1

ジャパンラインが児玉へ支払われなかったツケは これだけで終わらなかった 児玉は昭和石油と子会社の日本精鑞をめぐる紛争の調停で ジャパンラインを利用するこの時 児玉は73年11月16日に 謝礼として矢飼督之日本精鑞社長から得た2千万円も脱税に問われている冒頭陳述によると 昭和石油の永山時雄社長と昭和石油の専務だった矢飼日本精鑞社長が対立 矢飼は昭和石油が持っていた日本精鑞株を他社へ売却させ 昭和石油の支配から脱却することを計画した矢飼は平和生命の武元忠義社長を介して 児玉に永山との交渉を依頼した児玉はこれを引き受け 太刀川(児玉の秘書)が交渉に当たった 74年8月 太刀川が昭和石油の日本精鑞株を買い取らさせた相手がジャパンラインであった児玉誉士夫のダイヤモンド 立石勝規永山のけつもちはジローさんでしたが ジローさんが 女ネタで 総会屋筋から脅されたのも この時期なんでしょうか女ネタはともかく そのお手当はどこからとくれば ジローさんの場合は うしろめたいことやまほどですから三浦義一先生が死ぬと 影響力の低下もあったのでしょうか日本精鑞というのは 元は満州鉄道の関連会社だったようですが 一時期 昭和石油の関連会社だった時期もあります この仲裁人の武元と言う方は 大蔵省の財務局にいた方で その間に裏事情はあったんだろうとおもうのですがちなみに この児玉の秘書の太刀川は大勲位のところにいたこともあり ジローさんの遺言を 大勲位が異様に気にしたのも いろいろあるとはおもうんですが このさいのことかもしれません
2009年02月11日
閲覧総数 837
2

http://hatajin.blog.so-net.ne.jp/2007-08-16不安の周辺辻井喬新潮社1985-01-20(初版)ISBN? 4-10-340703-4 山上由雄は、広告会社須山洋平社長の誘いで、副社長として入社。須山は宗教に打ち込むようになり、自分が会社を建て直すために社長となる。恐喝されていたN社の宣伝部長中村淳の依頼で、「報道正義新聞」芝木達之進・桜井隆彦と会い、芝木と交友を深めて行く。その後も、芝木らが問題となった時に各社の依頼で仲介して結果的に恩を売って業績を伸ばす形となった。そのような営業に内部告発(いろいろあるが、平山秋子らと肉体関係を持ち社内情報を集めていたことも)もあり、中村の告訴があって「報道正義新聞」事件に係わる。さらに、事件は九州に住む右翼の大物岸田善と関わりがあるのかと疑われる。 本書は三部からなる。第一部が山上由雄、第二部は事件を担当する検事、大沼正一。第三部は山上の妻有紀子の兄、沢の視点からの小説となる。編注 未読ですが 西武の跡目相続をモチーフにしたようにおもえるんですが 実際はとある広告代理店の内幕を描いたようでhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E8%8C%82_(%E4%B8%89%E8%B6%8A)岡田 茂(おかだ しげる、1914年8月3日 - 1995年7月20日)は、日本の経営者で、元三越社長。京都府出身、慶應義塾大学文学部卒業。1938年、大学卒業と同時に三越に入社。宣伝部長を経て銀座店長を歴任。銀座店長時代にはヤングファッションを売りとする営業政策で同店の成績を上げ、松田伊三男社長に評価されるが、その頃から公私混同が社内でも問題になっていた。1972年に松田の後任の社長に就任。「これからは物だけ並べて売る時代じゃなくなるから、旅行、趣味、教育、医療にも目を向けろ。いずれ来る高齢化社会に備えて百貨店が他と差別化して何ができるか考えろ」と語るなど百貨店経営においてユニークな発想を持っていた。社長としては決断力が高く指示が非常に早かったが、社内では「岡田天皇」と呼ばれるほどのワンマン体制を築き、意に沿わぬ人物を次々と粛清する。岡田のライバルとされていた坂倉芳明を常務の座から追い、坂倉は堤清二の招きで西武百貨店副社長となった後、社長となる(後に復帰して三越社長)。強引な経営手法は1982年6月には優越的地位の濫用で公正取引委員会から審決を受ける。そして同年8月の「古代ペルシャ秘宝展」で偽物騒ぎが発生、さらに「三越の女帝」と呼ばれた愛人の竹久みちへの不当な利益供与も明るみに出た。こうした中、水面下では三井銀行の小山五郎相談役などの三井グループの幹部や三越の反岡田派を中心とした「岡田おろし」の準備が進められていた。同年9月22日には取締役会が行われたが、その途中で岡田は腹心の杉田忠義専務に議長を交代した。そこで杉田は秘密裏に計画していた岡田解任決議案を発議、16対0で可決成立し、その場で岡田は非常勤取締役に降格となった。このとき岡田が発したとされる言葉「なぜだ!」はこの年の流行語となる(三越事件)。10月に竹久が特別背任で逮捕、10月29日に岡田自身も逮捕される。逮捕の際に取締役を辞任、これ以後三越とは株主の一人としてのつながりしかなかった。1987年に東京地裁で懲役3年6ヶ月の実刑判決、控訴審の東京高裁で1993年に懲役3年の実刑判決が出され、上告するが係争中の1995年7月20日、腎不全のため死去。享年80。また竹久も懲役2年6月、罰金6000万円の実刑判決が確定し、岡田の死から14年後の2009年7月24日に死去した。[編集] 縁戚娘の幾美子は旧皇族竹田恒徳の二男恒治に嫁いだ。[編集] 小説高杉良の「王国の崩壊」(新潮文庫)は岡田を、大下英治の「小説三越・十三人のユダ」は岡田の解任劇までをモデルにした経済小説である。[編集] その他警視庁刑事の萩生田勝の「警視庁捜査二課」で岡田を取り調べたエピソード、見沢知廉の「囚人狂時代」には拘置所時代の岡田の姿が描かれている。[編集] 関連項目三越事件TSK・CCCターミナルビル日本マクドナルド - 岡田は1971年の1号店開業時の銀座三越店長編注 岡田の社長以前の経歴に注目http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/077/1700/07707211700016c.html矢田部理君 いま申し上げた東亜相互企業に関しては、別にある有名なデパートの系列不動産会社との間に白河の広大な土地の売買がなされているようでありますけれども、この件について捜査当局は関心を持っているでしょうか。説明員(安原美穂君) いままで承知いたしておりますところでは、福島県警においてこの点についての捜査が進められておるというふうに聞いております。矢田部理君 私どもの調査によりますと、四十九年十二月に、デパートの三越系列の不動産業者である三越不動産というのがありますが、この三越不動産は白河の西郷村の土地一万三千坪を四億八千万で東亜相互企業から買っています。坪単価が三万五千円以上になり、この取引によって東亜相互企業は莫大な利益を得たといわれておりますが、問題はこの土地のうち一万坪が、一万三千坪のうち一万坪が農地であって転用ができない。その意味で非常に高い土地だと地元では言われておるわけでありますが、この取引には、三越の社長の私行、個人的な行為や社内の内紛をあげつらう怪文書がかなり出されました。その怪文書事件と軌を一にして取引がなされている。つまり、東亜相互企業から三越不動産に、地元の相場から言えばかなり高い価格で土地が移っている。その結果東亜相互企業は莫大な利益を得たと言われておりますが、このようなケースについて捜査機関は関知しているかどうか。説明員(安原美穂君) 少なくとも本省といたしましてはさような報告は受けておりません。矢田部理君 これは警視庁筋が相当知っていると思われる節があるわけでありますが、なぜか捜査が進まない。手をつけない。この裏方には児玉系の動きがあったとされていることは、たとえばこれとほぼ同じ時期に、三越の広告は年間百億ぐらい投入していると言われておりますが、これまでは電通がすべてこの引き受け代理店になっておった、広告代理店になっておった。ところが、これらの事件と軌を一にして、一部が博報堂、児玉氏とも関係があると言われておる博報堂に切りかえられているというような事実関係もあるわけでありまして、いわば児玉がらみのケースとしてかなり重視をしなきゃならぬ事件だというふうに私は疑惑を持っているわけでありますが、恐らく警視庁も知らないはずはないわけであります。なぜかこれに手がつかない。警察庁、この点についてどのように受けとめていますか。説明員(土金賢三君) お答え申し上げます。 現在、福島県警におきまして東亜相互企業の福島県の県の幹部に対する贈収賄事件について捜査中でございますが、これを機会に、さらにその余罪等についても徹底的に追及すべく現在鋭意捜査中でございます。矢田部理君 三越がらみの事件についても捜査中だということでしょうか。説明員(土金賢三君) 現在、捜査の見通し等について内容を申し上げるわけにはいきませんが、鋭意現在捜査中でございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/077/1140/07707061140001c.htm説明員(後藤達太君) 私ども全然承知いたしておりません。近藤忠孝君 じゃ、こちらから指摘いたします。博報堂の子会社に博報堂コンサルタンツ、それから同じく子会社にインター・リパブリック・博報堂というのがあって、前の商号はマッキャン・エリクソン・博報堂というわけですが、これはちゃんと登記簿謄本取って調べてまいりましたけれども、この近藤道生氏がインター・リパブリック・博報堂の取締役に就任する少し前、児玉の筆頭秘書で、最近また逮捕されました大刀川恒夫が博報堂コンサルタンツの取締役に就任しておるんです。編注 太刀川恒夫 現東京スポーツ会長http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E9%81%93%E7%94%9F近藤 道生(こんどう みちたか、1920年2月2日 - 2010年6月30日)は、日本の海軍軍人・大蔵官僚、後に博報堂代表取締役。趣味、特技は茶の湯、読書、ゴルフ。号は平心庵宗道。目次1 来歴・人物2 映画作品3 受賞歴4 脚註[編集] 来歴・人物神奈川県小田原市出身。旧制小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、旧制武蔵高校を経て、1942年7月に高等文官試験行政科に合格、同年9月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業(茶道史専攻[要出典])。同年同月、大蔵省に入省して理財局に配置されたが、同年同月、海軍経理学校補修学生、海軍主計見習尉官に。いわゆる短期現役組(短現組)9期。1943年1月に海軍主計中尉、1944年5月に同大尉に。戦後の1947年3月、大蔵省に復帰し、のち大阪国税局局長、大蔵省大臣官房長、大蔵省銀行局長を歴任し、1972年に国税庁長官に就任。銀行局長在任時代の1971年、戦後初の大型銀行合併である、第一銀行・日本勧業銀行の合併(第一勧業銀行、現・みずほ銀行)に関与した。1975年7月より博報堂代表取締役社長の福井純一が自ら副社長に降格して、近藤を社長に迎えた。その後、瀬木博政前会長の告訴を受けた東京地検特捜部により福井が特別背任で逮捕されたが、近藤は社長になってから売上高を前年比173億円に押し上げた。1983年、博報堂代表取締役会長。1994年2月1日より博報堂代表取締役。編注 第一勧業銀行誕生時の銀行局局長であったことに注目
2011年03月05日
閲覧総数 1188
3

最初に乗った車は 白いスカイラインGTの中古だった 初めて車で京都に一人旅したときもこの車だったが このときは出雲を経由して 広島まで足を延ばした 広島には祖父母や父と親交が深い人がいた林房雄の 武器なき海賊のモデルにもなった岩田幸雄さんだ 彼も若者の無謀な遠出を心配し インターチェンジまで出迎えてくれて 帰りも同じように送ってくださった白洲家の流儀 白洲信哉 小学館新書http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2006/00005/contents/0112.htm宮島競艇施行組合含・大栄産業株式会社宮島競艇場の沿革(施行者・施設会社)http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2006/00005/contents/0113.htm32年9月 宮島競艇株式会社を大栄産業株式会社に社名変更した。33年4月 管理者中丸市兵衛、宮島町長を退任する。6月 宮島町長永井太郎となり管理者に就任する。34年5月 大栄産業株式会社梅林社長ら主要役員退陣し、山村辰雄社長となる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%94%BF%E4%BC%9A文太兄貴が 山守さん まだタマは はいっているじゃけんのーと言わせた方のモデルが この山村辰雄だったりします
2010年09月05日
閲覧総数 839
4

樺山丑二は 米国プリンストン大学を卒業し 英国オックスフォード大学 ニューヨーク社債学大学院を経て 新聞聯合 日本電気国際外債シンジケート 文化教育映画部長 宝来石油の取締役を歴任して 昭和十七年ごろは 国際文化振興会 同盟通信社参事 外務省情報部属託を勤めた華族総覧 千田稔 講談社現代新書情報通信 石油 金融と わりとジローさんと重なる部門での役職を勤めているのに 注目
2011年02月02日
閲覧総数 1269
5

意外に伝説の形成は新しく 職能神として徐福が崇拝対象とされ、それが現実の歴史上に投影され、期せずして、神武天皇=徐福 の虚像を生み出す効果が出たものを、編集側がそれとは知らずに現実視して編集した。この集団は現在の風水のように方角にうるさく地名にこだわり、夕月が嶽だとか、その他多くの地名を出発地と思われる筑後の地名に変えたり、命名したりしたのだろう。徐福は日本列島のどこにも来てません。後世「史記」の記述に注目してあちこちに 上陸伝説が出来ますた。「楊貴妃渡来伝説」「義経蝦夷上陸伝説」。皆、誰も顔を 知らねえ。身元の知れない美人漂着、曰くありそうな気品のある若武者を泊めたり してこう言う伝説が生まれたのです。http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1059892097より
2004年11月13日
閲覧総数 26
6

http://www.a-human.net/career/dfierf0000001sjr.htmlキャリアインタビュー:原田雅弘氏2007年2008年2009年2007年1月11日キャリアインタビュー:原田雅弘氏(1)まず、原田社長のこれまでのキャリアについてお聞かせください。私は、1970年に同志社大学法学部を卒業、大沢商会(主に海外ブランド品を取り扱う商社)に入社しました。大沢商会では、ゴルフやテニスなどのスポーツ用品の営業やマーケティングを担当。同社には10年ほどお世話になりましたが、縁あって英国商社、ジャーディンマセソンに移りました。 ジャーディンマセソンでは、当初はスポーツ用品、次いでクリスチャンディオール、ダンヒルの化粧品事業を担当しました。同社を退社した87年以降は、アディダス、エスティローダー、フェラガモジャポンの日本法人の運営に参画しました。 そして、98年には、コサリーベルマン(オランダに本社のある商社)の社長に就任。さらに、当時コサリーベルマンの主力取扱ブランドだった「PUMA」の日本法人の設立を主導し、2003年の設立以来、プーマジャパン株式会社の代表取締役社長を務めています。プーマジャパンの設立にはいろいろとご苦労があったのでしょうか?日本におけるPUMAブランドの事業展開や、コサリーベルマンの経営状況を考慮し、PUMAの日本法人設立を同社役員会で提案したのは2001年末のことでした。 私のこの提案は承認され、早速実行に移したのですが、PUMAとコサリーベルマンとの販売代理店契約が、2003年で切れるという時間的制約がありましたし、また、外部にこの動きが漏れてしまうと、PUMAの国内販売にネガティブな影響を与えてしまうリスクがありましたから、迅速、かつ隠密裏に進める必要がありました。 実際、限られた時間の中で、多数の取引先との交渉や、PUMA本社とのすり合わせなどで世界を飛び回りました。例えば、あるアメリカの大手時計ブランドのCEOとのミーティングは、先方が多忙なためなかなか調整がつかず、私がスイスまで出向いてようやく会うことができたほどです。 おかげさまで、奇跡的に02年末にはすべて決着がつきました。PUMAの販売代理店契約の解消直前でした。もし交渉がうまくいかなかった場合、PUMAも、コサリーベルマンも深刻な収益減に見舞われていたかもしれませんし、またPUMA事業に関わっていた従業員が路頭に迷う可能性もありました。 しかし、私の当初の思惑通り、PUMA、コサリーベルマン、そして従業員の3者すべてにとってハッピーな形となりました。「Win-Win」ならぬ、「Win-Win-Win」の展開になったのです。ですから、大変な仕事ではありましたが、つらさを感じることはなかったですね。今、「奇跡的に・・・」とおっしゃいましたが、単に運が良かっただけではなく、原田社長のご尽力によるものだと思います。ところで、原田社長の最初のキャリアの転機は、大沢商会を退職し、ジャーディンマセソンに入社された32歳の頃ですね。当時はどんな状況だったのでしょうか。 転職は、ヘッドハンターからの誘いがあったというのが第一の理由です。 大沢商会ではすばらしい人たちに恵まれましたし、スポーツ用品の営業・マーケティングをずっと担当できたので、とてもいい経験をさせてもらったと思っています。 ただ30歳になった頃から会社の経営状態がおかしくなりつつありました。前向きな仕事よりも、数字のつじつまを合わせるような後ろ向きの仕事に汲々とする日々が続くようになりました。当時すでに中間管理職でしたが、このまま現在の仕事を続けて、キャリア的に意味があるのかと疑問を持ち始めていたのは確かです。なるほど。当時の会社の状況が、ご自身のキャリアを見直す機会となっていた。そこにタイミングよく声がかかったのですね。原田社長にとっては初めての転職だったわけですが、不安は感じませんでしたか?まったく不安はありませんでした。むしろ、新たな職場で新たなチャレンジができるという期待が大きかったです。それに、若いうちなら、まだいくらでもやり直しがきくと考えていましたしね。 余談になりますが、ジャーディンマセソンに入社したのは80年1月だったのですが、直前の12月は、大沢商会が年末の最も忙しい時期でまったく引継ぎをする時間がありませんでした。そこで、ジャーディンに入社後に時間をもらい、大沢商会での引き継ぎをやらせてもらいました。(笑)補足ジローさんが大沢商会の会長に就任したのも 前回のエントリーの件にも関係した大沢にとっての外貨獲得の関係と もうひとつブランドメーカとのジローさんの個人的なつながりが望まれたという仮説をかんがえたのですが それらしき証言を発見しましたこれも掘り下げていけば 面白いテーマになるとおもうのですが>30歳になった頃から会社の経営状態がおかしくなりつつありました。前向きな仕事よりも、数字のつじつまを合わせるような後ろ向きの仕事に汲々とする日々が続くようになりました。このような面が出てくると どうしても白洲次郎伝説が崩れるから 一次資料がないとか どうでもいいエピソードだけになるんでしょうか銀座の勘定 廻されて 迷惑顔の大沢の経理 晩年はこんなのなら 風の男も寂しいものです
2009年08月23日
閲覧総数 977
7

丁寧に、ネットを見回れば 石油の自主開発が現在どんな状況であるか 一目瞭然であり はっきりいって失敗もいいところであります。先にあげた国会の議事録を見ていただければ石油の自主開発路線を始めた段階で問題があったわけですからこのへん 清玄の自伝だけ読んで 感動している馬鹿がこのネット時代にいるというのが私には信じられません。役人の事なかれ主義という面もありますが私には どうも石油の自主開発といえば 聞こえはいいんですがプラント建設のための場所つくりそれを全部 税金でおこなったという印象を受けます。エネルギーはでなくても プラントが建設できればいいのでしょうか?清玄(だけではありませんが)が 飛躍のきっかけになったのが 電力の再編成ですが 電力といえば 土建屋さんたちまた土建屋は政治家と密接な関係があります。このへん 彼が 実際は何をしていたか私などが 知るよしもありませんがこのへんの取りまとめをしていたのでしょうか?
2007年01月02日
閲覧総数 179
8

僕は随分遅れて ある新聞社の 産経新聞社ですが 秘密の議事録を見せられたことがあるのです おそらく1980年代だったと思うそれは1958年から60年にかけての話で 財界の大立て者たち 桜田武 水野成夫 永野重雄 小林中といった財界四天王と言われていた人たちが 産経新聞に陣取って 60年に共産主義革命が起こる恐れがあるということで頻繁に会っているのですその議事録の中で 僕の覚えている限りでは 田中清玄さんの名前が 二回か三回 出てきました 百万円ぐらいだったと思いますが百万円渡しておいたという記述が議事録にありました 百万円といえば いまの価値で一千万くらいでしょうか それは全学連対策です 僕が田中清玄さんと会ったのは 随分後の事です 当時は会っていなかったし 知りませんでした 全学連に金が少々ながれたということも知りませんでした 全学連であの時 金を扱っていたのは あとあと僕の親友の一人になる 早稲田二文の東原吉伸でした日米安保50年 西部邁 宮崎正弘 海竜社より編注 西部には言い訳もいろいろあるみたいですが 清玄が 財界のダミー役をやっていた点に注目
2011年02月10日
閲覧総数 101
9

Yeah, one tsu! Check check check it outPesh, pesh!俺は福島生まれ朝鮮半島育ち仲間は 全国 世界中背中に紋紋しょった奴は大体友達そんな奴らはえらそな奴と大体同じ裏の道歩き見てきたこの街 大陸で三河島 浅草 満州 上海 巣鴨 そう思春期も早々に これにぞっこんに学校いかず親もいず故郷から出て 仲間たちと共に死線をくぐり臭いメシも喰いだが時は経ち今じゃ民族愛国運動のトップそこらじゅうで幅をきかすDON DADA自由党つくってマジでNo.1日本代表トップランカーだそうこの地この国に生を授かり巣鴨出てから無敵の力預かり陛下 先輩たち 仲間たち 部下たち今日も感謝してI got sound, I got feel, I got beautiful daysI got song, I got love, I got grateful daysI got it yeahYou makes me happy, when sky's grayDarling, my darlingThank you my friend
2010年12月13日
閲覧総数 60
10

大物右翼 三浦義一がかたる 田中清玄の靖国論はインチキである清玄の自伝を読んだが 笑ってしまうね、刑務所を出てから 実業界に出てくるまで 全部 山本玄峰という和尚には世話になったが あとは自分でやったというような口振りには 当時の事情を知るものにはあきれてものがいえないね。右翼の研究自体が 未だに北一輝とか 頭山満とか 内田良平とか 化石のような連中がメインで 俺とか 児玉の奴の研究なんか だれもやらんだろ。児玉の相棒の吉田彦太郎なんか いまでは誰も知らんが 彦ちゃんとあいつの九州の人脈があってこその児玉なんだか当時の背景 清玄の奴がでてきた頃の事情なんて 誰も知らないから 適当なこと書いても 誰も反論する奴なんていないんだろうね。もともと 山本玄峰といっても 只の坊さんじゃなくて、この人は 血盟団の特別弁護人で この和尚の下に 清玄がいたというのは 井上の和尚が ムショから出た後に 小川平吉というか 宮沢喜一の爺様だなの紹介で 近衛さんのところで 用心棒というか 居候をしていたのについていたのが 四元で それについてきたのが 清玄ということを ぼやかしていっているんだが。 そのあとに 近衛さんのところにいた 井上の和尚が 最初は 近衛さんにたかり ひもろぎ塾をつくっていたんだが 戦争が激しくなるだろう、この非常時に運動でもないだろうということで 橘考三郎とか 三上卓なんかが中心になって始めたのが 神中組だね、最初は人夫貸しというか 茨城や千葉のほうで 農作業の手伝いから始まったということを聞いているね。 いわゆるひもろぎ塾の組織を再編成したものが 神中組の母体で これは 自伝であるように あいつが作ったものとは ちと違うんだな だいたい ムショからでた アカに金なんか あるもんかね。 それで 敗戦だ。ひもろぎ塾のメンバーがかなり公職追放だし 戦時中は 聖戦遂行なんて 旗振っていた連中だから 表だって 動くわけにはいかないということで 担ぎ出されたのが 清玄の奴だね。 武装共産党なんていっても 転向して右翼になったといっても 誰も知らんから それで 例の天皇なんたらという文章を新聞にだしたんだか いま思うと あれも売名だったんだろうね。 それに あの頃 確か 西郷さん 吉之助さんの妹さんと結婚して その縁で 財界主流に 顔がなんとか聞いたのが 四元義隆だね。奴も 前歴が前歴だがら 表に出られなかったんだが そこで 富田さんの縁で 藤木さんのところに 金貰いにいったりしていたんだが いちばん でかかったのが 後に 財界四天王といわれる水野成夫にんとか コネがつけられ 仕事と カネと住友銀行から 融資を受けられるようになったことが大きかったね。 これで会社がでかくできたが スト破りのほうも 日経連がスポンサーだもの 本業以上にしていたね 松川事件関与の噂がでていたのも これが原因だったようだね。 俺のところにきたのも 四元経由だもの。 そのワリには 清玄の奴 かってなこといっているが そもそも あれで 起業なんかできるもんじゃないよしかし あきれるのは あいつの靖国についての論だね、なんだい 総会屋雑誌あがりの佐高という奴が触れ回っているみたいだが あれだって 中曽根が靖国参拝で 中共ともめたあとに 右翼の連中から攻撃されて困るから 適当にこさえた理屈だろう。 中曽根の奴も はっきりいえば いいじゃないか 中共の利権が欲しいんです。だから中共のいうことを聞かないといけないんですってね。 そもそも 俺なんかが見れば 文句ばかりの清玄自伝から よくいれるねーえと思うんだが。 福島の人は戦争いかなかったのかい 遺族会はないのかい?児玉の奴も あいつの本を読んで 初めて 福島の出と知ったくらいだが 清玄も本当に ご先祖は会津の出かい?靖国にいるのは 維新の時の戦争で死んだ人間だけかい?北海道にいたときに戦争にいった友はいないのかい?弘前の時にいた仲間はいないのかい?帝大の時にいた仲間はいないのかい?共産党の時の仲間もいないのかい?アカは理屈っぽいね。陛下は大元帥だ そしてわれわれは 赤子だ、そして我々の仲間がいる靖国に 陛下に年に一度はきて貰い 一礼をしてもらう なんとかメモ?それは 関係ないね 一礼をしてもらう それが 大元帥の仕事 なんであろうとね。それが道 安岡先生なら なんていうかね。
2007年08月17日
閲覧総数 5150
11

古代のことはよくわかりませんが、浅井氏などを含めて物部氏の系譜を称する家もあるようです。いわゆる天皇家の血筋というのも本当のところはどんなものだろうか?そんな気がします。源氏の家にしても 貞純親王と経基と満仲の成年と没年をみると おかしなことになるようです。また荘園領主の自衛団という認識で武士がみられる場合も確かに ありますが 清和源氏の発祥の地の多田庄には 戦後も稼動していた多田銀山があります。かなり古い古墳もあるようなので古代豪族がカッコつけて性は源氏とつけたのかもしれませんし山の修験者の集団かもしれません武士の起源を知るための参考書としては下記の通り武家の棟梁の条件最近の学説がわかります。酒呑童子の誕生鬼を退治できるのは 鬼とすればニ河白道本多正信伝という小説ですが 家康の家臣団が如何に形成されたかが出ています。戦国時代と賤民賤民がカッコをつけて中国の盗賊秀吉も天下を盗んだ盗賊傭兵ニ千年史主として ヨーロッパの事例ですが日本のことも出ています。雑兵たちの戦場雑兵の光が 秀吉 影が石川五右衛門傭兵ピエールごろつきが武士になりました。ゴットファーザーマフィア 暴力団 武士団 みな同じです。日本の中世寺院-忘れられた自由都市僧兵の正体というのが なんとなくわかります。まあ かなり偏りがありますが、小刀で 人を殺したのが武士小刀で 竹林を切りにいったのが桶屋さんということで武士も それ以外も以外に 境はないんだろうなと考えています。
2005年12月19日
閲覧総数 25
12

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/087/0760/08704250760003c.html○小林(進)委員 次に、海部八郎氏との友誼関係があり、政界、官界、財界等に広い分野の知人が多いと言われている田中清玄氏や日本報道新聞社長の森路英雄氏から今回の事件で事情聴取をされたことがございますかどうか。○伊藤(榮)政府委員 何しろ検察当局では三けたの人からいろいろ事情を聞いておるようでございますが、そのそれぞれについてどういう人から事情を聞いたかということは報告も一々受けておりませんし、また報告がございましてもその中身については申し上げるわけにまいりませんので、御容赦をいただきたいと思います。○小林(進)委員 その御答弁なんでございますが、田中清玄氏に五万ドルの領収証のコピーを海部がつくって森路英雄氏に発表を依頼したとか云々というような、なかなか怪談に似たような話が紛々と飛んでおりますので、こういうこともできればひとつ早目にやはり世間の人に知らせていただきたいと思います。編注 上の文章だと わかりにくいのですが 下記だと簡単です森路 ええ ある時 彼が黙って、パッとレシートのコピーをボクに出した ある右翼の大物のレシートで英文で書いている 金額は大したことはないけど 海部はこいつはひでえ野郎だ リベートを外で取るって怒ってるんです LNGの問題で この大物にモノを頼んでおきながら コピーして ボクにわたして 書かそうというんだから裏切りですよ立花隆 巨悪vs言論 文春文庫編注森路英雄 トリ屋さん ブラックジャーナリスト海部八郎 不毛地帯 鮫島のモデルダグラスグラマン疑惑に 清玄センセイが名前があがったらしいですが ロッキードに児玉攻撃に積極だったのは いろいろ事情があったからのようで 海外での裏金操作が 竹中完爾こと 田中清玄の本業のようで 清玄を石油フィクサーというのも 裏金の処理を 複雑怪奇な石油業にはめ込んでしまうという意味のようですが 児玉センセイとは 同業者ということですかね
2010年01月25日
閲覧総数 198
![]()
![]()
![]()