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私の一番古い記憶の一つ、幼児の頃迷子になったこと。歩き始めた頃だったのか、歩くのが楽しくてしょうがなかった頃だから、3歳か4歳だと思う。夕方会社から帰る父を迎えに行くと家を出た。60年以上昔の事ゆえ幼児が幹線道路を一人で歩いて行っても、それほど危険ではなかった。200m程行った交差点で右に曲がるのが父の通勤路だった。それに気付かなかったのか右折せず直進してしまった。当然父には出会えず、やがて人気が無くなり回りは田んぼばかり。近くに農家の灯りが見えた。そこで泣き出した。農家のおばさんが出てきて助けてくれた。自転車に乗せられ、自宅住所を言えたのかわからないが、とにかく社宅中で大騒ぎして探し回っているところへ帰ることができた。これが私の一番古い記憶の一つである。田んぼの中で灯っていた農家の灯、自転車の荷台、青くなって探していた母の顔、克明に思い出せるのだが、田んぼの中と言うのはいったいどこまで行ったのだろう。今、地図を眺めて郊外が田んぼだった頃を想像してみるのだが、さっぱりわからない。しかし、私の育った街では、あまり田んぼは無く桑畑か果樹園の方が多いくらいだ。田んぼの記憶は正確だったのだろうか。何十年後、農家のおばさんにお礼をしたかふと母に聞いた。もちろん菓子折を持って丁寧に御礼して来たとのこと。それにしても、子供は大人が想像するよりずっと歩けると言う事は言えると思う。
2022/05/04
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昔々、はみ出し野郎で傍若無人だった就職したての私を、何故だかわからないがとても可愛がってくれたOさんと言う上司がいた。話好きで毎日の朝礼では仕事の話に留まらず、昔話から武勇伝まで一人で毎日10分もしゃべるのだから、辟易していた人も多いだろうが、私はついつい引き込まれ聞き入っていた Oさんは秋田県の鳥海山麓にある矢島と言う小さな町で育った。父親は営林署勤務で、鉄砲撃ちの名人でもあった。事情があり私は別の会社に移ったが、私の結婚式ではOさんに主賓になってもらい、それからも親戚付き合いのような関係が続いている。 親戚にYと言う娘さんがいる。その彼女、矢島に嫁ぎ若夫婦で遊びに来てくれた。私は話の種に矢島出身のOさんの話をし、父親は営林署勤めだったことを話すと、家の母方の祖母も営林署勤務だったと新郎が言う。世代も違うし70年も昔の事だからわからないだろうなと思いつつも、念のためOさんの氏名を記したメモを若夫婦に託した。 矢島に帰った若夫婦、さっそくおばあさんのSさんにメモを見せたところ、「知っているなんてもんじゃない」とOさんの消息が知れたことに感激し、涙まで見せたと言う。なんでも父親同士が営林署勤務で、Sさんも営林署に勤めたとか。それならば世代は合っている。Sさんのお兄さんとOさんは親友であったらしい。 それでも半信半疑で、写真を送り確認してもらおうと思っていたが、SさんはOさんの事を「大きなことを言う人だった」と言っていたとのこと、これは間違い無いなと私も納得しOさんに電話した。 矢島のSさんをご存知ですかと尋ねれば、「知っているなんてものじゃない」と期せずしてSさんと同じ答え。「昔、筋迎えの家に住んでいたんだ。いやぁ、最近にないうれしい話だ」と感激したご様子。私も長らくお付き合いいただき、初めてお役に立てたかと大いに喜んだ。お互いの住所、電話番号を知らせ、Oさんには娘Yが撮って送ってくれたSさんの写真を送った。お歳を召しても上品な顔立ち、若い頃は秋田美人だったに違いない。 Yは、SおばあさんにOさんに電話してみるよう勧めたらしい。「急になんて恥ずかしくてできない」とのこと。そりゃそうだろうと思う。若い者がやるのはここまでにして、後はお年寄り同士に任せようとYに言ったが、これは普通若い人のために年寄りがやることで、話が反対だと可笑しくなった。 世の中は狭いもの、こんなことがある。なんだか関係者全員の心が温まった早春の出来事。
2022/03/16
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今、文房具売り場では必ず売っているマスキングテープ、こんなものは珍しくも何ともない。50年も前から塗装のマスキングには必ず使っていた。しかし、それは色気のない白だった。いつの頃からか色付きが売り出され、今では色も意匠もとりどりだ。体裁が良くなると使い捨ての道具ではなくなり、貼ったままにしておいてもおかしくはない。それに粘着力も適当だし、字も書ける。ふと思いつき、手帳の背表紙に貼ってみた。今までのテープでは剥がれたり、ベタベタしたり、字が書けない物ばかりだったが、これはすべてを満たしている。終活という訳ではないが、今まで放り出していた手帳をまとめて整理した。9年分くらいは未だ行方不明だが、50冊くらいにはなった。ぼくは記録魔なのだろうか、いつ、誰と、何処へ行き、いくらの何々を食べた、ほとんど記録している。アイスコーヒー100円、焼きそば170円・・・ それは当然の事ながら、思い出したくないような記録だってある。しかし、もう半世紀も昔の事。残駆天所赦 (今までの事は天が許してくれるだろう)苦笑いしながら読めるようになってきた 不楽是如何 (楽しまないでどうする)これも終活という訳ではないが、ネガフィルムをデジタルデータ化している最中。撮影日時が判らず困ったことが多かったが、手帳を丹念に探せばほとんどの撮影年月日が判ってしまう。
2021/12/02
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NHK「こころ旅」に投稿した信州三部作を改めて読み直してみた。ちょっと書き過ぎてしまった感がある。おまけに三編のうち二編には亡くなった方の事を書いており、もう一編は「人生最大の寂寥」なんてことを書いているのだから、正平さんの番組にしてはちと重かったかなとも思う。 自慢にはならないが小学校の作文の「量」ではクラス一番、書くのは好きだった。ところが「質」となると上手い同級生がいくらでもおり、質を補うために量、それを稼ぐためダラダラと書く癖がなかなか抜けなかった。 「こころ旅」の投稿は千字以内という制限があり、そこに収めるため四苦八苦。「割愛」という言葉通りに涙を呑んで削ったのだが、それを読み直してみると不足は感じられず、元々余分な文章だったのかも知れない。 そのような訓練を兼ねて、これからも投稿してみようと思う。岐阜から山陰、大分までは印象に残った「こころの風景」は無い。宮崎、鹿児島なら一人で彷徨ったこともあるので、何とか書けるかもしれない。今度は底抜けに明るい文章にしてみようか? それよりもルートの推定が重要なのだが、まあそれはヘタな鉄砲。数で勝負。三部作 天竜峡:小学校の先生との永遠の別れ安曇野 松尾寺:亡くなった親友の追憶美ヶ原 思い出の丘:生まれて初めての深い寂寥
2021/09/22
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私の心の風景:美ヶ原稜線「思い出の丘」周辺 正平さん、スタッフの皆さん こんにちは 目的地に山の上をお願いするのは酷なことは重々承知ですが、チャリオ君を稜線まで上げてしまえば、後は緩やかな起伏です。アルプスの展望を楽しみながら、爽快なサイクリングを楽しんでいただけると思います。標高1,900m、チャリオ君の最高走行地点になるのではないでしょうか。 私は松本で育ちました。家の正面、東には美ヶ原が聳え、西には北アルプスの三千メートル級の山々が鎮座し、天気が良ければあの槍ヶ岳山頂さえ家から望めたのです。松本の人が言う西山、北アルプスは本格的な登山の対象でしたが、東山、美ヶ原はピクニック気分で登れる気軽な山でした。遠方から親戚が来たと言っては案内し、小学校の友人たちが集まればその日のノリでドライブし、結婚した翌年には、山登りなどしたことが無い新妻を連れて行けるような手軽な山でした。 何度行ったか数えきれないくらいです。その中で今でも忘れられないのは、40年以上昔、一人暮らしの無聊を慰めるため、当時住んでいた群馬県から美ヶ原まで車を走らせた晩秋の黄昏時の光景です。 自動車道終点に車を置き、一人で王ケ塔まで登りました。いつも誰かとワイワイガヤガヤやって来た美ヶ原には人っ子一人見えず、静寂に包まれていました。車まで戻りゆっくり走らせて行くと、北アルプスの山入端近くまで日は落ち、右手の美ヶ原稜線がオレンジ色に輝きだしたのです。「思い出の丘」と呼ばれるその一帯は、岩石から剥離した岩が折り重なり、植生は乏しく荒々しい一帯です。日没前の太陽は、その白茶けた岩々を静かに燃え上がらせました。あまりの美しさに思わず車を停め、しばし見入っていました。 やがて丘は輝きを失い、赤黒く夕闇に沈んで行きます。ふと松本平に目を転じれば、いくつもの灯が煌めき始め、街は静かに横たわっていました。あの街に住んでいた頃、このまま家に帰れば明るい茶の間があり、暖かな炬燵が待っていた。しかし今、その家は無く、子供の頃の友人も皆ふるさとを離れ、安らぎを分かち合える人も居ない、生まれて初めての深い寂寥でした。 松本は育っただけの地です。しかし私にとっては紛れもないふるさとなのだと、強く思い知らされました。夕日に染まった「思い出の丘」は、いつまでも追憶の中で輝き続けています。駐車場より「思い出の丘」方面を望む。「思い出の丘」は中央小高い丘の裏側あたりだと思う 撮影:2006上記写真とほぼ同じ方向を写したもの 撮影:1959 当時のカラー写真は珍しいと思う 左は女医だった大伯母「思ひ出の丘」という旧仮名使いや、「千曲バス」も懐かしい父は会社の作業着で登山していた。なんともいい加減な時代だった これは採用される可能性がほとんど無いことを承知で投稿したものです。正平さんに山の上まで行ってくれというのがまず無理。最近は車でチャリを高台まで運び、そこからスタートしているようですが、舗装している終点から思い出の丘まで4kmあまり、ゆっくり走っても15分で着いてしまいます。 ロケは8月?、今年の8月中旬は連日雨で、もしロケしていたならば美ヶ原と言えども濃い霧に閉ざされていたことでしょう。 この光景は書いておきたいという想いに突き動かされ、落選承知で書きました。本当に心を奪われるような事象を目の当たりにすると、カメラの事も忘れてしまうようで、この時の写真はありません。
2021/09/17
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私の心の風景:長野県安曇野市の山麓にある松尾寺山門正平さん、スタッフの皆さん こんにちは 1981年の事です。松本の幼稚園以来の親友であった私たち三人のうち一人が結婚し、披露宴の出席を終えた他の二人は、ふるさと松本での休暇を楽しんでいました。男二人、さてどうするかと言う事になり、松本に負けず劣らずの魅力的な地であった安曇野へドライブに出かけることにしました。朝な夕なに仰ぎ見た常念岳、その北側に有明山、山麓の旧穂高町は子供の頃何度か行っていましたが、中学で松本を離れた私は車で走ったことが無く、友人は安曇野の名所を回ってくれました。行き着いた山懐に建立された静かな寺は、三月の残雪と杉木立に包まれ、厳粛な雰囲気が漂っています。階段を登り切り本堂から山門を振り返ると、思いの外急な階段で転げ落ちそうな勾配が山門に続いており、他に誰も居ないこのロケーションが気に入り、当時やっと買った高級一眼レフカメラで、男二人互いにポートレートを撮りあったのです。その後二人もめでたく結婚し、仕事に子育てにと追われ、行き来もほとんどなくなってしまいました。第一線を引いたら、昔のように温泉に行ったり、互いに訪ね合あったりしたいと考えていた矢先の2005年、急性疾患が彼の命を奪い、別れを告げる間もなく旅立ってしまいました。幼稚園以来、傍らに居なくても、どこかで私の生を支えてくれたかけがえのない友を失ってしまったのです。亡くなってから2年後、松本に向かいました。仕事帰りの大迂回で追悼の感傷旅行という訳ではなかったのですが、街のあちこちで次々に思い出が沸き上がって来ます。幼稚園から一緒だった友人が付き合ってくれ、安曇野に向かい、彼と行ったお寺を訪ねてみようとするのですが、その名前を憶えていない、初めから知らなかったのかも知れません。友人は安曇野のそれらしいところを回ってくれ、記憶にあるような山門が見えてきました。松尾寺と書かれた案内板があり、山門を抜け一人急な階段を登り、本堂に向き合っても、ここだったと確信が持てないでいました。何せ26年前の事ですから。階段の上から山門を振り返ると、案内してくれた友人が山門に佇み、26年前の親友の姿を鮮やかに思い起こさせたのです。間違いなくここの寺でした。 古稀も近づき何人かの友人が鬼籍に入ってしまいました。私は信州の生まれではありませんが、この美しい山河に育まれました。野生動物のように野原や街中を走り回っていた子供の頃がたまらなく懐かしく、それからの暖かな交遊も自分の人生を彩ってくれたと感じられる今日この頃です。 NHK「にっぽん縦断こころ旅」に投稿し、没となった2番目の原稿です。 「こころ旅」で安曇野は数年前にロケしている、今回のコースから外れている、というようなことで、内容の良し悪し以前に選考対象にならなかったのだろうと思います。 内容についても、これはあまり良い出来ではなかったと自分でも思います。登場人物が私を含め4人おり、その説明が冗長になってしまいました。その上、自分自身が感激したような風景ではないため、描写もなんだか平凡です。 安曇野なら碌山美術館に一番思い入れがあり、紹介したい風景なのですが、観光地で人出も多く、それだけで選考対象にはならないだろうと書きませんでした。投稿には関係なく、気が向いたら書いてみます。写真:門に立つのは友人ではなく私 1981年3月今読み直してみると、やはり原文はひどく少々筆を入れました。それでも納得できないままです。
2021/09/16
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正平さん、スタッフの皆さん こんにちは私の心の風景:長野県飯田市の天竜峡にかかる橋、姑射橋(こやきょう)から見渡した風景この場所で小学校入学以来、60年以上お付き合いいただいた恩師と永遠のお別れをすることになってしまいました。信州松本の小学校を卒業後、私は全国を転々とし仙台に終の棲家を得ましたが、2011年3月、あの東日本大震災は我家にも大きな傷を残しました。一段落した夏頃、先生から私の身を案じる便りがあり、「心配で心配で、長い間安否確認もできなかった」と記されていました。すぐさま電話をすれば、「おー、元気だったか」と米寿に近い方とは思えないほどの大声が帰って来ました。「あなたの工夫があれば、どんな状況でも乗り越えられるでしょう」と言われ、小学校時代、怒られてばかりだった私を、こんな風に見ていてくれたとは思いもせず胸が熱くなりました。「もう一度会いたい」という言葉に促されるように、2012年9月、初秋の飯田に向かいました。最上級のもてなしを受けたのだろうと思います。思い出話は尽きず、帰る時間が迫る中、「せっかく来てくれたで天竜峡でもご案内したい」とご自分の愛車に誘うのです。ところがそれからが恐怖の連続でした。道に迷い「あれ、こっちだったかやあ」と交差点の真ん中で車を停め、右折の時はセンターライン無視でショートカットし、見かねて「運転替わりましょうか」と言えば、「なあに、毎日通った道だで」というのです。「そりゃ戦前の話だろ、しかも自転車」と心の中で呟きながら、覚悟を決めていました。なんとか辿り着き、天竜川に架かる姑射橋から静かな川面を見下ろしました。平日の夕方近く、観光客は誰もおらず、峡谷は静寂に包まれていました。先生は神経痛で辛いと言いながら、僅かばかりの勾配が付いた橋をゆっくりと登って来ました。この体調で運転し、連れて来てくれた先生の親切が身に沁みました。目の前にあるJR天竜峡駅でお別れすることにしましたが、思わず手を取り、「長生きしてくださいよ」と告げたのです。軍隊上がりで鬼軍曹のように思われ、時には子供たちに手を挙げなかったわけではない先生の手には、もう昔の力はありませんでした。もう会えないかもしれない・・・それから2年、先生が旅立ったという知らせが舞い込みました。60年以上昔の小学校の事、それに続く長い長い思い出の最後に、天竜峡の風景があります。 NHK「にっぽん縦断こころ旅」に投稿し、没となった原稿です。没になったものをご披露するのは多少恥ずかしい気持ちもあるのですが、せっかく書き誰の目にも留まらないのでは寂しいので、こちらに転載することにしました。(若干の加筆修正有)三篇書き、その中では一番上手く書けたと自負してはいます。今までの傾向を見ると、人が集まる観光地は絶対と言って良い程採用されていません。そのことを鑑み「観光客は誰もおらず」とあえて書き加えたのです。 実はこの話には若干事実ではないことが含まれており、実際にお別れしたのはJR飯田駅なのです。それでは絵にならないと天竜峡駅に書き換えたという次第です。
2021/09/15
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ひょうたん島住民のその後について以下に書いたのはこの2月https://plaza.rakuten.co.jp/kozoeng/diary/202102020000/ その時は現88歳と紹介した若山弦蔵さんが亡くなった。若山弦蔵と言えばジェームス・ボンドのショーン・コネリーの吹き替えで名を馳せたが、ぼくには何といってもひょうたん島の海賊ガラクータ、バリトンでクールな語り口は魅力だった。 俳優やタレントとしてほとんど活動していなかったので、亡くなって初めて顔がわかった気がする。もっと痩せたガラクータのような顔を想像していたので、最後まで知らない方がイメージが壊れず良かったかもしれない。 正統派声優として稀な存在ともいえ、タレントと吹き替えで共演すると「やり難くてしょうがない」と言っていたらしい。良く分かる。俳優やタレントとして名を売っても、吹き替えでは地が出てうんざりすることが多い。 ひょうたん島で三姉妹魔女の末っ子ルナをやっていた久里千春は、「男はつらいよ」や「釣りバカ」で山の手のザーマス夫人を好演していたことをカミさんが教えてくれた。私はタレントには関心があまりないので、声優が映画に出ていても気付かないことが多い。そのルナ(怒ると口が耳まで裂けた)とキッド坊や(藤田淑子)との掛け合い。「おねえちゃま」「なあに、坊や」「坊や、いう事聞かないとお仕置きよ」ぼくには大人のエロティシズムがうっすらと感じられてしまう。カミさんは一笑に付すが、あの井上ひさしが子供番組とは言え、ちょっとした仕掛けをしていなかったはずがない。
2021/06/04
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1969年、「ひょうたん島」が突然終わってしまったとき、郵政省の介入ではないかとの噂が流れていた。武井博(元NHKディレクター)著,「泣くのはいやだ、笑っちゃおう 「ひょうたん島」航海記」,アルテスパブリッシング,2015 にその真相の一部が記されている。全くもって実にくっだらなくバカバカしい理由、これを口実に郵政によって潰されたとしか思えない。考えてみると全編を通し反権力の姿勢が貫かれていた。まっとうなことを言うのは子供たち。政治家ドン・ガバチョと資本家トラヒゲは困ったちゃん、一番の常識人が元ギャングのダンディ、国の経済は海賊トラヒゲと4人組の略奪品で回っていた。そしていつも権威を茶化す。これでは〇〇真面目な小役人にとって面白くないだろう。1964年の6月頃、トラヒゲが食料を提供しなくなったため、子どもたちはやむなく略奪に行った。それを咎めたサンデー先生に博士はこう言っている。「先生は、一番悪いことをほっといて、責任をぼくたちに押し付けた。(中略)先生は、一番自分の自由になりやすい子どもをせめることで、物事を解決しようとしましたね」ここまで論理的に本質を突かれると大人は何も言えない。反権力は社会的権力から先生、親の権力にも及んでいる。1966年、私は中3になり高校入試を目前にしていた。成績はちっとも上がらず毎日「ひょうたん島」で笑い転げていたため、親はたった15分番組の視聴を禁止した。精神主義で生きてきた時代の親だから、受験勉強もせずに笑い転げている倅を律しようとしたのだろうか。最近「ひょうたん島」を見直し、私に芽生えつつあった反権力を抑え込もうとしたのではないかという疑念が湧いてきた。自分は子供を抑圧していなかったか、自省せずにはいられない。またこうも思った。「ひょうたん島」の真価がわからない大人にだけはなるまいと。 ドン・ガバチョの「明日を信じる歌」で、自殺を思い留まったと言うあまりに有名なエピソードがある。私もあの番組にはどれだけ勇気づけられたか、悩み多き時代、あのあっけらかんとした明るさは救いだった。どうでも良いことに拘泥するのは止そう、何とかなると本当に思った。子どもたちが家出した時のバイバイソングと言う挿入歌がある。初めて活字で歌詞を読んだ。トラヒゲ「食べるものはどうするんだ?」テケ「木の実やきのこ さかなやさくらんぼ すももやまいも いちごにりんご そんなのいっぱい くうんだよ」どうして同種の食べ物をまとめないのだろうと思っていたが、この詩、ちゃんと韻を踏んでいるんだな。単なる挿入歌でも、そこまで考えられていることに気付き、今更ながら脱帽。子どもと一緒にこの番組を見て、そんなことを教えられる親だったら、もっと尊敬したのに。楽しみながら教育できる、惜しいチャンスを逃したものだ。
2021/02/08
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放送終了からもう52年あの愛すべき人達はどうなっただろうドン・ガバチョ(藤村有弘) ---------+ 1934-1982 享年48 (名古屋章) ---------------+ 1930-2003 享年72 トラヒゲ (熊倉一夫) -----------------+ 1927-2015 享年88 ダンディ (小林恭二) ---------------+ 1931-2007 享年75 サンデー先生 (楠トシエ) -------------------- 1928- 現93 ライオン (滝口順平) ----------------+ 1931-2011 享年80 博士 (中山千夏) ---------------- 1948- 現72 ダンプ (伊藤牧子) ------------------ 1937- 現83 テケ (増山江威子) ------------------ 1936- 現84 チャッピ (江美京子) 詳細不明プリン (堀 絢子) ----------------- 1942- 現79 マリー (松島トモ子) ----------------- 1945- 現75 キッド (藤田淑子) ---------------+ 1950-2018 享年68 ガラクータ (若山弦蔵) ------------------- 1932- 2021 享年88パトラ/ドコンジョ婆(鈴木光江)------------------+ 1918-2007 享年88 ペラ (黒柳徹子) ------------------- 1933- 現86 ルナ (久里千春) ------------------ 1938- 現81 サンデー先生が一番の長寿か? 子供達も皆おばあさんになってしまった。今どうしているのだろう。キッド坊や(藤田淑子:一休さん、キテレツ)の年齢が私に一番近かった。亡くなっていたのを知りショック。ちなみにダンプは加藤剛夫人、テケは峰不二子、バカポンのママ。ルナの久里千春は「寅さん」や「釣りバカ」でざーます夫人を好演。トラヒゲもライオンもついこの前まで活躍していたのに。2021.5.18 若山弦蔵さん死去との報道 上表訂正ひょっこりひょうたん島関連記事ひょうたん島は「知」の宝庫だった! 2021.1.15「ひょっこりひょうたん島」で年末年始を過ごす 2021.1.7大槌町と井上ひさし・ひょうたん島、吉里吉里人 2020.12.5釜石と井上ひさし・釜石小学校校歌
2021/02/02
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昨秋、岩手県大槌町の「ひょうたん島」を調べて以来、「ひょっこりひょうたん島」の記憶が鮮明に蘇ってきた。凝り性の私としては徹底的にやらねば気が済まず、ちくま文庫の13巻※1を何とか入手し年末から読み耽った。1991年発売当時に購入していた1,2巻(ライオン王国の巻)、6,7巻(海賊キッドの宝の巻)を読んでしまうと、どうしても他の話が気になってしまう。ところが絶版で入手困難。特に12巻が入手難で古書に6万円なんて文豪の初版本みたいなべらぼうな価格が付いている。ヤフオクで5冊セット(12巻含)価格6,000円を見つけ、さっそく落した。残り5冊は重複してしまったが、6万円の古書を買うよりもずっと良い。全部読んだ。12月、1月、ステイホームの多くの時間を楽しく潰すことができた。オリジナルの放送は1964年で56年前。リメイクは1991年、それからでさえ29年経っている。リメイク版が放送された「海賊の巻」と「マジョリタンの巻」はビデオで何回か見ているのでほぼ思い出せる。リメイクされず56年前の記憶しかない「ライオン王国の巻」、「ブルドキアの巻」、「魔女リカの巻」は朧気ではあるが何となく覚えている程度。特に「ライオン王国の巻」は始まった当初から強烈な印象があり、他の話より覚えている。「ブルドキアの巻」は夏の放送だったから、元気な良い子が午後5時45分にテレビの前に座っているわけがない。その上、今読んでも風刺が効き過ぎている。60年代はノラ犬も結構闊歩しており、今ほどペットとして可愛がられていたわけでもないが、「犬コロ」と言う言い方には抵抗があったはずだ。悪人でもどこか間抜けで憎めない数多の登場人物たちの中で、犬の国のピッツ長官だけは冷徹だった。ダンディと壮絶な銃撃戦の末に射殺されると言う結末も、ちょっと刺激的過ぎた。やはり季節性があり夏場の夕刻はTVから遠ざかり、1965年に放送された「マジョリタン」の後半と、その次の「南ドコニカ」はあまり記憶にない。1966年は中3の年で翌年には高校入試がある。この頃、あろうことか「ひょうたん島」の視聴を親から禁止された。この理不尽極まりない子育てを私は未だに恨んでいる。親を含めた権力者に、この番組は目障りだったのだろう。この話はいずれまた。挿入歌がミュージカルのようだと前にも書いたが、「ブルドキア」で飛行機が爆撃する場面の歌詞を読んでいるうち、突然その歌を思い出してしまった。56年間、脳裏の奥底に仕舞われ、思い出すことも無かった歌を!放送では気にも留めなかったことだが、台本をじっくり読むと辻褄が合わない場面転換や途中で忘れられた事象※4が非常に多い事に気付く。ベージを飛ばして読んだのかと、何度かページをめくり直してみたほど。二人の作者の共同作業だったこととに起因すると思いきや、番組の時間に収まらず、ディレクターが切った部分もかなりあったらしい※3。とにかく子供の冒険活劇、ファンタジーではない。初老になっても十分面白い。勢いあまって二つの参考文献※2※3も読んだ。こちらも十分興味深い。。。。。高瀬省三氏のカバー絵や挿絵も楽しい。挿絵を楽しみに読み進んだ文庫本も最近は珍しい※1. 井上ひさし、山元護久,「ひょっこりひょうたん島 1~13」,筑摩書房,1991※2. 伊藤悟,「ひょっこりひょうたん島 熱中ノート」,実業之日本社,1991※3. 武井博,「泣くのはいやだ、笑っちゃおう 「ひょうたん島」航海記」,アルテスパブリッシング,2015※4. 開始からしばらくレギュラーだった医者ムマモメムが、ある頃を境に突然消えてしまったという大ミステリーがあった。作者二人が、「ムマモメムはあまり面白くないから外そう」と思い立ち、その通り実行したらしい。
2021/01/30
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”ひょうたん島は「知」の宝庫だった”と中山千夏さんが後に語っていたそうだ。※1 ひょうたん国が財政危機となり大統領ドン・ガバチョは通貨を切り替え「1ガバ、2ガバス、3ガバス」とした。放送が始まったとき私は中一であったから、複数形に”s”が付くことを学んだ後で、学校で友人と大いに笑った。そのガバチョの肖像画付きガバ紙幣は芋版印刷で無限に刷れる。それに対し博士が金本位制について説明するのもおかしい。中一では金本位制なんて知るはずもない。大人になり古い映像やリメイクのビデオで、また文庫本の台本で当時気付かなかった仕掛けに次々と気付く。小学生だって十分面白いが、ある程度の教養が付くと「ひょうたん島」は俄然面白くなる。例えば548回「火事」でデパートの屋上から飛び降りるシーンでは、「傘をば”ユンデ”に構え」、「ユンデ」が「弓手」で左手の事だなんて子供にわかるはずがない。829回辺りに登場するドコンジョ婆さん、モナリザのモデルとされる”デル・ジョコンド”のアナグラムと気付いた人がどれだけいるだろうか。海賊ガラクータが海賊バラクーダ(映画タイトル)から来ていると知ったのはつい最近の事。マリー・キャッチャーネットはマリー・アントワネットのもじりと気付くのは、中卒以上か?もっと博識を窺わせるのは、252回、荷車が坂道を転げ落ちるシーン。博士がニュートンの運動方程式 α=dv/dt まで持ち出し、加速度について云々する。井上さんか山元さん、高校物理の教科書を引っ張り出してわざわざ調べたのだろう。言っていることに間違いはないが、加速度と速度の関係を微分、積分でまことしやかに説明し、視聴者を煙に巻いた方がもっと面白かったのになあ・・・・フランス語の発声法、歌舞伎、浄瑠璃、俳句、短歌、四字熟語、ことわざ何でもあり。今より著作権だのなんだのうるさくなかった時代だから、替え歌、パロディてんこ盛り。井上さんと山元さんが「子供騙しの人形劇を作るのは止めよう」と考えてくれたおかげで、中学生には理解できないことが多かったにもかかわらず奥が深く面白かった。しかし、当時より今だからなお一層面白い。「傘をば弓手(ゆんで)に構え~」と言いつつ、馬手(めて:右手)に傘を持っているぞ前左より博士、サンデー先生、マリー・キャッチャーネット NHK放送画面よりドコンジョ婆さん(鈴木光枝) ドコンジョ婆さんの倅、ギャングのネンネ(三代目 江戸屋猫八) NHK放送画面より ※1 ”泣くのはいやだ、笑っちゃおう 「ひょうたん島」航海記” 武井博(元NHKディレクター)著 アルデスパブリッシング刊 2015
2021/01/15
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ホテルの近くに東宝の映画館があった。上土シネマとなり、どの程度稼働しているか知らないが、ともかく建物は健在。50年以上前、ここを通行する歩行者や自転車は引きも切らずの繁華街だったと思う。道路に飛び出し自転車と衝突したこともあった。車だったら死んでいたかも知れない。東宝の映画館では怪獣映画をやっていた。小5のとき、どういう弾みか普段それほど仲が良かったわけではないN君と、二人っきりで「キングコング対ゴジラ」を見に来た。保護者同伴ではなく子供だけで来たことが学校にばれると、怒られたかもしれない。担任の先生は時に鬼軍曹のようだったが、怒り方のパターンが見えてしまっていたから、それほど怖いとも思わなくなっていた。ゴジラと同時上映はクレージーキャッツの「ニッポン無責任時代」。大人のためのコメディで、ゴジラよりこちらの方にわくわくしたような気がする。ゴジラとクレージーキャッツの併映ってありか?映画館の左隅にちょっと美味しいカレー屋があった。今でもその跡が残っている。ちょっと親しかっただけの友人A君、Mさんと、教育実習に来た大学生にたかりカレーを御馳走してもらった。上土界隈には映画館が多かった。ここから徒歩5分圏内に映画館は5館か6館はあったのではないかと思う。現在残っている映画館は2館だが、常設は無いようだ。映画の衰退と共に、この町に来る人も少なくなったのかも知れない。映画館の向かい側にあるアルピコタクシーは、昔観光タクシーと言っていたと思う。ここから自宅までは歩いて15分ほどだが、時にはタクシーを使うこともあった。どんな基準でタクシーになったか、今となってはわからない。
2020/11/06
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富山の名産、鱒寿司は私の大好物。今、東京はおろか仙台でさえ常時買えるが、50年以上前は現地でしか買えなかったと思う。隣県松本から時々富山に出張していた父が、お土産に必ず買って来てくれた。当時私は中学一年、どんな事情があったか忘れたが、母がこれ一人前を弁当代わりに丸ごと持たせてくれた。現在一つ1,800円程度するから、当時でもかなり贅沢な弁当だったはず。昼、やおらその弁当を取り出すと、隣にいた女の子の興味を引いたらしい。「それなあに?」と何度か尋ねられた。特別な物を持って来た恥ずかしさと、全部食べてしまいたい意地汚さから、口を濁し、ちゃんと答えてあげられなかった。もっとおおらかにできなかったのか、「どうぞ」と一切れ差し上げたところで、自分の空腹感がそれほど増幅するわけでもないのに、それだけのことができなかった。そのことが半世紀以上経った今も心の片隅に引っ掛かっている。鱒寿司を見る度に蘇るなんともほろ苦い思い出、そして少しばかり甘酸っぱくも。現在、株式会社 源 の「ますのすし」が全国規模で販売されしている。しかし、富山まで行くと十社近くの製品が買える。2社の物を買ってみたが、確かに微妙に味や食感が違う。自分好みの物を見つける楽しみもありそうだ。
2020/11/01
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葡萄棚のある家というと、金持ちでハイソな家庭を連想する。それではと葡萄棚を作ってみたが、お金も貯まらずハイソにもも成らない。逆必ずしも真ならずという事のようだ。子供の頃住んだ家の近くに葡萄畑があり、その手前、道路に面して瀟洒な家があった。お屋敷の主は大学教授、子供好きだったのか私は出くわすと良くからかわれた。同じ小学校、2年上級のお嬢さんがいて、どういういきさつか今となっては想像もできないが、数回一緒に登校したことがある。お転婆とは程遠い清楚なお嬢様、だったような気がする。それから五十数年、私も遠い町に引っ越し、父娘のその後については風の便りにも聞かない。google mapで見ると、葡萄畑は市の公園になっており、道路際には豪邸が2軒建ち欧州車が2台鎮座していた。あの葡萄畑は何だったのだろう。片手間に世話をするのには大きすぎるし、生業にするには小さい。小作人でもいたのかもしれない。土地や住む人の50年を超える変遷に、想いを馳せてしまったりする。苗木が売っていたのであまり考えず巨峰を植えた。何とか食べられるが、売り物には程遠い。発酵させるとスズメバチトラップの誘引液に最適だ。(注:酒ではなく誘引液)巨峰があまり好きではないのは、皮を剥く手間がかかるためで、中くらいの大きさのマスカット辺りが食べやすいと思っている。今年はブドウの実が少ない。例年10房もできるのに、今年は4房だ。春先の少雨、梅雨の多雨の為だろうか。
2020/08/19
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娘が見たい番組があるとwowowに加入し、解約しないことを良いことに親がそのまま見続けている。折しも時間ばかりある昨今、行く所もなく他に面白い番組もなく、連日やっている「ドラえもん」を見る。本当に懐かしい。子供が小さい頃は、ビデオに録画し子守に何度も流していた。親まで何度も見てしまうし、子供たちときたら筋どころかセリフまで覚えている。この歳になると、あちこちに他の映画作品のパロディというかオマージュが散らばっているのに気付き、意外に深い内容だと改めて感心する。しかし、ドラえもんと言えば大山のぶ代さんで、水田わさびさんに変わってからの映画は見る気がしない。ぼくくらいの年になると、ドラえもんの他にお母さんといっしょの「ブーフーウー」ブーの顔も浮かんでくる。ウーは黒柳徹子さんだった。やはり初期の作品がほのぼのしていて、ぼくは好きだ。後になればなるほどビートの効いた音楽になり、ダイナミックレンジが拡がり家庭の適正音量では台詞が聞き取りづらく、おまけに背景は煩く疲れる。ごく初期の「ポケットの中に」などは大好きな挿入歌。普段も口ずさみそうで、気を付けねば。第3作「のび太の大魔境」には鉄腕アトム(清水マリさん:私の高校の大先輩)まで出てくるのだから、うれしくなる。第5作「のび太の魔界大冒険」の魔法の呪文が「ちんからほい」。スネ夫が「チンカラホイ、チンカラ峠のお馬がホイってか」とからかっているのだが、この言葉はどこかで聞いたぞ!見つけましたよ 「ちんから峠」1939年の童謡だそうだ。こっちを口ずさむ方が恥ずかしい。カミさんは知らないそうだが、どこで覚えたか全然記憶が無い。しかし22話も見続けると、ちょっと食傷、筋が混ざり合って何の話だか思い出せなくなってしまう。
2020/03/29
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就寝前の読書に「磯野家の謎」(東京サザエさん学会/編 H5、飛鳥新社)なる本を引っ張り出してきた。今読んでも面白い。サザエさんの生年が書いてあった。推定1923年なのだそうな。すると2018年現在の年齢は満95歳!ついでに同様に計算すると、波平 122歳カツオ 79歳ワカメ 75歳タラオ 71歳今もって4コママンガとしては抜きん出た存在だと思う。朝日新聞の発行部数が読売に抜かれてしまった最大原因は、右とか左とかの路線の違いではなく、サザエさんの連載が昭和49年で終了してしまったことではないかと思う。家で一番読まれている本は、「よりぬきサザエさん」全13巻であろう。父が読み、娘が読み、倅が読み、それも何度も。表紙が取れそうになっている。
2018/05/17
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適当に齢を重ね、悪ふざけやいたずらはしない年齢になった。当然といえば当然だが、4月1日だからと言って人をかつぐようなこともしなくなった。〇十年も昔、新米の会社員だった頃の話。昼休み、先輩に向かって、「課長が呼んでましたよ」「アッ、そう」と言っていなくなった。ほどなく、「呼んでないって言ってたぜ」「おかしいなあ、4月1日だからじゃないですか?」まったく人を食った話で、先輩に対する敬意も、課長に対する尊敬も無かった。今になってみれば悪いことをしたと思う。お元気で暮らしているのだろうか?
2017/04/01
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いつだったかは忘れた。一人で風呂に入れるようになった頃だから、小学校低学年だと思う。一人で髪を洗うと、髪についたお湯が垂れて目に入る。タオルで顔を拭いても拭いても後から後から水が垂れて目に入る。そのときふと思った。「これは髪が濡れているからだ。髪の水を取れば目に入らなくなるだろう」そこで髪をタオルで拭いた。するといつまでも目に入っていた水がピタリと止まった。これはうれしかった。水が入らなくなったことに対してではない。現象を考え、仮説を立て、それを検証し、仮説が正しかったことを生まれて初めて実感した瞬間だった。半世紀以上経って考えても、子供にしては実に論理的な解決だったと思う。ところで普通の人はどうしているのだろう。そんなこと、考えなくてもわかるのか、いろいろやってみた経験で自然に習得するものなのか、親がいちいち教えるのか、今はこちらの方が知りたい。カミさんに聞いてみると、「そんなこと、考えてこともない」そうだ。
2017/01/25
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40年近く居間で時を刻み続けた時計が、去年あたりからよく止まるようになった。一番使う部屋の時計は、一番正確でなければならない。カレンダー、温湿度計が付いたアナログ&デジタル電波時計が数千円、それに交換した。しかし、古い時計を見れば愛着が湧く。両親の新築祝いに安サラリーだったころ買い求めた時計。今になるとアンティークながら風格があり、旧ホテルオークラにも合いそうだ。これは捨てられない。ムーブメントだけそっくり交換し、外身だけ生かそうと分解を始めた。古い時計というもの、ムーブメントがブラックボックスではなく、かなりのところまでばらせる。少しばらしてみると、特に壊れた部品もなく注油すればまともに動くのではないかと思えてきた。シリコンオイル※1を垂らし、ダメもとで組み立ててみればそれから一か月、まともに動いている。喜んで書斎の壁にかけると・・・・ リビングにあるころは気付かなかったが、秒を刻むステッパーの音がかなり気になる。残念ながら書斎はあきらめ、奥の部屋に鎮座させた。感傷は抜きにして、とにかく今でも十分役立っている。※1:粘土の低いオイルでなければならない。中学生のころ、腕時計に自転車油を注したところ、見る間に動かなくなってしまった。オヤジにこっぴどく怒られた。 負荷の重い物には粘土の高いオイル、軽い物にはサラサラのオイル、今では当たり前。
2016/05/12
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数年ぶりで年賀はがきの当せん番号を調べてみたら、2等に当っていた。一昔前2等と言えば大したものなのに、今ではブービー賞だ。それでも2~3千円相当の物が貰える。好物だけど高価なので普通の蕎麦かうどんで済ませていた「稲庭うどん」をもらった。はがきを持って行った郵便局の局員さんも、商品を配達に来た方も「おめでとうございます」と満面の笑み。そう言われれば悪い気はせず、こちらも笑顔になる。昭和30年代の早い時期、家で1等に当ったことがある。年賀はがきの1等といえば、宝くじで数千万円が当たる程度の確率のはずだ。このときの商品は電気洗濯機。3種の神器なんて言葉ができる前の話。これ以来運には見放され、せいぜい当たるのは「稲庭うどん」だ。
2016/03/18
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前回の話の続き 数十年前の話になるが、おせっかいな母があちこちの縁談をまとめようとして、あっちこっちから見合い写真を収集した(当事者は私ではない)。 話が進展しなかったら履歴書と写真はお返ししなければならないのに、どういうわけか一部のそれがそのまま家にある。 今さら返すわけにも行かないし、母の知人なら生きていない可能性が高い。そのお嬢さんや息子さんだって爺さん、婆さんになっているかもしれない。処分するしかないのだが、何とも処分し難いのは写真。写真は紙として処理できない(仙台市の場合)。そのまま一般ごみに混ぜるのは気が引ける。限りなく0に近いが、誰かが拾って行き悪用する可能性だってある。たとえ写真でも顔に刃物は当てたくないから、シュレッダーにかけるきもしない。結局顔を切断しないように鋏で細分化し、封筒に入れ一般ごみとして出す。気持ち良く処分しようとすればこんな手間をかけねばならない。昔なら家で燃やして処理できたのに、面倒な世の中になった。
2015/05/29
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他界した両親の残した書簡類、箱に入れ封印し、押入れか天袋の奥に押し込んだままだ。いよいよ収納スペースが足りなくなり、何とかせざるを得なくなった。 書簡箱をそのまま全部処分したところで、自分のこれからの人生に影響があるとも思えないのだが、貧乏性なのか確認しないと捨てられない。いちいち全部目を通したのではいつ終わるか見当もつかない。選択基準 事務連絡書類 保管5年以上で処分面識のない方からの私信 黙って捨てる 面識があっても達筆すぎて読めない私信 眺めて捨てる 多少面識がある方の私信 斜め読みしておもしろそうなら保管 良く知っている方からの私信 一応保管 これだけ取捨選択すればざっと1/3にはなる。廃棄の手紙は数十年前の資料だから、流出しても大きな問題は無い(ほとんどの当事者名簿は鬼籍の方)と思うし、シュレッダーにかけるには量が多すぎる。一般ごみに混ぜると顰蹙を買いそうで、お金もかかる。結局厳重に縛って紙ごみとして廃棄する。近所で捨てると個人情報が特定される恐れもあるので、車に乗せて少し離れた場所で処分してくる。まったく廃棄物の処理は面倒だ。段ボール三箱分の書簡に目を通したところ、封筒の中に残っていた1,500円を発見。これだから黙って捨てられない!
2015/05/27
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21年前、諸事情から前職場を退職した。その時の仲間たちが会食に来ないかと声をかけてくれた。 けんか別れしたわけでは無し、その後も多少は接触があったけれど、やはりドロップアウトした身としては気おくれしてしまう。 飲み屋の入り口で25年も会っていない同期の人とバッタリ。その瞬間、もう気持ちは30年前。 不思議なもので人の顔を覚えるのが苦手な私でも、すぐに名前が口を突いて飛び出す。お互い、相応に老けたと認識しながらも。古い友人と話せば、心安らぎ、気おくれしたことなんかすぐに忘れてしまう。
2015/04/04
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最近体力の減衰を痛感し、毎日30分ほど近所を歩く。途中、ラ・サール・ホーム前を通る。あのラ・サールだ。 「長い、といってもその坂道は百米あるかなしかだった。(略) 松林の中には、(略)石造の聖母マリアや聖ヨゼフが、坂道を登ってくる者に慈愛の目差しを向けて立っていた。」 井上ひさし著「四十一番の少年」、冒頭部分に記された情景そのままの坂道がそこにある。 地震の前の年だったか、木造の孤児院と修道院は鉄筋コンクリートのモダンな建物に改築され、東仙台中学、仙台一高と井上ひさし氏が過ごした建物も今は無い。 以前、私も縁あって修道院には何度かお邪魔させて貰った。丘陵中腹の建物は、傾斜地に建てられた温泉旅館さながらの複雑さであった。 この丘陵一帯は、戦後カナダのカトリック関係者がいくつかの施設を建て、独特の雰囲気を持っている。この辺りも住宅開発が進み、そんな歴史を知る人も少なくなった。
2015/03/09
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風が幼稚園の先生やかつての友人の訃報を運んでくる。何十年も特に考えたこともない人たち。昔のアルバムを見ても人を特定するのが難しいほど記憶が曖昧になっている。名簿でも無いかと本棚を見渡せば、何十年もその場から移動していない出席カードが片隅に押し込まれていた。パラパラページをめくれば、突然出席シールを貼ったことを思い出した。乗り物、花々や果物、月替りでシールの絵が変わる。そのシールの絵、確かに覚えている。不思議なものだと思う。思い出したこともなく、このまま忘れて生を終えたとしても何の影響もないし、見つからなかったとしてもほとんどがっかりすることもない。見つかって思い出してしまった以上、捨てられなくなった。こんな物ばかり。
2014/06/22
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Googleのストリートビューエリアの拡大に驚くばかり。私が育った地方の中都市はまだまだ先かと思っていたら、今年とうとう公開されていた。 早速昔住んだ家に行ってみると、50年前とあまり変わらぬ佇まい。回りを見渡せば望見される山々は何も変わっていない。毎日玄関を出る度に眼に入るのだから脳裏に焼き付いている。 目の前の川越しに見える対岸の家は、現代的にサイディングボードなんか貼っているけれど、輪郭は昔のままじゃないか。家から学校までの道筋は、ほとんど変わっていない。 お宮の門に落書きした跡までは見えないが、場所ははっきり覚えている。学校帰りに友達と木の葉を流した小川、それを追って帰った道、人の家の軒先をかすめるような模型屋さんまでの近道、みんな辿ることができる。 懐かしさが募り友人宅を訪ねてみる。流石に50年前の家にそのまま住んでいる人は居ない。引っ越しても住所がわかればすぐに到着できる。 覗いちゃ悪いと思いつつ、家の外観を眺めれば暮らしぶりの想像はつく。みな昔よりはるかに大きな家になっていて、ほっとする。きれい好きだった人はそれが垣間見え、そうでない人は私の家のように野趣溢れ。 たまらず会いたくなってしまい、思わず門から先へカーソルを進めてしまう。 写真左端は私が5歳より12歳まで過ごした家。前の河原は格好の遊び場。当時、筏を浮かべたり大冒険のつもりだったが、今見れば小川みたいなもの。 ストリートビューとプライバシーの関係が問題になっている。車の車種はまずわかる。見ようによっては家族構成までわかってしまう。表札はボカシが入っていても二世帯同居ならなんとなくわかるし、自動処理だから標準から外れるもの、例えばローマ字で書かれた看板のような表札はそのままだ。便利な半面怖い面もある。
2013/12/24
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6月のTV出演がきっかけで、大学のサークルの先輩が旅行中立ち寄ってくれ、一献傾けた。何と話すのは39年ぶり。お互い悪く思っていなかったとしても、特別親しかったわけではない。二人で酒を飲んでいることを知ったら、昔の仲間は腰を抜かすかもしれない。彼は一回りも二回りも大きくなり、私だって多少は大きくなったと思う。その分、思い出の他に重なるところも増えた。お互い好奇心旺盛で、こういう人と話していると実に楽しい。男同士で使う言葉ではないが、胸のときめきを覚えるほど。
2013/12/08
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長さ15cmにもなる天然の牡蠣、こんな大きいの見たことも無い。 久しぶりに母校を訪ねた。学生時代の先生が一人だけ残っており、何度かお訪ねしたが「学園長」という雲の上のような肩書きが付いてしまい、気軽に会えなくなってしまった。 先輩とアポを取ってお訪ねすると、昼食に招待してくれた。そこで出てきたのがこの牡蠣。 実は私、牡蠣が嫌いなのだ。あのフニャとした食感がたまらない。 しかし、学園長のせっかくの御好意、嫌いですとは絶対に言えない。これは高級食材だから美味いんだと暗示をかければ、意外にすんなり胃袋に入って行く。 30年も昔、恩師に連れて行かれたレストランの同じ席。学校と教師が大嫌いだった私が、先生と昼食を楽しめるようになったなんて、考えてみればおかしな話。
2013/08/03
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土曜日にあの懐かしい汽笛が聞こえてきた。宮城ディストネーションキャンペーンとやらでSLが走るのは知っていたが、それは29、30日のはず。試運転にしてもちと早いと思いながらも調べてみれば一週間前からの試運転。 あの音を聞けばそわそわしてしまい、日曜日、カメラと三脚を抱え徒歩5分の線路脇まで行ってしまった。近所の線路脇をあれこれ頭に描いても、撮影ポイントと言うべきところはほとんどない。 どうしても架線支柱が入りこんでしまうし、遠方から捉えることもできない。写真後方は新幹線の高架。しかし、本当に接したいのは形ではなく、音と匂いなのだから絵にならなくても我慢。 C61、D51のボイラーとC57の足回りを使った幹線用SL。このくらいの大きさになるとC11のようなタンク機とは迫力が違う。 ただし、絵になるのは下りだけ。上りは電気機関車に牽引されたトレーラーで機関手は派手に汽笛を鳴らし、手を振るだけ。 ところが下りは電気機関車の後押しもなく茶色の旧型客車(スハフ42など)をちゃんと単機で牽引しているからたいしたものなのだ。 仙台、小牛田駅間を1日一往復。小牛田には転車台があるらしく、機関車の向きを換えようと思えば換えられるはず。ところが仙台駅には転車台がない。そのため下りしか先頭で牽引できない。 線路脇にはどうやって調べたのか老若男女が三々五々。興奮して騒いでいるのは中年前の御夫人が多い。なんだか幼稚園の運動会を見に行った母親ののり、SLで旅行した経験は50代以上だと思う。 煤は飛び車両は煤け、トンネルの度に窓を閉めねばならず、決して快適な乗り物ではなかった。電化やディーゼル化をどれほど喜んだことか。 それでもあの汽笛は懐かしい子供の頃の記憶を呼び覚ます。
2013/06/24
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家内のCDを借り、松任谷由美の「青い影」なんぞ聞いてみる。これ、どう考えてもバッハのカンタータなんだけどなぁ。 確かレコードがあったはず。かすかな記憶ではカンタータ140番だったような・・・ 震災以降デリケートなLPレコードに触る気もせず、埃を被っている。恐る恐るレコードプレーヤに乗せれば少々の調整で問題なく動くようになった。 盤面に針を落とすと数十年前、何度も何度も聞いた懐かしいメロディがたちどころに蘇る。この第4曲、主旋律は違っても伴奏部は「青い影」そっくりだ。聞いているうちに第6曲が一番のお気に入りだったことを思い出した。Mein Freund ist mein! わが友はわがものUnd ich bin sein! 我は汝のものなりDie Liebe soll nichts scheiden! この愛を何ものもわかたず ドイツ語なんてほとんどわからないくせにこの歌詞が気に入り、机に落書きしていたことを突然思い出した。 40年以上前に買ったレコード、今でも十分美しい音楽を奏でてくれる。CDなどのデジタルデータになって確かに音は良く、便利になったと思う。しかし、レコードジャケットからLPを引き出し、埃をはらいターンテーブルに静かに置く。そして繊細に針を下ろす、この一連の儀式を行ったアナログレコードは、デジタルレコードより間違いなく温もりが伝わってくる。 このオーディオ機器が3.11で1m下の床にすべて落ちた。打痕はあちこちに残ったものの、音に問題は無い。昔のオーディオ機器は意外に丈夫だ。電話の方が聞こえなくなってしまった。こちらの声だけが相手に伝わり、相手の声がこちらには伝わらず、なんだか解らず何度も切ってしまった。1月14日、髭を伸ばした後日談黙って剃って知らん顔していたら、家内も娘もその変化に気付きませんでした。まったく、もう!
2013/02/06
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今日はちょっとまじめに叙情文でも書きたい気分です。 50年近い昔、子どもの頃住んでいた家が松本に現存する。塀から物置の庇に飛び移り、寄棟の一階屋根を登る。その一番高いところから二階の切妻屋根に上がる。最後は二階家の頂上に達するのだ。 平屋の多かった50年前、そこは展望台だった。国宝の松本城から小学校の校庭まで見渡せた。 女鳥羽川越しには美ヶ原に連なる山々がそびえ、その光景は長い歳月を経ても季節の変化程度にしか感じさせない。 極寒としか思えないような気温は、少年の日の感覚を呼び覚ます。街を歩いた後、暖房された部屋に入れば間違いなく収縮した血管が蘇り、ため息と共に全身が弛緩するような安堵をもたらしてくれる。 友もみな初老と言えるような歳になってしまった。野生動物のように町中を駆け巡り、いたずらに明け暮れ、惹かれ反発もした友から、こんな穏やかな温もりを感じるようになるなどと、誰が想像しただろう。 軟着陸を考えても良い年だけれど、「もう一がんばりしようか」と思えてくる。そんな街へ行ってきた。
2013/01/27
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東北限定の放送かどうか知らないが、NHKの東北CMソング「ねぇ、ここにいて」(Facebookが公式?)の評判がとても良い。初めて耳にしたときから優しい歌声に引き込まれ、聞くほどに心に沁みる。これは塩釜高校の秋バージョン。冬バージョンは福島橘高校。 NHK「みんなの歌」はみんなが歌えない曲ばかりになり、合唱コンクールは楽しくもない難曲を顔の造作も気にしないで歌わなければ上位には行けなくなったなかで、久しぶりに清々しい歌声を聞いた。 宮城には仙台三桜高校、福島には安積黎明高校と全国区の合唱部を持つ高校があるが、塩釜と福島橘を抜擢したのは大正解。訓練された声よりも少し朴訥とした方が深い味わいがある。 女声合唱でありながら「君に~」というのは、女心の詩か男心の詩なのか? 家内は「女でしょ」というけれど、何十年も昔の、深い深い深淵の記憶に、ほのかに残っているような。「『もうすこし ねぇ、ここにいて』と言ってくれたらどうしよう。話したい事は山ほどあるけれど、何を話そうか」 国語の授業でこんなとんでも論を堂々と展開していたときの、先生の冷笑が目に浮かぶ。 この可憐で清楚な乙女の歌声に一つ注文を付けさせてもらえるなら、「もうすこし ねぇ、ここにいて」に思いを込めて欲しかった。 こんなシチュエーションの経験は無いのかな、とおじさんは言う。
2012/02/02
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実質的なふるさと松本で中学の同級会が開催されたそうな。盛り上がっていたらしく居酒屋からかどこからだか知らないが、酔っ払い達が電話をくれた。 何とまあ、50年近く会わず、現在の顔なんて想像もできない人でも話が弾んでしまうからおかしい。 考えてみると中一の一年間は最も楽しい時期だった。成績もそれほど悪くなかったし、友人も一番多かった時代。小学校は毎日行くのが億劫だったのに、中学は何故か居心地が良かった。 女性の「箸が転げてもおかしい」といわれのは、男にとっても同じ。何をやっても面白かった。子供染みた悪戯もやったし、ちょっと背伸びして恋の真似事もしてみたかった。女の子から来た年賀状の枚数が男の子を上回った人生でただ一度の年。 とまあバラ色の頃だったように思い出しても、葛藤や今以上の悩み(後で考えれば実にくだらない)を抱えていたのだと思う。 本当に時間のフィルターはありがたい。嫌な事はみな取り除いてくれる。「60過ぎると皆暇になって同級会が盛んになりますよ」と年長者に言われたことがある。そんな歳になってきたのかと思う。 皆、紆余曲折、修羅場も潜り抜けて来たのだろう。不楽是如何(楽しまないでどうする)。
2012/01/28
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こんなものが出てきたが、完全なる空手形だった。サービスポイントで「○○タダ」と書いてあるのは、その他は「タダ」ではないのか? こんな楽しい時期もあった。 会社勤めを始めた頃、工学系のため手形と小切手の違いを知らず、上司にあきれられた。それもまた遠い話。
2012/01/18
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アニメ、人形劇の声優を調べていたら、とんでもないことが判ってしまった。 鉄腕アトムの声、清水マリさんは私の出身高校の大先輩。声優さんは数多いれども清水マリさんの鉄腕アトムと大山のぶ代さんのドラえもんは別格。あの声はいつでも頭の中に蘇る。 顔も知らないのに、清水マリの名前は私の年代なら誰でも知っている。同じ高校に通ったなんてこれはもうびっくりだ。 名前が売れた大学の同窓生は珍しくも無いけれど、ITのおかげで明らかになった高校同窓の有名人、これもどうって事も無いけれど、ちょいとうれしい。
2011/12/15
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今度は漢字の「書き取り」について。10/27に最近は漢字なんてPCが出してくれるから、覚えてもしょうがないというようなことを書いた。本音は・・・・どうしてこうも漢字が書けないのかと情けなくなる。 ○×ではなく記述式の資格試験を受ける。PCも辞書も持ち込めないから漢字が思い出せず、思い出せる漢字で言い換えようと悩んでいるうちに、時間不足になって試験に落ちる。こんなことばっかりだ。 すべては小学校で遊んでばかりいたから。中学で富山の小さな町に転校した。国語のテストは実に簡単だったのに、漢字が一つも正確に書けず、大きな×印では格好悪いので書くのを忘れたふりをして、漢字部分だけ白紙で出した。国語の女の先生にこっぴどく怒られた。「他は全部合っているのに、どうして漢字だけできないの!」この先生、とても熱かった。教科書を離れ、「赤毛のアン」などの小説を朗読してくれ、ちょっと与太った男子生徒も聞き入っていた。 卒業後道で出くわし、私の自転車のハンドルをがっちり押さえて逃げられないようにしてから、「今度家へ遊びに来なさい」と言われた。 今も生きていたら、80過ぎのおばあさんになっているだろう。何人もの国語の先生に教えられたが、この先生は忘れられない。
2011/11/03
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作家、北壮夫氏が亡くなったとのこと。数多の作家の中でも、特に思い入れが深い。松本、仙台、東京に住んだことも私と同じ。 旧制松本高等学校時代、物理の試験に苦しみ、苦肉の策で教師の歓心を買おうとした有名な答案 (松本の旧制高等学校記念館にコピーがあったと思う。「どくとるマンボウ青春期」にも記述あり) をNHK NC9で紹介していた。その教師は私の親友の親父さん。この答案の現物も見せてもらった。 氏のユーモア小説に親しんだが、娘さんのことを書いたエッセーには娘を思う親心に心を動かされた。 「死にたいと思っても、とにかく25まで生きてみなさい」と何かで読み、若く逡巡していた頃の私は、大きな勇気を与えられた。 北壮夫氏も、その先生も、親友までも他界してしまった。こうして月日は移ろい行く。
2011/10/26
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「旅情」のラストシーン、キャサリン・ヘップバーンが列車のデッキから身を乗り出し、万感の思いをこめてゆったりと手を振る。これを一度やってみたかった。今では事実上不可能。 車なら後ろを振り向いて手を振るなんてことは絶対にできないし、飛行機なら手荷物検査の事務的な手続きに頭を切り替えねばならない。 思い出に残る別れのシーンはやはり列車なのだ。列車のドアが閉まり、小さな窓から死角に入るまでの思いが凝縮された貴重な数秒。 ところで演出すべき別れを演じる人がいるかって言うと、う~ん、今のところいない。
2011/10/15
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大学時代のサークルが創部50周年だそうで、記念式典に顔を出してきた。立食パーティのように大勢でワイワイガヤガヤやるのが苦手で、一人そっと抜け出し、キャンバスを徘徊していた。 数十年前そのままに残っている建物も多い。入学試験で初めてここの門をくぐったとき、レンガ作りのたたずまいがとても気に入り、「あっ、ここの大学で良いや」と合格発表前に自分で勝手に決めてしまったような記憶がある。 直感と言うのは案外正しいものらしい。ここでの師と先輩との出会いは、私にとって運命的だった。 大学時代は決しておもしろおかしい時代ではなかった。皮肉にも卒業間際、学問の面白さに気付きはじめ、その後足繁く恩師を訪ねた。 大胆にも英語の論文を書き、「何を書いたかさっぱり判らん」と呼び出され、丸一日かかって添削してくれた恩師も故人となった。 膝詰めで丸一日座っていた教授室も懐かしい。恩師や先輩の薫陶のおかげで、何番目かの弟子の一人として数えてもらえるようになった。 そろそろ老後に備えた軟着陸を考え始めていたけれど、この場所に来て見ると、もう少し頑張ってみても良いかな、と言う気持ちになる。 さておかしいのはサークルのお姉さま方、孫がいる歳になっても新入生だった男の子は、いつまでたっても「年下の男の子」らしい。その妖艶な眼差しに何度くらくらしたことか。
2011/09/26
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遠野でお土産用の繭玉(まゆ玉)を見つけ、急に子供の頃を思い出し買ってしまった。 昔々通った松本の小学校では、こちらでは考えられない実習?があった。 何年生か忘れたが教室で蚕(カイコ)を飼い、仕入れが多すぎたのか、学校で持て余したのか知らないが、生徒に数匹ずつ分けてくれた。 これを家に持ち帰り、繭(まゆ)を作り蛹(さなぎ)となって成虫(早い話、蛾)になるまで育てた話。 最初は体長5mmくらいだったのではないかと思う。 今思い出してみれば密生したアメリカシロヒトリそっくりなのに、不思議なもので気持ち悪いなんて思いもせず、毎日世話をしていた。 蚕の餌は桑の葉。学校の隣に県の蚕糸試験場があり、フェンスも無いので学校帰りに葉っぱを数枚ずつ失敬し、家の蚕に与えた。 最後まで残った4、5匹が糸を出しながら繭を作り始めたときは感動ものだった。さて繭を作ったのは良いが、それからどうしたらよいか分らない。 どうしても中が見たくて一つ剃刀で切ってみると、茶色の蛹になっていた。セロテープで切り口を修復したものの、死んでしまった。手を付けなかった他の繭は、ある日食い破られ蛾が顔を出し、どこかへ行ってしまった。 クラスメートの中には繭から生糸をとった人もいて羨ましかった。転勤族の我が家ではそんな手法、知るわけが無い。 そんな思いが駆け巡り、繭玉を見つけたときは少年の日に女の子からもらった手紙を見つけた時のように、ときめいた。おまけに糸の取り方の説明書もついている。 昭和30年代、松本の街中にはまだまだ製糸工場があって独特な臭いが回りに漂っていた。決して良い匂いではないけれど、もう一度その匂いに巡り会いたかった。 しかし、お土産用として売っているからには、中の蛹は死んでいるのだろう。同じ匂いなのか分らないが、そのうち生糸を取ってみよう。めでたく取れたらご披露いたします。 「1Q84」が養蚕(ようさん)を懐かしく思い出させた伏線になっていたかもしれない。 作者は違いを承知の上で書いており、そこがまた上手いのだが、蚕が作るのが「繭:まゆ」で中にいるのが「蛹:さなぎ」。「空気さなぎ」はおかしい。
2011/08/08
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35年以上前、毎日池袋、新宿間の山手線に乗っていた。高田馬場駅前にあった有名な噴水、いつ無くなってしまったのでしょうね。 当時、池袋から乗る朝の山手線は本も読めない混雑で、車窓を眺めるのが唯一の退屈しのぎだった。乗換えの都合上、高田馬場ではポルノ噴水の前で止まる車両に乗っていた。 「質スズヤ」と書かれた扇形のネオンサイン、その前に立会いの力士のような格好をした男女の人形があった。男の方は故先代貴ノ花、女の方はマリリンモンロー、質屋社長の贔屓だと友人から聞いた。 その中央から噴水が出て、人形を乗せたまま土俵が回る仕掛けだったと思う。ポルノと言っても黙って下を向く必要はまったく無く、「何、あれ?」と老いも若きも口をあんぐりさせる程度のもので、質屋の宣伝効果は十分だったはず。 高田馬場を通過する機会も少なくなった。目白に泊まり、車窓に目を凝らしていると、たまらなく懐かしくなってきた。いつか、気付かぬうちに無くなっていたその噴水、今でもありありと目に浮かぶ。
2011/06/08
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静かな夜、雪が降り始めていた。大雪になると言う。 古いカセットテープを処分しようとしていたら、大変なものが出てきた。30年以上昔、立川澄人、島田祐子が主演した二期会の喜歌劇「メリー・ウィドウ」のテープ。円熟した立川澄人さんと、当時まだ可憐だった島田祐子さんが絶妙な掛け合いを繰り広げる。 世界的な演奏のCDも持っているし、本場ウィーンのオペレッタも観た。しかし、日本語で演奏されたこの録音が、一番心を揺り動かす。 涙の中に微笑が浮かぶような暖かさがあり、一人暮らしの寂しさのなか、このテープにどれだけ助けられたか知れない。 東京タワーからの電波がやっと届くくらいの北関東でのFMエアチェックは時々ノイズが入り、テープも健全な状態ではなく、とても良い音とはいえない。しかし、こんな思い入れのある音楽を聴いていると、音楽は音質ではないと痛感する。雪が降りしきる静かな夜は、こんな音楽を聴いて一人心の温もりを楽しむのも良いかも知れない。2022/10/19 追記 訂正 誤:島田裕子 → 正:島田祐子 後日談があります。島田祐子さんと親しい方から上記の誤りについてご指摘をいただきました。お名前を間違えるようではファンと名乗る資格はありません。反省しきりです。 その方はこのブログと私のことを島田祐子さん、ご本人に伝えて下さったそうです。上記ブログを書いたちょうど1か月後、あの東日本大震災の震度6に遭遇し、書籍、テープみな吹っ飛んでしまいました。その中からこの40年前の「メリー・ウィドウ」を見つけ、宝物のように大切にしていることなど、島田祐子さんも喜んでくださったとか。とても光栄です。 上記メリー・ウィドウは110分少々の長さだったと思いますが、当時のカセットテープ90分では収まりきらず、3幕の中頃から別のテープに録音していました。ところが地震で四散してしまい、どうしても残りの20分が見つかりません。筋を追うにはそれほど不自由しません。しかし、あの二重唱「唇は黙して」から「メリー・ウィドウのワルツ」・・・フィナーレ が無いのです。魅力半減、画竜点睛を欠いた状態です。 立川さんと島田さんの声は耳に残っているのものの、もう一度聞いてみたいと願わずにはいられません。どなたか録音をお持ちの方がいらっしゃったら、お聞かせ願えないでしょうか。
2011/02/11
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大雪の被害が深刻だ。しかし当地仙台は例年に比べ雪が少なく、1cmも積もらない。 冬型の気圧配置が強ければ、太平洋側に雪は降らない。本当は晴れるのだが、今年は好天にもならない。おかしい。 私も富山で二冬過ごしたことがあり、雪国の辛い冬は知っている。それでも最大積雪量は70cmくらいだったのではないかと思う。 中学の頃で、雪の少ない町(松本)から引っ越したものだから珍しくてしょうがない。しなくても良いのに屋根に上がり雪下ろしの真似をしたこともある。 重い雪を知らず樹木に積もった雪を傘で落とそうとし、いきなり雪の塊が落ちてきて傘の骨が曲がったのが被害らしい被害だった。 写真(1967年)は家の前の除雪をする父親。重い雪を排除しなければ道路に出られない。 スタッドレスタイヤなんて無い時代だから、どの車も金属チェーンのシャシャという音を響かせながら、町を行き交っていた。写真の遠方は海で能登半島に対峙。 雪の無い地方の人、特に子供は雪が降ると喜び、私も純白の世界を眺めるのが嫌いなわけではない。しかしご近所の手前、家の前の除雪はしなければならず、年齢と共にそれが負担になってからは、雪なんては真っ平だ。 考えてみれば車社会が豪雪地帯の過疎化を加速させているのではなかろうか。車が走らなければ道路の除雪なんかしなくても、かんじきかスキーで通行できるし、物流には橇が使え雪の恩恵があったかもしれない。風邪はほとんど治りました。ご心配おかけしました(と言っておこう。心配した人が居るかいないか知らないけれど)。
2011/01/28
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多くの人と同じように今日は眠い。熱烈なサッカーファンでも無いのに、何故か見てしまう。8年前の日韓大会のときは、イタリアチームのホテルが勤め先の目の前で、華やかな雰囲気が味わえた。4年前、耳下腺腫瘍の手術を受けた当日、病院のベットで横を向けないベット上安静の状態で寝ていた。夜中、どうしてもTV中継が見たくなり、手鏡で横にあるTV画面を覗いていた。(見回りに来た看護士さんが呆れていた)やはりオリンピックよりサッカーW杯の方がおもしろいようだ。今年の冬季オリンピック、2年前の北京オリンピックでさえ何があったかもう忘れているし、それ以前のオリンピックは開催国すらすぐには思い出せない。
2010/06/25
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NHK朝ドラがどうしようもなくつまらないと書いた。今回の「ゲゲゲの女房」は久しぶりにまともだ。NHKさん、やれば出来るじゃないか!実話を基にすれば、支離滅裂になって破綻する事はないだろう。ロケ地になった調布の深大寺には、覚えている限り二度行ったと思う。最初は合コン。共学の高校でありながら女子の居ない理科系男子クラスになってしまい、夏休み前、隣の女子クラスと連れ立って遊びに行った。境内に入る前、クラス委員が「ケイナイから出ないで下さい」と叫んでいるので、後ろで小さな声で「ケイダイ、ケイダイ」と呟いていたら、傍に居た女の子がクスクス笑っていた。それしか覚えていない。二度目:大学の悪友に誘われ(たぶん誘ったのではない)、授業をサボり彼のボロ車スバル360で深大寺蕎麦を食べに行った。先生の知るところとなり、彼は呼び出しを食らったそうだが日頃品行方正な私はお咎めなし。そんな話はすっかり忘れていて、30年後にくだんの悪友から聞かされ、そういえば確かにそんなことがあったと思い出した。吉祥寺、三鷹から調布にかけては国の研究機関もいくつかあり、畑も残るいささかのどかなところだった。今はどうなったろう?下写真 ボロ車スバル360 後方は川越線。単線でディーゼルカーが走り、踏み切りで見通すと線路がうねっているのがはっきり分かった。複線電化となり、新宿直通の電車が走るとは思いもしなかった。
2010/06/24
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平野のど真ん中に住んで30年近く経つ。 昔々、数千mの山々に囲まれて暮らしたことも、今では夢のようだ。信州松本(長野県松本と書くと、気分を害す人が居るらしい)、西に北アルプス、東に美ヶ原が聳える町だ。物心ついてから中一までの少年時代を過ごした町だから、未だに記憶は色あせず郷愁は歳と共に増してさえいる。この写真は昔住んだ家の前から東を写したもの。女鳥羽川越しに何十年もほとんど変わらない風景だ。写真中央の、右側が急勾配になっている山は美ヶ原の王ヶ鼻、その左の、近くて高く見える山は袴越山、美ヶ原の最高峰王ヶ頭は王ヶ鼻の陰に隠れ見えない。袴越は一番目立つ山なのに、この名前を知っている人は松本でも少なく、毎日目にしていた私でさえ松本を去ってから友人に教えてもらった。この山頂に展望台を作れば、松本市街から安曇平が一望だろう。距離、伏角の大きさ、都市規模からすれば日本〇大夜景に入るかも知れない。この山の北側にはかつてスキー場があった。美ヶ原温泉スキー場と言ったような気がしたが、調べてみたら浅間温泉スキー場。ここには何度か行った。小学校の家庭科の先生に連れられ、女の子二人と四人で行ったことがある。彼女たちとは特に親しかったわけではなく、数十年ぶりで会った時も、「どうしてあんな組合せで行ったんだろうね」と言って笑った。誘われた男子が私だけだったというのも摩訶不思議。ボディーガードだったのだろうか?(それにしてはひ弱)思い起こせば小学校、中学校、高校と私は女の先生に妙に可愛がられたような気がする。自分で勝手にそう思い込んでいるだけかも知れない。幸せな人と女房は笑うだろう。ここでスキーをリフトの支柱に引っ掛け、運転中のリフトから転落したと言う凄まじい体験がある。高いところではなかったし、体の柔らかい子供が深い新雪に落ちただけだったから、怪我もせず照れ隠しに笑って、またリフト乗り場に戻った。美ヶ原は登山と言うよりハイキングの山だった。頂上のすぐ下まで車で入れ、、少し歩き回るだけで山の雰囲気を満喫できた。遠くの親戚が来たといっては案内し、小学校の友人が集まってはドライブし、信州などに縁の無かった妻を娶ったときは、早速引っ張って行った。我家の西には北アルプスの三千m級の山々が聳えていた。真冬から春先にかけては、朝焼けでほのかに赤みが差したり、これ以上の白は無いと思えるほどの純白の新雪が輝いたりし、そんな北アルプス遠望しながら登校する楽しみがあった。特に常念岳は端整な三角形で鎮座しており、松本から眺められる北アルプスの山々の中で、その景観は間違いなく白眉だ。最近、北アルプスを背景に昔住んでいた家の写真をデジカメで撮り、拡大してみたところ常念岳の左肩の辺りに、鋭く尖った山陰が見え、形状、方向からして間違いなく槍ヶ岳だと気付いた。家から槍ヶ岳が見えるのに、それを知らずに十数年住み、数十年後にその事実を知ると、何かとても損をしたような気がする。考えてみれば、北アルプスの至宝槍ヶ岳が見えるところに住んでいると言うのは、大変なことなのだ。少し遠いが乗鞍も見える。穂高は山影で全く見えない。松本城から望んだ北アルプス。中央の三角形が常念岳。その左肩に小さく槍ヶ岳が見えるのだが、もう少し引き伸ばさないと分からない。すばらしい写真だと自画自賛するが、この場に立ち、シャッターを押せば誰でも同じ物が撮れる。 槍ヶ岳登山は私の最初の本格的登山で、しかもそれが最後になってしまったから、特別な思い入れがある。それは小学校5年のとき。断崖に刻まれたステップに足が届かない、今思えばかなり無謀な登山だった。年々高齢になって行く父親の体力と、私の体力を天秤にかけると、その年しか無かったのかもしれない。あの登山中に味わった苦しさと、日を経てから染み出してくるような達成感は、今も忘れられない。松本はとにかく寒かった。学校の廊下を雑巾掛けすると、一往復の間に前に拭いた一往復が凍っていた事もある。数年前、真冬の松本に行き夕方歩き回ると、あまりの寒さのため頭痛がし、鼻水が流れ、子供の頃の感覚が蘇ってきた。松本の冬は外に出ず、炬燵でテレビでも見てミカンでも食べているのに限るのだ。人家の火の何と暖かいこと。冷え切った指先や耳に感覚が戻り、温もりは延髄にまで達した。夏の日差しは強烈だったが、山越えの乾いた風が吹き抜ける緑陰の心地良さは、海辺の都市では味わえない。高温多湿の他地域と比べれば、湿度が低い快さを痛感するだろう。富山、関東、仙台と移り住んでみて、冬の寒さが無ければ松本の気候が一番良いと思う。澄み切った夜空の美しさも特筆すべきことであり、その後数十年それ以上の星空を見たことが無い。嫌な事は忘れているかも知れない。それでも、勉強もせず遊びまわっていた時代に、豊かな自然に恵まれた地で過ごせた事は幸せだったと思う。
2010/04/18
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今になってしまうと半分信じられないような、夢だったような生活があった。中2から高1まで二年間と少し、海辺で暮らした。富山県滑川市、富山湾に面し能登半島と対峙する人口3万程の町。写真は我家の玄関から撮ったもので、道路を越えると田圃があり、その先は防波堤。ちょっと背伸びをすれば定規で線を引いたような海が見える。家から波打際まで100m位だろうか。信州の山の中で育ったのだから、海が珍しくてしょうがない。引っ越した当初、暇さえあれば海岸で飽くことなく海を眺めていた。能登半島があるため海に直接沈む夕日は見られないが、山入端に陽が沈む黄昏時は、一条の光の帯が海に伸び、田も道も、古い屋並もコンクリートの防波堤も、木々も金属も赤く染まった。今でも忘れられない感動は、奇跡的に晴れ上がりピンク色に輝いた厳冬の山々である。降り積もった雪が季節風で研がれた急峻な立山連峰、立山、剱岳が目の前にあった。時化の時は防波堤に砕ける波頭に圧倒され、漁港入口にある高さ5m程の灯台が波に沈む様に、海の膨大なエネルギを思い知った。200mも行くと海水浴場があった。考えてみれば家から水着を着て、海水浴場まで歩いて行ける人なんて、日本に何人居るだろう。しかしそこは、石ころだらけで急勾配が深みへと続く海水浴場だった。遠浅の海しか知らない私は、何の躊躇も無く十数m泳ぎ、立ち上がろうとしたが何と足が着かない。これには慌てた。何とか戻ることは出来たが、溺れる怖さを身を持って知ってしまったからには、二度とそこで泳ぐ気にはなれなかった。しかし、誰も居なくなった夕方の海水浴場は、暑い夏の日を静かに冷やすかのように、ギラギラした太陽の残照がかすかに残り、私は好きだった。今こうして書いていると、たまらなく懐かしい。しかし、もう住みたいとは思わない。海が珍しかった少年も春夏秋冬の一年間の表情を見続け、飽きた。それと共に、海ゆえ我慢しなければならないことがあるのを知った。とにかく湿気がひどい。乾燥した内陸から移り住んだのだからなおさらである。そして金属は錆びる。海辺の生活では確実に失う物がある。自宅を中心とした円の半分は海であり、船でも持っていれば別だが自力でそこへ行くことが出来ない。内陸に住む人と比べれば、行動範囲は半分になってしまうのだ。長く住むと、この制約は意外に効いて来る。信州の山の中で育った子供にとって海は夢だった。その夢を叶えたのと引き換えに、海への憧れを失った。海は時々見るに限る。
2010/04/14
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