歌集「悲しき玩具」(七十七)下書き
後藤瑞義
( 注 ) 歌の順序は歌集の順序によります。
この四五年、
空を仰ぐといふことが一度もなかりき。
かうもなるものか?
以前何度も出て来ていますが、助動詞「き」は、過去にあった事
を思い起こす(回想する)意をあらわします。現代では「た」で統一さ
れていますので、微妙な感じが出ないのですが…。
「(思えば)この四五年、空を仰ぐということが一度もなかったなあ…」、
といった感じでしょうか。「一度も」と強調しています。
啄木には、「 不来方
のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の
心」といった有名な「空」を題材にした歌があります。それを思い出しました。
見上げるでなく、「仰ぐ」という言葉に、わたしなどは、神に通じる天を
イメージします。そのような観点から、単に空を見上げたことがなかった
といったこと以上の深読みをしたくなるところです。神仏を意識する、そう
いった心もちには一度もならなかったといった深読みをしたくなるところです。
「こうもなるものか」も「?」がついていると、はたと解釈に苦しみます。単
に「こんなふうになってしまった(空を一度も仰ぐことなく、あくせく暮らすよう
になってしまった)ことだ」といった単純な回想ではなさそうです。
「人間は、こんなふうになるのだろうか。いや普通の生活環境であれば、
そうはならないだろう。」といった反語の意味も少し含んだ「?」のようにも思
えます。また、日々の困窮した生活の反省として、「貧すれば鈍する」に似た
思いがあったのかもしれません。
余裕もなく、希望もなく、祈りも感謝もなく、その日その日の生活に追われ
て、四五年を過して来たと、病気にでもなってふっとそんなことを思っている
啄木が浮かんでくるのです。病気は休息の一種でもあるでしょうし、来し方を
省みる余裕も与えてくれます。
二行目「 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。」と三行目「 かうもなるもの
か?」との間には、前にも述べているような多くの思いが省略されているでし
ょう。繰り返しになりますが、単なる「こうなってしまった」、ではないということ
でしょう。困窮を極めた啄木のうめき声が聞こえるようです。
(注)短歌は瞬間を切り取って歌うよう、何度も師(原 昇先生)に言われま
した。短歌に、時間を入れると歌がだらけてしまう、説明になったり、単なるお
話しのような、荒筋のようなものになってしまう。一方小説家志望であった啄
木は、あえて一首のなかに時間(期間)を入れて、ふくらましているように思い
ます。そのために、三行分ち書きも効果的でしょう。
後藤瑞義入選歌(平成31年度:令和元年… 2026.05.28
渡辺順三歌集「日本の地図」 1952年… 2026.05.28
与謝晶子の歌(369)花のある風景――(… 2026.05.28