2002/05/28
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 1976年講談社から出た、1~5章収録の「定本 死霊」版。
 残り20頁ほどのところで雷雨が来たので、雷見物をした。部屋の明かりを消し、濃いサングラスをかけ、窓をスクリーンに見立てて、烈しい雨音を聴きながら暗い空を観る。真ん中の窓枠に隠れるほど小さいなもの、スクリーンの外に気配だけがするもの、龍のように長く逞しいもの、人間の手のレントゲン写真のように多く分れているもの。観ていて飽きないが、目にはあまりよくなさそうで、長時間続けるのは止したほうがいい。
 置き場所は限られているから、値段はそのままでいいから本は全部最初から文庫サイズで出してくれと日頃から思っている私は、それだけで威圧感を与える一冊の書物にたいするありがたみや、稀覯本にはあまり興味がない。しかし、この死霊という分厚い、黒い、暗い、手で支えながら読むのは疲れる本には圧倒された上に、これを所有していることがちょっと嬉しい。読むのに長時間かかるうえに、この後9章まで続くも、作者の死により結局未完ということを知っているので、徒労が文字通り重くのしかかるのだが。
 付箋119枚を使った。これらを貼られる前の状態で積み上げると、約1、1ミリメートル、小指一本挟んだと同じくらいの厚さになる。にもかかわらず、両側から圧する黒い表紙により本の形態はほとんど変容していない。
 一人の読書家の老人が死の間際に、「あれも読んでおけばよかった、これも読んでおけばよかった」と後悔する瞬間、この本を読んでいなかったことを後悔する必要はない。死ぬまでに必ず読んでおくべき本など何もないが、あるゲーム好きが「たけしの挑戦状」をクリアしなかったから死んでも死にきれんと思うことはないのと同様に、物語の結末は字義通り死んでもわからないのだから、気にしながら死ぬよりは何も気にしないで死んだ方がいい。「たけしの挑戦状」の場合は苦労してエンディングを見てもたけしにバカにされるだけだが、こちらにその心配はない。
夏目房之介「読書学」 に、著者が仕事帰りの夜八時、死霊を読んでいてふと顔を上げ時計を見ると六時半をさしており、「時間が戻った!」と思うエピソードが書かれていた。実際はただの故障だが、それくらいのことは起きてもいい雰囲気がこの本にはある。この漱石の孫は、「ある時死霊に書いてあることがすんなり理解出来るようになり、すらすら読めた」といったようなことを書いていた。私が死霊を手にとったのも、前々からどことなく好意を抱いていた埴谷雄高を講談社文芸文庫短篇小説再発見で初めてまともに触れ、家にあるもののうちから短篇一編を読み、古本屋で定本死霊を見付け、と、スーっ、スーっと読み始めることが出来た。すんなり理解出来たかはともかくとして。「たけしの挑戦状をクリア」的な、読み終えたことそれだけでネタに出来るから読んだわけでも、難解で、形而上文学の金字塔だから、日本文学大賞受賞作だから、というような雑音は無視し、ただ読みたくなったから読んだ。最近の私の読書は「何故読むか」の理由が欠落している。自然に手が伸びるから読むのであり、意識しなくても息を吸ったり吐いたりするようなものだ。
 内容。5章中盤までは普通に読める。時間がかかったり、変なテンションだったりはするが、つまらないことはない。昭和21~24年にかけて「近代文学」誌に連載された1~4章(ただし4章については大幅加筆、とある)と、昭和50年に「群像」に発表された5章との間には、時間にするとたった20数年の間だが、


 私の暗い頭蓋のなかを小さな蛍火のようにこちらからあちらへ作中人物達が歩きまわるだけでそとへ出てゆかなくなってから幾年かたった。この作品の自序を書いてからすでに七年たったが、その長い歳月の大半を私は病気で倒れたまま、徹夜など気にもかけず飛びまわりたがる作中人物達とただ暗い頭蓋のなかだけで対話してきたのであった。


病床で、長い間、どれも正常とは言い難い(いや、ただ一人、津田夫人のみは愉快に常人だが)人々を頭に住まわせることは尋常ではない。自ら書き起こした物語の作中人物たちの言辞に捕らえられ、あの使い回された言い回しの通り──この作品が書かれた当時では今ほど俗化されてはいなかったろうが──「深淵を覗き込むものは~」なんとやら、だ。

波浪がどんなに繰り返しゆすぶったところで、岩を積み重ねたコンクリートで塗り固めたこの桟橋は、びくともする筈はなかった。これが存在というものだ、と彼は考えた。そして僕に欠けているのは、存在の感情なのだ。この言葉、存在という何か重々しい言葉を彼は最近覚えたばかりだった。勿論、前から知ってはいたのだ。それは小学校の国語読本にさえ出ていた。しかし今、痛切にそれを感じているようには、──それを感情と結びつけて、存在の感情というふうに理解したことは、今までになかった。お前に欠けているのは存在の感情なのだ。それは外国の偉い詩人の書いたものの中にあった。彼はそれを最近、翻訳で読んだのだ。彼は中学校の三年生で、もう何でも読むことが出来た。

福永武彦「夜の寂しい顔」より


 ──、おお、それはこうです。もし人間をその内部に含んでいた存在が、或るとき、或る窮極の、時間の涯のような瞬間、怖ろしい自己反省をして、そこに嘗て見慣れた存在以外のものを認めたとしたら、永遠に理解しがたいようなものがそこに残っていたとしたら、ぱっくり口をあけ虚空の空気が通うほどの巨大な傷がそこに開いているとしたら、そのものは人間からつけ加えられたものだ。それは時期知れぬ、何時の間にか
つけ加えられた。それは、それまで見たことも予想したこともなかった、まるで奇妙な、存在が不動の存在である限り決して理解しがたいものの筈です。おお、それこそ・・・・・・その名伏しがたいものこそ、虚体です! 三輪の問題とは、人間はついに人間を越え得るか、否か、だ。人間がついに永遠の人間性を主張し得るために、むしろ存在をのみこみ、内包するほど茫漠たる巨大な虚体を、目もなく耳もないような忌まわしいその相手へ決然と与え得るか、否か、だ。おお、そうなのです!

「死霊」第3章 屋根裏部屋 より



 死霊を読む合間に他の短篇一つ、と手にとった作品の最初で中学三年生の主人公に語られる「存在」という言葉が、次に目を移した死霊の続きで頻出したという偶然に少し苦笑した。その隔たりの何と大きいことか。一つの言葉に向かうだけで、多くの異種の文章が生み出される。しかし福永武彦の書く中学三年生が「虚体」を語ることはないのが救いだ。 しかし、思っていたよりも死霊は面白いのだが、それぞれの人物の展開する無茶な理論について何か思うとなると、ただでさえたいていのことに対して等距離を持って接することにしている私からは、どの人物の途方もないどの話にも賛成や反対や納得や批判をする気が起こらない。だからこそ面白い読み物として楽しめた気もする。5章で三輪高志が語る千億光年の彼方からの使者との会話には正直呆れ気味だったが・・・・・・。
 とりあえず、図書館で借りて読むにも、後で読み返すときに不便だろうから6章以降はまたむしょうに読みたくなった時に買うことにして、この一冊の為に随分と離れてしまった他の貯まっている本を読みたくなってきた。
 前述の、読書好きの老人が死ぬ間際に読まなかったことを後悔する本、私がその時に思い浮かべるのはきっと、指輪物語やハリー・ポッターだと思う。


埴谷雄高「死霊 1」(講談社)
同 2
同 3
埴谷雄高全集〈別巻〉資料集・復刻 死霊(講談社)
埴谷雄高全集〈3〉死霊 全一巻(講談社) 重いだろうに・・・

私の読んだものは見つからなかった。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2002/05/28 12:31:35 AM
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

Comments

nobclound@ Vonegollugs &lt;a href= <small> <a href="http://hea…
Wealpismitiep@ adjurponord &lt;a href= <small> <a href="http://ach…
Idiopebib@ touchuserssox used to deliver to an average man. But …
HamyJamefam@ Test Add your comments Your name and &lt;a href=&quot; <small>…
maigrarkBoask@ diblelorNob KOVAL ! why do you only respond to peop…

Profile

村野孝二(コチ)

村野孝二(コチ)

Keyword Search

▼キーワード検索

Archives

2026/05
2026/04
2026/03
2026/02
2026/01

Calendar


© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: