JE2LUZ・熊野

JE2LUZ・熊野

2020/03/18
XML
カテゴリ: 混在
ここで「野山」と書いてありますが、飛鳥では「のやま」ではなく「のさん」と呼びます。
 杉桧や松山では無い、草刈り場や雑木山などを呼ぶことが多かったです。
 「草刈り場」は堆肥用や牛の餌用の草を刈る場所で、山裾の部分や川原の草原部分でした。
 大又川は急流で深い谷ですから草が育つ川原はすごく少なく、護岸を守るために「川原竹」を植えた部分が多かったです。
 岸を守るのと農作業で使う竹の棒を採っていました。
 河川敷でもそれぞれ持ち分は決まっていました。
 子供達は、愛用の「肥後の守」を使って「自分用の刀」を作り、腰に差して歩いていたのですが段々そんな遊びする子が減りましたね。
 きちんとしてルールがあって、「叩いても良いけど突きは厳禁」でした。
 上の子から順繰りに教えが伝わったので、竹の棒のチャンバラでたんこぶだらけになっても大怪我は無かったのです。
 泳ぎの作法や木登りの作法も伝わっていたのですが、「ガキ大将」が消えると共にそうした明日日のルールも消えて、子供の重大事故が増えたのです。

 昭和32年頃の飛鳥中学校と小阪の吊り橋です。
 川原のところまで埋め立てて運動場が広くなった時で、今は川っぷちの部分が国道42号線になっていますし、人物の後ろ部分に1958年に今も残る体育館が出来ました。
 この埋め立てには生徒がかり出され、大又川からゴロ石を運ばされました。
 毎日毎日200人ほどの子供が石を運んで工事費を安くしたのです。
 いまだと、子供をこき使うのと河川の石を採取する両方で大問題になったでしょうね。
 出来たばかりの熊野市も金が無かったですからね。



 この頃、秋になると「野山」では山芋の葉っぱが色づいてきて「山芋掘り」が盛んでした。
 私なども「図画の時間」には写生しないで山芋を掘り図画の先生に届けました。
 うまく掘れたら具画を出さなくても点が貰えました。
 古き良き時代ですね。
 この時代だと、春の「ワラビ・ゼンマイ・ゴンパチ」の他に「ヨモギ」も大事な野草でした。
 やたらと餅をつくところですし、「よもぎ餅」がよく搗かれましたからね。
 新ヨモギの他に蒸して乾燥しておく「乾燥ヨモギ」も作られていました。
 そして、大事だったのが「お茶」ですね。
 茶畑などは無く、畑の隅や石垣などに植えられたお茶が大事な物でした。
 大きめに育った所を摘み取って蒸してもんで乾かした「番茶」にしましたが、一番茶ですから売っている番茶とは比べものになりません。
 飛鳥や五郷のお茶はおいしいので「奥のお茶」と、木本の人などは貴重品扱いしましたね。
 今でもお茶を摘む人は居ますが随分減ったようです。
 何しろ足場の悪い所に植えてあるので摘むのも大変なんです。
 それに今のガスコンロではうまく加熱できません。
 お茶を煎る「ほうろく」は三丁目の「丸田商店」では今でも売っていますよ。



 大正から昭和への建築もどんどん姿を消しています。
 あと10年経つと木本の町家も随分姿を消すのでしょうね。
 あまり住みよい家ではないですけどね。


人気ブログランキング





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020/03/18 06:00:06 AM
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: