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柔和な人になりませう。年がら年中、怒ってばかりではなりませぬ。いかなる理由があるにせよ、自ら発したその波動は自らに返り、魂の浄化、向上を阻むものでございませう。自分に厳しく、人さまには寛容さを忘れてはなりませぬ。柔和な心を目指しませう。
November 13, 2008
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近代スピリチュアリズムの発展に貢献し、スピリチュアリズムの父とよばれた人物は、イエス・キリストについて、こう言っている。『イエスは人類史上まれにみる高潔な人格と高度な霊能を開発した完璧な人間で、その言葉や教訓は、正しく理解すれば全面に、受け入れられる性質のものであり、尊敬に値するが、ただバイブルは必ずしもイエスの言った通りが記録されていない。』イエスの経歴となぜ新約聖書にデタラメが書かれたかを次のように述べている。『 昔ガリラヤのナザレに、あまり名の知られていない平凡な家族が住んでいた。父はヨゼフといい元気者で真面目一方の職人であった。その妻マリヤは至っておとなしく気の優しい女であった。その夫婦に一人の男の子―その誕生と生と死について数多くの伝説を生んだ人物―が生まれた。 その児はイエスと名付けられた。当時イエスという名は時たま見かけたが、あまり好まれる名ではなかった。というのは太陽の司祭によって崇められ、旧約聖書の第二列王紀の随所に出てくる、あるエジプト神の名を連想させるからであった。イエスは身体的にも品があり、頭が良くて、嗜みも垢抜けており、すべてにできた人間であった。青年時代はその明晰な頭脳と、飽くことを知らない知識欲で皆の評判であった。また、肉体的に或いはは精神的に悩みをかかえた人に、純粋な同情を寄せた。大勢の民衆を前にして、しばしば慰安と教訓の説教を施した。その説教の中で彼はあくまで当時の用語を用い、また自分が穢れのない純粋なる愛の説教者にすぎないこと、そしてまた、救済と慰安と同情を必要とする者すべての味方であることを明言している。私はイエスの全人生、性格、教訓、改革の精神―これらがことごとく純粋無垢であったことに、この上なく心を魅かれるのである。イエスは、当時の一般大衆のみじめな状態を歪みのない目で正視し、それを十二分に認識し、正しい真理の通る新しい地上天国が、到来する日を心から切望したのであった。しかしこうした純粋の発露もやがて偏見によって邪魔されることになる。神学者たちは次第にイエスを目の敵にして非難するようになり、やがて捕えられて法廷へひきずり出された。裁判といっても訊問のようなことをするわけでなく、ただ一方的に"平和を乱し既成信仰の慣習と儀式、それにアブラハム、イサク、ヤコブの神々への祈りにケチをつけた" ときめつけられて死刑を宣せられた。そして他の二人と共にはりつけにされたのであった。磔刑は当時のならわしであった。このようにイエスは一人の善良なる人間であると同時に、気高く、並ぶ者のない道徳改革者であった。イエスは決して自分が神の子であるなどとは言わなかった。もし言ったとすれば、それは全ての人間と同じく永遠なる宇宙的大木の一本の枝という意味において、そう言ったのであろう。イエスは実に心身共に完成された人間の典型であった。私のみるイエスは偉大なる道徳革命家であった。いかなる特権階級とも結びつかず、至って平凡な両親のもとに生まれ、そしてその生まれ故郷のふところで育った。並はずれた知性をもち無限の愛と同情を胸に秘め、患える者を癒し、盲目の者には光を取り戻してやり、不具を治し、悩める者を訪ねて慰めの言葉をかけるのであった。 時には大衆を前に愛と道徳と平和と善意を説き、憎みあう者のいない楽しい安らかな人の道を教えた。そしてそのあげくに愛と真理と徳のために十字架についたイエス・キリスト。その最後は、実に恥知らずの無法者の立てた、人類の無知の記念碑であるといってよかろう。』スピリチュアリズムの父は、一つの読み物として聖書を扱うべきだとも言っている。本当にイエスの伝えたかった真理は、聖書に書かれたことの中にどれほど残っているのか、純粋な心眼で見つめれば、きっと見抜くことが、できるはずだと思う。そして祈りの時のロザリオや協会の聖堂に、よく見かける十字架に、はり付けにされた姿のイエス。それを信仰の対象とするのも何とも物悲しく、滑稽にすら思えるのは私だけだろうか?
March 21, 2008
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人間はみずからの内部に善行と悪業の結果(報い)を宿しているのであって、第三者から与えられるのではない。つまり、罪は、それ自体が罪を宿しており、徳は、それ自体の中に報酬を孕んでいる。そして罪は人間の成長とともに消滅して行き、一方、徳はいつまでも消えることがないのだ。スピリチュアリズムの父の言葉をみたび引用させて頂く。夫を殺害した女性の裁判で、責任能力の有無について議論をかもしだしているという。あまりにも残酷な姿で発見されたため、夫側の血族は極刑をのぞむのもそれなりの怒りがあるだろう。しかし、このケース、夫の妻に対するDVがあったという。もしもDVによって夫が妻の命を奪っていたらどうなったか?マスコミや世間の反応は、真逆だっただろう。 DVは、恐怖と不安で外部にSOSを発することすらできない状態まで魂を追い詰めさせてしまうという。人は死後も個性・人格というものが存続する。魂は永遠であるが、殺人を犯したものの中には殺人を犯してない人と変わらずに死後浄化の道を辿ることも少なくないようだ。なぜか?「罪は、それ自体が、罪を宿している」とあるように、罪を憎んで人を憎まずだからだ。誰だって、危機的状況においては冷静でなくなる。戦場で人の命を奪わずに帰ってこれるのかと。未熟な魂ゆえ、理性的に対処できなかった場合や心が負のエネルギーを抑えきれ無いでいる所へ邪まな憑依霊が、自らの恨み辛みを他人の肉体を我が物にし、思いを遂げようとするらしい。残虐な殺害だったとしても極刑をのぞむより被告人に罪の意識と反省の心を芽生えさせることが、大切だ。愛を芽生えさせるには、愛を与えることが必要だ。残された血族が憎悪の念をいつまでも抱きつづけ増幅させれば、争いは未来まで続いてしまうのだから。すべての人が善行に励んで、徳をかさね、愛に気づけば世の中から争いが消え、きっと平和に暮らせるだろう。
March 12, 2008
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霊こそ有形物の根源的素材である。言い換えれば「形体」を有するものを根源において支えているのはこの「霊」なのである。物質はその霊の表現の中でも最も表面的で、しかも鈍重なる現象である。真の意味での存在が認識できるのは純粋なる霊においてのみである。つまり純粋なる霊は自己を意識した存在なのである。昨日に続いて、スピリチュアリズムの父の言葉を書き記しておこう。有形物とは、なにか?簡単にいえば、人間なら肉体のこと。人間のみならず動物や植物にも魂が宿っているのだ。では、石などの鉱物は?もちろん、同じく魂が宿っている。質としては、人間に宿る魂と他の動物に宿る魂、植物や鉱物はそれぞれ違ったものである。私達が、単なるものとして扱っている物質も実は、これから向上していこうとする魂を宿していると認識してほしい。人だけでなく、物質も大切にしてほしい。形あるものは、いつかは壊れるだろうがその時は、感謝の意をもって別れを告げてほしいと思う。古代の日本では生きとし生けるもののみならず山や川、海など森羅万象すべてのものに神が宿っていると信じてきた。そうすることによって、自然や物を大切にし生き物や人、そして自分をも大切にすることが出来るのだと私は思う。世間で起きている見るも辛いニュース、偏見や差別、粗末に扱われる命に争い、あげたらきりがないほどだが、それらの出来事は、決して当事者でなくても無関係なことではないのだから。現に国も人々も地球までもが悲鳴をあげていることに気付いて欲しい。一人一人が、純粋な心で自分のまわりを見渡してほしいと思う。
March 4, 2008
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超越状態とは、あらゆる霊能を開発しあらゆる動物的本能から解脱した真の自我が、霊界の生活者と実在の根源と摂理との直接の接触にあずかる状態をいう。その状態に入るには人体の磁力を利用して誘導してもらう場合もあるし、自力で入る場合もあるがいずれにしても体験を積まないと培われない。つまり、自我というのは、肉体に宿っていても、肉体から離れていても、地上にいても霊界にいても、体験というものを通じて学び、そして発達していくものなのである。こうした超越状態にまで達した人は歴史にその名を留めている人だけでも決して少なくない。イエス・キリストなどはその最たる例であろう。その素朴さ、その清純さ、その優しさ、その叡智、その予言能力、その融通無碍な説法、無理のないその生長ぶりがイエスの霊格の高さを如実に物語っている。1800年代に調和哲学と銘うった 心霊思想家の言葉だ。彼は、自らも霊能・霊覚者であり「スピリチュアリズムの父」ともよばれ、貢献した人物だ。名前を書こうと思っていたがどうも手が進まないので、ここでは控えさせて頂きます。彼はイエスを神だとは言っていないが、最たる神に近い存在であるのは、間違いないと思う。人は、その超越状態を目指して、魂を浄化していくのが目的なのだろう。現世を生きる私達もイエスのように、素朴・清純・優しさ・叡智を意識して人生を送ると、肉体が滅びた後も苦悩の闇に包まれることなく、向上して行けるのではないでしょうか?スピリチュアリズムの父は、きっと死後も調和哲学を伝えようと私たちに働きかけていることでしょう。
March 3, 2008
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《日常の五心》一、『はい』という素直な心一、『すみません』という反省の心一、『おかげさま』という謙虚な心一、『私がします』という奉仕の心一、『ありがとう』という感謝の心小学生の頃、学校で配布され、家に持ち帰ると父が、私の勉強机の前に貼ったのを覚えている。仏教の説法から抜粋された言葉だそうだ。素直・反省・謙虚・奉仕・感謝どれも簡単なようで簡単ではない。素直・・・人は他人によく見られたいという気持ちが働くと自分を繕ってしまう。いわゆる小さな嘘だ。それが重なれば、理想化した自分は虚像化し、本当の自分との間にギャップが生じるのでは、ないかと思う。素直を心がけると楽に生きれるようになる。反省・・・自分の行いを認める。過去があるから今がある。自分を認め許すことで、少しずつでも成長できるはず。謙虚・・・自慢や傲慢は、人に不快感を与え、妬み嫉みを生む。それは、やがて自分に返ってくる。先人達は「実るほど頭をたれる稲穂かな」と良い諺を残している。謙虚を心がけると敵はいなくなる。奉仕・・・人に尽くすと喜ばれ感謝として自分に返ってくる。仮にその人からでなくても廻り廻って、自分のもとへ。近頃は、ボランティアと称して金儲けをする輩がいるようだが、理性と判断力をもって本物か偽物かを見抜いて欲しい。感謝・・・どんなに小さなことにも感謝をする。生まれてきたこと、生きてること、ご飯が食べれること。キレイな花をみつけたこと、天気がいいこと。数えたらキリが無いほどある。そこから真の喜びを得られるようになると思う。日常の五心を意識して行動すると自分から見えてくる景色も変わってくると思うのです。
March 2, 2008
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番組は、同性愛者に対する、差別や偏見についての話が中心でした。ゲストの中村中さんてモデルさんみたいだから以前は女性だと思ってました。美輪さんだって子供自分は、明宏という名前に驚いたものです。「友達の詩」って聴いてると切なくなる。男と女でも愛を告白したとたん、壊れてしまう事だってあるのだから。ずっと友達でいた方がいいと思った経験がある方も多いのでは?印象的だったのは、「人と違うことだけにとらわれていたら命を絶っていたかもしれない」という言葉。人の気持ちに無神経な人が多いことを残念に思います。自分じゃないから平気、自分じゃなくてよかった程度にしか思わない人が他人を傷つけるのでしょうが、結局は自分に返ってくるというのに…。当事者どうしでなくてもカタチを変えて返ってくる。ギリシャ神話の神様にも同性愛の話が出てくると美輪さんが仰っていましたが、武士の時代だって、ともに戦う者同士、関係をもったと聞いたことがあります。軍隊にも同性愛者がいたというのも納得できる。戦いを前にして絆を深めたのでしょう。いざという時、助け合う気持ちが強くなるでしょうから。愛する人と結ばれたいと思うのが、最大級の愛情表現と考えるのは当然。同性愛では愛しているのに、愛する人の子供を産むことができない辛さがあると思いますが、男女間でも産むことができなくて、苦しんでる人がいます。同性間でも異性間でも大した違いは無いように思います。自分の気持ちに正直なだけ。自分を抑えれば精神的苦痛を感じるだろうし、世間体を気にしてカモフラージュ的な結婚をすれば、お相手も気の毒ですし良心の呵責に苛まれるでしょう。偏見・差別なんて、ナンセンスです。
March 2, 2008
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昨日は桜木町へ出かけた。私の好きな町のひとつ。伊勢山皇大宮の鎮座するもみじ坂上から見るランドマークタワーはなかなかの景観だ。坂の下からのぼって行くと真冬でも汗をかく。深夜に放送してる短いテレビ番組のように、走りたくはならない(笑)桜木町でいつも思い出すのが、山崎まさよしさんの曲。“ One more time, One more chance ”いつでも探しているよ どっかに君の姿を明け方の街 桜木町でこんなとこに 来るはずもないのに♪と、口ずさんでしまう。そして、ちょっとセンチメンタルな気分に‥。この歌詞の終盤に命が繰り返すならば 何度も君のもとへ欲しいものなど もう何もない君のほかに 大切なものなど♪というところが、特に好き。山崎まさよしさんが、この曲を歌う時の気持ちの入り方にもジンと熱いものが、込み上げてくる。そして、この曲のように悔いは残したくない。愛する人にも生まれ変わっても何度も私のもとへと思ってもらえるように、そんな絆を深めたいと、思うのです。
March 1, 2008
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今の人は、幸福と快楽の区別を知らない。快楽を得ることを幸福だと思っている。作家の故・武者小路実篤先生は、幸福についてこう仰っていた。読書好きなら一度は武者小路先生の作品を読んだことがあると思う。幸福や人生論に関する作品も多く残している。 この言葉は、かなり昔のものだけど、現代でいう今の人も変わりなく、区別を知らない人が多いし、その当時より増えているのかもしれない。快楽を得ないと、自らを不幸だと決めつけ、不幸な考えに陥り、苦しむ人までいる。幸せの尺度は、みんな違うと思うけど、小さな幸せでもいいから一つ一つあげてみては、いかがかと思うのです。案外、たくさん見つかるかもしれない。そして幸せに感謝できる心が生まれれば真の幸福は、すぐそばにあると思うのです。図書館に出かけて作品にふれてみたら生きるヒントが得られるかもしれないですね。
February 28, 2008
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人間は、自らの将来を自ら築き、自らの性格に自ら押印し 自らの罪悪の報いに自ら苦しみ、自ら救済して行かねばならぬ深いですね。自分のおしりは、自分で拭けってコトね?短いながらも実に深く、実に簡単に、真理が明確な文だ。 すべて、自分次第・・・・・人生、たくましく生き抜かないとね
February 27, 2008
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