ネズミきょろきょろ

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 最近水の魅力を感じることができるようになりました。透明で一見何もない存在ですが、見入ったら知らず知らず吸い込まれそうになります。本当に不思議ですね。いったいその魅力の正体は何でしょう。当たり前に見える自然の中で、ちょっと感じてみようとしたら、いっぱい奥深い発見が私たちを待っていますね。(2005.10.24)

 この間二年ぶりに故郷に戻り、吹かれると身が思わず縮んでしまう朝夕のひんやりとした風を久々に実感した。故郷は何もかも昔のまま:澄み渡った青空、永夜眠らぬ群星・・・家が引っ越したが、住んでいる人と家具は変わっていなくて、私はまるで十何年も前に戻ったような気持ちだった。学生時代に書いた物を探し出して、歴史に名が残るような大詩人になれると思った自分に出会った。歳月は一定の速さで、一瞬も止まらず前に前に進んでいくが、どうも時間の流れを渡っている人間の歩調はよく乱れる物のようだ。家をあんなに窮屈に思って離れようとした私は、今ひたすら戻ろうとしている。年老いた親を心配しているか、漂い流れている自分は当て所を見失ってしまったか、それとも両方ともあるか、答えはともあれ、私は段々淡々としてきた。
 自分の過去の作品から、気に入ったものを選んで「フリーページ」に載せてみた。どなたの寵愛を頂こうとは全然思ったことがなく、どなたに共感を覚えて貰えたら幸いだ。もし御覧になって、何かに心を打たれたとしたら、その感を「掲示板」に書いて頂きたい。自然の美しさとその中で生きている謙虚な私達を一緒に歌ってみよう。(2005.10.30)

 楽しみにしていたわけでもないが、今日は私の誕生日だ。記憶を辿ってもわいわい騒ぎながら誕生日を祝った情景が浮かんでこない。まず自分ははしゃいだりする性格の持ち主ではない。私語をする時だけ声は大きめだが、いざ大勢の前で発言することとなると声が上がらない。もう一つは誕生日を意識したことがない。小さい頃11月24日を誕生日としていたが、いつの間にか23日が誕生日だと親に言われた。「何故23日に変わったの?」と親に確認しても曖昧な返答しかもらえなかった。「あなたの誕生日は母が苦労した日だから、まず母に礼を言ってね」誕生日を母に報告する度にこのように言われる。今日も例外ではなかった。家族皆で誰かの誕生日を祝った覚えもない。兄と双子なので、当然誕生日も同じだが、面倒くさがり屋の兄弟は誕生日を気に掛けるつもり等微塵もない。親は常に仕事や家計で忙しいようで子供と楽しく時間を潰すのが苦手だ。唯一の例外は三つ上の姉である:「後一ヶ月はあたしの誕生日だよ」と皆に報告しながら執着心をアピールする。残念ながら姉の誕生日が何月の何日なのか弟の私は未だにはっきりしていない。だがその日だとわかったらきっと贅沢にプレゼントをする。姉は弟をこの上なく可愛がっていて、掛替えのない家族の一員である。
 今年の誕生日も何も変わりはないだろうと思いながら横浜の本屋さんに出掛けた。様々な本に囲まれるのは至福である。本をそっと手にとって活字を読んだら、まるで温泉に体を浸かっているように気持ち良い。最後にネズミの絵がいっぱい書いてある絵本を読んでほのぼのとした気持ちで本屋を出た。2、3年前に行き付けの古本屋を思い出した。年代物の一階建ての中に所狭しと並んでいる本の山の中で、本を読みながら何気無く接客する年中厚着姿のお婆さんのことが限りなく羨ましくなった。帰宅の途中、郵便局で遥々京都から送ってきた青いリボンが巻かれた紙箱を受け取った。急ぎ足で家に帰って中身を見たら、丈夫な紙箱の中に細い紙が沢山あって、その上に丁寧に並べられているのは可愛いお菓子だ。早速口にしてみたら、ほんのりとしたワインの香が口いっぱいに広がり、酒に無縁の私は酔いそうになった。小さい封筒からカードを取り出して赤い文字で書かれた祝言を朗読した。声息のない落葉みたいな私を思ってくれる人がいて、言葉では言い表せない感動が胸から湧き上がってきた。
(2005.11.23)

 日本のお正月は物静かだ。爆竹の歓声が少しも耳に飛び込んでこない。本当に昔中国から多大な文化の影響を受けたかを疑ってしまう。中国の旧正月はまるで爆竹の祭典のようだ。各家庭は大晦日の夕飯を始めようとする夕方と年が明けた夜中に、外に出て互いに競い合うように爆竹を鳴らしたり、花火を打ち上げたりする。その音響はもう想像を超える程の賑やかさである。おめでたい日に家族や近所の人々と楽しいことをしているから、誰一人も騒音だとは思わない。だが赤ちゃんには少々きつい。七年くらい前の三歳の姪っ子が大晦日の爆竹を聞いて泣いてしまった顔を思い出すと笑ってしまう。その時すぐ姪っ子を抱っこして音源より少し離れた部屋に行ったが、家族皆姪っ子を見て笑っていた。姪っ子は普段気分が悪くなると泣いてしまう。それは殆どうそ泣きで口を大きく開いてわんわんと声を上げるが、涙が一粒も見えない。でも爆竹で怖くなった姪っ子の丸々とした顔に涙がぼろぼろ止まらなくなった。その時、私は後何年か経てばこの子も手を震わせながら爆竹の導火線にお香で火をつけることができるだろうと思っていた。
 月日が重なり、また大晦日になったが、私は一人で静かな部屋の中でこの文章を綴っている。テレビと電気を消して頭の中を飛び交う思いを辿ってみようとしている。大晦日という特別な日を活字で残したい。小さい頃、お祖父さんの家で親戚一同お正月を祝っていた。その時人数が多くて私たち子供は大人達と別の食卓を囲んで普段食べれない美味しい物を頬張っていた。その何年後、お正月を祝うのは親と兄弟だけになってしまった。更にその後、この時、とうとうお正月を過ごすのは私一人になった。人間には生きる力が増して行くと共に、周りの人が減っていくみたい。
 この一年を振返ってみたら、順調そのものだった。進学やら就職やらまるで神の手が手配してくれたように何の挫折もなかった。無能な私はそれ程運命にちやほやされてラッキーとしか言いようがない。でもよく考えてみたら運命ではなくて回りの人々の優しさと思いやりの御陰だった。自分が誰かに頼りたいとは思っていないが、一人では生きていくのは至難だとわかっている。それに、お互いに支え合うだけではなく、人の為に何かをしたら心が強くなる。そして今、除夜の鐘の音が消えていく中、私の眼前に浮かんでいるのは家族皆で楽しく話しながらギョウザを作った後、外で両手で耳を塞いで飛び交った爆竹を避けながら凄い凄いと父に向かって叫び、ベランダではしゃいでいる私たちを微笑んで見ている母の姿だ。ごめんね、おめでたいお正月なのに、感傷的になってしまった。「あなたは男だよ、泣きべそをかかないで!」と自分に言い聞かせても・・・
(2005.12.31)

 手術後ちょうど半年経った父は、奇跡的に来日した。17日夕方に普段より早く会社を後にして急いで家に帰ったら、面窶れしている父を見た途端、まだ完全に回復していないことを悟った。そんな体力に頼りのない父は海を渡って私達兄弟の顔を見に来た。今回こそ父に滞在期間を一抹の悔いも残らないように楽しく過ごしてもらいたいと私は心の中で自分に言い聞かせた。普段値段が高くて買えない食べ物を買ったり、一緒に近所に出かけて散歩したりしてあげた。父はしょっちゅう和食の味が薄くて美味しくないと文句を零していたが、体調に優しいからコック役の私はずっと和食を作ってあげた。美味しく作れなかったかもしれないが、帰るまで父の体調はずっと芳しかった。それは私にとって父の体調を心配している母に自慢できる偉業だった。
 会社を休んでずっと父の側に居てあげた。早起き早寝の父も楽しそうでここ一週間殆ど毎晩私と四方山話をしていくうちに眠りについた。話の内容は様々で、故郷の野菜の値段から哲学まで森羅万象だった。父は話すのが好きで、外をぶらぶらしている時でも良く私達兄弟に弾んだ声で感想を話したりした。周りに静かな日本人ばかりいたので、正直ちょっと恥ずかしかった。でも元気そうな父を見て嬉しかった。ずっと日本語を使っていなかったせいか、どうも久々の日本に慣れるには時間が要るようだ。近所のスーパーで買い物をしてレジでお金を払った時、父はちゃんと暗算を使ってお釣りが出ないように小銭を足して代金をレジに渡しながら、なんと得意そうに中国語で「這回対了巴」(これで良いでしょ)とレジに声を掛けてしまった。当然レジの人は何を言われたのかピント来なくて一瞬凍った。家に帰って兄弟でそれを笑い種にしたら、父は「あのレジスターは良くないよ。折角声を掛けたのに私の言葉をわかってくれなかった」と恥ずかしそうに弁解した。それに会ってもらいたい人にも会わせた。初対面の時何を話せば良いか双方とも迷っていたが、二回目からもう和やかにお互いに話をかけることができるようになった。
 普段生活費を節約している私は、ここ数日然程値段を気にせずに栄養があり且つ体に優しい物ばかり買っていた。息子としてすべき事をしていただけだったが、帰りの日に、空港に向かう新幹線に座った父は突然「電話機の下に五万円を置いといたから」と言い出した。私は何一つ言葉を発せなかった。父は息子に愛情を示さないことを許さなかった。自分自身が弱っていても、息子に辛い思いをして貰いたくなかった。人間が一体何の為に生きているのかずっとわからなかったが、今日その答えが少し見えたような気がした。人生なんて、この世なんて、たかが神様か誰かが何気なく見ている夢に過ぎないが、私達の生命は全て愛の為だ。その故に私達はこんなに脆くもなれれば、こんなに強くもなれる。その故にこの清清しい朝に咲き始めた桜を見ると楽しめるはずなのに、そろそろ散ってしまうんだねと感傷に溺れてしまった。
(2006.3.27)

 4、5年前の大学生の時、府川先生は授業中にある絵本を学生達に読んでくれた。それまでざわざわした教室は、絵本の話しが進んでいくと共に静かになった。私はそのストーリーに感動したが、先生に絵本を借りる勇気を出せないまま卒業してしまった。それから何年間もその絵本が気になっていて、プレゼントしてくれる人を待っていた。やっとそれが欲しいと言ってねだれる日がやってきた。開店早々の本屋に二人で入って、誕生日プレゼントに買ってもらった。人に物をねだった記憶がない。家計に余裕のない環境で育ったものだから、小さい頃親は街に連れて行ってくれた時に何を食べたいと聞かれても、甘そうなクッキーやケーキを見ながらないよと答えたくらいの私だった。だが今日の絵本は違う。これからずっと大切にしていきたいから。家に戻り、いつものようにまずコーヒーを入れて、さっそく絵本を丁寧に開き、ミッキーに読んであげた。「百万回生きた猫」だ。涙ぐんだ目を隠しながら読んでいたら、途中からミッキーは涙をぬぐい始めた。「本当に10分もしない内に泣かせるね」とミッキーは二回も言った。絵がとても可愛いとも言えなく、涙を誘われるような言葉遣いでもない短い作品だが、何故かすぐに人を虜にする魔性の作品だ。前半の猫の冷たさと後半の猫の暖かさの差があまりにも大きいからではないかな。鮮烈な対比法が生んだ効果だ。何のために生き、何のために死ぬのか考えもしない漠然としていた猫の前に、突然心を揺さぶられるものが現れた。気位高い猫は最初戸惑ったが、すぐに素直にそれまでの自分を見直した。喜びと悲しみをいっぱい味わい、百万回も生きた歳月より充実な一生を終え、やっとみつけた自分の居所へ向かった。
 今日はまた誕生日になった。普段と同じく24時間しかない日だと思ったら、やはり違った気がした。先日母の夢を見ていた。朝目覚めて、きっと母が私のことを心配しているでしょうと思っていた。子供の誕生日は本当にお母さんの受難の日だなあと何故かここ数日突然閃いた。自分がまた少し成長したなとこっそり喜んでいた。自分が少しずつ成長したのを感じたのは嬉しいことだ。そんなすばらしい感じは何年に一回くらいしかないからだ。それを感じたら過ぎた時間を悔やんだりしないで済む。そもそも男の人は30歳を超えると、歳がどうでも良くなり、時々一人で居る時間が欲しくなる。静まり返った部屋に居て、流れていく時間と触れ合うのも夢心地になる。まるで子供の頃大好きなバナナを貰った時のようだ。丁寧に金色の皮を剥き、一口ずつ小さく噛み、口の中全体に香が行き渡っていく。たまに一人で居る時間をもそのように存分に味わいたくなる。時間はそよ風みたいに、どこからともなく現れ、気づいたらもうどこへともなく消え去っていった。どんなに未練があっても決して足を止めない。無情なのか、やむを得ないか、人それぞれの解釈は違うだろう。時間と仲良くしたほうが得だ。そのために時間を大切にしてあげないと容赦なく捨てられる。どうやって時間のご機嫌をとれば良いかというと、答えは簡単だ。時間は常に人のことを考えている。「私と仲良くなりたければ、自分を大事にし、自分に正直になりなさい。そうしたらあなたはいつまでも私の笑顔が見れる。」と時間は言っていた。
(2006.11.23)

 兄は私より二年先に来日した。単身で渡航した兄は天涯孤独のはずだったが、たくさんの親切な人達に恵まれ、兄は元々しっかりした性格なので日本での生活の基盤を作り、無事に私を日本に迎えることができた。特に最初住む所さえない兄を温かく迎えてくれた家族は、家主が父の友人とは言え、家父と面識すらなく、手紙のやり取りだけの仲だった。それでも兄を温かく迎え、孫のように面倒を見てくれた。私達兄弟には今の日本人の文句を言う資格がない。私も日本に居る間、時々中国と日本の因縁深い歴史問題に心に波紋をもたらされたりするが、平常心を失ったことがない。実際周りに政治思想より人間性を重視する人が殆どである。歴史を忘れるべきではないが、それを人間と人間との間の壁にしてはいけない。

 私は日本に来ることが決まった時、「よ~し、苦労して自分の手で道を開いていくど~」と勢い込んで苦労を恐れない覚悟を決めた。日本に行き、生活費と学費を自力で稼いで兄みたいに立派な大学生になるのが夢だった。勿論、それは働きづめな生活を意味する。恐らく殆どの日本人は、途上国の若者が日本に来れるのが有り難くて家族全員で喜んでいただろうと思っているかもしれない。母国より進んでいる海外に行って、人生の道が広く開かれるに違いないが、家族と離れ離れになり、一人で未知の道を歩んでいくことは必ずしも幸せとは言えない。一人の人間として、得るものより失った物のほうがずっと重い。それに、失ったものはもう二度と戻って来ない。人間の一生は、得る物と失う物を比較しながら終点へと向かっているようだ。それまで生活の苦労を全く知らなかった私には、自力できっと夢を実現できると甘く考えていた。決して体力に長けていない細身の私は、自信だけが人より大きかった。体力労働とは何物かも知らなかった。実際日本に来ると、生活するのがやっとで自分の手だけで道を開いていくどころか、いろいろ人の助けに頼らないと、一人では何もできないことがわかった。人生は一人で生きていくものではない。

 兄はずっと私を支えてきた。私の最初のアルバイト先はコンビニだった。先輩として結構店のオーナーさんに好かれた兄はどうしても私に深夜番をやらせなかった。長らく深夜番を経験してきた兄は、その大変さをしみじみ知っていたからだった。だが深夜番の時給はずっと高かったので、兄は文句一言も言わずに一人でこなしてきた。親のお金に頼らない私達兄弟にとって、その分の収入が必要だった。兄は親に心配させないように、「深夜番のことを親に言うんじゃないよ」と、何度も私に警告した。兄の大学での成績がどうだったかはっきり覚えていないが、そう芳しくはなかったようだ。だが小さい頃から数学が大得意な兄は決して勉強が苦手なわけではなく、勉強する時間が足りなかったからだった。しっかりした性格と真面目さを買われたか、兄は大学の四年間ずっと奨学金を貰えていた。どうも日本人は人を評価する時に、その人の実績も見るが、勤勉さと態度をもっと重視するようだ。日本には子は親の背中を見て育つと言う言い方があるが、来日後の私は兄の背中を見て少しずつ大人になったと言っても過言ではない。四年間の大学時代は束の間のように終わり、兄は今度就職活動を始めた。就職活動はそれまでの努力と時の運次第みたいに今度もまた、親切な人達に応援をしてもらい、兄は晴れて社会人として新生活のスタートを切った。

 私から見ると、兄は頼りがいのある、強い存在だった。勉強も仕事も出来て、弟の面倒までしっかり見ていた。そう言う兄を、親も自慢に思っているに違いない。親はいつも私に兄の手を焼かないよう注意したりして、「お兄ちゃんが居なかったら、国立大学を卒業して上場企業で楽をしている今の君が有り得ないよ」と時々私に言っている。また、親が私達兄弟を見る時の目も違う。私を見ている時の母の目の中は、慈愛に満ちているように感じるが、兄を見ている時の母の目の中は、慈愛だけでなく、一種の満足感も見取れる。もしかしたら、親が兄の今までの人生を誇りに思っているのではないかと私はずっとそう思っていた。親は子供を育てて、先進国である日本へ送り、息子もその期待に応えて立派な人材になってくれた。親として子育てに悔いを感じていないだろう。

 この間私は日本から帰省して、毎日腕を振るって皆の口に合わない、美味しくない料理を無理やり作っていた日々の中、母はある日眉を顰め、どうしようもない口調で私に予想もしなかった愚痴を零した「私は一番後悔しているのは、体が丈夫じゃなかったお兄ちゃんを一人で日本に行かせたことだ。お兄ちゃんは一人ぼっちで可愛そうで、どれほど苦労をしていたんだろう。」

 やはり親心は深い。世の中の親はどんなに一生懸命に我が子を育てていたとしても、心の中では悔いしか残らないようだ。もしそのような事をしなかったら、我が子はきっともっと楽にしていただろうといつまでも自責してしまう。子供を育てて、自分の老後の世話をしてもらわずに巣立たせる世の中の親は偉大である。たとえ子供はその親心を理解していると思っていても、結局長い年月をかけてわかったのはほんの少しだけであろう。(2008/08/17)


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