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ラッキーな年明けを迎えた。昨年、全く知らなかった「ハーバード白熱教室」が教育テレビで全編12回を深夜2日間にわたり再放送していた。すべてを録画して、第1回「殺人に正義はあるか」を視聴した。今日のテーマは2編あり、1.電車のブレーキが故障して前方に5人の人がいる。支線に逃れれば1人で済む。2.難破して救命ボート上の4人が生き残るため、一人を殺害。初回からドラスティックなテーマであるが、昨今の身勝手な「理由なき殺人」とは、前提が違う。学び、考えることに久々に苦痛を覚える。学びはすぐには役に立たない。この先、多くを忘れてしまうのだろうが、複読ならぬ複視聴していこう。
2011.01.03
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テレビの番組表で録画候補を探していて、「『戦争責任を議論する』-ハーバード白熱教室」が目につき、金曜日に観た。(→ ETV特集「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」)東大・安田講堂で開催されたサンデル教授の講義の模様は、同様なシーンをアメリカ映画でも見ていたような記憶があり、関心を引き込まれた。観終わって再放送をNHKのHPで検索したが、今春再放送も終わっていた。(12回にわたる講義は、DVDとして12月に発売されることが分かった。)それでも、この日曜日には「『白熱教室』の衝撃」が放送されることを知り録画して今日観た。私の宿命は「降れば土砂降り」で、会社に届いていた日経新聞の日曜版の付録NIKKEI MAGAZINEを開いたら、「サンデル教授、日本を語る-正義の哲学と伝統的な価値観」 の記事が・・・NIKKEI MAGAZINEの記事のごく一部を書き写すと、・ ・・・米国や日本だけでなく、おそらく全ての成熟した先進国家が共通して抱える悩みは深く、複雑だ。まだ貧しく、何もなかったけれども、夢と希望だけは輝いていた昭和半ばの時代へのノスタルジーを多くの日本人が共有する現状は、それを端的に示している。・・・・・・・・ 冷戦が終わり、グローバリゼーション(国際化)がすすむ反面、米国やロシア、欧州、そして中国など世界では国家や民族などをよりどころとした不健全で排他的なナショナリズムが若い世代を中心にもたげつつある。日本も例外ではない。教授のロンによれば「愛国的であること」は決して間違ってはいない。だが、そのためには自らが所属する共同体の「過去」にも責任を負わなければならない。・・・・・・・・ 日本が真の意味で21世紀にも責任ある大国として世界で活動していくためには「過去」の問題から逃げてはいけない。それから目を背けずに正面から向き合い、乗り越えない限り、日本は「正義」を世界に示すことはできないのではないだろうか。「米マサチューセッツ州 ケンブリッジで、春原剛」 から。WEBで「白熱教室」のキーワードで検索しても、サンデル教授は人気急上昇中。仕事の合間に多くのことを調べ読んだ。「コミュニタリアニズム」・・サンデル教授。コミュニズム(共産主義)とは違う、共同体主義。西部氏のサンデル教授批判。(その内容は難しくて、飛び散る用語を調べていくうち、記憶力が衰えてきている私はURLやらキーワードをメモせざるを得なかった。)私が観た番組は11月12日に再放送されるようだ。(以下 NHKのHPから)11月12日(金) 総合 午前1時~2時30分 (11日深夜)ETV特集「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」(再放送) 「ハーバード白熱教室」が日本で実現した。サンデル教授が来日、東京大学で千人を超える受講者と正義について議論を行った。本家ハーバードを上回る白熱の講義を伝える。そして「白熱教室JAPAN」が始まります!ハーバード大学のような教授と学生による自由闊達な議論「白熱教室」は日本で実現可能なのか。11月21日から毎週日曜日午後6時、日本の各大学で繰り広げられている日本の白熱教室を紹介します。詳細はまもなくお知らせします。「ハーバード白熱教室」のDVD12巻はNHKでは¥17000。You Tubeでも見られそうである。で、AMAZONで次の本を購入した。さて、「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」では、若い人たちの様々な考えを教えられ、心強く感じた。初老の私も議論は下手だが、学び続けていることを若い方々に訴えたい。
2010.10.18
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私のテレビの視聴時間は長い。映画やスペシャル、ドキュメンタリー・報道に少し食傷気味になり、このところ放送大学をつまみ食い録画し、中途からだが講座を観ている。講義の下手な講師には若干イライラする。(芸人ならスベル、アナウンサーなら噛むというところか・・・TVカメラの前に立つ前にしっかり予行訓練をしておくべきである。 私でさえ計測器の取り扱いスクールを開催する直前や、製品プレゼンに臨む時には自宅で時間を計りながら、飽きさせない為の笑い話や、とりわけ興味をひきそうな逸話などを盛り込むことに腐心して自己訓練していたものである。)幸い、特に興味のあった講座-政治、国際関係の講師お二方は話がよどみない。(高橋和夫氏、藤原帰一氏)http://ameblo.jp/t-kazuo/ 高橋和夫氏のブログ 録画漏れしないようEPGでチェック・予約しているが、受講動機が好奇心のため他の講座にも浮気する。そんな中、特別講義で赤坂憲雄氏の「東北学への誘い」という番組に目が止まり昨夜視聴した。受講動機は単に東北が好きだから。理由は20歳のときに北海道周遊券で一人旅の途中(上野駅から青森まで急行に乗りっぱなし)、深夜に仙台駅で列車が停車した。そこで私と同世代位の若者が乗車してきて、ホームには友人たちがスクラムを組んで、涙を流しながら歌い始めて別れを悲しんでいたのである。その時は、くさい芝居を見ているような感じがしたが、時間が経つにつれ、彼らがうらやましく思えてきた。正直言ってそれまではズーズー弁-東北弁をバカにしていたが、自ずと改まった。社会人になり28-29歳の頃、東北6県・北海道・関東以北の民放-広大なテリトリーを駆けずり回り、仙台を生まれ故郷の名古屋以上に好きになった。 市内に点在する東北大学を回り、仙台は筑波より先輩の【学園都市】ではないかと、独り思った。仕事を終え、本屋で東北各県人気質の本を見つけ、ホテルのベッドで読みふける。東北地方の歴史も少し学ぶ。その後、仙台営業所が開設し40歳のときに転勤。以前の顧客・・・多くは東北大学の先生方だったが、岩手大・秋大、半導体研、職訓短大に移られ、教授・助教授になられている方々とも再会。仕事を離れて益々東北が好きになり、永住めざしマンションも購入してしまった。残念ながらその時は多忙を極め、東北の民俗・文化・歴史にはほとんど興味がなかったといえる。「東北学」を学んでも、自分自身の実にはならないし、東北に対して私が役に立つこともないだろう。が、赤坂憲雄氏の特別講義で大いに東北学に関心を惹かれた。民俗学者 柳田邦夫の史観で日本をみがちだが、赤坂氏の話でもっと多様な日本を見れそうな気がする。Wikiから抜粋赤坂 憲雄(あかさか のりお、1953年5月23日 - )は日本の民俗学者、東北芸術工科大学教授、同大学東北文化研究センター所長、福島県立博物館館長。2008年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。東北学を提唱、確立したことで有名。大学に常勤職を持たない在野の学者として有名であったが、1992年に東北芸術工科大学助教授に就任した。東北文化研究センター設立後、1999年『東北学』(作品社)を創刊。2004年より第2期季刊『東北学』(柏書房)の刊行が開始されている。また、『津軽学』『盛岡学』『村山学』『会津学』『仙台学』の5誌が、それぞれの地域の編集社より刊行されている。
2009.12.06
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先ごろNHKのクローズアップ現代で、「コピペ~“ネットの知”とどう向き合うか~」という番組を放映していた。WEBからの検索能力に長けた若者が、【卒論】もWEBで見つけた内容をコピペ、貼り合わせて短時間のうちに書き上げてしまうという。この行為が直ちに【考える力】を失わせるとは思わないが、仮想空間の時代に入り、実体験の面白さ・感動、自らのオリジナルな発想を疎外する要因になってしまうのであれば、残念というか危機感を覚える。誰かにこの面白さや感動したことを知ってもらいたいという願望は、普通の人なら皆抱いていると思う。(だから皆ブログを工夫しているのではないかしら)あまり面白くもない【義務感】が先に立つと、他人が汗かき悩んだ末に到達した【成果】をつまみ食い・盗み食いを犯す。【義務感】に燃える人もいるだろうが、私はどちらかというと後ろ向きで【義務=仕事】を「どうせなら遊び心が持てるよう昇華させる」努力をしてきた。ある地方議員は税金でブラジル慰安旅行(視察と言っているらしい)後、その報告書をまるまるパクって提出していた。(と私は断言したい)発覚しないと考え、やらかしたのかしら?「ばれないだろう」と、こそこそせこい事をするのは匿名でネット上に恐喝文をアップする奴らと同じではないのか。現役の頃、某工業会で「電気計測器の中期予測」作業を同業者(商売敵)たちと4年ほど務めたことがある。毎年春に予測結果の精度の確認・反省と次年度の役割分担を行うのだが、その会議の時、報告書の内容がまるまる某経済ライターなる人物により雑誌に掲載されていることがわかり、しかも引用元も明らかにせずあたかも自己調査のように記載しているため、事務方に抗議するよう怒ったことがある。せこい奴らはどうしても許せない。さて、今日の読売WEBに「IT製品、ソースコード開示せよ」…中国が外国企業に要求へ(2008年9月19日03時09分 読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20080919-OYT1T00011.htm?from=main2 中国政府が外国企業に対し、デジタル家電などの中核となる製品情報を中国当局に開示するよう命じる新制度を2009年5月から導入する方針であることが18日わかった。 対象はICカードやデジタル複写機のほか、薄型テレビなども含まれる可能性がある。開示を拒否すれば、その製品の対中輸出や中国での現地生産、販売が一切禁止される。企業の知的財産が中国企業に流出するおそれがあるほか、デジタル機器の暗号技術が中国側に筒抜けとなる安全保障上の懸念もある。経済産業省や米通商代表部(USTR)などは制度の撤回を強く求める構えで、深刻な通商問題に発展する可能性がある。(以上 抜粋)IT先進国でさえ国が開示命令をするなど考えられないが、コピー天国・賄賂天国の中国でソースコードを開示してしまえば、中華役人の賄賂のネタになるのは目に見えている。開示するなら【メタミドホスやメラミン】を混ぜてやれ。
2008.09.19
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解ったつもりでいた【言葉・用語】が、あまりにも多いことに気がつき慄然としている。日々報道される事件・政治などは、よほど難しい論調でなければ【我流】で解ったつもりになってしまう。日常生活で必要な言葉は多寡が知れている。ちなみに【英会話】は、少し訓練すれば食べる、挨拶する・・・などのコミュニケーションには時間がかからない。しかし少し突っ込んだ考えを訴えたいとか、難しい考えを表現されると語彙の底に潜む遠大な情報を理解する必要に迫られる。勢い余って【誤解】が生じる。日常よく耳にして理解しているつもりの言葉が、実はその心地よさ或いは嫌悪感から情緒的に読み書きしていることが多い。たとえば【人道への罪】とか【人道支援】。日本を戦争に追いやったA級戦犯への憎悪。または、北朝鮮の口先だけの拉致被害者調査開始に対する人道支援。【人道】とは何?と初めて無知であったことを知る。WEBで調べれば、厭になるほどのサイトが現れる。そして、またわかったつもりの状態に陥る。さて、TVで【討論番組】はよく観る。一方的にしゃべりまくったり、別のゲストが話をしているのにさえぎるように途中から自論を展開しだす輩を見ると虫唾が走る。昨日は【たけしのTVタックル】を観ようとしていたら、8時ごろだったか画面に【9時半から福田首相の緊急記者会見があります】との字幕が入った。もしや・・・と思ったが不安は的中だった。深夜のニュースでは早速、街中の【市民の反応】が流れていたが、ボロクソにけなす感想が多く、朝の番組では【少ない功績(C型肝炎患者への救済他)】なども挙げていたが、漠然とした【論評】の報道ばかりでは政治に生活の助けを求めることなど出来ないだろう。政治の現況は政治家も市民も【あなたまかせ】に感じる。かといって、庶民は生活のための仕事に忙殺されていて、【政策】を吟味・研究するゆとりも出ない。(私は遊んでいるので、少し齧り始めたが・・・)福田改造内閣ができる直前には、【社会保障の機能強化のための緊急対策~5つの安心プラン~】が発表されていた。1.高齢者が活力を持って、安心して暮らせる社会2.健康に心配があれば、誰もが医療を受けられる社会3.未来を担う「子どもたち」を守り育てる社会4.派遣やパートなどで働く者が将来に希望を持てる社会5.厚生労働行政に対する信頼の回復これに対する反応は冷ややかだったように思う。論評の多くは【財源】を問題にしていた。財源を補う【知恵】の議論はいつもでてこない。これも【辞任】で立ち切れになってしまうのだろう。【5つの安心プラン】の下の階層にはさらに、多くのテーマが列記されている。(このブログを読んで関心がおきた方はこのキーワードで検索してください)【理解・解釈と表現・書く・描くこと】の先は【実行動】【5つの安心プラン】をネタに書きかけていたのだが、これも中断。その冒頭は、ケネディーの就任演説の有名な一部だったのだが・・And so, my fellow Americans. . .ask not what your country can do for you. . .ask what you can do for your country.My fellow citizens of the world. . .ask not what America will do for you, but what together we can do for the Freedom of Man.(わが友である世界の市民諸君 アメリカが諸君のためになにをなすかを問い給うな。われわれが共になにをなしうるのかを問い給え!)
2008.09.02
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今年は蝉が少ない、あまりうるさくないNHKの終戦特集では、東京裁判(A級戦犯)やBC級戦犯の【証言記録】を観た。さらには、米英合作のドキュメンタリー【ニュルンベルグ裁判】も。(これは駄作)敗戦国は、戦勝国による【報復】は避けられない。ニュルンベルグ裁判も東京裁判も【共同謀議】、【人道への罪】が根拠となっているが、事後法であることには変わりなく、皮相的な解釈ではドイツは【ナチ思想】、日本は【軍国主義】の根絶を表面に出し、戦勝国自らの人道への罪はほっかぶりせざるを得ない・・・そして戦争は繰り返される。A級戦犯が祀られたことで、政治家の【靖国神社参拝】が中韓及び左翼から大々的に非難されているが、戦争によりはからずも命を落とした方々を慰霊することに文句を言われる筋合いは無い。【参拝】への解釈は多様なものがあり、中韓にしてみれば非難をすれば無条件に大人しくなる日本に、中韓のみでは勝利したと言えない中途半端な鬱憤を晴らしたり、今の日本では再軍国化は考えにくいが【牽制】を掛けているようにも見える。私には【靖国問題】で、中韓が【死者に鞭打つ文化】があることを思い知らされたということである。さて、NHKの【証言記録】は、まだまだ制作意欲が【血気盛ん】で終戦70周年を目指して、証言を求めている。17日には【ETV特集「シリーズBC級戦犯」(1)-韓国・朝鮮人戦犯の悲劇-】を観た。日本人軍属(捕虜監視員)として、裁判で死刑、減刑され20年の収監。日本はサンフランシスコ平和条約で東京裁判を受け入れ、彼ら朝鮮人は韓国・北朝鮮人に戻ったものの服役せざるを得ず、【日本国籍】を持たないが故に補償なし。これは確かに【不条理】に尽きる。NHKの番組案内から【戦時中、植民地支配下の朝鮮半島から約3000人がアジア各地の捕虜収容所に監視員として動員された。戦後、捕虜虐待などの罪でBC級戦犯として裁かれ、韓国・朝鮮人の148人が有罪、23人が死刑となった。日本に暮らす李鶴来(イ・ハンネ)さんは、日本政府に補償を求める活動を続けてきた。2006年、韓国でBC級戦犯の名誉回復がなされると、元戦犯が重い口を開き始めた。李さんの半生を軸にBC級戦犯の悲劇を描く。】番組案内には記されていないが、李鶴来氏が半島に戻った仲間を訪ねるシーンがある。母国では【親日派】として疎外され自殺・・・その妻も後追い・・・日本に残った2人も巣鴨を出た後、自殺した。朝鮮人にしてみれば、この悲惨な事実は【恨】をさらに強めるだろう。私が小中学生の頃も同級生に【在日】は必ずいた。どちらかというと、私は彼らとは仲の良いほうであった。しかし今はこのような番組を見てさえも、朝鮮人は嫌いである。日韓基本条約を締結したにも拘わらず、口を開けば何かにつけ【謝罪と補償】を求め、まるでチンピラやくざのようにしつこく迫るからである。歴代の大統領は【未来志向】を口先で唱え、すぐ後退発言をする。北は犯罪国家に堕ちている。【正しい歴史認識を】といいながら、彼らの認識は自己都合。日本を貶める宣伝に汲々とし、事実・妄想をごちゃ混ぜにした【反日教育】に固執しすぎる。中国・日本にはさまれ、劣等根性・火病・恨・両班文化から脱する日は来るのだろうか。朝鮮と台湾は【旧植民地】として対比されるが、台湾は大陸から逃げ延びてきた蒋介石のお粗末な政策が、日本の統治より悪辣だったためか、日本への罵詈雑言はあまり聞かれない。そのうち、NHKが台湾での【証言記録】も制作するだろう。WikipediaにはBC級戦犯の中には、旧植民地出身の朝鮮人・台湾人がいた。その数は、朝鮮人が148人、台湾人が173名だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人だった。1人は洪思翊中将であり、2人は志願兵だった。この他、通訳だった朝鮮人16人が中華民国の国民政府によって裁かれ、うち8人が死刑となった。残る129人全員が、捕虜収容所の監視員として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属である。尚、敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、オランダ法廷で戦犯となっている。朝鮮人については「日本の正規軍より凶暴だった」[1]「体罰では、日本兵よりも彼ら(韓国人)を遥かに恐れた」[2]「日本人戦犯の責任を軽減するつもりはないが、占領地域で最も嫌われたのは日本国籍を持つ韓国人であった」[3]などをはじめ、その凶暴性についての証言が数多く出ている。互いに洗脳されたような悪感情・先入観は捨てて、【過去・現在の事実】を突き詰めて【人倫】を考えるべきだろう。*NHKの【証言記録】では、関東軍が中国侵攻に伴う予算確保をこっそりアヘンでまかなっていたという番組もあった。私は初めて知ったが、一部のブログではNHK攻撃があるかも知れない。しかし正視すべき事実だろうし、大切なことはその過去を乗り越える知恵を絞りだす事だろう。野蛮だったと過去のことに思えても、戦争に連なる非道・犯罪行為は今もどこかで行われているかも知れない。
2008.08.20
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8月は特にNHKで終戦記念番組が多い。【生存者の証言】と記録映像を織り交ぜ、【証言記録】として地道に制作してきた番組を、数年前からのアーカイブも含めて毎年放送している。【末端での戦争経験者】の生の声・証言を戦闘員・非戦闘員を問わず残しておきたいと考えるのは自然の成り往きだろう。2年前に逝った父も私が生まれる前に招集され、中国戦線に駆りだされたが、それが中国のどこで、また戦争の実態などは聞き出す勇気を持てなかった。ただ父が自ら話した事柄はいくつか覚えている。【人は腹をやられてもなかなか死なない・・・いつまでも苦しんでいる】【銃弾が首後部を貫通した時は、舌がひきつられて話が出来なかった】【肩に被弾して看護兵の治療を受けている時は、すでに傷口にウジが入り込みピンセットで1匹1匹取ってもらっているうちに気を失い、気がついたら仲間は誰もいなかった】【食料調達(かっぱらい)で、誰もいない農家に入り牛を殺して、まだ生暖かい肉を担いで陣地に戻った。しばらくして、その農家を覘いたらすでに牛は跡形もなかった】【日本の軍隊に入れば人が変わる。どんなことでもやってしまう】こんな恐ろしい軍隊の話を聞いたのは、小学生の頃で、伴淳&アチャコの映画【二等兵物語】で【帝国陸軍】をイメージしていた。あるいは映画【真空地帯】。その後に見た【拝啓 天皇陛下様】で、ちょっと足りない兵隊を渥美清さんが演じ、復員しても徴発癖が治まらず、平和を取り戻してからも近所の鶏を絞めて食べてしまうシーンは父の徴発話から私なりに悲しく理解した。尋常小学校しか出ていない父は、軍隊で戦争に関する【国際法】など教育を受けたのだろうか?末端の兵士たちは日本のみならず、米英・ドイツ・ソ連・中国???いささか疑問である。生き残るために破壊する・コロスことしか、訓練は受けなかったのではないかと思う。NHKスペシャル「A級戦犯は何を語ったのか~東京裁判・尋問調書より~」は前にも見たような気がするが、尋問にあう東条英機元首相が開戦の理由について「自衛戦争であった」と、主張するシーンが今回は印象に残った。これは一笑に付す証言かも知れない。しかし、【ハル・ノート】を突きつけられ追い詰められた当時の日本にとっては、あるいは【自衛戦争】だったのかも知れないと思う。政治的な【論理】を理解するところまで、私の勉強は届いていない。そして私は意味・深奥も知らずに【南無阿弥陀仏】というお題目のように、【戦争反対】とか【戦争は悪である】と言うことができない。【開戦】に至ってしまった人々への重圧と、当時の社会&世界情勢を理解し、乗り越える知恵を見出さない限り、弱者で終わり【愚】を繰り返すと思う。日清・日露戦争で勝利し、第一次大戦の尻馬に乗り、調子をこいて日米開戦に至ったと解釈していたのではアホすぎる。8月は【戦争の近代史】を学ぶ月である。NHKのドキュメンタリーやら、WEBではYahooでも終戦特集2008が掲載されている。資料が多すぎて焦点が定まらない。独りで勉強していても、ひょんなところからヒント・歴史資料が素人でも見つかる。歴史番組・ドキュメンタリでは、よく各国の【国立公文書館】が登場するが、当然日本にもありWEBで閲覧できる。国立公文書館 アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/shusen/index.html【終戦の詔書】では、原爆を【・・・・残虐ナル爆弾ヲ使用シ惨害・・・】との記述が見える。【東京裁判】以降、米連合国による戦争への一方的反省政策は永い時間をかけて成功した。行き過ぎて自虐的になり、犯罪者の子供のように近隣諸国にもモノ(主張)が言えない。戦勝国の【戦争への反省】はなく、あいも変わらず戦争を繰り返している。北京オリンピック直前にはチベット・ウィグル問題が浮上し、開会式では新たに分離独立した知らない国々が数多く参列し、開催中にはグルジア・ロシアで戦争が起き・・・日本がそこそこの経済力を持っても、未だに対外的にモノ(主張)が言えないのは不勉強のせいだろうなと、反省する。
2008.08.17
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この格言を知ったのは何歳だっただろうか?そのときからずーっと「人に情けをかけるのは、その人のためには良くない」と勝手に解釈していた。この本来の意味を知ったのは、きつかったが仕事の責任を任され、母親の病の回復をあきらめるを得ざるを得ない頃だったように思う。人のためならず・・・・自分のためである。その意味を知った頃の前後は、経済的には独身ゆえ豊かだった。遊び心と社会勉強の意味で商品取引・株で数か月分の収入を得たこともあった。借金を何人かに申し込まれた。返済が滞り、こちらからチャラにすることを申し出た。直接電話で伝えた人もあるが、借主はすべて逃げて回り音信不通である。その近い人から健在であることを知り、金銭のやり取り以前に抱いていた温もり・信頼を復活できればと願っている。今思えば、中途半端な「情け」だったと思う。自分の収入の1-2ヵ月分程度の借金申し込みなら、「あげる」と言えば傷がつく。若ければ「出世払い」という言葉がある。40歳も過ぎた人には・・・賢明な人は貸し借りをしない。賢明な人は借りる時には、返済計画を立てる。貸す時には「鬼」になるであろう。下らない事で大切な人を数人失った。情けは人のためならず・・・「人に情けをかけるのは、その人のためには良くない」と勝手に解釈していた頃のことである。自分のためであれば、もっと色んな手段を一緒に考えていただろう。 入梅前だが雨の多い日が続く。先週の好天の日、ジュンと観音崎までドライブした。観音崎から走水に向けて海岸線に1Kmほど「ボードウォーク」が設置されている。思い立って船長が亡くなってしまった「勝洋丸」まで歩いた。 防衛大訓練船に隣接した港に勝洋丸は停められていた。写真を撮り帰ろうとしたら、おかみが洗濯物を取り込みに出てきた。覚えてはいないだろうが、こちらから声をかけて話を伺った。5月5日、めばる釣りから帰船して客が船宿に戻っても中々降りてこないので見に行ったら愛船で倒れていたとのことだった。こちらからは言えないセリフ・・・おかみの口から出た。「大往生」
2008.05.31
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正月に偶然、首記の番組を見た。4回シリーズで残念ながら、最終回のみだった。NHKのホームページで番組紹介欄を検索して、年頭の学習初めとしたい。第1回 「“仁”愛の旅路」 孔子は、「仁」、つまり人を思いやる事を、最高の徳目としたが、親に対する敬愛がその最初の一歩だと説いた。第2回 「“義”狭いが 早き道」 日本では、「義」を通せば利益はおのずとついてくると説いた石田梅岩の思想が、上方の商人に強い影響を与えた。第3回 「“礼”神秘の力」 水族館で西洋人は、より魚自体の姿形を覚えているのに対し、東洋人はむしろ水草や水泡といった背景をよく覚えている。つまり自身を取り囲む環境に、より関心を払うのが東洋の精神構造の特徴だと語るアメリカの著名な心理学者の説を発端に、「礼」という人間関係を重視する儒教の価値観を分析する。最終回 「“智”世のための修養」 論語が「学びて時にこれを習う。またよろこばしからずや」という一節で始まるように、儒教は「学ぶ」ことを尊び、一生涯続くものだと説いた。これも偶然だが、昨日の産経新聞の「主張」では、http://sankei.jp.msn.com/life/education/080108/edc0801080325000-n1.htm公教育再生 規範意識の育成が急務 親から子への悪循環断とう 学校の道徳教育は、昭和33年に週1時間の「道徳の時間」ができ、50年がたつ。 以前は「親、師を敬う」「困っている人を助ける」「うそをつかない」などの徳目が、郷土の偉人の伝記や古典など親たちも知っている具体例を通じて教えられた。そして家に帰れば親や祖父母からさらに詳しく聞き、目上の人を敬い慕う気持ちが自然に生まれた。今はそうした機会は極めて少なくなっている。という提起が掲載されていた。昭和33年は私も小学生。「道徳の時間」は覚えているが、内容は教師も戸惑っていたのか、無実な時間のみが過ごされたような気がする。その後の教師の中には、「修身の時間」と勘違いして、授業放棄するものまでいた。教育は「知・徳・体」。知識は自立して食っていくための、飯の種である。自らの好奇心・関心の高いところを起点として、切磋琢磨して抜きん出る努力の末、毎日の糧を得る手段となる。徳は否応なく接する人の社会における、快適さ・快感を得る、またこれを与えて自らに還ってくる快感を得る手段である。体は知・徳と相互関わる基本中の基本である。私だけでなく人は、おしつけの教育を嫌うようだ。 そのくせ、関心のあることは、盗むようにして他人から学ぶ。「教育」という言葉が闊歩し、「学習」という言葉が後退していると、あるコラムに記されていた。他律と自律の違いを感じるが、「ものごとの興しろさ」は、やはり、自律に依存すると思う。今の時代は、知らないことをグチのようにWEB上に書くと、見知らぬ方から「知識」を伝授される。豊かな時代だとつくづく思う。知はすぐ陳腐化し、次を学ばなければならなくなる。 徳はあまり変化しない。社会生活していく上での変わらない基本だからであろう。学校」で教えることのできる「徳」は限られていると思う。 昨年は「KY」が流行ったが、「徳」は空気のように家庭・社会から、そして自ら学ぶべきことのように思う。 この「徳」に責任を持てるものが「大人」だと思う。 「獣のようなガキ」も存在するが、ジュンでさえ優しさを身に付けたと、うぬぼれているこのごろである。
2008.01.09
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私は「教えられる」ことが、どうも下手なようだ。「我」が強すぎるのだろう。登山、スキー、園芸、釣りと、「遊び」は自分で学んできた。否、園芸を除いて仲間がいて、教え教えられ競争意識もあった。「仕事」はといえば、生活の糧を得る手段ゆえ、教えられるというよりは盗み取るように学んだつもりである。さて、NETを探っていたら、日経ネットPlusにぶつかり、ここに「ニッポンの教育」コーナーがあり、「自分でつかみ取る学びが大切」と題するタイトルに同感して、クリックしたらメルアドと暗証コードを要求された。日経は会員登録済みかと思いきや、また新たに登録が必要だった。(勿論無料)この記事の更新日が、丁度私の誕生日と同じだったが、そんなことはどうでもよい。(下らないことに喜ぶ癖もある)<記事抜粋> 「究極の教育とは『自己教育』だと思う。自分に学ぶ気持ちがなければ、どんないいことを習っても身にならない。かつての日本でも人から教えてもらうことより、自分で学ぶこと、つかみ取る『学び』が重視されていた」 「『教える』ことも大事だが、学校に限らず、企業の研修など何かにつけて教えてあげることが教育の中心になった今日、つかみ取る『学び』を見失っていることの重大さをだれもが気づくべきだろう」 「生徒や親の“受験ニーズ”に応じるまま効率的に正解を見つける授業が多くなり、結果として生徒の知的好奇心をそぐことになった。・・・・今では「教育」のみならず、「食育」なんぞと新語が造られている。与えられすぎる豊かさは、貧しさを生む気がする。先ごろNHKで昨年に引き続き、「ワーキングプア」の特集が放送されていた。気持ちにゆとりを造り、野生的な知的好奇心を喚起して乗り越えたいものである。【追】 コンパクトデジカメで夜景などを撮るのに、露光時間が長いので手振れを防ぐためケーブルレリースのようなアクセサリーが欲しかったが、ない。仕事をしていないので、お金もない。三脚は大掃除で3つほど出てきた。・・・・・ デジカメのタイマー機能を使えば、手振れは防げる。お金がなくなれば、些細な知恵が出てくる。もっと貪欲なら、知恵もお金も増えるのだろうが、私はもういい。ジュンとの生活で「教えられる」豊かな毎日である。この冬に向かい、ジュンはまた太ってきた。冬眠直前のタヌキみたい。写真は偶然、頭上に葉っぱが・・・
2007.12.24
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東国原知事が徴兵制に賛意 宮崎県民との意見交換会でタイトルから、いまどき「徴兵制に賛意?」と内容を読んだら納得・同感。しかし、案の定次は釈明記事。東国原知事が徴兵発言で釈明 今度は「徴農制」座談会後、報道陣に「徴兵制や軍隊とは言わないですけど、若者にはある時期、規律がきちんと身につくような教育が必要だと思う。そういったものの欠落が、今の社会の道徳や倫理観の喪失につながっている気がする」と発言の真意を説明した。実は私も徴兵制とまでは言わないが、「体験入隊」させて「規律」をしっかり身につけさせる必要があるのではと、考えたことが過去にある。当時、居酒屋でそんなことを釣り仲間と話したら、彼の会社で実際に体験入隊させたことがあったと言われた。大昔は自衛隊の体験入隊は有料どころか、日当がいただけると聞いていたのだが、その後は有料で鍛えるようである。健康器具?でBBキャンプが流行ったみたいだが、独りで体力だけ鍛えても肝心要の「規律」は身につかない。ところで釣り仲間の話だが、短期の体験では効果は無かったとのこと。ひょっとしたら「お客様扱い」されて、厳しい訓練などなかったのかも。現役の頃、新人を採用するならクラブ活動-願わくば体育系に所属していた者をと、訴えたこともあるが、自由気まま・わがまま放題に生活してきた奴は、連繋してものごとに対処しなければならないときには足を引っ張りかねない。東国原知事は芸人活動の中で、「規律」を身につけたのだろうが今回の発言の「本意」は賛同できる。モンスターペアレントやらいじめやら学校教育ではあてにならない現在、心身を鍛え、規律を身につける場は自衛隊か戸塚ヨットスクールぐらいか。学校の運動クラブでも身につくと思うが。*昨夕ジュンとの散歩時、公園の片隅でタバコを吸っている高校生グループを見つけたが注意できない私が情けない。
2007.11.30
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平潟湾にいた鴨は数えたら100羽余り、野島沖では・・・数え切れない。ブログをつまみ食いするだけでなく、メルマガも多く届く。宋 文洲さんや、日経BP、首相官邸・・気に入った、気にかかった言葉・表記はその部分を「メモ」に残しておくのだが、いつしかその出典を忘れてしまう。長文のWEBはフリーウェアがあったので、そのまま保存している。迷惑メールはドメイン指定して即削除。さて、今日の気にかかった一文は「つまり、人は自分が知りたくないことについては情報を遮断してしまうことがある。」「知りたくないこと」はあまりないが、むかつく考えを著した書き物は、以後その著作者のものはあまり読まなくなる。朝日新聞がその一例。人との会話でも、あきれた自論を展開されるとその後は聞き流してしまうようになる。あるいは同席を避ける。「見下した物言いをする人間」も、できれば耳を塞ぎたい。この数年は嫌韓になってしまったが、私のは浅薄なもので、ブログ「月見櫓」を書かれている方のように朝鮮人を深く知っているわけではない。「耳を塞ぐ態度」はおおむね感情が先立ち、理性的ではない。「聞き流す態度」は逆に相手を見下しているのではないか?!心地よい言葉に酔いしれるだけでなく、むかつくコンテンツでもその「訴求しているところ」を見つけるようにして、自分の器を大きくし、「大人」になりたいものだ。 初冬の海岸で鴨のアベック(死語?)
2007.11.16
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私は「教育」については全くの素人だが、「全国学力テスト」の結果発表が「記述・思考は苦手」と一面にでかでかと報道され、随分前から「記述式テスト」は増えているのではと腑に落ちなかった。私自身、ブログをアップロードしてから表現の貧しさやら、書こうと思っていた事柄が抜けていることに気がつき「まあ、いいや」で妥協してしまっている。記憶力低下という老化現象もあるのだろうけれど、とくに調べものをしながら自分の考えを書くという作業は時間がかかる。適切な表現が駆使されたWEBやBLOGに接すると感心して、自分のつたないBLGのアップはあきらめる。しかし若い人たちが「記述・思考は苦手」では、生きて行けないと思う。「他人を理解する優しさ」は勿論大切だが、自分の考えを表現できなければ、差別どころか「無視」されてしまう。とくに社会人になれば、否が応でも海外の人間と接しざるを得ない場面に遭遇する。そんなときに大事なのは「外国語の能力」ではなく、自分自身の知識と考え、そして表現力である。「全国学力テスト」でWEB検索していたら、あいも変わらず「教育統制」だの「全国一斉学力テスト反対」などのページが飛び込んでくる。問題を見間違えるアホの見識であろう。たまに笑いたくて、「電網辻々噺」を見る。そこで見つけた笑い話。すき焼き義弟の小さいころの話。国語のテストでの長文問題。 「今日のご飯はすき焼きでした。でもみんな黙っています。誰もお肉を とりません。お父さんが最初にお肉をとって、黙って僕の皿に入れました。 僕は泣きそうになりました。次にお母さんがお肉をとって黙って僕の皿に 入れました。僕はまた泣きそうになりました。」 問い:この作文を読んで、この家族はどういう家族か答えなさい。 答え:肉のきらいな家族 ばりばり理数系の義弟です。 昔あった新聞のコラム。「雪が解けると何になるでしょう」・・・・・・ 答え: 春このコラムからは考えさせられた。テストは創る方が難しい。もひとつ、ここのテーマには関係ないが「人に注意するとき」のうまいやりかたを見つけた。痴漢友人と電車に乗ってるときにお姉さんの背後でもぞもぞ怪しい動きを しているオッサンを発見した。 お姉さん眉間に皺がよって嫌がってる感じ。 助けなきゃと思って叫んだ。 オレ「あー!こんだけ他人と密着してるとムラムラするな」 友人「いや、別に」 オレ「痴漢でもしたい気分だぁ!」 友人「やめなさい、犯罪ですよ」 オレ「ごめんなさい」 痴漢のほうを見ると女性から離れていた。 周りの乗客もオレから離れていた。
2007.10.26
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「沖縄県民に格別の配慮を」と要請して自決した大田実中将の話は、沖縄に関心のある多くの方が知っていると思う。沖縄と同じく多くの日本人が朝鮮半島、中国、アジアに対して、「負い目」を感じ続けていることは終戦後60年経った今も同様と思っている。事実・真実を掴むことは難しい。「不都合な真実」に背を向けて、今日・明日の生活に没頭するのは人の常。少しゆとりができて、初めてこれでいいのかと回りを見渡す。「事実・真実」を求め続けることに、生きがい・豊かさを見出す人もいるだろう。「人」の歴史の真実を追い求めることに比べれば、物理・化学などの「自然現象の真理」を探究することは、なんとお気楽なことかと感じざるを得ない。さて、「教科書検定見直し」だが、どうも時の政府というものは「歴史」に弱く、過去にも中国・韓国からの抗議にも事実確認を、ほおり投げてへっぴり腰で対応してきている。「政権維持=票の確保」の目論見で右往左往していては、歴史教育の使命である先人の生活・知恵・苦痛・快楽 etc・・の伝達に対して、学ぼうとする者への教育は意味が無くなる。「歴史教育」の最大の犠牲者は、戦前・戦中・焼け跡派であろうと思っている。そして、彼らから「歴史」を教わり、「教条主義」から脱せない素直な方たち。私は歴史は「事実を掘り起こすもの」だと思っている。「沖縄集団自決」に関しては、『鉄の暴風』や大江健三郎氏の「沖縄ノート」が大きな影響を及ぼしていると思うが、その後曽野綾子氏が「沖縄ノート」は現地取材もせず間違った記述が多いと主張し、『ある神話の背景』を著している。さらに産経新聞の記事だけではないが、『渡嘉敷、座間味での集団自決は両島の守備隊長の命令だったとされてきた。しかし遺族年金受給のために「軍命令だった」と関係者が偽っていたことなどが明らかになった。』(記事からcopy)とある。もちろんこの事実だけで、軍命令があったことを完璧に否定することはできない。しかし、「軍命令があったことを」証明するものもない。末端の兵士が追い詰められた中、最善を求め独断で「命令」したことは考えられる。しかし、これを「日本軍の命令」とするのだろうか。また、死の淵に追い詰められても、生き残ろうとする人(軍人)が、他人に「死」を命じる事ができるのだろうか?沖縄戦に先立つ硫黄島では、自決も認められなかったという。教科書では検定前:「日本軍のくばった手榴弾(しゆりゆうだん)で集団自害と殺しあいをさせ・・」検定後:「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺し合いがおこった」と、「日本軍の関与」は決して否定されていない。検定見直しを迫る方々は、軍命令の歴史事実を発掘する必要がある。私は「歴史教育」への非難ではなく、政治的な動機を覚える。それにしても皆、「歴史教科書」を読んでいるのだろうか??9月29日の沖縄県民大会に集結した人数も11万人が実は4万人とも、写真に写る人にマジックで印をつけて数えたら1万人との報道もあった。(今日10/16の産経では、1.8万人とも)せめて、集結した方々は「歴史教科書」に目を通し、さらに歴史を掘り起こして、根拠を示すべきであろう。ゆめゆめ中国のように政権が変わるたびに、「正史」が書き換えられるようでは、国民は愚民になりかねない。昔から歴史大好きな日本人は、その時代には極悪人であっても、後に見つかった資料でその時代を生き抜いた先人たちから、善悪を超えた「生きる」ことを学んでいる。
2007.10.17
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新語が次々に現れ、理解できないことが多くなった。パソコンか電子辞書がなければついていけない。WEB上の辞書でも検索できない単語があったりする。仕方なく、検索で現れたその「単語」を使った記事を読んでニュアンスを掴む。「通信関連」の勉強をしているころは、3文字のアルファベットに略された用語の理解に時間をとられ苦しんだ。まったく判らない段階は、まだ救われる。誤解したり、誤解されてしまうと、とんでもないことになる。昨日のニュースhttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070907i114.htm「気が置けない」と遠慮?慣用句の誤解目立つ…文化庁調査単語より長い「慣用句」や「ことわざ」も誤解が多い。「ことわざ」はその由来を知れば、なるほどと感心して覚えてしまうのだが、「慣用句」は勝手に解釈(誤解)してしまうことはありうる。誤解の究極はコミュニケーションの不成立、論争、堕ちては喧嘩。こちらの「言葉」の概念を正確に定義・把握して「文化度」を高めておかないと、外国人とのコミュニケーションなぞ夢のまた夢。誤解されて、また窮地に追いやられる。http://www.bunka.go.jp/ 文化庁http://www.bunka.go.jp/kokugo/ 国語施策情報システムhttp://zokugo-dict.com/ 日本語俗語辞書よく「最近の若者の言葉(主に新語・流行語)がわからん」という中高年の声や「親父やお袋が面白そうに使ってる言葉(主に死語)の意味がわかんない」という若者の声を耳にします。それらを知らなくても生活に支障をきたすことはないでしょう。しかし、それらを知ることで世代を超えた人との会話にも幅ができ、一歩踏み込んだ交流が世界を広げるはずです。
2007.09.07
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過日のSankeiWEBで【解答乱麻】前全日教連委員長・三好祐司 大切にされている実感を読み、次の文節に感じ入っていた。 「何があってもお父さんやお母さんがいつも自分のそばにいてくれる」といういわば包み込まれているという安心感を持っている子供は自尊感情があり、何をすべきか何をしてはいけないかが十分に理解できるとともに、大人の言うことが心の底にまで届く。「道徳」を受けいれる心が育っているのである。自分は大切にされていると認識し、また逆に大切な人を思いそこで自分を大切にして生きていくこと・努力に責任を持つものだとあらためて思う。大人になっても自分が大切にされている、必要とされている、認められていると感じて張り合いを持ち仕事にボランティアに喜びを見つける。そんな折NHK教育で「スクール・カウンセラー」の番組が放映されることを偶然知り、興味を引かれて視聴した。スクール・カウンセラーが設けられたのは1995年だそうで、当初の目的はいじめや不登校への対処だったとのこと。思いおこせば、その頃ははじけたバブル経済から中々抜け出せなくて企業がリストラを開始した時期。私の勤務先も「カウンセラー」が週1~2日来社するようになった頃と相前後する。相談に行った社員がいたのかどうかは分からなかったが、「合同会議」でカウンセラーの講演があり、初めて数人いたことを知った。私は何事であれ〇〇相談というものには構えてしまって、相談するということに慣れていない。閉じこもってしまう訳ではないがマスターベーションのように勝手に解決-自己満足で終わってしまう。番組では当初の目的のいじめや不登校対策から12年が過ぎ、「親・家族の問題」にまで拡がってきているという。 モノ・金を持つことが「豊かさ」と思い、子供にも同じ考え方で「要求するモノ」を与えて「大切にしているんだ」と誤認し、いつまでも充足されない心持から抜け出せないでいる。出演していた作家・石田衣良氏は「最近の言葉は自分が優位に立つためのツールになっている」と言った。・・・・・ うーん。「いつでも、どこでも、だれとでも」と、コミュニケーション手段が日進月歩で発達しているのに、人は逆に退化してきているように思う。「知識・生活のためのツール」は学校や会社で努力すれば得られるが、「大切にする・される」の心持は日々の他者との生活の中から自然に手にできるものだと思うのだが。たった一人の「大切な人・大切にしてくれる人」さえ得れば、あとはその他の人達とも発展的に大切な互恵感情が育つと思う。(あまい考えか)<タイトルとは関係ない今日の出来事>* 某愛犬家のブログで炎天下の散歩の愚・虐待が指摘されていたので、今日からはまだ涼しい5時半ごろからと、夕刻からの散歩にすることにした。ジュンは散歩時には勢い込んで飛び出すがだんだんスローペースになる。確かに酷である。道端には暑くて地上に出てきたミミズがミイラ・干物状態になっている。また今日1m以上の大きな青大将が散歩コースを塞いでいた。少々ビビリ、ジュンを抱いて反対側の歩道に逃げた。一昨日はノーリード中、「犬が苦手」という方とすれ違って甚だ申し訳ないことをしてしまったが、「動物は苦手」という人の気持ちが分かる日だった。それでも人気のないコースを探しノーリードで散歩したい考えに変わりなし。スミマセン。
2007.08.05
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昭和30年代、私は小学生。学校では「日本は貧しくて、耕地面積も少なく資源もなく、人口密度は高い」と教えられた。世間に関心を持ち始めた頃、池田首相の「所得倍増論」はよく理解できなかったが、父親の給料が倍になるのかと子供ながら興味を抱いた。鉄鋼・自動車業界の再編、大型コンピュータでの連携(日立-富士通、東芝-日電)の頃は、アメリカに追いつけとばかり西ドイツと2位を争っていた。2位になったころは、資源がない国ではあるが「人材」という資源に気づいた時だった。今は、・・・・・・義務・責任は果たさなければならない。権利は主張し求めることができる。4月、5月は固定資産税やら自動車税そして社会保険料・地方税の納付通知書が届く。払えなければ、生活を変えて社会人としての責任は果たさなければならない。報告案の概要によると、課題を抱える子どもだけでなく、保護者への対応で困っている学校を支援するため教育委員会に「学校問題解決支援チーム」(仮称)を新たに設置。チームには警察官OBや弁護士、臨床心理士などが参加し、学校に理不尽な要求をするいわゆる「モンスターペアレント」と呼ばれる親の対応にあたる。教委を「指導」から「共に考え、支援する」立場に転換すると提言している。また、全国的に問題化している給食費の滞納問題について「一部保護者の倫理が問われる問題」と指摘。「親も子育てを通じて成長するもの」とし、「親の学びと家庭教育」の項目を設ける。学校に理不尽な要求する親、教委が対応 再生会議 2007年05月25日 Asahi.comから 給食費やら保育料を滞納する親がいるという。経済的にどうしても払えない親がいるのは事実であろう。しかし、払う余裕があるのに車などのローンで払わず、教育関係者に余計な負担を強いるのは大いに問題がある。「毅然とした態度で臨む」というが、もし相手がやくざのような対応で出てくれば、官民問わず誰でもしり込みして問題を先送りにするであろう。「悪貨は良貨を駆逐する」というが、一人が堕ちれば落伍者は増える。 20歳代の頃は山岳部に所属していた。私はペースメーカーで皆に迷惑をかけていた。 それでもOBや先輩、同僚に助けられ教えられ日本アルプスはほとんど走破した。昨日のニュースで各自治体が、新人教師の募集をめぐって大阪は東京へ、東京は大阪へ駆けまわっている特集があった。(教師へのなり手が減っている?)学校による教育だけでなく、社会人すべてが当たり前の良識を再認識して生活しなければ、教育は成り立たない。ごみの不法投棄、愛犬の糞の不始末、ささいな?不道徳が税金の値上げにつながり、公的義務感のうすい一部のお役人が5000万件もの社会保険データを失う。克服できるはずの「人の心」の些細な貧しさが社会を荒らし、小さな満足感が皆を快適にする。
2007.05.25
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ジュンと散歩していると、「さわってもいいですか?」という親子によく出くわす。後から追いかけてきて、依頼してくる積極的な親子もいる。冥利に尽きる。おかげさまで、子供は苦手だったジュンも最近は慣れてきたようで、先日は女の子に体を摺り寄せていた。動物を飼うことができない環境の人はそれぞれの事情があるのだろうが、俗に言う「生きとし、生けるもの」との付き合いは、いくらでも機会を作ることができる。春には朝顔やへちまの種を蒔いて成長を見守り、夏には朝に咲いた花の数を数える。晩夏には実ったへちまに喜び、ボディースポンジを作る。縁日で金魚やひよこ(最近は見かけないが)を購ってもらい、数日で亡くなってしまう「生」に悲しむ。牛乳瓶に土を入れ、蟻を捕まえて巣を作る様子を楽しむ。野原に出かけて様々な昆虫を捕らえて、虫かごで飼う。ミミズを探して、釣りに出かける。十姉妹やハツカネズミを飼い、仔が生まれて喜び友達に自慢して見せる。飼い犬が仔を生み知人に譲り、淋しさと悲しみとほっとした複雑な感情にふける。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・自然は身近にいくらでもある。本日のメモ【解答乱麻】体験によって気づくもの 抜粋:「環境教育」と大上段に構え、心のあり方や暮らし方を押し付けるのではなく、自分が地球の一部であることに自然と気づくようなさまざまな体験をさせていきたい。(品川女子学院校長・漆紫穂子)【解答乱麻】明星大教授・高橋史朗 少子化対策にも親学を 抜粋:明治31年に埼玉県の幡羅(はたら)高等小学校が保護者に配布した「家庭心得」には「可愛くば二つしかりて三つほめ、五つおしえてよき人にせよ」「教育の道は、家庭の教えで芽を出し学校の教えで花が咲き、世間の教えで、実が成る」(仮名遣いは改めた)と書かれている。
2007.05.17
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「こんなことも知らないのか!」という罵声は、言われたり、言ったり。当然知っているはずだ、と思い込んでいる側は失望感が罵声になる。日常生活に必要な知識を理解吸収することは、それほど難しくない。インターネットが普及している今は、不明なことを調べて知識を得ることは独りでできる。知識は一度知ってしまえばたいしたことはない。まさに「コロンブスの卵」である。しかし、「知恵」は即座には身につかない。多くの知識と経験を基に、相応の努力を要する。おおざっぱに言って、社会人と生徒・学生の違いはここにあるだろう。辞典で「知」を調べてみた。【知】:さとる。わかる。知識を得る。見分ける。弁別する。認める。 覚える。記憶する。【知識】:知ること。認識・理解すること。また、ある事柄などについて、知っている内容。【知恵】:物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。【(智慧)】仏語。相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。「智慧」を会得するのは難しい。しかし宗教家や哲学者だけに任せておくことでもないと思う。特に年季を経た年寄りにとっては、生き様を示すためにも「生涯学習」の理想の努力目標だと思う。さて、今日のサンケイの「正論」には【正論】山野美容芸術短期大学教授・中原英臣 閣僚や官僚は科学の基礎知識をが掲載されていた。抜粋:本当に必要だったのは新しい科学技術に対応できる「バイオ省」「航空宇宙省」「情報通信省」などの創設だったと思われる。 【科学】《science》一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。サイエンス。科学技術は日進月歩で、最前線を理解することは不可能に近い。過去、大学や筑波の産総研を回ったが、事前に研究室を下調べして行くのだが、研究内容が理解からは程遠い。ある研究室でグチをこぼしたら、隣同士でも理解できないと慰められる始末。本当の「知恵者」が求められている。救世主であろう。この項つづく。(続けていきたい)
2007.05.16
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印刷技術は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられる。歴史でグーテンベルクが発明したという活版印刷機が、なぜそれほど評価されるのか腑に落ちないところがあった。日本でも木版とはいえ古くから印刷はあったのに。年取ってから読んだ本で、ようやく納得した。活版印刷機による聖書の大量生産。それまで聖書の情報・知を独占して、大衆を意のままにしていた聖職者・知識階級に楔を打ち込んだということ。良い会社は情報を適切に集め共有し、リーダー(部課長・・・社長)は最適な決断で業績をあげる。悪い会社は情報を独占する者によって低迷にさまよう。尤も秘密/独占しておかなければならない情報もある。それ相応の責任/義務を負う。(秘密を握って優越感に浸る者には次のチャンスはこない、と思う)活版印刷機はいまならPC・通信網にあたる。(と、思う)今は「聖書」が多すぎて、「知」にたどり着くことが中々困難。本や新聞、ネット上から得る知識は所詮借り物。直観力・分析力がはなはだ足りない私は、百家争鳴の異論・反論・オブジェクションのご意見を多々彷徨い、ようやく「納得の地」にたどりつく。
2007.05.08
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黄金四角形(辺の長さの比が黄金比になる四角形)の黄金分割: 黄金四角形から短辺を一辺とする正方形をつくる。中に残る部分はまた黄金四角形となる。これを繰り返すと、この長方形は無限個の正方形で埋め尽くされていく。 by Wikipedia私は数学は得意ではない。私はお金持ちにはなれないと勝手に悟った?のが、二十歳。しかし楽しみ、遊んで暮らしたい。お金のかからない遊びはなんだろう?そんな時、出会ったのがNHKブックの「数学」。(正式な名称は忘れた)数学嫌いでも興味を引く文系的内容だった。数学は紙と鉛筆さえあれば楽しめる。(と、勝手に思った)本には黄金分割の話が紹介されている。中学時代の美術の時間に習った「黄金比」の知識に数学で一歩近づいた。そのときは頭ごなしに、「最も美しい縦横比」としか教わらなかった。しかしこの本では解りやすく、1. 黄金比の長方形を折り曲げて正方形を作る。2. 残った長方形でまた正方形を作る。3. また作る。無限に作ることができる。4. しかも作ったすべての長方形の縦横比は皆同じ。5. 無限の長方形も、その比をもつ黄金長方形はただひとつ。これが、「黄金」のゆえんなのか。 面白いと思った。夜間短大を卒業して、水道橋にある輸入電子部品商社に入社した。夢中で開拓営業したが1年と経たず、そのうちむなしさが・・・もう一度やりなおそう。(生活の糧を稼ぎながら「遊び」を見つけよう)・・・・と。隣駅には数学科を擁する(夜間部)大学があった。一夜漬けの受験勉強で運よく合格した。同時期、幸か不幸か転職先にも合格してしまった。転職先は豊かで、おおらかに通学費まで援助してくれた。が、半年ほど通うことができたが、仕事は「営業技術」で超多忙。計測器の勉強をしなければ仕事にならない。数学への情熱(ではなく「遊び」)はいったん停止。次第に仕事のほうにのめり込んでしまった。(大学は退学)根性なしで打算的な私であった。(現在進行形だ!)怠惰な私は今、黄金分割比のテレビ画面を見ている。中学で中途半端に黄金分割を教えてくださった美術教諭は、「自分でさらに調べるということ」を教えてくれたのかしら?もっと積極的に疑問を追及してくればよかった。「さまざまな疑問を調べること」をこれからの「遊び」にしよ。
2007.05.05
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昨日、朝日の社説をけなしていて「朝日式討論」を思い出した。これまた、中学生のころの経験である。(年取った*)(*欄には絵文字を入れるのであろうが、私は入れない。年だから)当時は「学級会」という時間が週1時間組み込まれていた。担任はオブザーバに徹し、クラス内で様々のことを議論する時間である。あるとき、教師なりたてほやほやの担任が「今日は朝日式討論」でやってみようと、半ば強制的に提案してきた。朝日式討論とは、本人の意思如何に関わらず強引にクラスを賛成派、反対派に分けテーマを討論するものである。(そのときの担任の説明)私は意に反した逆の立場での意見を言う側になった。矛盾する気持ちの中で、反対意見を抑えて賛成理由を考えなければならない。しかし、認識が立体的、鮮明になってくる。この経験は「思いやり」の姿勢を、さらに深めさせてくれたと思う。幸運な経験だったし、若い先生に感謝している。普段はサンケイWEBでリンクしている各紙の「社説」しか目を通さないが、あらためて朝日WEBを見てみた。一挙に21の社説を掲載したという。(5/3付)提言 日本の新戦略―地球貢献国家を目指そう 新戦略を求めて右系ブログでは朝鮮日日新聞と揶揄されている朝日新聞だが、じっくり読ませていただく。この朝日社説との出会いも幸運と考えている。
2007.05.03
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「ものつくり」とはどういうことなのか、皮相的には形のある目に見えるものを作ること。形の無いもの、典型的な例はソフトウェア。これに対して目に見えるものはハードウェア。目に見えるハードウェアの底には、ものつくりのノウハウというソフトウェアが潜んでいる。園芸が好きで、ある本で「水はけがよく、水もちのいい土を造ることが肝要」という説明を読んだとき、何??と表記の矛盾が先立ち、なかなか理解できなかった。3年くらいしてからようやく分かった。植物の根も呼吸するため、空気が適度に土中に循環しなければ成長がかんばしくないということ。また、欲張って苗を密に植えると成長が阻害される。植物には風と太陽と水が大切なことを知った。農業の基本だろうと思う。工業:電子計測器の販売に30年近く携わってきた。開発部に配属された後輩が名言を吐いた。優秀な開発エンジニアの技量とは、使用する電子部品の性能を最大限引き出すこと。商業:江戸時代から続く老舗の百貨店に、同じ販売業でもスーパーはかなわない。素人には分からない仕入れ、ものに対する目利きのノウハウを持っているのだろう。古代中国の絹や、陶磁器の製法。有田焼きの柿右衛門の赤など、・・・多くの門外不出とされるノウハウが「もの」の裏にある。有用なノウハウは次第に広まる、盗まれる。しかし、ノウハウは言葉や図だけでは伝えきれない要素が多分にある。団塊世代(私もその尻尾にかまえているが)リタイヤ元年。自分が社会で得てきたノウハウを後輩一人にでも伝えることができただろうか?皮相的な「もの」や「情報-ノウハウ」があふれている。欠けているのはそれに対する「感動、喜び」。営業支援で、ある大学をまわったとき電気実習室に入った。測定器なんぞは一切無い。あるのはパソコンだけ。シミュレーション実験で済ませている。バーチャル体験というやつである。別の研究室に飛び込んだ。助教授は学生に単純な半導体(ダイオード)を作らせ、自らが作ったそれの特性を測定させレポートを提出させたい・・・許可を得て座り込んで話し込んだ。実体験での感動が興味をさらに発展させる筈と、助教授の指導法にこちらが感動したから。老いに入りつつある今、自慢話でなく饒舌でもなく淡々と感動した経験を伝え、さらに新たな感動の機会が得られていけたらと、欲の深いことを考える。
2007.05.01
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昭和30年代半ば、私は小学5年。教科書は「歴史」ではなく「社会」だった。明治維新、日清、日露、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦での敗戦。なぜ愚かな太平洋戦争をおこしたのか、経緯からはアジアの植民地解放戦争をすれば良かったのに・・・と独り思ったのだから、このとき教育を受けたのは確かなことである。数年後、中学を出て就職した兄の蒐集切手を引き継ぎ、小遣いを投資(消費)した。切手カタログを買い、眺めてはため息の毎日。その中で「大東亜戦争」切手があることを知る。 なんなんだこの戦争は?習っていない。が、なぜか先生に聞くことはしなかった。その後、大東亜共栄圏構想があり、太平洋戦争=大東亜戦争であり、「大東亜」という言葉が禁句に近いことを直感的に感じた。いつしか、関心も失せ、高校は当時では珍しい電子工学科に進んだ。社会人=会社人となり、歴史への興味は小説に移る。年金生活へはまだまだ道のりが遠いが、厄介な近代の歴史を学んでいこうと思う。
2007.04.24
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ブログをアップしたあと、こう表現しておけば良かったと力不足を日々感じる。タグで類似テーマのブログを読ませていただき、肩の力を抜いた面白い表現や論理的に鋭い考え方に接すると思わず「お気に入り」に登録しておきたくなる。グダグダ書き連ねたものは自分のものでも読み直すのが厭になる。日本のマンガ文化が世界に受け入れられているそうな。兄が購読していた雑誌「少年」の付録だった「鉄腕アトム」は、文字が読めない幼いころから読んでいた。漫画なぞ読まずに、本を読みなさい!とはよく言われたものだが、友人と交換して読むために学校に持っていくと担任に取り上げられた。漫画・絵は文字以上に個性表現が可能だ。(と、思う)しかし、文章と同じく自分で気に入る表現に至るまでは相当な努力がいる。文章表現の巧みさだけでは生活はできない。口語表現の的確さがそれ以上に大切だ。日本では口がうますぎると逆に誤解されてしまうこともある。私自身、口が武器である筈の営業関連職をよくも30年近く勤まったものだと思うが、日本だったからと思う。ただ、営業は顧客との約束を忠実に果たし、信用・信頼を確立する業務である点、多弁は不要。要点を的確に掴み、迅速・確実に報告・連絡・相談・実行すれば次の仕事が舞い込む。話がそれてしまった。理解していただく表現力を養うには、テーマ・人の背景にある国内・海外の社会・慣習を理解しておかなければならない。こちらから理解するためには、同じくそのバックグラウンドを知る必要がある。「継続は力なり」という。飽きっぽい自分だが、与えられたブログ容量を超えるまで書き続けていこうと思う。
2007.04.19
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「生涯学習」という言葉を散見するが、要するに年寄り向けの用語で、老いに入りつつある私にとっては響きの良い語感ではない。口の悪い中年おばさんからは「フン、ボケ防止のことね。」の言葉が聞こえてきそうだ。「教育」という言葉は教える側の言葉で強制感がその底にある。「学ぶ」という言葉は自発的で自由意志を感じる。教育で最も大切なことは自発的に「学ぶ」ことを身につけることであろう。幼稚園に行く前は親に本を読んでもらうことをねだった。幼稚園に通うようになってからは、毎日クレヨンで絵を描いて過ごした。小学校では文字を覚え始めた。算数で足し算、引き算を覚えた。中学では理科がおもしろかった。高校は社会人として生活していくため、電子工学科に進んだ。E=mc↑2 の根本が理解できなく、夜間大学に進んだ。勉強はあまりしなくなった。体力作りのため山岳部で嫌々山登り。新たな生涯の親友ができた。社会人になった。製品を勉強した。知らなければ顧客と打合せはできない。社会も学んだ。「社会」を教えてくれる人はいない。が、多くの人との出会いの中でごく自然に教育を受けた。製品の基礎・アプリケーションを顧客、後輩に教育した。今思うことは積極的に社会・人を学んだ人たちが豊かさを享受しているということ。私は生涯学習である。
2007.04.12
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