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第 28 回 常不軽菩薩品第二十 ㊦
■不軽の意味
不軽菩薩の名前にある「不軽」については、いろいろな解釈があります。
鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」では、〝常に人を軽んじなかった〟という意味です。しかし、サンスクリットでは、〝常に人から軽んじられた〟という反語の意味になっています。
池田先生は、「常不軽菩薩が、いつもバカにされていたという表面に着目すれば、たしかに『常に軽んじられた』菩薩になるでしょう。しかし一歩深く、その行動の本質、魂に着目すれば、『常に軽んじなかった』という訳は正しいのではないだろうか」と語っています。不軽菩薩は、どんなに人から軽んじられたとしても、〝自分は人を軽んじない〟という生き方を貫いたのです。
「御義口伝」には、「自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向かって礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(御書 769 ㌻)とあります。
相手の成仏の可能性を信じることは、自分の成仏の可能性を信じることと一体です。不軽の実践は、自他ともに仏性に目覚める修行なのです。
■二十四字の法華経
不軽菩薩の弘めた法華経は、「二十四文字の法華経」といわれています。
「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏」(法華経 557 ㌻)の 24 字のことです。
「御義口伝」には、「此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり」(御書 764 ㌻)とあるように、 24 字は、法華経の心が凝縮された「略法華経」に当たります。
それが、「私は深く、あなた方を敬います。決して、軽んじたり、あなどったりしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです」との万人尊敬の精神です。
■其罪畢已
「其罪畢已」は、「其の罪は畢え已わって」(法華経 564 ㌻)と読み、不軽菩薩が礼拝行を貫いて得た宿命転換の功徳を表した言葉です。
日蓮大聖人は、「不軽菩薩の悪口罵詈さられ杖木瓦石をかほるゆえなきにあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説かれて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへてはんべり」(御書 1000 ㌻)と仰せです。
不軽菩薩が上慢の四衆から迫害を受けたのも、過去の法華経誹謗の故であり、それに耐えて法華経を弘めたことによって、過去の重罪を消滅することができたのです。
池田先生は、「法華経を説いて、どんなに反対され、迫害されても、『これで自分の罪業を消しているのだ』と喜んで受けきっていきなさいということです。『嘆いてはならない』と教えてくださっているのです」と語っています。いかなる苦難があっても、常に朗らかに広布に励んでいくことを教えられているのです。
■豈異人ならんや
釈尊は、礼拝行を貫き法華経を弘めた不軽菩薩について、「豈異人ならんや。則ち我が身是れなり」(法華経 561 ㌻)と、実は釈尊自身の過去世の修行の姿であったと明かしました。釈尊の成仏の因が、不軽菩薩の礼拝行にあったのです。
大聖人は、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候へるぞ」(御書 1174 ㌻)と仰せです。自他供に成仏へと導く、人を敬う振る舞いを示すことこそ、釈尊がこの世に生まれた一番重要な目的であると教えられています。
さらに大聖人は、「法華経は三世にわたる説法の儀式であり、過去の不軽品に出てくる迫害された不軽菩薩は、今、勧持品で説かれる三類の強敵を呼び起こした私である。今、勧持品を身で読んでいることは、未来にあっては不軽菩薩の戦いとなるのである」(同 953 ㌻、趣意)との御確信を述べられています。
私たちにとって大切なことは、不軽の実践を過去の出来事として捉えるのではなく、自分自身のこととして不軽の修行を貫くことなのです。
■創価学会仏
池田先生は、威音王仏について、次のようにつづっています。
「戸田先生は明言されました。
『〈創価学会仏〉——未来の経典には、こう学会の名が記されるのだよ』
私の胸は高鳴りました。
それは、法華経不軽品に説かれる威音王仏に即して厳然たる大確信です。
——最初の威音王仏は、衆生を教化し、入滅した。次に現れた仏もまた、威音王仏と名乗り、民衆を救済した。一代限りで終わることなく、次の代、さらに次の代と現れた。
そして、二万憶もの仏が、みな同じ『威音王仏』という名前で、長遠なる歳月、民衆を救済してきた——と。
戸田先生は、『次第に二万憶の仏有し、皆同一の号なり』(法華経 556 ㌻)と描かれている無数の仏とは、〝永遠に民衆を救い続ける、威音王仏の名を冠した『和合僧団』であり、『組織』のことといえまいか〟と、鋭く洞察されたのです。
まさしく『創価学会仏』とは、初代会長・牧口常三郎先生、第二代会長・戸田城聖先生という師弟に連なり、広宣流布の大誓願に生き抜く地涌の菩薩の集いにほかなりません』
怒涛の社会の中へ
「法華経の智慧」から
最も苦しんでいる民衆の中に分け入って、人々の苦しさ、悲しさに同苦し、救っていく。それが「仏」です。
しかも、民衆を救わんと戦うゆえに、傲慢な権力者からは弾圧され、僧侶をはじめ悪い指導者に迫害され、当の民衆から憎まれる。「悪口罵詈」であり、「杖木瓦礫」です。
その大難のなかにこそ、「仏」はいらっしゃるのです。どこか安穏な別世界で、覚りすましているのが「仏」ではない。怒涛の社会の中へ、先頭を切って進むのが、「仏」なのです。
◆
今です。この今、広宣流布へ{戦おう!」という『一念』のなかにのみ妙法蓮華経は生きている。
「豈異人ならんや」。大聖人は「不軽菩薩がじつは釈尊であった。今、大難にあっている私もじつは釈尊なのだ。仏なのだ」と教えてくださっているのです。それが分らないと、法華経を学んだことにはならないよ、と。
(普及版〈下〉「常不軽菩薩品」)
非暴力
不軽菩薩は、大勢力を誇った増上慢の人々に、杖木瓦石という暴力をもって迫害されました。それに対し、不軽菩薩は、礼拝行という精神の力で立ち向かったのです。
暴力性はどこからくるのか。日蓮大聖人は、「第六天の魔王の所為なり」(御書 765 ㌻)と、不軽菩薩の迫害は、第六天の魔王の振る舞いとされています。自他供の仏性を信じられないことから暴力は生まれるのです。だからこそ不軽菩薩は、相手の眠れる仏性を信じて、それを目覚めささるための仏縁を結び続けたのです。
ここに暴力が暴力を生んでしまう負の連鎖を断ち切る智慧があるのではないでしょうか。無関心の相手や、敵意を示すような相手でも、誠実な振る舞いによって、必ず仏性を触発していくことができるのです。
私たちも、あらゆる人に仏縁を広げ、人類の仏性を揺さぶり、覚ます立正安国の対話に邁進していきましょう。
LotusLounge 】聖教新聞 2021.8.15
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