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ベルサイユ宮殿の観光は、殆どの場合城館本館(パレ)・庭園の見学で終わってしまいますが、時間が許せば離宮(大小トリアノン)にも行って見たいものです。しかし、ベルサイユ宮殿の敷地は驚く程広大で、小トリアノン離宮(Petit Trianon)とアントワネットの田舎家(Hameau de la Reine)に行って見ようと歩き出しましたが一向に着きません。少なくとも20~30分は歩きましたので、6月の暑さも相まって疲れてしまいました。着いてみますと遊覧列車バス(プティ・トラン)が停車していました。ベルサイユ宮殿の中は広いので、遊覧列車バスが運行しており、効果的に観光するには有料ですがプティ・トランに乗ることがお薦めです。小トリアノン離宮(Petit Trianon)は1762年にポンパドゥール夫人の為に、建てられ、その後マリー・アントワネットのものになり、彼女は此処が好んだとされています。小トリアノン離宮(Petit Trianon)入口門前を右に折れて森を進んで行きますとアントワネットの田舎家(Hameau)に到着します。観光客は数人程度しかおらず、宮殿内の鏡の間と較べますと静寂の世界に入った感じで騒音が聞こえません。この田舎家(Antoinette's Country House)は、田園生活に憧れたマリー・アントワネットがノルマンディの農村を模倣させて作らせたものと言われ、彼女はこの田舎家で過ごすことが多かった様ですが、断頭台の露と消えて仕舞った歴史を思いますと不憫という感慨があります。この写真の左方向に田舎家の本屋があります。至って粗末な作りですが、豪華な宮殿よりも人声もせず気が落ち着く様な気がします。
2005.06.14
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詳しく調べてはいませんので正確ではありませんが、世界の遊園地の発端となった「チボリ(Tivoli)」と言うのは、イタリアの世界遺産でローマ郊外にある「ハドリアヌス帝(エステ家)の別荘」から由来していると思います。光乏しい北欧の人達は陽光溢れる南欧の地に憧れて、ローマの有名な公園を名前に冠して名づけたのだろうと推測しています。現在世界各地に展開されていますテーマパークと較べますと、規模は驚く程小さく下町の遊園地と言う方が実態を表しているのかも知れません。コペンハーゲン市民の故郷遊園地として親しまれ、東京で言えば浅草花屋敷と言った所でしょうか?冬の厳しいコペンハーゲンでは、チボリ公園が開くのは4月中旬から9月中旬までの5ヶ月だけだそうです。チボリは遊園地なのですが、市民の憩いの場という側面もあり、アトラクションよりもそのくつろげる雰囲気を楽しむところである。ステージがいくつかあり、時間をずらして何時も何かを催している様ですので、場所取りをしなくても演奏・演劇をゆったりと楽しめるのんびりとしたテーマパークです。夜遅くなりますとイリュミネーションが綺麗と言われていますが、私が訪問したのは1998年6月初旬では、夜9時になっても日が沈まず暗くならないので照明が点灯せず、マルメ迄帰る必要もあって、諦めて出てしまいました。この明るさで夜9時ですから、10時を過ぎないと暗くはなりません。インターネットでは次のように紹介されています。1843年、デンマークの首都コペンハーゲンに、感動とロマンにあふれた公園の建設を夢みて、当時の国王クリスチャン8世から約6ヘクタールの土地を借りうけ、自らの手で魔法の庭園、チボリ公園を誕生させたのでした。開園当初の入場者は少なかった様ですが、その魅力は国内外へと伝わり、着実にファンを増やしました。 多くの小説家や詩人たちからも愛され、中でもアンデルセンはしばしば足をはこび、童話の構想を練ったと言われています。都市型公園の基本を忘れず、つねに豊かに進化していくチボリ公園はデンマークの誇りであり、現在も世界中から年間約350万人が訪れる世界有数の観光スポットです。
2005.06.11
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ニューハウン(Nyhavn)は英語でNew Havenつまり「新しい港」ですが、中心街に船の積荷を送り込む様に1673年に完成した300年以上も歴史のある古い港町です。ここを見なければコペンハーゲンに来たことにはならないと言われる程の観光地区となったニューハウン運河は嘗て船乗りのたまり場で、多くの安宿や飲み屋があった場所らしいのです。現在では再開発により港町特有の家並みが洒落たレストラン等に改装され、運河沿いのカフェテラスが並んでいて、驚く程観光客も多く混雑しています。訪問したのは1998年6月でしたが、この当時はスウェーデン・デンマーク間の国境の橋は完成しておらず、対岸のスウェーデン・マルメ市からフェリーで行きました。午後6時頃ニューハウン運河桟橋に着いた時は観光客で溢れていましたが、チボリ公園等を訪問して戻って来たのは午後9時を過ぎていました。一番日の長い季節ですので未だ少し明るい空でしたが、流石に運河沿いのカフェテラスの観光客も帰ってひっそりとしていました。フェリーに乗ったのは午後10時、マルメに着いたのは午後11時頃で真っ暗でした。ストックホルムでは真夜中でもこの時期薄明かりが感じられるのですが、コペンハーゲン・マルメでは一寸した緯度の違いで真っ暗となるようです。
2005.06.10
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ジャンプ競技のメッカとなったホルメンコーレン(Holmenkollen)はオスロ中心部から30分程で行くことが出来ます。1952年冬季オリンピックオスロ大会のジャンプ競技が開催されて以来、冬季オリンピックメモリアル・ジャンプ大会が恒例となって世界中から此処を目指しているスポーツマンが多い様ですが、競技が開催されない夏でも観光客を多く集めている様です。ホルメンコーレンの丘はオスロ切っての高級住宅街として知られ、その頂上地点に「ホルメンコーレンのジャンプ台」があります。丘の中腹では無く頂上に設置したことでジャンプ台の設計は奇抜なものでまるで高いタワーの様です。スタート地点は鋭い傾斜のある片持ち梁(Cantilever)の突端にありますので、高所恐怖症の人にはとても行けそうにありません。訪問しましたのは1998年6月、冷たい雨にも拘わらず、観光客が大勢詰めかけていましたが、日本人観光客は見当たりませんでした。生憎のことにガスが掛かって来て、スタート地点はガスの中に煙っていました。
2005.06.03
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スビネスンドはノルウェーとの国境に位置しているスウェーデンの小さな町です。スカゲラク海峡の一番奥まった突き当たりにあり、又オスロ湾から出て来た場所で、此処にはそれ程奥深くはありませんが、小規模ながら美しいフィヨルドが展開しています。国境の橋から西方を眺めますと、フィヨルドがスカゲラク海峡に向かって開いている様子がなかなか素晴らしいのです。写真に向かって左側がスウェーデン右側がノルウェーで、橋の中央が国境なのでしょうが、検問所もありません。フィヨルドの中を観光船が浮かんでいるのが見えましたが、残念ながらオスロに向かう途中でしたので、乗船することは止めましたのは、今になって思えば残念なことでした。ヨーテボリからオスロへ行くことになった顛末はこちらをご覧下さい! 私が行きました1998年6月上旬には往復2車線歩道付きの細い橋だけでしたが、最近海峡側に下った所にもう一つ大きな橋が架けられた様です。どうもノルウェーの人達が大挙して、国境を越えてスウェーデンの小さな町に買い物に来るらしいのです。ノルウェーもスウェーデンも福祉大国として知られていますが、ノルウェーはEU加盟拒否、スウェーデンは加盟との事情がそうさせている様です。スウェーデンは1995年にEU加盟以来、加盟国と歩調をあわせるために諸物価に大鉈を振るったので、多くのノルウェー人は自国内の高価格を避けるために、スウェーデンまで短いドライブをするとのことで混雑が激しいことで、新しい橋の需要があったのでしょう。
2005.05.24
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ブレンナー峠はワイマール公国の宰相だったゲーテが北ドイツからイタリアに旅行するに際してブレンナー峠を越えたことは、彼の著書「イタリア紀行」に書かれていることで知られています。この峠はアルプスを越える峠の中で最も標高が低く(1,374m)、古くから南北を結ぶ交通のポイントにあり往来に使われたこの峠はインスブルックから南に伸びる谷に沿っています。古代ローマ軍団はここを通って北へ向かい、逆に外敵がローマに攻め込む場合にも要衝であった様で、古代カルタゴのハンニバル将軍によるアルプス越えも此処を通った可能性が大きい。しかし、ハンニバルが実際に通った場所がどこだったかについては未だに定説がないらしいのです。10世紀からは、神聖ローマ帝国の皇帝達がローマへの道として使い、ルネッサンス時代にはドイツ最大の画家と言われるアルブレヒト・デューラー(Albrecht Durer)がイタリア絵画を学ぶ為、此処を通過し峠の絵を残しています。18世紀にはモーツアルト、ゲーテ、19世紀にはハイネがやはり此処を通って南のイタリアへ旅しています。現代のブレンナー峠には、古くからの旧道と、鉄道、高速道路(ブレンナー・アウトバーン)でアクセス出来る様ですが、私の場合はドロミテ山塊を見に出掛ける途中に高速道路で通過しただけです。2000年5月中旬、インスブルックからブレンナー峠迄いった時の写真で、ブレンナー峠は山の裏に位置します。この日は天候が悪くなって小雨が落ちて来ましたが、ドロミテ山塊に出掛けた翌日は快晴となりました。谷を跨ぐ様に架かっている橋はヨーロッパ橋(高さ190m)で、ヨーロッパ随一の高さを誇っているそうで建設から100年経過している様です。高速道路のブレンナー峠には何も無く、車が猛烈なスピードで通過する場所に過ぎません。足下に見えるのが旧道ですが、やはり、ゲーテの足跡を尋ねたりする旅の楽しみを満喫するには、この旧道をゆっくり走ることが必要だと思います。
2005.05.19
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トップページにある下記の画像をクリックしますと、世界の美術館を紹介するフリーページに入り、それぞれ訪問した古い日記にリンクされる様になっています。 世界の美術館昨日、リンクを確認しようとしましたら、殆どの項目についてトップページが表示されて出てくるだけでリンクが効きませんでした。先月までは問題なかったので、まるでサドンデス(突然死)の状態でした。楽天日記では、今までに数度、古い日記のURL表現方法を変えて来たのですが、先月の改訂で、遂に一部の古いURL形式を受け付けなくしてしまったのが原因でした。何故楽天が変更を重ねるのか、理由は詮索しませんが、「登録者数を増やしてビジネスを大きくする」目的で種々制約を強化して来ている様ですので、既登録者にとっては段々使いにくくなって来ていることは確かです。以前画像倉庫は20MB容量があったのですが、5MBとされたままで一向に改善されません。 そこで、仕方なく、古い日記リンク表現を現在受け入れられる形式に変更させ、再編しました。未だに完成はしていませんが、凡そ世界各国17美術館を紹介致します。自分が撮影出来た美術館が中心となりますが、撮影禁止の場合も多く、パンフレット等からスキャンして画像を載せた例も多いことも容赦頂きます。ついでに、スイス各地案内のリンクも再編致しました。
2005.04.04
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ニュルンベルクは復興された旧市街地区を抱くように町並みが続く近代的な都市ですが、訪問客にとっては「北方ルネサンス芸術」最大の画家デューラーが半生を過ごした町として知られ、中央を流れるペグニッツ河に沿った旧市街雰囲気の魅力に溢れています。これはデューラーの家、旧市街の城壁近くにあります。但し絵葉書からスキャンしたもので、私の写真ではありません!ニュルンベルクは15世紀デューラー等の活躍もあり、ニュルンベルクの文化は隆盛を極めますが、16世紀以降は度重なる戦争の影響で町は衰退し始めます。近世では工業都市へと発展し、ドイツ初めての鉄道が敷設されたとのことです。しかし、ニュルンベルクで行われたナチ党大会にてユダヤ人を完全排除する「ニュルンベルク法」を成立させたこともあり、第二次世界大戦では空襲により町は徹底的に破壊されてしまいました。戦後、ナチ戦争責任者に対する「ニュルンベルク裁判」も此処ニュルンベルクで行われました。壊滅的な打撃を受けた旧市街地区は住民の意欲によって、保存地区も含め見事に復興しています。訪問しましたのは、10年も前の1995年10月のことでした。チェコのプラハを午前10時半頃出発し、ニュルンベルクには午後4時頃着きました。中央駅の案内所でホテルを探して貰い、チェックインしてから旧市街見物に出掛けましたので、途中で日が暮れてしまいデューラーの家に行った時は真っ暗となってしまいました。この旧市街、今度はゆっくりと、ニュルンベルク生まれのパッヘルベル(彼は18世紀初頭にはバッハより人気のある作曲家・オルガニストでした)の「カノン」でも聴きながらゆっくり散策出来たら、良いと思います。
2005.01.13
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昨年の年賀状整理をしていました時、葉書箱の中からトリノの絵葉書が見つかりました。偶然見つけるのですが、懐かしいものです。トリノ市を訪問したのは1991年3月、モダーヌ駅からの日帰り旅行でした。モダーヌ駅を出るとすぐ列車はトンネルに入りますが、このトンネルの丁度真ん中がフランスとイタリアの国境らしく、国境警備の警察官が乗り込んで来てパスポートを検査、入国スタンプを押してくれました。トリノ迄は約1時間で着くことが出来ました。トリノ市は人口約90万人、ローマ、ミラノ、ナポリに次ぐ人口第4位の都市です。紀元前にローマ帝国の北方防備と交通の要衝都市として開かれ、15世紀にはフランス・サヴォア公国の一部となり、16世紀にはサヴォア公国の首都ともなりました。その後1861年イタリア統一がなされました時には、イタリア王国の首都であった様です。アルプス山に近いトリノでは、豊富な水力発電により、工業都市としても発展し、イタリアを代表する自動車メーカー「フィアット」の本拠地としても知られています。ポルタヌオヴァ駅で市内地図を買い、駅を出て地図を頼りに広いローマ大通りを散策してカステッロ広場迄行きました。途中道路に面した石・コンクリート壁には第二次世界大戦の弾痕が生々しく残されたままでした。カステッロ広場の真中に立つマダーマ宮殿(Palazzo Madama:女性主人が多かったことが命名の由来の様でした)を見たのは良いのですが、後はガイドブックも無いので地理不案内、通行人数人に観光名所を訪ねて見たのですが、英語は通じず、イタリア語又はドイツ語で話せないかと言うのでした。仕方なく裏の小径を戻りながら市中散策をして、道沿いにあった小さなレストランで昼食にスパゲッティを食べて出て来ますと、どうも何処にいるのか分からなくなりました。そこで持っていた地図に現在地を丸で印を貰った所、通りが2~3路違いましたが、駅は直ぐそばで安心した覚えがあります。現地語は片言でも良いから話せると言うことが、道不案内で散策するのには必要だと痛感、兎に角トリノ駅に無事到着し、夕刻モダーヌ・オーソアに戻ることが出来ました。僅か4時間程の訪問で、地理不案内で不安であったこともあり、写真を撮る余裕も無く、散歩途中で買った絵葉書が残っているだけです。年賀状整理をしていました時、葉書箱の中から思いもよらず見つかったものです!
2005.01.08
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リヨン空港にはフランス航空宇宙研究所(ONERA)勤務の運転手がワゴンで迎えに来てくれました。彼は全く英語が話せませんので、フランス語の片言会話をするより仕方がありませんでした。親切な人で空港のカフェで珈琲をご馳走してくれました。エスプレッソ風の濃い珈琲だったので、付いていた角砂糖を二つ入れて良くかき混ぜて飲んだのですが、これが美味しかったのです。フレンチローストと呼ばれる焙煎の珈琲で、日本では美味しく飲ませてくれる所はあまり多く無い様です。リヨン空港からモダーヌへは、ローヌ・アルプ地方のシャンベリーを経てサボア山中に入って行きます。片言ですので会話は弾まなかったのですが、約2時間程ドライブして無事到着となりました。フランス・イタリア国境の小さな町モダーヌ(Modane)です。サボア州山中のスキーリゾート地で、3月中旬はスキー客で混んでいました。山は良質の雪が豊富の様で、グルノーブル、アルベールビル等オリンピック開催地も近くあります。しかし町中では英語は全く通じませんでしたが、片言で、朝早く開いている通りのパン屋でバゲットを買い、チーズ屋でチーズを買って、葡萄酒を仕入れますとそれだけで美味しい昼食となったのは楽しい思い出です。田舎町と言うのは、住んでいる人達も身構えることも無く、世界各地何処に行っても良いものです。翌日はオーソア(Aussois)泊としましたが、モダーヌよりも山中深くにあって、ホテルにはスキー客以外はいませんでした。この絵葉書の様な根雪は消えていましたがスキー場には雪が残っていて彼等はゆっくりと春スキーを楽しんでいる様でしたが、夕刻ともなると冷え込んできます翌々日は日曜日でしたし、私はスキーをしませんので、イタリアの工業都市トリノに出掛けて見ました。モダーヌ駅を出るとすぐ列車はトンネルに入りますが、このトンネルの丁度真ん中がフランスとイタリアの国境らしく、国境警備の警察官が乗り込んで来てパスポートを検査、入国スタンプを押してくれました。私が此処を訪問したのは1991年3月でしたから、今は事情が違うかも知れません。トリノ迄は約1時間で着くことが出来、ガイドブックが無いまま市中散策をして、夕刻にはモダーヌ・オーソアに戻りました。リヨンからモダーヌ・オーソアへ私の写真集はこちらです
2004.12.21
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現在NHKは地上デジタル放送開始1周年を記念して、ドナウ川の中継を連日放映していますが、思ったより面白くない?のです。初冬のヨーロッパは、曇天が多く霧も発生していますので中継画面に迫力が無いのもあるのですが、何か識見の無い男性担当アナウンサーのNHKの威を借りた余計なおしゃべりが画面を邪魔しているのが大きな要因の様な気がします。一般聴衆のいないホールでのウィーン少年合唱団のコンサート中継等もお祭り騒ぎでNHKの潤沢な資金力に証せた仕業なのかも知れませんが、もう少し真摯な紹介にして頂きたいものです。多分潤沢すぎる予算がそうさせるのでは無いかと邪推したくなる程NHKの傲慢さが窺える番組ですが、不払い運動も大きくなっているNHKは視聴料を既得権益だとするのでは無く、低減努力もして欲しいものですが、そんな法人努力が殆ど窺えない風土に安住しているのだと思っています。昨日のライン川の飛行船による録画放映も、そんな傲慢な放映の一つだと思ってしまいましたが、各観光名所での修復作業の多さに気がつきました。オフシーズンの季節に、傷んだ個所の修理をして来年春からの観光シーズンの準備をしているのかも知れません。ローレライと並ぶライン河の川下りの名所プファルツ城も修理柵で覆われて良く見えていませんでしたので、昔の画像を見たいとアップして見ました。昨日と同じくYahoo無料HPにアップしましたが、フォトレタッチソフトでシャープさを強調したせいか、昨日よりファイルサイズは大きく90KBでした。ライン河の川下りの白眉、河の中州に立つプファルツ(Pfalz)城、戦艦が迫って来るような感じです。撮影は1997年4月です。ライン河の川下り紀行についてはこちらをご覧下さい!アインシュタインの生誕地ウルム(Ulm)教会の尖塔から見たドナウ川ですが、未だ上流のせいか川幅はそれ程ありません。撮影は1995年9月です。ウルム(Ulm)写真アルバムはこちらです!
2004.12.02
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楽天市場の画像倉庫は年々デジタル画像の容量・枚数が小さくなって使いづらいことこの上ありません!楽天日記は人気があるらしいのですが、それは過去の日記一覧・アクセス数表示が見やすく、リンク先も明示され日記更新が分かり易いことにあるのだろうとは思いますが、厳しくなる一方の容量制限は時流に逆行しています。私が楽天日記を始めた頃は写真ファイルサイズは100k、枚数は200枚だったのですから、2年で20K/100枚では隔世の感があります。偶には大きな画像をアップしようと思い、Yahoo無料HPサイト(http://www.geocities.jp/)を使って見ることにしました。実は先月から無料HP容量が15MBから50MBに増やされたのです。アップした写真2枚は共に画像の大きさ640x480ドットで画質は標準画質としましたのでファイルサイズは70KB、楽天画像倉庫では収蔵出来ない大きさです。この楽天日記ではYahoo無料HPを呼び出して表示しているのですが、手間が増えて面倒な感じは否めません。1995年10月下旬に訪れたプラハの観光名所、モルダウ川に掛かるカレル橋です。現地ではヴルタヴァ川と呼ばれています。カレル橋からは国立オペラ劇場が見えましたが、秋特有の霧がかった朝で少し靄っていました。楽天ではアップ出来ない音楽ファイルはプロバイダーから提供された私のWebサイトにアップしてあるものから聴いて下さい!バッハ 二声のインベンション第8番 ヘ長調 (BWV 779)です!それにしても、制限の多い楽天日記はどうして人気があるのでしょうか? 不思議です!
2004.12.01
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人気の高い「サウンド・オブ・ミュージック・ツアー」で最後に訪れるのが、ザルツブルクから東へ約17kmの距離にあるモント湖(Mondsee:「月の湖」の意で大きさは14平方km)の畔にある教会です。到着しましたは4時半頃だったかも知れませんが、季節は10月中旬でしたので将に夕日が沈もうとしていた時刻でした。尖塔が見えているのがその教会で、マリアとトラップ大佐が感動的な挙式を挙げた教区教会(Pfarr-Kirche)なのですが、映画で思い描いてよりも小さかった様です。映画では教会天井に設置したカメラから思い切り望遠で撮影していましたので、教会内部が広く見えたのだと思います。後年、「サウンド・オブ・ミュージック」にあったシャフベルク登山列車に乗って、山頂から徒歩でボルフガング湖へ降りた後、モント湖へ行ったことがありますが、季節は5月中旬、時刻は午後4時頃でしたので、青空と緑に映えた雰囲気で全く違って見えました。シャフベルク山トレッキングについてはこちらをご覧下さい!モント湖のあるザルツカンマーグートは、元来岩塩を採掘する地域で、数多くの湖水が点在する湖水地帯でもあり、背後に2000m級の高山が連なるオーストリアを代表する景勝地です。ハルシュタット湖についてはこちらをご覧下さい!
2004.10.28
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この所、東京でもめっきりと寒くなり、日の短さも実感出来る様になりました。今朝は雲が多かったのですが青空も見え、気持ちの良い日になるかと思ったのですが、午後からは曇天となり午後2時現在の気温14℃、午後5時には暗くなって来ますので、温度はもうこれ以上は上がらず薄ら寒い一日となりそうです。秋の夕方は「釣瓶落とし」と言いますが、日に日に日没が早くなって行くようです。木々も色づき、センチメンタルを感ずる行楽シーズン真っ只中の季節なのでしょうが、先々週は台風、先週から地震と、何か天変地異が襲って来て、そんな物見遊山気分になれません。其処で、写真アルバムをめくって今頃の旅行写真でも見てみることにしました。9年前のヨーロッパ旅行でザルツブルク滞在の時、午後の「サウンド・オブ・ミュージック」ツアーに参加した時の写真を見ています。市内各所の撮影場所を見学の後、郊外に出て「ドレミの歌」の舞台フシュル湖、結婚式の舞台モント湖の教会を見て、市内に戻って来るのですが、フシュル湖を通り過ぎる頃は、傾いた日に映える景色が綺麗でした。赤く見えます木々は褐色の枯葉に過ぎません、この辺りでは紅葉する種類の木は無いようです。それでも雲一つ無い蒼空、鏡の様な湖面に映える秋の景色は堪能出来ました。時刻は未だ4時になっていなかったのですが、秋の日は短いのです。ボルフガング湖へ行く峠のカメラポイントで休憩、モンド湖に着きましたら夕日が眩しい殆ど日没となり、教区教会(Pfarr-Kirche)を見てバスに戻って来ましたら、日はとっぷりと暮れていました。ヨーロッパの秋の日は特に短いと言われますが、ロンドン・パリでなく、こんな南欧に近い所なのですが北緯47°もあり、北海道の稚内より北に有るのですからそれは仕方の無いことです。
2004.10.27
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Beethovengang(ベートーベンの小径)を訪問しましたのは1995年10月中旬でした。ウィーンの郊外ハイリゲンシュタットの小高い丘の一角にそれはありまました。通行の邪魔にならないと思われる場所に車を停めて、地図を頼りに探し出しましたが、なかなか見つかりません。丁度歩いて来た老人に、多分その辺りに住んで方だと思い、“何処にベートーベンの小径があるのですか?”と尋ねました所、直ぐ近くであることを親切に教えて呉れましたのです。片側に小川(Schreiberbach:シュライバーの小川)が流れている、本当に目立たない小さな小径でした。しかし、嘗てBeethovenがこの道をよく散策し、その途中で田園交響曲の構想を練ったと言われている道ですから、約200年を経て、同じ道を歩いているのだと思いますと、感慨深いものがあります。しかし小川は水量も少なく又護岸工事がされていますので、田園的情緒も無く住宅地の中にある横町と言った感じは否めませんし、想像力を働かせませんと雰囲気は偲ばれません。勿論その当時は現在と異なり、田園情景があったのかも知れませんが・・。ベートーベンの小径の終点には小さな広場があり、1863年6月建立されたベートーベンの胸像が記念として立っています。記念像はブロンズ製で、且つ逆光となりましたので、真っ黒で表情が上手く撮影出来ませんでした。ベートーベンは生涯独身だったこともあり良く引越をしていた様で、ハイリゲンシュタットには彼の住んだことのある家が複数あり、中には今でも使われているとのことです。有名な「ハイリゲンシュタットの遺書の家」を探して見ましたが、残念ながら見過ごしてしまいました。普通のアパートの様で、小さな資料館のようになっているそうですが、残念ながら私は紹介出来ません。こちらに独語と英語で、紹介しているサイトがありますのでご覧下さい!それでも、秋晴れの良い天気に恵まれて、ベートーベン縁のBeethovengang(ベートーベンの小径)を、行き交う観光客にも会わず気持ち良く散歩出来たことで訪問出来た価値が十分あったと思いました。
2004.09.24
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レマン湖の畔ジュネーブにある高さ140mに達する大噴水は、ジュネーブ観光の一つです。これ程の高さのある噴水は他に見たことがありません。5月から9月の間、毎日吹き上げられていますので、遠くからでも見えますがモンブラン湖畔通りから眺めるのが背景に秀峰モンブランも見えて最高のポイントの様です。8月下旬のある朝、湖畔を散歩しながら、ローヌ川に掛かるイル橋から撮影したもの、噴水が朝日に照らされて映えていたのですが、色が飛んでしまってしまったのが残念です。中央に見えるのはルソー島で、ジュネーブ生まれのフランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーを記念して名付けられたとのことです。それより昔の時代は軍隊兵站基地だったそうです。その時、橋の袂のCDショップで購入したハイドンの交響曲第31番「ホルン信号付き」、ローザンヌ室内オーケストラ演奏でお聴き下さい。その後午前中に、国際連合ジュネーブ本部を訪問しましたが、残念ながら写真は残っていません。撮影禁止では無かったと思うのですが・・その前日はモンブランを見に行きましたので、こちらもご覧下さい。ジュネーブの朝の散歩も入っています。
2004.08.15
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ロンドン郊外にあるファンボロー市は毎年7月に世界一大きな航空ショーが開かれる所として知られていますから、航空関係者・マニアの方達は行かれた方も多いと思います。広大な松林を切り開いて造られたファンボロー空港、国防省航空研究設備が市の大きな面積を占めている特異な町でもあります。北海道活性化を目指す財団の方々を案内する為、此処を訪問しましたのは1991年4月初旬、北海道の広大な土地を、この様な形で航空宇宙産業の研究メッカとして開発することが出来るか否かを検討調査するのが目的でした。ロンドンから鉄道を使ってファンボロー駅に到着、当時は王立航空研究所(現在は国防省研究機構と改名しています)と言っていた研究施設を見学し、ファンボロー市役所を訪れて、市運営上の問題点を聴取・面談させて貰ったのです。この写真は、ファンボロー訪問を終えてロンドンに帰る汽車を待っているファンボロー駅での同道された方が撮影してくれたワンショット、左端にいるのが私で、49才の時でした。駅舎とプラットホームしか無い小さな駅、駅前にも殆ど何も無い本当に田舎の駅だったと思います。訪問したのは1991年湾岸戦争直後で、全ての飛行機が空いていましたが、平和が来たとの安堵感もあった時期でした。この調査団を派遣した財団の中核は北海道拓殖銀行で、その後破産してしまいました。巷では「十年一昔」と良く言われますが、早や13年、本当に大きく時代は動きました。しかも残念ながら不安定の方向に!
2004.08.02
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此処2日程、訪問したドイツ都市の紹介をしましたので、それらの日記をHPページ編集にてリンクさせました。1991年から2000年に5回程訪問した際の写真アルバムが主になっています。日本は近年まで、音楽はベートーベン、文学はゲーテ、哲学はヘーゲル、政治主義はマルクス等、ドイツ文化の影響を多大に受けていますので、訪問して見ると学校で習った多くのことが身近に感じられました。ドイツ旅行を纏めましたWebページはこちらです!フランクフルト、ヴュルツブルク、デュッセルドルフ、ハイデルベルク、アーヘン、ケルン、ボン、シュトゥットゥガルト、ウルム、オーバーアマガウ、ミュンヘン、ノイシュバインシュタイン城、アウグスブルク、ローテンブルク、ランツベルク、ニュルンベルク訪問記があります。フランクフルトから鉄道で1時間程西方に行った所にある国境の町、ツヴァイブリュッケンは観光客も訪れない小さな町で、気の置けない清潔な感じでしたが、ビジネス出張で写真撮影しなかったのは残念です。
2004.06.24
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ドイツ西部、オランダ国境に近くにあるアーヘン(Aachen)は、8世紀末(800AD)にカール大帝がフランク王国の中心都市として居を構えた由緒ある町です。その後、約600年の間、30人のドイツ皇帝がこのアーヘンで戴冠式を行って来たのですが、16世紀半ばに、中心都市の栄光がフランクフルトに移されて、その歴史的な役割を終えたようです。役割を終えたのは良いのですが、その後の変貌が激しく、残念ながらドイツの1200年古都は、日本の1300年古都である京都に見られる落ち着いた雰囲気はありません。現在は温泉保養地として知られ、黒い森にあるバーデン・バーデンとその地位を競い、カジノ等もあって、保養客で賑わっていますが、何か騒々しい感じは否めません。 Aachenの大聖堂は、ドイツ最古のロマネスク様式で、屋根に特徴があります。大聖堂は町中にあって、周囲に広場が無く、非常に写真が撮り難い位置にありました。逆光でしか撮影出来ませんでしたので、全容は判りにくいかも知れません。聖堂内には、皇帝の王座、シャンデリア、その他貴重な美術品が展示されていますし、大聖堂横の博物館では王冠展示などがあり、ドイツ有数の貴重なものだと言われています。アーヘンにはデュッセルドルフから1時間程鉄道に乗って行き、日帰りの訪問でした。大聖堂の直ぐ近くには温泉を利用した室内プールがありましたので、入場料を払って泳いで見ましたが、何と湯温というより水温は30℃程度しかありません。健康の為に長時間入って水泳をするのには良いのでしょうが、私は温水プールのつもりで入りましたので驚かされました。
2004.06.23
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デュッセルドルフには観光スポットは殆どありませんが、この町を起点にして列車を使った周辺観光をして、夕方戻って来てホテルから飲食店街に行くというのも良い旅行プランだと思います。この町はドイツの都市の中で最も進出している日本の企業が多いことで知られ、駐在員・家族も多数おりますことから、小さいながらも日本人街が形造られています。其処では日本語で買い物も出来ますし、小腹が空けばラーメン屋等でラーメンを啜ることも出来ます。ホテル日航Duesseldorfも日本人街の一角にあり、デュッセルドルフ中央駅から歩いて5分程で行くことが出来る便利な位置にありますので、此処を起点として観光することが出来ます。日本人街は旧市街の一角にも入り込んでいて、ホテルから徒歩で5分程度、ドイツ土産として知られるヘンケル(Henckel)の刃物を売る店も日本語でOKです。確かではありませんが、ナポレオンが小パリと呼んだ位ですので、町繁華街は緑も多く良く整備され、洗練された都会の雰囲気が満ちています。繁華街の中心道路は水路があって水辺には樹木が植栽されており、ゆったりとした感じです。中心道路沿いの水路で噴水もあり、良い散歩道でもある様です。ライン河もこの辺りまで下ってくると緩やかな河となっています。こうなりますと特にローレライで知られる急流ライン河と言う特徴も無く、どの河でも中流域はこんなものだろうと言う感じがします。1997年6月にNHKがライン河下りの衛生中継を放送しましたが、その時の終着地点がデュッセルドルで、祝賀がこの河岸のベンチで行われました。河岸にはライン河の水位を知らせる塔が見えています。詩人ハイネの生家もこの近くの旧市街の飲食店街にあります。観光客も多く混雑していますが、屈託の無い下町雰囲気も残っていますので、店前のベンチで飲んだり食べたりするのに気兼ねは要らない様に思えます。
2004.06.22
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初夏のチロルは魅了満載です。スイスからオーストリアに入って行くチロル街道は山岳道路で一部は未だ高速道路となっていない部分がありますが、天候も良ければ快適なドライブとなります。この絵葉書写真はチロル街道に入って直ぐの所にあるクロスター谷(Klostertal)です。チロルで最も深い谷と言われるエッツタール(Oetztal)に入ってみましたが、一番奥の町オーバーグルグル(Obergurgl)迄は50kmもあると言うことで、残念ながら途中からチロル街道に引き返しました。そうこうしている内に、インスブルックを通り過ぎてしまい、Uターンして高速出口の観光案内所で宿を紹介して貰ってから町に入って行きました。予約して呉れた宿は旧市街の一角にあった家族宿で、気の置けない良い宿でした。夕食サービスは無く、部屋は小さいのですが小綺麗で一泊7千円とは格安でした。早速、散歩に出掛けマリア・テレジア通りに行って見ますと、良く写真で紹介されるそのままの景観でした。行き止まりの一角には有名な「黄金の小屋根」があり、町の中心地と言うこともあって観光客で溢れていました。町中を流れるイン川は清冷で、町の雰囲気を清潔にしています。特に王宮付近は道も塵一つ無い感じで、気持ちの良い散歩道になっています。2000年5月に行きましたので、4年が経ちました。その時のチロルでの写真アルバムはこちらです!
2004.06.12
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レヒ川はフュッセンを起点とし、アウグスブルクを経て合流するドナウ川の支流ですが、通過するランツベルク近辺は上流域ですので流れも速く水も綺麗で水量も豊富、滔々と瀬音が聞こえて心地よい流れとなっています。訪問しましたのは2000年5月初旬、ミュンヘンからスイスのラガーツ温泉に向かう途中でした。ロマンチック街道にある小さな町、レヒ川のランツベルク(Landsberg am Lech)でもあると言うことで立ち寄って見ましたが、市内見物をした訳ではありません。ヴィーズ教会を建てた芸術家ツィンマーマンが市庁舎(Rathaus)の装飾を施していているとのことで見たかったのですが、ラガーツ温泉でのホテルも予約しておらず時間の余裕がありませんでしたので、町中に入ってレヒ川の畔にある駐車場に車を停めて、一寸散策しただけとなりました。ランツベルクはロマンチック街道にある他の町に較べ観光客の数も少ないので、静かな環境が楽しめますし、フュッセンから流れて来る冷たい清流がこのランツベルクの町を一際美しく浮き立たせているのが印象的でした。
2004.05.06
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予備知識をあまり持たずに、お仕着せの観光ツアーに参加しても良い経験をすることがあります。ミュンヘンで開催された米国機械学会の論文発表に出掛け、学会手配の観光ツアー「ノイシュヴァンシュタイン城」に参加しましたのは2000年5月初旬のことでした。参加者は学会出席者の奥さん方が殆どで、男性はあまり見かけませんでしたので女性用プログラムだったのか知れません。 ノイシュヴァンシュタイン城に付いては過去の日記、こちらをご覧下さい!朝ミュンヘンを出発して花咲く野を近くに、遠くにはドイツアルプス最高峰ツークシュピッツを見つつ1時間程して着いた山村オーバーアマガウにて途中休憩となりました。町中の散策をして見ますと外壁に美しいフレスコ画が描かれている家々が立ち並んでいて感じの良い街でした。土産物屋さんも多くあり、この土地の伝統なのか、木彫りの置物が数多く見かけられました。買いませんでしたが、結構高価だった様な気がします。又10年毎にキリスト受難劇を上演する劇場を見学、前回は2000年でしたので訪問したのは上演直前の時期だったと思います。休憩を終えて、観光バスに乗りノイシュヴァンシュタイン城に直行すると思ったのですが少し横道にそれてヴィーズ教会に寄るとのことで、名前だけは知っていましたのでどんな所か期待しました。広々とした丘の上に茶色の屋根をした白い大きな教会が忽然と現れました。周囲には家もまばらで、村と呼べる程の家も建っていません。元々は、農家の人達が寄せ木細工のキリスト像を小さな祠に祭って礼拝していたのですが、1738年その像から涙が流れると言う奇蹟が起こります。噂は広がり、大勢の巡礼が訪れ沢山の喜捨が行われて1745~1754年に建てられました教会がヴィーズ教会です。この教会はロココ風教会の最大傑作の一つで、ツィンマーマン最後の、且つ最高の作品で一歩堂内に入るとその壮麗さに立ち尽くすに違いありません。ユネスコの世界文化遺産に指定されていますが、それにしても感嘆する程の華麗壮麗なロココ様式の教会で、他にはこれ程の過剰な装飾を施した教会を見たことはありません。元々の祠も教会入口付近に保存されていますが、こちらの質素さには逆に吃驚してしまいます。
2004.05.04
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東京立川市にある国立昭和記念公園には渓流広場があって、人工のコンクリート渓流が造られていますが、其処には今年からチューリップ、ムスカリ等の花群落が植栽され、4月18日迄はオランダフェアも行われています。造園監修は世界的に有名なオランダのキューケンホフ公園の園長であったヘンク・コスター氏とのことで、新聞に掲載された写真で見る限り雰囲気がとても似ています。花の咲く時期を調整する為、球根を深く植えたり浅くしたりして長い期間楽しめる様に工夫されているのだそうです。キューケンホフ公園はアムステルダム郊外のリセと言う小さな町にあり、ハーレム市又はライデン市からバスで行くことが出来ます。この区間は鉄道列車で通ってもバスの窓からも、色とりどりに植えられた多くのチューリップ畑を見ることが出来ます。しかしながら、キューケンホフは自然林の中に造られた小さな規模の公園ですが、設計的にも優れている様で、特に人工池の周りに種々のチューリップを中心とした花畑を配して魅力的なものになっています。この辺の地域は3月末までは雪も降る様な寒さが残り、一番の見頃は日本のゴールデンウィークの頃だと思います。 1997年4月末での訪問は冷たい雨の中でしたが、チューリップ、ムスカリ等の花が映えて綺麗でした又再訪して見たいのですが、今年は世情不安ですので国内の国立昭和記念公園訪問が無難と思います。
2004.04.12
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ヴァチカン美術館は世界三大美術館には入らないのですが、ルネッサンス期に多くの天才達が総掛かりで芸術活動した結果が全て収められていると言っても過言ではありません。移動不可能なフレスコ画名品も多く、三大美術館の上に君臨する別格の美術館なのでしょう。それにしては入口も狭く、螺旋階段をぐるぐる歩いて上がって行くのが妙に印象に残ったのですが、最近エスカレータが設置されたとのことで混雑を極める訪問客が効率的に流れる様になったのでしょうか?特に圧巻はミケランジェロを主体とした傑作群が塗り込められたシスティーナ礼拝堂、創世記を主題にした天井画、正面壁を飾る「最後の審判」は最晩年8年を掛けた畢生の傑作です。それにしましても、礼拝堂の中に群れ集う観光客の数と言ったら半端ではありません。でも、私が本当に見たかったのは、その途中に位置する「署名の間」通称「ラファエロの間」と呼ばれるフレスコ画群の一つ「アテネの学堂」です。此処は通路の途中にある、思ったより小さな部屋ですので人の混雑もそれ程ではありませんので、ゆっくりと鑑賞出来る筈です。ラファエロはダ・ヴィンチを崇拝し、彼をプラトンに模して画の中心にしたのですが、絵そのものはミケランジェロの影響が大きいと言われています。完成当初から、テーマと美しさが一致しているとの評価だったとのことです。但し、絵画保全はシスティーナ礼拝堂の天井画程は留意されなかった様です。アテネの学堂製作 1509年フレスコ画、幅 770 cmヴァチカン美術館「署名の間」ラファエロ27歳の作品。「アテネの学堂」は、ルネサンスの知的理想の源である古代哲学の世界を表しており、想像上の古典的な建築の半円筒形の天井の下で、古代の有名な哲学者たちが色々な流派の哲学を論じている姿をモチーフに描かれています。中央左の人物は、哲学者プラトンで、天を指差し「イデアの世界」を示しており、モデルはレオナルド・ダ・ヴィンチです。中央右の人物は、プラトンの弟子アリストテレスであり、手のひらを地に向け経験主義の理念を示していますが、モデルは分からない様です。階段の手前中央で大理石ブロックを見て考えに耽るのは彫刻家ヘラクリトス、モデルはミケランジェロです。右下でコンパスを持っている人物は数学者ユークリッド、モデルはサンピエトロ寺院を企画したブラマンテと言われています。左下すみの禿頭の人物は、数学者ピタゴラス。中央階段に半裸で座っているのは、哲学者ディオゲネスで無欲無所有を体言しています。作者のラファエロもユークリッドの後ろに小さくはありますが、ちゃっかりと描かれています。
2004.03.26
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直径15センチはあるポルチーニ、「キノコそのものを味わってもらうには、ソテーが一番」と店の主人のカテリーナ叔母さんが料理をしてくれましたのは1996年9月初旬のことでした。私はイタリア語が全く出来ませんので、店を手伝う息子さんが英語に訳して呉れたのです。店の名を失念してしまいましたが、ローマ・テルミニ駅の近く、日本大使館の斜向かいに位置する店で、ランチ時は結構混み合うのだそうです。一般の旅行案内書にこの店は載っていませんが、ローマ在住の日本人の方から紹介されましたので、味の方は保証付きです。官庁街である為か、夕方はそれ程混んでいませんでした。店の入口近くに大きなフンギ・ポルチーニ(ポルチーニ茸)が木の箱に入れて置いてありました。私は茸を焼いたり・炒めたりして食するのが好みで、日本でも生椎茸を焼いて醤油に浸けて食べたりしますので、お任せしました。ニンニク風味のオリーブオイルでソテーしたポルチーニは、エキスが口中に広がり、何とも美味しいものでした。秋の味覚、イタリアやフランスでマツタケのような存在なのが、ポルチーニでローマ空港でも乾燥させたポルチーニが、土産物として高い値段で売られていました。フランスではセップと呼ばれるポルチーニは、ヨーロッパ人にとって “キノコの王様”、マツタケと同じく栽培出来ず、天然ものしかありません。従来、日本に輸入されるポルチーニの多くは乾燥ものだった。それが最近、空輸で入ってくるようになり、旬の生ポルチーニを味わえる店が増えたと言われています。旬の時期のみしか食べられないこと並びに高い値段だと思い、それ以降、生ポルチーニを食したことはありません。
2004.03.05
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フランクフルト市立美術館はフランクフルト中央駅からそれ程遠くない所に位置していますので、簡単に徒歩で行くことが出来ます。マイン川の対岸にあって、フランクフルト必見の名所レーマー広場、大聖堂よりも近い所にあるのです。しかし散歩を楽しんで、全て徒歩で巡ることも十分可能です。そして、その様に考えれば、対岸の歓楽街ザクセンハウゼンからも遠くありません。市立美術館とは言え、ドイツ有数の美術館として知られ所蔵作品数6万点を越えるそうです。ドイツやオランダのルネッサンス期の巨匠達の作品が中心で、デューラー、クラナッハ、ルーベンス、レンブラント等が見応えあります。その中で、画家その人は日本ではあまり知られていないのですが、絵が日本の高校の教科書に永く掲載(昔のことですからモノクロでしたが)されたものがありますが、訪問すると良く見える正面に展示してありますので直ぐ分かると思います。カンパニアのゲーテ-画家ティシュバイン製作 1786年油彩カンバス 164 x 206 cmこの絵は、昔の高校の歴史教科書にはゲーテを紹介する際、必ず載せられていたものです。律儀なタッチの端正な絵である一方、芸術的迫力には欠ける様ですが、ローマ郊外の野原に横たわって思索する碩学ゲーテが良く表現されていると思われます。200年以上経過しているのですが、保存状態が良いこともあって綺麗に描かれた様子を鑑賞することができます。ヴィルヘルム・ティシュバインは18世紀ドイツで良く知られた画家一家の一人で、ゲーテの友達でもありましたので“ゲーテのティシュバイン”と呼ばれています。叔父のハインリッヒは“カッセルのティシュバイン”、従兄弟のフリードリッヒは“ライプチッヒのティシュバイン”と活躍場所から呼ばれ、それぞれ肖像画を得意とする画家だった様です。
2004.02.12
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ドームと呼ばれるケルン大聖堂は、壮麗で大規模なゴチック建築で知られていますが、大聖堂とライン川との間のスペースにローマ・ゲルマン博物館とヴァルラーフ・リヒァルツ美術館が設置されています。両方とも大聖堂の偉容の影に隠れて目立たないのが玉に瑕かも知れません。ヴァルラーフ・リヒァルツ美術館はそれ程の名品はありませんが、北方ルネッサンスの巨頭デューラー、クラナッハ等の作品群が中心となり、フランドル派のルーベンス、レンブラントも展示されています。それに加えてフランス印象派画家の作品もあるのですが、全体的に割合地味なものが多い為か、訪問者も少なく空いていますので、ゆっくり鑑賞出来るのが大きな利点になっていると思います。1991年訪問当時は、館内でフラッシュ無しの撮影は出来ましたので、デューラーの絵はその時の写真ですが、レンブラント自画像は暗すぎてピンボケでアップに耐えず、インターネットで拾ったものをアップしました。ヤバッハ家の祭壇画-アルブレヒト・デューラー製作 1504年頃油彩木版 94 x 51 cm ヨブ記をモチーフにした祭壇画の中央部は紛失され、両脇パネルだけが残され、ケルンのヤバッハ家の礼拝所に18世紀末迄飾られていましたのでヤバッハ家の祭壇画と呼ばれています。ケルンには聖シメオンと聖ラザレスを描いた右側パネルが、フランクフルト市立美術館に聖ヨセフと聖ヨアヒムを描いた左側パネルが収蔵されることになりました。自画像-レンブラント製作 1668-69年頃油彩カンバ 82.5 x 65 cmレンブラントは多くの自画像を描いていますが、何か疲労を感じさせる自画像はこれだけかも知れません。1669年貧困に内に亡くなるのですが、その直前に描かれたもの考えられており、疲れた笑いを余儀なくする老女の様な雰囲気もあります。一説によりますと、古代ギリシャの画家ゼウキスに準えての自画像製作を行ったとの話しもあるようです。レンブラントは画家ゼウキスが老女を写生しつつ、笑いながら亡くなったと言う伝説を信じていたと言われています。
2004.02.09
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ゴッホ美術館が所蔵する数多い作品の内でも、「鴉のいる麦畑」は最高の作品では無いかと思われます。製作 1890年7月カンバス油彩フランスのオーベールで自殺する直前に描かれた2点の油絵の1点。暗澹とした嵐の様な空と、余りにどぎつい金色に見える麦畑、記号に見えてしまう夥しい鴉の群、奇妙に赤い道、色彩・形象全てが異様に捻れて、不協和である心象風景を描いている様です。ピストル自殺をしてしまう直前の狂気の作品と言われています。ファン・ゴッホ美術館はアムステルダムの美術館広場にあり、国立美術館の南側に位置している4階建ての瀟洒な美術館。ゴッホの作品収集では世界一を誇り、油絵200点、素描500点の他、多数の書簡、ゴッホが集めた日本の版画などが所蔵されています。作品展示は勿論ゴッホが中心ですが、その他モネ、ロートレック、ピサロ、ゴーギャンの作品も展示されています。37才で狂気の自殺を遂げたゴッホには、優しく繊細な性格と利己的で頑固な性格が共存していたと言われていますが、彼の自我にはベートーベンに見られる様な倨傲(きょごう)さがありません。ゴーギャンに「下手な絵」と酷評された彼の絵には、筆裁きの見事さは感じられませんが、印象派の意味を見抜いて乗り越えて20世紀の表現主義の開拓者となった「物の本質」を描き切る孤高の鋭さに溢れています。残念ながら生前一枚の絵も売れること無く、絵の具を購入するにも弟テオに援助されずには成り立たなかった極貧の生活には、商業主義に諂う余裕も無かったのだと思います。第二次大戦中にナチスによってデカダンス芸術と見なされながらも、戦後のゴッホブームが起きたのは、彼の僅か10年に過ぎない絵描き人生の生き様が、残された書簡と絵によって統合され、評価されての結果からかも知れません。
2004.02.03
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1824年に創設され、富める国の勢いに任せてコレクションを増やし、その収蔵量はルーブル美術館と劣らないと言われている英国国立美術館(National Gallery)はトラファルガー広場(4頭のライオン像が設置された戦勝塔を中心としたロンドン中心部の広場)に面して建っています。ルネッサンス以降、近代に至るまでの有名な画家の作品が集められていて、イタリア・ルネッサンス、フランス絵画の収蔵数は世界一と言われていますが、所謂お馴染みの名作というのが余り多くありません。それでも勿論英国出身のターナー、コンスタブルの作品群も此処ならでは思われるものが多く展示されていますし、全部で46室に亘ってイタリア、オランダ、フランス印象派、スペイン各地から収集されや作品には素晴らしいものが、多く見受けられます。それでも勿論英国出身のターナー、コンスタブルの作品群も此処ならでは思われるものが多く展示されていますし、全部で23室に亘ってイタリア、オランダ、フランス印象派、スペイン各地から収集されや作品には素晴らしいものが、多く見受けられます。その中でもオランダ・フランドル派「多様な製作数、豊富な構想力、熟達した筆使いの軽快さに於いて他の画家の追随を許さない」と言われるペーター・ルーベンスの多くの作品が展示されています。スザンナ・フールマンの肖像(1625年頃、油彩、77x53cm)ルーベンスの後妻となったエレーネ・フールマンの姉スザンナ・フールマンの肖像は「麦わら帽子(Chapeau de Paille)」とも呼ばれていますが、豊麗さ、その生気から傑作として有名な作品です。明るく潤んだ瞳、豊満で健康的な胸の輝き、組んだ手の美しさの表現にはやはり他の画家には真似の出来ない領域に達しているのかも知れません。この肖像を鉛筆でスケッチしたことがありますが、拙筆でその生気溢れる雰囲気は全く再現することが出来ませんでした。
2004.01.30
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スウェーデン国立美術館(Natinalmuseum)はストックホルム旧市街地区ガムラスタンの対岸にあり、毎年ノーベル賞受賞者が宿泊することで知られるグランドホテルと並んで目立つベニス・ルネッサンス式の白亜の建物で、そのあたりの景観に欠かせないものとなっています。18世紀末スウェーデン国王のグスタフ三世の厖大なコレクションが寄贈されて王立美術館が発足したのが発端となり、1866年に新しい建物が完成しました時に国立美術館と改名され、現在に至っています。国立美術館にはレンブラント、ルーベンス、ルノアール、ゴヤ、ドガ、ゴーギャン等の絵画、数多い彫刻が約1万5千点も収蔵されています。特にレンブラントの作品は、日本に知られているものは少ないようですが、ニューヨークのメトロポリタン美術館に匹敵する程の所蔵数を誇っています。バタビア人の陰謀(製作年代1661-62年)196 x 309 cm1659 年アムステルダム市当局は、新市庁舎完成を記念して、8面の壁を西暦69年ローマ帝国に抵抗したバタビア人を題材にした油絵で飾るべくレンブラントに製作を依頼します。これはオランダ初期の歴史で、独立と国の誇りを示すものとして知られていたのです。完成された最初の油絵を見た当局者はその醜悪さに受け取りを拒否、残り7枚の製作に就いては契約破棄としてしまいました。国の誇りをテーマに依頼された作品を、この様に陰謀に満ちた雰囲気の油絵にしたのかは定かに分かりませんが、光と影を使った明暗法を駆使したものとなっている様に思われます。レンブラント畢生の名作と言われます「夜警」はアムステルダムの国立美術館にあります。それについてはこちらのHPをご覧下さい!
2004.01.28
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ムンクの代表作が展示されていることで知られるノルウェー国立美術館(Nasjonalgalleriet)は首都オスロ市の目抜き通りであるカール・ヨハン大通りのノルウェー大学の角を曲がった小径(Universitetsgaten 13)に位置しています。1836年に設立された時は別の場所にあった様ですが、1881年に現在の場所に収蔵物が移されました。1880年頃から始まったノルウェーの美術運動は、影響を受けたドイツから脱して、フランス美術を取り入れて独自の発達を遂げた様で、その集大成が世紀末エドバール・ムンクに集結している様です。ムンク美術館は市郊外に又別に設置されていますが、ノルウェー国立美術館には代表作58点が集められ、ムンクの部屋に展示されています。有名な「叫び」、「生命の舞踏」「思春期」は全て此処に収蔵されています。苦渋に満ちた、死への恐怖と生命への熱望を描いたムンク作品は、ナチス・ドイツによって「頽廃芸術家」と宣告され、1937年82点が没収されてしまいます。彼は、1940年にノルウェーを占領したナチスへは協力を拒み、終戦前の1944年1月孤独の内に心臓麻痺に生涯を閉じてしまう熱情の人生だった様です。その他、グレコ等古い西欧の絵画群もあり、19世紀末から20世紀初頭のドラクロアからレジェに至るまでのフランス絵画が多く収蔵されていますが、日本で知られている作品は多く無い様です。この分野になるとパリのオルセー美術館に多くの作品がありますので、わざわざ、此処ノルウェー迄来て紹介される機会が少ないのが知られない理由だと思います。訪問しましたのは1998年6月のことでした。美術館入口で頂いたパンフレットでスライドショーを作って見ましたのでご覧下さい!
2004.01.27
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トレッキングエッセー紀行と言う番組が、NHKBS2にて三回シリーズで放映中です。従来の世界各地トレッキング紀行番組では女優の方々が初めてのトレッキングを楽しく体験する趣向でしたが、今回は作家の方々がトレッキングの意義を考えながらトレッキングに挑戦し随筆を書く構成に変わりました。随筆朗読には声優の方々が起用され、イギリス湖水地方、イタリア・ドロミテ山塊、ギリシャの三地方をトレッキングするものです。毎週日曜日放映で第二回目の紀行は、イタリアのドロミテ山塊トレッキングで1月18日夜10時45分から午前0時迄、一寸遅い時間帯なのが玉に瑕です。案内ガイドはドロミテ山塊のアルピニストで山岳ガイドでもあるイタリア人のルイージ・マリオ、トレッキング体験者は作家角田光代女史でした。圧倒的的な山岳自然は、ちっぽけな人間の思惑や行動を越えてしまい、何某かを考えさせて呉れる良い機会の様で、この番組は特筆ものでした。言葉が意味を為さなくなる雄大な自然は、エッセー作家にも再度自分を見つめ直す機会を与えて呉れた様で、段々と素直になって行く自分を見つめ素直に書き込んだエッセーは今後の飛躍を予感させるものがありました。又、イタリア人ガイドも、ローマ生まれのアルピニストですが、体験した圧倒的な自然の存在感を自分の中で育てる目的で、カトリック信者ではありますが日本を訪問して禅寺修行をした人で、自然を押しつけるのでも無く、淡々と体験者にトレッキングを考えさせながら物静かな案内に徹する紳士で好感が持てました。平地から見るドロミテ山塊をスライドショーでご覧下さい!素晴らしい山岳風景の広がるドロミテ山群、機会を見つけて再訪し、夕日に映えるドロミテを見てみたいものです。昨年書きました日記を参照して下さい!
2004.01.19
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テレビ朝日の午後11時過ぎから僅か5分の「世界の車窓から」と言う番組があります。CMなどがありますので、実質3分程度の内容しかありません。本年初から、オーストリア編で「ツィラータールSL鉄道」として紹介されていましたので、玩具の様な蒸気機関車の遊覧鉄道の鉄道風景を珍しく毎日ずっと見ていました。多分撮影は、チロルの緑が輝く夏に行われた様な気がしますが、何とも長閑な美しい自然が映し出されておりました。寒い冬に放映されると余計に魅力もでて来てしまいます。終点はチロル最大の高原湖「アッヘン湖(Achensee)」、鉄道を降りた観光客はアッヘン湖に用意された遊覧船に乗って、美しい湖水に写る高原風景を満喫している姿がシリーズ最後の映像でした。インスブルックで泊まったホテルのご主人に勧められて、30分程掛けて「アッヘン湖(Achensee)」にレンタカーを使って行って見たのは2000年6月のことでした。到着したのは夕刻でしたので、SL鉄道便は終わってしまって利用出来ませんでしたが、湖畔を散策する観光客が沢山いたのが印象的でした。標高950mにある、氷河が谷を堰き止めて出来た湖ですので、周囲のアルプス山塊は深い傾斜で湖に落ち込んでいますので「チロルのフィヨルド」とも讃えられている様です。オーストリアのチロル地方は美しい渓谷に富んでいて、又行って見たい所の一つですので、過去に書きました日記にも紹介させて頂きます。
2004.01.09
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海外旅行の手頃なサイズの土産として、花をポットに差し込んだ様な磁器があります。纏まったブーケの様な趣がありますし、少し丸い形をしていますので割合しっかりと包装をすることが出来ます。そうすれば、手持ちの旅行鞄の中に入りますので、壊れやすい焼き物も手軽に持ち運べるのが良いと思います。この土産焼き物の代表格メーカは英国コールポート社でしたが、古い昔に営業成績不振から買収された話だったのですが、どうなったのでしょうか?インターネットで調べて見ますと、1750年創業の老舗コールポートは1925年コールドン社に買収され、更に1967年英国磁器メーカの雄ウェッジウッドに再買収されて今日に至っている様です。今ではウェッジウッド傘下の工場として独自の活躍をしているようです。コールポートの花の磁器(Floral Studies)は1972年カナダのバンフ国立公園内のバンフ・スリングス・ホテル内の売店で購入したものです。Royal AdderleyのFloral Bone Chinaは1991年ヨーロッパのどこかで購入したもので、購入場所はイギリスでは無かった様な気がしますが良く覚えていません。私はこのCoalport 製のBone Chinaが結構好きでして、白くて飾りのない清楚なティーカップ・ソーサやディナープレートを揃えて購入してあります。ウェッジウッド製の豪華なものより、気軽に使えると言うのが購入の動機でした。こちらのテーブルウェアの方は安全上、しっかりとした別送扱いが良いと思います。何れにしても古い昔の話となりました。コールポートHPはこちらで英語版のみです。ウェッジウッドHPの中に組み入れられていました。磁器に興味ある方は覗いてみて下さい!
2003.12.27
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この一年間に日記に書いたフランス・ベネルックス各所訪問紀行を纏めて置くことにしました。フランスの地方に行きますと英語が通じないことが多く、片言のフランスで往生したことが懐かしい思い出です。田舎は何処の国でも良いものですが、冬季オリンピックが開かれたアルベールビルのあるサボア山中は素晴らしい所でしたのに写真が殆ど残っていないのが残念です。 他の各所案内と同じようにクリッカブルリンクを使って造りましたので、地域名の所までカーソルを移動させますと矢印マークが手マークに変わりますので、其処をクリックしてご覧下さい。フランス各所とは書きましたが、パリ以外はトゥールーズに一泊、ブルゴーニュ地方のディジョンに一泊、サボア地方のモダーヌ・オーソアに各一泊したことがあるだけで、リヨンには宿を取ったことはありません。シャモニー訪問もジュネーブからの日帰りドライブで行って来ただけです。そこで、ベネルックス三国を入れて案内させて貰うことに致します。フランスは広い国土を有し、昔からの大国で現在でもユーロ社会の中核国として君臨している様です。一方、ベネルックス三国は狭い国土ですが、ユーロ本部がベルギーのブリュッセルに置かれた様に、強かな政治外交を展開して独自の文化を育んで来ているようです。ベネルックス三国はフランス、ドイツとは違って英語が良く通じるので、日本人観光客も少し安心出来ると思います。オランダには1991年3月に調査旅行として最初の訪問、アムステルダムに一泊フォレンダム観光し、北東ホーランド地方訪問後、即日ドイツのケルン市に入りました。1997年4月はライン河の川下り、レンブラント「夜警」、チューリップ公園観光を目的に二回目の訪問となりました。この時はベルギーにも足を延ばし、ブリュッセルにてフランドル派の名画も鑑賞出来ました。1998年3月は、ハーグでの業務旅行でアムステルダム、スヘフェニンゲンに各一泊、翌日の帰国前にロッテルダム美術館でブリューゲルの名画「バベルの塔」を見ることが出来ました。1997年以外は、観光目的では無かったので残念ながら写真は残っておりません。
2003.12.24
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北欧は海外観光旅行地として人気のある地域の一つです。オーロラ、白夜、フィヨルドと日本では経験出来ないものばかりなので、一回は体験してみたいと思うからでしょうか?私の北欧案内とは言いましても、1998年6月に一回だけそれも1週間足らずの旅行でしたので大した案内が出来る訳ではありません。従って、このページは一寸とした案内と言うよりは旅行経験談と言った方が適切だと思います。スウェーデンのストックホルムで開かれた米国機械学会に論文講演の為出席したのを機会に、北欧出来るならば雄大なノルウェーの自然に触れて見たいと思ったのです。ストックホルムもノルウェーの首都オスロもほぼ北緯60度に位置していますが、この緯度ともなりますと6月は夜遅くなっても、真っ暗になると言うことはありません。日本で言う薄明るい夕暮れの状態のまま夜が過ぎて朝を迎えます。学会の前々日にストックホルムに着いた時は快晴でしたが、翌日の日曜日から水曜日までは雨が強く降りました。オスロまでの飛行機は予約できたのですが、ホテルがどうしても取れませんので空路によるオスロ行きは断念することになりました。ストックホルムから南端のマルメ市まではスウェーデンが誇る特急列車で行きました。市内見物する所もあまりありませんでしたので、夕方から船に乗ってコペンハーゲンのチボリ公園に出掛けました。1998年当時はマルメ-コペンハーゲン間には橋が完成していませんでしたのでこの国際船が唯一の交通手段でした。マルメ市では夜はすっかり暗くなりますが、少し南に移動しただけなのに、その変化は驚きです。マルメ市からヨーテボリ市へは再度鉄道を使い、午前中に到着、市内を徒歩で見物しましたが清潔な町でした。そこでのホテルにオスロのホテル予約を依頼しましたが、やはり満宿で取れませんが隣町のドラメンに提携ホテルがあるとのことでしたので、急遽レンタカーを手配し一泊旅行をすることになりました。翌日のオスロまでのドライブは快晴でもあり快適でした。オスロ市内見物をしてドラメンのホテルで一泊しました。しかしながら、翌々日は再度冷たい雨の中、防寒具を纏いながら世界的に有名なホルメンコーレンのジャンプ台、多くの石像彫刻を置いてあるフログネル公園等を見学した後、ヨーテボリ迄戻りました。 クリッカブルリンクを使ったWebページに整理して見ましたのでご覧下さい。出来るだけ過去に書きました楽天日記にリンクさせたかったのですが、書いていない所は他のWebページにリンクさせてあります。今頃は、極端に日が短くなって通常の観光旅行は北欧には向きません。
2003.11.02
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1995年9月ドイツの小さな町ツバイブリュッケン(Zweibruecken:二つ橋の町)のメーカとの打合せ、シュトゥットガルトでは大学航空宇宙学科の世界的に知られた研究設備調査のため出張しました。ツバイブリュッケンはザールブリュッケン近くのフランス国境のこぢんまりした町ですが、1000年以上の歴史を持つとので、英語は全く通じませんが田舎の感覚が残っている良い町でした。シュトゥットガルトも駅前にある王宮は立派で広い庭を散策するにも事欠来ませんし、シュトゥットガルト郊外には世界的な自動車メーカであるベンツの工場があることでも知られている工業の町でもあります。週末に時間が出来ましたので、シュトゥットガルト駅で車を借り日帰りでフュッセン郊外のノイシュバンシュタイン城、ロマンチック街道最大の町アウグスブルクに行って見ました。アウグスブルクは町中央も全て石畳の道路で古い歴史を感じ、秋のヨーロッパ良い天気を満喫したドライブでした。その翌日は鉄道でアインシュタイン生誕の地ウルムに行き、ドナウ川に沿ったウルムの町を散策しながら、161mの尖塔に登って景観を楽しみました。小さいながら魅力のある町でしたが、アインシュタインの偉業を記念するようなものが殆どありませんのは残念でした。彼の出自がユダヤ人であることが、ドイツの汚点ナチスとの関連で暗い陰を落としているだろうと思わざるを得ませんでした。町のシンボルとなっている世界一高い尖塔を持つ教会ウルム大聖堂は、ケルン大聖堂程の豪華さはありませんが、荘厳な気持ちになります。丁度、パイプオルガンの演奏が始められていて、素晴らしい音響効果を実感しました。 この旅行はキャプション付きの写真アルバムに纏めましたのでご覧下さい!ピンク色で表示したルートがそれです。緑色の表示ルートについては昨日の日記をご覧下さい。
2003.10.21
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子供も成人してしまい、段々と家に居着かなくなり、夫婦二人だけの生活が顕著になった頃、勤続30年の旅行券30万円が会社から支給されましたのは1994年秋のことでした。その他、特別休暇も一週間認められたのです。その頃は未だリストラの嵐も吹き荒れていませんで、勤続年数の長さが奨励される気運が残っていたのです。有効期間は1年と言うことで、翌年の1995年10月、夫婦二人だけの初めてのヨーロッパ旅行をすることになりました。近畿日本ツーリストに行って、往復航空券と最初二日間の宿泊代金を予約することになりました。30万円では不足でしたので約10万円余追加しました。日本航空を指定し、成田-フランクフルト往復、フランクフルト-ミュンヘン片道とし、ミュンヘンからレンタカーでロマンチック街道を通ってノイシュバンシュタイン城に行き、翌朝からザルツブルクに行き一泊、ウィーンで一泊、そこからプラハ、ニュルンベルクで宿泊し、古城街道を通ってローテンブルクを見てフランクフルトに戻って来る計画としました。 大分強行日程でしたので大変でしたし、プラハの予約したホテルが見つからず困った思いもしましたが、素敵な秋の自由旅行を満喫しました。レンタカー代、宿泊代その他を含めて合計費用は60万円を超えました。今ならもっと安い旅行が種々あって、もっとバラエティのある計画が出来るかも知れませんが、1995年頃として妥当なものだったと思います。この旅行はキャプション付きの写真アルバムに纏めましたのでご覧下さい!緑色で表示したルートがそれで、総計距離は900km程度でした。ピンク色で表示しましたのはその前の月にビジネス旅行で行った時週末を利用してのルートですが、明日にでもアップする予定です。その後は夫婦二人での自由旅行は、1997年4月のライン河下り、1998年6月の北欧旅行、2000年5月チロル旅行と続いて行きましたが、旅の様子はHPにリストされています。
2003.10.20
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ドイツ観光最大のハイライトとも思われますノイシュバンシュタイン城の建設は、バイエルン王ルードビッヒ二世が莫大な借金の下で1869年に始められました。1869~1873年に城門館が建てられ、2~3階内部も仕上げられました。1884年には本丸がほぼ完成し、ルードビッヒ?世が最後の2年間を過ごしたようですが、1886年にシュウタルンベルク湖畔で謎の死を遂げてしまいました。バイエルン王国の財政逼迫もあり、王の死後、建設作業は実質的に中止となりました。宮殿本丸3階、騎士の館もそのままで残されました。婦人部屋は1890年に建てられましたが、図面にあった装飾や塔も省かれ、シンプルな形となりました。本丸と並んで目を惹くはずであった高さ90メートルの天守閣は、全く着工されることはありませんでした。その他テラス、浴場、本丸3階のムーア人広間も全て、着工中止となったのです。何か悲しいロマンを誘うノイシュバンシュタイン城は、バイエルン地方にあるロマンチック街道の終点にもなっています。未完ではありますが、美しい城の姿は訪問客を魅了し、しばし眺め、写真撮影しつつロマンに浸らせるのです。絶好の撮影場所は、城の裏手の渓谷に掛かるマリーエン橋、ここからの写真が紹介されることが多いようです。 遠くからノイシュバンシュタイン城を遠望して見ますと、自然の中に小さく見えて、人の営みも小さく見え、別のロマンを誘うことになるかも知れません。最初のスライドは隣山にあるロープウェイのゴンドラから撮影したものですが、遠すぎるのと途中から城が見えなくなりますので、このロープウェイから撮影はお勧めできません。上から見ても、下から見ても、横から見ても周囲環境にマッチした美しい城であることは疑いありません。ルードビッヒ二世が傾倒し、庇護した音楽家リヒヤルト・ワーグナーに「私は古い城の廃墟に新しい城を建てようと思っている。其処は見つけ得る限り最も美しい場所です」と書いています。
2003.09.19
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ドロミテ山群での一番の景勝地ミズリーナ湖に行きそびれた経験を紹介して見たいと思います。ドロミテ山群見物にはオーストリア・チロル地方の中核都市インスブルックから出掛けました。2000年5月中旬の暑い夏と思える絶好の天気の日曜日でした。国境のブレンナー峠(ゲーテがイタリア紀行で通過した峠です)の手前にガソリンスタンドが開いていたのですが、イタリアに入っても給油は出来ると思いそのまま通過しましたが、これが失敗でした。確かにイタリア側にもガソリンスタンドは多数あったのですが、日曜日は全て無人となっていたのです。カトリックの伝統の強い国では日曜日は安息日で、原則働かないのです。コルチナ・ダンペッツォ迄行こうとドライブして行きましたが、ガソリンが少なく不安でした。有人のガソリンスタンドは無く、又クレジットカードでは無人給油出来ませんので困りました。兎に角ドロミテ山塊を遠くに見ながら、コルチナ・ダンペッツォに到着しましたが町中のガソリンスタンドは全て無人で給油が出来ません。素晴らしい景勝の地、ミズリーナ湖に行って見たかったのですが、訪問断念し引き返すことにしました。コルチナ・ダンペッツォからの帰り道でもドロミテ山群はよく見えました。石灰岩が浸食され、異様な姿の山々があります。これでも周囲から見ている感じなので、中心地ミズリーナ湖では、素晴らしい景観が楽しめただろうと残念に思いました。前日ホテルを紹介してくれた旅行案内所では、ドロミテ山群を訪問する時はミズリーナ湖を是非訪問する様にと地図にマークをして呉れたのですが、その地図をホテルに置いてきてしまったのです。コルチナ・ダンペッツォからミズリーナ湖は目と鼻の先の距離でしたので残念なことをしました。気まま旅行をするとこんな失敗は頻繁に起きます。マヤ文明のチチェン・イツァ遺跡の時もそうでした。しかし又失敗を省みず、再訪したいと思っています。インスブルックからチロルの旅紀行もフォトアルバムでご覧ください!
2003.07.25
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今日は逸品ぞろいの絵画が揃っているハーグにあるマウリッツハイス美術館を紹介したいと思い、1997年4月訪問時の写真アルバムを開いて見たのですがレンブラントもフェルメールも皆ピンぼけですので、お見せ出来ません。そこで、家にあるフェルメール画集に「デルフトの眺望」がありましたので、デジカメ撮影及びスキャンして紹介することに致します。「デルフトの眺望」を含め、フェルメールの作品5点をスライドショーでご覧ください!「デルフトの眺望」を“世界で最も美しい絵”と評したのはゲーテだと思ってきましたが、もしかしましたらプルーストだったかも知れません。ゴッホもこの絵には感激した様で“想像していたのと全く異なった色が使われている。”と驚いています。風景画でこれほど人に感動を起こさせる絵も珍しいと思います。画商で画家のフェルメールは1632年に、オランダのデルフトに生まれました。1653年画家のギルドに登録されています。1655年家業の画商を継ぎ、絵画鑑定にも能力を発揮したようです。その頃にはギルドの会長にも推挙され、名声は高まり、寡作であった彼の絵は完成と共に全て売れてしまった様です。 1674年にオランダの新しい税制導入と共に画商が立ち行かなくなり、生活は困窮を極め、同年彼が亡くなった時には負債しか残さなかったと言われています。寡作であり、デルフト付近のみに収蔵されたこともあり、彼の仕事は急速に忘れ去られたのです。所が突然19世紀末に評価が高まり、フランス20世紀前半の小説家プルーストが取り上げることで決定的となり、“17世紀はレンブラントの時代であると共に、フェルメールの時代である。”とさえ言われる様になりました。彼の作品は36点しか残されておりません。マウリッツハイスに3点、アムステルダムにも3点のみで、ルーブルには1点、ロンドン王立美術館に3点、ニューヨーク・メトロポリタンに3点、ワシントン国立美術館にも3点と散在して展示されているに過ぎません。画家が見たままに何のデフォルメも加えないで、「日常生活を、非物質化し、霊化し、永遠化する。」と言われる画法は、多くの鑑賞者を優しい幸福感に包み込むようです。彼の描いた絵の質感は、布にしろ糸にしろ、パンにしろ牛乳にしろ、驚く程で思わず近づいて見て、じっと観察しなければならない程なのです。
2003.07.01
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アムステルダムの国立美術館の至宝であるレンブラントの「夜警」は大ホールの一番奥のスペースに展示され、その存在感を誇示しています。しかしこの絵は元々アムステルダム市の自警団6支部の内のある支部活動を描いた6枚の内の1枚であり、自警団本部に75年間飾られていたものです。レンブラントは明暗を強調する画法であったこともあり、汚れが目立って来てまるで夜の場面の様に見えたことから、1808年頃から「夜警」と呼ばれる様になったようです。 この絵が完成したのは1642年、その後自警団が解散し、1715年本部ビルがオークションスペースとして使われる様になったので、現在のアムステルダム市内宮殿に移されることになりました。その際、ホールのドアを通すことが出来ない為、絵の一部が切り取られることになりました。従って、彼の描いた34名から3名が切り落とされてしまいました。1815年に現在の国立美術館の所にあった建家に移送展示され、1885年国立美術館の新建家完成と共に現在の所に収まった様です。1642年完成以来、何度も洗浄・修復が行われています。1687年には自警団本部に飾られていた絵画全てが修復されているので、この「夜警」も当然その中の一作品でした。1715年移転の際は、洗浄し且つ残念な一部切り落としが行われました。その後1771年、1851年、1884年、1906年、1946年と洗浄・修復が行われ、1975年には画面補強の為に裏側にキャンバスが追加されることになりました。この絵は、切り取られる前の原画模写が残されています。サイズもとても小さく(多分F8位と記憶しています)。制作年度は模写なので明確では無いのですが、Gerrit Lunden(1622 - 1683)と言う人によるもので、その模写絵を見ると差し上げた旗も画面内にあり全体がゆったりした感じがします。この模写絵は「夜警」横の小さな展示室に、他の説明資料と共に展示されていますので、訪問される際は見逃さないで下さい。尚、レンブラントの優れた明暗法技法についてはこちらを参照ください!
2003.06.30
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ロマンチック街道最大の町で、バイエルン州第三の都市となっています。この町はローマ帝国のアウグストゥス皇帝の治下に通商路として開かれ、2000年の歴史を誇っています。16世紀には大富豪フッガー家の台頭と共にヨーロッパ商業の中心地になりました。プロテスタントとカトリックの宗教和解が行われた場所として名高く、芸術家を輩出している町でもあります。古くはモーツアルトの父の出身地、現代では劇作家ブレヒトの生誕地として知られています。又、ディーゼルエンジンの生みの親であるディーゼルの出身地でもあります。 1995年9月に訪問した時は夕刻でした。町を散歩していると突然、強風が吹いて来て激しい夕立となって終いましたのであまり写真は残っていません。日本からのロマンチック街道旅行ですと、ローテンブルクと白鳥城が中心となり、アウグスブルクはバスで走り過ぎる場合が多い様ですが、下車してゆっくり市内見学をして歴史を噛みしめる価値のある町だと思います。ミュンヘンから列車で30分程で着くことの出来る観光にも便利な所です。
2003.05.05
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ウルム市大聖堂の尖塔の高さは有名なケルン大聖堂の尖塔より2メートル高く、161.5メートルあって世界一だそうです。この聖堂も14世紀に建設が始まり、尖塔が付け加えられたのは19世紀になってからと言う長い歴史の重みがあります。有料ですが、この尖塔は登ることが出来ます。狭い螺旋系の階段789段を上るのは、一気には出来ず途中の踊り場で一寸一休みしなければならず大変です。途中のすれ違いには“Guten Tag”“Wiedersehen”と声を掛けながら、少し広いと思われる所に身を寄せてスペースを作ってあげる必要があります。しかし、登り詰めた後楽しめる眺望は素晴らしいの一語です。1995年9月に大聖堂を訪問し、内部に入った時はパイプオルガン演奏がされており、しばし礼拝席に座って聞き惚れました。その後尖塔に登り、天気は曇りでしたが素晴らしい眺望を堪能しました。ヨーロッパの教会では、出入り口近くに教会経営の売店が多く見られます。ウルム市大聖堂では、感銘を受けたパイプオルガン演奏CDがありましたので購入をして、その後時々聴いております。
2003.05.02
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ウルムは20世紀最大・最高の物理学者アインシュタインの生まれた町ではありますが、それを誇りにする記念物・記念館は殆どありません。寧ろ世界一高いゴシック様式の教会を誇りにしている様です。確かに高速道路でウルム市を通り過ぎる際にも、一際目立つ尖塔の高さが良く分かります。シュトゥットガルト市、ミュンヘン市からほぼ等距離に位置し、列車でおよそ1時間で行くことが出来ます。町はドナウ河に面しており、駅前から大聖堂を経てドナウ河の川辺に至るまで旧市街が広がっています。時計台と壁面のフレスコ画で知られている市庁舎は、一見の価値があります。旧市街のフィッシャー地区には、古い民家で魅力的な建物が多いので、散歩がお勧めです。その中で「傾いた家」と言う変わった建物がありますが、眼の高さにある屋根が湾曲し傾いているのです。年代と共に劣化したのかと思うとそうではありません。わざわざ、その様に造ってあるのです。1995年9月に訪問した時は、薄曇りの天候でした。ケルンとは違って観光客が多く無く、威圧的に見える大聖堂前の広場は閑散として広く見えました。アインシュタインで「アカンベー」をしている写真が残っていますが、ウルム市には邪気払いをするお祭りをする風習があり。その際に「アカンベー」をすることを最近テレビで紹介していました。日本の秋田に残る「なまはげ」の風習に似ています。近日中に、世界一高い尖塔からの眺望をお見せしたいと思います!
2003.05.01
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バーデン・ヴュルテンブルク州の州都で、ベンツ自動車の本拠地として知られています。アクセス交通としてはフランクフルトからICE特急で2時間で行くことが出来ます。又哲学者ヘーゲルが生まれた町で、文学者シラーが活躍した文化都市としても知られています。音楽も盛んでミュンヒンガー率いるシュトゥットガルト交響楽団は質の高い演奏をすることで非常に有名でした。駅に着きますとベンツの大きなマークが目に付きますが、駅前の地下道を潜って出て来ると店の並ぶケーニッヒ通りがあり、真っ直ぐ通り過ぎると広々とした宮殿広場があります。広場の東側には新宮殿、南側にはルネッサンス様式の旧宮殿があります。その外れにはシラー広場があって、シラー記念像も見ることが出来ます。ヘーゲルの生家は記念館として保存されていますが、それ程遠くない所にあります。シュトゥットガルトは丘陵地帯に発達していますので、中心街以外は坂道の多い町並みが並んでいるのです。1995年9月にはシュトゥットガルト大学の航空宇宙学科を訪問しましたので、市内徒歩見物もしたのですが殆ど写真が残っていません。ホテルは宮殿広場脇と言うAm Schloss Gartenに泊まり、紹介して貰った店でマイセンのブルーオニオンを購入しました。シュトゥットガルト大学の航空宇宙学科は超音速研究で世界的にも名を知られた大学で、郊外にありますので地下鉄を使って行くことになります。
2003.04.29
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北欧の観光シーズンは夏、特に初夏は最も混雑する様です。確かに湿気もない快適な気候が気持ちが良く、夜遅くまで外出散歩していても一向に暗くはなりませんので北欧の雰囲気を疲労困憊するまで満喫出来ます。オスロの中心街はカール・ヨハン大通りに沿って展開しています。先ずオスロ港を見学しますが、フィヨルドの港と言う感じはありませんで、普通の海に面した港です。この時期は明るい太陽を求めて人々が屋外で時間を過ごすことが多く、結構混雑しているようです。有名なムンクの絵画「叫び」を所蔵する国立美術館は大通りから少し入った通りにありますので、行ってみましたら大勢の日本人観光客で一杯だったのには驚きました。1998年6月初旬に訪問した時は、天気の良い暑い日でした。駐車場はオスロ市庁舎近くに見つけて駐車しました。ヨーロッパの大都市では中心街に直ぐ駐車場が見つけること難しく珍しいことです。オスロは中都市なのだろうと思います。実はストックホルムから宿を探したのですが満宿で取れませんでした。そこでヨーテボリからトライしたのですがやはり満杯で駄目でしたので、泊まったホテルで隣町Drammenに宿を紹介して貰いオスロに来たのです。このオスロの宿事情の逼迫は日本人が起こしていたことが分かりました。此処でもライラック、シャクナゲ等の花が咲き乱れている絶好の観光シーズンでした。
2003.04.20
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北の国では6月になると日が長くなり、暖かくなり過ごしやすいので観光に訪れるには最適な季節となります。日中の日向の場所でもそれ程暑さを感じること無く、歩き回ることが快適に思えます。しかし、一転天候が悪くなると気温が驚く程低下して来ます。北欧では特に顕著で、観光地で知られるストックホルム、オスロの双方で、冷たい雨を経験することになりました。1998年6月上旬にオスロ訪問の2日目は冷たい雨となりました。有名なホルメンコーレンのジャンプ台を見ていた時は、しのつく雨となりました。丘を降りて来て、フログネル公園に入った時は一時止みましたが、それも長続きしない冷たい一日でした。場合によっては雪の降ることも考えなくていけませんので、防寒具は欠かせません。北欧でもカナダでも、そんな準備は必要です。
2003.04.19
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オスロは北緯60°に位置していますので、夏至でも白夜とはなりません。しかし、真夜中12時になっても漆黒の闇とはならず、夕闇が迫って来たと言う感じになるだけです。オスロ市内から30km西のドラメン市で夜8時に夕食も済ませましたが、未だ昼間の様に明るいのでドラメン市からオスロ湾の突端までドライブすることにしました。湾岸道路には殆ど人通りも車の交通も無くゆったりとドライブ出来ます。 訪問したのは1998年6月初旬でした。漁師小屋にも入って行き漁師の方に漁成果などを見せて貰いましたが、漁の中心は秋鮭を捕ることの様でした。地図にはオスロ湾はオスロフィヨルドと記載されていますが、有名なベルゲン近傍のフィヨルドと異なって切り立った断崖はありません。多分フィヨルドの大部分は海中に没して山頂のみが辛うじて海上に出てきているのだと思います。
2003.04.17
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