今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

2017.12.19
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賀茂短歌・渡辺つぎさんを読む 同人誌編集発行人・後藤瑞義

 下田市立野の渡辺つぎさんは、賀茂短歌会の同人で、1911(明治44)年3月生まれの現役歌人です。同人誌「賀茂短歌」(2015年10月号から16年9月号)の作品より昨年に続き一首ずつ選び鑑賞してみました。

施設にて日暮れはいつも淋しくてすこし早目にカーテンを引く     (10月号より)

(評)施設は、作者が月に数日ショートステイをする介護施設です。「施設にて」となっていますので、自宅ではあまり日暮れの淋しさを感じることがないのでしょう。ご家族と暮らしている安らぎがあるからなのでしょう。「すこし早目にカーテンを引く」と具体的に表現したことで、「淋しさ」に実感が伴うように思います。個室ですので、ご自分でカーテンを引くのです。百五歳になられる作者のこの自然な行動に感心するのです。

ショートステイより帰る度毎秋深みわれの余命も確実に減る    (11月号より)

(評) 介護施設の「ショートステイ」から自宅に帰り、ほっとしたとともに秋の深まりを感じたのでしょう。そして、季節のうつろいを自分自身の余命と関係づけたのでした。

 私が注目したのは、「秋の深まり」を問題にしていることなのです。誰しも共通の秋のもの哀しさがあります。しかし、季節は秋が終りではなく、冬がまだあるのです。秋のもの哀しさを味わうのはまだ心に余裕がある証拠であり、精神的にはむしろ若さの表れではないでしょうか。

はなれ屋の出窓に並ぶ蘭の鉢に水やりながら問答をする     (12月号より)

(評)はなれ屋と母屋の距離は五十メートルくらいあると思います。作者は、そこまで歩いて行くわけです。はなれ屋にはガラス張りの出窓があり、蘭の鉢が六、七鉢並んでいます。それにヤカンで水を注ぐわけです。話し相手があまりおられないであろう作者は、「水やりながら問答をする」というのです。それにしましても、蘭に話しかけるだけでなく、「問答をする」というのが、すごいと思います。

体重が減るごと足が重くなる老衰というはあなふしぎなり       (1月号より)

(評)体重が増えると足も重くなり動きがにぶくなります。そのために減量をします。それが常識だと思うのですが、百五歳ともなるともはや通用しないのでしょうか。作者もそれに気が付いて驚いているのではないでしょうか。ああこれが老衰ということかとやっと気付いた、そんな感じです。それだけ作者は老いを意識してなかったともいえるかもしれません。「あなふしぎなり」と多少ユーモアも含めた表現で老の衰えを受け入れている作者に感動するのです。

くじけないくよくよしないくやまない百五歳の一歩順調に踏む    (2月号より)

(評)「くじけないくよくよしないくやまない」、「く」の繰り返しが心地よいリズムとなっています。一方、「標語」のような言葉でもあり、強すぎますと短歌としてはどうかという問題をはらみます。しかし、この歌は、「百五歳の一歩順調に踏む」が重要で、上の句は他人への標語的なメッセージではなく、自分自身に言い聞かせる言葉なのです。それでいて、読者にとっても「くじけないくよくよしないくやまない」という言葉が心に響くのです。

由緒ある下田の土地の一粒の砂となりたし百五歳われ        (3月号より)

(評)下田といえばまず黒船来航を思い浮かべます。それは日本を大変革した歴史的な大事件だったわけです。下田の土地に強力な引力のような不可思議な力が備わっていたのかどうかは分かりませんが、作者は下田の土地に愛着があるのでしょう。生まれ育った土地、父祖の土地への愛着かもしれません。そんな下田の土地の一粒の砂のようでもいい、一体化したいと願っているようです。それは、長寿を得るほど強くなったのでしょうか。

一寸先の光を求め深呼吸今日から春だ誕生日近し          (4月号より)

(評)政治家がよく「一寸先は闇」ということを言います。世の中の闇を光にかえるのが政治家の役割でもあるでしょうが、その政治家にして、この言葉です。

 この歌は「一寸先の光」で先ほどの言葉とは正反対の表現となっています。誕生日間近の作者は、「光」、「一寸先の光」を求めて、深く息を吸うのです。闇のような冬が終わり、光あふれる春となり、百五歳の誕生日となるのです。一瞬一瞬を大事に生きている作者の姿が浮かびます。

末の子の五十回忌の今日たち日母百五歳と言いて香炷く      (5月号より)

(評) 作者は今、息子さんの五十回忌の命日に、線香をあげています。「お前の五十回忌の法要を勤め上げるまでは、とがんばったら百五歳になってしまったよ」とでも言っているのでしょうか。作者が生きている限り息子さんとの思い出も生き続けます。息子さんの分まで長生きしなければと思っているのかもしれません。そうした母心を感じたのです。

規律よく配給を待つ被災者よ日本人たる誇り忘れず          (6月号より)

(評)ボランティアの炊き出しなどに整然と順番を待っている情景が目に浮びます。それは、作者によれば、日本人である誇りを忘れない行動なのだということなのです。「配給」という言葉が出て来ています。百五歳の作者の言葉として、戦時中の統制経済下の物不足の状況を連想するのです。そして、作者自身実際に規律よく配給を待った体験があるのだと思います。それは、日本人としての誇りを作者自身が持っていたためだと思っているのでしょう。

いつ来てもいいよいいよと思うまで命いただき神佛に謝す       (7月号より)

(評)「いつ来てもいいよ」というのは、「いつ死がきてもいいよ」ということなのでしょう。それを誰かに言うのではなく、作者自身がそのように自然に思うまで、長く命をいただいて、百五歳になったということでしょう。そして、それは神佛のおかげだと思っているのです。「い」の音の繰り返しによるリズム、死を深刻に歌うのではなく、むしろ軽やかに明るく歌うところが、渡辺さん流なのでしょう。

命綱どこまでたぐっていくのだろう百と五歳は腕力弱し           (8月号より)

(評)「命綱」とは、高い所へ登るときに万が一落ちたりした場合に身を守るため体に縛りつけておく綱。または、命の支えとして大事と頼む綱。この場合は後者の命の綱でしょう。命綱をたぐってゆくとは、生きて行くということのようです。「たぐること」すなわち生きることと考えますと、百五歳の作者です、「腕力弱し」が切実に感じます。もっと、もっと生きなさいと言われているのに応えている歌のようにも感じるのです。

未来という文字がわれより奪われてオリンピックも最後の観戦     (9月号より)

(評) リオデジャネイロオリンピックを感慨深く観戦されたのではなかったでしょうか。次回は東京で開催されることになっています。当然東京でのオリンピックも観戦したいと思う心がおありなのではないでしょうか。その心を抑えるように作られたのが、この歌のように思われます。「未来」という文字は百五歳の自分からは、奪われていると言い、今回のオリンピックが最後のオリンピック観戦だと自分自身に言い聞かせているようです。「オリンピックも最後の観戦」の「も」が強く響きます。








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最終更新日  2017.12.19 10:42:28
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