白浜短歌会十月歌評(十月十八日)下書き 後藤瑞義(人徳)
A子さん
目覚し時今日の日程決めたのに忘れが多く計画むなし
庭のヤシ元気に育ちのびのびとそよ風受けて葉をなびかせる
1.作者は、目が覚めるとその日の行動計画をたてるようです。しかし、一日が過ぎてみると、あれも忘れていた、これも忘れていたと全然予定通りになっていない。こんなことでは、計画をたてるのもむなしいと嘆いています。しかし、計画をたてること、また計画通りいかないことを反省していることがすばらしいと思うのです。
2.作者の庭には、ヤシの木があるようです。「のびのびと」はヤシの木のすらっとした姿を想像させます。「元気に育ち」と作者は思ったのでしょう。「そよ風受けて」とそよ風を連想したのは、「元気」「のびのび」と言った言葉の流れを受けて使ったようにもおもいますが、実際はどうだったでしょうか。わたしのヤシの葉のイメージはとても固く、強風でないと靡かないように思うのですが。作者にはそよ風に感じたのでしょう。ヤシの葉のゆれているのが、作者にとって心をなごますように思ったかもしれません。
B子さん
草むしり蝉のぬけがら見つけたりつかぬ間の生たのしんだかと
宙
ふるさとの祭り懐しゆかた着て顔ほどもある綿あめなめた
1.草むしりをしていて、蝉のぬけがらを見つけた作者です。それに対しての作者の思いが下の句の「つかの間の生をたのしんだのかと(問いかける)」になったのでしょう。「ぬけがら」が、作者の琴線に触れるものがあったのでしょう。蝉そのものの死骸ではなく、抜け殻ですので、脱皮した蝉は今生きて鳴いているかもしれません。七年も地中に暮らし地上では十日足らずで死ぬといわれる蝉、「蝉のぬけがら」でなく、「蝉の死骸」でも良いかもしれません。ただ作者は、あくまでも「ぬけがら」だと言うかもしれません。
2.この歌は、秋の真夜中の星空を見て作っているのでしょう。少し肌寒いかもしれません。「いよいよ星が冴えわたる」、神秘的な光景が展開している感じです。星空を見ていると、「全てを包む真夜中の宙」という感慨を持ったのでしょう。この歌のよいのは、多分作者は眠れない夜を、星空を見てまぎらわしているのかもしれません。しかし、そうした負の面を覆い隠して、神秘的な夜空の光景を真夜中に見ている歌にしていることだと思います。
3.多分、子供のころの祭りの思い出でしょうか。「綿あめ」に焦点を当てているところが、やはり作者の特色なのでしょう。綿のようにほわほわとした、あまい思い出といった感じでしょうか。なにか、頼りない感じでもあるし、夢のふくらむ感じもあるし、作者の少女時代の心を表現している「綿あめ」とみることも出来るかもしれません。
C子さん
十五夜を二日前寄せ月見会月よりだんごハーイ乾杯
我病守りくれたり白浜の神社大祭今年も来れし(行けし)
嫁ぎ来て白浜神社氏子なる四十と五年月日の過ぎる
1.十五夜を二日前に前倒しして月見の会を開催したのでしょう。料理や飲み物が用意されているようです。「月よりだんご」さあ、乾杯して食事を頂きましょうといったところでしょうか。なにか、十五夜さんを口実にして、食事会をなさった感じがよく出ています。作者の高揚感が伝わってきます。
2.確か作者は大病をなさったように聞いています。病気の快癒を願って白浜神社お参りもしたこともあったでしょう。そのお陰か病気も大事に至らずにすんだようです。その白浜神社の年に一度の大祭が今年もやって来る。「今年も来れし」の「来れし」はどう読むのでしょうか。ちょっとどういうことか戸惑いました。文語の文法的には、「し」は過去の回想の助動詞「き」の連体形ですが。「今年も来たれり」などとするのが普通だと思うのですが。
3.作者は、白浜に嫁いで来て四十二年が過ぎたと思い返しているようです。と同時に、白浜神社の氏子となり白浜神社との関係も四十二年がたったとしみじみ思ったのでしょう。多分作者は、この白浜神社になにかと支えになってもらったという気持ちもあるのでしょう。
D子さん
関節の痛みに耐えず整形へ医者は老化とこともなげに云う
十五夜の空だいだい色の月昇りまんまるの中うさぎ餅つく
しのびよる老のあかしか誤字多く辞書をくりつつ文を書けり
秋ふかみ祭太鼓の音きこゆ夜ごと練習の若者思う
1. 作者は、九十三歳となるようです。関節の激痛におそわれ、整形外科へ行ったのでしょう。そして、多分原因は何でしょうかと聞いたようです。そしたら医師が、老化現象ですよとでも言ったのでしょう。老化現象では、この痛みを解決する方法がないと言われたのと同じことです。それも、何事もないように医師に言われたわけです。作者の失望した思いが伝わります。
2.古くから月に兎が住んでいて、餅をついていると言われています。これは中国からの伝承のようですが、いろいろな国で月にうさぎがいるという伝承があるようです。望月(もちづき)は、「餅を搗く」ということを掛けているという説があります。それはともかく、作者は幼き日に月にうさぎがいて餅をついていると教えられ、信じていたことを思い出したのかもしれません。事実そう思ってみると、月の模様がうさぎが餅をついているように見えたのでしょう。
3.白浜神社の祭りが近づいてきたのでしょう。祭太鼓の練習の音が夜ごと聞こえます。白浜神社の大祭のために、何度も何度もくりかえし練習をしている太鼓の音が聞こえる。作者は、汗を流して練習している若者のことを思っているのでしょう。若者が少なくなっているこの頃、祭太鼓を練習している若者をたくましく思っているのではないでしょうか。
E子さん
磯浜の岩に腰かけ空仰ぐ時はゆったり我を置いて行く
道々に群れなして咲く彼岸花子らと拝まん彼岸会の朝
村じゅうに深まる秋を告げるかに祭だいこの音が響きたる
散歩をしていたのでしょうか。ちょっと一休みということで、岩に腰をかけた。そして、ぼんやり空を眺めた。そんな情景が浮かびます。ただこの歌は、そのことを歌っているのではなく、もっと哲学的なことを歌っているようです。つまり、「時はゆったり我を置いて行く」ということです。こういった哲学的な歌は、なかなかむずかしいのです。それに挑戦した勇気はほめたいと思います。「時」ではなく「雲」とするとぐっと歌に具体性が生まれ、映像が浮かびます。参考になりますかどうか、わたしの歌で恐縮ですが、「 妻の亡き時の流れてわれのみが影のごとに留まりている」、この歌は「時」を川にたとえて、川に映る影は流れないといったイメージです。「シクラメンのかほり」でも、「疲れを知らない子供のように時が二人を追い越して行く」というのがあります。これも「時」を疲れを知らない子供にたとえています。
2. 「道々に」というのは、行く道行く道といった感じでしょうか。「拝む」のは、お彼岸でお寺に行ってお墓参りをすることのように思ったのですが。「彼岸花子らと拝まん」と続いて、彼岸花を子供(息子あるいは娘)たちと拝むような錯覚をします。彼岸花を拝むというのは、ちょっとおかしいでしょう。作者は彼岸花の咲いている光景を上の句で序詞(じょことば)のように出しているように感じました。「彼岸会」というのも、いろいろ考えられますので具体的なイメージがわかないのです。お墓参りなのか、お寺で法事があったのかちょっとわかりません。いろいろ内容が分散している感じがします。「道々に群れなして咲く」には、時間が入っていると思います。「彼岸会の朝」は、朝の一点を感じます。「拝まん」は、「これから拝もう」ということでしょう。自分の気持ちをいれないで、瞬間を写生するのも短歌の勉強には大切なことです。
3. 「音が響きたる」の「音」は「ね」と読むのでしょう。「音(おと)」と読むのであれば、「音響たる」と七音にすべきでしょう。わたしは、「音(おと)」と読みたいと思いました。「響きたる」の「たる」は、「たり」の連体形です。「響きたる音」とするのが普通でしょう。それか、「音響きたり」とするのが、普通です。ただ、言いさしという方法があります、つまり、結句を終止形で納めない方法です(この場合は、連体形で止めている)。「告げるかに」は「がに(…するように)」が普通だと思います。「たいこ」も仮名でなく「太鼓」とカチッと力強く漢字にしたほうがよいと思います。内容的にはよく分かる歌です。
F 子さん
西窓の藍の朝顔色まさり小さくなりて秋をむかへる
ゆつくりと薄茶を点てて自服せりだれにも言はぬわが誕生日
省みて凡そ足りたるわがくらしみ社の前ひとり額づく
1.「西窓」と方角をわざわざ表現しているのは、なにか意味があるのかもしれません。夏の花である朝顔、秋になると色が濃くなるのでしょうか、「小さくなりて」は、よくわかる気がします。季節の移り変わり、秋となった思いを、まず朝顔に焦点を当てて表現している所がよいと思います。西は西方浄土を連想させるかもしれません。小さくなるのも、人間の老化を連想させるかもしれません。ただ、「秋を迎える」で、「冬」でなく「秋」であるところが救われます。ただ、作者には一抹の冬に似た終末の感情が湧いたのかもしれません。
2.「自服」とは、茶をたてる役の亭主自身が、自分で薄茶をたてて客の前で飲むことのようです。作者は誕生日を迎えたようです。9月生まれでしょうか、10月生まれでしょうか。「だれにも言わぬ」と言っています、逆に誰も知らない、あるいは忘れているさみしさがあるかもしれません。
晩夏 原 明男
体中つかひて手話の親子らが夏の渚を楽しみてゐる
一ケ月預け放なしの松盆栽帰へる道々ちくちく尖る
はためける幟りに秋の光たけて里に豊かな千年の風
1.作者は、暑い夏の渚に手話をしている親子(らしい)二人の姿に目を止めました。よく観察しますと、まるで体中を使って話しているように見えたのでしょう。その表情をみると楽しんでいるように見えたのでしょう。この暑い夏の渚ではあるのですが、親子がまるで浮き浮きとしているように見えたのでしょう。それによって、作者もほのぼのとした心持ちになったのではないでしょうか。
2. 作者は日々、盆栽の手入れを楽しみにしているようです。しかし、なにかの都合でその手入れが出来ず一ケ月間知り合いに預けられたようです。盆栽についての知識のないわたしですが、盆栽の手入れについてもやはり個人個人個性があるのではないでしょうか。一ケ月も預けてあればやはり自分の思いと違ったところもあったのではなかったでしょうか。「帰る道々ちくちく尖る」に作者の気持ちが表れています。それは、盆栽が不満をいっているようでもあり、作者の反省の気持ちもあるように感じました。
3. 祭りの幟がパタパタはためいています。「秋の光たけて」の「たける」が平仮名となっていますので、「闌ける(たけなわになる)」なのか「猛る(たかぶる)」なのか、またはその他なの多少迷うかもしれません。まあ、素直に「秋の光が(秋)たけなわになる」でよろしいかと思います。そうした白浜の里に千年余りつづく神社があり、豊かな稔りをもたらす風が吹いていることだ…といったことだと思います。白浜神社の奉納歌にふさわしい歌と思います。