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私の分析。。。無線と私シリーズ



 さて、呼び出し符号をサイトの名前として使うということはかなり勇気のいることで、その関係の書類を見れば一目瞭然、住所から名前まで解き明かされてしまうことになります。私が無線を始めるきっかけを作ってくれたのは、私には双子の兄の存在が大きかったと思います。兄は、高校一年生のときにバイクに乗り始めて、確かバイクに乗って講習会に通うことで、ハムの免許を取得しました。一方私は、高校三年生になったばかりの4月、あれは大阪電気通信大学で行われた、国家試験を受験。。。試験の勉強というほどのことはしませんでした。予想問題というのを高校二年生の三学期から少し始めた程度でした。殆ど丸暗記状態。マークシート式の択一問題だったことは私にはとてもラッキーでした。運良く合格。で、6月には開局の申請届けを出して7月には晴れて開局となりました。資格を取っても、中々CQ(どなたかお喋りしませんか?みたいな意味で)を出す機会もありませんでした。

 生まれて初めて、本当に生まれて初めてCQを出したのは、国家公務員郵政職Aとして最初に京都郵政研修所への入所の日が決まってからでした。淡路島最高峰である諭鶴羽山からの移動運用となりました。間も無く淡路島を出て私には生まれて初めて親元を離れての生活が始まる、その直前でした。1stQSOつまり、初めて交信出来たのが高校では2年後輩の顔見知りの局でした。相手は通学していた高校のアマチュア無線クラブの人でした。その局も、私が全く初めての交信であること。YL(女性)であることをとても喜んでくださって、何が何だか分からないままの交信証の交換を約束して無事に交信を終わりました。

 今となっては、そのときに一体何人の人と交信出来たのか、実ははっきりとは覚えていません。業務日誌といういわば交信記録を残していたのですが、それも今直ぐには探し出せません。頂いた交信証は勿論大切に持っています。さて、これで晴れてハムの仲間入りということになりました。また、面白い偶然があったりしますが、この続きはまた後ほどということで、今日のところはひとまずこの辺にしたいと思います。



   私と無線 その弐

 さて、京都郵政研修所での研修が3月15日から29日までの二週間で終わり、赴任が決まった局へご挨拶に。たまたま無集配特定郵便局としては大きい局で、一緒に研修を受けた人の中に、同じ局への赴任が決まったことで、その人に連れて行って貰う形での巡業みたいなもの。。。局長を含めて9人というのは無集配特定郵便局としては大きい方でした。淡路島の小さな郵便局しか観たことが無かった私には驚きの連続でした。さて、明日から出勤ということで、私は母の妹の家でお世話になることが決まっていて、生まれて初めて乗る南海電車に揺られて、大阪府〇石市へ。

 母が駅で待っているとのことで、それも私には生まれて初めて会う叔母。大阪府下に〇石市があることすらも知らずに辿り着いた駅に、母を見たときは緊張が一度にほぐれてしまった気がしました。生まれて初めて会うということには色々と事情があったのですが、荷物として大したことは無いのに、たった一つ50メガヘルツの無線機をみかん箱の中へ忍ばせていました。この、たった一台の無線機がどれだけ私を慰めてくれたことか。。。まるで西も東もわからない〇石市。。。しかも下宿といっても、叔母の顔さえ見たことが無かったという有様。不安なことこの上無い状態の中、先ず、マイクを持ってみたんですね。そうしたら、やはり淡路島とは比べ物にならない程のハム人口。。。瞬く間にお友達が出来て、随分励まされました。ハムをやっていなかったら恐らく私は西も東もわからない、しかも叔母の顔さえ知らなかった様なところで長くは住んでいられなかったと思います。同世代の男性、女性。。。本当に色んな方と巡り合えたこと。これがハムの楽しさでもありましたね。田舎の郵便局のことしか知らなくて、毎日毎日窓口で扱う現金書留の多いこと。局に近い所に大きな商店街があったことも加わって、それはもう田舎者にはついて行けない慌しさで、窓口のお客さんを捌いて行くのがやっとで、仕事も覚えられない、毎日が不安の連続でした。それを支えてくれたのが、ハム仲間だったというわけです。勿論、今となっては交流も途絶えてしまいましたが、何人かは年賀状のやりとりも続いています。温かい、本当に温かいハムたちに支えられて、私の〇石市での生活がスタートしました。。。ということで、続きはまた後ほど。。。



   無線と私 その参

 兄が無線に興味を持ち始めたきっかけは、さて、インターホンと言ったらおかしいかも知れないけれど、中学生になって、一緒に使っていた部屋を兄が別の部屋へ引越しすることになって、同じ屋敷の門に並んだ牛舎を建て直すことになって、門をはさんで、牛舎とは反対側の二階に兄の部屋を作ることになったことで、その連絡用にとインターホンが設置されました。中学生にもなったら、流石にこういった機器のことにも詳しい人がいて、その人が工事をしてくれたんですねえ。「ご飯食べよう!」とか最初はそんな簡単な連絡用に使っていました。距離はそんなに離れていないのに、冬場、いちいち一旦外へ出ての連絡はちょっときついものがあったので。こんなことが、兄を無線の世界に引き込んで行ったのだと思います。ただ、兄はあまりお喋りではありませんでしたから、一旦開局した無線局は五年で免許が切れてしまって、例えば運転免許の様に、更新手続きをしなければなりません。それをしていなかった為に、兄の無線局は免許の有効期限が切れてしまいました。

 私は、西も東もわからない大阪での生活が始まり、みかん箱へたった一つ忍ばせておいた無線機がとても救いになりましたね。大掛かりなアンテナを建てたりすることは下宿人の身の上でしたから出来なかったけれど、それでも、当時の携帯ラジオよろしく、付属のアンテナを伸ばすだけで、結構沢山の人とお喋りが出来たものでした。何回もお話しているうちに、お住まいが案外近かったりすると、実際にお目にかかるなどの機会が持たれたりしましたね。お家までお邪魔したり、無線の設備を見せて貰ったり。。。私には羨ましい様な設備がズラッと並んでいました。

 結局私は大して大きな設備も持つことが無いまま淡路島へ帰ることになりましたが、常置場所を淡路島の自宅ということにしていましたので、大阪では移動運用ということにしていました。叔母の家を出て、大阪市住吉区にあった女子寮へ移ることになりましたが、相変わらず無線機は手放せませんでしたね。人って、本当に一人きりでなんて生きては行けないものなんですよね。だあれも知っている人が居ない。。。頼り無い話でした。だから、無線の資格を取っておいて本当に良かったと思っています。

 叔母の家に居たときに、実はお世話になっていた化粧品屋さんの奥さんがコーラスをやっていたこと、これが〇石市で私がコーラスをやり始めたきっかけでもありましたが、コーラスに参加し始めて、段々と無線をする時間が少なくなって行ったのも事実ですが、楽しみはそんなに簡単に止められるものではありません。。。この後吹奏楽を始めることになるのですが、吹奏楽を始めたことで、益々無線をする時間は少なくなって行きました。でも、何と、女子寮へ移ったときに凄い偶然に遭遇することに。このことはまた後ほど。。。今日はひとまずこの辺で。



   無線と私 その四

 考えてみるに、高校時代に行った修学旅行の途中で、船に乗る機会があって。あれは鹿児島だったか、大隈半島だったかよく覚えてはいないけれど、兎に角船の中で知らないおばさんと話をする機会があって。それが、凄く話が弾んでしまって。相手は全く知らない人なのに。とても心が温かくなったことを覚えています。ただ、どんなことを話したのかまでは今となっては思い出せませんが、その雰囲気がほのぼのとして、とても印象に残っていました。無線というのは、スケジュールを組んで、例えば相手の人に、この時間にこの周波数で声を(出すのは電波なのですが)出すから。とかいう約束をしてということが無い限り、大袈裟に言えば世界中の人が聞いているわけですから、聞こえていましたらお相手してください。という意味のCQを出すと、何処から返事が来るかわからない。という事情があります。だから話す言葉も内容もそれなりに、恥ずかしくない様にと気をつけなければなりません。

 それと、公共の電波を使うわけですから、いつまでもダラダラと。というわけにも行きません。言葉は誰にでもわかる言葉で、しかも簡潔に!このことが基本とされています。誰と話をするか全くわからない。相手の顔が見えるわけでもなく、ただ、便りになるのは、声だけ。(電信の場合は信号になりますが)でも、どこか基本が修学旅行で初めてお逢いしたのに、話が弾んだ。。。そんな雰囲気とどこか似ている様な気がしてならないのです。

 カラオケでマイクを持ったら離さないと嫌われ者になる人が居ますが、無線でも一度に喋れる時間というのは決まっている。と言っても過言ではありません。それと、話す速度。ついつい速く喋らないと相手が聞き取れなくなる。。。などと早口になってしまいがちですが、本当はゆっくりが一番聞き取り易いのですよね。ということで、経歴とはちょっとかけ離れた話になってしまいましたが、喋るということで思い出したことを綴ってみました。無線とは決して無縁ではありませんので。それでは、続きは後ほどということで。。。



   無線と私 その五

 さて、みかん箱へ忍ばせていた無線機。ハンディー機と呼ばれている、いわば携帯用の無線機。といってもその昔、お父さんのお弁当箱に使っていた様な大きさで、厚みはもう少しあるのかな?画像を入れられなくて申し訳ありませんが、TRIO(現ケンウッド)社製の TR-1100 というものでした。周波数で言うと、50Mhz専用機でした。当時は結構もてはやされた機種だったのですよ。〇石市で初めて繋がったと思われるのは、JH3K〇Fさん親子。。。この親子にはとてもお世話になりまして、今でもお父様とは年賀状のやり取りをしています。みかん箱に忍ばせた、その TR-1100 でしたが、周波数を安定させる為にキャリブレートを取ったりするのが面倒だったりして、親しくお付き合いを始めたその親子に紹介して頂いて、松下電器産業社製の RJX601 を購入しました。その後、また、新たに知り合った局が、3エレメント八木型のアンテナを設置してくださり、これで少しはパワーアップした運用が出来る様になりました。無線機のこと、詳しくお知りになりたい方は、どうぞネットで検索してみてくださいね。ここでは詳しくは述べませんので。。。

 結局大阪に居た間は、50Mhzの運用が精一杯でした。下宿ということもあって、大掛かりな設備を持つことは許されていませんので。それでも、それなりに私には充分に楽しめました。勤め始めた翌年2月には何と!再び京都郵政研修所での研修があったのですが、知り合った大阪の人のお友達が京都市にお住まいということで、紹介して貰うことになって。その人から、無線機を借りたりして(本当は、こういうことは絶対にいけません!)楽しい研修所生活を送ることが出来ました。実際に研修所で一緒に卓球をしたお友達も何人かいらっしゃいます。また、当時大阪市天王寺区にあった、とある専門学校に通学中ということで、丁度学校の近くにあった郵便局に、何と!私と同級生の女性が居て、男性たちの間では彼女の話で持ちきりだと聞いて本当に驚いてしまいました。。。話はどんどん膨らんで行くのですが、今日のところはこの辺で。。。



   私と無線 その六

 さて、〇石市で過ごした間、色々と事情があって、駅前でうどん屋さんをしていた娘さん親子が叔母の家で住むことになり、私は〇吉区にあった女子寮へと移り住むことになるのですが、このときもまるで西も東もわからない環境。。。利用していた電車も南海本線から、南海高野線となりました。。。で、ある日思い切って無線機の電源を入れたら、やはり聞こえて来ましたよ。ハムたちのお喋りが。。。たまらなく嬉しくなって、何日か聞いた後、恐る恐る「ブレイク」を入れてみたんです。そしたらちゃんと答えてくださって。それから交流が始まりました。皆さん、〇吉区にお住まいの方たちばかりでしたので、無線機についているホイップアンテナだけでも充分にお喋りを楽しむことが出来ました。

 ある日、気が付いたんです。その中に、私が〇石市に居たときに繋がって、交信証まで頂いた人が居たこと!本当に驚きました。何たる偶然。。。飛び上がって喜びたくなりました。勿論お逢いする機会もありましたし、皆さんで、ローラースケートに行ったり、お好み焼き屋さんを巡ったりしましたよ。それが、一人の人がエレクトーンを習っていらっしゃって、同じ教室の人がたまたま私が入っていたコーラスにも参加しておられることがわかって、これも驚きました。。。ここでの仲間は、どういうわけか、皆さん高校の先輩後輩だったみたいで、本当に仲の良いお友達といった人たちでした。有る人は当時の電報電話局、ある人は松下電器産業、また大阪市営地下鉄の職員だったりで、それぞれに素晴らしい技術を持った人たちでした。今でも年賀状のやり取りをしていたりします。勿論皆さん、それぞれに結婚なさって素晴らしいご家庭を築いていらっしゃると思うのですが。。。

 さて、話は遡る形になるかも知れませんが、無線の楽しみ方、色々、それはそれは人様々なんですよね。兎に角近くの人とお喋りが楽しめれば良いという人。折角なら海外の人ともお喋りしたいという人。。。私の場合は、下宿だったり、女子寮だったりしたもので、大々的にアンテナの設備をして。ということは出来ませんでした。それでも、たった一台の無線機からこうして交流が持てたことをとても嬉しく思っています。上手くお互いに聞いている周波数がピッタリと合って交信したときに、希望があれば記念にお互いの交信証を交換するということになります。呼び出し符号というのは、頭のアルファベットで、住んでいる国の名前を表していますが、3つ目に入る数字が日本では住んでいる地域を表すしくみになっています。淡路島は兵庫県ですから、数字の3になります。数字の次に来る3つのアルファベットの組み合わせで、その人の呼び出し符号が決まりますが、私の場合はJR3QNHとなります。だから、数字の違う同じアルファベットの組み合わせの人は全国を探せば何人かいらっしゃるわけですね。私はまだお逢いしたことがありませんが。感動ものだと思いますよ。私の呼び出し符号の最後のH。テールレターともいいますが、交換した交信証から、ある言葉の組み合わせになったりしたときに貰える、アワードなどもありました。このアワードも色んな種類があります。全国の違った市の名前、郡の名前を100毎に集めて貰えたり。。。だから、ハムが少ない地区の局が聞こえたりしたらそれはそれは大変です。ここ淡路島も、平成17年には町村合併で郡が消えてしまって、市になったところが。だから、そんなことを狙って交信証を集めるのに必死になっていらっしゃる人もいると思います。。。

 高校の無線クラブに所属していなかった私は、コンテストなどの経験も殆どありませんが、数を競う物や、色んなコンテストがあったりします。無線の楽しみ方、本当に色々なんですね。ただ単に話をするも良し、山へ登って珍しい地区のハムを相手にカードを交換するのも良し。。。100人のハムが居れば100通りの楽しみ方があるかも知れません。ただ、私はハム本来の楽しみ方を未だに実践出来ていない。。。そんな情け無いハムの一人でもありますが。。。と、ちょっと(かなりかな?)話が支離滅裂になって来ましたので、続きは後ほどということにします。。。



   私と無線 その七

 今日は、私が無線を始めるに当って、きっかけとなったと思われることを少し。。。高校時代のこんな体験のことについてお話してみましょう。私は高校時代、音楽部という名のコーラス部に所属していました。で、一つ上の学年の人で、中学時代からずうっとアマチュア無線をしている人がいました。中学時代からやっていたのですから、たまたま私と同じクラスだった人とも親しくしておられて、実は彼女の家で泊まったときに、これは絶対にいけないことなのですが、少しのつもりが、その私とは同じクラスだった人と随分長々と無線でお喋りしてしまったことがありました。教室では喋ったことも無いのにです。どうして言葉が次から次へと出て来たのか。自分でも不思議でした。。。高校何年のときだったか、図書委員になったことがありましたが、そのときに図書館司書という仕事のことに少し興味を持ち始めたことがありましたと同時に、窓口の面白さみたいなことにも興味を持ちました。それが、直接郵便局の仕事とどう関わっているのか。。。今思うと、こうした窓口業務も、考えてみればどんなお客様がいらっしゃるかわからない。それを捌いて行かなければならないのだから、無線でCQを出して、沢山の人から呼ばれて一人一人との交信を捌いて行く。。。このことにも通じている気がします。余りにも無理矢理なこじつけみたいですが。。。

 マイクを持ったら、言葉が次々と出て来る。。。ペンを持ったらペンが勝手に文字を綴っている。。。これはもしかしたら、お喋りが苦手な人から言わせると特技とも言えるのかも知れません。会話が弾む、しぼむ。。。これも聞き方次第なんですよね。楽しい会話が次々と拡がって行く。。。これはもしかしたら、私の二つ目の掲示板と共通しているのではないでしょうか?

 さて、結局私は高校三年生になった4月に国家試験を受けたわけですが、高校のアマチュア無線クラブ=物理部CQ班には所属していませんでした。一つ上の学年には女子の部員も何人かいたのに、私の学年で無線をやっているなどと言うのは恐らく女子では私だけだったと思います。特殊と言えば特殊な立場だったかも知れません。国家試験を受けたのが高校三年生になってからでしたから、一緒にコーラスをしていた、一つ上の学年の友達は既に卒業していて、ひたすら文通を通して交流を図る程度になっていました。

 7月にやっと電波が出せる様になって、翌年の3月にはもう淡路を出ていたわけですから、限られた無線機で運用出来る範囲は極限られたものになってしまい、淡路島に住んでいる人さえもなかなか知り合えるきっかけはありませんでした。それなのに、よくぞたった一つのみかん箱の中へ無線機を忍ばせておいたものだと今にして思えば我ながら感心しているところです。

 人は皆一人では生きて行けないものだから。。。私は中村雅俊さんが歌った、『ふれあい』の中のこのフレーズが大好きです。誰かと喋ること。。。このことがどんなに人生を楽しく豊かにしてくれたことか。。。前回にも述べましたが、本当に情け無い程度の設備しか持てなかった私ですから、海外の人となんて交信出来る筈がありません。それでも私なりに随分楽しめました。今の私が在るのも、無線のお陰だと言っても決して過言では無いと思っています。。。さて、話は行きつ戻りつですが、夫と知り合えたきっかけも無線を置いて他にはありません。次回はこの辺のことを。。。(人のことなどどうでもいいや!)などと仰らないでください。。。



   私と無線 その八

 バレンタインの翌日ということになりましたが、夫との出会いは実に不思議なものでした。(実はGaiaxに載せていたのをそのままなもので)私がお付き合いのあったハム。夫も何かと顔見知りのハムがたまたまいらっしゃいまして、その人の紹介になります。学年が一年上の夫、高校も違うし、住んでいる場所も違うし、私が高校を卒業してから大阪に住んでいたことも、淡路島の人とは知り合うきっかけが無いことに。。。

 無線というのは、丁度、聴きたい番組を聴くときにラジオの周波数を合わせるみたいな感じで周波数を合わさないと相手の声を聞くことは出来ません。アマチュア無線で許されている使用周波数帯というのがいくつかあって、同じハム同士でも全く知らない。ということもあります。親しく何回もお話し出来るハムも居ます。さて、夫と初めて会ったのは、五月のある日。まだ長袖のポロシャツが必要な程度の気温だったと思いますが、紹介者とまた別に私には顔馴染みのハムがくっついていましたが、私がショッピングセンターの中へアイスクリームを買いに入って、一緒に食べることから始まりました。

 私は、結局前にも述べましたが、本格的な無線設備を持って運用したことが一度もありません。結婚して、思う存分ハムライフが楽しめるのなら。ただ、それだけで決めてしまったと言っては夫に失礼かも知れませんが、ハムでなかったらこの縁は無かったのですから、良かったと思っています。優しい、優しい夫は、食べる物の文句を言ったことがありません。これは働く主婦にとっては本当に有り難いことですね。結婚当初は実家には程近い印刷屋さんへ勤めていましたので、帰る時間がまちまちだったりしたこともありましたが、冬などは特に年賀状の受付で忙しくしていて、鍋の日が続いても文句を言いませんでしたよ。本当に有り難かったですね。

 肉じゃがが、シチュー、カレーと変身して行っても文句を言われませんでしたね。夫は私の命の恩人でもあります。月末の月曜日だというのに、当時NHKの大河ドラマで赤穂浪士のことを扱っていたことがあって、地方紙が企画したバスツアーで、赤穂へ行くというのに参加したその夜、私はひどい腹痛に襲われたんですね。夜の夜中にも関わらず、夫は先ず救急の方へ連絡してくれて、病院を紹介して貰ってその病院へ行ったのに、お腹の中のことだから、レントゲンを撮る必要が。ということで、それから洲本市にある病院へ紹介状を書いて貰って。。。夫にしたら、お昼に出た貝にあたったのだろうと心配したらしいのですが、実は私は貝が苦手で、箸を付けられなかったんですね。腹痛の原因は、左の卵巣がはじけてしまって、お腹中が膿だらけ。もう一歩遅かったら腹膜を起こすところだったみたいで、私にしたら、腹痛さえ治まったら出勤しなければ。なんて思っていたのに、緊急手術。こうなったら、どうしようもありません。まな板の上の鯉状態。。。

 夜中の3時に家を出て、手術が始まったのは10時を過ぎていたと思うのですが、当初、検査入院ということだったのに、私の痛がり様が余りにもひどいということで開腹してみないとわからない。なんてことになって、夫は一旦帰って仕事に行く用意を。で、夫から連絡を受けた両親が慌てて病院へ駆けつけてくれたときにはもう、手術が決まって、承諾書は両親が書いたのかな?夫は医師から散々攻め立てられたらしい。「どうしてこんなになるまで放っておいたのですか?」良くあるパターンですよね。一歩遅れていたら腹膜炎で落命の危険性があったのだから。。。確かに、そんなお腹を抱えて何も知らずに赤穂市までバスで行ったのですから、後で考えてみたら怖いことですよね。お腹の痛みは全く無かったわけでは無いけれど。しかも、バスが停まる度にお手洗いを探しましたね、これが私にとっては異常の始まりでした。膀胱が圧迫されているわけですからねえ。でも、知らなかったとは言えそんな身体でバスツアーに参加したものだと自分でもあきれてしまいました。。。妊娠、出産を経験していない私にとって、初めての病院で、初診でいきなりの手術。。。婦人科の診察だけでも戸惑うのに、といってもそんなことも言っていられません。

 後で分かったことなんですが、取った物の検査結果が悪かったら抗癌剤の投与を。なんて、このときに夫は脅かされていたみたいですね。幸い、良性だったから、抗癌剤とは縁も無く退院することが出来ましたが。。。 と、無線とは縁が無い話になってしまいました。。。結局私たち夫婦には子供が生まれないまま、3年後に今度は子宮全摘術を受けることに。。。その前年には跡目ということでは無いけれど、姪夫妻と娘の3人家族が住めるだけの家を建てることになって、私たちが使っていた部屋、無線室などを取り壊すことになって、結局は無線機も箱の中。今の所は、唯一私の車に載せた無線機のみの運用に。144MHzと430MHzのデュアルバンドですが、殆ど430MHzでローカル局とラグっている程度ですが、皆さんとても素晴らしい方ばかりで、仕事の疲れも吹っ飛びそうです。。。

 一旦は山での移動運用にと日産製の4WD車を購入したのに、結局はそれがホンダのステップワゴンに変わってしまって、結局山移動は一度も行かずじまいに。。。インターネット全盛期ですが、やはり言葉を交わせるこうした無線も私には捨てがたいものがあります。ずうっと免許の更新だけは忘れないで続けて行きたいと思っています。。。

 (無線と私シリーズはeclatにあったものをそのままコピペしていますので、日付とかに若干ずれを生じてしまいました。実際今日は1月27日の作業となっています。)管理人の趣味の一つである無線との関わりを明らかにすることで、管理人の一端をご理解して頂ければと思ってページを作ってみました。これで私と無線シリーズはひとまず終えまして、第二弾というのは大袈裟ですが、初めての手術ということで綴って行きたいと思います。腹痛というのは、指の先を包丁で切ってしまったとかいうのとは違い、どんな原因で痛むのかを先ず明らかにしないと、治療方法がわかりません。いつもと違う痛みを感じたときには、放ってはおかないで、直ぐに病院での診察を受けられることをお勧めしたいという思いで綴っています。お役に立てるかどうか分かりませんが。。。

尚、このページに出て来ましたリグ(無線機)の紹介などについては、アマチュア無線局JJ1WGGさんのサイトの『Good Old Times』のページからリンクさせて頂きました。本当に有り難うございました。


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