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末法思想と鎌倉新仏教
第 1 回では、日蓮の生涯を概観したいと思います。その六十一年の生涯を眺めながら、日蓮の『法華経』への思いと、くじけぬ魂が分かる手紙を紹介しましょう。
日蓮が生きた鎌倉時代初期は、仏教史で言うと末法の世に入っているとされていました。末法とは、釈尊(お釈迦さま)が亡くなってしばらくは「正しい教え」(正法)が行われるが、次第に「似て非なる教え」(像法)に取って代わられ、最終的には正法が見失われ、いかに修行しても覚りに至ることができなくなる、という考え方です。
いつから末法の世に入ったかについては諸説ありますが、日本では平安時代の後期の永承七年(一〇五二)からだとされました。そして、それを裏付けるかのように、世の中が乱れ始めました。武家が台頭して源平合戦が起こり、貴族社会は衰退し、鎌倉に新しい政権ができました。これだけでも天地がっくり変えるような変化なのに、追い打ちをかけるように天災、疫病、飢饉が続き、多くの命が失われました。まさに末法の世の中がやってきた――と、人々は恐れおののいたのです。
そのような時代の中から、次々に新しい宗教者が登場しました。法然、その弟子の親鸞、一遍、栄西、道元、そして、日蓮などです。
みなさんは、仏教はそもそも人を救うためにあるとお思いでしょうが、当時の仏教はそうではありませんでした。日本の仏教は聖徳太子のころ(五三八年)に朝鮮半島を経由して中国から伝来して以降、ずっと鎮護国家のためのものでした。すなわち、国家を収めるため、もっと露骨に言うと権力者を護るためのもので、そこに民を救うという視点はほとんどありませんでした。その傾向は時を下るにつれて強くなり、平安時代後期には、特権階級の要請に応じて加持祈禱をするだけの存在になっていました。このような状況を憂え、革新の意欲を持った宗教者が相次いで現れたのです。
新仏教の祖師たちは、末法という状況に対して、みなそれぞれの考えに従って教えを説きました。法然や親鸞は「浄土三部経」に従い、穢れた世を厭い離れて、死後に極楽浄土を求めることを説きました。道元は、正法・像法・末法を立てることは方便だとして、末法ということには超然として、ひたぶるに坐禅を組むことを唱えました。そして日蓮は、末法のいまこそ仏教の原点に立ち返り、『法華経』を根本として「正しい教え」が興隆すべきだと主張しました。
日蓮はこの新仏教の流れの最後に生まれたことで、日蓮は少なからぬ試練に直面することになりました。
というのも、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば誰でも極楽に往生できると説いた法然らの浄土教(念仏宗)は、そのとりつき易さから瞬く間に庶民の心をつかみ、禅宗はその自己鍛錬の態度が武家の精神と親和し、鎌倉幕府から絶大な支持を得ました。また、旧仏教の系統ながら、社会活動、慈善事業を盛んに行い、政権の首脳と強く結びついた真言律宗という一派もありました。
ほんの数十年の違いながら、これら先行の宗派が既得権益をがっちりと獲得していたため、後発の日蓮には様々な困難が降りかかったのです。
【 100 de 名著『日蓮の手紙』】植木雅俊(仏教思想研究家・作家)
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