一月号歌評下書き(同人誌「賀茂短歌」) 後藤瑞義
原 明男
芳ばしき新藁の香のしみじみとこの一年を掌に取りてみむ
(評)
作者は、新年に向けて注連縄を作ろうとしているのでしょう。それは、今年米を収穫した後の藁、新藁で作るのです。「芳ばしき新藁の香」というのがそれです。その芳ばしい香りの新藁を手にするとき、新しい年を迎えられる喜びとともに、今年一年のいろいろなことが思い出されたのでしょう。「この一年を掌に取りてみむ」という表現が独特です。注連縄を綯(な)いながらの感慨でしょう。
渡辺つぎ
いのちとは自分のものでもままならずまだ生きていた越年近し
(評)
「いのちとは自分のものでもままならず」、まさにその通りだと思います。生きたいと思ってもままならいのが人の世の定めでしょう。ただこの歌はそういった常識的なことをうたっているのではないのです。それは、次の「まだ生きていた」ということばです。作者が満百五歳で、もうじき百六歳になると聞けばうなづけるでしょう。結句「越年近し」に思いがこもります。また一つ歳を貰うんだといった思いです。その思いが、上の句に返って「いのちとは自分のものでもままならず」にエンドレスのようにつながってくる感じがします。
鈴木菊江
北国の光たっぷり艶やかに微笑む如くりんご届きぬ
(評)
「如く」は、比喩の助動詞「ごとし」の連用形ですから、「届きぬ」につきます。ですから、まず、「りんごが届いた」のです。どのように届いたかというと、「微笑むように」届いたのでしょう。その微笑みは、北国の光りをたっぷり吸って、つややかであったのではないでしょうか。
「北国の光りをたっぷり吸って、艶やかに微笑むようにりんごが届いた」というのでしょう。直接「微笑むごときりんご」とはしていませんが、結局そのりんごは北国の光りをたっぷり吸っていて、艶やかだったのだろうと想像ができるのです。その背後には勿論送り主の笑顔も連想されるように思うのです。
黒田幸子
真四角な日当りのよき宅地なり新しき歴史始まりてゆく
(評)
「真四角な日当りのよき宅地」は、作者の家の隣という別の歌もあることからしますと、分譲地ではなさそうです。そして、「真四角な日当たりのよい宅地」には、なにか明るい希望の様なものを感じさせます。それが、「新しき歴史はじまりてゆく」という表現になったのでしょう。現在一人で住んでおられる作者、心強いお隣さんを得る気持ちもあるでしょう。
後藤早苗
足もとに落葉を敷いて葉ぼたんが冬の 日ざしに白く輝く
(評)
主役は、「葉ぼたん」ですので、「足もとに落葉を敷いて」と葉ぼたんを擬人化しています。落葉を敷いて暖かそうな葉ぼたん、そのうえ日ざしを浴びているのです。作者のこころも温かく感じたのではないでしょうか。葉ぼたんが白く輝いている情景は、新年に向けての作者の気持ちを一新するような感じもあったことでしょう。葉ぼたんがただ輝くではなく、「白く輝く」としたところが良かったと思います。
藤井美智子
小春日を思わす歳晩白浜に詩吟発表会咳込み案じ
(評)
「小春日を思わす歳晩」は、暖冬の穏やかな年の暮れを感させます。「白浜に詩吟発表会」、作者は喘息の持病があり、それを改善させるために詩吟をしていると聞いています。その晴れの発表会が、白浜の伊豆急ホテルで開催されるのでしょう。「咳込み案じ」ですから、完全に喘息が良くなったとは言えない状態なのでしょう。それでも出席するというのは、やはり詩吟が喘息に効果があったのでしょう。そして、多少無理してでも出席するのは、やはり詩吟に対する感謝、詩吟をやって良かったということを人に知らせたい気持ちもあったのかもしれません。
小池美恵子
自販機のボトルの水を分ち飲む秋晴れの午後の夫との散歩
(評)
「秋晴れの午後」ご主人と散歩をした作者です。多少汗ばむ感じの日差しだったのでしょうか。自販機でペットボトルを購入し、その水を分ち飲む作者とご主人。なんということもない日常のなかに、初老の御夫婦の愛の姿が垣間見られるような歌で、そこに感動をしたのでした。 今、わたしはご夫婦でする散歩を「なんということもない日常」と表現しましたが、夫婦で散歩をするというのは、田舎ではなかなか見られない光景です。その感動もわたしにはありました。
映像で紅葉に染まる八ケ岳見ただけなのに満足するわれ
(評)
和歌に歌枕というのがあります。地名が多く、その地名にちなんだ歌の本歌取りをしたり、あるいは屏風絵などでその地名の絵を見て、その連想で歌を作ったりしたわけです。それは、実際に旅に行くことが困難な時代背景もあったのでしょう。あるいは、情報不足もあったかもしれません。一方現代は、実際に行くことが出来なくても、たくさんの情報、それも映像で見られるわけで隔世の感があるわけです。ただ、この膨大な情報過多の状態のなかで、逆にそれを歌にまとめることも今後は面白いのではないだろうかと思うのです。情報ばかり多く、何もかも実践することはますます難しくなっている現代です。そうした風潮のなかで、このような歌も増えてくるのではないでしょうか。
土屋文恵
もみじ葉の落葉足裏包むごと歩き疲れの足にやさしき
(評)
「もみじ葉の落葉」という表現に目がとまりました。落葉は枯葉が多く、積って「足裏をつつむ」ように感じることは連想できます。降り積った枯葉が歩き疲れた足をやさしくつつむようだということだと思います。赤や黄色に色づいていたであろうもみじ葉、それがいまだ色新しく落葉となって降り積っていたのでしょう。作者はその鮮やかさに心打たれて、「もみじ葉の落葉」という表現になったことでしょう。「歩き疲れた足にやさしき」は、むしろ作者自身がやさしい気持ちになって、色あざやかなもみじ葉の落葉をやさしく踏んで歩いたのではなかったでしょうか。