2005.01.16
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カテゴリ: 映画
「ニュー・シネマ・イン・パラダイス」でも書いた事があったけど
一方の想いが残っているのに不慮の事故等により別れが生じてしまった場合「嵐が丘」的になってしまうことがある。
原作者の片山氏はおそらくこの標題と近い経験があり、イマジネーションの力を借りて作品を作り上げたという気がする。

全編の核を占める「愛」と言うテーマの中に写真館の山崎努という役者を通じで語らせるシーンが何度かある。
戦争で想いが遂げられなかった人の骨を墓場で拾ってくれと
主役の若い二人に頼み、実際成就してしまう。
この辺のところはまさに「嵐が丘」よく言えばこの作品と重なり、悪く言えばパクッたと言う所か。

昨日の日記のラストに「今結婚している人が必ずしも一番好きだった人とは限らない」と書いた。そりゃ、あったりまえだ。
恋愛というものは早かれ遅かれ、あいのり方式の「傷」を伴う事が
多々あり、結婚はその過程を通して成就される事が多々あるからだ。そういう意味で男と女は本音の「心」と言うものを隠して、隠しとおして生きつづけている不透明な生き物なのかも知れない。
他の動物にはそんな感情ないもんね。

恋愛は人間の生み出す「愛」と言うものの中でもっともドキドキし
重要で、うっとりするものはないという考えは変わらない。
ただ傷つき血を噴出す事があるのも事実。

この映画を見た後思ったのが小説家のスタンダール。彼はとにかく女にもてない男だったらしい。何度アタックしても自分の思う女を成就出来ず、その願望を果たすために彼は小説の中で自分の思う夢を成就しようとした。まあ、そのおかげで「赤と黒」なんて小説ができたんだけどね。

またその逆のカサノバという男はとにかく女にもてた。もててもててやることがなくなってしまった。まあ贅沢な話だね。
そして彼は「回想録」を書いた。

まあどっちが凄い小説家なんて事が言いたいわけではない。
要するに豊富な人生を生きた人の本を読もうが、貧弱な体験から
物凄い感受性とイマジネーションによって人の心を打つ本を書こうがそれを選択するのは生きた人間であり、人生を楽しもうとする
人達にゆだねられるって事だ。

「世界の中心で愛を叫ぶ」このラストシーンでケアーズ・ロック周辺にて灰を蒔くシーンがある。これで想いが浄化されたのかどうか
これも見る側の選択に任されている。

全て想像にまかされており、想像力がノイローゼを生んだり、絶望を生んだり希望を生んだりする。
そしてどうしてこの物語が美しいか。

それは少年期の最も感受性が強くピュアな時期について書かれているからでもある。全てが希望に満ち何者にもなれる時期の頃に起こった悲しい出来事について書かれているからである。

そして「痛み」を伴って見た人もいたはずである。
その痛みは決して悪い種類の物ではなく、「思い出」と言う表現だったり「今も残ってる想い」だったりする。

ただ唯一不満なのがそんな男の美しい「想い」を知ってしまった女はどうすればいいのか・・・
これは結構未来に対しては苦しい作業ではないかと思う。
男の中に最高に愛した壊れない女の面影がいるのだからね・・・

・・まあ、人間はそんな事をヒコズって生きているめんどくさい
生き物であるんで、考えても結論は個々にゆだねられており
答えは個々で勝手に見つけてゆくしかないんだけどね。






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最終更新日  2005.01.16 09:20:54
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