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5月20日(月)東京から久々の里帰りという高校同期のAさんを迎えていつものMくん宅で少人数の同期会が開かれた。同じ東京に住む娘さんと一緒に帰鹿し妹さんの家にしばらく滞在しているという。何回か同期の旅行でも参加していて、すっかりお馴染みの顔であるが、鹿児島在住の私たちとは久々の対面である。 今回はMくん宅での集まりの常連であるNさんは、手術を目の前にして欠席、高校は違うが同期の賛助会員である本〇どんは入院中ということもあり、少し寂しい集まりとなったが、新しく10年くらい前に帰ってきて指宿に居を構えたKSくんがこの会に初めて参加し、いつもと同じくらいの人数での集まりとなった。 春の日をさんさんと浴びたMくん宅の庭園はいつもと変わらぬ姿で私たちを迎えてくれた。季節ごとの花々が美しい。 奥まった場所にある「地神」「水神」にも挨拶してから玄関を入った。 話題は次々に展開したが、昨年の東京旅行の話題や1月にここMくん宅で同じように歓迎した東京から帰ってきた同期生同士の夫婦・MD夫妻の話など話題は尽きず12時から午後4時まで4時間も続いた。しかし、この歳になると体調のことで一番盛り上がるのは仕方のないことか。 今回もMくんご夫妻には大変お世話になった。特に「冷そうめん」用の回る機械を2台も用意してもらって、そうめんもわざわざ「島原そうめん」を用意してもらっていて冷たいそうめんに舌鼓を打つことができた。感謝の他ない。今回、可愛いワンちゃんが3匹新規加入で鎮座していた。
2024.05.26
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4月28日(日)鹿児島市の宝山ホールにおいて、「創立70周年記念 第11回 楠声会合唱団演奏会」が開催された。楠声会(なんせいかい)合唱団は鹿児島大学男声合唱団 フロイデ・コールのOBによって結成された合唱団で現在でも全国に500人近くの会員を擁している。 コロナ禍までは、3年ごとに開催してきた定期演奏会が今回は何と6年ぶりの開催となった。当日全国から集まった110人の団員は93歳を筆頭に80歳越えが30人くらいの正に熟々年のメンバーである。 そういう中で、5ステージ24曲とアンコール一曲の全25曲をほとんど休憩時間もなく歌い上げることができた。私が言うのもなんだがまだまだ捨てたものではない。この老人パワーはどこから来るのか。 私の友人である大石くんが撮影してYouTubeに投稿してくれた一部を紹介します。他にも撮影してくれた人がいて「楠声会合唱団演奏会」とYouTubeに入力すれば見ることができます。
2024.05.18
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私の所属する男声合唱団・楠声会合唱団(なんせいかいがっしょうだん)が4月28日に6年ぶりに演奏会を開催する。コロナ禍前までは3年に一回のペースで開催してきたが、実に6年ぶりということで、私たち老人の多い合唱団にとっては貴重な6年を失った年月でもあった。 称して「創立70周年記念 第11回 楠声会合唱団演奏会」である。 私たちの楠声会合唱団は鹿児島大学男声合唱団・フロイデ・コールOBで結成されて以来70年という記念すべき年を迎えた。フロイデ・コールの創設者で指揮者となり、楠声会結成後は永年に渡り会長を務められた根本千春(故人)先輩の著書「青春のフロイデ」によると、「フロイデ・コールの第一回卒業生は昭和28年に卒業している。その次の年の昭和29年(1954)に西部合唱コンクールが地元鹿児島で開催されるにあたり、卒業生や上級生を中心に一般同好の方にも加わっていただいて鹿児島グリークラブが結成されコンクールに出場し3位に入賞した。これが楠声会の母体なので、この年を創立とすればフロイデに遅れること5年ということになる」とある。つまりはその1954年から昨年が70年になったので、今回の演奏会を70周年記念と銘打ったわけである。 全国に500人を超す卒業生がいるが、今回はそのうち年間を通して毎週日曜日に練習をする鹿児島の60人くらいを中心に全国各地でCDなど使って練習したり、これまで2回土・日を使って地元鹿児島であった強化練習に参加したりした鹿児島以外の会員も集まり100人を超す九州では珍しい男声合唱を披露する。
2024.04.09
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この日のバスツアーは阪急交通社と長島町の共同企画だったが、チャーターされたバスは霧島観光交通のものだった。添乗員さんも運転手さんも親切で心ら旅を楽しむことができた。感謝! 行人岳に行く前に「道の駅 長島ポテトハウス」から東シナ海を眺めて、それぞれ土産物など買った。その後、「エグチペジフル」に寄ってこの日の目玉の一つであった「長島赤土じゃがいも」を3kgいただく。綺麗に化粧箱に入れて準備してあった。持ち帰ったジャガイモは2個だけ家に残して娘に渡したが、娘が大量のポテトサラダをつくって届けてくれた。ご飯のおかずにしたり、朝ごパンに乗せてオープンサンドとして食べて美味しかった。 他にもう一つのお土産をいただくために、長島研醸に寄り長島町限定でしか売られていない「焼酎 島娘」900ml 一本をいただいた。これは同居する二男へのお土産の一つとなった。 そしていよいよ最後の楽しみの早めの晩御飯をいただくために「焼肉一貫」へ。謳い文句は、長島生まれ! 長島育ち! 「黒毛和牛 焼きすきセット」焼きすきとは? スライス肉(タレ付)を網で焼き溶いた卵につけてすき焼き風にして召し上がっていただきます。とあった。焼肉屋ですき焼き風と思って食べたが食べてみて納得の味と美味しさだった。 ここから帰路についたが、鹿児島中央駅に19時30分頃到着して、楽しかった一日は終わった。
2024.03.21
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ここは山岳信仰の地・行人岳(ぎょうにんだけ)。標高は394mあるという。最初に行った針尾公園とはまた違う風景が広がっている。 山岳信仰・修験道の聖地だけあって周囲は灯篭や石造物が多い。その昔、ここに登ってきた山伏たちが一心不乱に修行に励んだ場所として今に残る。 自分としても久しぶりの歴史ある石造物に興奮して、いつの間にか仲間たちとは離れてシャッターを押すのに夢中になっていた。ここに取り上げたものはその一部に過ぎない。 「行人岳の山岳信仰」については、下の案内板を一覧ください。 本尊の「蔵王権現」を綺麗に写すことは、残念ながら叶わなかった。 蔵王権現像の説明文 不動明王像 鐘撞堂 漁業の町だけあって七福神の一人、恵比寿さんの像もある。 行人岳を後にする頃には少し日も傾きかけていた。
2024.03.17
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昼食を食べた後、私たちツアー一行は、チャーター船に乗って長島遊覧へ。養殖ブリ生産日本一の養殖筏が散在する海を巡り、船長からいろいろな説明を聞くことができた。 東町漁業協同組合が商標登録した「鰤王」の養殖現場を目の当たりにして、私が想像していた以上のそのスケールに驚いた。その生産量は年間約12000トンだそうだ。稚魚(モジャコ)から出荷まで一貫しているとのこと。 午前中に針尾公園の展望台から下に見えた伊唐大橋を今度は海上から眺める場所に案内された。 養殖場の珍しい場所を見て満足した私たちは、今度は化石で有名な獅子島に案内された。嬉しいことにここで約15分の上陸をすることもできた。 船を降りて目の前の崖の上に「獅子島幼小中一貫校」があった。 その崖の下の道路沿いに「アンモナイト」と「サツマウツノミヤリュウ」の大きな造り物があった。ここで、ほとんどの人々が記念写真を写していて、この写真を写すまでは少し時間がかかった。 獅子島はお隣の熊本県御所浦島と共に日本有数の化石産地だという。島の大部分は約1億年前「白亜紀」の地層とされる御所浦層群で覆われいる。島の北西岸の御所浦周辺には新しい姫浦(ひめのうら)層群が露出し、更に片側から白浜を結ぶ海側には、より新しい数千年前の古第三紀の地層が表れている。いずれの地層にも化石が多く含まれるが、特にアンモナイトや爬虫類の化石も発見される白亜紀の地層は古生物ファンにとっては魅力があるのだという。 船着場の前にはちょっとした食堂兼お土産屋の「獅子島屋」があった。 船着場の前には「片側港」というバス停があっかご
2024.03.14
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3月1日(金)いつもの高校の同期仲間6人で長島のバスツアーに行った。今回のツアーはいつものバスツアーとは少し異なるお得なものだった。 先ず、旅行代金14000円の内、7000円を長島町からの助成金適用で各自の負担は7000円と格安だ。日帰りだが、昼食と夕食の2食付き、更に長島赤土栽培のジャガイモ約3kgと島内限定でしか売られていない焼酎「島娘」900m1本のお土産付きである。これは行かない手はないぞと仲間内で衆議一決しての参加であった。 鹿児島市を出発した朝早くは曇り空だったが、まだ未完成ではあるが、一部開通の西九州自動車道を北上、国道3号線に降りて阿久根市街地を通過し右折、しばらく走って九州でも有数の黒潮の流れがある上に架かる黒之瀬戸大橋を渡り長島町に入る。その頃にはお天道様も機嫌よくなり大歓迎してくれた。 先ず案内されたのが長島は八景の一つ「針尾公園」。下の2枚の写真はその展望台からの眺めである。ここは東町北部、八代海に臨む崖上にあり、大永年間、今から400数十年前、もと天草一帯を支配していた豪族・宮地氏が実権を握り砦があった場所だという。展望台から北を望めば雲仙天草国立公園が視界いっぱいに広がり、眼下に広がる「薩摩松島」の景観は時を忘れる素晴らしさだ。養殖生け簀もよく見える。 下に見える橋は平成8年に完成した伊唐大橋。この橋を眺めるのにも最適な場所である。 昼食を摂るために、少し早めの11時過ぎに「長島大陸市場食堂」に案内された。食べるのに夢中で写真を写し損なったが、脂がのって絶品の「鰤王定食」。大量の刺身とあらの煮つけを中心にした美味しい食事だった。 養殖ブリの生産量日本一!! を誇る長島東町漁業協同組合の魚市場。
2024.03.11
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サボってばかりのクマタツが久しぶりの更新をします。去る1月13日(土)北九州の小倉に住む妻の妹から一本の電話が入った。叔父が亡くなったという知らせだった。それより2,3日前にも電話があり叔父が家で転んで入院したが、2,3日で退院して帰ってきたから一安心、だがもう一週間何も食べられない状況だという知らせだった。それから亡くなるまでの間があまりにも短かったので、驚くほかはなかったが、一昨年11月に今は亡き妻と一緒に叔父の顔を見に行った時は、まだまだ元気だったのでまだしばらくは大丈夫だろうと思っていた。しかし男性としては長寿の満96歳と聞けば、まあまあ大往生という事だろうと自分を納得させた。 翌日の14日(日)が通夜で15日が葬儀だという。すぐに子供たちに連絡し、衆議一決、14日の朝、二男の運転する車でフルメンバーの親子4人で行くことに決定。日曜日の朝、北九州に向けて出発した。九州自動車道を運転する息子の車に乗りながら、私が40代から70代まで家族を乗せてこの道を何十回いや百回を超えるくらい走ったなあ、と思いながら感無量であった。 葬儀など一切は家族葬であったが、団結の固いS家一族だけあって50人近くは集まった。叔父も惜しまれながらも安心して旅立ってくれたことだろうと思うことだった。 通夜が済んで会食の後、我が家の長男と二男は翌日、月曜日の仕事に備えて深夜の九州自動車道路を運転を交代しながら走るということで帰って行った。後で聞いたところ午前1時前には鹿児島に帰着したという。 私と娘は、翌日の葬儀にも出るため2日間、妻の妹宅にお世話になることにした。葬儀も悲しみの中にも粛々と終わり、火葬場に行って荼毘に付した後、再び葬儀社に帰り、初七日も営まれた。 上から3枚の写真は、いつ行っても綺麗に手入れされて、美しい花を見ることが出来る妹宅の庭である。夫婦でよく手入れがされていて、寒い冬場でもこの美しさである。男所帯になった我がも少しは見習わなくては思う事だった。 明けて16日(火)私と娘は新幹線で鹿児島に帰るべく小倉駅に向かった。少し時間があったので、いつものように62年前に銀行に就職し、初任地の小倉支店があった京町通りに自然に足は向かった。北九州市で一番の繁華街である魚町と交差するここ「京町商店街」も時代の移り変わりで昔の店は数えるほどしか残っていない。銀行の支店跡も一時はパチンコ店になっていたが、今はビジネスホテルになっている。もっとも銀行は私が在勤当時に馬借町に新築移転していてそこの現在は銀行の前の通りの上にはモノレールが走り景色は一変している。 京町商店街のアーケードを抜けて左に行くと勝山公園があり、北九州市役所が小倉城を凌駕するような形で建っている。(グレーの建物) 右の建物はNHK。その間に小倉城が小さく見えている。 新幹線に乗車する前に「小倉駅7番、8番ホームの名物うどん」を娘と食べた。これは、一回食べたら病みつきになるおいしさ!(私の感想)今回もお土産にも妹からいただいて帰ってきた。まだ、二袋残してある、楽しみはとって置く。
2024.02.19
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一昨年の12月に妻を亡くした我が家に2回目の正月が巡ってきた。それでも13ヶ月も経っていない正月である。元旦の朝は、我が家では二男と二人で二男がダシをとったお雑煮をおかわりをして食べたり、これも二男が二日がかりで煮た黒豆だけの朝食を食べた。この食事も妻在世中からと何ら変わりはない。 ふと考えると今日はもう1月も最終の31日である。正月のことを二月になって書くのもと思いパソコンに向かっている。 昨年の正月は二男と娘で餅を搗いたり、娘がおせち料理やお雑煮を造ったりはしたが、長男が年末にコロナに罹患し、結局は娘家族と二家族で妻亡き後2週間も経たない慌ただしい中で正月を迎えるという盛り上がりも何もない正月であった。 今年の正月は妻が生きていた頃の正月を出来るだけ取り戻そうと、娘と長男の嫁が分担しておせち料理を造って持ち込んでくれた。それはそれで、感慨無量の私は年始の挨拶でしばらく涙が止まらず、子供や孫たちに見苦しいところを見せてしまう始末だった。 それはともかく、出来上がったおせち料理は妻がいる時と何ら遜色もなく、皆で美味しくいただいた。2日と3日は二男は外出したので、私は両日とも昼は、おせちの残りを食べながら至福の日々だった。 そして5日の誕生日には前々回書いたように「鹿児島五社詣り」で今年の体力試しと幸運を祈った。夜は家族も来て誕生日を祝ってくれた。7日は近所のNさんから「七草がゆ」の差し入れをいただいた。我が家は都合で後日造った。8日は黎明館であった「石垣シンポジュウム」に参加した。目出度い正月もここまでで、13日には北九州小倉の妻の叔父の訃報が入った。急遽私と子供3人で北九州に向かった。そのことは、次回に。
2024.01.31
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歌を忘れた状態のクマタツが今年2回目のブログ更新を思い立った。もう1月も今日は28日(日)である。一日10時間近くベッドにもぐりこんでいるクマタツも勃々目覚めなくてはと思いやっとこれではいけないと・・・。 日記というのは苦手な私も1969年29歳の時に転職した時から営業の日報の他に自分のための備忘録などを兼ねる手帳を書き始めた。しかし北九州から長崎、徳山と転勤する度に捨ててしまったのか鹿児島に帰る1981年41歳からの手帳しか手許にはない。1981年の11月に鹿児島に帰ってきたのだが、その年の手帳には帰ってくるための親会社との打ち合わせの日付や内容などが詳しく記載されている。それ以降の2017年までの手帳には単年毎にプライベートな主な出来事を全て記載してある。私が自分史でも書こうとするならそれ等を中心に写真なども見ながらということになるのだろうが、もう現状では無理かなと思う。 2018年からは、妻がその頃から書いていた3年手帳を勧められて私も使うようになった。書く欄は少ないが、その日の朝の室内温度や出来事など書くのには何ら不自由はない。2年目、3年目になると同じ日に何があったかということがわかり悲しい出来事であれば、感慨にふけることもあるが、それはそれでいろいろなことを思い出すきっかけにもなる。 2018年~2020年、 2021年~2023年の黄色の3年手帳が昨年で終わり、今年からの手帳を単年の手帳にするか、3年手帳にするか考えたが単年手帳に切り替えるのは、縁起が悪いような気がして、思い切って3年手帳を買ってきた。今年は前年や前々年の出来事を振り返ろうとすると、古い手帳を引っ張り出さなくてはならないが、それはそれでいいし、過去は振り返らないという意味ではいいのかもしれないと考えたりもする。 当面考えるのは、この手帳を完結するまで元気でいようと、そのためには生活全般をどのように過ごしていくかということだけである。
2024.01.28
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新年の挨拶が遅れましたが、「皆さま明けましておめでとうございます。このところなかなかアップされない拙ブログ共々、本年もよろしくお願いいたします。」 今日は私の何と84歳の誕生日です。いつものように朝6時起きで、身の周りの事を済ませ、同居する二男を勤めに送り出すと、自分の自由時間である。今日は、ここ数年続けている誕生日記念の「上町五社詣り」の日である。天気晴朗にして、朝方こそ今シーズン最低の2℃を記録したものの、日中の最高気温は14℃予想である。昨年は家庭の事情で行けなかった五社詣りを決行することにして、朝9時10分のバスで順路で一番になっている「南方神社」に近い清水町バス停で下車する。ちょうど10時に到着した。 この南方神社については、これまでも何回も書いてきたので詳細は省くが、鹿児島五社の筆頭の神社である。信州諏訪大社の分社で諏訪神社(おすわさあ)と言われる。薩摩藩主の崇敬が厚かったが、庇護を失い衰退した。2004年に社殿が老朽化により取り壊された。現在の社殿は2010年に再建された。場所は鹿児島城(鶴丸城)の前を通り島津家の磯庭園(現在の仙巖園)に向かう国道10号線沿いの左側にある。 続いては2カ所目の「八坂神社」。言わずと知れた祇園祭(おぎおんさあ)で有名である。 すぐ隣の石橋公園から見た櫻島。私自身、今年初めて写した櫻島である。迫力に欠けていますね。 八坂神社から南方神社方面に引き返し、再び南方神社前を通り、仙巖園方向に行き、左側に入った山の下にあるのが3番目の「稲荷神社」ここも以前何回も詳しく書いているので詳細は省きます。 稲荷神社の鳥居の前から右側に歩くと我が母校・清水中学校がある。ここは清水城のあった場所でもある。 清水中学校を背にして稲荷川に架かる橋を渡って清水小学校に向かって進むと左側に「仁王堂水」がある。私が中学校や高校に通うためにこの前を通るころはまだ湧き水を掬って飲む場所ったが、現在は水道になって、蛇口からみづが出るというなんとも無粋なことになっている。 清水小学校を左に見ながら三叉路を左に行くと4番目の「春日神社」に到着。 春日神社から引き返し、先ほどの三叉路を道なりに進むと5番目の「若宮神社」である。ここも今回は省略。 若宮神社を後に右に出て大きな道路を左に行くと国道10号線に帰ってくる。ここの昔から美味しいと評判の「つきあげ」(さつま揚げ)の早﨑屋がある。これも恒例になっているのだが、今年も買って帰ることにした。たくさん買ったら、一本味見をさせていただいた。空腹につけあげが美味しかった。 その後、鹿児島駅前で今は亡き同級生の息子さんが経営するお好み焼き屋「彦太郎」に寄ってお好み焼きを食べて金生町のバス停まで歩いた。バスに乗ってスマホの万歩計を見るとなんと「8880」歩となっている。何とも言えない縁起の良い数字に驚いた。若宮神社で「五社詣り」も終わったと思い万歩計を見た時は6700歩くらいだったので、それから2000歩くらい歩いていた。今年最高の歩数だったが、疲れも感じることなく歩くことができた。この調子で今年は生きたいものだ。
2024.01.05
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我が家に一足早い正月が来た。昨日、昼過ぎにチャイムが鳴るので「ハ~イ」と言いながら玄関に出てみると、近所のTさんが大きな鉢を抱えて立っておられた。この鉢は、先日妻が生存中に近所の仲のいい4人で毎月「女子会」と称してランチをしていた3人が玄関に置く鉢物を造るから適当な鉢はないかと訪ねて見えて託したものだった。その中のお一人でいつも県の美術展入選のTさんがセンス良く仕立てていただいたものだ。鉢の白い模様もTさんが描かれたものと思う。これも花鉢にピッタリでセンスがいいですねぇ。正月花や正月飾りも華やかに仕上がっていて、このところ殺風景だった我が家の玄関に文字通り一気に花が咲いた。妻の一周忌の12月を迎えて沈みがちだった私も一気に元気を取り戻すことだった。 12月3日(日)は北九州に住む妻の妹家族5人が前日から鹿児島に入り、西本願寺別院で極々近い親族だけ10数人で法要をお願いした。その後、城山ホテル鹿児島で会食をし、午後には高速道路を北九州まで帰って行った。12月10日(日)は新しく買うことが出来た西本願寺中央出張所で納骨式の後、納骨をすることが出来た。私や子供たちも一周忌までには納骨を済ませたいと思っていたので、一応の一安心ではあったが、寂しさも感じるこの頃でもある。 先祖代々の納骨堂は近々墓じまいをして、先祖のお骨も新しい納骨度に納めようと思っている。20日の命日に向けて自宅の仏壇にお参りしてくださる方や、供花など送ってくださる方があったりで、忙しい日々を過ごしていた。 そういう中で、大変嬉しい出来事あった。私が10年以上前に書いたエッセイ「花瀬望比公園」を2019年8月17日に 終戦記念日に寄せて(その三)「花瀬望比公園」と題して拙ブログにアップしたものがあった。それから4年以上経過したこの12月4日にある方から思わぬコメントが入ったのだ。いずれ詳細を書くことになると思うが、わかりやすくは下記の通り入力いただければ概要がわかると思う。 https://plaza.rakuten.co.jp/kumatake123/diary/201908170000/ その他にもグラウンドゴルフの忘年会や妹の傘寿の祝、姉と妹たちのコーラス「いきいき」の演奏会、友人中村隆重くんの「哲学の庭」出版記念パーティーなど嬉しいことも山盛りの12月だった。 そして、今年最後の今日のグラウンドゴルフで何と一年に何本も出ない50mホールでホールインワンを出すことが出来た。「終わりよければ全て良し」と一人悦に入っている。
2023.12.27
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旅の二日目も天候に恵まれて、博多の今宿にある「生の松原元寇防塁」に向かった。道路沿いにあり見つけ易く、駐車場も完備しているので訪ねやすい所だった。 案内板に従って行くと綺麗な海に到着。 「福岡市の文化財」のネット情報によると次のように書いてある。文永11年(1274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁と呼ぶ。長垂海岸から小戸海岸にかけて約2,5kmの間、白砂と松原の境を元寇防塁が縫うように走る。ここを生の松原地区元寇防塁と呼ぶ。昭和43年発掘調査が行われ海への傾斜面に幅1~1,5m 、高さ1,8mに石を積み上げ、その後を粘土で補強していることが判明した。また積みあげられた石の種類が、西側は長垂海岸に見られるペグマタイト(花崗岩)、東側は小戸岬一帯の砂岩ときれいに分かれていた。史料によればこの付近の防塁構築は姪浜の備前国、生の松原が肥後国とあり、この石材の違いは両国の分担地区を示す可能性がある。「蒙古襲来絵詞」に肥後の御家人竹崎季長が防塁の前を馬で進む場面は、この生の松原の情景である。さらに防塁の前面に玄武岩で作られた一列の石積みがあり、修理のあとと考えられている。 下の写真の現地案内文と読み合わせて理解が深まると思う。 「蒙古襲来絵詞」の現地説明文 「蒙古襲来絵詞」 写真撮影の場所から透明なガラスを透して現地のリアルな姿をを見ることができる。
2023.12.02
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昨日25日(土)はどんぐりの会(老人会)グラウンドゴルフ部の忘年会だった。いつものように午前8時30分にいつもの公園に集合して先ずは公園の清掃から始めた。2年前に伐採してもらった大木が今年はそれにもめげずもうたくさんの葉っぱをつけていたのだが、初冬になって枯れ葉を散らし、また私たちを翻弄するようになり始めた。たった2年間の癒しだったのか。 現在のグラウンドゴルフ部の登録人数は11人だが、このところ参加者が少ないので今回は忘年会には必ず出ていただくようにお願いした。その結果、腰が痛かったりしていたメンバー二人の参加もあり9人が集まった。残りのご夫婦は通院日でもあり、会食には参加するとの連絡が事前にあっていた。 何より良かったのは、この日の天気予報では今シーズン最大の寒さになると聞いていたのが、公園に行ってみると集合時間には暖かい日差しが公園いっぱいにふりそそいでいたことだ。そして風もなくこの上はないというグラウンドゴルフ日和となった。4人と5人の二チームに分かれてそれぞれが1番ホールと3番ホールからスタートした。組み合わせはいつも箸に数字を書いたものを引く抽選なのだが、4人組は女性だけ、5人組は男性4人と女性一人という偶然とはいえ面白い組み合わせになった。いつもと同じで2ゲームやった後はお菓子をつまみお茶を飲みながらの休憩時間である。この時間は風論談発で皆自分の言いたいことを勝手に話して盛り上がる。休憩後再び2ゲームを楽しむ。いつもと同じパターンだが、この日は賞品もかかっているのでいくらかの慎重さがある。またそうでなければ大会の意味もない。 結果女性一人、男性一人が4ゲームを通じてそれぞれ3本の「ホールインワン」を決めて男性のIさんが優勝、女子のHさんが準優勝に輝いて3位と合わせて豪華な賞品? をゲットした。因みにクマタツジージはホールインワンを1本出したものの4位に終わった。昨年は2位だったと思う。 11時過ぎにゲームを終えてそれぞれ帰宅した後、同じ団地内の寿司屋に12時に集合。少し遅れてゲームに参加できなかったKさんご夫婦も到着し宴会が始まった。ビールやウーロン茶で乾杯の後、差し入れのワインや焼酎も出て大きく盛り上がった。途中表彰式もあり、ホールインワン賞の残りや、差し入れのお菓子のじゃんけんでの取り合いもあり、いい歳のジジ・ババが歳を忘れて盛り上がった。因みに日頃の公園清掃の御駄賃やホールインワンをした人が小さな郵便ポストに入れる@50円なども積みあがっていて、宴会費用や賞品、ご褒美の1人あて2000円のご苦労さん賃も全てひっくるめて自己負担0円で全ての事を賄うことが出来た。めでたし! めでたし!
2023.11.26
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福岡県の志賀島で奴国王金印の地である「金印公園」を訪ねた後、車で5分くらいの「蒙古塚」に向かった。下の案内板にあるように、また私たちが学校で習ったように元寇は日本の鎌倉時代中期の1274年と1281年の2回にわたりモンゴル帝国(元朝)および属国の高麗により対日本侵攻を行った。1度目を文永の役、2度目を弘安の役とよんでいる。特に2番目の弘安の役において日本に派遣去れた艦隊は当時世界最大規模のものであったと言われている。チンギスカンの血を引き継ぐモンゴル帝国第5代皇帝フビライの命によって1268年高麗から派遣された使者は大宰府において口頭と書面によって「蒙古」の存在を伝達したことで日本側にも知られるようになった。この戦いで最後は神風によって勝利たということが伝わっているが、近来の研究においてはそれも疑問視されているという話もある。 昭和2年建立された蒙古塚(蒙古軍供養塔) 張作霖書による「蒙古軍供養塔賛」 話題は飛んでもない方向に発展するが、蒙古軍来襲で日本に大きな騒ぎをもたらした元(モンゴル)が今、日本の大相撲に大きな影響をもたらしているのはどういうことなのだろうと考える。いや大きな影響どころか、今やモンゴルの相撲取り失くしては、日本の大相撲が成り立たないほどになっているのは日本人としては悔しいけれども現実である。特に安定した力を求められる横綱にはこのところなかなか昇進することがむつかしくなってきている。68代 朝青龍、 69代 白鵬、 70代 日馬富士、 71代 鶴竜、 72代 稀勢の里(日本人)73代 照ノ富士。 そして次を狙う大関も霧島、豊昇龍のモンゴル勢2人と日本人・貴景勝の1人である。関脇で好調の琴の若にがんばってもらいたいものだ。日本の国技たる大相撲が「庇を貸して母屋を取られる」という状況にモンゴルとの歴史が関係しているとは思わないが、不思議なことではある。しかし、大相撲にモンゴル勢だけでなく広く外国人が参加していることはいいことだとも思う。 遅い昼食のために「旬彩処 大岳」に入る。 この後、ホテルに向かった。
2023.11.24
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このところ体調もいいとは言えない中で、昨年までは夏場が過ぎると始めていたウオーキングも今年は暑さが続くとはいえ始める気分にならないまま今日まできていた。10月27日にこれではいけないと思い少し歩いてはみたのだが、身体がだるくなって30分くらいで切り上げたことがあった。そこに持ってきて29日の校区運動会での顔面を負傷するという無様なことも起こしてしまった。 そいう中で11月2日、少し懸念していた自分自身の問題が解決したのである。それ以来2,3日しか経っていないが、不思議なものですっかり元気を取り戻すことができた。そして昨日はカットバンをつけたまま定例のグラウンドゴルフに参加して、仲間の皆さんに運動会で迷惑をかけたことを詫びたり、年末のグラウンドゴルフクラブの忘年会の打ち合わせをしたりすることができた。そして、今朝は母校・鹿児島大学の駅伝部が出場する「第55回全日本大学駅伝対校選手権大会」を第二中継所まで見て9時40分に家を出て歩き始めたのだった。 するとこれまで買い物に行ったり、その他の用事でも外出して少し歩くだけで違和感を覚えていた体調がどうもない。これはいけるぞ! とこれまでの歩きのコースをどんどん歩き始めた。30分くらい歩いたところで自分の体調を推し量ってみたが、まだいけそうである。そこで同じペースで久しぶりのコースをどんどん進んでいった。温度も上昇しているのだろう。肌着の代わりに着たTシャツが汗ばんでくる。そして、ここから引き返せば大体1時間くらいの場所というところまで来て引き返すことにした。もう少しコースを変えれば1時間15分くらいという私なりのコースもあるのだが、今日はこの辺りでということで戻ることにした。 帰りにちっちゃな野菜屋さん兼果物屋さんで果物でも買おうと店の前を通ると今日は休みだった。青果市場が休みだから営業は出来ない日曜日だということまでは頭が回らなかった私である。家に帰ってTシャツを着替えたがその上にシャツをつけることもなく夕方まで過ごしたほどの暑い? 一日だった。 爽快な一日を過ごした今日だったが、明日は午後から雨模様の予報が出ている。しかし、傷も癒えてきたので明日から通常の生活に戻る予定である。
2023.11.05
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昨日29日(日)は校区コミュニティ協議会主催の「元気づくり親睦運動会」だった。何しろコロナ禍による世間の動きから4年ぶりの開催であった。幸い絶好の秋晴れに恵まれて気持ち良く開会式から参加した。 まあ、この80歳をとうに超えた年寄りが運動会に参加? と思われる方が多いだろうが、これにはそれなりの理由もあった。私も数年前までは町内会長や体育部長などなど様々な役職を経験し、町内会の参加する校区の催しなどにもほとんど参加してきた。そして3年間の中止を経て、今年の開会となった。そこで3年前まではまだ最後の70代ではあったので、これまでのいきさつもあって何も考えず当然のように参加してきたのだ。しかし、今年は、参加希望の回覧が回ってきたときに体調もこれまで程快調ではないし、一旦はどうしようかと考えた。そこでグラウンドゴルフ仲間とも話し合ったが、町内会の会員数が激減しこのままでは町内会として運動会に参加できないかもしれないという話もあり、参加の方向で動くことにした。実際今回は大人28人(そのうちの大半がどんぐりの会という老人会のメンバーであった)、子供6人という校区にある6つの町内会の中で最低の出席人数であった。そのために私たちの町内会は今年からは運動会の華である「あいご会対抗リレー」や「町内会対抗リレー」のメンバーが足りず出場できない状況に陥っている。因みに私が町内会長を最後にやった6年前は参加者は8,90人くらいだったと思う。極端に人数が減ったのは子供が「あいご会」を抜ける年齢になると「もう町内会にお世話になることはない」という親御さんがいたり、あるいは「町内会を抜けてもゴミ捨て等にも何ら支障はないし、町内会に留まっても何らメリットはない」というような事柄が原因だと漏れ聞いている。しかし最大の原因は「町内会長初め町内会役員が各班に定期的に回ってくる」ということのようだ。そのため、過去に町内会長を経験された方々がほとんどと言っていいくらい町内会を脱退されるという残念な状況に陥っている。 ついつい話が逸れてしまったが、昨日の私は「ゆっくり急いで」という各町内会20人づつが出場して色水を茶碗で運び、一升瓶が満杯になるまで何回でも運ぶという競技に出場し、それは無事に終了した。不名誉な負傷を負ったのは次に出場した「ボーリング」であった。これも20人出場でペアを組みボール一個でビール瓶2本を倒したら次のペアに渡して、10組が早く終わるのを競う競技であった。私はTさんという女性と一番最初のスタートのペアになった。一人は手前からもう一人は20mくらい離れた反対側におり、中間に置かれたビール瓶2本を1本づつでも2本同時にでも倒したらスタート地点に急いで戻り次のペアに渡すという段取りである。Tさんが手前から私が20mくらい先でTさんが転ばしてきたボールを今度は私が拾って瓶に向かって転ばして2本倒せばいいという単純なものだが、それが思うようにはいかない。2,3回お互いに向き合って転ばしたが不発である。そして何回目かにTさんが転ばしたボールが見事に瓶に当たり2本とも同時に倒れたのである。喜んだ私は反対側からボールを一時でも早く次のペアに渡そうと瓶が倒れたところまで走った。そしてボールを拾って走り出そうとした瞬間に前につんのめってしまったのだ!なんという不覚。なんという様だ。一瞬顔に手を当てると血が付いた。しかし、あまり痛さはなかったので骨に異常はないだろうとその瞬間にも思った。 そこから救護の看護師さん二人のいる本部席へ連れていかれた。どなたが連れて行ってくださったのか血が出ていたのはわかったが、その時どのような形で、また周囲の人はどのように見ていたのか、全然覚えていなが、ただただ恥ずかしかったのは覚えている。看護師さん二人に手当てをしてもらっていると町内の体育部長のTNさんが冷たいお茶のペットボトルを持ってきてくださって一息つくことが出来た。その後、近所のNさんも駆けつけてくれて、看護師さん共々世話をやいてくれた。最終的には、傷の場所に砂が少し入っているようだということで、水道で洗顔してから消毒をし、ガーゼを当てて絆創膏で留めていただいた。保険も利くので病院に行くときは申し出てください、とのことであったが、今朝私も絆創膏を外し、昨日その後ガーゼの表まで沁みてきていた血もすっかり止まっていた。傷の場所は鼻の上方で眉間の真下である。打ち所が悪く強い当たりであれば危険な部位でもあると思われるので不幸中の幸いであった。今日はもうカットバンだけで済ませるような状況だがカットバンが取れるまで用心のためもあり、一週間から10日くらいの自宅謹慎を自分に申し付けた。 教訓として、気分はいつまでも若いつもりでいた自分に歳の事を考えなさいという警告として受け止めることだと思った。グラウンドゴルフでも、次のホールまで仲間の忠告も聞かず走っていたが、今後はそいうこともやめて、ゆっくり動くようにしたい。
2023.10.30
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志賀海神社を見学した後、「金印公園」に向かう。「漢委奴国王金印発光處」(かんのなのわのこくおう)の石碑があり、その上に公園が広がっていた。 下の石造物は金印には何ら関係ないと思われるが、石造物好きの私がパチリとやってしまった。 金印公園は紀元57年に後漢の光武帝が奴国(なこく)の王に与えたされる「漢委奴国王」と記された金印が天明4年(1784)にこの付近で発見されたことを祈念してつくられた。 金印って何でしょう?下の説明版を熟読ください。 実際にどんな風に使われていたの? これも説明文を熟読してください。使い道には現在も同じように使われていることもありますね。例えば銀行の札束の封印とかに。 展望広場にある金印のモニュメント。博多湾と福岡の街を背景に古代大陸との交流の様子を想像するとロマンがありますね。 金印の本物は「福岡市博物館」に展示されているとのことだが、今回は訪問しなかった。
2023.10.26
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鹿児島県合唱連盟と合唱振興基金の主催で11月3日「世代と仲間をつなぐコンサート」が開催される。今回のコンサートは文字通り世代と、どこそこの合唱団員という枠を乗り越えて歌うように下のポスターにある8つのステージが設けられている。私はその中の「一般男声合同」と「シニア合同」の二つに出演して歌う予定である。 今日は私たちの男声合唱団・楠声会の練習日だったのだが、その会場に他の合唱団3団体から男性の有志が集まって総勢70人くらいでの練習となった。本番は80人くらいを予定しているとのことだ。今回「一般男声合同」で歌うのは4曲。 1,秋のピエロ(「月光とピエロ」より) 2,梅雨の晴れ間(「柳川風俗詩」より) 3,群青(福島県相馬市立小高中学校平成24年度卒業生 構成 本田美樹) 4,少年時代(井上陽水 作詞・作曲)「月光とピエロ」は男声合唱をやったことのある人なら誰でも歌ったことがあると言っても過言ではない堀口大学作詞、清水修作曲の有名な歌である。「柳川風俗詩」も同様で北原白秋作詞、多田武彦作曲である。いずれも男声合唱曲の定番であるので、男声合唱の合同演奏の時にもよく歌われる。 今日はこの2曲を男声合唱団「ひびき」の指揮者の指導で歌った。あと2曲の「群青」と「少年時代」は我らの指揮者の指導で歌った。本番もこのお二人の指揮で演奏する。本番までの練習は29日、再び同じ方法で行われる。 もう一つ私がエントリーしている「シニア合同」は過去二回練習があったのだが、いずれも参加して練習した。最後の練習は10月24日(火)の予定である。こちらは2曲 1,マイ・ウェイ(片桐和子訳詞、野間幹夫編曲) 2,切手のないおくりもの(財津和夫作詞・作曲 野間幹夫編曲)この2曲とも皆さんご存じの有名な歌である。いずれにしてもシニアと男声の残された一回づつの練習を楽しんで本番に備えたい。
2023.10.22
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鹿児島市の「史跡めぐり ガイドブック」に掲載されている「横山安武・森有礼成育の地」に住むMくん宅で今日久しぶりに同期有志の会を開いた。Mくんが先日あった歴史講演会の帰りに雨に濡れた坂道で滑って転倒し、足を骨折したという。そのために20日くらいギブスを装着して、家から出られないという話が伝わってきた。そこで私がKくんにラインで「美味しい弁当でも持って見舞いがてら顔を見に行こうか」と連絡したところ、それではいつものメンバーで集まろうという話に発展して今日の集まりになった。 久しぶりのM邸は秋の風情が漂い花は少ないが、いつもの佇まいで私たちを迎えてくれた。結局集まったのは、7人になった。そのため、今までのMくん宅での集まりがそうであったようにMくんの奥様が弁当の手配やお吸い物・お茶の世話までやっていただく結果になってしまった。本当にいつもお世話をかけるおじいちゃん、おばあちゃんたちである。 由緒ある屋敷だけに地神、水神などあって歴史を語る。 まだ残る紅葉が庭に華を添えていた。 今日集まった七人の中で、この二人はテレビや新聞で全国で顔が売れている同期の二人のおじいちゃんなので敢えて顔出しをすることにした。あくまでも私の一存である。 左が現在アメリカ女子プロツアーで活躍中の「勝みなみ」ちゃんを育てたおじいちゃん。みなみちゃんが子供のころから一緒に打ちっ放しやゴルフ場に連れて行って、コーチもつけずにおじいちゃんが育てあげた話は有名である。彼もこのところのMくん宅での同期会の集まりのメンバーの一人だが、先日来アメリカツアーの応援に行っていた。本人曰く「10日くらいで帰ってきた」とのことで、本日の参加となった。 右はこの会には初登場の「鹿児島のイチロー」として有名なおじいちゃん。本名は満山一朗。wikipediaによると「バッティングセンターのホームラン王」「バッティングセンターの怪物」「燃料和尚」(モータージャーナリストとして執筆しているコラムでの通称)とも呼ばれているとのこと。鹿児島のバッティングセンターでホームラン王になったのをきっかけに一躍有名になった。そして九州一円に遠征するうちに全国的にも有名になって、全国をまわりテレビにも数多く出演している。そのイチローは今回初参加であった。ただこれもテレビや新聞で報道されたが前立腺がんに罹患してしばらく闘病生活を続けていた。そして退院した数か月前に飲食店で彼を励ます会をしたとき、Mくん宅の会があることを知り、是非自分も参加したいとの話があって今日の集まりに初参加となった。二人とも、それぞれのことを成し遂げたいい顔である。 今日は正午集合で談論風発。気が付けば午後3時30分をまわっていた。楽しい半日だった。私はイチローくんの車にバス停まで乗せてもらって帰ってきた。
2023.10.19
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9月7日から一泊二日のドライブ旅行に出た。いや、正確に言うと私にとってはドライブ旅行だが運転した人間にとっては重要な主目的がある運転である。 九州自動車道をひた走り、私が先ず降ろされたのは博多の街中。博多にはほとんど土地勘のない私が一人でうろついていると博多座の前にいたという次第である。歌舞伎の旗も賑々しく「十三代目 市川團十郎白猿襲名披露 八代目 市川新之助初舞台 九州博多座大歌舞伎」そのものの公演の場所だった。歌舞伎には疎い私でも名前は聞いたことのある役者の公演のある現場に偶然立って写真を写す幸運に恵まれたというわけだ。 博多座を後にして、また歩いているとこれも名前は聞いたことのある「上川端通」に行きあたった。初めての通りに物珍しさもあってブラついてみた。知らない街を歩くのは楽しいものだ。その後、ドン・キホーテを見て回り連れとの約束の時間が近づいてきたので、先ほど降りた駐車場まで戻った。ちょうど時間も合ってそこで再び合流できた。 車はこの日の私の目的地である志賀島へ向かう。海の中道を通って快適なドライブコースを進む。志賀島はもう20数年以上前までに数回訪ねたことがあるが、今回はその時も訪ねていない「金印公園」と「蒙古塚」が主目的地である。 その二つの目的地を訪れる前にも一つ気になっていたのが島に入ってすぐ右側にある「志賀海神社」である。下の写真の案内板にもあるように万葉集の時代からある歴史ある神社である。 鳥居の先は階段になっている。 階段を登って行くと左側にいきなり宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立っている。この宝篋印塔は鹿児島の島津家菩提寺福昌寺跡にある島津家歴代の当主とその奥方の墓標としても造られているので私の目にすぐ飛び込んできた。 ここの説明版に以下のように書かれていて、私も宝篋印塔について詳しく知ることができた。宝篋印塔はもともと過去・現在・未来の幸福を願った仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で、わが国では石塔婆(いしとうば)の名称となっている。 志賀海神社のこの石造宝篋印塔は花崗岩を用い高さ334,5cm、上部に反花座(かえりばなざ)のある基礎、立法体の塔身、二弧式馬耳形の隅飾りを持つ笠、その上の相輪の四石からなり、塔身の四方には文殊、宝生、阿弥陀、不空成就の四仏の梵字をまた基礎には二面にわたり造立者と貞和3年(1347)の造立年を刻んである。 現存する宝篋印塔としては県内最古であり、その清楚な姿からしても福岡県を代表する石造物の一つである。 神社の前に狛犬が睥睨するかのように参拝者を見つめる。 拝殿前の山門も立派で歴史を感じる。 本殿
2023.10.16
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公園から右方向を見渡すとツツジが満開であった。真ん中に見える道を歩いて行くと激戦地跡に行くことが出来る。車が時々行き来していたが、今回も私はそこまではたどり着けなかった。 西南戦争の顕彰碑として建てられた「崇烈碑」。 これが歌でも有名になった「馬上豊かな美少年」の彫像。 西南戦争とは関係のない戦国時代の島津と戦った証がこのような形で残されていた。 「田原坂西南戦争資料館」これまでの案内板などにもあったように田原坂は西南戦争で17日間にわたり戦闘が繰り広げられた激戦地で、当時の貴重な政府軍と薩摩軍の武器、弾薬、備品などの遺品や戦争資料約600点が展示されている。
2023.10.12
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去る4月某日、商談のために熊本と北九州に行く用事が出来た身内の者から「自分が商談を済ますまで時間があるのでその間、近くの田原坂方面の見物でもするのだったら一緒に乗せていくよ」という話があった。私にとってはまさに渡りに船の嬉しい誘いである。田原坂にはもう20年くらい前に近くを通りがかった時に訪ねて、その時はあまり時間もなく、慌ただしく見学しただけでもう一回訪ねたいなと思っていた場所の一つであった。 早朝、車で出発、九州自動車道を熊本に向かった。 西瓜の産地として有名な植木町に到着。同じ植木町にある「田原坂公園」に向かう。 田原坂公園に到着。私だけ降りて、連れは仕事に向かう。 まさにこの説明版にあるように「日本最大・日本最後の内乱の地」がここ田原坂である。 弾痕の跡が生々しく残された土蔵。この隣には私が最初に訪ねたころにはなかった資料館が出来ていた。 田原坂からの眺め。次回へ続きます。
2023.10.10
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白池地獄を後にして、有名な7ヶ所の地獄の中でこれまで行ったことのない「鬼石坊主地獄」と「かまど地獄」に行こうとしたが、それまでの長崎の旅で歩き回った疲れがドッと出てきて残念なことに、もうどうでもいいやという心境になってきた。そして「鬼石坊主地獄」は入口から見ただけでスルー、「かまど地獄」もスルーしたが、7ヶ所には入っていない「山地獄」を目にして、ここで少し休憩しようと入場料を払って入場した。そこは、山のいたるところから噴気が上がっていたが、疲れのせいなのかそれらの写真は一枚も写していない。ここはまた温泉熱を利用してカピバラやヤギなど小動物が飼育されていた。結局上の「山地獄」の写真の1枚だけで、ここの前に座り込んでしばらく休憩しただけだった。 山地獄の見学を終えて、もうその日の宿泊地である別府の市街地に向かおうと歩いているとその日、高速バスを降りた場所の近くに亀の井バスの営業所を発見し、そこからsunQパスを使って別府駅まで行くことが出来た。 別府駅前で久しぶりに「油屋熊八」の銅像に対面した。この油屋熊八は別府観光の生みの親と言われている。満面の笑みで両手を高く挙げたポーズで有名。 この日はホテルに入り、温泉にも入ってゆっくり休憩した明けて3月30日、この日は鹿児島に帰る日である。 先ず「海門禅寺」の近くにある「海門寺公園」に向かう。お寺の向こうに別府タワーを望める公園である。ここでしばしゆっくり過ごした。 歩いて別府タワーへ。ここも久しぶりの訪問だったが、展望所には上らなかった。 海を眺めたくなり別府湾の方向へ歩く。正面に見えるのは猿で有名な高崎山。 左側にはホテル群が見える。 別府からバスで鹿児島に帰る方法は九州横断道路の「やまなみハイウェイ」を通って熊本で乗り換えて鹿児島に帰る方法もあるが、今回はバスのつながりが悪かったので、別府~博多乗換~鹿児島のルートをとった。ここは別府北浜のバス停近くにあったスターバックスコーヒー。時間があったのでコーヒーを飲んでゆっくりした。 バス停からは斜め前に「西鉄リゾートイン別府」が見えた。ここは現役時代に出張に来て宿泊したことがあった懐かしいホテルである。 こうして3月27日鹿児島を出発し長崎に2泊、別府に1泊の一人旅は終わった。一言で言えば「ちょっと長いバス旅で疲れたなあ」。
2023.10.07
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先日東京に行くという話題が高校同期生のlineで沸騰した時、天丼が美味しい店として東京は浅草の「まさる」が出たりしていろいろやり取りをした。もちろん、その他の店の話題も出て、羽田空港の地下の食堂(名前は忘れましたが)も美味しいので帰りに羽田空港でということになっていた。ところが、羽田空港に着いたときは昼ごはんが遅かったこともあり、まだ食べる気にならず結局関東風天丼は今日までお預けになっていた。 そういう中で再びlineで鹿児島にも関東風の天丼を食べさせる店が2店あるということになり、その中の一軒である鹿児島市荒田1丁目の「新橋」を選び、今日の昼に行ってきた。今日の参加予定の一人は急に用事が出来て参加できなくなりちょっと寂しい三人だった。注文した天丼が出てきて思ったのは「なるほど、東京のうどんのスープと同じで今まで食べたものと比べると色が濃いな」ということであった。一口えびを口に入れると、甘さがない。正直少し戸惑いを覚えたが、少しづつ箸を進めるうちに「ああ、これも美味しい。これもありか」と思うようになり、結構な量の天丼を完食した。 帰ってまたlineで情報が行き交ったのだが、ここを教えてくれた食通のH氏からは「新橋は天丼も美味しが、ここのおはこ(十八番)は実は かき揚げ天丼 です」というlineが入った。食い助の私は今度行って「かき揚げ天丼」に挑戦しようと思う。 いずれにしても、今日は初めての経験で美味しいものを食べることができたいい一日だった。
2023.10.05
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長崎のバスターミナを午前9時20分に出発した高速バスは大分別府鉄輪口(かんなわぐち)に12時54分到着した。鉄輪は別府八湯と呼ばれる温泉の中でも「地獄」が多いことでも知られている。別府には「海地獄」「鬼石坊主地獄」「かまど地獄」「鬼山地獄」「白池地獄」「血の池地獄」「龍巻地獄」7つの有名な温泉噴出口がある。もちろんこの他にもたくさんの噴出口はある。私はこれまでに「海地獄」「鬼山地獄」「血の池地獄」「龍巻地獄」の4ヶ所には訪れてこともあった。特に「海地獄」には数回訪れた記憶がある。 今回の別府行きの大きな目的はこれまで行ったことのない「鬼石坊主地獄」「かまど地獄」「白池地獄」を踏破したいということであった。先ずはバス停から歩いて3分の「白池地獄」に到着。 入園料450円也を支払って入園。有名地獄めぐり7ヶ所共通の入園料もあり2200円である。亀井バスのバスツアーもあるそうだ。 入園してみると私の大好きな石造物が次々に目の前に展開して、地獄を見るより石造物に熱中した。 やっと地獄にたどり着いた。
2023.10.03
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一日中歩き回った私は今回の長崎の旅の終わりに西日が差し始めた長崎港を望む大波止と「長崎水辺の森公園」に向かった。 ここは、展望デッキやレストランなどが建ち並ぶ複合商業施設の「出島ワーフ」。海鮮料理や中華料理、イタリアン、カフェなどが揃いオープンデッキで海を眺めながら味わうことができる。 緑豊かな市民憩いのスポット「長崎水辺の森公園」水辺のプロムナードやビードロの道など変化に富んだ散歩コースが揃っている。この日も親子連れなどで賑わっていた。 遠くにはグラーバー園から見えた外国のクルーズ客船を見ることが出来た。 帰り道には長崎の街を眺めながら歩いた。長崎の街はどこから見ても絵になる。又来る日までと長崎の風景をしっかり焼き付けてホテルに向かった。 この夜、もう一泊して翌朝早く高速バスで別府に向かった。
2023.10.01
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再び三度3月の長崎へ戻る。 いよいよ長崎の旅も残り少なくなってきた。あと一回書いたら終わり別府に向かう。「唐人屋敷跡」を後にして、歩いて長崎市の中心街・浜の町方向に向かう。お馴染みの中島川に架かる石橋を見たいと思ったからだ。何度見ても飽きない風景の一つである。春の光を浴びて散策する楽しそうな人々が行きかっている袋橋。私の大好きな前川清が歌う「重い切り橋」のメロディーが頭の中で浮かんでくる。 男が一人 女が一人 たった二人の 愛なのに ささいなことで別れてしまう 難しすぎます 大人の恋は あ・・・ あ・・・夜が泣かせる ここは長崎 思い切り橋 誤解のないように言うが そのような経験はないのにだ! (爆) 中島川の橋を渡って山側に行くと寺町に行きあたる。それぞれの石橋を渡り、その先に続く商店街を抜けていくと「寺町通」に出る。ここの通り沿いにはたくさんのお寺があるが、有名な興福寺や崇福寺もこの中にある。さらにそこから山の方に坂道を登ると「亀山社中記念館」や坂本龍馬像のある「風頭山」に行くことができる。この辺りは何回も訪れて過去ブログにも何回も書いているので今回は時間の都合もあり訪問しなかった。 眼鏡橋を渡り口から写した。 眼鏡橋を写そうと思って河原の石畳まで降りて写したが、夕方が近く、逆光でもあったので橋の姿すらくっきり写っていない。まして光を反映しての眼鏡の形などとは縁遠い写真になった。 汽笛一斉新橋を♬ ♩ ♪ が日本で一番最初にSLが走った場所かと思っていたが、長崎でトーマス・グラバーが最初に走らせたという案内板があった。SL発祥の地は長崎だった。 眼鏡橋を後に、この日の最終目的地の出島の海岸方面に向かう途中「出島和蘭商館跡」(国指定史跡)の前を通過。ここも寺町などと同じく何回も訪れたことがあるので眺めるだけだった。 これまでも何回もたずねているのに気づかなかったが、橋の流れるようなデザインに見入ってしまった。
2023.09.29
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私は現役時代に柳川下りを2回経験した。社内旅行と本社の人間を案内しての2回である。その2回とも好天気で楽々と川下りを楽しんだ記憶がある。ところが今回は昼食を済ませて外の出たころから小雨が降りだして船着場に到着した時にはかなりの雨になっていた。橋の下を通過するので傘は持ち込めないということで簡易カッパを渡されて、全員上のような格好で乗船した。 船は柳川下りの名所と言われる柳の横を通過。私たちの船頭さんはおじいちゃんだったが、その案内の声や歌を聞くとまるで少年かと錯覚するくらいの声音を出していた。外国人のお客さんにはどのような対応をするのかと乗客の中から質問した人がいたが、何か国語がの簡単な言葉を勉強されているようで ひったまがった。(鹿児島弁で驚いた)先日、長崎に行った時のブログで「さるく」という言葉は鹿児島弁かと思っていたら長崎でも使われており、帰って調べたところ「さるく」はほぼ九州一円で使われている言葉と書いたが、今回船頭さんが船が曲がることを「まぎる」と連発していた。この「まぎる」も鹿児島弁かと思っていたので驚きの一つだった。まだ調べていないがいずれ調べてみよう。 柳川と言えば表題にも書いた「北原白秋」。白秋は1885年、現在の熊本県南関町で誕生したが、育ったのは現在の福岡県柳川市だという。詩人、童謡作家、歌人と言われる。有名な歌としては「雨降り」「砂山」「からたちの花」「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」「城ヶ島の雨」などなど、たくさんの歌の作詞をしている。 私たち男声合唱を経験したものにとっては、欠くことのできない組曲「柳川風俗詩」がある。作曲は多田武彦。混声合唱にも編曲されているそうだが、混声では歌ったことも聞いたこともない。「柳河」「紺屋のおろく」「かきつばた」「梅雨の晴れ間」の4曲で構成された無伴奏曲である。私も大学時代から、現在のそのOB会の楠声会までいろいろな演奏会で歌ってきたし、男声合唱団が合同で演奏するような機会にも歌う有名な曲である。来年4月28日(日)の創立70周年記念演奏会でも歌うことになっている。 このような橋の下を通過したり、まぎったりしながらの40分の柳川下りも雨が降っていたにも関わらずあっという間に終わった気がした。 柳川を下船後向かったのは「高橋総本舗」。野菜のジャガイモと玉ねぎの詰め放題と「博多豆せんべい」詰め放題への挑戦である。写真を写したつもりだったが、そこの写真は一枚もなかった。詰め放題に夢中になって忘れたか? とにかく証拠は持ち帰った商品のみ。たくさん詰める方法など袋を使って実演もあったが、少し離れていたのでよく見えず、結局自己流でやって大きな成果はなかった。これも愛嬌である。それでもここで2000円のクーポンで買い物もして、持って行ったリュックサックでは入らず、買物袋にまで入れて持ち帰った。帰りは、新船小屋駅から16時1分発で7時21分には鹿児島中央駅に帰り着いた。
2023.09.27
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「かえる寺」を後にして、向かった先はこの日の楽しみの一つ「梨狩り体験」のフルトリエ。果樹園の人の案内で梨畑に向かう。1kgは無償とのことで大体3個が相当するとのこと。品種は「甘太」(かんた)という比較的新しい品種だという。先に配布されている2000円のクーポン券も使えるということで、同行のkくん、Mくんは5個と4個買って差額をクーポン券で支払っていた。更に出口で柿2個とイチジク6個入りの袋をいただきニンマリ。持って行ったリュックサックが2/3くらい埋まってしまう。 そこから出て、今度は「久留米絣」の下川織物に向かう。久留米絣は、寛政の末(1800年)頃、井上伝という女性によって考案されたという。日本の風土と暮らしの知恵から生まれ磨かれ、昔ながらの素朴さと美しい表情にモダンな感覚と粋を織り込んである。昭和32年には国の重要文化財に、昭和51年には伝統工芸品の指定を受けた。 工場に案内されて実際に織り込んでいるところを見学することができた。この工場の織物機械は100年前のものをメンテナンスしながら大事に使っているとのことだった。 商品は昔の着物、上っ張りを代表するものから、最近は着物ばかりでなく、、絣の風合い、特徴を生かしてワンピース、日傘、帽子、作務衣、、カッターシャツ、サロンエプロン、袋物、その他モダンなインテリアに用途を広げているそうだ。 この日の西鉄貸切バス。 次に向かったのは、「八女伝統工芸館」バスが駐車場に着くと、目の前にいきなり大きな「石灯籠」が待っていた。県指定特産民工芸品「八女石灯ろう」として有名だそうだ。熱さや寒さに強く、石苔がつきやすく柔らかくて趣のある石質が特徴だという。 ここからは八女の伝統工芸品の数々の紹介である。 「八女福島仏壇」「八女提灯」などなど。 「八女手漉き和紙」「八女竹細工」「八女和こま」「八女矢」「八女すだれ」「久留米絣」「桶」「刃物」「水車場のお線香」「木工品」「焼物」「節句人形」「釣り竿」など展示されている。これほどのものをまとめて見せる場所は、これまで見たことがなかった。 さあ いよいよお楽しみの昼食会場へ。うなぎの大きな看板が目立つ「福泉操」。 私たち3人組には三人のグループにはグループ毎のテーブルが用意してあり、知らない人に気遣いすることなく昼食を楽しむことが出来た。内容は柳川名物・「うなぎのせいろ蒸し」のミニセイロ蒸しを中心に過不足のないものだった。ミニセイロ蒸しもそれなりのボリュウムがあって、美味しくいただいた。 昼食場所の「福泉操」の右側には、「西鉄 柳川駅」があった。私鉄ながら、流石に福岡県を代表する企業だけあってJRの駅にも負けないスケールである。この後、すぐ近くの「柳川下り」の乗り場に向かった。
2023.09.24
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鹿児島市の福祉バスを利用しても老人会の旅の疲れもとれない中、昨日22日(金)今度は阪急交通社の「梨狩り体験といちじく・柿のお持ち帰り付き水郷柳川をめぐる納涼日帰りの旅」に応募して行ってきた。いつもの高校同期生3人組で応募したものだ。 添乗員さんの指示に従い、鹿児島中央駅発 朝7時9分発の新幹線に乗車。総員30名くらいのツアー。各駅停車で8時47分には新鳥栖駅に到着。待機していた西鉄の貸切バスに乗車した。先ず向かったのは如意輪寺。天平年間(729年)に行基が開寺したものだという。福岡県小郡市では最も古い歴史と由緒のあるお寺だという。境内にはあらゆる場所にかえるが置かれているが、なんと5000体にものぼるというから驚きだ。 入口の階段を登ってすぐ左側にあるのが下の看板。人の一生をかるで表現したというので、塀に沿って歩いてみた。 先ずはたんじょうの感謝を両親へ。 人生修行中。 遊びも大いにやりましょう。このように、節目節目の場面が続く。 最後は人生を讃えて終わっている。 お寺なので仏像もある。 何故か、ウサギも登場する。 そんな如意輪寺の夏の風物詩が毎年6月から9月頃まで開催される「風鈴まつり」だそうで、暑い夏を乗り越えようと風鈴の短冊に願いを書いて奉納するそうだ。ちょうど期間中だったのでたくさんの風鈴が吊り下げられているのを見ることが出来てラッキーだった。この写真の場所だけではなく、階段の両側にも賑々しく飾られていた。 様々の形、色のかえるがいて楽しめるお寺だった。
2023.09.23
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9月20日、私たちの町内の老人クラブ「どんぐりの会」はコロナ禍にたたられて久しく開催することが出来なかったバス旅行に4年ぶりに行くことができた。使ったバスは鹿児島市が無償で提供してくれる福祉バスである。目的地は南さつま市のりリヤス式海岸で次々と海の風景が開ける226号線を南下しながら見る綺麗な海沿いの美術館や史跡である。鹿児島市から九州自動車道をちょっとだけ使って市外へ。約1時間で南さつま市に到着し市街地を抜ける。海の雰囲気が漂い始めるとすぐに「くじらの館」に到着。運転手さんがトイレ休憩のため寄ってくれたようだ。ちょっとした道の駅である。 2002年1月、吹上浜(日本三大砂丘の一つ)南端の大浦町に14頭もの巨大なマッコウクジラが集団で座礁するということがあった。当時、テレビを始めマスコミが連日このことを取り上げたので私も鮮明な記憶として今も残っている。座礁当時はほとんどのクジラが生きていたため大しけの海を前に決死の救出作業が行われたが、救出できたのは1頭岳で13頭は死亡した。クジラが死亡した後も20~40トンもの巨体を動かすこともままならず、腐敗が進んで処理に苦労し、やっとのことで塊を付けてクジラを海に沈めるという世界でも例のない作業が完了したのは座礁から11日後のことだった。死亡した13頭のうち1頭は砂浜に埋められ、約10年後に掘り出して骨格標本が作製された。「大浦ふるさとクジラ館」に併設する(下の写真)「クジラの眠る丘」にはこの骨格標本が展示されている他、死亡した13頭を悼むモニュメントが設置されている。 クジラ館を後に、バスは坂道を必死に走り、次に着いたのは「笠沙美術館」。ここは当地・笠沙出身の画家・黒瀬道則さんの美術館である。私たち一行は美術館上からの眺望を楽しんだ後、下に降りて行ったのだが、管理する女性の方がおられて、無料鑑賞ができるとのことで、絵をたくさん見ることができた。絵は撮影禁止とのことだったのでここでは披露できないが、ここの風景にもマッチした素晴らしい絵の数々だった。 海に向いた窓から海に浮かぶ島を写すと一幅の絵になった。この島はジェームスボンドの「007は二度死ぬ」の撮影が当地であった時にロケ地として使われた。 笠沙美術館を後に南に向かって走るバスの窓からこの記念碑は見える。この10mくらい先には次の目的地・鑑真和上の上陸地があり記念館がある。 ここは鹿児島県南さつま市坊津町秋目浦。鑑真記念館があり、「鑑真大和上」の石像がある。鑑真和上と言えば、まず頭に浮かぶのは、ここ秋目浦の次に「奈良の唐招提寺」である。 肝心記念館は入場料@200円也。皆で入館して歴史資料と動画を見ることができた。いただいたパンフレットの表紙に次のようにある。鑑真のもとに二人の日本僧が訪ねて来た時、鑑真は日本の長屋王が唐の僧へ贈った袈裟に「山川は域を異にすれども、風月は天を同じくする。諸仏子に寄せて、共に来縁を結ばん」という意味の四句が刺繍されていたというエピソードなどを挙げて、日本は仏法興隆に有縁の国であると述べた。とある。 このように日本に関心を持った鑑真は日本で戒律を広めようと日本に渡ることを決意するが、様々な障害に会い、6回目にして初めて日本に渡来することができたという。その第一歩が坊津の秋目浦だった。後に奈良の京(平城京)に迎えられて奈良の仏教の興隆に専念、唐招提寺の開山となる。 鑑真記念館前からの眺めも素晴らしい。赤い小さな花はハイビスカス。南国らしい風景だ。 鑑真記念館を後にして、40分走って、この日の昼食場所の「枕崎おさかなセンター」へ。着いたのは予定した午後1時ぴったりだった。会長の私は、訪ねる場所と時間のスケジュール調整に頭がいっぱいだったが、食事時間の1時に「枕崎おさかなセンター」に着くためには、余裕があれば行きたいと思っていた「丸木浜」や「坊津歴史資料センター・輝津館」などは残念ながら訪ねることはできなかった。私はこのコースは大好きで、車の免許のあるころは毎年のようにドライブしていてほとんどまわり尽くしていた。それだけに皆さんにも見てもらいたいという思いが強かったのでこのコースを選んだのだった。 私が選んだのは「かつおたたき膳」、わがチームで一番人気は「ぶえんかつお膳」だった。頭のでっかいあら炊きが美味しかった。 「枕崎おさかなセンター」の売店も充実していて、食事の後、我先にと買い物をしていたが、帰りにもう一ヶ所、南九州市の「道の駅・川辺 やすらぎの里」に寄ってここでもせっせと買い物をすることだった。
2023.09.21
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9月も終わりに近づいた今頃、3月の長崎の旅を書いている呑気なジージである。それも途中であちこちに飛び火するばかりか、書き込む間も途方もなく緩慢で忘れたころにやっと神輿が上がるという有様である。その昔、一年間、間を置いたこともあるジージにすれば、これももう習い性になってしまったのかと、自分で思う。実に情けない話である。 さて、今日のタイトルの「長崎新地中華街をさるく」の「さるく」の意味をブロ友の皆さんはご存じだろうか。以前、長崎の話題を書いたときに同じ「さるく」という言葉を解釈も入れずに使った記憶がある。「さるく」とは長崎でも使われていることは、その昔、長崎に3年間住んだ私には「ここは鹿児島か」と戸惑った記憶もある。鹿児島弁でも同じ意味で使っているからだ。そこで今回「さるく」という言葉をネットで調べてみた。すると、「長崎、佐賀、福岡南部、宮崎、熊本、鹿児島で使われていて、九州の共通語に近い」と書いてあるのを発見した。私は長崎で鹿児島を感じたのだが、思っていたよりも九州各地で使われていることを初めて知ることだった。肝心な「さるく」の意味はもう皆さんお気づきと思うが「うろつきまわる」「ぶらぶら歩く」「歩いて回る」「歩く」などである。因みに鹿児島ではそれが訛ると「きゅはいっぺこっぺさるっもしたやすったいだれもした」(今日はあちらこちら歩き回ったのですっかり疲れてしまいました)というような使い方をするが、もう鹿児島でも若い人には通じない。 この日は3月28日。これまで飛び飛びで書いてきたように朝早くから「一本足鳥居の山王神社」「原爆落下中心地の松山公園」「平和公園」「浦上天主堂」「如己堂」「オランダ坂と東山手」「孔子廟」「グラバー園」「唐人屋敷」とさるき回って、やっと中華街にたどり着いた。長崎に来た観光客は日本人、外国人を問わずほとんどの人が訪れる場所である。 「長崎新地中華街」は文字通り新地町に形成された中華街であるが、横浜中華街、南京町中華街(神戸)とともに日本三大中華街と称される。南北250mの十字路には、長崎の姉妹都市である福建省福州市の協力により石畳が敷かれ中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねる。四つの門があり、四神及び五行に基づく色は次の四つである。東門 「青龍」 (青)西門 「白虎」 (白)南門 「朱雀」 (赤)北門 「玄武」 (黒) 下の門は「北門」 ちゃんぽんを食べた後だったので、「角煮まん」と「ごま団子」を買って中華街に隣接する「湊公園」で食べた。この湊公園は毎年旧暦の正月に当たる春節に開催されるランタンフェスティバルのメイン会場となる。ランタンフェスティバルにはまだ行ったことがないが、一回は行ってみたいと思っている。
2023.09.19
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今朝も5時少し前に目が覚めた。昨夜、寝たのはいつもより30分早い9時だった。雑草園を見たら彼岸花が一輪咲いていた。 同居する二男が久しぶりに夜釣りに出かけた。昨日の午後4時30分に家を出て、6時ごろ出港の遊魚船に乗って、今日の午前10時ごろ帰ってくるという。そういうことで、日曜日の今日は息子を職場に送り出す必要もない。もっとも出勤の日も私が特別に面倒をみることもない。私は、勝手に早起きして、仏壇に線香を立ててお参りし一日が始まる。 昨夜洗っておいた食器の収納や、身の周りのことを済ませて、一人でさっさとコーヒーを沸かすなど朝ごパンの準備をし、自分だけの食事を済ますのだ。いつも7時前には朝ごパンは終わっている。息子は7時ごろ起き出してきて、これもまた勝手に自分なりの食事の真似事をして、7時40分頃には職場に向かう。 昨日は土曜休みで、息子の洗濯物も少なく、いつもの6時起きで洗濯機を回す必要もないのに習慣は怖いものでいつもの目覚め、いつもの6時起床である。いつもと変わらない朝だが、息子がいないというだけで、何となく静かな朝である。 昨日は11月3日に開かれる鹿児島の「世代と仲間をつなぐコンサート」の出番の一つ「シニア混声合唱」の全体練習のため鹿児島中央駅前にあるイオンの8階・よかセンターに午前中出かけた。先週の日曜日も同じ場所で練習があったのだが、私は義兄の四十九日の法要と重なったので、昨日が初めての練習だった。もっとも自分の合唱団で少しは練習していたが、女声も含めた100人? くらいの練習は初めてだったので新鮮味があった。妻の所属していた合唱団の指揮者や皆さんが私を見かけて挨拶に見えたので恐縮した。同級生でお母さんコーラスの団長をしている友人や私の妹とも会って言葉を交わした有意義な一日だった。練習した曲は2曲「切手のない おくりもの」と「マイ・ウェイ」。どちらもいい曲だ。この全体練習は10月に2回あるので、何とかなるのではと思っている。 一方の男声合唱は「秋のピエロ」「梅雨の晴れ間」「群青」「少年時代」の4曲である。これまで1回全体練習があったが、あと3回9月24日、10月22日、29日の練習が残されている。こちらは私たちの練習日に合わせてあるので、特別な日に出かける必要はないし、これまでに歌い込んだ曲ばかりなので心配はないと思う。それが終わると、いよいよ私たちの楠声会の創立70周年記念の演奏会が開かれる来年4月28日(日)に向けての本格的な練習が始まる。来年になると全国から集まるメンバーも含めて2回の強化練習も計画されている。楽しみの中にも緊張感もある。演奏会成功に向けて先ずは体調の維持が最優先である。
2023.09.17
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この日は3月28日。サンQパスを使っての旅の2日目である。前日は博多で私の勘違いでバスの乗り継ぎがうまくいかず、長崎に到着した後「二十六聖人」しか回れなかったので、この日は7時30分頃の電車に乗って、「一本足鳥居」、「原爆落下中心地・松山公園」「平和公園」「浦上天主堂」「如己堂」など巡り、電車に乗って「オランダ坂」一帯、「孔子廟」「大浦天主堂」「グラバー園」を巡り、グラバー園を出たのは13時を過ぎていた。空腹を抱えて歩いていると「みらく苑」という「ちゃんぽん・皿うどん」の店があった。入って早速今回長崎で初めて食べるちゃんぽんを注文する。これまで余り食べたことのないようなちゃんぽんが出てきたが、美味しかった。流石長崎ちゃんぽんの街である。どの店で食べても美味しい。 そこからしばらく歩いて、「唐人屋敷」の到着。今回で2回目の訪問である。一回目の訪問の時も当ブログに書いているが、今回はまた印象が変わった。 「 唐人屋敷」について長崎市のホームページに次のようにある。寛永12年(1635)から中国貿易は、長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは、長崎市中に散宿していたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となってきた。幕府はこの密貿易の対策として元禄元年(1688)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌年に完成した。広さは約9400坪、現在の館内町のほぼ全域に及び周囲を練塀で囲み、その外側には一定の空き地を確保し、竹垣が囲った。入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ無用の出入りを改めた。この門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれた。内部には長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちをここに集め居住させた。長崎奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていた。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ帰港の日までここで生活した。天明4年(1784)の大火により関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わったが、この大火以後、唐人自前建築を許可されるようになった。重要文化財旧唐人屋敷門(現・興福寺境内所在)はこの大火の後建てられた住宅門と思われる。鎖国期における唯一の海外貿易港であった長崎において出島と共に海外交通の窓口として大きな役割を果たした唐人屋敷は、安政6年(1859)の開国後廃屋化し、明治3年(1870)に焼失した。 土神堂(どじんどう) 天后堂(てんこうどう) 観音堂(かんのんどう)
2023.09.09
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7月26日のブログで紹介した「諏訪昌一 歌とお話のひととき」が8月19日(土)南さつま市の丁子屋の石蔵で開催された。車の免許証を返上して4年目に入る私は、楠声会の練習が鹿児島市以外である時に乗せてもらう仲間にお願いし、乗せてもらって小1時間のドライブで南さつま市に到着した。当日の会場は歴史のある醤油屋さんの石蔵。彼は当日のお客さんは30人くらいか、50人にみえればいい方と思っていたらしいが、なんと80人超の人に来ていただいて驚いたと後に語っていたが、演奏の始まる前に私たちも2回椅子を前に進めて、後を空けて椅子を並べるような状態だった。立ち見の人もいたそうだ。 上の写真は歌う前に挨拶をする諏訪くん。デジカメを操作するとフラッシュが炊かれたので演奏の時は遠慮して、この写真しか写さなかった。 諏訪くんは南さつま市の市議会議員という要職にありながら、楠声会の毎週日曜日の練習には往復2時間かけて鹿児島市の練習会場に駆けつけて指揮をしてくれる。 当日のプログラム1,小さな木の実2,ラ・ゴロンドリーナ3,叱られて4,帰れソレントへ5,フニクリ フニクラ 休憩6,銀河鉄道の夜 ~星めぐりの歌~7,白銀の糸8,初恋9,トスティのセレナータ アンコールに応えて2曲 日本の歌、外国の歌を組み合わせて、一曲づつの合間にはおしゃべりを入れての1時間50分があっと言う間に過ぎてしまった。一番目に彼が歌った「小さな木の実」は妻が生前所属していた「めぐみコーラス」に葬儀など一段落した後に私と娘が挨拶に行った時、団員の方々が妻が生前好きだった歌だったということで私と娘のために思い出の曲として歌っていただいた曲でもある。歌を聴きながら妻が好きだった理由がわかるような気もする歌である。最近はYouTubeでもよく聞いているが・・・。 諏訪くんの奥様もいろいろな合唱団でソプラノとして歌っておられるので、当日は夫婦での見事なデュエットが披露された。一曲だけだったがもう少し聞きたかった。フニクリ フニクラは一部聴衆も一緒に歌う部分もあり大いに盛り上がった。アンコールの2曲目の最後の歌として披露されたのはあの福島の「群青」だった。ソロでは初めて聞いた気がするが、いつものように目から汗が噴き出した。
2023.08.29
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先日のブログに書いたように、今回はこれまで入ったことのないグラバー園の一番上にある入口から入って順路に従って下りながら見学するというコースをとった。 順路を行くと「高島流和砲」というものに出合った。私は高島秋帆がつくったという大砲(和砲)を見て、テレビの「お宝鑑定団」で見ていた砲術家の澤田某鑑定士を思い出した。いつだったか高島流の砲術のお宝が出品されたとき、鑑定をしながら、得意満面で話をされていたのをこのグラバー園で思い出した。 「旧ウォーカー住宅」荷揚げ業を営んでいたようだ。詳細は案内板にあります。 桜の時期を狙って行ったのだが、ドンピシャリ。グラバー園の桜も満開だった。 日本西洋料理の開拓者・草野丈吉は天保11年(1840)に市内の農家に生まれた。21歳で出島のオランダ領事館で修行し文久3年(1863)24歳の時、自宅で小さな西洋料理店を開いた。長崎奉行が外国人接待の為に使ったりしたが、岩崎弥太郎やジョン万次郎も客としてきたそうだ。そのあと、山内容堂や五代友厚にも取り立てられ、京都博覧会に際して、外国人向けホテルを経営した。読みにくいが、詳細は下の案内板にあります。 蝶々夫人を歌う三浦環像三浦環は世界に認められた最初の日本人オペラ歌手である。「マダムバタフライ」と称されて世界各地で主役として2000回以上の舞台で歌った。「夫ピーカートンは必ず帰ってくる・・・」という「或る晴れた日に」は有名。 「旧リンガー住宅」 国指定重要文化財 「旧スティール・アカデミー」旧ステイイル記念学校 「旧グラバー住宅」国指定重要文化財/世界遺産 トーマス・ブレイク・グラバー像 グラバー園の見学も終わりに近く下に来ると、この日も外国の大型客船が停泊していた。 見学を終わり、外に出て先ほど通った坂道を下って次の目的地である「唐人屋敷」向かってに急いだ。
2023.08.16
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今朝はいつもより遅い5時30分頃目覚めた。最近は早い時は朝4時ごろに目覚めて、もうそれから眠れなくて、エイ! とばかりに起き出してもそもそしながらパソコンの前に座ったりすることもある。ただ昨日は土曜日でグラウンドゴルフをする日だったので、8時にはグラウンドゴルフをする公園に出かけて、いつもの通り清掃や草むしりをし、そのあとラジオ体操をしてゲームに入った。ところがこの夏一番の暑さで4ゲームできるかなと心配になった。メンバーの2/3が80歳越えのため最近の話し合いで暑い日は1ゲームでも2ゲームでもして終わろうということになっていたので2ゲームの後、休憩をして後半は1ゲームで終わった。都合3ゲームで終わったのだ。 詳細は省くがその後、近所に弔問に行く約束があったので、嫁ぎ先から実家に帰ってくる娘さんの時間に合わせて11時に弔問に行った。 帰ってしばらくすると、我が娘から電話があって、昨晩私の妹と所用で会ったところ一日早いがこの日の午後に私の長姉とその家族と妹が我が家の妻の初盆のお詣りに来てくれるという。男所帯の我が家はお客さん一人でもバタバタする現状なので、娘が来てくれることになった。午後2時ごろ長姉と娘がその婿殿の運転する車で到着。妹も便乗してきた。長姉はこの7月28日に連れ合いを亡くしたばかりの状態でよく我が家にお詣りに来てくれたものだと、ただただ頭が下がった。 姉妹たちが帰ってしばらくすると、近所のIさんからの電話が鳴った。初盆のお詣りに来てくださるという。有難いことだ。Iさんご夫婦とは妻の生存中から近所では一番付き合いが深かった。現在もご主人は老人会でも私と一緒にいつも活動していただいている。せっかくお見えいただいたのに娘も帰った後で、私が準備していたお茶を出そうとしたが、遠慮されたのでお茶も出さず仕舞だった。本当に申し訳ないことをした。 この12日は、妻の初盆に仏前にと花を贈ってくださる方があったり、御佛前を送ってくださる方があったりで、慌ただしく過ぎていった。 しかしこの日の疲れの99%は暑い中での朝からの草むしりとグラウンドゴルフのせいだと思う。そいうことで寝つきもよく、今朝は、ゆっくりと目覚めたのだ。 起きていつものように雑草園を見ると、朝顔がこれまでの最高の数で咲いていた。主に2ヶ所に集中して咲くのだが、この場所でこれだけの数が一日で咲くのは初めての事だった。 そればかりではなかった。今朝はこれまで気がつかなかったのか3種類の花が咲いているのを発見した。3種類とも名前は知らない。多分、妻が昨年の秋に植えたものだろう。私の今となっての記憶では、妻亡き後、今年の春に雑草に埋もれてしまって育ちきれない花々を抜いたりした記憶がある。そいう中で生き残った花ではないか。3種類とも少しづつ申し訳なさそうに咲いている。 この花の名前をブロ友・蕗さんに教えていただいた。 「玉すだれ」です。 今日13日はお盆の入り。今朝は妻の初盆供養のため西本願寺別院の9時からの合同内勤に行くべく、迎えに来てくれた娘家族の車で西本願寺に向かった。いつも一緒に行く同居する二男がちょっと事情があって今日はお詣りに行くことが出来なかった。お寺さんで長男家族とも落ち合って7人でのお詣りとなった。この日は9時から30分刻みの合同内勤ということだったが、朝一番の9時からの参加者も多く、お焼香台も8台あった。それでちょど9時30分には終わった。その後、7人で我が家に帰り、娘と長男の嫁が手分けして料理してくれた料理で昼ごはんとなった。妻がお盆には毎年つくっていた「だんご」や鹿児島の郷土料理「かいのこ汁」なども見よう見まねでつくっていて、妻の味をそのまま引き継いでいるようで美味しく頂いた。 我が家恒例の御先祖を迎える「迎え火」も皆で一緒に済ませてそれぞれの家庭に帰って行った。 この花は「ゼヒランサス」です。
2023.08.13
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グラバー通りを登っていく途中にある「長崎全日空ホテル」の敷地内に「南山手居留地跡」「国際電信発祥の地跡」「長崎電信創業の地跡」の三つの記念碑が立っている。長崎は先に国際電信が接続され、その後になって東京とつながったそうだ。1871年に長崎と上海、ウラジオストックが海底通信線でつながり、即時通話ができるようになった際の通信窓口がここにあった。 長崎に行った人は必ずといっていいほどこの緩やかな坂になっている「グラバー通り」を歩いて大浦天主堂やグラバー園に向かう。20軒以上のショップが並ぶ。 大浦天主堂開国初期の元治元年(1864)に在留外国人のため建てられた現存する日本最古の木造教会。慶長2年(1597)に殉教した日本26聖人に捧げられた教会であるため正式名称を「日本26聖殉教者天主堂」という。元治2年(1865)3月17日、浦上エリアから農民数名がここを訪れ、プティジャン神父に「私の胸、あなたと同じ」と囁きキリスト教徒だと打ち明けた。それは、キリスト教禁教令から250年後のこと。長崎でひそかに信仰が伝承されていたことが明らかになった。まさに奇跡の瞬間だった。建物と宗教的価値から昭和8年(1933)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945)8月9日の原爆投下で主祭壇が大破し、5年の歳月をかけて昭和27年(1952)に修復されたという歴史を持つ。 大浦天主堂の左側の案内板に従って進む。 グラバー園の入口に到着。私もこれまではここを訪れるたびにこの入口から入っていた。しかし、今回はyoutubeで見た別な入口から入ろうと心に決めていた。いつもの好奇心が頭をもたげたのである。この道を歩いていけば上に別な入口があるという。 いつもの入口を左に見ながら進むと「南山手風致地区」の石柱があった。更に進む。 いくらか歩いただろうか。左側に小さな建物があり守衛さんが立っている。ああ、ここか! 近いなあ、と思いながら入場券を買おうと思って建物に近づくと守衛さんが慌てて飛んできた。この怪しい爺さんが出口からお金も払わず入場すのではと、思ったような勢いだった。(爆)これだから爺さんは疑われて困るのだよなあ! まだボケてはいないつもりだけど、自分では。(笑)ここは出口専用で入口はまだ先の方だという。 そこから再び苦笑いしながら歩き始めたのだが、歩く人は一人もいない。時々車が通るだけだ。 少し上り坂になっているが、景色もどんどん移り変わる絶好の散歩道という風情である。 それでも、だいぶ歩いたところで、本当にこの先に入口があるのだろうかと少し不安になった。ちょうどこの左側の崖の上で木の手入れをする人がいたので、聞いてみたが、間違いないという。 しばらく進むと右側に私にとっては、」お馴染みの三菱重工長崎造船所が見える場所に行きついた。もう少し先に歩いて気付いたのだが、写真に見る下の広場が私が目指していた入口から入場する人の駐車場だった。 駐車場から左折して更に進むと、きつい上り坂が待っていた。空腹と暑さに耐えながら、登っていく。 おお! やっと目指す入口に到着。600円也の入場券を買って入る。 グラバー園のいつもの入場口にもあったのだろうが、改めてこの入口でグラバー園の図面を見る。いつもの入口は左上、ただで入場しようとする爺さんに間違われたのが左下の「出口」。私が入った「入口」は右上で図面があったのが「現在地」。グラバー園の一番高い所にある。 「地番境と居留地境」の案内板 居留地跡碑 三菱重工長崎造船所の錨 旧三菱造船所第2ドックハウスの案内板 三菱重工長崎造船所のドックハウスの2階テラスからはぐるっと回ると長崎市を全部見ることが出来る。左から右へぐるりと回って写してみた。 オッと! 肝心な「女神大橋」を写していなかったので、最後に左に戻ってパチリ。
2023.08.10
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6月末の東京の旅のことを書き終えたので、途中までだった3月の長崎の旅に戻ることにした。 長崎孔子廟は、1893年(明治26年)に清朝政府と在日華僑が協力して建てたもので、日本で唯一の本格的な中国様式の孔子廟である。中国山東省の曲阜にある総本山並に、伝統美溢れた儀門や大成殿はじめ廟宇の随所に中国の歴史と文化、伝統芸術の粋がちりばめられている。そのような歴史も知らずに50年前にここを訪れた私が今回は孔子廟を知りつくそうと、張り切って訪ねたのだ。そのために役立ったのが入場口でいただいた「長崎孔子廟・中国歴代博物館見どころご案内」だった。以下それらを参考にして回ることができた。 孔子とはそもそもどういう人物なのか、復習しよう。 「論語」で知られる孔子は、中国春秋時代の思想家である。今からおよそ2500年ほど前、紀元前552年魯の国の曲阜郊外(現在東省曲阜市)に生まれた。孔子の時代は周王朝が崩れ、諸侯が対立抗争した動乱期だった。 孔子は魯の定公に召されて要職にも就いたが、その後諸国を歴遊し14年後に祖国の魯に帰り、弟子の教育と研究に専念した。紀元479年没。孔子の死後、門弟たちはかれの言行や子弟との問答などを集めた「論語」を編纂した。 入場門を入って右側に歩くとすぐ目に入るのが碧水橋(へきすいきょう)。 覺門(がくもん) 福建石獅(恵安県産の石獅子・ライオン) 両側に鎮座している。迫力に圧倒される。創建90周年を記念し中国福建省から贈られた。 躍動的な彫刻がいろいろ飾られている。 龍蝠(りゅうふく)儀門両側にある一対の石碑は、左のこれに唐代の呉道子が詠んだ孔子賛美の詩文が書かれている。右側にあるものに宗代の米帯の孔子賛美の詩文が書いてある。碑を背負っているのは龍王の長男で特に重いものを好んで背負おう”龍蝠”という。 儀門を内側から見る 儀門から中に入ると左右に「72賢人石像」並んでいる。それぞれに表情があり見事である。 72賢人は孔子の弟子で「六芸」に通じた賢者であるという。石像は等身大で重量1,8トン。それぞれ史実に基づいて北京美術工場で彫刻したものだ。台座には前面に賢人の名、後面に彫刻した製作者の名が記されている。「六芸」とは徳、知、体に秀でた六つの才能の事である。 徳・・・・・礼(礼儀)・楽(音楽) 知‥・・・・書(書道)・数(数学) 体/・・・・射(弓の技術)・御(馬車の運転) 72賢人石像の奥にある大成殿の一部 探海(たんかい)大成殿を囲む四隅に鎮座する石像は龍王の六男で、水を好む”探海”という。本来は排水口の役目をするものだという。 欄干頭の龍大成殿を囲む欄干頭の龍は殿中に祀られている孔子の方向を向いているという。 大成殿 明治26年(1893)建立以来百余年の風雪と原爆の衝撃に耐え、古式を今に伝える貴重な文化財である。軒下の左右に書かれた「有教無類」は「教えありて類なし」と読み、「身分を問わず、学ぶものは誰でも入門できる。教育によって、どういう人にでもなり得る」ということを簡潔に述べているのだという。 木造の神殿奥に見えるのは「孔子座像」孔子は学問の神様として崇められ、今日では受験生たちの参拝も絶えない。また釈迦、ソクラテス、キリストと共に世界の四大聖人として讃えられているが、、最も早く生まれたのが孔子である。孔子の時代は「諸子百家」と呼ばれる多くの学者や論客が輩出され古代思想が花開いた時代だが、皇子はその先駆者として活躍し、今日まで影響を及ぼしている。大成殿に祀られた孔子座像は曲阜で御霊入されたもので、高さ2m、座像として国内最大の大きさである。 麒麟(きりん)聖人が世に出ると現れるといわれる中国古来よりの想像上の瑞獣で、草木を踏みつけたり生のものを食したりしないといわれる仁の心の厚い動物。姿は鹿に似て大きく、尾は牛、ひずめは馬、背毛は五彩で毛は黄色。左右に一対ある。 華表(かひょう)宮殿や陵墓などの前に建てられる装飾用の一対の石柱である。皇帝を象徴する龍が、一つの国の政治を、もう一つは市民の暮らしを監視監察していることを表している。 左は「角端」(かくたん) 右は翁仲像(おうちゅうぞう)角端は吉祥を表す想像上の動物、いわゆる一角獣である。孔子にお供して話の善悪を聞き分ける獣だといわれる。重量2,5トン。 石人・翁仲 は孔子の弟子。一対あるが左右いずれも同一人物で、笏(しゃく)を持つ文人像と、剣を持つ武人像の姿をしており、文武両道兼ね備えた人であることを表している。重量2.5トン。 儀門を内側から写した。まだまだ孔子廟には紹介したいものがたくさんあったが、今回はこれくらいにしたい。久しぶりに長いブログを書いたので、いささか疲れた。 見学を終えて、改めて外側から写してみた。
2023.08.07
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このところ朝6時に起きた時に窓を開け放して身を乗り出し「朝顔」の咲き具合を見るのが日課となっている。それからやおらデジカメを持って雑草園に出る。 毎朝よく見ると「これぞ朝顔!」という顔を持った美人出会うことは少ない。ご覧いただくとわかるが、どこかいびつなのだ。「まっ いいか!」とつぶやき次の朝を待つことにする。 今日は土曜日。同居する息子が久しぶりに腕を振るった晩御飯ができた。スパゲッティカルボナーラがメインである。あとはスープと野菜サラダ。 さて先日から6月に仲間たちと行った東京の旅のブログも書き足りない部分もありながらも一応終わった。次は3月に行った一人旅・長崎、大分の旅の事が中断していたので、書くことにしようと思う。
2023.08.05
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皇居東御苑の散策を済ませた私達はタクシーに分乗して日比谷公園に向かった。日比谷公園を訪ねるのは私は初めてのことである。大きな目的は公園内にある松本楼でランチを取ることにあった。これも、もちろんNくんの設定である。 日比谷公園に到着すると、ここは明治36年(1903)の開園とある。今からちょうど120年前に出来た公園である。もっともその時代だったからこそこういう広い場所が確保出来たのだろう。そう思いながら公園を歩いていると「仙台藩祖 伊達政宗終焉の地」という場所に遭遇した。案内板によると「藩祖伊達政宗から三代綱宗時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところ。慶長6年(1601)正宗は徳川家康から江戸屋敷を与えられ外桜田の屋敷は寛永元年(1661)まで上屋敷として使用された。その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される」と書いてある。なるほど家康が武将たちに与えた場所だったのだ。 公園内の濃い緑の中に私達が目指す松本楼はあった。松本楼は明治36年の日比谷公園の誕生と同時に建設されたそうだ。当時流行であったマンサード屋根の3階建てはお洒落な店として評判になり、ハイカラ好きなモボやモガの間で「松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲む」ことが大流行したそうだ。また特に中国との歴史的な会談の場としてよく使われたようである。 私達は9人だったので、広い個室に案内された。出された料理。 パンプキンスープ。この写真は少し手をつけた後に写したので、最初の形状が残っていないが、卵の黄身が載せてあった。これまでで最高のパンプキンスープだった。 ステーキ デザート お馴染みの「日比谷公会堂」 帝国劇場 日比谷公園を出て有楽町へ向かった。すると進行方向の右側に「かごしま 遊樂館」が見えてきた。鹿児島県の東京での物産館である。もちろんここもNくんの粋なはからいである。 おかげで東京で鹿児島の名産品など見るという貴重な体験をすることが出来た。鹿児島の名産物がある意味で地元鹿児島よりも一か所に集められているので東京在住の県人や、鹿児島ファンの皆さんにとっては有難い場所だろう。 Nくんの当初の計画では、この後、浜離宮に行くようになっていたのだが、皇居東御苑の散策に時間を取られて松本楼での予約時間にも1時間ほど遅れるほどだったので、早い段階で桂離宮に行くことは今回は中止するとの話が午前中にあった。(この後、行く予定の場所は間違って桂離宮と書きましたが「桂離宮」ではなくて「浜離宮」の間違いでした。従って本文を訂正しました)そして、ここを出たところで解散となり、鹿児島に帰る私とN嬢はMくん夫妻と待ち合わせていた羽田空港に向かった。2泊3日の東京の旅はこうして余韻を残して終わった。
2023.08.02
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6月28日、東京滞在3日目である。2泊3日の高校同期生との旅も終わりである。鹿児島組5人中、一人東京に宿泊したKくんを除く4人は宿泊先のホテルのある千葉県海浜幕張から京葉線で東京駅まで来て、東京に住む娘さん夫婦と会うMくん夫妻と別れ私とN嬢は丸の内中央改札口から外に出た。そこでタクシーを拾ってNくんから指定された待合場所であるパレスホテル東京一階のロビーに向かった。Nくんを始め数人が到着していた。27日のメンバーでこの日は来ない人、今日初めて来る人、この日のメンバー9人が揃って挨拶を交わす。 パレスホテル東京の一階ロビー 9人でいざ皇居の東御苑に向かう。 皇居にはその昔、二重橋の前に行って写真を写したことがあったり、東京出張のとき空いた時間に皇居を一周した思い出がある。外国人も含めて走る人や歩く人など様々な人と行き交った。 お堀も広くて大きい。 大手門に到着。言わずとしれた正門である。この後、要所要所でNくんの名解説があった。 同心番所とは警備詰所のことである。 同心番所。今もその建物が残る。 大きな石垣 百人番所も警備詰所の一つである。 百人番所の建物が残っている。 あの有名な浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた刃傷事件があった「松の大廊下跡」 石碑も立っている。 多聞とは長屋造りの防御施設のことだという。 石室。火災などの非常時に大奥用の調度などを避難させた場所ではないかと言われている。 途中に見事な竹林があった。 天守台。ここには天守は建てられなかった。 東京のど真ん中にある皇居は周りの近代的な街並みともよく調和している。
2023.07.31
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妻が生存中から私が「朝顔を一回でいいから植えてみたいなあ」と口癖のように言いながら、時期を逸したりして遂に植えることが実現しなかった朝顔を妻への供養にでもなればということもあって、今年は一念発起? して植えてみた。一色咲きと、多色咲の2種類を買って、種子の袋の指南に従って苗床まがいのものも作って植えたところどうにか20本くらいの苗をつくることができた。鉢植えにしたり、土に直接植えたりしたが、土に植えたものはほとんど伸びてもいない。 鉢植えのものが2,3日前から咲き始めた。朝6時起きの私は起きたらすぐ窓を開けて見るのが日課になった。しばらくは楽しめそうだ。 何故かピンクのこの花はまともな姿ではない。でもまあいいか! これも怪しい。 先日もアップした鹿の子百合もまだまだ元気にたくさんの花をつけている。
2023.07.28
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私達の男声合唱団・楠声会(なんせいかい)(鹿児島大学男声合唱団OBで結成)の指揮者・諏訪昌一くんが8月19日(土)に「歌とお話のひととき」と題して独唱会を開催するという。ピアノ伴奏はおなじみ楠声会合唱団のピアニストの福重真紀さん。場所は出身地で現在も住む南さつま市にある「丁子屋 石藏」だという。 彼は鹿児島大学工学部電気工学科卒業。鹿大在学中の昭和49年、50年の二年間にわたって男声合唱団・フロイデコールの指揮者を務めた。現在パソコンを駆使した活動は多岐にわたり、練習用の音源を作ったり、合唱編曲も楽しんでいる。また地域においては20歳代から加世田市議6期を経て、現在南さつま市議5期目。音楽、落語、読書をこよなく愛し、地域活動や楠声会を始め3つの合唱団を指導するなど文化活動にも奔走している。 また彼は楠声会のいろいろな演奏会で指揮者としてはもちろん、ソリストとして大活躍している。そのテノールの声は素晴らしく、ロシア民謡の「カリンカ」などは多くの聴衆を引き付けている。先日の阿久根中学校のスクールコンサートでも指揮者としての出演の他、トップテノールの団員としても歌ったが久々にソロをした「最上川舟唄」は出色の出来であった。今回その彼が地元・南さつま市で歌うという。駆けつけて聞きたいと思う。 会場となる丁子屋は老舗醤油醸造屋であり、創業は亨保12年(1735)。演奏会場となる石藏は大正時代に造られて築100年を数えるという。そして国の登録有形文化財に指定されているという。日頃からブックカフェやコンサートに有効活用されているとのことだ。場所は南さつま市役所から国道226号線を笠沙方面に向かって車で約5分ほど進むと「丁子屋」さんと駐車場が見えてくる。ただ当日の駐車は丁子屋店舗奥か顕証寺報恩会館駐車場をご利用ください、とのことである。
2023.07.26
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上野公園一帯の散策を終えた私達・高校の同期生「八期会」一行の12人は、JR線御徒町駅から池上線に乗り換えて「洗足池学園」駅で下車しすぐ左手前方の「洗足池公園」に向かった。途中の乗換駅でNくんに教えてもらいながら乗車券「Suica」なるものの購入を初体験した。少し都心を離れた洗足池公園は静かな佇まいの中にあった。 洗足には洗足学園音楽大学があり、そこの指導者のお一人である辻志朗先生が、今は亡き妻が長い間歌っていた「シャンテ・メール」の指揮者として鹿児島に指導に見えていたことから「洗足池」という名前は知っていた。 洗足池は「城南の名勝」とも称される景勝地である。 洗足池の西のほとり(東京都大田区南千束)に鎮座する千束八幡神社(洗足池八幡宮)旧社格は村社で千束郷(洗足池一帯)の総鎮守である。 上の「池月発祥伝説の由来」にある名馬・池月之像。ただ調べてみると、この名馬・池月の産地は徳島県美馬市という説や、もっとも身近なところでは鹿児島県の池田湖(九州一の大きな湖)が産地であるという説もある。 今回の私達鹿児島からの同級生と東京在住の皆を集めて全面的に面倒を見てくれたNくんが一行を洗足池に案内してくれたのは西郷隆盛と勝海舟の繋がりがこの場所にあったからだろうと推測する。私は上京前にNくんが東京でのスケジュールと訪問地の謂れなど数10ページに渡る文書をメールで送ってくれるまで、全くそのことを知らなかった。おかげで私は印刷をして事前勉強をすることが出来てそのことを知ったのだった。(尚、鹿児島に帰って数日後にはその改訂版と当日の写真などを入れた分厚い封書が届いた。当日の参加者全員に送ってくれたようだ)感謝しかない。 Nくんが創ってくれたその案内書の冒頭に次のように書いてある。東京大田区の洗足池公園には、西郷隆盛が沖永良部島に流され、尊皇の志を果たすために、本土の土を踏むことは2度とないとの思いでつくった漢詩「獄中有感」が刻された「留魂碑」がある。「留魂碑」の建立者は、西郷隆盛の無二の理解者と自負する勝海舟である。勝海舟夫妻の墓も洗足池公園にある。 西郷隆盛の「留魂碑」 隣には「勝海舟夫妻の墓」がある。 池を左側から一周りして降りてくると図書館があり、その2階には「勝海舟記念館」があった。時間の都合もあり、見学は出来なかった。 その後、これもNくんの発案で銀座に出てビヤホール「ライオン」で一息入れた。 これまで経験したことない雰囲気でビヤホールとはこういうものかと実感した。夜にならないうちに解散し、私達鹿児島組は明日の皇居東御苑や日比谷公園散策を約束して千葉の海浜幕張のホテルに帰った。
2023.07.24
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今年も咲いた鹿の子百合。起きて雑草園に目をやると、いつ咲いたのか鹿の子百合がたくさん咲いている。いつもの年より多い気がする。まだまだ蕾もたくさんある。デジカメを持って雑草園に降りる。 一匹の黒い蝶々が舞っている。何かの使いなのか。私が近づくと舞っては別の花に取り付く。私もしばらくその動きを追った。 他に花は咲いていないかと、周囲を動き回る。紫陽花も2輪健気に咲いている。まだ梅雨明け宣言もないから別におかしくもないのかと一人で呟く。 そう言えば、あれから6ヶ月が過ぎたが、独り言が多くなったなあ。別に怪しいことではないと自分では思う。仏壇に向かっての独り言だから・・・。他にもいろいろあるが、まあそこはこの辺りで。 当然のことながら生活は一変した。妻と二男との3人暮らしが何の前触れもなく、いきなり二男との2人暮らしになったのだから。家庭生活の中心にいた人がいなくなったそのショックは未だに尾をひくどころの騒ぎではない。気分を切り替えるために6ヶ月の間に大小3回の旅をした。だいぶ癒やしになったと思う。一人旅、長男とのついで旅、仲間との旅。どれも楽しいものだった。テレビを見ることも殆どなくなった。BSプレミアムで毎朝見ていた2篇の朝ドラもあれから見ていない。日中も夜も見なくてもテレビを点けていた私がほぼ一日テレビを見なくなった。その代わりパソコンの前に座る時間は多くなったかなあ。パソコンに向かう時間が多くなったのに、ついついブログは遅延しているこの現実はどうか。気をつけなければいけないのはわかっているが、気持ちが進まない。でもあまり考えないようにしよう。なるようになるさ。 夜も以前より1時間早く眠りに就くようになった。9時30分には眠る体制に入り、途中2,3回は目覚める。これは年齢からして致し方のないことと割り切る。朝は、夏ということもあり、5時位には目覚めるが、6時まではジッとベッドで我慢して身体を動かしたり、ラジオを聞いたりして6時きっかりに起き出す。年寄なりの身繕いや、朝パンの用意などして新聞片手に済ませる。食事も済んだ6時50分頃になると二男の部屋の扉が開く音がして、階段をトントンと降りてくる。私よりも少ない食事をとって7時20分には車で出かけていく。水曜日と土曜日は8時に私もグラウンドゴルに出かける。ついでに言えば、日曜日の午後2時からおじさん合唱団の練習がある。一週間のうちにこの3日間が私の軽い縛られた日である。その他は全くの自由の身だが、そう言っても日常の瑣事に追われる毎日だ。これも生きている限りは仕方のないことだ。あ、そうそう毎日の食器洗いとほぼ一日おきの洗濯と曜日ごとの異なるゴミ出しが私の仕事である。食器洗いは、この20年位は毎日、洗濯物の取り込みも、ゴミ出しの仕事もそうだったので普通の流れの中で今もやることができる。妻がいるときからこういうことだけでもやっていたので違和感はない。 辞書を見ていたら「男やもめに・・・。」に対して「女やもめに花が咲く。」ということわざがあるそうだ。意味は深いがなるほどと納得のいく言葉ではある。(笑)
2023.07.13
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上野公園の散策は続く。いよいよ「上野東照宮」へ。ここからは今回の東京八期会の世話役をかってくれた東京在住のNくんが事前に東京に集まるメンバーに自分で書いた資料を送ってくれたので、そこからの引用となる。 元和2年(1616)、藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康に呼ばれ末永く鎮魂まるところを作って欲しいと遺言され、寛永4年(1627)藤堂家の屋敷地に東照宮を造営した。 家光は慶安4年(1651)に社殿を金色殿に造営替えして江戸の象徴とした。手前から拝殿・幣殿・本殿からなり、その様式を権現造りという平泉の中尊寺光堂と並んで日本に二つしかない金色殿である。明治40年に国宝に指定された。祭神は徳川家康・吉宗・慶喜。 日本に一つしかない金箔の唐門(唐破風造りの四脚門)。扉には亀甲の透し彫り、門柱には左甚五郎作の昇り龍・降り龍。高彫門の側面左右上部にある松竹梅に錦鶏鳥の透し彫りは精巧を極めたものである。明治40年、国宝指定。 旧寛永寺五重塔五重塔は、上野東照宮の一部として寛永8年(1631)土井利勝によって再建されたが、寛永16(1639)に焼失、同年、幕府の作業方の棟梁だった甲良宗広らによって再建されたのが現在の塔である。(重要文化財)明治の神仏分離令に伴う廃仏毀釈の運動により、上野東照宮の五重塔も取り壊される運命にあったが、当時の五重塔が寛永寺管理であることを国に申し出たことにより取り壊しを免れた。(この項はネット「鎌倉手帳」寺社散策より) この日のランチは、Nくんが設定してくれた上野公園内の「韻松亭」。12人の貸し切りの部屋での食事となった。 籠に盛られた料理に「豆ごはん」や茶碗蒸し、デザートまでついた美味しい食事を団らんしながら楽しんだ。特に「豆ごはん」は美味しかった。 ランチのあとは「不忍池」の散策。ここから再びNくん資料。 かって上野大地と本郷台地の間が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていた事から「不忍池」と呼ばれるようになった。縄文時代の頃は、東京湾の入江で、その後海岸線の後退によって、紀元数世紀頃、池になったと考えられる。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。1625年、江戸幕府によって西の比叡山延暦寺に対応させこの地に寛永寺が建立された。開祖の慈眼大師・天海は不忍池を琵琶湖に見立て竹生島になぞらえて弁天島(中之島)を築かせ弁天堂を造った。元々、舟で渡る島であったが1672年に石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。明治時代の初期までは池の形も現在と大きく異なり、池の北側は今よりも広く藍染川(谷田川)に注いでいた。1884年、共同競馬会社による競馬場建設によって、埋め立てられほぼ現在の形になった。(中略)不忍池では渡り鳥、留鳥あわせて数十種類の鳥類が見られ多いときには1万羽を超えることもある。中でも多いのは、キンクロハジロ、ホシハジロ、オナガガモである。魚類では、鯉が多いが、カムルチー、タウナギ、ティラピアなど外来魚も多い。 私が以前訪ねたときとは不忍池も大きく姿を変えた印象を受けた。今回は訪ねた時期も良かったのか、池一面を蓮の緑が覆い、近代的なビルともマッチして素晴らしい景観を見せてくれた。案内してくれたNくんに感謝!
2023.07.09
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今回の旅の宿は千葉県の海浜幕張にある「アパホテル&リゾート東京ベイ幕張」に2泊した。私が泊まった部屋は11階。窓からの風景も素晴らしい。左前方に見える丸い形状の建物は「zozo千葉ロッテマリーンズ球場」。ここであの佐々木朗希がバッタバッタと打者を討ち取るのか。見てみたい。 夜はホテル内のビュッフェの店で食事。2泊分の4000円のクーポンが一気に消えてしまった。まあ仕方ないか。それにしても写真の写りが悪い。 夜、鹿児島の娘にlineをすると「どんな部屋なの」というので、パチリ写して送った。一人だが、ツインの部屋が与えられたのでゆっくり出来た。 ホテルの名前に「リゾート」とあるからこれくらいは当然か。 今回のツアーは26日(月)はバスでの築地場外市場や浅草など観光がついていたが、27日(火)、28(水)は帰りの羽田空港に集まるまでフリーである。 そこで、同じ高校八期で東京在住のNくんが2日間のプランを建ててくれて、その上、東京在住で日頃親しい仲間にも呼びかけて一緒に行動するようにしてくれた。先ずは27日。集合場所は上野恩賜公園の「西郷隆盛像」前である。時間は11時。鹿児島組の4人は(kくんは東京に残り、そこから東北方面に行くので同じツアーには入れずホテルも別)は千葉の海浜幕張駅から東京駅経由で上の駅に向かった。するとそこには懐かしい顔が・・・。関西から来てくれたKBくん、東京組がNくんを筆頭に6人、それに鹿児島からのKくんも含めた総勢12人が集まった。聞くと他にも参加希望者はいたそうだが、食事場所の予約の問題もあって断ったりもしたそうだ。それに参加したくてもドクターストップがかかった友人もいたそうだ。実際鹿児島からも、もう一人参加予定だったのだが、彼にもドクターストップがかかって行けなくなった。本人は残念そうだったが、身体第一のため断念した。80歳を超えるとこういう話が多くなって悔しい。 薩摩をルーツとする私達高校の同期生が12人揃って、西郷さんの銅像前で何枚も記念撮影をしたことは言うまでもない。そして歴史に詳しいNくんからいろいろな話を聞くことだった。私もここ上野公園の西郷さんの銅像を訪ねるのは20数年ぶりであったので再び瞼に焼き付けた。 上野恩賜公園は明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定された。ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で明治維新後官有地となり、大正13年宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名前がついたという。開園140余年、日本の都市公園を代表する都市として、東京都は東京の顔となる文化・観光の拠点としてより魅力ある公園を再生させるため整備を進めているという。 上野公園には他にも見学する場所が多い。東叡山寛永寺の清水観音堂もその一つである。 寛永寺は、天台宗の別格大本山のお寺であり、寛永2年(1625)に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の大地に慈眼大師天海大僧正によって建立された。後には、第四代将軍・徳川家綱の霊廟が造営され将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。しかし、幕末の上野戦争により敷地の大部分が上野公園になった。 「月の松」松の木を曲げて造ってある。 何故か「野口英世」の像もある。 初めて見た「上野動物園」の入り口。入って見学する時間はなかった。
2023.07.03
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kくんから5月末頃に持ち上がった話で、「ぶらり東京3日間」(6月26日~28日)という手頃なツアー旅行があるので高校の「八期歴史旅歩き会」で行こうということになった。スマホに新しく「「八期の東京歴史ツアー仲間」というLINEを立ち上げて仲間を募ったが、コロナ前は70代でこういう旅の誘いにも鹿児島から10名以上が名乗りをあげていたものが、コロナと80歳遥かにを越したというからなのか、5人で行くことになった。もっとも大々的には呼びかけていないので、今回はこのメンバーで行くことに何も不足はなかった。Kくん、Mくん夫妻、N嬢、クマタツの5人である。5人の中でKくんは東京に一人残って東北方面に一週間ほどの一人旅をするということで、同じツアーの飛行機には乗ることが出来ず、初日は別行動になった。というのが私達のツアーの初日は「東京の名所観光」という謳い文句で羽田空港から観光バスに乗って「築地場外市場」~「浅草」~東京スカイツリーなどを巡るコースがついていたからだ。Kくんも遅れること30分くらいで羽田に到着し、中学時代からの友人たちと銀座でランチをとる予定になっていた。翌日からは私達もフリーで過ごすツアーなので、27日、28日は合流して東京在住の八期の仲間たちと一緒に過ごす事になっていた。 先ずバスで案内されたのは、築地場外市場。youtubeで見て最近は外国人も多く、有名店には大行列ができると知ってはいたが、実際は思っていた以上の混雑ぶりで、与えれた2時間のうちに1時間くらいはすぐに経ってしまった。いよいよ昼ごはんをと思ったが、海鮮料理などの店は行列で、いつ食べられるかわからないし、そうでないところは不当に高いかでそこまでの価値があるかとも思う程の値段である。(結局何を食べたかは今のところ秘密)(爆) 築地本願寺(浄土真宗)昼食を終えて、集合場所に行ったが集合時間まで20分くらいの余裕があった。私は自動販売機を見つけて「水」を買おうと思い、一人で集合場所を離れて動きまわった。(あとで聞くとすぐ近くにあったそうだが、私は無駄に動き回ったことになる) 歩いているうちに「築地本願寺」への方向案内版を見つけた。距離も大したことはない。せっかくだから見ていこうとそちらに夢中で向かった。到着してバタバタと動き回り写真を10枚くらい写した。時計を見ると10分位ある。これなら集合時間まで余裕だ。そう思って来た方向と自分で思った方に急いで向かった。歩いても目印だったガンセンターの建物が見えてこない。そこから私の迷走が始まった。 歩きまわるうちに銀座近くにあるという「歌舞伎座」らしき建物が道路向かいに見えた。もう時間はないというのにしっかり一枚だけ写真を写した。(あとで調べると思った通り歌舞伎座だった)それからは、道行く人に「築地場外市場はどちらでしょか」と聞いてその方向に向かった。しかしなかなか見た風景に戻れない。その後も二人に聞いてやっとたどり着いた。約束の時間を10分経過していた。私はバスに乗り込むなり「皆さん すみませんでした。10数年ぶりの東京で迷いました」と平身低頭した。なかには「よか よか」と慰めの言葉をかけてくれる人もいた。このツアーは熊本、宮崎、鹿児島で募集して羽田で合流して同じバスに乗るツアーだったことを後で知った。 次に向かったのは「浅草」仲見世通りも大賑わいだ。外国人がここも多いが、中には浴衣姿の女性外国人もいる。和服姿は京都だけかと思っていたが、この調子だと日本国中の有名観光地は、今やこのような姿を見ることができるのだろうか。 私も浅草は数回訪れているが、この前に訪ねたのは平成9年(1997)11月22日、日比谷のイイノホールにおいて私達の男声合唱団「楠声会」が東京公演をやったのだが、その翌日、北九州時代の合唱仲間のTくん夫妻と私達夫婦4人で忠臣蔵の泉岳寺から浅草にまわった日以来であった。そのとき「どぜう」に行って美味しい鰌の料理をごちそうになったのは忘れられない思い出である。 御本尊 聖観世菩薩を奉安することから観音堂とも呼ばれる。 浅草寺の五重塔
2023.06.30
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