白浜短歌会九月歌稿(九月二十七日)
A子さん
暑さ過ぎ海行く避暑客人影まばら波の音さえ淋しくきこえる
施設にて寒暖感じず部屋の中脳トレ勉強で一日過ごす
1.素直な詠みぶりです。暑さが過ぎ、海辺の人影がまばらになって、なんだか波の音まで淋しく聞こえる、といったことでしょう。ただ、「避暑客」という言葉に目が向きました。作者は前月の歌でも、「避暑の客」という言葉を使っていました。私などは、避暑というとやはり軽井沢とか、涼しいところをイメージするわけです。白浜も海水の中は涼しいでしょうが。それより、なにか作者のなかに暑さを逃れる、暑さを避ける地への願望があるのかもしれません。それが、「避暑」という言葉を何度も使うのではなかろうか、そんな気がしたのです。
2.デイサービスに通っている作者でしょう。「施設」はデイサービスの建物で、冷暖房の設備が完備していて、職員が常に快適な温度に調節しているのでしょう。「寒暖感じず」というのがそれです。そうした、環境のなかで認知症にならないように、パズルなどで脳のトレーニングをしている。作者にとってはそれは、勉強のようなものなのでしょうが、快適な環境で時間の経つのも忘れ、一日がすぐ経ってしまう。そんな感じを詠んでいるように思いました。
B子さん
肌寒い朝に一輪アサガオの咲いてくれしはエールのようで
本二冊クロスワードで日が暮れたせめて寝る前ラジオ体操
物置きに見つけし赤いフラフープかんの戻りし得意にまわす
1.結句の「ようで」は、「言いさし」(文章を途中で止める)の方法です。結句は、名詞止とかいくつか止め方があり、その一つの方法に「言いさし」で結句を止める方法があるわけです。結句が「エールのようだ」では物足りないのでしょう。「咲いてくれし」の「し」がいつもながら気になります。「し」は、正しくは過去の回想の助動詞「き」の連体形です。単純な過去なら「咲きくれたるは」が正しいでしょう。ただ、単純な過去に「し」を使っている例もしばしば見かけます。歌自体は、素直な詠みぶりです。アサガオが咲いたのを「エール」のようだと感じたところに個性が感じられます。
2.今日は、一日中、家に籠って読書とクロスワードをしていて、気がついたら日が暮れていたといったことでしょう。こんなことでは、体に良くないないと思い立ち、ラジオ体操を寝る前にしたのでしょう。ラジオ体操というのは、楽しいとかいうものではなく、なにか規則正しさを象徴するように感じます。ラジオ体操は、体を動かしてもちろん体にいいのでしょうが、個人的には心にもなにかよい影響を与えるのではないかと思ったりします。
3.物置のなかにフラフープを見つけて、何年ぶりかで回してみたのでしょう。体がしっかりコツを覚えていて、得意になって回したのでしょう。フラフープを回しながら、若いころに戻ったような、何とも言えないなつかしいひとときを過ごしたことでしょう。「赤いフラフープ」の「赤」は若さ、情熱といったものを感じさせます。それだからこそ、余韻としてちょっと寂しさを感じたのです。
(参考)「見つけし」は、「見つける」あるいは、「見つけた」とし、「かんの戻りし」は、「かん(勘)の戻りて」くらいにしたい。
C子さん
新車にて松本目差しまっしぐら車窓に光る金色の田
通り雨雷鳴らし行き過ぎる見上ぐる空は陽の眩しかり
突然の強き雨にもまけぬよう足踏ん張りて傘強く持つ
1.事実であるにしても、「新車」がいいですね。オーバーに言えば、新しい世界の幕開けを感じさせます。いっさい感情表現はしていないで、「目差しまっしぐら」「光る」「金色の田」などの言葉で、気分の高揚感を感じさせます。
2.時間の経過があります。つまり、歌に時間が入っているのです。明治以降、アララギ派を中心に短歌は瞬間を歌うこと、写生を重んじることが唱えられました。逆に、和歌では、時間を歌に織り込んだり、枕詞、縁語とか技巧を駆使していました。そろそろ、和歌のよさも見直されていいのかもしれません。「過ぎる」を、「過ぎて」とすると瞬間的な思いになるでしょう。
3.「足踏ん張りて傘強く持つ」は、これはこれでよいと思います。ただ、これは、「(雨に負けないように)傘を強く持つ」ということが強調されています。「雨にもまけぬよう足を踏ん張り傘強く持つ」とすると「雨に負けぬよう」が強調されるようです。「突然の強き雨にも」の「にも」が微妙です。なにかこの歌は、作者の人生の問題がひそんでいるように読めなくもありません。
D子さん
弁当を買って来たよと 息子
の声に独り昼餉をおいしくいたゞく
足あげて山の影背に散歩する手押し車の夕暮の道
晩年を短歌に生きたつぎさんも百六才の長寿逝きたり
1.
ちょっと不思議な感じの歌です。作者は昼食を今一人おいしく食べています。問題は「弁当を買ってきたよと息子の声に」、というところです。「息子の声に」というところが、声を聞きながら食事をしているようにも思われるのです。実際は、多分息子さんの買って来た弁当を食べているのでしょう。息子さんの買ってくれた弁当なのでおいしくいただいたといった思いがこめられているのでしょう。「独り昼餉を」を「独り昼餉もおいしくいたゞく」とすると、多少息子さんへの思いが出るような気がしました。
2.散歩をしている作者です。「足上げて」とわざわざ言っています。それは、足が重くて歩行が大変な感じを受けます。手押し車を押しながら散歩している姿が浮かびます。結句の「夕暮の道」が、単なる風景でなく、作者の人生を感じさせます。
3.最近亡くなられた、渡辺つぎさんの挽歌でしょう。満百六歳でした。七十二歳で短歌を始めたと聞いています。「晩年を短歌に生きた」がそれを表わしているのでしょう。「つぎさんも」の「も」はあるいは、「わたしも(晩年を短歌に生きている)」という思いがあるのかもしれません。「百六才の長寿」で一拍休んで「逝きたり」に続くのでしょう。
E子さん
天城越え友に連れられショッピング広き店内すこしとまどう
我の髪カットしながらSさんは彼が出来たの笑顔で告げる
1.天城を越えてのショッピング。アピタあたりでしょうか。たしかに、下田あたりのスーパーと比べると、「広き店内すこしとまどう」が実感されます。「天城越え」は、わざわざ「天城越え」という感じがします。「友に連れられ」が、必要かどうか。自分の意志では行かないが、友に誘われたのでやって来たという感じでしょう。来てみたら、広い店内で圧倒され戸惑ったのでしょう。「連れられ」というより、「誘われ」といった感じではないでしょうか。
2.美容院に行って髪をカットしてもらったのでしょう。多分なじみの美容師さんでしょう、つい隠し切れないで「彼ができたの」と告げたのでしょう。「言う」のではなく、「告げる」という言葉もなにか告白のイメージがあってぴったりです。プライベートなことなのでSさんとしています。作者とあるいは同年配の人なのかもしれません、驚きとともに、なにかうらやましいような気持ちもあるのかもしれません。
F 子さん
来年も出来るかなあときゅうりを手に老いの手仕事ピクルス作る
老いゆくは難儀と亡き母いいしこと夏をようやく越して思いぬ
1.私はピクルスを作ったことがありませんが、作者は老いの手仕事と言っています。それほど力はいらないのでしょう。それであればなおさら、「来年もできるかなあ」という初句、二句が重く響きます。今年の夏の異常な暑さなどを考えますと、作者も体力に自信を失っているのかもしれません。
2.前作に引き続いた連作の一首です。「老いゆくは難儀」と言った亡き母親の言葉が身に沁みる作者なのでしょう。「夏をようやく越して」あたりに実感を感じます。亡くなられた母親の年齢に近づいたか、あるいは過ぎたのか、母親の年齢に思いをはせているようにも思ったのです。
かんばせ 原 明男
しあわせをかんばせにして師の遺影満ち足りしがに夕日の沈む
過疎深む里の 老舗
の灯の消えてこぼれ落ちそな青い柿の実
1.9月6日に亡くなられました渡辺つぎさんへの挽歌です。すばらしい遺影の写真でした。まさに、「しあわせをかんばせにして」という表現がぴったりしました。その逝去のようすを自然現象の沈む夕日に例えているところが、技巧的でありますが、無理なく受け入れられます。
2.「過疎深む里」、今まさにどこでも問題になっていることです。しかし、この里は、作者の住んでおられる白浜のことでしょう。そこに昔から商売を営んでいた、昔は繁盛していたであろう商店が店を閉じたのでしょう。若いころから作者の馴染みの店だったのかもしれません。
問題は下の句です。柿の実が木から落ちるように店が閉じたという単純なことではなさそうです。柿の実は青いのです。青い柿の実、それは作者の青春時代を象徴しているのかもしれません。青春時代のいろいろな思い出、記憶も消えてしまう寂しさを表現しているように思ったのです。
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