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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
遠くへ行きたい
2024.06.09
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 日蓮は1222年生まれ、12歳で千葉県の清澄寺で修行を始め16歳で出家して僧侶になりました。
 僧侶として出家した日蓮は、仏教界の既成概念を覆すような新しい教えを展開しました。
 ”日蓮 「闘う仏教者」の実像”(2023年11月 中央公論新社刊 松尾 剛次著)を読みました。
 天台宗ほか諸宗を学び、日蓮宗を開いて法華経の信仰を説き、激動の鎌倉時代を生きた日蓮の生涯を紹介しています。
 日本の主要な仏教の流派を研究して、法華経が唯一の真の教義であることを宣言しました。
 1253年に南無妙法蓮華経、つまり法華経に帰依するという真言を発表しました。
 最初は拒否されましたが、教えは今日の日本の仏教の支配的な伝統の一つを形成しています。
 身延山久遠寺の建物や記念碑の多くは、日蓮とその教えに捧げられています。
 松尾剛次さんは1954年長崎県生まれ、東京大学文学部卒業後、1981年に同大学院人文科学研究科博士課程を中退しました。
 同年山形大学講師となり、助教授を経て教授に就任しました。
 1994年に東京大学文学博士となり、山形大学都市・地域学研究所所長を兼務しました。
 2019年3月に山形大学を退官し、東京大学特任教授、日本仏教綜合研究学会会長などを歴任しました。
 現在、山形大学名誉教授で、専門は日本中世史、宗教社会学です。
 官僧・遁世僧研究を基点に、中世日本宗教史の見直しを行なっています。
 日蓮は1222年に安房国長狭郡東条郷片海、現在の千葉県鴨川市小湊で生まれました。
 幼名は善日麿、父親は三国大夫の貫名次郎重忠、母親は梅菊女だという伝承があります。
 1233年に清澄寺の道善房に入門し、1238年に出家し是生房蓮長の名を与えられました。
 1245年に比叡山・定光院に住し、1246年に三井寺へ、1248年に薬師寺、仁和寺へ、1248年に高野山・五坊寂静院へ、1250年に天王寺、東寺へ遊学しました。
 1253年に清澄寺に帰山し、4月28日の朝に日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱えたといいます。
 この日の正午に清澄寺持仏堂で初説法を行い、名を日蓮と改めました。
 中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受け、清澄寺を退出しました。
 1257年に富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経を奉納し、1258年に実相寺にて一切経を閲読しました。
 1260年に立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送りました。
 建白の40日後、他宗の僧らにより松葉ヶ谷の草庵が襲撃されましたが難を逃れました。
 その後、ふたたび布教を行いましたが、1261年に伊豆国伊東、現在の静岡県伊東市へ配流されました。
 1264年に安房国小松原、現在の鴨川市で念仏者の地頭・東条景信に襲われ、左腕と額を負傷し門下の工藤吉隆と鏡忍房を失いました。
 1268年に蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となりました。
 日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫りました。
 1269年に富士山に経塚を築きました。
 1271年に良観・念阿弥陀仏等から連名で幕府に日蓮を訴えられました。
 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場で処刑されかけましたが免れました。
 その後、評定の結果佐渡へ流罪となりました。
 流罪中の3年間に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述し、法華曼荼羅を完成させました。
 1274年春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれました。
 「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁を行いました。
 その後、身延一帯の地頭である南部実長の招きに応じて、身延へ入りました。
 1274年に予言してから5か月後に蒙古が襲来し、1281年に蒙古軍の再襲来がありました。
 1282年に病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため、身延を下山しました。
 10日後、武蔵国池上宗仲邸、現在の本行寺に到着し、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定めました。
 10月13日に池上宗仲邸、現在の大本山池上本門寺にて享年61歳で入滅しました。
 日蓮の61年にわたる人生は波乱万丈で起伏に富み、魅力に満ちています。
 日蓮が活躍した時代は、地震・疫病などの天変地異が頻発し、さらに蒙古襲来という未曽有の危機に見舞われました。
 こうした状況は末法に入って200余年後の状況と認識し、正法である法華経を広める活動を進めていきました。
 しかし、その活動は激しい他宗批判を伴い、殉教の覚悟をもって行われ、伊豆、佐渡へ配流されることとなりました。
 日蓮が生きた時代は法難もあって、さほど多くの信者を獲得できたとはいえませんでした。
 しかし、弟子たちの布教活動によって15世紀には京都の町衆に浸透していきました。
 江戸時代初期の芸術家の、木阿弥光悦や俵屋宗達らも信者でした。
 近代において、国柱会の田中智学や顕本法華宗の本多日生が提唱した日蓮主義は、日本が中国侵略などを進めるイデオロギーの一つとなりました。
 日蓮主義は、日蓮の教えを信仰のレペルにとどめることなく、政治・社会・文化運動にまで拡張した点に大きな特徴かあります。
 日蓮主義は法華経にもとづいて、天皇を中心とする日本統合と世界統一の実現により、理想世界の達成をめざした活動です。
 日蓮主義は大きな影響力をもち、宮沢賢治、石原莞爾、井上日召らも国柱会の会員であり、田中智学の信奉者でした。
 また、霊友会、立正佼成会、創価学会といった現在において大きな勢力を有する新宗教の教団が日蓮系です。
 とくに、創価学会は現在の新宗教教団の中で最大の信者数を誇り、政権与党公明党を支える在家教団です。
 日蓮の宗教は、中世以来、近現代に至るまで人々に生きる力やモデルを与えてきました。
 本書では、そうした人々の心を捉え、人々に生きる力を与えてきた日蓮とは何かを考察していくとのことです。
 本書は、思想史的な成果に学びつつも、歴史学的な方法論を駆使して、日蓮の実像に迫ろうとしています。
 日蓮が生きた中世の宗教状況を明らかにしつつ、その中で日蓮の言説を見直したいといいます。
 日蓮がライバル視し、激しく糾弾した鎌倉極楽寺の僧忍性との関わりにも注目しながら、日蓮の実像に迫りたいということです。
第1章 立教開宗へ(安房に生まれる/貫名氏の出身 ほか)/第2章 立正安国への思いと挫折(鎌倉での日蓮/『守護国家論』 ほか)/第3章 蒙古襲来と他宗批判(念仏系寺院の展開と法難/伊豆配流 ほか)/第4章 佐渡への配流(文永八年の法難/教団の離散と改宗者の出現 ほか)/第5章 身延山の暮らし(日蓮赦免/身延入山 ほか)

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Last updated  2024.06.09 05:31:00
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