🌈ネガ マラゴシプッンゴッ🌷俺が言いたいこと🌸내가 말하고싶은 것🌻我想说的🍑Что я хочу сказать🍋

🌈ネガ マラゴシプッンゴッ🌷俺が言いたいこと🌸내가 말하고싶은 것🌻我想说的🍑Что я хочу сказать🍋

PR

×

サイド自由欄

設定されていません。

プロフィール

(*^−^)ノ  kohtei

(*^−^)ノ kohtei

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

2022/11/12
XML
カテゴリ: ⛳ SPORTS 🧤
安らかに眠れい
もう晩節を汚すことは無い
居酒屋兆治もといサンデー兆治の
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。 ​​

2022年5月
近所の人もとても迷惑だったと思うよ。
夜中の3時に大火🔥が発生し消防隊🚒のサイレン🚨
や作業音で
叩き起こされてな。

延焼し被害が及ばすに村田邸だけで鎮火したのが
幸いだ。9
月末羽田空港北ウイングで女性空港職員に
暴行と言い
老人性痴認知症だったのかも知れない。

部屋着姿の村田兆治さん、床に座った状態で発見…
王貞治さん「まさかこんなことに」

読売新聞 2022/11/11 22:10
11日午前3時15分頃、東京都世田谷区成城、プロ野球・ロッテ元投手の村田兆治さん(72)方から出火、木造2階建て住宅の2階部分約40平方メートルが焼けた。村田さんは2階一室から救助されたが、搬送先の病院で間もなく死亡が確認された。警視庁成城署は一酸化炭素中毒の可能性が高いとみて死因を調べている。
 成城署幹部によると、村田さんは一人暮らし。2階居間の燃え方が激しく、消防が駆けつけたときは部屋着姿で、隣室の床に座った状態だった。
 村田さんは1968年、広島・福山電波工高(現近大福山高)からドラフト1位で、東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入団した。左脚を高々と上げる「マサカリ投法」から繰り出す速球とフォークボールを武器とし、74年にチームの日本一に貢献した。
 82年に右肘を痛め、翌年に渡米して故フランク・ジョーブ博士から肘に左手首の腱(けん)を移植する「トミー・ジョン手術」を受けた。最初の3か月は10メートル投げるのも30球しか許されなかったが、苦しいリハビリを1年間続けて復帰。85年に開幕11連勝を含む17勝を挙げてカムバック賞に輝いた。

 肘への負担を減らすため、当時は珍しい中6日となる毎週日曜日に登板して奮闘する姿は「サンデー兆治」と呼ばれて人気を集めた。
 90年に40歳で現役を引退するまで、プロ23年で歴代17位の215勝(177敗)、同10位の2363奪三振を記録した。一人で投げ抜くことに強くこだわり、完投数は通算604試合で184を数えた。
 全国の離島で白球を追う中学球児が熱戦を繰り広げる「全国離島交流中学生野球大会」(離島甲子園)にも力を注ぎ、野球の振興にも尽くした。
 村田さんの2学年上で読売巨人軍のV9時代のエースだった堀内恒夫さん(74)は「何回でも投げてやるという投手としての生きざま、美学を持っていた。残念でならない」と突然の死を悼んだ。
 村田さんは95~97年、福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)で王貞治監督の下、投手コーチを務めた。王球団会長は「監督時代に3年間一緒にやってくれたが、ずいぶんと苦労をかけてしまった。最近でも離島の子どもたちに元気に野球を指導していたので、まさかこんなことになるとは思わなかった。ご冥福(めいふく)をお祈りします」と哀悼の意を表した。






村田兆治さん、妻との別居状態は10年以上続いていた 知人「最近は寂しそうだった」
NEWSポスト セブン / 2022年11月17日 7時15分
日本を代表する元プロ野球選手の村田兆治さん(享年72)が、火災により死亡した。当時、自宅には村田さんひとり。2人の子供は独立し、糟糠の妻とは10年以上前から別居していたという──晩年の彼に起きていた“異変”とは。

「昭和生まれの明治男」。1990年に開催された、第7回「ユーキャン新語・流行語大賞」。その年は「ちびまる子ちゃん」「アッシーくん」などの新語・流行語が選ばれたが、特別部門の語録賞を受賞したのが、この言葉だった。

 受賞者は、その2か月前に引退したばかりの元プロ野球選手・村田兆治さん(享年72)と妻の淑子さん(74才)。

 村田さんは元ロッテオリオンズのエースで、野村克也さん(享年84)、星野仙一さん(享年70)らと並ぶ球界のいぶし銀だった。通算215勝33セーブを挙げ、2005年に野球殿堂入りを果たす。

「引退後もトレーニングを怠らず、60代でも現役選手顔負けの130キロ台の速球を投げていました。ストイックな性格は私生活でも変わらなかった。家庭では明治時代の家制度を踏襲するような“専制君主”だったそうで、淑子さんが、“昭和に生まれたのに明治男のような性格”と評した言葉が、当時、大きくウケたのです」(スポーツ紙記者)

 頑固一徹で昔気質の男──時代遅れともいわれそうな村田さんの早すぎる死は、プロ野球界のみならず、多くの人に驚きと悲しみをもって受け止められた。

 11月11日の午前3時過ぎ、東京・世田谷区の村田さんの自宅から、爆発音とともに火の手が上がった。

「バタン、ガタンという金属がぶつかるような衝撃音が30分ほど鳴り響いてから、火事になった」(近隣住民)

 119番通報を受けて消防隊員が駆けつけたが、村田さんは心肺停止の状態で、午前5時57分、搬送先の病院で死亡が確認された。死因は一酸化炭素中毒とみられる。

「村田さんは自宅にひとりで、玄関は施錠されていた。出火元は最も激しく燃えていた2階のリビングです。村田さんが見つかったのは、同じフロアにある、衣類などが置かれた小部屋。部屋着姿で床に座っていたといいます。体にやけどなどの目立った外傷はないそうです」(全国紙社会部記者)

 当初、「たばこを手に持っていた」と一部で報じられたが、搬送時の村田さんは何も持っていなかった。

「現状、暖房器具やたばこなど、火の元になるようなものは見つかっていません。一方で、遺書はなく、家族に自殺をほのめかした事実もないようです。『謎の死』を解明するべく、捜査は続いています」(前出・全国紙社会部記者)

火事の2か月前、村田さんは別の事件で世間を騒がせた。9月23日、羽田空港の保安検査場で女性検査員への暴行容疑で現行犯逮捕されたのだ。

「一度金属探知機に引っかかった村田さんは、携帯電話を預けた。しかし、持ち込みのスーツケースにはさみが入っていたため結果は変わらず。ところが村田さんは、“ちょっとどいて”と立ちふさがった女性検査員の肩を押して、むりやり通ろうとしたのです。

 はさみのことを忘れていた村田さんは、別の職員に“スマホを預けたのに、部下の教育はどうなっているんだ”と激高。押し問答の果て、女性検査員の肩を押した行為が暴行とされ、逮捕に至った」(前出・スポーツ紙記者)

 村田さんは25日に釈放され、「もう一度、彼女に誠心誠意謝りたい」と陳謝し、年内の活動を自粛した。

「ライフワークの、子供向けの野球教室ができなくなったことをとても悔いていました。周囲には再起を誓って気丈に振る舞う一方で、まさか犯罪になるとは思っていなかったようで、かなり落ち込んでいた。逮捕後はほとんど引きこもり状態で、家にいるのに、電気すらつけていなかったそうです」(前出・スポーツ紙記者)

 村田さん一家は、妻の淑子さん、長男、長女の4人家族だ。しかし、晩年の村田さんは、世田谷の家にひとりで暮らしていたという。

「お子さんはとうに独立しています。17年間、プロ生活を献身的に支えた奥さんも、10年以上前に家を出たそうです。家族の介護で地元の神戸に帰っていた時期もあったそうですが、現在は、都内の高級マンションで生活していると聞いています。

 暴行で逮捕されたときの身元引受人は、奥さんではなく村田さんの弟さんでした」(前出・スポーツ紙記者)

これが村田家のスタイル
 淑子さんは村田さんの2才年上で、短大卒業後、キャセイ・パシフィック航空に入社。英国留学の経験もある社長令嬢だ。ふたりの出会いは1973年で、同年12月、交際3か月半で結婚。以降はプロ野球選手の妻として献身を続けた。

「子育てと家事はすべて淑子さんが担当し、日々のおかずは13品以上用意。ただ、村田さんが気に入らないと、料理が並ぶちゃぶ台をひっくり返されることもあったそうです。

 淑子さんは常に気を使っていましたが、すべて夫がいい状態で試合に臨めるようにと一心に願っての行動でした」(別のスポーツ紙記者)

 村田さんの口癖は、「野球に口は出さないでくれ」。淑子さんのサポートにより、当時はほとんど前例のなかった手術をアメリカで受けて奇跡の復活を遂げた際にも、その姿勢は変わらなかった。
「村田さんは九回までひとりで投げ抜く完投を信条としていたため、復帰後も球数を多く投げた。負担を心配した淑子さんが『もう少しひじを大事にしたら』と声をかけると、村田さんは『だったらお前が投げてみろ』と言って黙ってしまったといいます」(前出・別のスポーツ紙記者)

 1990年、村田さんの引退の際、心境を報道陣に問われ「17年間、本当にしんどかったです」と明かした淑子さん。翌年、『兆治さん、わたしの直球受け止めて。―エースを支えた妻のホンネとラブコール』(日本文芸社)を村田さんとの共著で出版。その著書では、引退後の夫婦の生活への希望を綴っていた。

《これまでの私たちは、夫婦であって夫婦ではなかったのだと思います。(中略)やり直すのではなく、第二の青春をこれから夫といっしょに迎えるのだと私は思っています》

 彼女は、40代前半で始まった「第二の青春」について、いきいきと話していたという。

「日本語教師の資格試験に合格するため、週3日学校に通い始めたり、子供2人とアメリカ旅行をしたりと、当時の淑子さんはかなりアクティブに過ごしていました」(前出・別のスポーツ紙記者)

 一方で、夫は変化を拒んでいたようだ。前出の書籍で村田さんはこう綴った。

《「男は仕事、女は家庭」古いと言われようが、これが村田家のスタイルであり、私が現役を引退したからといってかえるつもりは毛頭ない》

 その思いは妻に理解されず、ついに別居となったのだろうか。村田家の知人はこう話す。

「実際はお互いのことを理解し合っていたご夫婦だと思いますよ。村田さんは引退後もずっと好きな野球に携わっていて、奥さんもまた、自分のやりたいことをやっていた。

 ただ、どんどん若々しくなる奥さんに比べ、最近の村田さんは寂しそうでした。別居状態は、かれこれ10年以上続いていましたから……」

 火事から一夜明けた12日、淑子さんは子供とともに、遺品整理のために世田谷の家を訪れていた。

 彼女に声をかけたが、うつむき会釈するのみ。代わりに息子が「せっかく来ていただいて。でも何もお答えすることができないんです。ごめんなさい」と答えた。

 淑子さんにとっても想像していない別れだったのだろう。いつまでも頑固で強い「明治男」の最期は、あまりにも哀しく唐突だった。

※女性セブン2022年12月1日号 ​​​​ ​​ ​​ ​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022/11/19 07:45:20 PM
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: