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賛成の人が、この指にとまる。反対だったら止まることはない。商品、サービス、そうしたものを提供する企業、お店など、みな、この「指止まれ」的ではないのだろうか。いろいろ考察した結果の私の想いで、楽しい仮説になった。世に生まれた意味は、この世に自分しかいない。自分しかやれない「役割」を持っている。だから最低でもこの自分は自分に尊厳を持って自分を慈しむ。自分がそうした思いで満たされていてこそ、他者にも、同じ気持ちになれる。なぜなら、他の人それぞれが、この自分と同じ「自分」であり、その存在は唯我独尊なのだから。それは自分から見ての他者、相手も自分と同じで、相手も自分と同じに唯我独尊なのだから慈しむ。自分を尊ばないことは、他者を尊ばないことになるし、他者もあなたをないがしろにする。たまたまその頃、映画「愛を乞う人」(原作下田治美、監督平山秀幸)を見た。この映画は、母から幼児虐待を受けて育った娘が、母となり自分の母と同じように、子供に虐待をする、といった幼児虐待がテーマの壮烈な内容のものであった。愛された経験を持っていない人は、人を愛することができない。そうしたことで愛を欠く人は、他者の愛を欲し、愛を乞う人人となる。そして、愛を求めるために、虐待を繰り返す。文章では伝えがたいことだが、映画ではその真実味が臨場感をもって、自分に染み入ってきて、考え続けていた唯我独尊と重なった気がした。私に人を語る資格はない。私が、唯我独尊のことを考えているのはあくまで私の生業である「経営」のあり方に、関してある。愛を乞うのは、愛が枯渇し、愛に飢えているから。この指止まれが、できないのは、この指にとまる人がないと思うから。その理由は、自分を唯我独尊的存在である、とわかっていないから。唯我独尊を考えるきっかけは、経営で、日常的に出てきて、そして私も何気なく使っていたこのアイデンティティ。日本語で言ったら、どういうことだろう。と、考え始めたことに始まる。10.10.26
2010.10.26
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何のため接客や販売員が必要なのだろうか。答えは簡単である。売るためである。ところが、この売るためにいる販売員の多くが、実は販売不振の要因になっている、といったことが多いのである。 結論を言うと「販売員が、売れない商品を接客で熱心に売る努力をすればするほど、その店は売れなくなる」からである。このことは、あなたがお客の立場に立って貰ったらよくわかるはずだが、お店で商品をあの手この手の接客テクニックで売り付けられたとしたら、次にまた喜んで買う気になるかどうか。 いつも言っていることだが、その成功があすからの不振を呼ぶ。その人の販売への腐心とその成果が、その店に対する不信の引き金になる。当然だ。どんな店でも繰り返し来店して貰って成り立っている。だから消費者が買ったのちに後悔するような売り方をしたのでは、一時的には売り上げは上がるが、お客の不評を蓄積させているのだから。 販売員というものは、熱心に販売行為をなすことや自分の販売成績を上げることを仕事の目的と思っているから始末におえない。もっともその責任のほとんどは経営者にあるのだろうが。 売る立場でお客に接し、お客の購買の楽しさや選択権を犯す販売員がいる店は、販売員が接客に熱心すればするほど、来店客数を減らし、店の経営にとって大きな損害になる。来たお客への対応で評価して成果報酬をだしている、といったことから、このことを知らない経営者が、いかに多いことか理解できる。 人件費、教育費、それに多くは、能率給、成果報酬、販売奨励金といった追い銭までを出して、経営を衰退させているのだから、これはもう悲劇である。 「接客とは、真心」、「おもてなしは心を込めて」となどといって、なんとしよう。出来はしないことだ。「 そうか。販売員ではなく接遇員に呼称変更しよう」、と包装紙を替えだけでもだめだ。 経営には、経営者でなければ分からないこともあるが、消費者でなければ分からないこともある。経営者の最大の問題点は、自分が消費者である視点から経営を見る能力が欠乏していることに尽きる、と私は確信している(これが「諸費者中心主義」を私が提唱した理由であり、その確信が、「MMAPで経営革新」のもとになった)。 静岡県・遠州各地に22店舗、まるでお菓子のコンビニ、「たこまん」というお店がある。ここの平松社長は、消費者から見た経営をなす希有な人だ。 販売力のおまじない、すなわち販売員のあり方、接客のありかたを知りたければ、ここで視察ではなく消費者になりきり、お客さんとして買い物してみることだ、と思う。。蛇足ながら、会社の経費で視察するような経営者は、消費者になりきる能力のない人だ。消費者になれる練習を積んでからにしないと、行くだけ無駄なこと。
2007.03.04
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