今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

2013.02.25
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「内村鑑三所感集」(岩波文庫)より
http://www.izu.co.jp/~jintoku/utimura10.htm

原文は文語調、後藤人徳の口語訳および意訳の個所もあり。

生と死

キリストのようになろうと思う時、わたしの中には、まだわたし自身の欲望が生きています。

自分自身の無能を認めてすべてをキリストに委ねる時、はじめてわたし自身がなくなりキリス

トがわたしの中で生きるのです。キリストのようになりたいのであれば、キリストのようにな

りたいというその欲望をなくさなければなりません。道徳的こころよりもキリストにすべて委

ねることを優先するのでなければ、キリストと共に生きることは出来ないでしょう。わたした

ちが対決する最後の敵は、聖徒になろうクリスチャンになろうと求める道徳的な欲望です。





2月26日(火)


わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしはどんな境遇にあっても、足ることを学ん

だ。わたしは貧(ひん)に処する道を知っており、富(とみ)におる道も知っている。わたし

は、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処す

る秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

(ピリピ書十一~十三)

キリストがわが心の中にやどりたもうて、感謝がわが生命となる時に、われのなしえない善と

ては一つもなくなる。われはその時、いかなる敵のいかなる咎(とが)をも自由にゆるすこと

ができる。その時、我は善の勇者であり、愛の富者であって、けがれたるわが身がいたるとこ

ろに香気をはなつように感ずる。もしこれが救いでなく、復活でなく、昇天でないならば、わ

れは、救い、復活、昇天の何であるかを知らない。その時、われは詩人の言を借りて歌う、


神はわが足を雌鹿(めじか)の足のごとくし

われをわが高きところにたたせたもう(詩篇十八・三十三)  


「矢内原忠雄の今日の言葉」

あぶくま無教会ホームページ(現在閉鎖)『日々のかて』よりの転載です。


2月26日(火)

主なる神は教える人の舌を私に与え、悩んでいる人を言葉をもって助けることを知

らせ、また主は朝ごとに私を訪れ教えを受けた人のように私の耳を開かれます。

(イザヤ 50: 4)

教育者の資格


 教師は先ず自ら絶えず教育されている事が必要です。すなわち常に信仰によって

自己の可能性を神に向かって引き伸ばして頂くと共に、悪への可能性から防御して

頂かなければなりません。 ・・・ このような教師にして、始めて教育についての新

鮮な熱心を持ち続け得るのみでなく、生徒に対する理解と同情、愛と尊敬を持ち得

るのです。

 教師は又、教育の目的を常に意識していることが必要です。そして教育の最高目

的が神を知らせる事にあるならば、教育者は自分の仕事について神より立てられた

使命を感じ、生徒の前に立つこと神の使徒のように毅然(きぜん)としたところがなけ

ればなりません。「共に教育される者」として生徒に対して持つ愛と謙そんは、神より

立てられた教師としての権威と相伴わなければならないのです。

 正直な教師は自己の無能力を知ります。しかし無気力では教育は出来ません。教

育者にははげしい気迫がなければなりません。それは真理探究者としての誠実で熱

心な生活態度に他ならないのです。 ・・・ 生徒に対して与え得る永久的な教育効

果は教える内容よりも教える態度にあります。



私のおすすめの本


内村鑑三











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最終更新日  2013.02.26 01:39:05
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