、この際過労で死ぬ覚悟はしてもらわねば困る。もし事半ばで亡くなれば、それこそ男子の本懐だ。頑張れ頑張れ!怒鳴らず当たらず周囲の話を静かに聞いて、冷静に冷静に馬鹿なら馬鹿で馬鹿なりに事を処理してもらいたい。 作業服の襟を立てて着るなどという間抜けな真似をやめた枝野官房長官閣下も、事ほど左様に、襟を立てたいといった我を押し通す状況ではなく立場でもないことを十分に認識し、襟を曲げたように我を曲げて、隠忍自重、冷静沈着に、首相の参謀役を果たしてもらいたい。何しろ前任者があまりに立場を逸脱していたおかげで、普段でもよほどまともに見えているのだから、そのイメージを崩さないように願いたい。昨今の原発事故についての応答では、実直な勤勉さがうかがえ好感が持てる。しかし、技術的な細かなことは担当者に説明させれば済むので、それよりも政府として国民や住民に要請・指示すべきことを、具体的に明瞭に語って欲しい。頑張れ、頑張れ! 国家の選良、エリートである中央官僚の皆さんは、今こそ、日ごろは無駄飯を喰らい、天下りで国を食い物にしている、といった悪評を払拭する機会だ。馬鹿とハサミは使いようと俗に言われるように、ここは万年野党脳でしかなかった事が明白になってしまった者たちを、適当に崇め奉りつつ、元々優秀であった皆さんの頭脳を、自分たちの利権ではなく国民のために発揮し、うまい方向に持って行ってもらいたい。頑張れ、頑張れ! 国運を担い、人命を左右しかねない指導的立場にある皆さんは、間違っても「不眠不休で頑張っている」などと、泣き言を言ってはならない。それが当たり前の状況で、事がうまく行かずにそのようなことを言えば、不眠不休でもその程度しか出来ない能無し、と指弾されることを、十分に認識して頂きたい。確かに、記者会見の際、目の前にいるマスコミの一部の若造記者の生意気な物言いには腹が立つだろう。しかし、テレビカメラの向こうに国民一般が存在していることを常に意識して、低頭低姿勢丁寧な言葉遣いを心して欲しい。そのようにしていれば、次には馬鹿マスコミの方が襟を正さねばならなくなる。縁の下の努力は他人の目には見えないことが多いが、時間が経てば必ず評価されるはずだ。頑張れ、頑張れ! 平均寿命を越えても現職にとどまろうとする見上げた心がけの石原都知事閣下は、この大震災を「我欲で縛られた」「日本に対する天罰だ」とされたそうだ。笑止である。清貧誠実に生きる人たちの居住地であっても、天災は起きる。それを宗教的に言うなら、天から与えられた試練であり、それは古今東西、老若男女、貴賎善悪を問わず、偶発的に科されるもののはずだ。 因果による天罰などという筋立ては、素朴な教育の目的に後の世になって形成された勧善懲悪の幼児向けのおとぎ話に過ぎず、あくまでもリアルな判断が必要とされる大人の為政者がそれを語るなど、不謹慎以前に甚だチープと言わねばならない。元々は頭の回転が速く、文学にも哲学にも造詣の深い、個人的にはイヤミがお上手な点に敬服している閣下にしてこの発言とは、甚だ失礼ながら、お呆けになられたのかと疑わざるを得ない。 そもそも、石原閣下は、「我欲に縛られた」現代の日本の流行を作る青年文学者として登場し、さらには知識人・文化として、そして何より与党自民党の有力政治家として、営々と現代の日本を築き上げられた当事者ではなかろうか。閣下に限らず、現在の社会を慨嘆する年寄りは、何時の世にも多いものだが、現在は過去の積み重ねに他ならない以上、過去を生きてきた者たちが、声高に今現在を非難すれば、ご自身たちの廉恥心が疑われよう。 事のついでに申し上げるが、閣下は今回の節電についても誤解されている。先日、担当大臣の蓮舫氏と会談された際、政令を出して、夜間のネオンや自販機やコンビニエンスストアの営業を禁止させるように提言されていたが、現在、深夜電力には余裕がある。従って、計画停電も朝の7時前から夜の10時頃までとなっており、深夜には行われないのである。おそらく閣下は、石油ショックの際の省エネ対策と混同されているのだろうが、今回は、当時のように火力発電に要する石油消費を抑制するため発電量を下げることを目指しているのではない。供給量以上の需要となってパンクしないための節電であり、需要の分散化のため、むしろ夜中にだけ営業してくれるなら有り難いだけなのだ。 ただ、この大災害により、「日本のこれから」は大きく転回していくように思える。まず単純な話だけでも、エネルギー政策の転換がせまられる。それはおそらく、原子力発電への回帰がはかられつつあった全世界に影響を及ぼすだろうが、とりあえず日本で原子力発電所の新設は不可能になり、代替エネルギーの確立を国策としなければならなくなるだろう。確かに、今回は未曾有の規模の天災で、今後数百年同じことが起きる可能性が低いとしても、福島第一原子力発電所の危機的事態を目の当たりにした国民に向かい、今後原子力発電所を推進出来るはずがない。 当然、東京電力管内に止まらず、節電、さらには省エネが国是となり(日本はまとまりのある一つの国なので、首都の大きな動向の変化は全国に波及しないでは済まない)、華美な電飾は戒められ、繰り返しになり業界関係者には申し訳ないのだが、ジュースなどの自動販売機は、少なくとも設置台数を制限されることになるように思う。 エネルギー政策の転換は、さまざまな業界に影響を及ぼし、それぞれで浮き沈みが起こり、それに伴い、国の在り方にも、人々の精神構造にも、変化をもたらさないでは済まないのではなかろうか。より良い方向に変化するように、国の指導者やそれを目指す方々には、区々たる事象の説明ではなく、今後の大方針を語ってもらいたいと願って止まない。
2011年03月15日
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朝起きてテレビをつけたら、鉄道の運行休止が続出していて驚かされた。・・・、停電の方は実施されていないのにである。 昨晩の東京電力の説明では、鉄道の電力はいくつかの変電所から供給されるので、停電の影響は無いという話であった。ではなぜ?鉄道会社の説明を聞いていないが、TEPCOの計画停電が実施されたら、運行に必要な電力が確保できず、運行途中で停止する最悪の事態になるので、運休にするか、確保可能と思われる電力の範囲内で間引き運行する判断に至ったのだろう。 つまり、東京電力の説明は虚偽であった。少なくとも、鉄道会社と意思疎通を欠いた結果、無用な混乱を招いたと指弾せねばならない。人災である。 政府にも問題がある。鉄道会社の運休予定を把握すれば、混乱が必至なのは明らかなので、早朝には、臨時休日とするように国民に呼びかけ、東京電力にまともな計画の作成と、鉄道会社との綿密な話し合い、そして停電グループの周知徹底を指示、マスコミ各社に協力を求めねばなるまい。ところが、誰も現われない。無能と言わねばならぬ。 そもそも、NHKでさえ、第一グループでの停電が起きないとか起きるかもとか、わけがわからなくなっているが、輪番停電は該当する時間帯内に電力供給が切迫した場合、該当グループのエリアを停電にする処置のはずだ。つまり、電力需要が抑えられていれば、どこであれ停電は起きないのである。 緊急時に勝手に電力会社が部分停電を行うよりも、事前に通知した方が混乱は少ないはずなので、グループ分けし、輪番となったのだろうが、自分がどのグループに属するのかわからないようでは、余計に混乱する。そして、恐ろしいまでの不手際で、本来被災地を救済するための後背地である関東を混乱させるとは、以ての外である。 昨晩の記者会見で、社長は変電所単位で地域を細かく分けてグループ化する、といった説明を行った。つまり、横浜市なら横浜市全体といった大きな地域全域を停電にするのではなく、区や町の単位で行われるはずであった。ところが、記者会見で配られたペーパーでは「横浜市」のような広域が同じグループとされていた。 ところがところが、東京電力のホームページが載せる表では、区町単位に別グループとされ、・・・そして我が家のある区については記載が無い!!これで計画的と自賛できる者がいるなら、とくとお顔を拝見したいものである。 この際、政府の権限で、地震・津波の犠牲者への服喪のための臨時休日とし、計画をしっかり立てて明日以降に備えてもらいたい。
2011年03月14日
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まずは、輪番停電についての、朝日新聞の記事によれば、現在、東京電力の発電量は1日3,100万キロワットで、需要に1,000万キロワット足りない。従って、供給を超過しないように、今の季節で一番消費量が多くなる午後6~7時を含めて、地域ごとに3時間停電を実施すると言う。 しかし、それならば、家庭での炊事の時間をずらしたり(炊飯器を早く設定し保温すれば良い)、工場の操業を夕方で停止するといった、具体的な要請を行うべきであり、昨日も触れた自動販売機は自粛「させる」べきだろう。 自販機の電力消費を過小評価してはいけない。あれの基本は冷蔵庫でしかないが、冷蔵庫こそ、通常家庭で一番電力を消費する電化製品なのである。実際、日本自動販売機工業会の統計によれば、缶ジュースの自販機だけでも全国に約220万台存在し、1台あたり年間で約1,100キロワットもの電力を消費しているのである。とすれば、東電管轄内の自動販売機数を全国の半分として単純に考える限り、次のような計算式が成り立つだろう(この付け焼刃の理屈には自信がない)。 1100キロワット÷365日×110万台=約332万キロワット つまり、不足電力量の約三分の一に達する。確かに、缶ジュースの関連業種の人には休業補償など考えなければならないが、夕方から夜の3時間に停電にしてしまうより、経済的な影響も軽微だろう。 確かに、東北地方の太平洋沿岸部が壊滅状態になる未曾有の事態が、どれほど今後影響してくるか想像できない者も多いようなので、大都会を頻繁に停電させて自分の身に置き換えて考える機会とするのも、十分に有意義ではある。しかし、しばらく常態化するはずの電力不足に対して、輪番停電を継続するなどといった対策では、計り知れない影響を及ぼす危険が大きい(電力会社や政府は影響を過小に考えているような気がする。実施してから非難ごうごうで撤回するようでは先見性の欠如とされよう)。日本人は、自粛しろと言われたら我慢してくれる国民性のはずなので、被災者の救援で多忙を極める折ではあるが、一人一人に出来る節電を具体的に説明して欲しいと思う。
2011年03月13日
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石原慎太郎氏が、東京都知事選に立候補されるそうだ。高齢(満78歳)と多選(すでに3期12年)を冒してのことで、大変悩まれた結果と思われる。選挙に出る出ないは個人の判断以外の何物でもないので、その決断に他人がとやかく言う筋合いは無いのだが、それでもあえて言うなら、この決断は大変な誤りだ。 石原都知事閣下に対し、立候補を促した人は、「余人を以って代えがたい」などと言っていたようだが、本当に閣下が都知事として余人を以って代えがたい人物であるなら、必ずやお辞めになるべきであった。なぜなら、当選したと仮定して、4年の任期を果たす間に日本人男性の平均寿命(約79歳)を越えてしまうので、一般常識があれば、任期途中での死を覚悟しなければならず、もしその不幸な事態が起きた場合、余人を以って代えがたければ、大変な混乱を引き起こすに相違ないからだ。 つまり、余人を以って代えがたい人物ほど、自分亡き後のことを考え、生前に後継者を育て、引退後の余生でその成長を見守るべきで、自分の寿命が尽きるまで重職に身を置くようなことを避けねばならない。もし、その処置をとらないのであれば、無責任な年寄りの冷や水で身の引きどころもわきまえず、これまで後継者を育てる努力もせず、後の混乱も考えていない不明をそしられても止むを得まい。そして、そのような人物は、所詮「余人を以って代えがたい」に値しないのである。 有能な人物ほど「自分がやらねば誰がやる」と高齢になっても頑張ってしまうものだが、残念ながら未だかつて不老不死であった人間はおらず、有能な人物が亡くなっても、有難いことに世の中は終わっていない。「自分がやらねば誰かがやる」のが大抵の真理で、人間は個体数が多いのだから、代わりの心配は大抵要らないのである。むしろ、己がいれば己がするだけのことしか生まれないが、自分以外なら自分がする以上のことを生み出す可能性がある、と考えるのが謙譲の美徳と言うものだろう。せっかくの晩節に、不徳のそしりを受けるような真似をすべきではあるまい。当選するか否かは知るところではないが、当選したところで、何とも残念なことだ。
2011年03月11日
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しらじらしいとは思われませんか? 八百長相撲や学校内のイジメや受験のカンニングを「無い!」と完全否定する、何だか地位も名誉もありそうな大人のことです。現実に目を背けて何の対策もとらないから、『アクシデント』で証拠が出てしまうと、引っ込みがつかなくなってしまいます。 大相撲は勝負事とは言いながら、同じ顔ぶれの知り合いが相手ですから、情で手加減することは当然あるでしょう。人間である以上、無い方がおかしいのです。したがって、「有る」という前提で、どの程度許容されどの程度では許されないか明確にし、厳しい罰則を伴う内規を設け、不正の無いようにしっかり取り締まれるように工夫する必要があったのです。具体的には、情が入りにくい制度を検討し、当然情ではない金銭のやり取りなどは厳禁にし、密告制度を設けて徹底的に取り締まるといった不断の自浄努力を行っていれば良かったのです。ところが、「無い」という前提に甘え、ナアナアで済ましていたので、情実が入り乱れた不正が蔓延してはびこり、あたかもそれが当然のこととなって明るみに出てしまい、慌てふためくことになりました。そしてその時になって、金銭がらみの不正に対し、「びっくりした!」「そのようなことがあるとは!」などと無知を装うのは、不正を正す責任を放棄していた己を恥じる気もないことを示すことになります。 イジメの問題もそうでした。イジメは「有る」として対策を講じなければならないのに、「無い」としたいがために事なかれ主義に流れ、未熟な子供を追い込むことになってしまいました。何事によらず、「無い」ということは無い、もしくは無いと考えたら進歩は無いということを、肝に銘じたいところです。 さて、大学受験のカンニングも、「有る」こととして対策を講じてこなければならなかったのに、「無い」と思い込んだことにして何もしてこなかったのですから、大学側も被害者面だけでは済みません。端的に言うなら、ばれるカンニングをするのも間抜けなら、その間抜けにカンニングされる側はより間抜けで、それだけ間抜けなら、今までもより多くの不正を見逃してきたと考えるのが、正常な思考と言うものなのです。「大学入試の根幹に関わる」のは、今回の一件があったからではありません。カンニングという不正に対して鈍感で、今まで看過してきた大学側の怠慢こそが、公正であるべき入試の根幹を揺るがしているのです。 さはさりながら、不正が明るみに出れば、これは厳正に処罰しなければいけません。それは、不正がまかり通り正直者がバカを見るようでは、健全な社会を維持できないからです。自由な競争社会では、少なくとも建前上、法の下で公正で機会は均等で無ければならず、法を犯して一人勝ちするようなことは許されません。 ところが、今回京都大学などでの受験でカンニングを行い、事が露見して逮捕された受験生に対し、「たかがカンニング」で逮捕するとは、などと公言する人が見受けられます。しかし、それはおかしいでしょう。大学の合否に関わるカンニングは、たかの知れたどうでも良いことではないはずです。もしカンニングを許容するなら、真面目に試験を受けている者が不利益をこうむります。「たかがカンニング」と言う人は、不正がまかり通り「正直者がバカを見る」社会を追認するおつもりでしょうか。私には、そういった態度は寛容ではなく、反社会宣言に等しいものに聞こえます。自由民主主義の一員であるはずの大の大人が、真面目な人が不利とならないように、不正を憎まずにどうするのでしょうか?自分も不正で利を得た身に覚えがあるのでなければ、「たかがカンニング」は軽率な言です。その「たかがカンニング」により、その不正を行った者が合格し、その分真面目に受験した子が一人不合格になる、その人の一生を左右しかねないそれが「たかが」なはずがありません。 件の京都大学の校門には汚い看板が置いてあり、それが自由な校風のなせる技か、この学校のいい加減な管理体制を具現しているのかは知りませんが、『大学自治』というフレーズを脳内で曲解し、能無しの大学当局が警察権力を頼ったことを非難する人もいるようです。しかし、当然ながら、大学のキャンパスは治外法権ではありません。犯罪が起これば、それを警察に通報するのが法治国家における国民の義務ですが、それはキャンパス内でも同様です。曲がりなりにも自由主義体制における大学の自治とは、教育や思想や言論の面における学内での自由な研究や議論に対し、何らかの圧力団体の介入を許さない、といった程度のものです。自由民主主義国家である日本において、反権力闘争をしたければ、選挙権や被選挙権を行使すれば良く、集会するのも自由です。ゲバ棒を持って暴力行為などする必然性などありません。非民主的な国家の抑圧により言論が統制され、表現の自由も奪われた社会と同じに考えるなど、それ自体が平和ボケと言わねばなりませんが、それはともかく、カンニング行為が発見され、それが他校にも及ぶとなれば、公共の利益も考え合わせて通報するのが当たり前でしょう。それ自体を非難するほうが滑稽であり、まして『大学自治』とは無関係です。 問題を履き違えてはいけません。八百長もカンニングも許されることではなく、それが明るみになれば処罰しなければならないのです。例えば、スピード違反は前の車に付いていた自分だけ捕まっても、文句は言えません。駐車禁止のステッカーを貼られるのも、運不運があるでしょう。法に基づいて摘発され、「他の人もやってる」と言っても「私もやってた」以上は仕方がありません。もちろん、他の不正を放置してきた無責任な状態は別に非難されるべきで、取り締まる側は、不正を許す状況を看過しないように、「前の車」も別の通りの違法駐車車両も、等しく取り締まることが出来るように、絶えず改善しなければなりません。他に違反者がいるから、違反をして捕まった一人を見逃すわけにはいきません。他の違反者、不正を働く者も、しっかり取り締まらねばならないだけです。 大切なことは、「正直者がバカを見る」ことが無いように努力することです。不正を働き露見した間抜けなどに同情する暇があるなら(問題を露にした功績は認められるが、本人の意図ではないので褒められない)、これ以前に起きていたはずの不正によって不利益をこうむった正直者に同情すべきでしょう。大学側も、誤るべきは、そうした人たちに対してであり、憎むべきは、そうした人を生じさせていたであろう己らの怠慢にあります。猛省の上、善処いただきたいところです。
2011年03月06日
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節分は豆まきをする日で、豆は炒り大豆以外に考えたことがなかった。ところが、先日テレビ(もちろんTBSニュースバード!)を見ていたら、普通に落花生を用いている人たちがいる。地域によって違うのだろうか。それにしても、殻の付いた落花生の方が掃除が楽で後で拾って食える・・・、うむ、合理的だ。ということで、今年は落花生にした。 そして恵方巻、その年の恵方(歳徳神が位する方角=縁起の良い方角)に向かって、太巻き寿司を黙々とまるかじりする。などと言う、喉に詰まらせて死ぬお調子者続出が確実な、浅はかな一部の新習俗などどうでも良いが、おかげで、この日にいろいろな太巻きがたくさん売られている。キリスト様が何時産まれようと知ったことでなくても、クリスマスに近づけば街にケーキがあふれ、26日に半額になったら買ってやらないと勿体無い。下品で危険な行為を販促目的で喧伝したとされる海苔業界の思惑に、まんまとはまった感はあるが、年に一回くらいのり巻きを食べて悪かろうはずはない(海苔とは無関係に恵方洋菓子やら恵方パンやらが作られている・・・。日本の商売人には感心させられる)。 もちろん、黙って丸かじりするような、汚らしい真似などしない。適度に輪切りにしておいしく頂く・・・。つもりでいたら、何と恵方呑みというのがあるらしい。恵方を向いて願い事をしながら黙って酒(日本酒)を飲むと言う・・・。また、酒造関係者が勝手に言い出したに決まっているが、丸かじりよりよほどスマートだ。早速、実践させていただきましょう!と言うことで、今年は、まだ残っている『住吉』を飲みつつ、輪切りのり巻きをつまんだのであった(願い事などしない。始めに歳徳神にお酒をささげて、すぐ引っ込め自分で飲むだけ)。これなら、この新習俗も悪くない。※無理してまで頬張っている人は、歳徳神様の立場になってごらん。こっち向いて黙ってのり巻きを頬張って、自分勝手な願い事を念じている者をどう見るか。・・・あわれだが、関わりたくないね。「こっち見んな!」でしょう?
2011年02月03日
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数日前の補足をしておきたい(今日また『別冊正論』の広告が新聞に載っていたのである)。 人間は23対の染色体を持っていて、そのうち22対が常染色体、1対が性染色体と呼ばれる。生物の授業が苦手だった人のために言っておくが、染色体とは遺伝子(DNA)の塊のことだ。いずれも対の一方は父、もう一方を母から受け継いだもので、常染色体では減数分裂を起こして半分の形質を子に伝えることになる。減数分裂の際は、父母から受けて対になっていた染色体が入り混じった上で2つに分裂するので、どの形質が遺伝されていくかは偶然ということになる(つまり、子供は父母の影響を等しく半々に受けているが、4人いる祖父母の影響を四分の一ずつ受け取っているとは限らない)。 ところが男性が持つ性染色体は減数分裂することが出来ない。男性はX、Yという異質の染色体が対になっているため、入り混じることなく受け継いだ時同様にXとYに分かれるだけなのである。従って、男性の持つY染色体はその父からそのまま受け継がれたものであり、それは父の父、父の父の父・・・と、男系の父祖から受け継いできたものに相違なく、天皇陛下が2千年余の昔に存在したとされる神武天皇以来、連綿として男系が継承されたと仮定するなら、陛下のY染色体は神武天皇から引き継がれていることになる。そこで「神武以来代々受け継がれてきたY染色体の刻印こそが皇統の証である」と主張される人も出てくることになる。しかし、それは遺伝に対する無知や、情緒的な男尊主義を表明するばかりではなく、天皇家の弥栄(いやさか、ますます繁栄するという意味)を望む者立場としては、軽率この上ない危険行為となりかねないので、厳に自重すべきだと私は思っている。 なぜなら、2千年も前の人物、それも有力者で子孫を多く残しうる立場の人のY染色体は、とてつもない裾野で拡散を続けたはずで(そのY染色体所持者が誰かの家の養子となれば、その時点で『神武天皇以来のY染色体』の家系に変貌する)、少なくとも日本人男性であれば、現在誰も彼もがその染色体を持っていて不思議は無いので、皇位の正当性がY染色体に基づくのであれば、その候補者は数え切れなくなり、簒奪者の安易な論拠になってしまいかねないからである。「ちょっと遺伝子を調べれば、『神武天皇以来』の代わりが見つかるぜ。そんなもの何が尊いのさ」と言われたらどうするつもりであろうか? そのようなY染色体を持っていても、市井の馬の骨は馬の骨に過ぎず、少なくとも千数百年の系譜を擁し、代々にわたって日本国の祭祀をつかさどられている家柄と比肩できるものではない。従って、お生まれが天皇家であることが皇位継承にとっては最重要事であり、さらにその血統的な由緒としては、天皇家本流の系譜に連なっていること程度が重視されるべき点で、ご皇室を尊重するのであれば、凡百が有する『神武天皇以来のY染色体』の有無など何の意味もないとするしかない。 そもそも、Y染色体そのものは遺伝のシステムの中で代々男系に引き継がれるものであっても、それは不変のものではあり得ない。遺伝子の複合体である染色体は必ずや変質する。そして現在Y染色体の変質過程を解明することで、人類の起源をたどるような研究が盛んとなっており、それはY染色体の変化の過程をDNAの塩基配列の変化から読み取ることで行われている。もし神武天皇なりアダムなり、ずっと昔々のその昔のご先祖様から、同じY染色体で不変であったら、相違点から変化の過程などわかるはずがないのである。 例えば、AAAAAというY染色体の所持者があったとして、10代後の子孫の1人が突然変異を起こしてAAAaAになれば変質していないグループと2系統に分岐したことになる。さらに10代後にAaAaAが出現すれば3系統になり、時代を経てさらにそれぞれのグループで変異が起きれば、BAAAA、とかAAAaCとかaaAaAとかいろいろ出てくる可能性がある。そして、段階的に変化した跡を追うことで、aaAaAは類縁性からAaAaAから変化したと考えられ、同様にAAAaA。そして原初的なAAAAAと辿っていけるわけだ。 ようするに、Y染色体は当然変化するものであり、神武天皇以来百数十代などと言うのであれば、それはずいぶんと変化していて不思議は無く、変異はランダムに起きるものなので、天皇家が神武天皇Y染色体の原初的な姿を伝えているとは限らず、むしろはるか昔に分岐した家系の誰かが、たまたまあまり変質していないY染色体を伝えている可能性の方が大きい。これが科学だ。では『神武天皇以来のY染色体』に基づく皇位の正当を強調される方々は、科学的に解析した神武天皇Y染色体との類似性をもって、「誰か昔の王孫ならぬ」と唱えつつ、どこかの『馬の骨』様を崇敬し、現在の天皇家から皇位の簒奪を策謀されるおつもりであろうか? 男系天皇の堅持を主張するのは、ご皇室に対して失礼だと個人的には思うが、言論は基本的に自由なので、それ自体に文句は言えない。第一、実際に男系が続いた伝統がある以上、それだけで十分に有力な意見と認めねばなるまい(伝統は継続させることに意味がある)。ただ男系の皇位系継承者数が減る一方の現状では、例え天皇陛下ご自身やご皇族方が男系を望まれたとしても、実現困難なのである。 従って、男系にこだわるなら、『神武天皇以来のY染色体』などと稚拙で危険な主張にこだわらず、ただちに「天皇及び皇族は、養子をすることができない」とする皇室典範の第9条の規定を削除するなり、一定のルール化を行い、旧皇族なり遠縁の男系からでも養子を迎えられるように努力されるべきだろう。 もちろん、個人的には男系に限った皇位継承など男女同権の現代にはそぐわないと考えるので、皇室典範第一条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」こそ変えるべきだと思っている。しかし、女性の天皇では配偶者を見出すのが難しい日本の伝統と現状を十分に考慮しなければ、即位された内親王殿下が気の毒なことになると思う(つまり現状では男系の方がマシだと考える)。 なお、皇室典範第10条「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」も、第12条「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」も、自由民主主義の日本国で生まれ育った私には奇怪な規定で、そもそも皇室会議などと言うものの存在も納得しがたい(政治的権限を有さないご皇室のプライベートに、昨今は特に見識怪しい三権の長やら官僚に過ぎない宮内庁長官やらが差し出口をする必然性があるのか?)。 皇室典範の内容、天皇家のあり方、ご皇族の人権尊重、その他もろもろ考えるべき点は多い。Y染色体などどうでもよろしい。
2011年01月13日
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私は、おそらく後天的に現実主義者だと思うので、保守的な部類に属するはずだ。従って、天皇陛下がいらっしゃって、象徴でも元首でもとにかくその職務を果たして頂けるなら、是非ともお続け頂きたいと願っている。しかし、日本は民主主義国家だ。『個人の自由』を伝統で縛ることなど出来ないので、ご皇室の皆様がみな「もう、嫌」と言われたら、残念ながらこの制度は無くすより仕方がないと思っている。そして、もし国家の元首的な位置づけとしての天皇家を保持したいと願うのなら、その環境を整備する努力こそが必要であると信じている。 ところが、天皇制度の存続を望む人の中でも、男系に執着する人の声が昨今大きく、しばしば論点をずらしている印象を受ける。先日新聞に『別冊正論』という雑誌の広告があり、特集記事の一つに高崎経済大学の八木秀次教授による「小林よしのり氏に反論するY染色体説のどこがトンデモ説なのか」との見出しがあった。買って読む気はないのだが、雑誌HPによれば八木さんは「神武以来代々受け継がれてきたY染色体の刻印こそが皇統の証である。血統原理の本質を科学的に語る意義を無視するなかれ」といったことを主張されているようだ。当然ながら、漫画家の小林さんがどのような主張をされたのか知らないが、私が高崎経済大学の学生なら、「先生、お言葉ではありますが、それに意義など見出せません」と即刻反駁しただろう。 まず男系による皇統の継続を望むなら、天皇になりうる特別な家系を増やすなど具体策を早急に検討すべきであり、男系の正当性を大合唱しても何の意味もない。このまま大騒ぎするだけで時を移し、男系の皇統が絶えてしまうという事態が現実のものになってしまった時に、男系至上主義とも称すべき人々は、男系を存続したいがために内親王殿下を無視して、何代も何代も何代も何代も何代も前にさかのぼり、とっくの昔に皇族から離脱して市井にまみれているあえて言うなら『馬の骨』を連れてきて、「はい、天皇陛下になりましたよ!」と言わせれば、主権者の国民が受け入れてくれると信じているのだろうか。そもそもそれを行う法的な根拠は何なのかも問題になるが、ましてや、内親王殿下に「こいつが天皇家の男系の血筋なので、結婚して子供をこさえてください!」などと強いることをお考えなら、それこそ不敬以前に人権蹂躙以外の何ものでもない。前近代に例があったからと言って、それが現代でも可能なのか、少し冷静に現実問題としてお考えになるべきだろう。 そもそも帝王学と言わないまでも、尊貴な家柄に育ってこそ身につくものがあるはずで、「血、血~」と吸血鬼のように求めるあまり、その後天的な文化性を無視するのは本末転倒ではあるまいか。日本文化や伝統を大切にされる方々が何やら無邪気に「男系、男系」と繰り返すのを見ると、血迷っているのではないかと不思議でならない。どうしても男系で無ければならないという鉄則があるなら、家長(この場合は陛下ご本人)は、跡継ぎになりうる男子が少なくなった時点で、旧皇族などから男系に連なる子供を養子として迎え、宮中でお育てすることを考えられたのであろうし、そのように出来るように工夫すればよかったはずだ。わけのわからぬ科学をもてあそび、男系の正統性を声高に叫ぶ暇があるなら、今からでも、皇族外の男系男子をご皇族が養子に出来る環境整備を、言論界でも立法府でも努力するのが筋であろう。 わけのわからぬ科学とは、男系の存続を願う人(男系至上主義者)が、最近振り回しているY染色体のことである。Y染色体とは、人間と言うより哺乳類が対で持っている性染色体の1つであり、その種類は大まかにはXとYからなっており、女性はXX、男性はXYだ。それぞれの一方が子に受け継がれるので、Y染色体は必ず父親から受け継がれることになる。つまり、卵子はX型のみだが、精子はX型とY型があり、Y型が受精すれば男になるわけである。これはごく基本的な遺伝学なのだが、これをなぜか天皇家が男系相続していたことと結びつけると、大変なことになる。我がご皇室におかせられては、歴代に何らかの手違いがない限り、歴史学的には少なくとも6世紀の継体天皇、神話の世界なら紀元前の神武天皇、さらにその曾祖父の天孫ニニギの命様(神様)、そしてその父アメノオシホミミの命様(神様。その出生を生物学的合理性では説明できないが天照大神様の息子)まで遡れることになる。つまり、畏れ多くも天皇陛下のY染色体は、千数百年以上も続く由緒正しい人類の奇跡とすべき貴重な存在であり、今現在の便宜主義で女系を挟んで、Y染色体の継続を阻んではならないと、男系至上主義者は主張するわけだ。 私は、以前それを衆議院議員の平沼赳夫さんが主張しているのをテレビで見て、呆気にとられた記憶があるのだが、いまだにこのような主張が続いているとは笑止千万である。ではお尋ねする。遺伝にお詳しいなら、ミトコンドリア型は女系に受け継がれ、何とアフリカ出身の「イブ」にまで遡るとされていることくらいはご存知のはずだが、それは煎じ詰めれば、女性はみな同じミトコンドリアを共有する存在だということになる。つまり、「イブ」に連なるがゆえに、我ら男はすべての女性を尊貴な者として崇め奉らねばならないのであろうか?崇めてるぅ?本当にぃ?では、その崇める男性諸君の中に、いったい「アダム」のY染色体にたどり着けない宇宙人がどれほど混じっているのか! 政治家の平沼さんやら、学者の八木さんなどという方々が、どの程度遺伝について知識があるのか存じ上げないが、性染色体に限らず不変の染色体=遺伝子など存在しないという、ごく大雑把で当たり前の事実くらい認識してもらわねば困る。そもそも生き物が死にまた生まれるのは、遺伝子の変容を期待してのことでもあり(変化による多様性を生じさせ、より生存しやすい個体を創出する機会を作る)、代を経るごとに徐々に変質するし突然変異も起きるのである。第一、ある程度変質しているからこそ、女系のミトコンドリア型や男系のY染色体の変異の程度によって、それぞれの近縁性による類型化が可能になる。もし遺伝子に何の変化も起きていなければ、遺伝子を比べて人種の違いも民族の違いも何一つわからず、みなイブの子であり、アダムの子だ、とする以外に無くなってしまう。アダムとイブが『毛唐』の物語なのでお気に召さないなら、アマテラス様とスサノオ様でもイザナギ様とイザナミ様でも良い。 つまり、Y染色体が代々男系相続されていたところで、遠い祖先のそれとその直系である現代人のそれが同じであるはずがない。従って、Y染色体の継承をもって男系の正統性を主張するなど、そもそも無理なのである。 一時「宗教を科学する」などと言う理解困難な主張が流行ったものだが、人間の主観による文化的な継承事項を客観的な理化学で説明する必要などどこにもない。それがカッコイイと感じるとしたら、自分のオツムが非科学的ではないかとまず疑った方が良いと私は思う。誤解があるのかもしれないが、文系、人文学も、近現代的な論理を追求する科学に他ならない。文系であっても、必要なら地学化学生物学何でも援用するし、しなければならない。しかし、自分の思い描く結論を補強する確証バイアスの一端として、安易に利用しようとするのは、科学に対する冒涜になるだろう。 文化なりその家の伝統、砕いてなら習慣、具体例なら祭祀、そういったものが受け継がれていくことの方が、目に見えぬ染色体やら遺伝子よりも、よほどその家系にとっては重要であり、実際に一族祭祀の継承こそを重視するのが、前近代の日本人一般に根付いていた文化のはずであり、その伝統的祭祀を象徴する存在こそが天皇家ではなかったか。廃れつある日本の伝統文化だが、その具現者であるからこそ天皇陛下は尊いはずである。百代以上続く血統か否かより、百代以上も家制度を維持する家系が存在し、おそらく連綿と続いているであろう祭祀を執り行われているからこそ、天皇家の存在は有り難いのだと思う。 百代以上続く文化より、その血の裏づけを重視したがる政治学者なり法学者が、まるで畑の異なるY染色体といった理系の遺伝科学を持ち出すなら、より近しい文系の歴史科学から、あえて次の言葉を謹呈したい。「誰か昔の王孫ならぬ」、これは承久の乱(1221年)における鎌倉幕府側の武士の発言だ。相手側が天皇の命令に背けば罰が当たると脅迫したのに対し、「天皇の子孫でない者などいるかい!こっちの大将もみんな先祖は天皇じゃわい!」といった感じに反駁したのある(慈光本『承久記』)。確かに、古代の平将門も関東八平氏も源氏も、みな男子皇族を祖先とした氏族であり、当然その子孫の多くは天皇のY染色体を受け継いでいる。また、土着してそのY染色体受け伝えている。何しろ天皇家に連なるような貴種は田舎であればあるほど尊重され、入り婿や養子の形で別のY染色体を持っていたであろう他家の家を継ぐことも多かった。さらに、代を経てますます拡散すれば庶民化もしていく。従って、21世紀の現在、そこいらの権作さんが天皇家からのY染色体の継承者でないとは断言出来ず、そうした権作の数は、何万や何十万では済まない数と想像されるのである。では、それらの権作(あなたも権作の一人かも知れませんぞ!)を、男系至上主義の方々はY染色体ゆえに天皇にふさわしいとされるのであろうか? 血の継承だとかY染色体だとか、文化の継承に比べるなら副次的なものに過ぎないと私は思う。権作さんと皇位継承者の皆さんを分けるのは、その一家の文化を受け継いだか否かのはずだ(当然ながら、男系でなくても家系がたどれる家系など、世界のどこにも存在しない。十二分に貴重で誇れる存在だ)。それを一介の学者や政治家風情が、おっとり刀で怪しい宗教並みの科学を振り回し、血の至上性を云々するなど、見苦しい上に僭上の沙汰ではなかろうか。 存続するか男系を尊重するかその他は、本来的にはご皇族内の問題だ。陛下なりご一家なりご一族で、ご自由にお考え頂く以外に無く、他人が四の五の差し出口する方がおかしい。それでも国民の一人として存続して頂きたいのなら、「男系でなければならぬ」などと生意気なことを言わず、そのように選択しやすいような環境整備に心を砕くしかあるまい。怪しいだけの科学的な与太話などする暇があれば、象徴もしくは元首としての天皇を、文化継承者であるご一家に継続して頂ける具体的な法整備の議論を望みたい。
2011年01月09日
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例の尖閣諸島沖ビデオを世間に知らしめた海上保安官氏は43歳とのことである。そこで、世に言うアラフォー世代での「反抗」として私が連想したのは、歌手の故尾崎豊さんである(生きていれば今月29日に45歳。それにしても『不惑』でなく「アラフォー」となると、ずいぶん軽いなぁ)。 尾崎豊さん、彼が亡くなって新宿の落合斎場で荼毘に付されたニュースが流れる中(実はこの火葬場に新聞を配っていたことがあったので懐かしいなと思って見ていたのだ)、彼のファンだったらしい大学の友人E藤君から突然の呼び出しを受け、カラオケで熱唱するのを聞かされる羽目になったのを思い出す。何が悲しくて、野郎の思い入れたっぷりな熱唱に付き合わなければならないのか!!現在中年に達し精神的に病んでしまっているらしいこの友人の若かりし日の大いなる過ちにより、私の『尾崎』嫌いは決定的なものになってしまった(つまり以下はカラオケに付き合わされた私怨なんですね。これが)。 それでも『15の夜』や『I LOVE YOU』くらいなら耐えられる。しかし『卒業』となると堪らない。何だ、あの気持ちの悪いフレーズの連続攻撃は!!教室で「何に従い従うべきか考えていた」だぁ?学校と言う集団生活を送る場に身をおくこと自体が、すでに従っていることになるんだよ、んなこともわかんねーで利口ぶってんじゃねぇよ!!と言った具合になるわけだ。 まともな大人になりたいなら、「何に逆らい逆らうべきか」、「何に対して私身を犠牲にしてでも逆らい、公共を思えば逆らわねばならないのか」を考えねばなるまい、と今でも思う。従って、「逆らい続けあがき続けた早く自由になりたかった」などとあれば、何となく身を持て余して良く知った大人に駄々をこねてみせるのと、その根底からして大違いだわ!と毒づきたくもなる。社会なり所属組織に従うという大前提の上で、それでも人間として、より大きな公共に資するため逆らわねばならない時に、実際に逆らえるか否か。人として逆らわねばならないのがわかっていても、家族との生活を守るため行動に出来かね、しがらみの中でもがきあがき続けるのが大人と言うものだろう。当然逆らえば、所属組織から自由という名の失業生活に陥る覚悟が必要となるし、家族とのこれまでの生活を犠牲にしなければならなくなる。 ようするに、43歳の海上保安官氏が尾崎派か反尾崎派か無関心派かは知らねど、今現在大人として反抗し大人として制裁を受けていると見なして(何なの?あの自宅に押し寄せるマスコミと言う名のハエは・・・)、敬意を表したい。 話の枕に批判したので、この際、尾崎豊さんの『卒業』の歌詞で癇に障る点を、わざわざ一々具体的に列挙してみよう。 「行儀良くまじめなんて出来やしなかった」(しなけりゃいいじゃねえか!) 「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」(器物破損で警察へGO!他の人に迷惑だからやめてね!) 「逆らい続けあがき続けた早く自由になりたかった」(だから自主退学して!) 「信じられぬ大人との争いの中で」(無視すりゃいいじゃねえの...) 「許しあいいったい何解りあえただろ」(信じられない奴と解りあうことねえだろが!) 「従うとは負けることと言いきかした」(「言いきかした」って分かったような言い回しが腹立つ~) 「卒業していったい何解ると言うのか」(学校の卒業と精神修養は別だろうが!) 「想い出のほかに何が残るというのか」(想い出が残るだけでたいしたものなんだ、よ!) 「先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか」(お前ら生徒たちの代理人なんだよ、あいつらは!) 「俺達の怒りどこへ向かうべきなのか」(てめえに向けてろやボケが!) 「これから何が俺を縛りつけるだろう」(勝手に縛りつけられたがってろよ!) 「本当の自分にたどりつけるだろう」(「本当の自分」とやらにたどり着いている大人がいるか?) 「仕組まれた自由に誰も気づかずに」(「誰かが仕組んでくれた自由でも自由をくれるならくださ~い!!」が社会人の叫びなんだよ~~~!) 「この支配からの卒業 闘いからの卒業」(学校なんてコップの中でくっだらねえ闘いしてんじゃねえよ~!!!) 最後の方は悲痛な叫びになってしまうのだが、徹頭徹尾の甘えた態度でありながら小賢しい言辞を並べる、その以下にも若気の至りの無恥さ加減に腹が立つ。早い話が、人生で最も頭の回転が早く、体力も無駄にあふれかえっているハイティーンの小僧っこたちのうち、その時期を何とかやり過ごせないようなキャラクターは、さっさと大人社会に放り込んでもみくちゃにしてやるべきを、保護施設化した学校に手厚く囲いとめて甘やかすものだから、目先にいる教師を含めた保護者が敵だなどととち狂ったことを言い募り、自分のことしか見ずにウダウダと愚にもつかないくだを巻くのだ。といった感想しか持てない。親が我が子を崖から突き落としがたくとも、とりあえず図体だけはでかくなった甘えん坊のクソガキの能書きなど便所で一人でやってろ、としっかりかっきりくっきり言ってやるべきだったのではなかろうか。 最近になって尾崎さんのファンになる今が若い人もいるだろうし、中高校生の頃に彼の活動の影響を受けることになった昔は若かったらしい人にも、E藤君のように支持派は多いかもしれない。確かに、詩人としての繊細な感性と歌手としての不思議な魅力は認められようから(生理的に受け付けない人もいるはず)、支持者が多いのも当然ではある。さりながら、私立高校という校則に違反すれば即停学・退学が当たり前の組織を理解出来ずに入学して(宜しいですか、生徒はその学校の「商品」「作品」なんですよ。「与太者」の姿をして徘徊されたり、犯罪者になったりされたら、その学校の評価が落ちて「優秀」な生徒は集まらず、哀れその学校は廃校にむけての突き進むことになるのですよ【もしくは「不良」の「収容所」となる】。公立ならまだしも、私立は社会的評価が落ちれば致命的ですね。従ってその組織を守ろうとすれば、校則は厳しくなるでしょうし『排除の論理』が働くのは当たり前でしょう?)、喫煙やら暴行やらで無期限停学となり、やる気を失い自主退学というお決まりのコースをたどった反抗期の坊やの尾崎氏が、その豊かな才能により数年後に反抗期当時の心象風景を歌ったらしい曲を、まさにその年頃で聞かされ、その時代の空気に忠実な馬鹿どもによる校内暴力という現実を味あわされた後輩世代には(しかも公立で義務教育だと、なかなか退学には出来ないので歯止めがかからない)、私のように根深いところで嫌悪感を抱く者がかなり存在しても不思議はないと思う。 まったくあの頃は、どうでも良い細かなことまで校則にして、愚にも付かぬ権威主義をふりかざすばかりの能無し教師どもが多く、事なかれ主義の学校組織がすでにグダグダであったのは確かで(ひざ下何センチとかぬかしていた奴らは、その後ひざ上何センチの世界になってどうしたのか?個人的意見なら、大根足が正常な年頃のお嬢ちゃんたちは、皆すべからくモンペでもはいていれば良いのだ。モンペが嫌ならパンツルックと言い直すぞ!)、その点は大いに共感を覚えるが、生徒側にしたところで、頭髪だのスカート丈だの適当に守っていれば済むことであった。そのような些末時に一々駄々をこねた挙句に、自らの学校生活を破綻させるなど愚の骨頂であり、いつの時代でも何か考えるにしろ考えていないにせよ、平和な学校生活を送ることが出来たはずの多数の真面目な生徒にとっては、馬鹿教師も馬鹿同級生もはた迷惑という点で共通の障碍に過ぎなかったのである。 学生の頃は反大人社会だの学校権力だのといきがりながら、親からもらった小遣いで喫煙し、自らが成人に達すれば社会に背を向け麻薬に走る。挙句が身を持ち崩して廃人と化して、一体何に反抗しているつもりなのか、また一体何に反抗できるのか。組織なり社会に従うのは当たり前で、嫌なら出て行くまで。嫌々をしながら居続けようなど、自らの信念からとる反抗ではない。これまで従ってきたことに反抗しなければならなくなった時、失うものの大きさを理解しても行うのが反抗であると、この際改めて心したいところだ。
2010年11月13日
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今話題の仙石大臣閣下は、仄聞するに小沢一郎さんと犬猿の仲との由で、その点個人的にシンパシーを感じていた。それではなぜに顔を見るだに腹が立つ「敵の敵でも敵は敵」という考えに至ったものか、思うに閣下が「偏狭なナショナリズムで物を言うな!」といったことを仰っているのをテレビで拝見したのが発端であった。 「偏狭なナショナリズム」とは何だろう?意味を砕いてみれば、自分だけの狭い考え方に偏った国家主義ということになる。さらに、国家主義(ナショナリズム)とは何かと言えば、国家の存在を個人に優越する価値を持つ存在とする考え方のことだ。このように整理した上で、改めて法律家でもいらっしゃる賢明な閣下にお尋ねしたいのは、世界中の人々が共通して持てる、つまり広遠にして普遍な国家主義(ナショナリズム)などありえるのか、である。つまり、国家主義という時点で、それはすでに地域を一国に限定した考え以外の何物でもない以上、「偏狭な」などと修飾しなくとも、初めから偏狭なものではなかろうか。 何らかの国籍を有しそこに生まれそこで育ち同国人と共に生活していれば、所属する国家に対してアイデンティティ(自己同一性。「貴様と俺とは同期の桜」とか「同じ釜の飯を食った仲」などという言い回しを連想しても構わない))を持つのは当たり前で、おそらく閣下にしてもそうだろうと信じたい(外国で事故があり死者が出た際に「日本人はいませんでした」と必ずくっつけるのが現実)。そしてもしかしたら、そういった自己の国家や民族に対する帰属意識を、「健全なナショナリズム」と呼んで「偏狭なナショナリズム」と区別しているのかもしれない。しかし、健全であろうとナショナリズムは偏狭でしか有り得ないのが、論理的な帰結であり、自国の優秀性を誇るのは当然ながら、それを他国との比較で強調するような国粋主義に対して非難したければ、「不健全なナショナリズム」とでも表現するしかないのである(その国や地域に根ざした文化はどこの何であれ優れているに決まっており、他国と安易に比較できるものではない)。 ナショナリズムの持ちようはそれぞれの個人で強弱があり、例えそれが自分よりはるかに強くとも、不法行為でもしない限り否定は出来ない。祭日に門前を国旗で飾るのはむしろ伝統的でゆかしい面もあるし(我が家にはそういった伝統はなかったので、今さら面倒なことを新たに行わないだけ)、靖国神社に詣でて英霊と語らいたければそうすれば良いのである(私に関して言えば、親族に英霊が見当たらないこともあって、1度教授に付き合って参拝、見学した以外は、横を目礼しながら素通りするだけ)。それを「偏狭」などと決め付ける了見の方が、よほど偏狭であろう。 しかし、最近になってこ私の聞き違いだったのではないかと心配になってきた。仙石閣下の仰っていた「へんきょうなナショナリズム」とは、「辺境なナショナリズム」のことで、辺境は東夷の地と呼ばれ、東方辺土などと大昔に奥ゆかしくも自称していたこともある我が国であって、つまりは「日本のナショナリズムで物を言うな!」と恫喝したのではなかったか、と思えてきたのだ。 当然ながら、辺土の反対は中央であり中華だ。日本の自然なナショナリズムを逆なでにして、支持率を直滑降させてでも、中華、人民共和国のナショナリズムは尊重しようと言うことなのだろうか。そうであれば、自己犠牲(同胞の犠牲)を伴った実に見上げたお心がけに相違ないが、辺境の民草(しかし主権者)にとっては迷惑この上もない態度と言わねばなるまい。主権者が不信任を感じるのは、当然至極のことであろう。
2010年11月09日
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尖閣諸島沖の当て逃げ事件、事実は事実として初めから出しておけば良い映像を、外交カードにする経験も能力も胆力も識見もないくせに、わざわざ6分にまで短縮し、国会の一部議員のみを集めた秘密会で、もったいぶった見せ方をしてお茶を濁そうとした挙句の果てに、44分のより詳細な映像をネットで公開されてしまったのだから、あまりに無様で滑稽であった。 昨今「権謀長官」ならまだしも「健忘長官」とか、仕舞いには「センゴクさんはパー!」と揶揄されるに至ってしまった御仁を中心に、必死の「犯人」探しが行わているようだ。しかし、おそらく「犯人」は、露見して1、2年刑務所に入っても良いくらいの覚悟はしているはずなので、捕まえても大した意味はないだろう。むしろ本人が名乗り出るなり特定されて逮捕されるなら、かなり保守色の強い人たちから『英雄』として珍重され、現職を失っても生活には困らない境遇になる可能性が大きい。つまり、努力の末に燻り出したところで、「あぁ、流したよ。流したさぁ!政府が腰抜けで腹が立ってやったぜ!」と居直られるだけと言えよう。 それでも法治国家である限り捜査は必要不可欠だ(公務員の服務違反などあってはならない)。しかし、より重大なのは海上保安庁なり現場サイドの現政権に対する不信感ではなかろうか。現場の士気が低下して倦怠感が漂うどころか、こういった職種では人一倍強いに違いない国家への帰属意識や上官への服属義務をかなぐり捨てさせ、政府に対するあからさまな反抗を決意させるようでは、政府さらに国家として危機的状態と言わねばならない。もちろん情報が漏洩するのは防がねばならないが、その国家の情報を管理すべき立場の当人たちが、むしろその国家への帰属意識が強いために、現政権への抗命を決断させる立場に追い込むようでは、すでに国家を担う政権の体をなしておらず、むしろその存在は一国の統治上危険極まりないものとなっていることを、強く自覚すべきだ。 国家意識なり愛国心に乏しいように思われる日本の現政権の人たちが、それとは正反対に無反省・無遠慮に肥大化した隣国の愛国心に翻弄される姿は、笑止千万と言わねばならない。何かと言えば、日本国内の動きを右傾化だの愛国教育の復活だのと指弾しながら、隣国の過剰なそれには目をつぶり、ましてや一党独裁の共産ファシズム国家に対し、友好親善のお題目を口先で並べ立て、目先の利益で追従笑いを繰り返して何になるのであろうか。体制がまるで異なる国同士に心からの友好親善などあり得ない事くらい、自由民主主義国家の一員なら、三歳の幼児でも肝に銘じるべきだと思うのだが、こういった考え方も国粋的なのだろうか?「軍靴の音」は、平和ボケした島国ではなく、彼岸の大陸から聞こえてきており、昨今はそれが露骨に響くようになっただけであろう。 こうした危機感がなく間の抜けた政府の対応も、他人事なら「いい気味だ」で済むが、自国の事であり、自分が有権者として何ら貢献していない政権であっても、同じ国に所属する限り共同責任を負わねばならないので(したがって安易に「過去の責任」など遡上には挙げられぬ。「自分」のことなので慎重な検証を経ない冤罪など断じて認めるべきではない。それを安易にする人は、どこか他人事だと甘えているようにしか思えない)、実に腹立たしく口惜しい。一旦政権を担うことになったのであれば、自分たちが自分たちの国民(日本国民は一億人以上もいるのだ!)を守り背負っていかなければならない。つまりはナショナリズムを前提としなければ存在意味のない立場になっている自覚がないのであれば、即刻下野でも何でもして頂きたい。 そもそも、あの国が一党独裁の言論統制によって成り立っている現実を踏まえ、さらにその党が統制力を失った際、肥大化した軍隊が暴走するといった将来的な事態を想定して、心構えをしなければならないはずである。それを『戦略的互恵関係』により相手国が徐々に民主化し、自分たちと同じ思想信条や政治システムに移行するなどと言う、幻想のお花畑で蝶々と戯れるがごとき前提が許されるか否か、せっかくの事態なのでよそ見せずにじっくり考えるべきだ(日本は大正デモクラシーを経て軍国化し、ドイツはワイマール共和政のもとでナチス政権が誕生した。この歴史的な事実を踏まえれば、万一民主化が成功しても、それで安心できると言うものではないことも冷徹に考えるべき)。外交はひたすらリアルなものであり、国家間の話し合いに、幻想なり希望なり期待などをして臨む方が間抜けなのである。自分らがコスモポリタンだと信じたところで、他所からは日本人以外の何者でもない。嫌なら国籍を捨て何処なりとも亡命し、そこのナショナリズムに染まれば良い(愛国心を持つ気のない者の亡命を受け入れてくれる国がどれほどあるかは怪しいものだ)。 そもそも、自国のように他国がなるなどという発想そのものにして、実は不遜ですらある。内政不干渉は相互信頼のため必要であり、逆にいえば干渉が必要な国とは相互信頼を築くのは不可能なのである。己を知り他を認めようとするなら、そのような安易で身勝手な同化を夢想する不謹慎を悟り、異質な存在として十分に他を理解するという戦略より高度な政略上の大前提に立脚し、互恵関係でも何でも結ぶ以外にあるまい(あの国が共産党の独裁で治まっているのなら、その前提で付き合うしかない)。 さて、昨今の我が国政府の体たらく、その無様な様子をお茶の間で仄聞していて、昨年2月、外務大臣であった故中川昭一さんが、酩酊状態で記者会見に臨み、世界的な笑い者になり国内の顰蹙を買ったのを思い出した。結果、外務大臣を辞職されたわけだが、アル中なり酔っ払いなりに国務を担当させるわけにはいかないので、これは仕方がないところではあった。お茶の間国民である私なども、当時、お辞めになってアルコール依存体質を治療されるべきだと思ったものだ。 そもそも、この方は政治家として軽率な発言も多かったので、個人的にさほど好意を持っていなかった。言っている内容には同感でも、責任のある立場であるほど、時と場所により表現の仕方を考えなければ、かえって内容を貶めることになる。それを考えずに話せるのは、それだけ頭脳が明晰な証左でもあるが、はっきり言えば苦労知らずのお坊ちゃま体質の表れだと見なしていたのだ。しかし、辞任から日を置かない時期に、スカパーの報道チャンネル(日テレ)に出演され、ご自分の酩酊会見の映像を見ながら「無様ですね~」などとしみじみと評しているのを見て、人間として多大な好意を持った。恥ずかしいやら悔しいやらで、しばらく誰にも会わずに逃げ隠れするのが普通な状況であったのに、それを押して出てくるとは、それが精神的に良いと見なした周囲の助言や選挙を控えた配慮もあったかもしれないが、やはりご本人が周囲に説明しなければならないと信じる生真面目さからくる『潔さ』を、その行動から感じ取ったのである。 思想信条なり主義主張は違っても、また何となく感じる気質の違いから嫌悪感を抱いていても、同じ人間なら人間としての潔さは感じ取れることが多いと信じている。潔さ、つまり、その場での自己保身にとらわれず、その時に必要とされる責任を全しようとする態度だが、もし誰かの潔い態度を見て感じ取れないとしたら、それは思想信条なり主義主張にこだわるあまり、人間としての共感するだけの感性を失っているからだと思う。例えば私などは、思想信条としてはおそらく保守的な傾向を持った部類のため(自由民主主義を尊重する社会を『革新』したいとは考えないため。また、マルキシズムによる共産主義に至っては、そもそも原始共産制などというおとぎ話を前提としている以上、古典的学問としてその精度を楽しむ以上の価値を一切認めないことにしている)、若い頃に学生運動に励んだようなジイ様の御託など、身の毛もよだつものでしかないが、それでも人間としての潔さには虚心坦懐でありたいと望んでいる。 実際、大学時代に西洋史をご教授いただいた先生は、マルクス主義の階級闘争を軸に歴史を考察する純粋な左派学者であり、そういった近代の特定の思想テーゼを歴史考察に敷衍するのを嫌う学生としては避けたいタイプであったが(もっとも普通の講義で思想教育などなさらない)、それでも晩年に酸素ボンベを引きずって鼻から吸引しつつ講義に臨む姿には、迷惑に思いつつも潔さを感じたものである。迷惑?講義中にお倒れになられたらどうしたものかと、「スハー・・・ぅっ、スハー」と先生の息が響くたびに教室中が緊張し、「別にそこまでしなくとも、単位さえもらえれば文句ない」という学生側の本音を表明出来なかったのだから、これはやはり迷惑なのである(私は日本史専攻)。実際、途中で休講となってそのままお亡くなりになってしまい、最初から引退されていた方がよほど学生に迷惑にならず潔いと見なされる結果となってしまった。しかし、それでも最期まで教壇に立とうとする気概を示されたのは、長期にわたって教鞭をとった先生の職業意識からの潔い態度に他ならず、学生の一人としてその姿に今でも心から敬服している。 したがって、現在の寝とぼけた民主党政権の人々に対しても、私は無意識に人間としての潔さを見出したいと思っている。しかし、前党首の鳩山さんは、辞めるのを止めたなどと言っているし、前幹事長の小沢さんは、何処にでも出て話すとの発言をあっさり反故にし、補正予算の審議が滞ってもまるで平気で頬かむりだ。そして現党首の菅総理大臣閣下、これら問題のある実力者を追い出すことも出来ず、外交的には波風立てないように追従笑いの右顧左眄、結果すべて大波大風にしてしまい、支持率は下がる一方なのである。三者三様に無様であり、「その場での自己保身にとらわれず、その時に必要とされる責任を全しようとする態度」など微塵も見当たらない。それは、もはや唖然とする域を超え感心させられるほどだ(責任をとりたくない場合は責任のある地位には就かないこと。責任ある地位に就きながら責任を取らないのは信義の欠如であり不誠実。簡単に言うなら人間として「汚し」)。 この状態で衆議院を解散などすれば、自民党の麻生さんの轍を踏み党の壊滅、それ以上の消滅につながる情勢と言えよう。それでも解散するといった潔さを示せず、やはり残りの任期だけの政治的生存を指向するのであろうか。起死回生の策など期待出来るものではないので、私にはあの政党はもう終わっているようにしか思えないのだが、どうなのだろう。・・・期待し得ない者に期待しなければならないのは何とも空しいが、これも民主主義の結果であると、前回の総選挙で民主党を応援した人たちとこの結果を共に受け止めねばなるまい。
2010年11月06日
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昔のテレビドラマではやったフレーズに「同情するなら、金をくれ!」というのがありました。当然一度も見ていないので、ドラマの内容は知りませんが、ずいぶん妙なことを言わせるものだと思っていました。 貧しい人や困っている人に対しては、その人の身が立つように世話をするのが親切でしょう。しかし、それは時間的・経済的に不可能であったり、そうする義理を感じない限り実行しないのが普通です。当然ながら、相手が赤の他人なら、親身に世話を焼く方が妙です。それでも金銭的な余裕がある人なら、多少のお金くらいは施すかもしれず、もし金銭的な余裕も無ければ、せいぜい同情だけはするのではないでしょうか。そしてそれは、何も感じず無視するよりは、少しはマシ(=人間的)と言うものです。 つまり、金がない、もしくは金をやる義理を感じないので、同情だけしている人に対して、「金をくれ!」とは、何とご無体なことかというわけです。 さて、また小学校6年生の子供が、イジメられて自殺してしまいました。一方で、罪のない2人の人間を惨殺した中年男は、自裁もしなければ従容として死刑に服そうともしないようです。身勝手に人を殺し、今度は身勝手な反省の日々を送りたいなどと、大人のくせに、どこまで身勝手我ままなのかあきれ果ててしまいます。反省などあくまでも自分のためにするものです。ここで彼に必要なのは、身勝手で人を殺した明らかな重罪について、遺族を含めた他人にわかるように、自らがどのような罰を自らに科すのかを考えることのみのはずです。この際、不適切でも端的に言ってしまうなら、「死ねと言われたら死ね」「言われるのがわかっているなら、言いたくない人に言わせる前に死ね」です。 死ぬべき中年男が死なず、死ぬ必要がない少女が死んでしまう、実に嫌なニュースです。そして「イジメ」があったかとか、それを学校が認識していたかとか、まったくくだらない話を、こう言っては何ですが不見識な大人たちが、また繰り返しているのを見ると、本当にウンザリしてしまいます。数年前に書いたことですが↓、イジメに客観的基準などあり得ず、本人がイジメられたと思ったら、それはイジメ以外の何ものでもないのです。イジメがあったかどうかなど、問題にする方がよほどおかしいのです。http://plaza.rakuten.co.jp/jackbo/diary/200709300000/ とにかく今の子供たちは、情報化でいろいろ自殺の方法を知ってしまい、なおかつ「生まれ変わる」とか「来世」だとか、『いかれた人たち』がそれが絶対的な真実のように、テレビでペラペラしゃべるのを耳にしていますから、簡単に自殺してしまうのでしょう。「死んだって、来世があるわ~」と言うわけです。そういった社会環境を許している我々大人たちは、このような事態が起こる前から改めるべきで、事後に同情だけしていても仕方がないのですが、やはり直接関わりのない一市民は、同情するしかありません。 とりあえず、イジメと感じて悩んだら、両親や担任もしくは専門的な相談窓口に申し出るように、子供たちに徹底的に教え込み、そして親なら、現世、今現在ただ今、自分の子供として育ってくれていることの喜びをわかりやすく本人に伝えるか、それが照れくさければ、学校など嫌なら転校するなり辞めて自宅学習するように、はっきり言い聞かせておくべきだとは思っています。まじめな親御さんは学校にはしっかり行くように言ってしまうものですが、義務教育など出席日数が少なくても卒業できます。自宅学習で課題を提出させるなど面倒この上ないので、緊張感のない学校ほどそれを勧めないでしょうが、そういった当事者意識の欠如した学校など頼らずに、まずは親の権限で出席を止めて欲しいです。「命捨てるな、学校捨てろ」(さだまさし氏のお言葉でしたか?)です。 ついでにもうひとつ、前世だ来世を何だのに対し、道元禅師の言葉を紹介しましょう。いわく「薪灰となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人の死ぬるのちさらに生とならず」。よろしいですか?燃えてしまって灰になったら元の形には戻りませんね、人も死んでしまえば同じ人生を送れませんよ。前世があったとして、今のあなたはその時の『自分』をはっきり覚えていて、それと今が同じですか?来世があったとしても、あなたの今の意識は持ち越せませんから、それは別の一生ではないでしょうか?千年万年生きるわけではないですから、自殺など先延ばしで構わないではありませんか。死ぬべき人も死なない世の中で、何も先駆けて死んでしまうことはないです。 さてさて、小学生のイジメと聞いて、先日小学校の頃の担任を思い出していた私は、ある知人の顔を思い浮かべたのでした。E塚さんという女の子で、小学校3、4年生で同じクラスでした。その後中学校も同じだったもののクラスは別で、ただ、小学校の高学年から中学生の3年間にわたって同じ町塾に通ってはいました。したがって、友達と言えば友達ですが、じっくり話した記憶がないので、知人といった方が良いかもしれません。 この人は勉強が良くできて、クラス委員などを積極的に行うとても「良い子」でした。塾では漢字コンクールと言うのがあり、3位くらいまで盾だかメダルだかをくれるのですが、私はかないませんでしたね。たいてい彼女が1位だったでしょう。 それで、私の解釈では、まだ塾に行く前の小学校4年生の時、先日暗殺計画があったと書いた産休補助の婆さんが担任になったのが、彼女にとって後々の不幸に繋がってきます。この婆さん、クラスメートのほぼ全員から嫌われていましたが、「良い子」であるところのE塚さんはそういった先生にも従順なので、大変なお気に入りとなっており、結果、クラスメートの圧倒的多数から、陰で「いい子ぶりっ子」と嫌われるようになってしまいました。 小学校4年生当時の私はと言えば、「ぶりっ子」ではなく本当に「良い子」なのかも知れず、とりあえず害はないので毛嫌いするのも変だといった判断をしていたように思います(嫌な奴にかわいがられているのは事実なので、好意はもてない)。と言うのも、先生などまったく見ていない場所でも、E塚さんが先生に言いつけられた以上に掃除をしているのに気づいていたので、先生の前で良い子のふりをしているだけではないと考えていたのです(私も真面目な子でしたが、言われただけのことしかする気はない)。今思えば、「偽善も善のうち」と見てとったのでしょうね。当時のE塚さんが、子供ながらに「良い子」の自分に自己満足していたにせよ、一所懸命掃除するなら、それは褒められるべきでしょう。良い事をするのに、動機など何でも良いです。 強烈な個性の担任に対しても、彼女としてはいつもどおりに先生に従順だっただけではないかと私は思っていたわけですが、この1年未満でE塚さん=「ぶりっ子」というレッテルがべったりと貼られ、その後も、E塚さんと同じクラスの人たちの陰口を、たびたび耳にすることになります。「また、クラス委員に立候補したんだよ、あの人」みたいなものですね。また、例えば合唱大会のような場では、一所懸命クラスメートを指揮しながら一所懸命唄っているE塚さんを見かけ、相変わらず「良い子」を続けていて、それが周囲に嫌悪されているのに気づかないのだろうな、と他人事に思っていました。 やはりE塚さんは成績も良かったし私立の中学校に行くべきでしたね。小学校の同級生がたくさんいる小学校の隣にある公立中学校でも、当然ながら「良い子」を続けてしまったようです。それでも、普通ならさほど問題はなかったはずですが、我が母校、3年次に荒れに荒れまして、新聞の表現によれば「番長グループ」が職員室に乱入し副校長を殴る、などといった事態まで起き、もはや学校側の統制などまるで利かない無法状態となってしまったのでした。東大出の担任などは、バケツで水を掛けられるは、顔にマジックで落書きされるは、もうどうしようもない状態になっていたのです(あの担任にもそうされるだけの理由があったと思うのですが・・・【2年次まで竹刀片手に威張っていたのですよこの人は】。なお、暴れていた連中の大半は私の小学生時の友だちではありますが、何となく過ぎている人生の分かれ道で私は真面目な子になっていました。どれほどかと言えば、卒業年次には1組の出席番号1番にさせられるような子です。行事で散々いろいろ練習させらるので、1組1番はおとなしくて真面目な子が据えられるポジションなのです)。 早々に何人もが少年院だか家裁審判だかで留守になりましたが、それでも授業中に何故かバールを持ってうろつく奴がいたり、後ろでヌンチャクを振り回していたり、シンナーの臭いを漂わせわめいていたり、思い出せば冗談のようですが、それが現実だったわけです。はっきり言って、それを許してしまった教職員たちがすべて悪いのですが(個人個人としては良い先生もいたのですが、あの状態になっては教職員一体で取り組まねばどうにもならず、校長が無能だったようで、その団結力がなかったように思います)、とにかく哀れなのは、先生と言う後ろ盾を失った「良い子」です。今まで「ぶりっ子」などと陰口で言われていたことが、一気に表面化し、露骨なイジメを受けるようになったようでした。 ようでした、と言うのは、やはり私はクラスが違うので、具体的な内容はわからなかったのです。ただ、教室移動の際に音楽室の前を通ると、なぜかE塚さんだけが後ろで正座しているので、異常事態であることはわかりました。その時の音楽の教師は、また癖のある馬鹿ジジイでしたが(この人も2年次まで生徒に肩をもませて威張っていましたね。そのようなことをするのは気色が悪いので、真面目なのに私はしませんでしたが・・・。このジジイが卒業式の時に指揮棒振って泣いていたのには、心底白けました)、合唱か何かやっていたE塚さんにとっては、本来最大の後ろ盾のはずでしたから、恐ろしく象徴的なシーンに思えたのです。また、それが真面目な彼女なりの身の処し方だったのかもしれませんが、制服のブレザーの袖口を折って着るようになり、塾での成績の方は急降下してしまったのです。 具体的な内容は不明で、他人に尋ねる気もありませんでしたが、当時も同情はしていましたね。尋ねなかった理由は、意識的には無かったと思いますが、おそらく他人のことなど考えられる精神的な状況になかったのが大きかったでしょう(私は私で修学旅行の際に教師部屋を占拠した連中【ほぼみな知り合い】に呼び出しを受けて、身の危険を大いに感じるようなことがありました。あの時、間にたつ子【これも知り合いでお寺の息子】がいなければ、かなり痛い目にあっていたかもしれません・・・腕を組んでいただけですよ、まったく無茶苦茶だったのです)。同情、むしろ腹立たしく感じていたかもしれません。嫌らしいではないですか、学校に統治能力が失われた隙に、今までの鬱憤を晴らすとは。それも、くだらないただの妬みです。それほどうらやましいと思っていたのなら、自分も教師に尻尾振っていれば良かっただけで、意識的なのか無意識なのか知りませんが、そうしていた人を責めて良いはずがないです。 このように、同情だけしか出来ないこともあり、しないよりした方が少しはマシだと信じています。確かに、当時のE塚さんの助けには何もなっていません。しかし、その原因や状況に対する推測が正しいか正しくないかも別にして、何か困った様子の人に対して、同情、難しく言うなら惻隠の情を抱く他人は、当時の私のように結構存在するものではないでしょうか。 個人的には、さらに一歩進んで、口先だけでも少しは助けになれるように心掛けたいものではありますが、実際問題として難しいことがあるのも現実です。そこで逆に自分が苦境に立った時に、同情してくれる人もたぶん少しはいるだろうと思えれば、わずかでも気は楽になると考えるようにしています。したがって、私も、せめて同情だけは致します。
2010年10月25日
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東京は杉並区の小学校教師(23歳女性)が、小学校3年生の授業で、「三姉妹の長女が自殺し、次女はその葬儀に来たカッコイイ男が好きになった。葬儀後もう一度会うにはどうすれば良いか」といったクイズ?を出したのだそうだ。それで、『ガキの内輪盛り上がり』で話を進めて、結論は「妹を殺し、葬式をやればまた会える」だったと言う。http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_teacher__20101024_3/story/101024jijiX900/ 23歳の小娘なので、大学のサークルで仲間内でするアホ話の延長と錯覚したものとすると(細かいやりとりはわからない)、あらゆる面で愚かと言う他ない。まず、最もどうでも良いことを先に挙げれば、論理的に破綻していて結論になっていない。その「カッコイイ男」は長女の友だちか関係者であろうから、三女が死んでも葬儀に来るはずがないではないか! 論理的な破綻以前に、10歳かそこらの子供多数の前で、姉が自殺したことを悲しむより男あさりを優先し、妹を殺しても自分の利益追求するといった、愚かなおつむで作り出した悪魔的な人間を、平然と語れる23歳の精神のすさみ方とは、一体何なのかと思ってしまう。一体この23歳は、この話をすることで、子供たちにどういったことを学ばせたかったのだろうか?いくら東京都が無計画だったために、教職員数が不足しているとしても、教師適正などゼロの者を採用した側のシステムなり感性も問題にすべきだろう。 この教師のヨタ話を耳にして、八百屋お七を思い浮かべた人も多いのではなかろうか。こちらは江戸本郷(東京都文京区)の八百屋の娘お七が、火災の際に避難して寝泊りした寺の小姓と仲良くなり、『もう一度会いたいあまりに放火』して捕らえられ処刑された事件だ。時は江戸前期、1683年のこと。当時、お七は数え年で16歳、数えは産まれた時に1歳、その後正月を迎えるたびに1歳加えていくので、今の満年齢なら14歳に過ぎない子供だ。何でも当時は15歳以下なら死罪を免れる慣習となっており、正月に近い事件でもあったらしいので、「お前はまだ15歳だな?」と罪一等を減じようとした奉行が問いかけたそうだ。ところが、ずいぶんと普通に生真面目だったのか、よほどの天才で罪を罪として悔いていたのか、お七は16歳であると主張し続けたため(真面目な人間は、場の雰囲気を察した嘘を言えない)、火刑に処されたと言う。 お七の放火は、どうやら自宅でボヤ程度で済んだので、世間の同情を集めることになった。それはそうだろう、14歳の生真面目な子が初恋で思いつめてした行動なのだから。しかし、その放火が大火になり、何百何千の人間が生命財産を失う結果になったらどうだろう?同じ放火という罪を犯しながら、結果が被害ゼロなら許し、被害が出れば極刑で良いのか・・・。こちらの実話なら、小学生でも大人でも、ゆっくり考えることが出来そうだ。 私は「今時の若い人は・・・」と思わない年寄りなど存在意味がないと信じているので、「今時の若い人は・・・」と年をとるごとに思うようにしている。しかし、実際問題としては、小学校の教師など寺子屋の先生の昔から、それほど「ご立派」でなくても勤まる職種であり、私の小学校時代の先生たちにしても、結構問題のある人はいたことも承知している。 例えば・・・、小学校3年の時の担任某(♂)はサッカーの朝練習の指導など熱血教師で知られ、生徒にも人気があったようだが、労働組合の活動にも熱心で子供心にも胡散臭かった(朝練してたのですよ私も)。何が胡散臭いと言って、大したことでもないはずのことで今なら問題になるだろう体罰をするのだが、廊下に何人か並ばせてゴンゴンと頭をこぶしで叩く際に、「お前たちを叩く先生の手のほうが痛いんだ!」的な態度を感じるのに、違和感を感じたのである。また、小学校4年生の時に産休補助でやって来た婆さんは(黒縁の尖った眼鏡をしていたので「ざーマス婆あ」と呼ばれていた。産休だったが諸般の事情で長々と居続けやがった!)、子供相手にいちいち嫌味な物言いをし、なおかつえこひいきが露骨に激しかったため、私の友人たちは暗殺計画を練っていたくらいである(今ならずいぶん物騒なことになりかねないが、当時は今のような情報化社会ではなく、子供の発想には具体性が伴わない)。 このように、問題ありそうな大人が先生となっていて、それと否応無く付き合わされることで、世の中の理不尽さを、身を持って体験するのもひとつの学習かもしれない。しかし、どれほど組合活動でおつむの中が真っ赤に染まっていようと、人格に難があっても、教師なら、自分の発言や行動は生徒に対して良かれと信じて行ってはいたように思う。それが客観的・中立的におかしなものに思えても、それなりに考えはあったはずなのだ。しかし、今時の若い人である23歳教師のそれは、中味がスッカラカンの軽口以外の何ものも伝わってこないので、残念なところだ。時間つぶしに自分のすさんで弱いおつむの中味を吐露して、教師が務まるだろうか? つまり、この人に欠如しているのは、職業意識であろう。年少の者に教えるという職業なのだから、その話している内容が何を教えることになってしまうのか、しっかり自覚しなければなるまい。相手は対等な友だちではなく、良かれ悪しかれ簡単に影響を受けてしまう存在なのだ。まだ遅くはないはずなので、教職を続けるにせよ辞めるにせよ、自重研鑽してもらいたい。そして、全国の次女に謝りなさい。
2010年10月24日
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小学生くらいの子供の頭には、ギューギューに知識を押し込んで、その意味など後から付いて来れば良い(その後長く続くであろう人生の経験から自ずと理解出来れば良い)という考え方を持っている。なまじ、たいして有能ではなく、個々で異なる教師の解釈など加えたら、それこそ想像力が奪われるので、例えば国語などは、同様の主張をされている諸賢も多いように、論語でも枕草子でも森鴎外でも、意味など分らなくても音読させておけば良いのだと思っている。意味や解釈などは、高等教育の段階で、それも複数の解釈を提示して自分で考えさせれば良い(特に社会科で問題となるが、教師の思想なり宗教観を生徒に押し付けるのは教育ではなく洗脳)。人生経験が無ければ、文学作品など理解しろと言う方が無茶だ。 一時「ゆとり教育」などと称して、教科内容をより安易にし、さらに授業時間を減らすという政策が実施された。これは、実に愚かな選択であった。親世代が共稼ぎで休みもろくにとれずに働き詰めなのに、子世代を学校から解き放っても、どこにも行く先がないのである。学校だけでなく家庭や地域で子供を教育するという結構なお題目は、偏差値教育の成れの果てである中央官僚の現実離れした戯言に過ぎず、結果、子供も親も社会にも、何ら益するところはなかった。 そもそも、是非判断は出来ないし、させるべきでないのが、人間の子供という生き物である。将来的に社会的にバランスのとれた是非判断が出来る素地を形成するのが初等教育であって、不完全な存在の生き物に時間的な自由など与えても、何に使えば良いかなど判断できるわけがないのである。毎日6時限、ギッチギッチに授業で詰め込み教育されても、休み時間に遊んだり、教師の目を盗んでうまい具合にサボるから面白く、また、勉学が苦手なら他で自己主張しようともがくから人間社会は多様で豊かになるのに(学業だけで評価しないと言うお題目には賛成。ただ、教師なり大人のレベルが低ければ、テストの点数以外の子供の資質は汲み取れない。何にせよ、子供の教育は子どもの問題ではなく大人側の問題)、ダラダラと高等教育においてすら知識の詰め込みを中心にしてしまう教育環境に順応した偏差値エリートの方々は、案外お頭が単純だから困る。 さて、最近「ゆとり教育が転換され教科書が厚くなった」などというニュースを耳にして、鳩山前首相の顔を思い浮かべてしまった。無意識のうちに、「Yutori」→「You 鳥?」、「No 鳥!」→「脳鳥」、といった変換が頭の中で行われ(人間の男のオジさん化とは、無意識に駄洒落化せずには済まなくなることである)、「脳鳥」は俗に言う『鳥頭』で(本来「鶏頭」、ニワトリに限っての例え)、ポッポッポと三歩すれば自分の言ったことなど綺麗さっぱり忘れられるらしい人物の顔に行き着いてしまうわけだ。・・・もちろんこの件に関する限り鳩山氏に責任は何もなく、失礼になるだろうと多少自覚しているのだが、無意識に妙な連想をして、行き着く果てに存在を忘れたい人の顔が浮かんだので、実に苦々しかった。 本来、人間の鳩さんもあの東京大学の出身者なので、偏差値的な成績は抜群だったに相違ない。しかし、鳥の鳩さんも、本来賢い部類の生き物のはずである。何をもって賢いかそうでないのか分けられようか?これは難しい命題だが、レース鳩など何百キロのはるか彼方から自分の飼育されている小屋に戻ってくるのだから、愚鈍であるとは言えまい。少なくとも、ポッポッポと三歩したくらいでは忘れないわけだ。それでは、人鳩と鳥鳩では一体どちらが賢いのであろうか? 学校の成績など、生き物としても人間としても、その賢さを保証などしない。人間としてであれば、詰め込み教育にせよゆとり教育にせよ、それで得たはずの知識に基づいて、意識的であれ無意識であれ、どのように考察を深め、また行動出来るかが問題であり、それは仕事の早さや正確さのみではなく、生活そのものすべてで表現されるべきもののはずである。例えば、仕事では同僚の足を引っ張ってばかりであっても、人間的に誠実で同僚たちに認められるなら、それはそれで教養を持った賢者と言えるはずなのだ(すべての人間が「デキる」人の職場より、ちょっと「トロい」人がいた方が効率は良くなる【ミツバチの社会にも存在したはず】。ただその「トロい」人が愚かでそれを補う努力を怠れば、ただの厄介者になる)。 人間の偏差値エリートとは、学校で教わる類の知識量が多かったというだけで、その学問的な知識は人間としての教養とイコールではない。むしろ、頑是無い身で義務的に受ける初等教育ならいざ知らず、高等教育を本来自主的に受ける身になってすら(辞めたければ辞めろ)、無批判に与えられた知識を詰め込むのだけに専念する従順さなどは、一種の精神的な愚鈍を意味することも多いのではなかろうか。 鳥は、人間的な恩も感じなければ、人間的な教養もない。その点で賢いとは言えない。しかし、その面で賢くなり得るのは人間だけである。ところが、たんなる知識の多寡、それも学生時代のそれなどという、かつての栄光遠い日の花火の記憶にすがりつき、苦労もせずに教養を深めなければ、ポッポッポと三歩で前言を撤回し真逆のことを言っても恬として恥じない、厚顔無恥の権化に成り下がるのも人間だけの話であろう。 ここまでくれば、小沢氏についても書いたので、ついでに言わねばなるまい。鳩山由紀夫氏は、「総理経験者は表舞台に立たない。次回の衆議院議員選挙には出ない」、とのご自分の公言を守り、またわずかばかり先倒しして、ご先祖の功徳で得た田園調布のお邸でも軽井沢の別荘にでも、さっさと引き篭もりなさい。
2010年10月18日
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検察審査会というのは、日本の法曹界があまりにも浮世離れして機能不全となったため、稀有に高学歴が多い日本の一般庶民の感覚を取り入れるために作られた組織だ。ところが、いくら「起訴すべし」の一般の国民感覚を明示しても、取り調べも調書もまともに扱えないのがかなり存在するらしい検察は、権威主義的に勧告に従わなかったので(100パーセント有罪に出来ないと起訴しないとされているが、素人に口出しされムキになってしまう程度の『バカ』が多いのではないかとの疑惑が、昨今の不祥事によりさらに濃厚になっている。特捜部の上層があの程度ですよ?!)、最近になって検察審査会の議決により強制起訴をすることが出来るようになった。つまり、時代の要請により、必要と見なされ、立法府である衆参両議院の議決により、検察審査会は権限を持つに至っている。 検察審査会のメンバーは普通の国民から無作為に選ばれており、それぞれ生業を持ち日々の暮らしを営んでいる。法曹界がまともに機能しないので、わざわざ余計なことをさせられているのであり、本来自分で行うべき仕事をさせている当事者である検察関係者、例えばヤメ検(検事を辞めて弁護士として活動している人)が、否定的な発言をするなど有ってはなるまい(「専門家のオメーらがしっかりしねーからドシロウートの手を借りてるんだろーが!」。 その検察審査会の議決が、小沢一郎氏を起訴相当としたのは当然の帰結である。何しろ彼は、何と国民の80パーセント近い人から不信任を突きつけられているのである。その国民から抽出された審査会が、法律的に『真っ黒』とは言えなくとも「潔白」ではないグレーゾーンと見なし、裁判所に判断を求めなければ、いったいどこの国民から選ばれた人たちなのかと、かえって不思議なくらいになる。 ところが、驚いたことにあの小沢という人は、自分も立法府に長々と席を置く人間でありながら、立法府の審議により施行された法律を基に活動させられた善良な国民が、国民多数の意思を反映しているようにしか思えない議決を出したのに対し、平然と異議を唱えるのである。この人物は、一体何なのだろうか? 昨日は、検察審査会の議決の無効を求めるという理解不能な行動を行いつつ、なぜか柔道選手の引退会見という、まったくどうでも良い私事の席にその悪人面を並べていた感覚など、私にはまったく理解不能なものだが、何を隠そう私と氏には共通点が結構ある。「あら!血液型も星座も同じだわ!」「あら、あら!柴犬が好きなのも文鳥を飼っているのも同じだわ!」、なのである。 血液型とか星座などまるで無意味な児戯に過ぎないが(興味がある場合『雀坊の納戸』参照)、文鳥を飼っている点にはシンパシーを持って当然ではなかろうか?しかし、私はまったくシンパシーを持てないのである。なぜなら、氏は屋内で手乗り文鳥を飼っているわけではなく、屋外の庭籠などで飼うというスタイルだからだ。屋内で家族同然のコンパニオンアニマルとして一緒に生活しようとするのと、屋外で一種の観賞用として飼育するのとでは、まったく異なる。同じ生き物であっても、見方感じ方はまったく異なって当然なのである(興味がある場合『文鳥問題』参照)。 さらに、氏が小鳥を世話するシーンをテレビカメラの前で披露し(この人は庭で飼える種類なら、文鳥に限らずいろいろ飼っている)、「小鳥は裏切らないから好きだ。一宿一飯の恩を忘れない」といった発言をしているのを見聞きした時に、私はこの人物と、飼育スタイルの相違以前に相容れないものを感じた。思うに、党の運営やら派閥の引き締めやら企業団体との関係やら、一般人の考え及ばない人間関係での苦労をされているようなので(それが公共にとって必要な苦労であるかは不問)、自嘲をこめたのか、愚痴のようなことを言って格好をつけられただけで(「あの小沢さんにも弱い一面があるのね!」などと受け取ってくれるおめでたい人もいないとは限らない)、論理的に考えての発言ではないだろう。しかし、小鳥に忠誠を求めたり、まして一宿一飯の恩を求めるなど、滑稽を通り越して狂人の言とする以外にない。 文鳥に忠誠心などない。賢いので、毎日エサをくれる人を覚えて、近づけば鳴いて出迎えてはくれるだろうが、はっきり言って『飼育員』など慣れれば誰でも良いし、誰なのか以前に配膳ロボットが近づいても喜ぶはずだ(『モロゾフの犬』反射的反応)。これが室内で手乗り飼育ともなれば、文鳥の場合、飼い主を伴侶と見なしたり、個別認識して人間家族の中で親疎の差別をするようにもなるが、はっきり言って主人に対する忠義心など欠片もない。そういった生き物ではないのだ。動物に「忠義心」があるとすれば、群れのリーダーに対するそれだけであり、つまり群れを成してリーダーの元で行動する習性を有する動物以外には、忠誠心など存在理由がない。そして、存在理由を有する犬でさえ、「一宿一飯」程度の恩など感じないだろう。あるとしたら、エサをもらって日を置かない時点での、またもらえるかもしれないといった期待感くらいと考えるべきなのだ。 一宿一飯の恩など、人間のような階級性なり社会的上下関係が有形無形に存在する生き物においてのみ有り得る特殊な感覚であり、それも閉鎖的なヤクザ社会くらいに適用されるものであり、しかもそこでは、与えられる側が、些細なことも恩を忘れなかった「男気(侠気)」を示す行為として賞賛されるものであって、間違っても与える側の「親分」が口にはしない言葉のはずである。「一宿一飯の恩義を忘れるなよ、ゲヘヘヘヘ!」などと言う「さもしい」(心根が卑しく品性が下劣で意地汚い)親分がいても、そのような者に従う「子分」は少なかろう。つまり、一宿一飯の恩とは、与える側ではなく与えられる側が、それを感じるかどうかだけの問題なのである。さて、「子分」に対してすら口にしない恩を感じさせようとして、ペットにエサを与える飼い主が正常と言えるだうか? 手乗り文鳥の飼い主には、飼育する文鳥の下僕としてお仕えしているといった感覚を持つ人がいる。確かに、住環境を整えエサを与え何くれと無く世話をしているのに、文鳥は特に恩を感じるわけでもなく、当然のようにおよそ2千倍の質量を有する飼い主を、威嚇したり噛み付いてきたりするのだから、これは絶対権力を持つ暴君に仕えている感覚になっても不思議はあるまい。確かに、自分のペット動物に恩を施しているなどと考えるよりも、よほど正常で現実的な認識なのである。しかし、私はより家族感覚に位置づけている人が多いと思っている。人間の母親が、家族のために365日毎日毎日ご飯を用意する時に、夫に奉仕させていただいているとか、子供に恩を施してやっているとか、いつも思うであろうか?普通に自分の家族が家族であるために、日常の自分の役割をこなしているに過ぎず、特に何も考えていないのが普通だろうと思う(家事を賃金に換算するなど正気の沙汰ではない。生きて息を吸うだけのことも労働として評価するのか!)。飼い主がペット動物の世話をするのも、たんたんと日常の役割を果たしているだけだろう。当然、同じ人間である限り、相手の労苦を思いやるのは、家族であっても当然必要な礼儀だが、あいにく文鳥は人間と別種の生き物なので、元気に飛び回ることで感謝されていると受け取る以外ない、それだけのことだと思える。 恩は恵むもの、または施すものであり、その恩を感じるか感じないかは、どこまでも受け手の問題だ。いくら恵み施しても恩を仇で返されるのなら、それは己の不徳を恥じるべし、とするのが、良かれ悪しかれ日本の伝統的な感覚であろう。ましてや、恩など感じるはずもないペット動物に対して、「一宿一飯の恩を忘れない」など、笑止千万なのである。 さて、岩手県水沢市を選挙区とする政治家小沢一郎氏と言えば、「側近」とされた人物がことごとく離れていくのが特徴となっている。いろいろ事情があり、離れる方にも多くの問題があったようにも思えるが、「小鳥は裏切らないから好きだ。一宿一飯の恩を忘れない」との、おそらくは軽口によって、結局、この人は親分として器量が小さいので、少し優秀な「子分」は離れることになるのだろうと、私は得心した。何かを与える時に、それも自分より身分や立場上なり経済的になり低いと見なされる人に対する時に、「恩に報いろよ!」などと思う人間として「さもしい」態度は、それを受ける人がどれほど愚かであれ、むしろ劣等感が深ければ深いほどに、明確に伝わり自尊心を傷つけるものなのである。少しでも、自分と言うものが保ち、身分なり経済的に小沢氏の世話になっていない人間なら、このような「親分」に従い続けることなど出来ようはずがないのだ。 野党の際に捜査が及べば「国策捜査!」と検察を批判し、起訴を免れたら「潔白を証明してくれた」と検察の捜査を賞賛し、起訴相当の議決が出れば立法府に有りながら検察審査会を非難する。このようなご都合主義の行動も、ことごとく「さもしい」。齢は耳順の六十をはるかに超えて七十に手が届く年寄りでありながら、国民の声に一切耳を傾けないイエスマンに囲まれた裸の王様に成り下がり、晩節を汚すだけのために奔命する姿を見せられるのは、もうこりごりなのである。偉大な政治家だと思ってくれている人も少なくないうちに、とく、とく、水沢へお帰り頂きたい!
2010年10月16日
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昨日、鳩山首相が辞意を表明した。報道各社は大騒ぎであったが、あまりに馬鹿馬鹿し過ぎて、論評の価値も無いと思うが、せっかくなので備忘のため一言書いておきたい。 そもそも「職を賭して」臨んだ普天間基地の移転問題が、地元の反発を増すだけの結果となった時点で、辞任するのが、地球人で日本人で責任ある地位の人間の当然な身の処し方である。もちろん、総理大臣になる以前から、「代表をやらせて頂く」と、幹事長を引責辞任した直後に代表に就任して恥としなかったし、薄ら笑いを浮かべつつ「法律に無い」として自ら設定した3月末期限をあっさり反故にした人物なので、「職を賭して」「やらせて頂いて」「ある意味」「法律に無い」と「申して」辞任しなくても良い「ではありませんか。みなさん!」となって不思議は無かったかもしれない。 この人は、話し方でもマイブームがあるらしく、言い回しがかなり変わり、それがすべて日本語として、いちいち耳障りになるのだから不思議だ。少し前は「ある意味」を接頭に多用し、他の意味にとられないように熟慮して話さねばならない政策の実行者としての無自覚を無慚にも露呈していたが、昨日は「私なりに勝手に解釈すれば」ときた。「私なりに勝手に解釈」して、国外やら県外やらと勝手に騒ぎ立て、挙句「学べば学ぶほど」その不可能を悟って元に戻したといった自覚が無い。「私なりに勝手に解釈」など、断じてしてはならない立場なのだが、最後の最後まで自覚していないのだから、唖然とさせられる。 一国のリーダーはその国の国民すべての生命財産を担っており、その自覚があるからこそ、軽率な発言も態度も自ずから出来なくなるもののはずだ。「命をまもりたい!」などといった個人的願望ではなく、一億数千万の命運をその職に就いた瞬間から『現実』に担っていて、それを何がどうあっても守らねばならない立場なのである。ところが、鳩山首相の言動からは、終始それが理解出来なかった。実に困り者で、自国の総理大臣に対して甚だ遺憾だが、確かに一国のリーダーとしてはルーピー(くるくるぱー)であったと言わねばならない。 その場その場で他人の話に合わせてしまい、話し方までグニャグニャと変えて一定しない。これは、人間同士のおしゃべり付き合い、特に主婦の井戸端会議などでは絶対的に必要な才能のように思える。つまり、普通に近所付き合いをしたり、あまり深入りしない知り合いの関係であるなら、鳩山由紀夫氏は大変な好人物なのだろうと思える。 昨日、あいも変わらず無自覚にペラペラ話す姿を見聞し、政治的にはルーピーだとしても、人間としてはムーピーだろうと思った。ムーピー、手塚治虫の火の鳥に登場する不定形生物のことだ。この不定形生物、もちろん「宇宙人」だ。そして定まった形が無いばかりか、相手の望みの姿に変化できる。・・・まさに鳩山首相そのものだ。総理大臣にさえならなければ、相手に合わせて豊富な話題を提供し、みなに好かれたであろうに。 愛されるべき不定形宇宙人氏は、総理大臣を辞めた人間は政界に止まるべきではないとの持論を、ついに!有言実行されると言う。しかし、悲しいかな、総選挙を大圧勝した与党は早期解散などしない、という先の自民党政権で実証済みの鉄則により、何と3年間の猶予があると考えられる。その3年後に、「法律に無い」と言わないように願いたいものだ。
2010年06月03日
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農畜産品として、いくつかの農家から文鳥を集約して出荷する組合が解散しても、弥富で文鳥を飼育繁殖する人がいなくなったわけではない。今後は、生産規模にとらわれずに、また価格を上げる方向に意識を大幅に切り替えて(これまでの卸売業者その他との関係を改めるのはとても困難なことだが、無責任な第三者は気安くものが言えるので言っている)、この際、農畜産品としてではなく、『動物愛護法』の元での動物取扱業者として、つまり農業ではなくペット産業の範疇で、高くても良いものを提供してもらえるように期待している。高くても、高いだけの理由が明らかなら、評価されないはずが無いと私は信じている(消費者は理由もなく並べられた虫食い野菜は買わないが、『無農薬有機栽培』などと理由がわかれば喜んで買う)。 もっとも、率直に言えば、あまり多くは期待していない。変るものなら、より以前から変ったと思っている。それほど古いシステムは変えにくいものだと承知しているので、弥富における文鳥の大規模生産が完全に消滅しても、私個人に特別な感慨はない。存続の努力をされた方に、深い敬意と人間としての共感を抱くものの、必然以外の何物でもないとしか思えないのである。ただ、文鳥組合も、繁殖農家も、白文鳥発祥地の記念碑すら、どうなっても構わないとしても、弥富系統の白文鳥が消えてしまうとしたら、やりきれない気分にはなる。この地方の白文鳥は、白文鳥同士でも、生まれるヒナの三分の一は桜文鳥になる特殊な存在だった。これは、白文鳥を生産する場合、必ず不利となる特質なので、結局、白文鳥同士からは白文鳥しか生まれない別系統が主流となるに相違ないのだ。白文鳥以外を生み出す個体は、白文鳥を生産する立場からは、選択淘汰の対象になってしまうだろう。 せっかく珍しい遺伝子が存在し、それが長く弥富の人たちに受け継がれ、日本人に愛されてもきたので(※)、文鳥の中でも特に白文鳥を愛し、弥富文鳥と関わりを持った人たちは、意識的にこの系統を保護することを考えて欲しいところだ。我が家は桜文鳥主流で、白文鳥と言えば、桜文鳥の間でごま塩化ねらいなので、弥富系でない方をむしろ望むようになっているので(元々桜と白の産み分け狙いだったが、オールごま塩化した過去を持つ)、ここは一つ、白文鳥大好きで、何となくでも弥富に憧れる人たちが、弥富白文鳥保存会の設立を考えてもらいたいところだ。※白と桜を夫婦にしても、産み分けが起きて、両方の子供を得ることが出来る。なお、最近刊行された『ザ・文鳥』が、「(台湾産系の白文鳥の白因子は)劣勢(原文ママ、劣性の誤りか)のため、サクラブンチョウと交配すると生まれるヒナはすべてサクラブンチョウ」となるとしているのには問題がある。その因子が対立遺伝子に対して劣性なら、実際の姿に影響しないはずだが、実際は100パーセントごま塩化するので(片親の桜文鳥より確実に白斑が増し、多くはごま塩柄になる)、有色の因子とこの白色の因子に優劣はないと見なすのが適当である。確かに現実として、ごま塩文鳥と白斑の多い桜文鳥を外見で区別するのは不可能に近いが、遺伝子型が異なる以上、一括出来るものではない(それを一括するなら、遺伝子の知識など無意味だ)。 なお、弥富の文鳥生産農家は、弥富の文鳥が数多く台湾に輸出されていたことから、現在逆輸入される形になった台湾産の白文鳥を、弥富産の末裔と考えられているようだが、色柄の遺伝因子の面だけで見れば別系統と言わねばならない。おそらく関東その他に存在した白文鳥同士では白文鳥しか生まれず、白と桜ではごま塩化する系統が種鳥となり、弥富の白文鳥の形質(絶対優性の白因子)は淘汰されてしまったものと考えるべきだろう。 なお、弥富での文鳥生産が無くなると、文鳥が買えなくなるのでは?といった誤解があるかもしれないので、この点付言しておく。 弥富が文鳥シェアの80パーセントを生産などとしていたが、これは農畜産品として生産出荷されている文鳥でのシェアに過ぎない。実際は、農畜産業の括りに入らない中・小の繁殖家(飼鳥団体に所属するような、いわば繁殖のプロ。動物取扱業)が卸売や小売に売り渡す昔から多く行われており、それがこの「シェア」には含まれていない。また、台湾など海外からの輸入数も、この「シェア」には含まれていない。つまり、この「シェア」は、実際の流通に占めるシェアではなく、シェアの一部である農畜産品としての文鳥生産における、弥富など愛知県の文鳥農家の生産割合を示すに過ぎない。文鳥農家という形態は特殊なので、ほとんど弥富に限られており、農家生産数上の「シェア」は絶対的な出荷数量が激減しても変らないだけの話である。実際、弥富の文鳥組合における出荷数が年々減少の一途をたどっても、それで市場から文鳥がいなくなった事実は無く、元々弥富では生産されなかった、シナモンやシルバーも市場にあふれており、それを弥富でも後追いする形で導入したのが現実だ。つまり、弥富で文鳥生産が完全になくなったとしても、影響は限られるのである。 この際、贅言するなら、本来ペット動物の繁殖は、大規模より小規模が望ましく、文鳥についても、一般家庭のブリーダーから譲られるなり購入する形態が望ましいと信じている。ただ、オマエはどうだと言われたら、自分の家で産まれた文鳥は、とりあえず門外不出で、嫁や婿はペットショップめぐりをして購入している(それでも冷やかし的に動物取扱業登録をしているんだな、これが)。 私個人はともかく、今は一種の過渡期で、将来的にはより一般の飼い主の横のつながりを重視しなければならなくなるように思っている。個人的には、すでに存在する飼鳥団体が、元々言葉は悪いが「鳥キチ」「鳥ヤ」のおっちゃんたちの親睦組織的なものであったとしても、一般に開放した展示会の開催や一般会員の受け入れからさらに一歩進んで、一般の愛好者を中心にした組織になり、文鳥の愛好者拡大や実際の流通における結束点となってくれないものかとも思っている(なぜ飼鳥団体はホームページ一つ運営し続けられないのか?)。しかし、オマエが何かしろと言われると困惑するので、これ以上余計なことを言うのを自重しておこう。
2010年05月11日
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先日、某氏のご好意で、『弥富文鳥盛衰記』という冊子を拝読する機会を得た。この冊子は、昨年一部の文鳥マニアに惜しまれつつ、解散する事になってしまった愛知県弥富市の文鳥生産農家の出荷組合の方が、当地における文鳥産業の歴史や解散の顛末を簡単にまとめられて、関係者に配られたものだ。 私は、おそらく、文鳥の歴史などに興味がある一般的な飼い主の平均的レベルよりも、『文鳥村』と呼ばれ、文鳥生産のメッカであった弥富に対する思い入れが薄いと思う。何しろ、現地に行って、生産の現場を見たいと思ったことすら無いのである。それには私なりに理由はある。生産形態については、畜産全書などの書物や、実際に行かれた人のネットでの見聞記録を見るくらいで、十分にどういったものか把握可能なので、手間隙をかけ、観光としての受け入れ準備の無い農家の手を煩わせても、それ以上に得るものはないと見なしていたのだ。 伝統的に文鳥の大量生産をする場所に興味を持たないのは、文鳥の愛好者としておかしいだろうか?おかしいと思う人は、何か誤解しているような気がする。例えば、ニワトリに名前をつけて大切に飼育している人が、養鶏場を訪ねたいと思うだろうか?それが文鳥の生産場であったとして、どこに本質的な違いがあるだろうか?まして、養鶏場の生産様式を真似して、家庭でニワトリを飼育する人がいるだろうか?もちろん、養鶏という畜産業の経済的な必要性から研究された栄養学や医学などなどの知見を、家庭のペットとしての飼育という観点から取り入れることはあるだろう。しかし、舐めるようにかわいがるのと、出荷できるようになるまで、もしくは食べられるようになるまで、いかに効率よく(短時間で安上がりに)育てるかでは、まるで別次元の話のはずである。 文鳥の繁殖農家の方法論なり感覚が、いかに一般の飼い主と異なるものか、いくつか具体例を挙げよう。 1、営巣の有無 繁殖農家では、箱巣の産座に稲ワラを編んだワラジを敷いて、箱巣のフタをはずした状態で繁殖させている。これは利便性を求めた結果だが、家庭で飼育する者は真似すべきでない。大きな飼育屋の何段にも積まれた飼育箱の中という薄暗い環境では問題にならなくとも、家庭内の鳥カゴの中でフタがなければ、文鳥が落ち着いて抱卵・育雛するのは難しくなる。また、オス文鳥の抱卵・育雛への参加を促す営巣は、ダメなら組み合わせを替えると言ったことが出来ない一般家庭での繁殖では、もはや必須項目と言える(昔的に言えば、オスの「追い盛り」を防ぐには、営巣で体力を消耗させるのが、最も自然で効果的)。2、引き継ぎのタイミング 繁殖農家では、孵化7~10日のヒナを取り出し、その後数日の間餌づけをしてから卸売業者に出荷しているが、これは可能な限り早く親鳥を育雛から開放し、次の産卵を促すための行為であり、家庭で飼育する者は真似すべきではない。未熟なら未熟なほど体調を崩しやすいので、確実に丈夫な手乗り文鳥を育てたければ、問題が無い限り孵化2週間程度は親鳥に任せるべきなのである。こうした経済的な理由だけで早期に引き継いでしまう習慣を、飼育における伝統的な方法論と安易に誤解してはならない。3、廃用成鳥の処分 繁殖農家では、生後1~3歳までを種鳥として用いられ、3歳の繁殖明け「6月の換羽期が来たら出荷処分する」(畜産全書)ことになる。このいわゆる「廃用」を安価に買い取った一部の業者が、「若鳥」と偽って市場に出したところで、消費者である我々一般飼い主にはわからない。もちろん責任の大半は、承知した上で転売する業者側に存在するが、「廃用」で市場が混乱し迷惑をこうむるのは、消費者である一般飼い主である。老衰して亡くなるまで面倒を見なければならない一般飼い主と、3年経てば捨て値で市場に放り出す生産者は、当然のことながら、同じ感覚であるはずがない。 さて、当然私には繁殖農家を非難する気持ちはまったくない。経済動物として見るか見ないかの立場の相違で、見ない立場から言えば、繁殖農家の方法論など真似する必然性も必要性もその欠片もなく、経済合理性の追求を前提としなければならない宿命を持つ産業の、一体何を参考に出来ると信じられる方が、よほど不思議だと思っているに過ぎない(繁殖のプロとしての工夫と飼育上の工夫は、家庭での飼育とは別物であり、一般家庭での飼育にベテランはいてもプロはいない。一般家庭での飼育は、家庭生活そのものだからである)。文鳥を農畜産品と見なして、それなりに品質良く効率的大量に生産することを目指すなら、弥富の農家の文鳥生産システムは、実に良くできたものだったのである(従って別の産地は真似をする)。 しかしながら、大量生産大量消費の時代はすでに過ぎ去り、おそらく再び戻っては来ない。また、使い捨て的安価な製品を求めるニーズに対しては、日本より生産コストが低い海外の製品が応えるのが時代の趨勢となってしまっている。さらに、飼育されるペットの種類も多様化し、文鳥を飼育する人の絶対数が減っているのも明らかだ。その少なくなったパイをめぐって輸入品と価格面で競争するのは、ほとんど無茶といって良い。つまり、文鳥生産についても、一羽当たりの単価を引き上げても消費者に支持されるように、品質の良い国産として付加価値をいかにして高めるかを、考えねばならなかったはずだ。具体的には、大量生産体制を脱却して、衛生的な管理のできる比較的少数羽の飼育システムに移行し、観光化をはかりブランドとしての知名度を高め、直販システムを構築し・・・、と言ったところで、ざっと20年前、少なくとも10年前には考えて、即時に実行していかなければならなかったように思える。 もちろん、昔の成功体験があるだけに変更は難しく(昔は生産しただけ売れた)、従事者が高齢となればさらに困難であり、しかも改革したところでうまくいった保証は何もない。しかし、文鳥だけの爆発的な飼育ブームなど今後も考えにくいくらいのことは(起こったとしても一過性)、少し客観的なら誰にでも理解できたはずであり、何もしなければ、斜陽化してジリ貧になるのは明らかだったと思う。 冊子を読む限り、近年の鳥インフルエンザ騒動が、弥富文鳥の売り上げ不振のダメ押しとなったと、生産者側はお考えのようだが、それも、養鶏や養豚同様の開放的な小屋での大規模生産形式が、ペット動物の繁殖方法として、一般に受け入れにくくなっている現状を表面化させただけではなかろうか。何しろ、鳥インフルエンザにより台湾産などの輸入が頻繁に全面ストップするようになっているので、輸入検疫体制の強化は、国産にとってむしろ追い風にもなったはずである。一体この間、一時的品薄状態を捉え、輸入物に安かろう悪かろうのイメージを与えつつ、国産文鳥のブランド化をはかるような動きがあっただろうか? 実情などほとんど知らずに、「弥富文鳥」のイメージを先行させて、何らかの妄想を抱いている文鳥マニアは昔から多いものだが、そういった文鳥を農畜産品として扱うなど夢にも思わないような人々を、いかにうまく取り入れるかを考えずして、将来などあるわけがない。従って、近々に行き詰ると、十年ほど前に私は思っていたので(『文鳥問題』↓)、むしろ昨年まで組合を継続させたご努力に敬意を覚える。出荷数は減るばかりの上に単価は据え置き状態、いくら努力をしても報われず・・・、こうした産業を継続するのは、とてもつらいものだったに相違ない(※)。http://www.cam.hi-ho.ne.jp/bun2/mondai/mondai2.htm※弥富に文鳥組合が存在したおかげで、長年我々一般の飼い主は、市場から安定的な文鳥の供給を受けることが出来た。文鳥組合が存在したおかげで、弥富の文鳥の品質は保たれ(繁殖家のように当たり外れは無い)、貴重な系統が失われずに済んでいたのである。その点は十二分に評価しなければならない。
2010年05月11日
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朝から亀(井)大臣閣下がテレビに出ずっぱりであった。ご苦労様と言いたいが、実にうっとうしく腹立たしいのが本音だ。 国民新党などという政党は、小泉元首相が進めた郵政改革に反対の人々の一部が、時の総裁の方針に従わないため、自民党から放逐されて発生している。したがって、郵政を元通りにしようと行動して、何の不思議も無いが、それが民意を得ていると主張されては迷惑以上に滑稽だろう。何しろ、この政党の実力者3名(綿貫・両亀井氏)のうち、前回の選挙で生き残ったのは、亀大臣閣下一人と言う体たらくなのである。もし、前々回の「郵政選挙」の民意を、国民の多くが反省し、郵政の復旧を願うなら、あの2人も、ただの爺さんにならずに済んだはずである。 小泉元首相なり、竹中元大臣が進めた改革の不備を改善する、というのが、第一党の民主党の方針だとばかり思っていた。そもそも、民主党は小泉氏の改革路線には大賛成で、亀井閣下などの「抵抗勢力」に加担した意見など、寡聞にして聞かなかったからだ。それが、改善ならぬ明らかな復旧を党是とする、国民の大多数から愛想を付かされた古い自民党の切れ端のような小集団の、唯一といって良いくらいな生き残りの人物に、郵政『改革』を丸投げしたら、どうなるだろうか。こうなるに決まっているのである。 そもそも、近来20年程の間、間違いなく過半数、おそらくは大多数の日本国民が、終始一貫嫌ってきたのは、未来どころか現在すらも考えず、既得権益を守り、さらに拡大することのみを自己目的としているような、政治や行政の有り方であったはずだ。何でも反対するばかりで行政担当能力の欠如した野党第一党(社会党)や、既得権益にしがみつく「族議員」が幅を利かせる政権党(自民党)を瓦解せしめたのは、抜本的な改革を求めてのことではなかったか。ところが、フタを開けてみれば、既得権益を持つ団体の支持を何よりを大切し、政治力は手下になる議員数、その手下は金で集め、その金は既得権益団体から集める、といった、「ザ・自民党!」とも称すべき元自民党幹事長の小沢一郎氏が牛耳り、これまた「ザ・自民党!」と言ってもよい元自民党政調会長の亀井静香氏がのさばる政権になってしまった。この間の選挙の結果がこれだが、これを望んで投票行動した人が(一部の利権団体関係者以外に)いるだろうか? さらに、この政権で目だってくれている人物に、反体制を叫んでいれば、身分は保障され、仕事をサボって組合活動も出来てしまうという噂の、日教組だとか自治労といった、世間から冷たい視線を浴びていることにさえ気づかない組織の出身者なり、全面的な支持を受けている人物が多いのも、一時の熱狂から覚めた国民一般の不審を受ける要因となっているように思える。例えば、民主党参議院議員会長の輿石氏は日教組の出身で、民主党副幹事長高嶋氏は自治労の出身だ。さらに、後先考えず現みんなの党代表の渡辺氏を排除した自民党の実力者町村氏を、反自民の暴風に乗って倒した民主党衆議院議員の小林氏は、日教組から違法に金銭的支援を受けた事実が発覚しながら、議員辞職どころか離党もしていない。 この労働組合出身の方々は、自民党が必ず政権党、社会党が野党第一党以外になる気無しの、『55年体制』のもとでは、当然社会党の支持者であった存在だ。ところが、今や、当時最も憎むべき、企業家・資本家の走狗にして金権腐敗の権化であった自民党中枢、田中角栄元首相・金丸信元幹事長の愛弟子である小沢一郎氏の、側近であり「チルドレン」なのである。 本来しっかりと働く健全な労働者の権利保護のために必要不可欠な労働団体を、政治結社かサボり集団のように、一般国民を誤解させようとしているとしか思えない一部の労働組合は、当然ながら一般国民の違和感・不審感を受け、その組織率が減少一途であり、その支持政党であった社会党はほとんど消滅状態となってしまったとも言えよう。そして、次に支持するのが、「たんす貯金する不動産さん」とか「古い自民党の焼けぼっくい」とか「ザ・自民党!」などと非難される小沢一郎氏ともなれば、なるほど、この『革新』を叫ぶ人たちの本音が、55年体制の復古以外ではないことが明白となる。旧社会党でも、旧自民党でも、『旧』はどちらも同じだったと言うわけだ。 現在、普天間基地の移設問題で、寝た子を勝手に起こして、今さら右往左往している鳩山由紀夫総理大臣閣下は、55年体制を守ろうとした人物として歴史に名を残すことになるのかもしれない。閣下は、旧社会党が瓦解した際に、避難民と化した社会党議員の多くを、(おそらく友愛の精神で)己の民主党に引き受けた。さらに閣下は、自民党との連立解消後に存在感が薄れていた小沢一郎氏の自由党を、己の民主党に引き受けた。つまり、おそらく歴史的使命を失った旧社会党と旧自民党を、その温かい友愛精神で延命させたのは、他ならぬ総理大臣閣下なのである。 民主党を改革政党と見て支援し続けた一般的な有権者の思いを踏みにじり、温存してきた『55年体制』(鈴木宗男氏とその宿敵のような位置づけであった田中真紀子氏が、ともに与党内に組み込まれ、ともに国会内の委員長職を務めるのも、日本政治の摩訶不思議だろう)を表出させては、国民一般の支持を失うのは当然だ。『55年体制』、昔見た顔は裏方に下げ、守旧ではなく改革イメージをアピールしなければ、支持率など回復しないと思える。ただ、清新さに欠け、改革意欲に乏しく見えるのは、野党第一党の自民党にも言えることで、実に嘆かわしいところではある。
2010年03月28日
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不況だからなのか、家電量販店で「値切る」話題がよく取り上げられ、さらに年末のため、アメ横などで「値切る」場面が映し出されることが多い。しかし、不特定多数のお客様を相手にする小売業において、値引きの余地が大きければ、むしろ不審の念を抱く人も多いのではなかろうか。 商売は、仕入れ値に経費や利益を上乗せした価格で売ることで成り立つ。もし、利益が少なければ値引きの余地は無いので、それが可能と言うことは、そもそも掛け値(値切られることを予想して、実際の販売価格よりも値段を高くつけること。また、その値段)が過剰に存在していることを示しており、値札の価格が不当に高いと見なされ、全く信用されなくなることになる。つまり、値札の数字に意味がなくなるわけで、それは売る側と買う側の信頼関係が喪失することに等しい。 交渉次第で同じ商品の値段が変るのは、明らかな不公平だ。物の価格は、買う人それぞれの人格に対して付けられるのではなく、その物の価値に対して付けられるもののはずだからである。 例えば、100円で仕入れた物に300円の値札をつければ、利潤は200円、半額に値引きしても50円は儲かることになる。これが発展途上国のマーケットなどでは、100円で仕入れた物を1000円で観光客に売りつけようとして、「値切り」交渉により底抜けではないかと思えるくらいに値下げしたとみせて、実は200円で売って100円は儲けている。途中500円で売れたら、万々歳で、値札どおりに買う客など、いいカモという目で見られるだろう。 発展途上国での「値切り」交渉を、駆け引きとして楽しめる人も多いだろう。しかし、日本は江戸時代から『現金掛け値なし』の商法が存在する伝統を有し(付け払いによる未払いを前提として販売価格を上げない商法。未払いする者による損益を他の顧客からの利益で補うような不公平が無くなり、価格設定が透明化され、信頼を得た))、現在もスーパーなどで値札どおりに購入するのが当然な社会なので、言い値なり値札に大きな掛け値がある商売に慣れていない方が、日本人として、ひいては先進諸国の国民として普通と言える。スーパーなりデパートのレジで、レジ打ちのおばちゃんに値下げ交渉する人がいるだろうか? 薄利多売の大量消費社会で、他店での同一商品の価格が容易に調べられる情報化社会にあっては、過剰な掛け値を設定すること自体が困難であり、売る側も買う側も、それを前提としているはずである。 『アメ横』などは、期間限定のお祭りのようなものなので、例外と言って良いかもしれないい。しかし、家電量販店での「値切り」習慣の横行は、結局顧客離れに繋がっていくように思える。先日、粘りに粘った交渉の果て、店員が「上司に相談してきますので・・・」などと言っているのをテレビで見た時は、思わず笑ってしまった。利益が出る限界値が設定されていないはずがなく、その範囲内なら、誰に許可を受ける必要も無いのに決まっているのだ。ではなぜ、上司だか壁だかにお伺いに行くのかとなれば、値引きに応じるにせよ応じられないにせよ、その値切り価格が最終回答であることを示すポーズ以外の何ものでもない。その程度のことは、「値切り」が好きな人なら分かってやっているべきだが、そのような分かりきった三文芝居の駆け引きに、有限な貴重な時間を消費することを、何十年と続けるつもりだろうか。知性を有する人なら、大概は、飽きてしまうだろう。 一対一の値引き交渉などで無駄な人件費をかけない方が、全体として価格は安くなるに決まっている。自分が安くなれば良しとするのではなく、全体の利益を考えれば、掛け値なしの商売を求めるのが道理だと信じる。それが、売る者、買う者、そして社会全体の三方の利益になる方法のはずなのだ。顧客を差別して扱う一部の売り手と、「値切り」趣味を持つ一部の買い手により、社会的な公平や合理性を見失うようなことがあってはならない。
2009年12月28日
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民主党の鳩山さんが総理大臣閣下になり、自民党の麻生さんが影響力ゼロの政治家の一人になった。はっきり言えばどちらの人物も嫌いだが、無責任だった鳩山さんは、君子が豹変し、地位が人を作って変ることを期待したい。 麻生さんは、もうどうでも良いのだが、返す返すも負けっぷりが悪い人であった。都議選で大惨敗した時に結果は見えていたはずで、あの時点で衆議院選も負けることを前提に動くべきなのに、それは負けても首班指名選挙に名前を書ける人間を総裁にしなければならないということに他ならないにもかかわらず、両議員総会を流し、総選挙に持ち込み、代わりのやっつけ集会では仕込んだ連中に予定調和の発言をさせて居座った(麻生さんを励ましていたあの議員どもはどうなったのかね?)。挙句に馬鹿なコマーシャルで揺り返し票まで手放し大敗して、名前を書いてもらえず、総裁を辞任するのだから目も当てられない。救いは、あの時離党も出来ないくせに口ばかりで混乱させた軽薄輩も、選挙で負ければ維持した体制など吹き飛ぶことすらわからない頑迷なジジイどもなどなどの愚かな連中が、当然の苦杯をなめて、「ザマーミロ!」と思えた点のみだ。 このように書くと思う様けなしているようだが、これでも遠慮している。なぜならどちらにもごく微弱な個人的な縁を感じているのだ。鳩山家は私が6年通った大学の創設に関わっており、首相閣下は教鞭をとっていた時期もある。一方の麻生さんの母方の祖父である吉田茂は、近所の小学校の卒業生で、近くの寺の開創にかかわった吉田茂の養父のお墓は、目の前の道を行った先で、ワンマン総理も墓参にリムジンに乗って通ったそうだ。・・・といった余計なことを知っていると、あまり悪くも書きたくなくなるのである。だから、「まあ、せいぜい頑張ってください」(これは至極名言だな)。 それはさておき、昨夜NHKで放映された『爆笑問題のニッポンの教養』という番組の話だ。 これは漫才コンビ『爆笑問題』のお二人が科学の第一線で活躍する研究者を訪ねる番組で、私は見たことがなかったのだが、文鳥を使った実験をされている慶応大学の渡辺茂教授の元を訪れるというので、楽しみに拝見したのであった。 いろいろな実験は面白かったし、野生の文鳥らしき映像があって興味深かった。しかし、最後の座談の内容にはがっかりさせられた。語るのが身上の『爆笑問題』の太田光氏が、「動物はなぜ死を認識しないのか?」にこだわり、それに対して違和感を繰り返し表明しているのに、げんなりさせられたのだ。 渡辺教授も、進化の中で死を考えることが有利ではなかった、といった趣旨のご返答をされていたが、生きることだけに集中しなければならない動物が、死を認識し恐れて生きていけるだろうか。いけないので、考えないようになるべきで、それ自体は合理的なだけであり、良いも悪いもない。 太田氏の発言を聞いていると、その疑問の背景には、法廷で被害者に対する気持ちを尋ねられた土浦で連続殺傷事件を起こした出来損ないの発言があるようだ。「ライオンがシマウマを食べる時、ライオンはシマウマに何か感じるでしょうか?」といったものだが、太田氏の鋭い感性は、この発言から人間は他の死を思いやれるのに、動物が他の死を思いやることが出来ないのはなぜか、といった疑問に行き当たり、さらに考えを進めて、近くで仲間の死を目撃しているはずの野生動物が、それについて何とも思わないらしい点を、不思議以上に気味悪いものを感じるに至っているようだ。 しかし、そこに考えを止めず、自然の生き物が仲間の誰かが死んでしまった時に、なぜ死について考えなければならないのか。と問い返すべきで、そうすれば、死を考えることが、自分自身が生き伸びるという生物にとっての大命題に、何の利益ももたらさないことくらいは気づくはずであった。そして、なぜ自他の死を考えない自然の動物は普通なら仲間を殺さないのに、自他の死を十分に考えられる人間だったはずの出来損ないが、それを平然とやってのけるのか。これこそ究明すべき人間性の謎だと気づくのではなかろうか。 この日彼が見たはずの生物心理学は、認識しない動物に対し、認識する人間があれば、その違いはどこにあってどのように生じるのか、つまりは、人間の特異性を究明する学問のはずだった。それにもかかわらず、「人間はなぜ死を認識するのか?動物との違いはどこにあるのか?」ではなく、「動物はなぜ死を認識しないのか?」などと質問を発するのは、的外れと言うしかない。彼が学生なら、おそらく落第は必至と思われる。 「ライオンがシマウマを食べる時、ライオンはシマウマに何か感じるでしょうか?」、なぜライオンではない人間が、このようなことが言えるだろうか。自分は人間として、他の人間との協力が無ければ有り得ない社会、当然ながら相手を突然襲ったりしない規律を持って保たれているその社会で、ぬくぬくと人間の姿で成長しておきながら、突然にサバンナでもない街中でライオンを気取ることに矛盾を感じないのは、たんなる社会に対する甘えであり、論理的崩壊すら自覚できない知能の欠落を示すに過ぎない。 捕食動物が自分が生きるために獲物を狩る時に何の感傷も持たないのと(感傷を持つ個体と感傷を持たない個体がいたとして、どちらが狩りがうまく生き延びる可能性が強いであろうか?)、人間である両親から生まれた人間であることすら忘れ、自分は社会的平和の中で成長したという事実も自覚せず、その社会で昨日の自分同様に平和に暮らす、同じ生物種に属し、社会を共にし、コミュニケーションすら取りあえる仲間を殺すのに、一体どのような共通性があるだろうか。 太田氏は、もしかしたら出来損ないの弱いおつむがひねり出した屁理屈を真に受け、無差別殺人の背景に自他の死に対する認識の欠落にあると感じ、それは人間以外の動物性への回帰ではないかといった疑念を持っているのかもしれない。確かに、自他の死の認識の欠落が無ければ、あのような身勝手なだけの振る舞いは出来ないが、それは動物性への回帰では有り得ない。当然食べ物ではない、自分に危害を加えない仲間を殺すような動物は、基本的に人間だけである以上、それは人間の特異性から生じていると考えるしかないのである。 人間以外の動物が死を認識しないのは必然で、不思議でも無ければ不気味でもない。不思議で不気味なのは、他の死を認識できるはずが殺人をする人間という動物だ。その原因が個人にあるにせよ、社会にもあるにせよ、それは完全無欠に人間性という化け物のなせる技であると認識すべきであろう。違和感を感じるなら、人の人らしい部分で、人の人らしい部分が明らかになるように、研究者たちには頑張ってもらいたいものだ。
2009年09月16日
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文鳥ゲンの急死にかなりの衝撃を受けた飼い主は、こういう時は仕方がないので、1968年ザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」でも聞こうと思い立ち、早速ユーチューブを漁ったところ、オリジナルとオダギリジョーさんと桑田佳祐さんとおおたか静流さんと矢野顕子さんのバージョンなどを試聴することが出来た。中でも、オダギリジョーさんの歌を聴いたのは初めてだが、頭を使って真面目に唄い込んでいる感じがして一番聞きやすいように思う。 この歌の歌詞は、無頼派のサトウハチローの感傷的な詩なのだが、1番よりも夢はもつれわびしくゆれる2番がお気に入りだ。 白い雲は流れ流れて 今日も夢はもつれ、わびしくゆれる 悲しくて悲しくて、とてもやりきれない この限りないむなしさの 救いはないだろうか 救いなど無い、が現実主義の個人的な結論なので、宗教に救いを求めたと見られては心外だが、実は数ヶ月前に『光明真言』を覚えていたので、ゲンを埋葬した後、それをムニャムニャと唱えていたのは事実である。 もちろん、他人が信仰するものは何であれ(他人に迷惑をかけていない限りは)尊重しても、自分には信仰心は無いので、文鳥用の日本的なお墓の前では日本的にお経を唱えた方が様になると思い、それらしく短いのを聞き覚えたに過ぎない(実に有難いことに音声付でお教えになっているお寺のサイトがある)。こういったことは形が大事で、合理的に見ればどうでも良いことにこだわれるからこそ意味がある。儀式や儀礼とはそうしたものだろう。 実は、呪文ならすでに一つ知っていた。適当に区切ると「ノウボウ・アキャシャギャラバヤ・オンアリキャ・マリボリソワカ」と言うものだ。これは高校生の時の英語の文法の講師だった先生が、東京外語大を出て高野山金剛峰寺で修行された密教のお坊さんで、級友S君の「頭の良くなるお経ってありますよね。オンアボ何とか言うの!」とか何とかといい加減な質問に対して、板書して口ずさみ教えてくれたものだ(この先生の外見は、頭をつるつるにそり上げ、顔は鼻が高く黒縁眼鏡でドイツの技術将校のようであった。それでスーツは三つ揃えをビシッと着てイングリッシュを教えているのだから、ずいぶんとけったいな御仁であったと言えよう)。 本当は虚空蔵求聞持法と呼ばれ、虚空蔵菩薩さんの真言(仏さんを称える現地【インド】の言葉。「考えるより感じろ!」と、耳に入ってくる音の響きに共鳴するタイプのお経で、意味がわからない日本の一般ピープルにとっては一種の呪文と言える)であり、弘法大師空海が百万回唱えたことで有名な記憶力を増進させるとされるお経だ。百万回など無理なので、一日七回声に出して唱えるといいですよ、と聞いたような気がする。もちろん、英語がことのほか不得意な私は、当時ノートの端に書いて七回声を大にして唱えたはずだが、効果はまるでなかった。 しかし、墓の前で記憶力を呼び出すというのはどうだろう。なかなか意味深長にも思えるのだが、やはり少し的外れだろう。そこで、真言つながりで光明真言にたどりついたわけだ(般若心経が一般的だと思うのだが、長いのでやめた)。こちらは大日如来さんの真言で、大日如来さんと言えば光を放つ世界の中心、キングオブ仏さんであり、一般ピープルとして俗っ気だけで簡単に言えば一番ご利益ありげではなのである。 ただ、世界の中心のお方に辺々から直にお願いするよりも、文鳥についてよりふさわしそうな、言うなれば担当の仏さんを通した方が良いかもしれない。と、さらに余計なことを考えはじめ、探してみると孔雀明王さんに行き当たった。この方、もともとマハーマユリーと言う女性神だったそうで、マハーマユリーとは偉大なる孔雀の意、つまりはクジャクが神格化した存在らしい。クジャクはオスは姿も美しいが、実用的にも害をなすヘビを食べるとして、現地で人気があり、尊ばれたものらしい(『孔雀王』という昔の奇妙なマンガについては覚えていないので触れない)。 クジャクは当然鳥類だ。ヘビは食べるかもしれないが、おそらく小鳥を食べることはないだろう。過去に何度かヘビの侵入を許した我が家では、クジャクさんは大歓迎なので、この仏さんを守護神と勝手に決めてしまうことにした。何しろ仏さんの慈悲心は広大無辺なので、このような凡愚な衆生の身勝手も、(他人に迷惑をかけるわけでもないので)笑って許してくれなければならないのだ。有り難いではないか。 孔雀明王さんは「オンマユラキランディソワカ」、真言もシンプルでよろしい。そして、つい先日、数百円の孔雀明王さんプラスチックフィギュアを取寄せることにして、どうやら明日にも届きそうなのだから、めぐり合わせと言うのは恐ろしい。ようするに、そのちっちゃな仏像にゲンの冥福を祈っていろと言うことか、ではせいぜい数日は心しよう。※ なお、こういった密教系の話をペラペラ話すと、みだりに法を説くことを禁じる越法(おっぽう)ではないかと心配する真面目な人もいるようだが、たぶんそれは誤解だろう。 私のような一般ピープルなんぞが、真言でも陀羅尼でも、もしくはどこで知識を仕入れたのか、印まで結んでそれを唱えようと(そこまでしたければお寺で少し修行すれば良いものを、と私は思う)、そんなものは真似事のおままごとなので、意味など持つはずがない。何となくやっている当人だけが、形になっていると満足しているだけで、目くじらを立てるほうがよほどおかしい。 越法などと言うのは、おそらくは仏教修行の妨げとなるよう虚言を戒めたもののはずで、求道の埒外にある一般ピープルなど初めから最後までどうでも良いはずなのである。そもそも密教系の仏教は、修行者と一般ピープルを高い壁で隔てなければ成り立たないのである(修行者自身の解脱を目指す)。解脱に至ろうとする修行者を導くには、それなりの知識や資格が必要で、それがないのに判ったようなことを言って修行の邪魔をする坊主がいたら、他の修行者を惑わせる「悪魔」に他ならない、と言うことだろう。玄人さんの仲間内での話なのだ。 従って、私の高校時代の恩師のような出家者が、雑多な一般ピープルに真言を教えるのは、宗門としては教化のためであり、修行者としては教えを求める者への功徳に他なるまい。有り難いことである。ナムナム。【追記9/10】 先ほどミニチュア孔雀明王像が届きました。8cmほどの物ですが、思っていたよりも精巧なつくりで驚きました。元の像は仏師の向吉悠睦さんの作品ですが、それをミニチュア化する技術に感心しました。
2009年09月09日
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今日、期日前投票を済ませた。期日前は3度目だろうか、当日よりよほど楽だ。 衆議院選挙はすべからく政権選択選挙でなければならず、そうではない選挙など無意味であり、政権を担う気のない政党など存在理由はないと、個人的には選挙権が生じた時から思っている。従って、まともな保守の2大政党が切磋琢磨する方向を望んでいるのだが、さて今回は・・・。 入れたくない政党と入れるべきでない政党の二者択一となった。入れたくないと思うのは感情、入れるべきではない考えるのは論理だ。公のことに関しては、個人の感情は抑えられるべきなので、そうするしかあるまい。入れたい政党と入れるべき政党の争いになってほしいものだ。
2009年08月25日
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