白浜短歌会九月歌評(九月二十日)下書き
A 子
庭に咲くアジサイの花時期なのか暑さに負けてみるのもあわれ
暑き日に暑さに負けて家の中冷房身近に仲良く遊ぶ
1.
庭に紫陽花の花が咲いているようです。この歌が8月の作としましては、
ちょっと内容がずれているように感じます。たぶん7月上旬、あるいは6
月下旬の作品のようです。「アジサイの花」と花を取り上げています。「時
期なのか」は、もう夏なのかといった感じでしょうか。「今年は暑くなるの
が早いなあ」といった感じです。「暑さに負けてみるのもあわれ」は、もち
ろんアジサイの花が暑さにまけて見るのもあわれということですが、なん
となく、アジサイの花のことだけではないような感じも伝わってきました。
鏡に写る自分自身かもしれませんし、他人かもしれませんが、花だけの
ことではないような余韻を感じました。深読み過ぎるかもしれませんが。
2.
「暑き日に暑さに負けて」とは、どういう意味でしょうか。「暑き日に暑さに勝った
人」は、野外でスポーツしたり、海水浴をしたりするというのでしょうか。作者は、
暑さに負けて家の中に籠っているということでしょう。それにしましても、「冷房身
近に仲良く遊ぶ」は文字通りに解するのがむずかしい表現です。「冷房身近に」
は、身の近くに冷房を、すなわち冷房をかけっぱなしでといったことのように思う
のですが。「仲良く遊ぶ」とは、誰が誰と仲良く遊ぶのでしょう。わたしなりに推察
しますと、作者がエヤコンをまるで友達のように身近に感じ、家の中が快適でま
るでエヤコンと遊んでいるように感じたのではないでしょうか。エヤコンと遊ぶと
いう感覚は新鮮です。
B 子
今朝の風秋のにおいは本誘う阿部謹也氏で「世間体」読む
内臓も頭も落しサンマ焼くこれが私のおいしいサンマ
1.「今朝の風秋のにおいは」という表現に感服しました。古今集、藤原敏行の
「秋来
ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」を思い出したからです。
それはそれとしまして、作者は風のにおいに秋を感じ、本を読みたくなったようです。
阿部謹也という著者についての知識をわたしは持ち合わせていません。ですから、
「世間体」という本も読んだことはありません。しかし、「世間体」という題名にひかれ
ます。齋藤さんも「世間体」について思うところがおありなのではないでしょうか。日本
独特の風習なのかわかりませんが、世間体が良いとか悪いとか言われ、私達はとか
く行動が制約される息苦しさがあります。「世間体」とは何だろう、どうしたら「世間体」
とうまく付き合っていけるのか、誰もが関心のあることでしょう。
2.昔から秋はサンマの美味しい季節です。作者は、内臓も頭も切り落してサンマを焼く
と、焼く方法を具体的に述べています。サンマは全身を焼くのが普通だと思います。内
臓のほろ苦い味もサンマの独特の味わいのようにも思われるのですが、作者はそれを
嫌っているようです。そして、きっぱり「これが私の美味しいサンマの焼き方です」と宣言
しているようです。一首目の「世間体」の歌と考え併せて読みますとまた作者の独自性
が鮮明になるようです。
C 子
どしゃ降りの雨上り空青々と白き雲々光り耀く
雨上り青空高く白き雲眩しいほどに目に刺さり来る
帯ほどく金襴緞子固くって一目一針バックになった
1.最近の気象状態を詠んでいるようです。スコールのような、どしゃぶりの雨が降っ
たかと思うと、すぐさま空が晴れてきます。歌自体もどしゃ降りに始まり、空が光り
耀いて終っています。なにか、気持ちがスカッとするような読後感があります。
2.一首目と同様な状態を詠んでいるようです。「雨上り青空高く」、秋になり「天高く
馬肥える秋」を思い浮かべます。一首目が状況の描写で終っているのに対しまし
て、こちらは「光が目に刺さり来る」と自分に引きつけて詠っています。「青空高く」
という表現に、よく晴れ上った感じが出ていて、眩しさに実感がこもります。
3.「金襴緞子の帯」をほどく作者。高価な帯も眠らせておいたらもったいないと思っ
たのでしょう。ほどして作りかえようとしています。非常に固く、一針一針、一目一目
苦労して縫っている様子が伝わります。「バックになった」という口語表現のなかに
やっと完成した、完成の喜びが伝わってきます。
D 子
休詠
E 子
真夏日に畑の草取り我一人海の青さにエールをもらう
久に打つボールの行方目で追ってあわてて走る緑の芝を
1.
「真夏日」という表現。「猛暑日」という言い方もあります。両方とも夏のある日といっ
たところでしょうか。「真夏陽」とするとその日の太陽の光の強さみたいなものが出る
ように思います。そのときのもっともふさわしい表現をあれこれ考えるのも、勉強に
なるでしょう。「海の青さ」は、よく晴れていることを表しています。真夏日の良く晴れ
た、暑い日を連想させます。その暑い良く晴れた空によって海は青々と輝くのでしょ
う。青色は清い感じがしますが、それがエールのように作者には感じたのでしょう。
暑い中での甲子園の球児を思い浮かべたりしました。
2.
「ボール」は、グランドゴルフのボールのようです。久しぶりに行ったようです。「目で
追って」「あわてて走る」あたりが、まったく経験のないわたしにとってはイメージが湧
かなかったのです。一首のなかに情報が多い感じがします。「久に打つボール」「行
方目で追って」「あわてて走る」「緑の芝」などがそれです。具体的に細部を表現する
のは悪い事ではないですが、どこかに感情の中心点がほしいのです。 経験のない
私の参考例は、あまり参考にならないとは思いますが。
参考:久しぶりグランドゴルフで打つボール行方定まらずあわてて目で追う
F 子
連日の暑さに負けずポーチユラカ赤黄花つけ風にゆれおり
あれやこれ譲れぬこともほどほどに少しゆるりと八十路を往こう
1.
「ポーチユラカ」という聞きなれない花の名前が出ています。暑さに強く赤や黄の花を
咲かせます。まさに、「連日の暑さに負けず」です。「風にゆれおり」は、連日の猛暑の
なかで涼しい顔をして咲いているポーチユラカにうらやましさを感じている作者かもし
れません。
2.自分の思いを歌にしています。「あれやこれ譲れぬこと」が作者の心の中にあるのでし
ょう。しかし、それに対して向きにならない、腹を立てないようにしよう。少し余裕をもって
八十歳を生きてゆこう、そんなふうに自分に言い聞かせているのでしょう。「八十路」は、
八十歳のことですが、作者は八十代という意味で使っているように思います。そうした使
い方もまれに目にしたことはあるように思います。しかし、正確には八十歳のことだと思
います。
晩夏 原 明男
若きらに混りてしばし雨やどりはじけるやうなコロンの匂ふ
人ら去れど海はまだまだ夏の色所在なきかにたはむれる波
1.最近は、突然激しい雨が降って来ます。作者もそんなにわか雨に降られたのかもしれま
せん。適当な場所がなく、若者が多くいる場所に作者も雨やどりをしました。狭い場所にかしまし
い若者と肩身を狭くして雨やどりをしている作者の姿が浮かびます。「はじけるやうなコロンの匂
ふ」に若者に対するある種の感情、若さに対する作者の羨望のようなものを私は感じたのです。
2.作者は海辺に住んでいて、四季おりおりの海を眺めていらっしゃる。「まだまだ夏の色」と
いうところにそれが現れていると思いました。しかし、夏休みも終り、海辺は人が去って閑
散としています。海はまだまだ夏の色、波もまだまだ夏の波、人気のない海で波が所在な
きかに一人遊びをしているように感じたのでしょう。これは、単なる情景描写だけでなく作
者の心象風景ともとれるように感じました。
後藤早苗 拾遺(三)
妻の死後大学ノート七冊が見つかりました。短歌作品が書かれたノートですが、正確な作
成年月日がほとんど書かれていません。ただ、せいぜい最近十年間くらいの作品だと思われ
ます。そんな中から少し拾ってみます。
日に何度もひよこをのぞき見る夫を親鳥鳴きて飛びかかりたり
われを見て一目散に逃げて行く小さなイノシシ庭はめちゃめちゃ
見ていれば大きくなるでもないけれど日にいくたびも野菜見に行く
梅雨入りの前にらっきょうジャガイモを掘らねばならぬ気持ちが焦る
二、三日暑い日あれば梅の実が一つ二つと落ち始めたり
知事選の広報カーが一回も回ってこないわれの住む里
雨音が聞こえて来り今日挿したさつまの苗が無事つくだろう
収穫を喜ぶ夫青空のジャガイモ畑に腰痛忘れ
縁薄き娘に何も出来ぬ身を一人苛立つ雨の降る午後
じゃがいもが取れればじゃがいも瓜なれば瓜が出て来るわが家の食卓
雨降ればかぼちゃのつるが伸びだして畑をめぐる大蛇のように
薔薇の花気にいるらしい他の花を見向きもせずに手入れする夫
父の日に娘より届きし万歩計肌身離さず身につけている
庭の花次々と咲き仏壇の花に不足の無くてうれしい
枇杷の実が採っても採ってもなくならぬカラス食べてもまだまだ残る
(つづく)
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