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もう30年ほど前の話だがチリを一人旅したとき、サンチャゴの日本人が泊まる宿で知り合った日本人旅行者たちと、バルパライソという港町に女を買いに行ったことがある。当時の旅行者の間では「女の南米」と言って、女を買うなら南米が一番という評判だった。南米は物価が安いので娼婦の値段も安く、世界中から移民が来ているから人種も様々で、白黒褐色黄色とどんな女でも揃っていた。なかでも日本人に人気なのがチリだった。チリの女は白人の血が濃いので色白で、しかも小さいので日本人にはピッタリだったのだ。バルパライソはチリで一番の港町で、2003年には歴史ある街並みが世界遺産に選ばれた。我々旅行者は基本貧乏なので、女を買うのは一晩限りが多いが、バルパライソでは港の船員相手の娼婦たちを買っていた。彼女たちは相手が港にいる間はずっと付き合うので、我々もバルパライソにいる間はその女と過ごすことになる。他の場所に比べたら金がかかるが、これも面白い遊びだった。ある朝我々旅行者が、前夜相手をした相娼たちと一緒に朝昼兼用の食事をした。片言のスペイン語で楽しく会話していたら、私が自衛隊にいた話になった。すると娼婦の一人が自分の相手に「あなたは自衛隊に行ってないの?」と訊いた。彼が「ノー」と言うと、他の女たちもそれぞれの相手に「あなたは行かなかったの?」と訊く。私以外は誰も自衛隊に行ってなかったので「どうして自衛隊に入らなかったの?」と訊かれた旅行者が「オチンチンが小さかったから」と答えたら、一人の女が「日本人は皆小さいわ」と言ってパッと顔を隠したので大笑いになった。世界の男から比べたらたぶん本当なんだろうが、これには参ったな。
2021年06月08日
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青森県には大きな地方銀行がふたつある。青森銀行とみちのく銀行で、青森県民のほとんどの人はどっちかの口座を持っているらしい。兄は両方とも持っているが、そういう人もけっこういるようだ。私は15歳で家を出てから30歳で住民票を実家に戻すまで、ずっと県外に住んでいたのでどっちの口座もなかったが、40歳を過ぎた頃、地元の銀行に口座がないのは不便になって口座を作ろうと思った。つがる市の実家から近いのは青森銀行の木造支店で、それまでも各種の振り込みや、海外旅行に行くときの外貨の換金、トラベラーズチェックの発行などをやっていたので、青森銀行に口座を作りに行った。季節は夏で、私がそのとき着ていたのはタイで買ったデニムの襟なしの半袖シャツで、青いダボシャツのように見えるものだ。そして頭は丸坊主の中年男。応対した女性行員に「口座を作りたい」と言うと、彼女は「ちょっとお待ちください」と言って若い男性行員を連れてきた。その男性行員にも同じことを言ったら「どうして口座を作ろうと思ったんですか?」と訊かれた。意外なことを聞くなと思いながら「私はこれまで県外にいて地元の銀行の口座がなかったので」と言ったのだが、彼は「そうですかぁ。うう~ん」とじっとこっちを見ている。眼鏡越しにこっちを見る目は明らかに胡散臭いモノを見る目だ。いくら鈍い私でも「これは俺を疑っているのか?」とわかったので「あっ、それじゃいいです」と言って出てきた。銀行を出るときは後ろから「ありがとうございましたー またどーぞー」の声を一斉にかけられたが「二度と来るか!」と思っていた。次にみちのく銀行に行って「口座を作りたい」と言ったら拍子抜けするぐらい簡単に作ることができて、以来みちのく銀行だけ利用して青森銀行には一度も足を踏み入れてない。当時大きな都銀に勤めていた友人にこの話をしたら、青森銀行の対応はないと言っていた。ちょうど振り込め詐欺が流行り出したときだから私が怪しい男に見えたのかも知れないが、それにしてもせっかく新規にお客さんになるつもりで来た人にあんなふうに接するのはいかがなものかと思う。今度このふたつの銀行が合併に向けて動き出したそうで、連日ニュースになっている。合併してもしなくても私にはあまり関係ない話だが、みちのく銀行の良さがなくなったらイヤだな。
2021年05月15日
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7日目は田沢湖を見てから出発した。田沢湖は摩周湖に次いで日本で二番目に水の透明度が高い湖だが、摩周湖が世界で二位で田沢湖は世界三位の透明度になるらしい。 おまけに世界一位のバイカル湖の水質は冬の間だけがきれいなだけだし、摩周湖は湖岸までは近づけないから、実質、人がその水の透明さを自分で確認できるのは田沢湖なのだ。 私も船着場の桟橋の上から水を覗きこんで、あまりに深いところまでよく見えるので怖いぐらいだった。 田沢湖からは玉川沿いに国道341号線を走った。 当時はまだ玉川ダムを造っている最中で、ダム建設のために立ち退いたような集落の跡地の中をゆっくり登った。 途中にはダム工事の労働者のプレハブ小屋の団地があり、近くにはこれまた仮設の飲み屋までできていておかしかった。需要があれば供給があるんだな。 奥に行くほど景色が良くなり、新緑がまぶしい山中にカタクリの花や水芭蕉の花が大群落を作って咲いているところもあった。 自転車でこういうところまで来れる幸せをしみじみ噛みしめた。 しかしそんないいことばかりでもなくて自転車のギアの変速機の調子が悪く、登りがきつくなるとごろごろ変な音がして空回りするようになり、全然役にたたなくなってしまった。 どうも以前に自分で調整したときのやり方がまずかったようだが、変速機を調整する工具もないし、こんな山中ではどうにもならず、結局ひいて歩くことにした。 午後3時半ころ鹿角市との境の峠に着き、ここからは下りなので自転車に乗れた。 本当は八幡平の方に行くつもりだったのだが、自転車を直さないといけないので花輪の町に向かって工具を探した。 地元の人に聞いて入った自転車屋さんにはその工具は売ってなかったが、店の人が500円で調整してくれたので元通り以上に走れるようになった。 「とだて自転車店」のおやじさんには感謝感謝である。 自転車が治って気分よく米代川沿いを走り、ベンチなどもあってちょっと公園のようになっている川原でテントを張った。 8日目はそこから国道103号線に右折して大湯のストーンサークルを見に行った。 今ではこのストーンサークルが集団墓であるのがわかったらしいが、あの当時はまだ何の為のものかわからなくて色々な説があったようだ。 ここでは地元の郷土史家が書いた(近くの)「黒又山は古代ピラミッドである」という破天荒な内容の薄い冊子を買った。 このあたりには「迷いヶ平」とかキリストの墓とかミステリアスなところがたくさんある。黒又山はこの前も「空飛ぶ円盤がよく目撃される場所」としてテレビに出ていた。 そのまま十和田湖に向かって発荷峠には午後1時頃着いた。 眼下には真っ青な十和田湖が広がり、その向こうには真っ白い八甲田連峰が聳え、朝からの薄雲も晴れて雄大な素晴らしい展望だった。 しかし、景色はいいが今日の宿がまだ決まってないのでゆっくりもしていられず、ここまで穿いていた短パンの上にジャージーを穿いて、下り坂を30分で一気に下って十和田湖岸に下りた。 前日から何回も電話しても全然出てくれなかった「十和田ユースホステル」に行ってみると、隣のホテルから出てきた人間がここは閉鎖はしてないが泊めたくないようなことを言うのであきらめた。 そこで焼山の方にある「おいらせユースホステル」に電話して泊めてもらうことにしたので、またコースが変わってしまった。 奥入瀬川の横を自転車で行くことになったので、渓流沿いを歩くより興趣は落ちるが仕方ない。 それでも、車道を走っていても、午後遅い時間だから車も人も少なくて最高に気分いいサイクリングだった。 川岸に腰を下ろしてぼんやりブナの新緑を眺めていたら、何か自分が溶け出して自然と一体になっていくような気がして、実に不思議な解放感を味わった。 新緑には人を癒す力があると改めて感じた瞬間だった。 おいらせユースホステルは青森県にあり、十和田ユースホステルは秋田県側にあるのだがこのところずっと電話に出ないので、しょっちゅうおいらせユースホステルの方に問い合わせの電話がくると、おいらせユースホステルのペアレントさんがこぼしていた。 儲からないから閉鎖するのはわかるが、それならちゃんと周知してくれればいいのに、面倒なのか契約の問題なのかそのままにしておくのが腹が立つ。 この記事を書くために調べてみると、このとき泊まったユースホステルでも閉鎖しているところがあった。 私は22歳からしばらくの間、安い宿としておおいにユースホステルを利用させてもらったから、なくなっていくのは時代の趨勢とはいえちょっと淋しい。 それはともかく、おいらせユースホステルのペアレントをしているご夫婦は、どちらも親切で話し好きでとても楽しい思いをさせてもらった。 今まで泊まったところはどこも自分一人だけだったが、この夜は京都大学の大学院生という同じ年頃の若い人もいて、ペアレントさんと共に久しぶりに遅くまであれこれ話して楽しかった。 私も人嫌いな面があるが、ユースホステルでなんの関係もない人たちと、その場限りであれこれ話すのはとても楽しい体験だった。 今の旅行者はそういう他者との関わりさえ避けるようになってしまったのか? 最終日は焼山から八甲田山に向かって登って行った。 道の両側はずっと1mほどの高さの雪の壁が続いていた。 蔦温泉を過ぎてから右の国道394号線に曲がり高田大岳がよく見える場所で休憩した。 次の交差点で左に曲がると田代平。例の雪中行軍があった場所だ。 もう少し行った大峠というところに立ち往生した後藤伍長の像がある。 ここからも岩木山が見えたが、ウチの方から見る均整がとれた成層火山ではなくて岩手山のような台形に見えるので、今イチ感激がなかった。 八甲田山からの下りも快適だった。 青森市までの長い下りでは、自転車でトロトロ走る乗用車を追い越したりした。 青森市街に入ってから国道4号線から変わった7号線を西に進み、実家のある木造に向かった。 青森市から木造の実家までは40kmほどある。 7号線とは浪岡で分れていよいよ津軽平野に入って行く。 大釈迦の坂を上りきって原子の切り通しを抜けると、そこには一望に広がる津軽平野とかなたに聳える岩木山が待っていた。 岩木山もようやく見慣れた優美な姿になってくれた。 他の地域の人がなんと言おうが、岩木山は富士山型の均整のとれた優美な姿でなければ岩木山ではない。 広い津軽平野に下りてからは、田植えが終わった水田をゆっくり眺めながら水と泥の懐かしい匂いを嗅ぎ、古里に帰ってきたことを実感した。 実家には午後3時ころたどり着いた。
2021年05月09日
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今から37年前の今頃、埼玉県から青森の実家まで自転車で旅行したことがある。 奥羽山脈の中央部を走るコースをとり、9日かけて家にたどり着いた。 山の中ばかりなのでかなりきつかったが、ちょうど新緑の時期で、まだ頂に雪が残った山々からは清冽な水が流れ落ち、コブシや水芭蕉の花が咲く山間の村々では田植えの真っ最中で、私はあのときほど日本が美しいと思ったことはない。 初日は当時住んでいた川越から古河市の方を通って、利根川を渡って栃木県に入った。 小山からは国道4号線を離れて、壬生の町を過ぎたあたりの川原で橋の下にテントを張って野宿した。 もう暖かいと思って寝袋用のマットは持ってこず、テントの床に張る薄い断熱シートだけだったので寒くてよく眠れなかった。 この年の春先はかなり寒かったようだ。 シートを畳んで背中に当たる部分だけ厚くしてやっと眠ることができた。 2日目からは広い関東平野に別れを告げて、黒磯のあたりから先はずっと山中の道になった。 どこでも田植えの最中で、広々とした水田地帯の隅々まで豊かな水が行渡り、心まで豊かになるような景色だった。 老中松平定信で有名な白河には午後4時頃着き、お城も見たはずだが今は全然記憶にない。 白河からは国道294号線に入って会津に向かった。 山間のくねくねした細い道を進み、なかなか野宿できそうな場所がなくて、天栄村の小さな川の岸にやっとテントを張れそうな場所を見つけて一夜の宿とした。 3日目は少し雨が降ったが走れないほどではなかった。 そのまま国道294号線を進んで牧の内からは登りになり、会津との国境の勢至堂峠(732m)にやっと着いたらここにはまだ道端に雪が残っていた。 下りは快適というには急過ぎるほどスピードが出てあっと言う間に会津の最初の村に出た。 ここではまだ梅や桜の花が咲いていて、田んぼも今起こしたばかりという感じだった。 強清水から飯盛山を通って会津若松の街に入った。 戊辰戦争で官軍に敗れた会津鶴ヶ城にも入って、ゆっくり中を見てまわった。 修学旅行のガキどもがうるさくて閉口したが、城そのものはとても良かった。 この日は会津若松から猪苗代湖の向こうの「磐梯友愛山荘ユースホステル」まで行って泊まった。 4日目は霧雨が煙る裏磐梯高原を走り抜けて、桧原湖の北端からスカイバレーに入った。 あまりに急坂なので途中何度も自転車を降りて押し、なんとか頑張れそうなところは車が来ないのを幸いに道の端から端までジグザグ運転をして、お昼前になんとか白布峠に着いた。 ここでは道の両側に雪があった。 飯豊連峰が見たくてガスバーナーで食事を作ったりしながら1時間半ほども休んだが、そのうち黒い雲が近づいてきたので断念して下り始めた。 怖ろしいほどのスピードが出て、白布温泉にはわずか13分で着いてしまった。 時刻は早かったがこの日はここで行動をやめて「あずまユースホステル」に泊まった。 ここの夕食で初めてコゴミを食べたようである。私はそれまでコゴミを知らなかったのだ。 このあずまユースホステルのペアレント(管理している人)は親切な老夫婦だった。 5日目は米沢まで快適な下りを楽しみ、白銀の山々に囲まれた米沢盆地を走り抜けて、赤湯から小滝街道に入った。 天気が良くて暖かい日になり、短パンで自転車に乗っても寒くなかった。 小滝峠からは寒河江に向かった。 寒河江の近くに真っ白に輝く姿の良い山があったので、月山かと思って地元の人に尋ねたら葉山だった。 私はそれまで月山の隣の葉山を知らなかった。 この日はかなり長い距離を走って、新庄の先の川原にテントを張った。 寒いのはわかっているので近所のお店からダンボールの空箱を貰ってきて、それを断熱シートの下に敷いたら暖かく眠れた。 6日目は左手に富士山によく似た山を見ながら走った。 鳥海山は出羽富士と呼ばれるが、以前の鉄道旅で日本海側から見た感じではとても富士山のように見えないから、単にその辺で一番高いからそう呼ばれているのかと思っていたが、こちらから見ると実に姿が良くて出羽富士の名にふさわしい。 右手には秋田駒ケ岳が見え、大曲からはずっと秋田駒を正面に見ながら走った。 どこも田植えの最中で、車があまりこない道をのんびり走りながらのどかな田園風景を楽しんだ。 この日泊まったのは田沢湖ユースホステルだが、ユースの方は使えないと言うので隣接する国民宿舎にユースの料金で泊めてもらった。 夕食は一人じゃ淋しいだろうと、ペアレントさんのこの春小学校に上がったばかりの男の子がお相伴してくれて、いろいろあどけない話を聞きながら楽しい食事になった。 この子とはその後近所の共同温泉に入りに行ったりした。 帰ったら手紙をくださいと言うので、一度なるべく漢字を使わないで手紙を書いてやった覚えがあるが、返事がきたかどうかは記憶にない。 あの子も今では40台半ばか。 どんな大人になったかな?
2021年05月08日
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私の母方の祖父は歯がいいのが自慢で、76歳で死ぬまで歯が全部揃っているのを、事あるごとに皆に見せびらかしていた。(実際は奥歯が一本、虫歯か何かでなくなっていたと、祖父の死後に祖母が暴露していたが)祖父は暴れん坊として近郷近在にその名を轟かせた人で、得意技は噛みつきだった。ものすごく気性が荒くて、小学校さえ入学後たった三日で先生とケンカしてやめてしまったという人で、私が物心ついた頃はすでに60代の終わり頃だったが、そのころでも大暴れしていた。祖母を噛んだ土佐犬をスコップで殴り殺して、その後喰ってしまったことは、以前このブログでも「犬を喰う」という題で書いた。怒ると手がつけられない激情家だ。一度、隣の爺さんが遊びにきたとき祖父とケンカになって、祖父に頭を齧られた隣の爺さんが、顔面血だらけになりながら、怒鳴りちらして帰って行ったのを見た記憶がある。祖父も隣の爺さんも見事なツルッパゲだったが「ハゲとハゲとがケンカして、どちらもケガなくて良かったね」とはいかなかったのだ。どこかの神社で寄合があったとき、帰りしな酔っぱらった祖父が「この狛犬の顔が気に食わない」と言い出して、いきなり狛犬の鼻に噛みついて、石でできた狛犬の鼻を欠けさせてしまったという伝説がある。どこの神社かは知らないが、もう50年以上たった今でも、そこの狛犬の鼻は欠けたままなのだろうか。歯とハゲはよく遺伝するのだそうだ。以前何かの本で読んだが「歯を見れば親子かどうかわかる」と豪語する専門家もいた。我々アジア人には「シノドント」と「スンダドント」という二種類の歯のパターンがあり、シノドントのほうは歯が全体に大きくて歯の裏がシャベル状になっている歯だ。スンダドントは歯が全体に小さくてだいたい東南アジアに多いらしい。シノドントは主に東北アジアに多いのだそうだ。祖父の歯は明らかにシノドントだった。私は歯を見るかぎりは、東南アジアに多いスンダドントになるだろう。祖父は粗暴で我がままで自慢話ばかりしていて、幼いころの私はよくいじめられたから、死後50年たった今でも嫌いだが、あの立派な歯だけはうらやましい。私が祖父から遺伝で受け継いだのは、大きくてグローブのような手と激しやすい感情とハゲ頭だが、ハゲが遺伝しなくて歯が遺伝すれば良かったのにな。
2021年05月06日
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今頃は山を歩くと山椒の匂いがプンと香って、周りを見回すと小さな葉が出たばかりの山椒の木がある。津軽では山椒を「センソォ」と言う。「戦争」のように語尾を伸ばさず、ソにアクセントをおいて言う。私は最初、センソォと言われてなんだかわからなかった。私は若い頃津軽にいなかったので、山椒の呼び方をそんなに意識して覚えてなかったのだ。私でも知らなかったのだから、今の若い人はおそらく知らないだろう。津軽弁の訛り方が関東や関西とかなり違うのはわかっていたが、山椒からセンソォとはずいぶん変化したものだ。最初は変化の過程がまったく想像できなかったが、津軽風に口ごもりながら「サンショウ」と言っていると、だんだん「センソォ」に変わるから面白い。「サ」が「セ」に変化するのだから、津軽弁はユニークな訛り方をするものだ。私は山のなかでよく大声で歌を歌う。元々歌うのが好きなこともあるが、熊除けのつもりもある。夏に山椒の実を採っているときは、一ヶ所にずっといて音が出ないので、熊が近寄ってこないように特に大声で歌っている。歌はもちろん「戦争を知らない子供たち」である。
2021年05月04日
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私が青森県に帰って野山を歩き始めた頃はあちこちの林道が通れたのだが、それから30年以上たった今では、崩れたり草木が生えたりして通れなくなった林道が多い。 林道は生活や観光で使う人がいれば別だが、基本的に林業に必要じゃない限り整備されないから、大童子林道のように毎年整備してくれる林道は珍しいのだ。 林道がそうなんだから、木を伐採するために一時的に作った作業用の林道などは、用が済めば放置されてどんどんひどい状態になる。 30年前にはすいすい通れた伐採道が今では崩れてしまったり、木や竹が密集したり、棘がある灌木が密生したりして通りにくくなってしまった。 ところで話は全然変わるが、ニホンウナギは日本のはるか東南のマリアナ海溝近くの深海で生まれ、黒潮に乗って日本の川や湖にやって来て成長し、大きくなったらまたはるばるマリアナ海溝あたりまで帰って産卵するのだそうだ。 最近の研究では、そこがマリアナ海嶺のスルガ海山のあたりということまでわかったらしい。 だが、ウナギがなぜわざわざそんな深いところまで行って産卵するのかはわかっていない。 一説ではウナギがそこで産卵を始めた頃は、スルガ海山のあたりはまだそんなに深い海ではなかったと言う。 地球の活動はダイナミックで、深海ができてからまだそんなに時間がたっていないらしい。 もちろん時間がたっていないと言っても、地球誕生以来46億年から見ての話しだが。 ご承知の通り、地球が生まれた46億年前は、地球の表面はドロドロに溶けたマグマに覆われて海などはなかった。 その後地表面が冷えるにしたがって、岩石から出た水蒸気が雨になって降り注いだか、それとも水がたっぷりある天体と衝突したかして地球の表面に海ができた。(有力な説が二つあるようだ) そのころの地球は海ばかりで陸地はなかったそうだ。 地殻はいくつかのプレートに分かれていて、それが地下のマントルの対流運動に乗ってあちこちで衝突する。 片方のプレートがもう一方のプレートの下に潜り込むとき、ものすごい圧力と熱と入り込んだ海水によって、地殻が溶けてマグマになり、そのマグマの中の軽い成分が上に上がってきて大陸になったのだそうだ。 だから大陸は今もどんどん広くなっている。 プレート運動によって大陸ができると同時に、海底の様子もまた最初の頃よりはだいぶ変わった。 意外なことに地球に深さ1万m以上の深海ができたのは、そんなに昔ではないそうだ。 マリアナ海溝のあたりも、深くなったのは地球の歴史の中ではごく最近だ。 ウナギは当初は浅い海だったそこで産卵をしていたのだが、海がどんどん深くなるにつれてウナギも適応し、今でもわざわざそこに帰って産卵しているのだと言う。 それで話は戻るが、この前山の古い伐採道の跡を歩きながら考えた。 ここより横の山の中を歩いたほうが楽なんじゃね? 実際ブナの山の中では下草もそんなに密集しておらず、手入れされていない杉林などと違って歩きやすいものだ。 そこでハタと思った。 30年前は歩きやすかったからと言って、どんどん歩きにくくなる道を未だに歩いているこの俺は、ひょっとしてウナギ並みの知能しかないのか? やっちまったなぁ!
2021年05月03日
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昔、実家に住民票を戻して一年のうち農繁期の数ヶ月を田舎で暮らすようになったときは、何をして時間をつぶせばいいかわからなくて苦労した。 そうして山菜採りという趣味を見つけたのだが、毎日山菜採りに行けるわけでもないから他に何かないかと探しまわったら、兄が以前買った投網を見つけた。 鮎捕り用の小さい投網で、兄も投げ方を知らないのにいつかやろうと思って買っておいたものだった。 そこで私も兄が買った投網の投げ方を描いた本を参考に投げてみたが、何が悪いのか全然広がらない。 投網をやっている知り合いはいないので誰かに教わるわけにもいかず、毎日近くを流れる農業用水の、川底が平らで浅いところに行って投網の打ち方を練習したが、本だけではどうしてもうまく広がる方法がわからなかった。 そんなある日「老師」が現れた。 川岸の葦の間から姿を現した老師は言った。 「わもなんもじょんずでねばておめがあまりへだだはでなげがだしかへるな」 これでは津軽以外の人にはわからないので翻訳すると 「儂も全然うまくはないがお前があんまり下手だから投げ方を教えるよ」 もちろん私にとっては願ったり叶ったりでその老師の投げ方を見せてもらい、コツをいくつか伝授してもらうとすぐ曲りなりにもなんとか投網が開くようになった。 老師にはそのときほんの30分ほど習っただけで、その後は一人で練習し、鮎捕り用の小さな網ならきれいに円く開いて狙い通りの場所に投げられるようになった。 そうなると面白いので毎日投網を打ちに出かけて鯉や鮒、ウグイや鯰などを捕ってくるようになったが、網が小さいので鮒やウグイは捕れても鯉の大きいのはなかなか捕れずそれが不満だった。 鮒は昔よく食べたものだが今はもう捕ってきても誰も食べないし、ウグイは5~6月頃産卵に川を上ってくる頃はたくさん捕れるがそんなにたくさんは食べないし、捕まえるとすぐ死んでしまうから処理に困るのだ。 鯉が一番旨いのだが、この網では大きくてもせいぜい50cmほどのを捕るのがやっとだった。 鯉は力が強くて賢いので網に入ってもすぐ網目に沿って端に行き、周りについている錘を跳ね上げて逃げてしまうのだ。 それに鯉は動きがすばやくて網が上に来た瞬間に逃げてしまうから、小さい網だと錘が川底につくまでに網の外に出てしまう。 そこで川で会った他の漁師に聞くと、近くの釣具屋で網そのものはそれほど大きくないが網の周りの袋と呼ばれる部分が大きく、網目も大きい鯉捕り用の投網を売っているのがわかって買いに行った。 投網にはいくつも種類があって袋がない刺し網もあるが、鯉を捕るなら網の周囲に袋と呼ばれる仕掛けがあった方が良い。 鯉が網目に沿って逃げようとすると自然に袋に入り込んで身動きができなくなるので、袋の部分が大きければ大きいほど大きな鯉を捕れる。 網目が大きいのでそれまで捕れていた小さい鮒やウグイなどは逃げてしまって捕れなくなったが、鯉を捕れるのならそんな雑魚はいらない。 網目が大きいとその分水の抵抗が減るので、早く川底に着いて鯉を逃がさないのだ。 私はその網を買ってからはずいぶん鯉を捕った。 きれいに広がると直径3mほどで投網としては小さい作りだが、この辺の用水で使うにはちょうどいいぐらいだ。 この辺の用水は、下流に行くと全部が山田川という大きな川に合流する。 だから大きな鯉も山田川に多いのだが、さすがに山田川ではこの網は小さすぎてよほどいいポイントで投げないと鯉は入らない。 しかし春の産卵時期に支流に入り込んだ鯉たちが、その後水を農業に使うために水門を閉められて上流に取り残されることもよくあるので、私も近所の農業用水で長さ70cm以上、重さが4kgもある巨鯉を捕ったこともある。 この鯉は大きすぎて袋の部分に入らず、逃がさないように捕るのに苦労した。 この鯉捕り用の網はずいぶん楽しませてくれたが、川底にある木や石に引っ掛けて何回も破っているうちに、14年ほど前にとうとう補修がきかないほどボロボロになってしまったのでまた同じのを買った。 この網は2万円したが、仮に鯉が一匹2000円だとしても百匹以上は捕っているからじゅうぶん元は取った。 私に投網の投げ方を教えてくれた老師には、その後お目にかかってない。 車で移動しているようではなかったから、おそらく出会った場所近くの村の爺さんだと思うのだが、その後川で見かけることはなかった。 今から30年前ですでに80歳に手が届くかという風貌だったから、もう彼岸に渡られただろうが、あの後すぐに家を確かめて何かお礼を持って行けば良かったと今でも悔やまれる。
2021年05月02日
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4年前の今頃、西海岸の沢にシドケ(モミジガサ)を採りに入り、11時半までにゴミ袋に一杯も採れて、昼飯後もう少し何かないかと林道の奥まで行ってみた。この林道ではいつもはそんなに奥まで行かないのだが、まだ時間があったから少し欲が出たのだ。あちこち見て回ってたら、昔伐採した木を下した古い林道の跡があった。タラの木は日向を好むので、ここを登っていけばタラの木がたくさん生えているかもしれないと思って、車を道端に寄せたら右の方が下に沈み、タイヤが空回りして車が動かなくなってしまった。しまった! スタックしてしまった!!外に出てみると右の前輪が地面にめりこんでいて、車の前部も完全に地面についてしまっている。自分の足でもぬかるのだから、車がこんなに沈んでしまうのも無理はない。林道跡の前にはかなり広い空き地があったから、停車に便利だなと思ったのだが、どうやらふだんは水たまりなのだろう。これだから知らない場所では気をつけないといけない。 軽トラがぬかるみにはまってしまったことは、今までに何回もある。ほとんどは田んぼの中を走っているときで、自分でなんとか脱出したり、できないときは兄のトラクターやコンバインで引っ張ってもらった。今日みたいに山の中でぬかるみにはまったのは一度だけだ。そのときも今日みたいに道の端に寄せてはまったのだ。もう十年以上前のことだが、スコップもなかったのに1時間かからずに脱出したような記憶がある。今回は埋まっているのは右の前輪だけで、後輪は少しぬかっているだけだ。左側はまだ固い地面に乗ってるからなんとかなるだろう。 前回のスタックに懲りてスコップを荷台に積むようにしたし、この軽トラにはぬかるみにはまった時に脱出しやすくなる「デフなんちゃら」という装置をオプションでつけてもらった。前回に比べれば余裕だ。まず荷台の奥からスコップを引っ張り出した。短いやつだがこれでなんとかなるだろうと思ったら、把手がぽろりと落ちてしまった。把手が腐らないようにビニール袋をかぶせて、袋の口をガムテープで止めていたのに腐るか? ただでも短いスコップがさらに短くなり、把手がないからかなり使いづらいが、これでタイヤの後ろの泥をかき出した。ねばっこい泥土だから、スコップにこびりついて掘るのも大変だった。5月初めだというのに、内陸部の弘前では25℃以上になった暑い日で、これだけで大汗をかいた。ようやくタイヤの一番下の後ろまで掘って、そこに拾ってきた小石を詰め込みバックしてみたが、タイヤが空回りするだけで、小石が下に入ることはなく全然動かない。そこでもっと深く掘り下げて、地面についてしまっている前部も掘ってみたが、やっぱりタイヤは空回りするだけだ。これはジャッキアップしてタイヤの下に直接石を置くしかない。 ところがこれも大変だった。この車はほかの軽トラに比べて車高が低くて21cmしかない。それが埋まっているのだから、まずいくらか掘らないとジャッキをかけることもできない。手頃な石を台にしてジャッキを上げてみたが、なにせぬかるみだから台の石がどんどん沈む。車に積んであるジャッキは小さいので、上げる高さも少ししかない。そこで一度ジャッキを外して、そこらへんから拾ってきた長さ30cmほど、直径15cmほどのやや扁平な丸太を台にしてジャッキアップした。丸太もどんどん沈むが、石に比べて設置面積が大きいから、ある程度沈んだところで止まった。それからまたジャッキを外して、石を上に乗せて台にして再度ジャッキアップすると少しだがタイヤの下に空間ができた。その隙間に小石をこじ入れ、他のタイヤにも全部小石を噛ませ、これでどうだと発進してみたが、車はやはりビクともしない。そのうちゴム臭いにおいがしてきた。やばい!タイヤが焼けてる!? 車を降りてみたら確かにタイヤは小石を噛んでいるが、さすがのデフなんちゃらもこんなに埋まってしまっては効果がないようだ。 ここで重要なことに気がついた。後ろのタイヤが全然仕事してない。私がそのとき乗っていたのはダイハツの軽トラだが、この車は前にエンジンがあるから前が重いのだ。その上、これは他の軽トラに比べて運転席が30cmほど長い特装車だから、よけいに前が重い。ふつうのアスファルトの道でも、急坂では後輪が空回りしてバックできないから、四駆にしてやっとバックしているのだ。以前ぬかるみにはまった時乗っていたのはスバルの軽トラで、スバルは後ろにエンジンがあるから重さのバランスが良くて、そのせいもあってすぐ脱出できたのかも知れない。ここで私にできるのは後ろを重くすることだ。左の後輪のあたりに石をたくさん積んだらいいだろう。 下の川まで下りたら石がたくさんあるが、川原の藪を突っ切って川まで下りて、重い石を上に運ぶのは大変だ。重いものはなるべく平地で運びたいから、道端にある手ごろな石を探しては車まで運んだ。一番重い石で30kgはあったか。「くっそう、腰が悪いってのにこんな重いもの運んで、俺はなんてバカなんだ」と、ぶつくさ言いながら大汗かいて必死に石を運んだ。道端に手ごろな石がなくなってからは、仕方なく川原に下りて小さめな石を両手に持って運んだ。できれば200kgぐらいは後ろに積みたい。200kgまではいかなかったと思うが、左の後輪がふくらんできたので「そろそろいいか」と思ってまた発進してみることにした。いいかげん疲れ果てていたので、祈る気持ちでエンジンをかけてバックしてみるとやっと車が動いたが、少し動いただけでまた止まってしまった。降りてみたら、小石がなくなったところでまたぬかるみにはまっている。これはタイヤの後ろを道までずっと掘って小石を敷かなきゃいけないのか?とげんなりしたが、そのときタイヤが埋まっていた空間が目についた。そうか、ここに石を詰めて上がればいいんだ。 それまで道から砂利を拾っていたのだが、何年も前に敷いた砂利だから固まってしまってフリーな石はそんなにない。なんかないかな?とあたりを見回したら、古い林道の奥に崖が崩れているところがある。(あたりを見回したのはその日もう何十回目かだ)行ってみたら石灰岩みたいな白い石が剥がれ落ちていて、それをかき集めて山菜採り用の腰袋に詰めて、車に持ち帰ってそれぞれのタイヤの前に敷いた。そして車をゆっくり前に出すと、見事に敷石の上に乗って車の位置が高くなった。後はタイヤの後ろに、またガレ場から石灰岩みたいな小石を運んで敷きつめ、バックしてみたら動く動く、どんどんバックできる。柔らかいところに引っ張られるので曲がってしまったが、そこから反動をつけてフルスロットルで前に出ると、車はようやく道に戻ることができた。やったぜ!という気分だった。見たか、これがマイタケオヤジの根性だぜ! 脱出できたのは3時ごろで、はまってから2時間以上かかった。さすがに疲れてしまったので、それ以上山には入らずに帰った。疲れてはいたが、山菜を採った以上に達成感があった。家に帰ってすぐ泥だらけになった車を洗い、ホームセンターにスコップを買いに行った。今度は柄が腐らない鉄パイプ製の、普通サイズのスコップにした。
2021年05月01日
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小学校1年のときから中学校を出た年まで犬を飼っていた。私の祖父は闘犬が好きでもともとうちには土佐犬がいたのだが、何を思ったのか小さいのを親戚から貰って、それを私が散歩に連れて歩くことになったのだ。チビは(映画「南極物語」の太郎、次郎の)樺太犬のように黒くて、毛が長く尻尾が巻いた中型犬だった。日本犬の雑種だったのだろう。胸のあたりは茶色の毛がV字型に生えていた。初めて親戚のおじさんが連れてきたとき、箱から飛び出した子犬はまっすぐ私に駆け寄ってきて私の顔をぺろぺろ舐めた。その時の感触と獣臭い匂いをまだ覚えているような気がする。小さいのでチビと名付けられたその犬を、毎日学校から帰ってから散歩に連れて行くのはかなり面倒くさい仕事だったが、楽しみでもあった。雨が降ったり寒かったりして面倒な時は(チビは不服そうにしてたが)すぐ帰ってきたが、時間があるときは津軽の田園をずっと歩きまわったり、冬は雪原を自由に歩いて吹雪に吹かれたり、雪の上にできる風紋を眺めたりして過ごしたものだ。あれでモノを考える習慣がついたのかも知れない。何のしつけもしなかったのでチビは何の芸もできなかった。 だけでなく、たまに人を噛んだ。私が犬の散歩に連れて行くコースが同級生の通学路でもあったので、ある日出会った同級生と話していたら、チビが突然彼の足に噛み付いて怪我をさせたことがあった。彼は今も犬が嫌いなようだ。時々脱走もした。最初は首輪をしていたのだが、チビは毛が長いので少しぐらいきつく締めたつもりでも無理やり頭を抜いてしまうのだった。家の向かいにあの当時流行ったスピッツのメスが飼われていて、春先に東風に乗って彼女の匂いを嗅いだチビは半狂乱になって、何とか脱走してしては向かいに走って行くのだ。そしてしばらくすると白黒の子犬が産まれ、うちで半分を片付けてやるのが毎年恒例だった。そこで最後には鎖を直接首に巻いていたが、それでも杭ごと引き抜いてメス犬の元に向かうのだった。散歩の途中に鎖をはずして自由に走らせることがあったが、その時に逃げたことも二回あった。一度は遠くに離れてそのままどこかに行ってしまったのだが、もう一度は呼びかける私をチラッと見てから、振り切るように遠くへ走り去ったのだ。自由が欲しかったのだろうか?それから一月ほどして帰ってきたチビは、汚れきって足を怪我していた。許しを乞うように、上目遣いに探るように私に近寄ってきて、私が撫でてやるとちぎれんばかりに尻尾を振っていた。餌は一日二回残飯を与えるだけだったから、チビはいつも腹をすかせていた。祖母や母が餌をやるのを忘れると、餌入れにしている古い鍋を口にくわえてクウーンクウーン鳴いていた。一度茅葺き屋根の古い家の土間まで入ってきたとき、自分の餌と同じものを発見して猛然と食べてしまったことがあったが、それは猫の餌だった。自分で自由に鼠や雀を獲れる猫は、残飯の餌などは煮干などのタンパク質しか食べないでご飯は残すのだ。犬も本来は米など食わないだろうに、あの光景はちょっと悲しかった。厳寒の冬の間は外に置けないので作業場などに繋いでいたが、家で飼っていた鶏も近くにいる時がある。ある日見ると、チビの周りに鶏の羽が散らばっていたことがあった。チビはとぼけてペロッと舌なめずりしていたが、鶏が一羽いない。チビの野郎しばらくおとなしくして鶏を油断させて、近づいたのを一羽丸ごと食べてしまったのだ。その後二日ぐらいチビの食事はなかったが、あれがチビの生涯で一番豪華な食事だったと思う。とんだバカ犬だったが私はチビが好きだった。しかしチビにとって私はいい飼い主ではなかった。些細なことでよく鎖で殴った。散歩が面倒な時は、チビが大便中でもぐいぐい引っ張っていくこともあった。中学2~3年生の頃、チビはすでに老犬だったが、友人が連れて来た犬と喧嘩させたこともある。その犬の方が一回り大きかったが、その友人と一度喧嘩して負けている私は断りきれなかったのだ。チビは果敢に戦い、結局どちらも怪我しないうちにやめさせたが、私はあとで兄にきつく叱られた。それでもチビは私を主人と認めていたようだ。散歩の途中で誰かが餌をあげようとすると、チビは必ず私を見た。私より11歳も上で子供の頃は絶対かなわなかった兄が、あるときチビが繋がれているそばでふざけて私の後ろから飛び掛ってきたら、チビが「ご主人様の危機」とばかりにいきなり兄の足に噛み付いてくれた。このときは嬉しかった。家族の群れのなかで明らかに私より順位が上の兄より、私の方を自分のボスと認めていたのだろうか?中学を出て定時制高校に入り、町の鉄工所に勤めるようになると忙しくてチビの散歩を人に任せるようになったが、やがて両方とも辞めて愛知に働きに行くことになり、その前夜久しぶりにチビを散歩に連れ出した。ふだんそんな時間に散歩することはないが、チビは嬉しそうに尻尾を振ってついてきた。暗い街灯の下で匂いを嗅ぎ、電柱にオシッコをかけていたチビの姿が目に浮かぶ。それがチビとの最後の散歩になった。その年の冬、私が愛知にいる間にチビはまた脱走し二度と帰ってこなかった。家族は「チビはお前を探しに旅に出たのだろう」と言っていたが、あの当時10歳ぐらいの老犬を拾って飼ってくれる人はいないだろうし、野良で厳しい冬を越せずにたぶんどこかでのたれ死んでしまったのだろう。チビのことを思い出すといつも胸がいっぱいになるほど懐かしい。今ならもっと優しくしてあげて、餌もたくさん食べさせてやれるのだが、、、
2021年04月30日
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元々育ちが悪いので、多少古いものを食べてもお腹を壊すようなことはない。今は消費期限とか賞味期限とかにうるさい時代だが、あれは売る側が何かあったときのことを考えて、訴えられても大丈夫なようにかなり余裕を見ているから、多少期限を過ぎていてもなんの問題もない。ちょっと期限が過ぎているからといってモノを食べられないようでは、私が生まれた昭和30年代の津軽の田舎では生きていけなかったし、南米や東南アジアの発展途上国の屋台の飯も食べられない。 しかし、そんな私でもダメなモノもあった。あれは忘れもしない、今から25年ほど前の夏だった。その夏は農閑期の三ヶ月、静岡県の富士山の麓の御殿場にある、生鮮食品のショウケースを作る工場でアルバイトをしていて、私が所属する人材派遣会社の寮は、そこより少し富士山に登った須走にあった。ある日、寮の近くの酒屋の店先にある自動販売機で缶コーヒーを買い、自室に帰って一口飲んだら、今までに味わったことがない妙な味がしたのですぐ吐き出した。行儀が悪いことに横になって飲んだものだから、一口本当に飲んでしまって、その後何回もうがいしたが、ずっと変な味が口のなかに残っていて気持ち悪かった。 「いったいこのコーヒーは何なんだ?」と思って缶底の製造年月日を見たら、なんと3年も前に作ったものじゃないか!?そのコーヒーを買った自動販売機は、店先の西日が当たる場所にあり、あそこで3年前からずっと入れてあったとしたら、そりゃ変質するはずだ。いちいち苦情を言いに行くのは面倒なのでそのまま黙っていたから、あの店ではその後も、古い缶コーヒーを入れたままにしていたかも知れない。もちろん、私がその後そこの自動販売機を使わなかったのは言うまでもない。 今はどの自動販売機は飲料会社の配達員が入れているようだが、昔は全部店の人が入れ替えていたので、田舎の自動販売機ではたまにとんでもなく古いのが入っていることがあった。私も道端に放置しているような販売機で買うときは、気にして消費期限を確かめたりするが、あの時はふだんよく行く店だったので油断していた。私は秋口までそこにいてそれから須走を訪れてないが、他に被害者が出ていないか、しばらくしてからちょっと気になった。
2021年04月28日
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昨日はトイレに閉じ込められた話を書いたが、家から締め出されてしまったのを見たこともある。ある晩7時頃巡回していたら、前から買い物袋を提げて歩いてきた女性が「今ポリタンクを出しますから売ってください」と言った。言葉に訛りがあるから外国人ぽい。よく見たら、フィリピン系と思われる若くて可愛い女性だった。小さいが胸も尻も大きくて、ちゃんとくびれもあるナイスボディだ。私はその家の前に車を停めて彼女がポリタンクを出すのを待ったが、なぜだか家に入らないでドアのすき間から大声で何か叫んでいる。その家は道路から少し高い所にあり、階段を何段か登って玄関なので、運転席からだとちょうど彼女が尻を突き出しているのが見えてとてもいい眺めなのだが、このままじゃ仕事にならないので車を降りて「どうしましたか?」と訊いた。どうやら買い物に出るのに子供を家に残して、すぐ近くだから鍵をかけないでドアチェーンをつけさせて行ったら、子供が寝てしまって起きてこないらしい。ドアのすき間からはランドセルが見えるから、まだ小さい子のようだ。彼女は「〇〇起きて!」と日本語で言ったり、英語やたぶんタガログ語と思われる言葉でドアのすき間から大声で呼びかけたり、携帯電話をずっとかけていたが、小さな子は完全に寝込んでしまったようでいっこうに起きてこない。ドアのすき間は10cmほどしか開いてないし、外から外せるようにもなっていない。「どっか入れるところはありませんか?」と彼女と一緒に家の周囲を見て回ったが、今どきの家は防犯対策がしっかりしていて侵入できそうな場所はなかった。こんなことを書くのはなんだが、私は侵入するのが上手い。元々木登りが得意だし、建物の弱点を見つけるのが上手いのだろう。20年ほど前、ある自動車工場の寮に住んでいた時、同僚が「鍵を部屋に置いたまま出ちゃって入れなくなったよ。マイタケさんどうしよう?」と言うので「あの窓から入れるじゃん」と言ったら「あんなとこから入れないよ」と言うから、するするっと登って窓から入って鍵を開けてやったことがあった。それからは、酒席では私は昔空き巣をやっていたことになってしまった。これだけじゃなく、ちょっとした足掛かりを見つけたりして開いている窓から入ったり、鍵をなんとか回して中に入ったりしたことが何度かある。しかしこの家は大きな窓にはシャッターが下り、トイレなどの小さな窓は高いところにあって、しかも外には柵がついている。二階の窓にも行けそうな場所がない。難攻不落だ。唯一玄関の庇の上に登ればその上の二階の窓に届きそうだが、その窓が開いているかわからないし、庇の上に登るのもかなり大変そうだ。危ないのにそこまでしてやるほどのことでもない。子供が起きるのを待っていても埒があかないから、彼女に名刺を渡して「私はまだ先がありますから行きますね。ドアが開いたら私の携帯に電話してください」と言って別れた。30分ほどしてその日のコースを全部終わり、その家に戻ったらまだ若い奥さんは外にいて、ドアのすき間から中に呼び掛けていた。寒いのにずっと外にいて凍えてしまっている。もう携帯のバッテリーもなくなって電話もかけられないらしい。私は車から携帯を充電できるコードを持っているから、それを貸してやろうと思って閃いた。我々のタンクローリーには会社の音楽を流すスピーカーがあり、自分の声も流せるようになっている。こんなので夜8時ころ叫んだら近所に大迷惑だが、この場合は緊急事態だから許されるだろう。彼女にマイクを渡して、ボリュームを大きくして中の子供に呼びかけてもらった。あんまりやるのも迷惑なので数回でやめたが「あとは警察を呼んでドアチェーンを壊してもらうしかないんじゃないですか?」などと話しかけていたら、やっと子供が起きてきてドアを開けてくれた。彼女は怒り心頭だったが私の手前もあるのであまり子供を叱らず、すぐ中に入ってポリタンクを持ってきてくれたのだった。あれからあの家で灯油を買ってもらったことはない。また可愛らしいフィリピンの奥さんに会えないのが残念だ。
2021年04月27日
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長年工場で機械相手に単純作業ばかりしてきたが、それに比べたら去年まで十年間出稼ぎに行っていた灯油の巡回販売の仕事は、毎日違う地域を巡回販売して歩くので様々なことが起こる。困ったことはいくつもあるが、トイレに閉じ込められてしまったときは本当に困った。ある団地で灯油を売っていたときだ。団地の入り口に小さな公園があり、そこに小さな公衆便所があるので、お客さんが途切れたときに借りて用を足すことにした。私は毎週そのトイレで用を足すのだ。男女の別がない、小便器が一つと個室が一つの小さな公衆便所で、私が行くと小便器の前にはお爺さんが立っていた。入口が広いから外から丸見えだ。よほどのお爺さんみたいで、外から見える場所なのにズボンをずり下げてしまってモモヒキをむき出しにして突っ立っている。すぐ終わるだろうと待っていたが、この爺さんがなかなか動かない。いつまでもず~っと突っ立ったままだ。まさかそんなに小便が出るわけがないから「この爺さん、なかなか小便が出ないのかな? それとも小便してることを忘れてただ立っているのかな? もしかして立ったまま寝てるのかな?」と思いながら待っていたが、私だって小便がしたいし、いつまでもタンクローリーから離れているわけにはいかない。そのうちもう一人男性が来たので、その人を待たせるのも悪いと思って私は空いている個室に入って用を足すことにした。個室に入って勢いよくドアを閉め、さあ息子をひっぱりだそうとして、なにか気になるものを見たような気がしてドアを見かえしたら、なんと、ドアノブがついてない!?なんじゃこりゃあ?入ってしまったものはしょうがないのでとりあえず用を済ませ、よく見るとドアノブがすっぽり取れてどこにもない。なんとか残った出っ張りを動かそうとしたが全然動かない。困った! ドアが開かない!!工具などは持っておらず、素手で回せるものではない。この個室には窓はなく、ガラスブロックで明かり取りをしている。ドアの上も壁があって隙間はない。これはドアを開けるか壊す以外に出られない。さあ困った!外ではあの爺さんがやっと用を足し終わり、次の中年の男性が小便器の前にいるようだ。私はドアをドンドン叩き「すみません、すみません」と大声で連呼した。すると用が終わった男性がドアの前に来てくれたので「こっち側にドアノブがないんですよ。すみませんがそっちから開けてもらえませんか?」と頼んだ。男性はこころよく引き受けてくれたが「あれ、開かないぞ?」と言う。「そんなバカな。ただドアを閉めただけで鍵をかけてないのに開かないわけがない」と思ってドアの隙間から目を凝らして見ると、なんと、鍵がかかった状態になってるじゃないか!?何故だ!?私はただ勢いよくドアを閉めただけだ。もともとドアノブがないんだから鍵をかけようがない。さてはこのドアノブを取って行った奴が、誰かを困らせてやろうとして何か細工していったのか?さあ困った。どうすりゃいいんだ。外では男性が「誰か係の人に電話しましょうか?でも電話番号がわからないしな」などと言ってくれているが、仮に電話してもらったとしても外に出るまでにはものすごく時間がかかるのは間違いない。こっちだっていつまでもタンクローリーをそのままにして置かれないのだ。これぐらいのドアなら頑張れば蹴破ることはできるだろうが、そうすると今度は弁償問題が出てくる。たとえ壊さなければいけないにしても、なるべく被害は最小にしたい。それには何か道具が必要だ。私は外の男性に「すみませんがそこのタンクローリーから工具を持ってきてもらえませんか」と頼んだ。「ああ、石油屋さん、そこのタンクローリーなんだね?」「そうです、運転席のドアのポケットにドライバーとかプライヤーとか入っていますから持ってきてください」「わかった。運転席側のドアのポケットだね?」私は運転席側のドアの下部にある袋状のポケットに、いつもプラスマイナス両用のドライバーとプライヤーと、プライヤーにもなればナイフやいろいろな用途にも使える便利グッズを入れてある。運転席には、さっきまでに灯油を売って邪魔になった千円札や予備の種銭が入った袋もあるのだが、ここは彼を信じるしかない。親切な中年男性は少ししたら戻ってきて、ドアの下から「これでいいかな?」と車にあった工具をすべて差し入れてくれた。有り難い!私はさっそくドアノブのネジを回してドアノブ内側のカバーを外し、やっと外に出ることができた。親切な中年男性は私に工具を渡すとすぐどこかに行ってしまったので、お礼を言うことはできなかった。すぐタンクローリーに戻ってみたら、あれだけ離れていたのに金は無事だった。これも有り難い!トイレに戻ってみたが「何かあったら公園管理課にお知らせください」という張り紙はあっても電話番号などは書いてない。団地の管理棟まで行けということか?ドアノブのことは気になるが、この先ではお客さんが待っているのでドアをまた元の状態に戻し、鍵がかかる部分に何重にもテープを貼って鍵がかからないようにしてその場を離れた。今回は迂闊にドアを閉めてしまってエライ目にあったが、また悪運の強さに救われたようだ。これからはトイレのドアを閉める前に、内側にドアノブがあるかどうか確かめることにしよう。どこのどいつか知らないが、こんなイタズラをした奴は地獄に落ちやがれ!!貴様にはもっとひどいことが起きるように呪いをかけてやる!
2021年04月26日
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「南京結び」という結び方がある。南京結びはトラックの荷台の荷物を固定するのに便利な方法で、私はこれを22年前、42歳のときにやっと覚えた。長兄が知っていたので少年時代一度教わったが忘れてしまい、私には用がないと思ったのでまた教わったりはしないでそのまま来てしまったのだ。 22年前に南京結びのやり方を教わったのは、東名高速の工事現場に誘導員として行っていた焼津市のガードマン宿舎で、教えてくれたのはガードマンの先輩でその頃25歳ぐらいの若者だった。布団袋の紐を使って教わった南京結びの技は、その後荷物を縛るのに大活躍している。私の友人でずっと工場勤めだった男が、50歳過ぎてからリストラされて埼玉県の建設会社に入って、年中出稼ぎになって長い休みの時だけ津軽に帰って来るのだが、あるとき私が南京結びをしていたら「マイタケ、それを教えてくれ」と言ってきた。建設業では南京結びが必要な場面がたくさんあるが、知らない人に自分から教えを乞うのもきまり悪いので、やり方を知りたいとずっと思いながら見ているだけだったと言う。覚えが悪い友人に私が1時間かけて教えてやったところ、今では昔から知っていたかのようにササッとやって仲間から感心されているそうだ。私に教えてくれた先輩は仙台出身で、中学生のときに家出して以来実家に帰っていなかったらしいが、私に南京結びを教えてすぐにおじいさんが亡くなり、十年ぶりぐらいで仙台に帰って行ってそれから会ってない。帰るとき「仕事用の軍足ばかりでふだん履く靴下がなくて困ったな」と言うので、まだ使ってなかった新品の靴下を300円で分けてやったが、こういういいことを教わったんだからただであげれば良かったなと今では思う。あれから震災があったが、仙台に帰った彼は無事でいるのかな?
2021年04月25日
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10年前出稼ぎから帰ってきたら、友人が勤める老人介護施設で岩手県の山田町に炊き出しに行くと言うので、全然関係ない私もくっついて行った。10年前の4月25日、夜中の2時半に私と友人とその施設の園長は鯵ヶ沢を発ち、青森市に寄って他のグループと合流して山田町に向かった。 この炊き出しは、青森市で小さな電気設備会社を営む37歳の若い社長が中心になって行ったもので、この社長はすでに四回も炊き出しを実施しているという。この人は若年ながら大変立派な人だ。青森にもこんな傑物がいるのかと嬉しくなった。今調べたらこの「中村美津緒」さんは、青森市議会の議員になって活躍されているようだ。まだ若いから市議会議員では終わらず、末は県知事になるかも知れない。 今回の炊き出しに参加したのは、大人が17人と子供が9人の計26人。若社長だけでなく他の参加者もそれぞれいろんなモノを持ち寄ってきていて、しかも皆さん実に協調性があり、仕事がとてもやりやすかった。他の地域でもそうなのだろうが、青森県民も大したものだと思った。 友人の介護施設のマイクロバスと電気設備会社のトラックに、炊き出しの材料や用具、他の支援物資を満載して4時に青森市を出発した。今回はうどんを被災者の皆さんに食べさせるということで、皆自腹でいろんなモノを出しているので、私も恥ずかしながら売れ残りのキノコの塩漬けを出させてもらった。 青森市からでも山田町までは5時間ほどかかった。盛岡から北上山地を横断する山の中では、真ん中あたりで折れた杉の木がたくさんあるのが目立った。杉はキレイに手入れされているので、上にだけ葉が残されて幹には枝もなくまっすぐに立っているが、直系10~20cmほどの細い杉だけが途中でポッキリ折れているのだ。あまりにも揺れが強かったから、細い木は耐え切れなかったのだろう。 避難所の山田町豊間根中学校に着いたのは9時頃、それから準備して実際に炊き出しを始めたのは11時。炊き出しを終えたのが1時過ぎで、すべて撤収して帰路についたのは2時ころだった。今回用意したのは600食で、この避難所には200人足らずの人しかいないのでかなり余りそうだったが、近所の避難所にも配ったりして最終的には全部片付け、なにより皆さんに「おいしい」と言ってもらえたので大成功だったと思う。我々大人はうどんを提供し、子供たちも支援物資を配ったり避難所の中まで入り込んで被災者と接したりして、少しでも元気を与えることができたんじゃないかと自己満足している。 行きはまっすぐ避難所に向かったので、帰りは海沿いに出て被災地を見てから帰路に就いた。大津波が襲った跡は、震災後一月半ほどたったこのときでも凄まじい爪痕が残っていて、自衛隊の車両が走り回っていた。これでも直後に比べたらだいぶ片付いたらしいが、私はこの圧倒的な破壊を目にして言葉もなかった。残念ながらカメラを忘れたので画像がないが、被災地の様子はこれまでも繰り返しテレビで放送されているから皆さんもご存知だろう。しかし、所詮テレビの映像と実際に肉眼で見る印象とはまるで違う。地震も津波もごくありふれた自然現象で、その少し前にスマトラや遠い異国で起きたときは全然不思議に感じなかったことが、こうして実際にその場に身を置いて目にすると「なぜこんなことが起きるのか?なぜこんなことが起きなければいけないのか?この世には神も仏もないのか?」という疑問しか湧いてこなかった。 その日私は炊き出しで被災者と接するときに励ましも慰めもせず、ただうどんを渡して世間話しをしただけで別れてきた。一切の財産を失った彼らも、湿っぽいところや恨みがましいことは露ほども言わず、「おいしかった」「ありがとう」だけを言ってくれた。あれほどの大災害で命を奪われた人たちや、なんとか命だけは助かったものの財産をすべて失った人々に、私が何か声をかけようとしても結局は嘘になる。あの凄まじい破壊の後では、どんな言葉もうつろにしか響かない。誰がそんな美辞麗句を聞きたい? 参加したボランティアの中に、夫婦でボランティアに対する考え方が違うという男性がいて、彼の奥さんは「こんなにたくさんの被災者がいるのに、そのほんのごく一部の人のためにだけ炊き出しをやるのは、結局自己満足でしかないじゃないか」と言うらしい。その人は奥さんとは考えが違うから今日参加したわけだが、私もたとえ自己満足だろうが偽善だろうが売名行為だろうが暇つぶしだろうが、それで救われる人が実際にいるのだから、何もやらないよりはやる方がいいに決まっていると思っている。もちろん、私には被災者の本当の辛さも苦しさもわからない。私がしようと思えばできることはたくさんあるが、実際にするつもりがあるのは、自分の今の生活を犠牲にしない範囲内だけだ。だから偉そうなことなど言えない。 この日は未明に家を出て、鰺ヶ沢に帰ってきたのが9時半でものすごく疲れたが、私には帰る家があり、安い発泡酒でも飲んでお風呂に入ってくつろぐことができる。震災で死んでしまった人も、財産をすべてなくして今でも避難所で暮らしている人々も、今はそんなことさえ贅沢でできないのだ。自分が幸運なのは間違いない。
2021年04月24日
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この冬は出稼ぎに行かず遊んでいたので、まったくストレスを感じることがなかった。出稼ぎ先は毎日違う場所を巡回販売する仕事だから、ものすごくストレスが多い。お客さんたちと触れ合って楽しいことも多いが、中にはわけが分からないことを言うお客さんもいるし、わけがわからないクレームをつける住民もいるし、運転していればわけがわからない事をしたり自己中なドライバーがいるし、会社の人間もたまにわけがわからないことを言うし、仕事をしているとだんだんストレスが溜まってきて「ふざけんじゃねえ!」と大声で怒鳴りたい衝動に駆られることがあったが、今年はそういう衝動が湧き上がることはなくて平和な冬だった。今ストレスを感じるのは唯一パソコンに対してだけである。私は今パソコンを2台使っているのだが、8年前に買った富士通のパソコンが(たぶん)私の使い方が悪くて2年前の秋に調子が悪くなって、そのときはインターネットでオークションに参加していたから取引が出来なくなったら困ると思ったので、急いでDELLの安いパソコンを買ったのだった。幸い富士通は急に止まることなく動いたので、一昨年の秋は出稼ぎに出るまでいたわりながら使い、せっかく買ったDELLは去年の春から使いだしたが、これがとにかく動作が遅くてイライラする。富士通にしてもその前のNECのパソコンにしても、使っていてイライラすることが多かったが、DELLにはしょっちゅうイライラしている気がする。私にとってパソコンはイライラの元凶だ。OSがWindows10になってからは、思うように動かないので更にイライラする。いらないメールがヤフーやOCNや、その他諸々からたくさん送りつけられてきて、それを削除するために短い人生のうちの少なからぬ時間を浪費させられているのにもイライラする。パソコンのいらぬおせっかいにも、イライラまでいかなくてもイラっとする。この頃のパソコンは、私が検索した内容から勝手に私が欲しがっているものを詮索して広告を載せてくる。他の人のパソコン画面と比較したわけではないからどんな広告があるのが普通なのか知らないが、私が検索した後でそれに関連したモノの広告が載るようになるからそうなのだろう。インターネットサイトに広告があるのは仕方ないが、人が検索したデータを勝手に使ってこういう広告を載せていいのか?と思う。アマゾンで一度でも買ったものも、もういらないのにしょっちゅう広告が出る。私が一度も検索してない中高年の結婚相談所の広告やら、精力増強の広告やら、髪の毛のケアの広告やら、歯を白くする広告やらもたくさん載っていて、これは私が高齢の独身者だからだと思うが「うるせえ!余計なお世話だ!!」と言いたくなる。「お前さんの考えはお見通しだぜ」とパソコン側にいつも突きつけられているようで非常に気分が悪い。もちろん、私みたいなチッポケな人間などマイクロソフトもアマゾンもヤフーもいちいち気にも留めてないだろう。パソコンから収集した情報を元に、自動的に私と言う人間の嗜好や性向を解析して、勝手に広告でもメールでも送り付けているのだ。これでは匿名性も通信の秘密もあったものではない。トランプ大統領は「中国のファーウェイが通信機器から盗み取った情報を中国政府の為に使う」という理由でファーウェイの使用を禁じたが、トランプがそう言うのは、アメリカでも同じようなことをしているからだろう。マイクロソフトもいわゆるGAFAも、全部アメリカの会社だ。アメリカはいざとなれば、それらの会社が世界中から集めた情報を自由に使える。中国が同じ手を使って世界から情報を盗み取り、アメリカに情報が入ってこなくなればアメリカの覇権は崩れる。中国も中国だがアメリカもアメリカだ。現代はパソコンのおかげで便利にはなったが、人の欲望がすべて筒抜けで怖い世の中だと思う。我々には今や内心の自由さえ無いのか?
2021年04月23日
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静岡県で一番大きい都市は、昔から駿河の中心として栄えて県庁の所在地である静岡市だと思っていたら、今は浜松市のほうが面積も人口も多いらしい。浜松が今のように発展したのはひとえに工業が盛んだからである。 浜松市が今のように工業が盛んになったのは、江戸時代にここを治めていた井上家のお殿様のおかげらしい。 それもお殿様のレイプ事件がきっかけだというから面白い。 江戸時代の浜松は頻繁に城主が替わった。 文化十三年(1817年)当時治めていたのは井上家で石高は六万石。 当主の井上河内守正甫(まさもと)はそのとき幕府奏者番を勤めていて、この役職はやがては老中にもなれるエリートコースだったという。 井上正甫はこのとき42歳、仕事にも脂が乗り切って人生順風満帆だった。 しかし世の中どこに落とし穴があるかわからない。 ある日正甫は、信州高遠藩主内藤大和守頼以から「うちの下屋敷で小鳥狩りをしよう」と誘われた。 内藤頼以も奏者番で、二人は仲のよい同役だったのだ。 内藤家と言えば内藤新宿でおなじみのあの内藤である。 今の新宿御苑がその当時の下屋敷の跡の一部で、新宿の宿場に土地を差し出したので少し削られたが、あの一帯が内藤家の下屋敷だったからまだまだ広大な屋敷だった。 さて河内守井上正甫は、文化十三年の秋に内藤家下屋敷に、家来を引き連れて遊びに行った。 その当時の小鳥狩りとは、長い竿の先によく粘る「鳥もち」というものをつけて小鳥を捕まえたようだが、その職人である鳥刺しというプロもいて、お殿様たちは広い庭園のなかを鳥刺しや大勢の家来を引き連れて、ゆっくり景色を愛でたり捕ったばかりの鳥を焼いて酒の肴にしたりして楽しんだのだろう。 ところがそのうち井上正甫は皆とはぐれてしまった。 庭と言っても八万坪もあって鬱蒼とした森まであるところだから、慣れない正甫はすっかり迷子になってしまって当てもなくさまよった。 当時の大名の下屋敷のなかには「農家(のうや)」と言って、大名に下々の苦労や暮らしの様子を学ばせるために百姓を住まわせているところがあった。 内藤家の下屋敷は広いので中には十四、五軒そういう百姓家があったらしい。 井上正甫は歩いているうちに喉が渇いてきたので、そのうちの一軒に入って水を所望した。 そこでは若い女房が一人で留守番をしていた。 亭主は今野良仕事に出ているという。 正甫は女房が差し出す水を飲んで生き返った思いがしたが、よく見るとその女房がなかなか別嬪さんである。 井上正甫42歳、まだまだ壮年だし、今日は久しぶりに野山を駆けて血がたぎっている感じもする。ついムラムラッときて、その若女房を手籠めにしてしまった。 何せ自分は大名だし、相手は友人の屋敷に住まわせてもらっている、たかが百姓の女房だ。 やってしまっても構わないだろうと思ったのかどうか。ところが、そこに亭主が野良仕事から帰ってきたからさあ大変! 亭主にすれば相手が誰だかわからない。 ずいぶんいい服を着た立派な侍だとは思ったろうが、こんな状況で黙っている奴はいない。 「この野郎何をしてやがる!」と、たまたま手近にあった天秤棒で正甫に殴りかかったから、これには正甫もたまらない。 「よせ!よさぬか!」と言っても何度も殴りかかってくるので刀を抜いて防戦しているうちに、はずみというのは恐ろしいもので相手の腕を切ってしまった。 いくらお蚕包みで育てられた大名とはいえ、刀はいいものを差しているからよく切れる。 その百姓の片腕が落ちてしまったところに、殿を探していた家来たちが駆けつけてきた。 家来たちはすぐ事情を察して後始末をすることにし、とりあえず井上正甫はそのまま何食わぬ顔をして内藤家から帰ることになった。 残った家来が百姓夫婦を説得して妻には金を渡して実家に帰し、夫は浜松城下に連れてきて、腕の治療をして後はいい女をあてがわれて一生安楽に暮らすということで話しをつけて、なんとか事が公けになるのを防いだ。 つもりだった。 ところが「人の口に戸は立てられぬ」という言葉どおり、どこから漏れたものか井上正甫が江戸城に登城するために下馬口で駕籠を降りると、その辺に屯している駕籠かき人足や中間どもから「いよ~強淫大名!」とか「密夫大名!」とかのヤジが飛ぶようになった。 江戸時代も後期になると、大名が登城するための駕籠かきまで自前で用意する藩は少なくなり、ほとんどが今でいう人材あっせん業の口入屋から紹介された臨時雇いの人間で、なかには何件も掛け持ちしている奴もいるから、相手が大名だろうが全然恐れていない。 井上家ではどうしようもないので無視していたが、登城のたびにそういうヤジが飛ぶと幕閣でも無視できなくなり、ついに正甫は奏者番を免ぜられ、差し控えの処分を受けてしまった。 そして次にきたのが奥州棚倉への国替えである。 棚倉は表高は五万石と言われたが、実質はその半分ほどと言われる痩せ地で「棚倉に転封されるのは大名の島流し」とまで言われたような場所だったらしい。 ところが棚倉への転封の噂がたつと、地元の浜松では領民たちが国替え中止の嘆願運動を起こしたのだという。 井上正甫は好色でも領民には慕われていたようだ。 それでも結局井上家は棚倉に移封させられたが、その20年後上州の館林にまた移封になり、そして上州からまた浜松に移封になって、棚倉に移封になってから28年後にまた浜松に戻ってきたのである。 そのとき浜松にお土産に持ち帰ったのが、繊維産業が盛んだった上州の繊維工業技術だった。浜松は元々綿花の栽培が盛んだったが、正甫の跡を継いだ正春が浜松の農家の副業として綿織物を奨励したらしい。 浜松がヤマハや河合楽器、ホンダ、スズキなどの発祥地になったのは、このとき持ち込んだ繊維工業が元になっているのだという。 井上正甫は老中にはなれなかったが、彼の(旺盛な性欲の)おかげで今の浜松市があるのだから、地元に(下半身で)貢献した立派な殿様ではないか。 ちなみに正甫は奥州棚倉へ行くのを拒否して隠居してしまい、その後井上家が浜松に戻るのを見届けてなんと84歳まで江戸屋敷で生きた。 さすがに精力が強い男だ。 一方、彼に女房を寝取られた上に片腕を切り落とされた百姓は、浜松に呼ばれて少しの間はいい目を見たようだが、その後棚倉に移ってからはどうなったか記録がないという。 元々歓迎されて来た人間ではないし、棚倉では藩の台所がいきなり厳しくなったから、もし棚倉までついて行ったとしてもあまり居心地は良くなかっただろう。 正甫と比べたらずいぶん気の毒なことである。 この文を書くにあたっては佐藤雅美の「色でしくじりゃ井上様よ」、八幡和郎の「江戸300藩バカ殿と名君」、歴史読本スペシャルの「大江戸おもしろかなし大名たち」を参考にした。
2021年04月22日
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15の冬に愛知県にある自動車部品工場に出稼ぎに出てから、今まで49年間たくさんの場所で働き、数えきれないほどの人たちと同部屋になって暮らした。一緒の部屋になった人のなかには、ずいぶん変な人やバカな人もいた。(私のことも、他からはずいぶん変な奴と思われていたかも知れないが)しかし、いくらバカだ変だと言っても本当に気が狂った人は(たぶん)いなかった。私と同部屋ではないが、同じ部屋になった人が気が狂ったという話なら知っている。それは今から23年前に、私が15歳で初めて働いた自動車部品会社でまた働いていたときのことだ.その会社は、会社に赴任してから配属先が決まるまで二日かかるので、同じ日に赴任して同じ工場に配属になった人とは二日間ずっと一緒にいて、同じ工場に入った後も顔見知りといえば同期入社の人だけだったりするから、同じ日に入った人同士は自然と仲良くなった。鹿児島県から来たナカゾノさんもそんな一人で、彼とは前の年にも同じ日に入社して同じ工場に配属になっていた。とても社交的な人で、私は前年も一冬仲良くさせていただいた。その年働き出して一ヶ月ほど過ぎてから、ナカゾノさんから「今度俺の部屋で集まって飲もう」と誘われた。その会社の寮は社宅形式になっており、六畳が一間に四畳半が二間の間取りで、ナカゾノさんは四畳半の部屋だった。ある週末の夜、その四畳半に6人も集まって楽しく飲んだ。メンバーは41歳の私と同い年のナカゾノさん、ナカゾノさんと同じ部屋の六畳間にいるAさんは鹿児島から来た三つ上。Aさんも前年この工場で一緒になって顔見知りだった。もう一人同部屋の高知県から来たHさんは30代半ば。宮崎から来たNさんは当時43歳ぐらい。そしてNさんと以前からの知り合いで、宮崎から来たK君はまだ26歳の妻子持ちだった。私は出稼ぎ先で九州沖縄の人と付き合うことが多い。同じ東北の人とは気が合うが、九州沖縄の人たちは社交的なので自然とそうなる。狭い四畳半に大の男が6人も座ってギューギュー詰めで楽しく飲んだが、隣に座った高知県のHさんが異様にはしゃいで、そのうち私の肩をバンバン叩きながら体を寄せて話しかけてくるのには閉口した。私が狭い部屋の中でなんとか体をよじって離れようとすると、Hさんはますます近寄って大はしゃぎで話しかけてくる。と、いうようなことはあったが、その晩は大いに盛り上がって楽しく飲めた。ところがその後、一緒に飲んだHさんとK君が揉めているという話が聞こえてきた。HさんとK君は同じ職場で、HさんによればK君はHさんの悪口を皆に言いふらしているのだという。他の人たちはHさんに「K君はそんなことをする人間じゃないよ」と諫めたが、Hさんはかたくなに信じ込んで聞く耳持たぬらしい。そのうちHさんがK君を「この野郎!」と言って追い掛け回すようになり、K君の部屋に押しかけてドアをガンガン叩いたり蹴ったりするようになったので、K君は怖くて始業時間ギリギリまで職場に行けなくなり、休憩時間もHさんと顔を合わせないように休憩所に入れなくなってしまった。仕事中はそれぞれの持ち場から離れられないので大丈夫なのだ。Hさんの奇行は更にエスカレートし、仕事中に突然大声を上げたり、とんでもない時間に出勤してきて、休憩所のベンチでずっと横になっていたりするようになった。昼夜二交代の現場だから反対番の組がその時間はいるのだが、Hさんは目をギラッと開けたまま薄笑いを浮かべて横になっているので、とても気味悪くて怖かったそうだ。反対番の組の人はHさんのことは知らないのだから、そういうのがベンチを一つ占領してさぞ困っただろう。そしてある夜、部屋で何かを大声で喚いているHさんに気づいてAさんが見に行ったら「そうなんです!世界は滅亡するんですよ!」とHさんが耳に手を当てて誰かに電話している様子だった。ところはその手をよく見たら携帯電話はなかったのだという。20年以上前だから携帯電話はまだそんなに普及していなかった。電話もないのに大声で訳が分からない話を誰かに電話しているように話しているHさんを見たAさんはゾゾーッと総毛立ち、急いで自分の部屋に戻って襖のそばで震えながら夜を過ごしたそうだ。襖だけで鍵がかからない隣の部屋だから、Hさんが襲ってきたらどうしようと心配でまんじりともできなかったと言う。もう一人の同室のナカゾノさんはその夜は夜勤でいなかった。次の朝Aさんが寮の管理人に事の次第を訴えて、その他にも以前からの奇行があったのでこれ以上働くのは無理と判断され、Hさんは高知県から迎えにきた親族に連れられて帰って行った。その親族によると、Hさんは以前に精神を病んで入院していたのだそうだ。この頃は良くなったのでまた働きだしたのだが、悪くなったきっかけはどうやらこの前の飲み会らしい。Hさんは退院してからはアルコールを控えていたのだが、せっかく誘われたので我々との飲み会に参加し、その後また飲むようになってからどんどんおかしくなったようなのだ。後からわかってきたことだがK君はけっこう裏表がある人間だった。だから本当にHさんの悪口を言っていたのかも知れないが、それにしてもHさんの被害妄想はひど過ぎた。やはり酒を飲んだのが悪かったのだろう。あのままずっとアルコールを控えていたら、Hさんが発症することはなかったのかも知れない。たまにHさんのように酒を飲むと一人で大はしゃぎし、周りの顔色を全然見なくなる人がいるが「こいつもHさんみたいな狂人じゃあるまいな?」とちょっと心配になる。Hさんが隣の部屋で「そうです!世界は滅亡するんですよ!」と喚いているのを一晩中聞いていたAさんの心境を思うと「大変だったろうな」と同情もするが、少しおかしくもある。私は今までたくさんの人達と同じ部屋で暮らしたが、こんな狂った人と一緒にならなくて本当に良かった。
2021年04月21日
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以前は本の虫だったが、15年前にパソコンを買ってからはすっかり本を読まなくなった。老眼が進んだこともあるが、パソコンを見てたら読書している時間がないのが一番の原因だ。それでも歴史好きなので、歴史の本だけはたまに買って読む。特に戦国時代と日本人のルーツ関係に惹かれる。日本人のルーツについては20代のころから興味があって、今までに何十冊も買っているので重複している部分が多くて、なかなか目新しいことは書かれていなかったりするが、DNAから人類の移動などがわかるようになってからは、また新発見が続々と出てきて面白くなった。最近買った本のなかで私が意外に思ったのは、そういう遺伝子のことではなくて「アイヌ人は歯が小さい」ということだった。現代の日本人は古い時代に日本列島に渡ってきた縄文系と、稲作を日本に持ち込んだ弥生系の血が混じってできているらしい。アイヌ人や南方の沖縄、奄美の人は縄文人の直系の子孫なのだそうで、アイヌ人が歯が小さいのは縄文人の遺伝らしい。現代人は一般に歯が小さくなる傾向だそうだが、縄文人は弥生人よりは歯が小さく、現代のアイヌ人は周辺の民族に比べてとても歯が小さいのだそうだ。そこでやっと本題だが、私も前歯がとても小さい。奥歯の大きさがほかの人に比べて小さいのかどうかは、比べたことがないのでわからないが、前歯の上二本と下三本は発育不良のまま止まってしまったように小さい。これは私だけでなく、男兄弟は皆そうだから親からの遺伝だと思う。両親とも私が気づいたときには入れ歯をしていたので、どっちからの遺伝かわからないが、これも私に流れる縄文の血のせいなのかも知れない。私は弥生よりは縄文の特徴を多く持っているようだ。私の縄文の特徴というのは、胸毛があるとか、耳垢が湿っているとか、胴長短足とかだ。私は美男子だった父の遺伝をいくらか受け継いだので、黙っていればそこそこの男前と言われるが、いかんせんこのすきっ歯のおかげで、口を開くと間抜けな顔に見える。志村けんの「変なおじさん」を見たらわかるように、前歯が欠けているのはずいぶんおかしなものだ。見てくれだけでなく、前歯が小さいのは実際の生活でも不便だ。まず、麺が噛み切れない。前歯のすき間にある麺はどうしても残るから、顔の角度を変えてもう一度麺を噛まなければいけないのだ。それに前歯に舌をつけて発音する「す」と「つ」がとても言いにくい。もともと東北人で「い」と「え」の発音がうまく言い分けられないのに、こういうハンデもあるから困ったものだ。そこで二十歳のころ、上の前歯二本に金属をかぶせてもらって、その間の2mmほどのすき間もふさいでもらった。これで麺を一度に噛み切れるようになったし「す」と「つ」をちゃんと言えるようになって万々歳だったが、前歯のすき間をふさいでいた金属はいつの間にか取れてしまって、今ではまた前歯にはすき間がある。それでも小さい歯に金属をかぶせてもらった分大きくなったから、昔ほどの不便さはない。噛み切れないで残る麺は、せいぜい1本か2本程度だ。うさぎみたいに大きな前歯がある人がうらやましいぜ。
2021年04月20日
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猫は自分が捕った獲物をなぜか飼い主に見せたがるものだ。実家で飼っている猫は、小さなときからずっとペットフードばかり食べて、テーブルに乗っている人間の食事には見向きもしない。たまにネズミや小鳥を捕ることがあるが、自分では食べずにうちに持ってくるので、いつも兄嫁に叱られている。だから最近は家の中には持ってこなくなったが、玄関など人目につくところに獲物を置いている。見て褒めてほしいのだろう。私が子供の頃うちで飼っていた猫も、ネズミを捕ったら必ず人間のところに持ってきて見せてから食べていた。親や祖父母は猫がネズミを捕まえたのを褒めてやるから、猫にとってはそれが気持ちいいのかも知れない。あるとき一家揃って夕食中にネズミを捕まえて来て、まだ生きているネズミをちょっと放してからまた捕まえたり、さんざんいたぶってから食べていた。田舎の茅葺の大きな家の座敷だからかなり広くて、同じ部屋と言っても食卓からだいぶ離れてはいるが、皆が見る方向のテレビの真ん前に陣取ってそんなことをやられたので、せっかくの晩御飯も何を食ってるのかわからないぐらい不味かった。いつも猫がネズミを捕ってきたら褒めている手前、こんなときだからと叱るわけにはいかないし、全員そっちを見ないようにして黙々とご飯を食べていたのを覚えている。猫にとっては家族皆と一緒に晩御飯を食べられていい夜だったろう。今の時代の人ならこんな状況ではとても飯を食ったりできないだろうが、昔の人はメンタルが強かったのだな。私の友人は、子供の頃親戚の家に泊まりに行って、そこの猫にご飯のおかずを分けてやったりして可愛がったのだそうだ。すると翌朝目が覚めたら、枕元にネズミの死骸があったのでびっくり仰天したという。どうやら猫が可愛がってもらったお礼に、友人が寝ている間にネズミを捕って来てプレゼントしていったらしい。この友人はものすごく小心者なので、そのときのことを想像すると今でも笑いがこみあげてくる。
2021年04月19日
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今までに車の中に鍵を閉じ込めてしまったことが数回ある。 そのうち二回は山のなかでやってしまって、これは困った。 最初のときはまだ窓が手動で動かす式で、少し上の方を開けていたので、手で揺さぶりながら強引に少しづつ押し下げて窓を開けて、運転席に手を入れてロックを解除することができた。 もうかなりオンボロで窓がガタガタしていたのも幸いした。 そこでそういうことにならないように、車の下に磁石でひっつくキーケースをつけて予備キーを持って歩くことにした。 二回目は20年ほど前八甲田の山の中でやってしまったのだが、そのキーがあるので安心していた。 ところが、車の下を見るとキーケースがない!? どうやらいつも山の中のデコボコ道ばかり走っているから、振動でだんだん端の方にずり寄って行って落ちてしまったようだ。 さあ、これは困ったぞ! 今度も運転席側の窓は上の方をほんの少しだけ開けてあるが、この軽トラは新しいのでもう手動で窓を開ける式ではない。 当然いくら揺さぶっても窓はこれ以上開かない。 しかも、買ったときのサービスで大きな窓カバーをつけてもらったから、窓が開いている割に手を入れられる余裕はない。 ここは八甲田の山の中の、人があまり通らない林道の更に枝分かれした支道だから、いくら待っても人が来ないようなところだ。 あまり時間がかかるようでは暗くなってしまうし、まず熊が心配だ。 こんな時に熊が出てきたらどうしようもない。 いざとなれば窓ガラスを破ればいい話しだが、できればそれは避けたい。 私は自分のバカさ加減を呪いながら、窓ガラスの向こうのキーを恨めしく眺めた。 そこで何とかキーを取り出そうとあれこれ考えた。 キーには大きなホルダーがついているから、それを引っかけてなんとか取れないものか? と言っても、窓はほんの少ししか開いてないので、木の棒を差し込んでもキーのずっと斜め上のあたりをウロウロするだけだ。 それなら紐で釣れないか? 私は山を歩くときは直径4ミリほどの細引きを持っているから、その紐の先端に輪を作ってドアのロックを引っ張って解除しようとしたが、ロックは細いし、先端がほんの少しふくらんでいるだけなので、うまく輪が引っかかってくれない。 ならばキーを引っ張って取ろうと思って車内に垂らしてみたが、とてもキーには届かない。 そのとき、棒を使って紐をキーの上まで持っていくアイディアが浮かんだ。 先が二股になった細い枝を探し、その二股に紐を垂らして車内に入れる。 それから枝をキーの上あたりにくるようにして紐を少しづつ下ろした。 次に紐をうまく操作して、輪の一番下がなんとかキーホルダーの下まで来るようにしてから、輪をキーとホルダーの間に入れた。 狙うはキーとホルダーをつなぐ鎖だ。 少しづつ少しづつ、クイックイッと紐を上げるとうまく輪がしまっていく。 あまり強く引くと輪がホルダーから外れたり、キーを抜いてしまうかも知れないから焦りは禁物だ。 人っ子一人いない深山で、いつ熊が出やしないかビクビクしながら、気持ちをなるべく平静に保った。 それでなんとか鎖を輪でしっかり縛ることができた。 次はキーをイグニッションから抜かなくてはいけない。 抜くのに失敗したら、床に落ちてしまって状況は更に悪くなる。 上から紐を引っ張ってみてもキーは抜けなかった。 キーを抜くには真横に引っ張らなきゃだめだ。 そこで枝を一回外して、紐を引っ張ったまま枝をなるべくキーの近くにひっかけて手前に引くと、キーは見事に抜けてくれた。 幸い下に落ちることなく紐にブラブラぶら下がっている。 やれうれしや、これで助かる。 これでようやく車のドアを開けることができたときは「自分で自分を褒めてあげたい」気分だった。 キーを閉じ込めてしまってからすでに1時間はたっていた。
2021年04月17日
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この前青森市であおり運転で捕まった人がいて、去年あおり運転を防止するために法律が改正されてから、青森県では初めての検挙だそうだ。捕まったのはドライブレコーダーの映像が決め手になったそうで、やはり今のご時世ドライブレコーダーは必要だと思った。私も二年半前に今の車を買ってから、ヒュ-レットパッカード社の前後が映るドライブレコーダーを取り付けて運転している。幸い今までこの映像が必要になったことはないが、たまに映像を見たことはあった。この間家の近くまで来た時に、道の下の田んぼを狐が走っていて「田んぼの向こうは中村川だしどこに行くんだろう?」と思いながら見ていたら、いきなり道に駆け上がって車の前を横切って山に消えて行った。とっさのことでカメラが間に合わなかったが「そうだ、ドライブレコーダーの映像がある」と思い出して、家に帰ってすぐ確かめたら、直前の映像はあるが狐が横切った5,6分前の映像がない。私のドライブレコーダーは1分ごとの映像が30個あって、古い順に上書きされるようになっているのだが、そのときは直前2分のがあって、それ以外は何時間も前の昨夜の映像しか残ってなかった。これではいざという時に役に立たないぞ。検索してみると、ドライブレコーダーの記憶媒体のSDカードは月に一回ぐらいは初期化してやらないと、すぐに劣化してしまうそうなのだ。そんなこととは知らず、今まで一度も初期化などしてなかった。とりあえずそれからはちょくちょくSDカードを初期化するようにしたら、今のところはちゃんと30分映っている。SDカードは消耗品らしいから、ケチケチしないで新しいのを買わなきゃいけないと思っているが、まだ買ってきてない。何かあったとき映ってないと、せっかくのドライブレコーダーが宝の持ち腐れだ。ところで、この前映像を再生したら私の独り言や歌などもしっかり入っていて、もし事故があった時にこれを誰かに聞かれたら、かかなくていい恥をかくことになるなとヒヤッとした。音声をオフにすることができるので、その後は音は入れないようにしている。私の下手な歌を聞かされた警察官が「事故を起こしたのはこいつだ!」と言い出したら、ドライブレコーダーをつけたのが藪蛇になってしまう。
2021年04月16日
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十年以上前に「村田英雄の伝説」というのを二篇書いたが、あれから新しいネタを聞いた。玉置宏が言っていた話らしい。村田英雄も三波春夫も三橋美智也も背が低かった。あるときこの三人が明星の表紙の写真を撮ることになり、三波春夫が中央で両脇に村田英雄と三橋美智也が並んだのだが、シャッターを切る瞬間に三波春夫が背伸びをしたので、以後三橋美智也と村田英雄は三波春夫の悪口を言って仲良くなったのだそうだ。私が覚えている三橋美智也はいつもロンドンブーツを履いていた記憶があるから、やはり背が低いのを気にしていたのかなと思う。三波春夫と村田英雄が身長を気にしているのを聞いた覚えがないが、やはり三人とも気にしていたんだな。
2021年04月15日
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昨日津軽藩には石田三成の娘が逃れてきて、彼女が産んだ子が三代目の藩主になったと書いたが、その娘の兄か弟か知らないが息子も逃れてきていたらしい。その息子は名前を「杉山」と変えて代々津軽藩に仕え、なんと忍者集団を率いていたのだというから驚きだ。その石田三成の子孫が住んでいた住居が弘前市にまだ残っていて、よく調べたら床の間の裏に人が隠れる隙間があったとか、忍者屋敷らしい仕掛けがいろいろあるというのだ。この津軽藩の忍者集団は「早道之者」と呼ばれていたらしい。忍者の呼び方としては、伊賀や甲賀、後北條が使っていた風魔、信玄が使っていたという素破、謙信が使っていたらしい軒猿というのが時代小説のなかでおなじみだが、早道之者というのはかなりマイナーな名前だ。昔何かで早道之者を聞いた覚えがあって、私の好きな藤沢周平の小説には「嗅足組」というのが出てくるが、それと同じく誰かの創作だと思っていたら、実在した忍者集団だったんだな。しかもここ津軽藩にいたとはビックリだ。津軽藩と石田三成の関係については、昨日の記事の「満天姫」で触れた。津軽藩祖「津軽為信」は家の存続を考えて、大阪には長男の信健を置き、江戸には三男(次男は早逝)の信枚を仕えさせた。信健は為信の前に死んでしまったが、信健の縁で石田三成と繋がりができ、関ケ原の戦いの後は三成の娘の辰姫を津軽に匿った。その後津軽藩を継いだ信枚が、辰姫を満天姫が嫁いでくるまで正室としていた。そして満天姫を正室として迎えた後も辰姫を上州の領地に隠し、先に生まれた辰姫の子を正室である満天姫の子を差し置いて三代目藩主に据えた。ということを昨日書いたが、実は辰姫だけでなく石田三成の息子も津軽に落ちのびてきて、名前を「杉山」に変えてその後津軽藩の家臣として代々仕えていたとは。しかもその杉山が忍者の棟梁を務めていただと!?あまりにストーリーが奇想天外過ぎて、小説ならかえって信用されないレベルだ。昨日の満天姫では、津軽藩を幕府の忠実なシンパにするために家康の養女を嫁がせたと書いたが、津軽家は秀吉のおかげで南部氏から独立できたから実は秀吉のことを敬愛していて、弘前城の守り神「館神」は秀吉の木像をご本尊として祀ってあったそうだ。もちろんこのことは幕府に知られてはならない極秘なので、絶対にバレないように館神像の裏に隠されていたのだという。いやぁ~青森県は奥が深いな~
2021年04月14日
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この前「釣魚大全と吉良上野介」で津軽家の黒石分家のことを書いたが、この黒石津軽家の初代は、津軽家三代目の信義の腹違いの弟の津軽信英(のぶふさ)で、母親は徳川家康の養女格として津軽家に嫁いできた「満天姫」(まてひめ)である。徳川家康の母は「水野忠政」の娘で「松平広忠」に嫁いで家康を産んだが、父の死後、兄「水野信元」が織田方に付いたために家康を置いて離縁させられ、その後「久松俊勝」と再婚して男児を三人産んだ。満天姫の父はその家康の異父弟「久松康元」である。満天姫は最初、伯父家康の養女として「福島正則」の養嗣子(姉の子)正行の元に嫁いだ。豊臣秀吉の死後は大名の間で勝手に婚姻してはならないと決められていたのを、あえて破って関ヶ原の遠因を作り出した、きわめて政治的なキナくさい結婚だった。福島正則は関ヶ原での功績を認められて一躍五十万石の大大名になったが、その後実子ができたために養嗣子とした姉の子正行が邪魔になったのか、それとも正行がそれを気にし過ぎて狂ったのか、とにかくおかしくなったということで満天姫を離縁させて徳川家に返した。満天姫はその時正行の子を身ごもっていたが、誰も欲しがらないので実家に戻って自分で育てていた。その後、北辺の地に忠実なシンパが欲しい徳川家が、津軽家に満天姫をくれてやることで一門並みにすれば忠誠に励むんじゃないかということで、満天姫はまたしても家康の養女として津軽家に来たのだった。徳川幕府が津軽家に期待したのは、北方の蝦夷地の警備もさることながら「関ヶ原のときの動きが怪しかった」という理由だけで、常陸からはるか北の出羽の地に追い払った佐竹家を見張ってほしかったのだろう。幕府は佐竹家の南には徳川四天王の酒井忠次の孫の酒井忠勝を置いたが、北からも佐竹家を睨みつけて謀叛心を起こさないように、津軽家を親藩として取り込みたかったのだ。いや、私が考えた説ではないが。ところが問題は、津軽藩二代目藩主「津軽信枚」にはそのときすでに妻がいたのだ。それは石田三成の三女辰姫である。信枚の兄「津軽信建」は大阪にいて、石田三成の息子とも親交があった。真田家もそうだったが、当時の大名は息子のどちらかを大阪に置いたらもう一人を江戸に置いて、どっちが勝ってもいいようにバランスをとっていたのだ。その縁で石田三成の死後、辰姫は津軽家に匿われていたのだが、信建が父為信より先に死んだことで二代目になった信枚は、辰姫を見初めて妻にしたのだった。しかし将軍家が養女を嫁にくれると言うのに、「天下の罪人石田三成の娘がいるからけっこうです」と断れるはずがない。信枚は泣く泣く辰姫を離縁したがあきらめきれず、関ヶ原の論功行賞で貰った上州の津軽藩の領地に辰姫を隠し、参勤交代の途中には寄って行って睦みあったらしい。信枚は津軽藩主のなかでは名君だったと評判だが、女に関しては優柔不断だったのか?ちなみに津軽家の飛び地の領地は今の群馬県太田市の尾島で、今でもその縁でねぶたを運行するらしい。満天姫は最初の結婚を不幸な形で終わり、二回目も夫には全然歓迎されてないと知ったときはさぞがっかりしただろう。それでも信枚はすることはちゃんとして満天姫との間に男児が生まれたが、実はその一年前に上州の辰姫との間にも男児が生まれていたのだ。信枚は先に生まれた子を跡継ぎにしたいと満天姫に懇願したらしいが、満天姫とすればハラワタが煮えくりかえる思いだったのではないだろうか?武家であれば生まれの後先は関係なく、正室の子供が跡を継ぐからだ。ところが辰姫が幼子を残して死んでしまったために満天姫も覚悟を決めて、その「平蔵」と名づけられた男の子を自分の元に引き取り養育した。これが津軽藩の三代目信義である。(だから津軽藩の三代目は石田三成の孫ということになる)満天姫が生んだ子は津軽信英と名乗り、津軽藩の分家「黒石藩」の祖となった。一方、満天姫が福島正行との間に生んだ連れ子は、津軽藩の家老「大道寺家」に養子にやって大道寺直秀と名乗っていた。こいつがまた厄介な性格で、なんといっても家康を大伯父に持ち、福島正則の義理の孫であるという自負があるので、津軽藩の跡継ぎになれないか、それがだめなら改易させられた福島家を再興して自分が当主になれないかとずいぶん画策したようだ。四万五千石の津軽藩の家老になれるだけでもずいぶんラッキーな人生の気がするが、五十万石の福島正則の孫としてみればチャンチャラおかしかったのか?信枚の死後、髪をおろして「葉縦院」と名乗った満天姫は、その不肖の息子の行動が津軽藩を危うくする恐れがあったために何度も諌めていたらしいが、直秀が福島家再興のために江戸へ行くと挨拶にきたときに、とうとう毒を盛って殺してしまったという。津軽家を守る為の決断だったのだろうが、自分が腹を痛めた子供が毒で苦しみながら死ぬのを、満天姫はどんな思いで見ていたのだろう?満天姫はそれから二年後に49歳で亡くなった。戦国時代の大名の家に生まれた女たちは政略のための道具として結婚させられ、ときには親兄弟とも戦ったり子供を殺すはめになったりと辛いことが多かったが、満天姫の一生も幸薄く悲しみばかり多いものだったと思う。唯一の救いは息子の津軽信英が英明であったことだろうか。信英は後年、幼い四代目を残して死んだ兄信義に代わり、四代目が成長するまでしっかり津軽家を守った。草葉の陰の満天姫も、己れを犠牲にして津軽家を守った甲斐があったと喜んでいたことだろう。
2021年04月13日
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篠田達明という人が書いた「徳川将軍家十五代のカルテ」という本があって、その中に徳川綱吉の身長は124cmしかなかったのではないかと書いてある。徳川家の本来の菩提寺は、愛知県岡崎市にある大樹寺だった。そこで、将軍が死ぬと遺骸は増上寺に埋葬されたが、身長と同じ高さの位牌を作って、これは大樹寺に納めたのだという。この大樹寺の綱吉の位牌が124㎝しかないのだそうだ。綱吉は学問好きで老中たちに論語を講義したとか、異常に母親孝行をしたとかの逸話がある一方で、家臣の妻やその娘までセックスを強要したという話も残っているし、世界的にも悪法として有名な「生類憐みの令」を発布したりして、私は明らかに精神がおかしい人間だと思っていたが、これが低身長症による強烈な劣等感から来ていると考えると納得できる。この本には十代の家治、十三代の家定、その次の家茂も脚気で死んだと書いてある。日本の最高権力者でどんな贅沢もできたはずの人間が、三人も脚気という栄養不良で死んだとは意外な話だ。家茂は甘いものが好きで虫歯だらけだったという話は以前聞いたことがあったが、甘いものばかりでもビタミンを摂っていれば脚気にはならずに済んだだろうに、玄米でなく白米しか食べなかったからあたら21歳の若さで死んでしまった。脚気は別名「江戸患い」と呼ばれたそうで、江戸時代初期には皆玄米を食べていたから脚気にはならなかったが、その後精米してせっかくのビタミンなどを含む小糠を捨て去った白米を食べるようになってからは、少量のおかずと白米しか食べない江戸っ子の間で脚気が大流行したのだ。家定は暗愚であったという説が世間に流布しているが、篠田さんは医者の立場から家定は脳性麻痺で、手足や口は不自由だが知能は人並だったんじゃないかと推測している。同じような症状は、吉宗の跡を継いだ九代の家重にも見られるそうだ。私には専門的なことはわからないが、いくらお飾りとは言えまるっきりの阿保では具合が悪いだろうから、篠田先生の説は妥当かなと思う。時代劇や小説だけでは歴史の真実からは外れてしまうから、たまにはこういう本も読まなきゃダメだな。
2021年04月12日
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青森県の三内丸山遺跡は、今改修工事をしているらしい。私は11年前にここを見に行ったことがある。ご承知のように、ここは5500年前から4000年前にかけて栄えた、縄文時代の巨大な集落の跡である。今まで未開の狩猟採集文化しかなかったと思われていた縄文時代に、こんな大きな集落が1500年間も続き、大きな建造物がいくつもあって、栗や豆、エゴマ、ひょうたんなどを栽培していたというのがわかって大きな驚きを与えた遺跡である。 まず1500年間も一ヶ所に定住していたというのが凄い。今から1500年前というと日本では古墳時代で、それから現代までの変化に富んだ長い道のりを考えると、縄文時代のゆったりと穏やかで安定した暮らしがしのばれる。ちょうどこの頃は気候が温暖で、平均気温が今より2℃ほど高かったらしい。だから極地や高山の氷が溶けて海面が高くなり、今では陸地の奥深くのここも、当時は海からそんなに離れていなかったという。縄文中期は縄文時代でもっとも人口が多かった時期で、その頃の人口は東北地方が全国で一番多かったそうだ。もっとも人口が多かったといっても、日本全体で25万人ほどだったと推定されているのだが、世界の狩猟採集民族としてもっとも完成されたと言われている北アメリカのナバホ族に比べても、人口密度がずっと多いらしいから、いかに縄文時代中期の人々の生活が恵まれていたか想像できる。 三内丸山遺跡の集落では約500ほどの住居跡が見つかっており、それが全部同時期にあったわけではないが、常にだいたい100軒ほどの家があったのではないかと言われている。一軒に五人暮らしていたとして「最大で約500人は住んでいたのではないか?」という説があるが、「それでは多過ぎる」という説もある。ともあれ、同時期の他の集落に比べたら、都会と言っていいぐらい人が多いところだったようだ。 下の画像はその集落の中でもっとも大きな建造物で、確かにこういう建物があったのはわかっているが、どういう目的に使われたのかはまだわかっていないのだそうだ。全長が32mもあり、幅は10m、屋根の一番高いところは9mもある巨大なものだ。 中に入るととても居心地がいい。集会所説や作業場説、冬の間の合宿所説があるが、私はなんの根拠もなく冬の合宿所説を支持したい。外を寒風が吹きすさぶ厳冬期でも、ここに一族が集まって暮らしていれば何も心配することはなかったと思う。 そのすぐ側には高床式の建物が三棟ある。 ひとつは校倉造というか、ログハウス式に壁が材木を積み上げて作られていて、残る二棟の壁は他の竪穴式住居と同じ葦を使っている。こういう高床式の家は、今でも中国の雲南省の西双版納(シーサンパンナ)の、タイ族の居留地域に行けばたくさんある。しかし、少なくとも4000年前にはすでにこの地にあったのだ。用途は倉庫か、来客を泊める施設と考えられているらしい。 巨大な建物の横には、三内丸山遺跡というと必ず出てくる大きな櫓が造られている。 実際はここよりもう少し離れた場所にあったらしくて、下の画像はその実際に立てられていた直径1mもある栗の木の柱の跡である。これも使用目的がなんなのかわからないので、あえてこういう形に復元したのだそうだ。下はこの建物が何かいろいろな説を並べた看板である。 物見櫓だったとする説もあるが、私にはこれがただの物見櫓とは思えない。物見櫓をこれほど大きくする必要はないからだ。おそらくこれには屋根が架けられて、はるか遠くからでも見えるこの集落のシンボルであったように思う。神殿か、祭祀用の建物か、どちらにせよ神を畏れ敬う気持ちが、こういう巨大で(当時としては)天に届くほど高い建造物を造らせたように感じる。 この下の画像は一般庶民が住んでいた竪穴式住居の復元。これもいろいろなサイズがあったようで、何種類か復元してある。はるか5,000年前に、ひょっとしたら私のご先祖様もこうして暮らしていたのかと思うと、何かここが自分のふるさとのような気がしてきた。
2021年04月11日
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私は釣りをしないが、敬愛する「開高健」さんが釣り好きで、よくアイザック・ウオルトンの「釣魚大全」をエッセイの中に登場させるので、これが400年近く前に書かれた釣りの本なのは知っている。一説には、世界で聖書の次に読まれている本とも言われているらしい。 ところが日本でもおよそ300年前に、釣りのことを書いた本がすでにあったという。それが津軽采女(うねめ)が書いた「何羨録(かせんろく)」で、津軽采女は津軽家の分家「黒石津軽家」の三代目のお殿様である。黒石津軽家は津軽藩三代目「信義」の腹違いの弟「信英(のぶふさ)」が4000石を貰って作ったもので、幕末近くにはさらに6000石を貰って一万石の大名になり黒石藩になったが、采女のときはまだ大身の旗本の身分で、采女自身ずっと江戸で暮らしていた。だからすることもなくてヒマだったのか、趣味の釣りに没頭したようだ。 何羨録は采女が50歳代に入ってから執筆を開始し、55歳の享保8年(1723年)に著したものらしい。内容は主に、江戸湾のキスの釣り場や釣り道具、釣期、気象などの紹介だそうだ。この本が出る以前から釣りの本はあったようだが、今まで残されてないので、この何羨録が日本における最古の釣りの本になるようだ。津軽采女は、本当はそれ以前から釣りについて書きたかったのかも知れないが、綱吉の「生類憐みの令」というものがあった時代なので自重した可能性がある。 この人の奥さんはあの有名な「吉良上野介」の娘で、名は「あぐり」という。吉良に切りつけてお家を潰した浅野内匠頭の奥さんの名も「あぐり」だったから、奇しくも浅野内匠頭の奥さんと吉良の娘は同名だったのだ。ついでに言うと、その時の将軍綱吉が自分の家来の「牧野成貞」に「お前の奥さんを抱いてみたい」と言って、一晩貸してもらったその奥さんの名前も「あぐり」だった。綱吉は更に牧野成貞の嫁いだ娘まで抱きたいと言い出し、妻を将軍に犯された夫は怒りのあまり切腹し、犯された娘も自害したそうだ。綱吉は世界的にも悪名高い「生類憐みの令」で有名だが、その品性は下劣な人間だった。それはさておき、津軽采女は赤穂浪士の討ち入りがあった翌朝、吉良邸に家来を引き連れて駆けつけて、その惨状に驚いたという。実はそれよりだいぶ前に奥さんのあぐりは亡くなっていたのだが、采女は舅の上野介のことが心配だったのだろう。上野介の実子は米沢上杉家の当主「上杉綱憲」で、綱憲も知らせを聞いて出馬しようとしたが、家臣に止められて果たせなかったという。実子でさえ助けに行かなかったのに、何年も前にたった一年しか一緒に暮らさないで死んだカミサンの父親の危急に駆けつけるとは、津軽采女は義理堅い人だったのかも知れない。 津軽の殿様が吉良上野介を藩邸に招いてご馳走したら、そのときの米があまりにまずかったので、上野介が「こんなまずい米を食べたことがない」とズケズケと言い放ち、それに対して恥をかかされた津軽の殿様は浅野内匠頭のように激怒せずに、ニヤニヤ笑って相手にしなかったというエピソードがあるが、津軽の殿様が吉良上野介を自邸に招いたのはこの采女と縁があったからだろう。津軽藩邸で食べた米が津軽の米なら、当時の米としては全国で最低レベルにまずかったに違いないが、招いてもらってそんなことを言う奴は殺されても仕方ないと思う。津軽の殿様が浅野内匠頭のように短気を起こして吉良を殺していたら「忠臣蔵」は生まれなかったんだな。 津軽采女は何も悪いことはしていなかったのに、吉良邸に駆けつけたのを悪く取られたのか、その後出世はせず、そのためにますます趣味の釣りにのめりこみ、こういう後世に残る名著を著すことになった。世の中というものは因果応報、あれこれ複雑に絡み合ってどんな結果が出るのか全然わからないから面白い。
2021年04月10日
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東日本大震災が起こって10年になり、当時はあれほど原発反対の声が高くなったのに、この頃は当時ほど原発反対の声が上がってないような気がする。この前は新聞に「脱原発は中共の罠」という、どこかの理学博士が書いた本の広告が載っていて、惹句を見ると「日本が核開発から離れている間に中共は核兵器を乱開発するつもりだから原発をやめてはいけない」というくだらない内容らしい。この理学博士は、原発を続けることで未来の人類に10万年以上も核のゴミを管理させ続けることと、できてからたかだか数千年しかたってない国家という集団同士の争いに、絶対使えない核兵器を使いたがることを同列に考えている。いまどき核兵器を戦争に使おうと思っている国は、アメリカと北朝鮮ぐらいだろう。使えば相手国の無数の一般大衆を殺し、地球にも大きなダメージを与え、永遠に「核兵器を使った国」のレッテルを貼られる兵器を、まともな大人が運営している国が使えるわけがない。核兵器は脅しにしか使えない兵器なのだ。こういう本を出しても真に受ける人は少ないと信じたい。そんななか見過ごせないのは「原発は二酸化炭素を排出しない」と温暖化対策と絡めて語られることで、原発を使えば温暖化を避けられるかのようにPRしていることだ。 もちろん、これは大噓である。 原子力発電をするときには二酸化炭素が出ないだろうが、その前の原子力発電をする準備の段階で様々に化石燃料を使っているし、使用済み核燃料や核廃棄物はその後10万年というとんでもない期間、人類が管理し続けなければいけないのに、それにかかるコストはまったく考えられてない。 よくも「原子力発電では二酸化炭素が出ない」と言えたものだ。 それに、原発を使えば温暖化を避けられるという話には、温暖化の脅威より放射線の脅威のほうが環境に優しいという嘘も含まれている。 この地球に今まで何回も温暖化が起きたことは、大人なら一般常識としてわかっているはずだ。 46億年前の誕生当時の原始地球は、表面がどろどろのマグマだったから温度はめちゃくちゃ高くて温暖化どころじゃなかったし、放射線量も今よりずっと多かった。 何も遮るものがなかったから、宇宙からも容赦なく放射線が降り注いでいた。 地球表面が冷えると海ができ、最初は100℃もあった海もだんだん冷めてきて、40億年ほど前に海の中で生命が誕生した。 その後は全球凍結などもあったが、何回も温暖化と寒冷化を繰り返して今に至る。 一方放射線は、岩石から出る量が長い年月をかけてだんだん減り、地球内部の運動によって磁場ができてからは、宇宙から降り注ぐ量も劇的に減った。 27億年ほど前に、シアノバクテリアという光合成をする生物が現れて酸素を生み出すようになると、海からやがて大気に出た酸素によってオゾン層ができて、有害な太陽からの紫外線が減り、生物は陸上でも生きられるようになった。 それ以後は、生命が生きられないほど放射線が高くなるということはなかった。 何回かあった大絶滅は、宇宙からの放射線が強くなったからという説もあるが、それにしても何億年も前のことだ。 地球の歴史のなかではつい最近の1万年前まで、温暖化と寒冷化が何回も訪れていたのとわけが違う。 地球が温暖化することと放射線の量が増えることでは、そもそも問題のレベルが違うのだ。 同じ文脈で語るほうがおかしい。 我々は暑い寒いを感覚でわかるが、危険なほど放射線の量が多いかどうかを感じることができない。 地球上の生物は、強い放射線に曝されるとなんらかの悪影響を受けるが、放射線量が感覚でわかる動物は、この地球上ではごくわずかしかいないらしい。 それほど昔から地球上では、放射線量が感知しなくていいほど安全なレベルになっていたと考えられるだろう。 もし危険なほどの放射線がそこら中にあれば、生物はそれを避けるために放射線を感知する能力が身につくはずだからだ。 地球は長い年月をかけて、放射線から生物を守るように進化してきたのだ。 逆に考えれば地球の生命は、今ぐらいの放射線レベルでしか生きられないように進化してきた。 それなのに今の人類は、刹那的な欲望を満足させるために、この生命の楽園の地球を放射線だらけにしようとしている。 もちろん、温暖化したら我々人類の生活は大変な影響を受けて困るわけだが、だから今まで数十億年も放射線から生命を守り続けてきた地球環境を、原発で放射線だらけにしていいことにはならない。 全然違う事柄を関連づけて、世論を間違った方向に引っ張ろうとする連中に騙されないようにしよう。 地球の生命は、今まで何回も起こった温暖化や寒冷化に対応して生き延びてきた。 環境が大変動すると、対応できずに絶滅する動植物が出てくるのは自然の摂理だ。 今までの地球の歴史は生命の絶滅の歴史でもある。 どんな生物もいずれは絶滅する。 我々人類もいずれは絶滅するのだろう。 今回の温暖化が起きなくても、いずれまた温暖化は起きるし、寒冷化もまた起きるらしい。 温暖化や寒冷化よりも放射線が増えることのほうがマシだという考えは、地球の歴史を見れば間違っているのがわかる。 私は、今度の温暖化で動植物が絶滅するのは仕方ないと言っているわけではない。 今回の温暖化が人類の野放図な欲望のために引き起こされたのなら、人類は責任をもって元通りにしなければならない。 それは当然だ。 だが、そのために地球を放射線だらけにするのなら、状況は良くなるどころかさらに悪化すると言っているのだ。 これ以上の温暖化を防ぎたいなら、もっとも有効な方法は人類の欲望を制限することだ。 現代人はこのサイズの体なのに、巨大な恐竜よりはるかに多いエネルギーを使って生きている。 動物は自らの体を動かすことでしかエネルギーを使わないのに対して、現代人は生活するのにあれこれ燃やしたりして膨大なエネルギーを消費しているからだ。 こんなのが70億もいれば、そりゃ地球もパンクする。 「あれもほしい。これもしたい。それも食いたい」と言いながら温暖化は防止しようとするから、それなら二酸化炭素は出ないが放射線が出る原発にしようという発想になるのだろう。 思い違いも甚だしい。 地球は今生きている人類だけのものではない。 40億年かかって共に進化してきたたくさんの生物が生きているし、これから生まれてくる人類だっている。 地球を汚染し、経済効率も悪い原発はすぐ廃止すべきだし、生命40億年の歴史から見たら実にくだらない、チッポケな主義主張のために環境を破滅させる核兵器は、すぐ使用禁止にしなければならない。 人類は傲慢な思い上がりを捨てて、自分がどれほどバカな生き物なのかを自覚してもっと謙虚になるべきだ。 今回のコロナ騒動を「自然からの人類に対する警告」と捉える人がいるが、私もそんな気がする。 人類は今みたいに欲望を無制限に肯定していたら、いずれ自らの欲望の重さに圧し潰されて破滅するだろう。 この大きさの人間一人が生きるために使うエネルギーが、巨大な恐竜より多いというのは明らかにおかしい。
2021年04月09日
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昨日の東奥日報の記事では、去年青森県で熊が目撃されたのは400件以上あったらしい。私は4月から11月までは山菜や茸を採りにしょっちゅう山に入っているから、野生の熊を見たことが何度かある。一番最近では5年前の春、赤石川林道の道からすぐの急斜面を登って山菜を採っているとき、上から何か動物が走り下りてきたと思ったら、そいつがすぐ近くの木にスルスルと登って私の目の高さあたりで止まってこっちを見た。私も驚いて見るとまだ小さな子熊が、まるでお菓子の「コアラのマーチ」のように木につかまってこっちを見ている。立っているのもやっとぐらいの急斜面だから、子熊がちょっと下の木に登ったらちょうど私と同じ高さになったのだ。「なんて可愛いんだ。写真を撮らなきゃ」と一瞬思ったが、子熊がいれば必ずすぐ近くに母熊がいるはずだから、とにかく早く逃げなきゃと、転ばないように必死に駆け下りて車に戻った。熊は四つ足だし多少転んでもケガなんかしないから、もし襲われたら絶対逃げられない。幸い車にたどり着くまで熊は出てこなかったから命拾いをした。直接見たわけではないが、すぐ近くで熊の鳴き声を聞いたのは4年前だ。そのときは深浦町の、大戸瀬中学校の裏あたりの雑木林で山椒を採っていたのだが、小さな沢を挟んだ対岸で突然「ガウガウガグググ」と何か動物の威嚇音のような鳴き声が聞こえた。小さな沢は木に覆われているので対岸が暗くてよく見えないが、この鳴き声は猿や狸などではない。「たぶん熊がこっちに気づいて反射的に吠えたんだろうな」と思ったが、熊がV字形の谷を下ってからこっちに登って来るまでには時間がかかるし、私は山椒の木に登っているし、こっち側の斜面の上は畑だからそこまで上がれば熊は追ってこないだろうと、そのまま山椒を採り続けていたら熊は去って行ったようだった。それから数日後の新聞で「大戸瀬中の裏に熊が出た」という記事が載ったから、たぶん私が遭ったのと同じ熊だろう。大戸瀬中の裏の雑木林は狭いから熊が住めるような場所ではないが、縄張りを持たない若い熊はどこでもえり好みしていられないから人里近くまでやって来る。毎年筍を採りに行く大童子の山には熊が多くて、筍採りではよく熊の糞を見かける。こっちが山に入る前に爆竹を鳴らして、鈴をつけてラジオを鳴らして大声を出して行けば向こうが逃げてくれるが、まだ新しくて湯気が上がっているような糞があるときはさすがにそれ以上先には行けない。大童子林道は数年前道が崩れて、三年ほど筍がある場所まで車が入れない時期があった。私はそのときも手前まで車で行って、そこからは歩いて筍採りに行っていたが、私以外に誰も入ってなかったので熊が多くて、山に入ると筍ばかり食っているような緑色の熊の糞がそちこちにあって気味悪かった。今はまた人が入るようになったので、熊の糞はあのときほど多くない。熊と直接対決したのは11年前の7月だ。ミズという山菜を採りに小さな沢を遡って行ったら、高さ5mほどの滝の手前の斜面を何か黒い丸い動物が登っていると思ったらそれが転がり落ち、落ちたらすぐにそいつがこっちに突進してきた。黒い丸いかたまりに見えたそいつは、ナント熊だった。オーマイガー!熊はまっすぐこっちに向かって来る。私はとっさに杖を構えたが、この杖は山で拾った枝を切って紐をつけただけの華奢な棒で、ちょっと力を入れたら折れそうな弱さだ。「腰には頑丈な鉈があるのになんでこれを構えたかな」と心のなかで舌打ちしたが、今さら腰の鉈を抜いたって間に合わない。こうなればこのへなへなの杖と、自衛隊4年間でたった4時間しか習ってない銃剣道だけが頼りと覚悟を決めて「うわあああー」と大声を上げたら、熊はこっちに向かってくると思いきやちょっと横を走り抜けて、少し行った先でまた斜面をよじ登り始めた。モタモタしていたがこっちに来る様子ではないので、私も熊を注視しながら来た道を戻った。熊は斜面の上のほうまで行くとゆっくりになり、こっちをチラッと見てから斜面の向こうに消えて行った。走ってきたときはまだ子熊かなと思ったが、横から見ると体長が1mはあったから若い成獣だったようだ。熊は沢の下流から来る私に気づいて逃げようとしたのだろうが、行く手は滝だから斜面を登ろうとして、転げ落ちてしまったので仕方なくこっちに向かってきたのだろう。熊と出会ったときは騒がないでゆっくり後じさりしろと言うが、あんなに突進されたらこっちも対抗するしかない。熊が本気で向かってこなくて良かった。あのときはいつもの手順を忘れて、沢に入る前に爆竹を鳴らさなかったから熊に遭遇したのだろう。ちゃんとやることをやらなきゃダメだと強く肝に銘じた。今まで熊とのニアミスはいくつもあったが、実際に闘うハメになったのは一度もないから、今年もなんとか無事に過ごしたいものだ。
2021年04月08日
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夕方のニュースで、青森市と八戸市で桜が咲き始めたと言っていた。先週の開花予報では弘前城の桜は14日だったが、このぶんだと少し早くなるかも知れない。弘前城の桜はゴールデンウイークの頃に咲くから全国から観光客が来やすかったのだが、ここ数年その前に咲いてしまって、ゴールデンウイークには葉桜になってしまっている。同じころ咲くのが長野県の高遠の桜で、私はあちこちで桜の名所を見てきたがここは弘前城の次にすごいと思った。18年前のゴールデンウイークの初めに、愛知県での出稼ぎを終えて帰省する途中で高遠の桜を見に寄った。高遠と言う地名はずっと前から気になっていたところで、青森に帰る途中に寄ればちょうど桜の時期とも重なって好都合だと軽く考えて行ったのだが、桜も素晴らしいし城も良く、思いの外に収穫が多い旅になった。戦国時代の高遠城は武田信玄の支配地で、最後は信玄の五男で勝頼の弟「仁科盛信」が守っていた。武田氏が織田信長に攻められて滅ぼされたとき、攻め手の総大将「織田信忠」は高遠城の仁科盛信に降伏を勧めたが、穴山信君(梅雪)、小山田信茂など武田の一族が次々に織田方に寝返っていくなかで敢然と戦いを挑み、圧倒的に不利な軍勢差のなかで大いに織田軍を苦しめたので、敵の織田軍からもその働きを賞賛されたという。江戸時代の初めの頃は保科氏が領主になっていた。ここに養子に来たのが二代将軍徳川秀忠の御落胤「幸松」で、彼こそ後の会津藩主「保科正之」である。徳川秀忠は父家康に似ず、側妾をいっさい置かない大変な恐妻家だったらしい。秀忠の奥さんは例の淀君の妹の「お江与」で、この姉妹は揃って気が強かったようだ。お江与は秀忠より六つも年上でバツイチだった。秀忠には大阪の陣の(冬か夏か忘れたが)とき、家康が気を使ってきれいな女を送り届けてあげたのに、「父上からの御使者だから」と上段に奉って手も触れなかったという逸話が残されている。その秀忠が珍しく他の女に手を出したところが子供ができちゃったものだから、さあ大変!正室のお江与は怒り心頭に発して母子ともに殺してしまおうとするし、困った秀忠と側近が頼ったのが、信玄の娘で穴山信君の未亡人の見性院だった。見性院は縁を頼って武田氏ゆかりの保科正光に幸松を預け、正光は自分の弟を嫡子に決めていたのを廃嫡して幸松を跡継ぎにしてしまった。そういういきさつから秀忠の隠し子は保科正之になったのである。保科正之はお江与が死んでからやっと実父の秀忠と面会が叶い、その後は三代将軍の家光の弟として幕閣で手腕をふるった。正之は、自分が保科家を継いだために廃嫡された保科正貞も、後に大名にしてもらったという。しかし保科家が会津に移った後の高遠は内藤家が受け継ぎ、そのまま明治維新まで治めた。高遠城に桜が植えられたのは明治維新後のことで、廃藩置県で荒廃してしまったお城を見て嘆いた旧内藤藩士が、エドヒガンザクラとマメザクラを交配させたコヒガンザクラを植えたのが始まりだそうだ。一般的なソメイヨシノに比べて紅みが強く花は小振りで、これが三峰川と藤沢川に囲まれた段丘上に築かれた城全体にあふれんばかりに咲いている光景は、ちょっと他では見られない絶景である。高遠城のすぐ近くには、江戸時代中期の「絵島生島事件」で高遠に流されてきた、元大奥女中絵島が死ぬまで軟禁されていた小さな家も残されている。高遠はそんな歴史がなければごく普通の、周囲を山に囲まれた小さな里なのだが、こんなところによくこれだけ物語を詰め込んだものだというぐらい興味深いところだった。
2021年04月06日
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山椒というのは、日本と中国のほかにも食べる民族がいるのだろうか?あの舌が痺れてしまうような感覚を好ましく感じるのだから、人間という生き物は不思議だと思う。辛さというのは味覚ではなく痛覚で感じているのだそうだ。痛いのが気持ちいい、快楽だというのはかなり倒錯しているように思える。それだけ人間は刺激を求める動物なのだろう。健康な動物が、好んで辛いものを食うという話しは聞いたことがない。 なかでも日本では、500年ほど前に世界に広まった南米原産の唐辛子の他にも、山葵や山椒、辛子など様々な辛さをそのときどきに使い分けて食べている。なんて珍しい民族だと思う。辛子は中央アジア原産だが、山葵は日本が原産地なのだそうだ。山葵の鼻にツーンとくる辛さは、あの辛さに強いインド人さえ逃げ出すほどだ。山椒も、ウィキペデアで調べたら「日本と朝鮮半島の南部にしかない」と書いてあった。中国の四川省でも山椒を使った料理がたくさんあるが、あの山椒は日本のものと種類が違うのだそうだ。 20年前に中国の南西部を旅したとき、四川省と隣の貴州省で山椒がよく料理のなかに入っていたのを思い出す。この二省と雲南省は中国の中でも辛いモノ好きの地として有名らしいが、雲南省では主に唐辛子の辛さだけなのに四川、貴州は唐辛子プラス山椒だから、辛さで唇も舌もヒリヒリしたものだった。 貴州省の「黄果樹瀑布」という東洋一大きいという滝を見に行ったときのこと。私はその滝がある村に着いて宿に荷を置いた後、どうでも川の方に行けば滝があるのだろうと、滝とはまったく反対方向の下流に行ってしまった。それでも小さな滝はあったのだが、当然ながらいつまでたっても黄果樹瀑布には着かず、そのうち村からだいぶ離れて「こりゃ道を間違えたかな?」とようやく気づいたころ、川岸に広がる潅木地帯で何かを採っているお婆さんがいた。私は「何を採っているんだろう?」と思って、見せてもらいに日本語で「何を採ってるんですか」と言いながら近寄った。するとそのお婆さんは、いきなり外国人風の男が近づいてきたものだから身の危険を感じたらしく、今まで何かを採って入れていたカゴの中にさっと手を入れた。中には鎌が入っている。周囲には誰もいない原野だからこれは当然だろう。 私も「これはあまり無神経過ぎたな」と反省して、ちょっと手前で立ち止まって手真似で「それは何?」と聞くと、お婆さんもようやく安心したのかそのカゴの中に入れたモノを見せてくれて、それを口に持っていって食べる真似をした。お婆さんが採っているのは、周囲に生えている潅木の小さな実だった。私も近くの木についているその実を見たが、なんなのかよくわからなかった。村への帰り道を歩きながらしばらくして「あれは山椒かな?」と気がついた。木は高さ1メートルぐらいの潅木で、実もあまり山椒っぽくなかったが、貴州省に来てからはそれまでの雲南省の唐辛子にプラス山椒の辛さで参っていたから、あれは中国の山椒に間違いないと思った。あんなふうに誰でもたくさん採れるからたくさん使うのだ。中国の山椒を今日調べてわかったが、たぶんあのお婆さんが採っていたのは山椒だと思う。(なにせ忍び寄る老化のせいであのときの木や実をはっきり思い出せないので断言はできないが)日本の山椒の香りは強いから横を通るとすぐ気づくが、この潅木の実は匂いがあまりしなかったようだ。 山椒とは関係ないが余談をひとつ。やっと村に戻って黄果樹瀑布の入り口にたどり着いた私は、疲れてしまったので滝を見る前に近くのオープンテラスの食堂で休憩した。すると民族衣装を着た土産物売りのオバサンが、買ってもらおうとしつこく売りつける。私は何もいらないので「不要プーヤオ」(いらない)と言っていたのだが、あまりしつこいのでそのうち面倒になって、邪魔にならない小さくて安いものを値切って買ってやった。するとそれを見ていた食堂の女主人が「ミスター」と私に呼びかけて、側のテーブルで勉強している小学校低学年ぐらいの男の子を指差し「十万元」とか言う。どうやら自分の息子を十万元で売ると冗談を言っているようなので、これにも「不要」と手を振ったのだが、しばらくしたら後ろで「う、う、う~~」と子供の泣き声がする。振り向いたらさっきの男の子がテーブルに突っ伏して泣いていたのだった。この子は本気で自分が売られてしまうと思ったらしい。私も店の主人も土産物売りもこれには大笑いした。
2021年04月05日
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この前ネットニュースを見ていたら、苫小牧市の小学校の校庭を鹿の群れが疾走したという映像があって、昔北海道の自衛隊にいた頃、部隊の隣の牧場でエゾシカの群れが牧草を食っていたのを思い出した。隊舎の北にはグランドがあり、その向こうがH田さんの牧場で、朝歯磨きしながら牧場を見たら、牧場に見慣れない動物がいる。日高地方は競走馬の生産で有名だが、H田さんの牧場にいるのは牛で、分屯地と牧場の境は有刺鉄線の柵と、ピリピリ軽く感電するぐらいの電気柵で区切られていた。その朝見えたのは牛でも馬でもなく、茶色い毛皮と長い角でエゾシカだとわかった。季節は初冬か春先で、日高地方は北に日高山脈があって南向きの土地だから冬でも雪が少ない土地だったが、さすがにその季節だと山には草がないから牧場に下がってきたのだろう。久しぶりに自分がいた部隊がどうなっているか見ようと思って、グーグルアースをダウンロードして見てみたら、部隊は私がいた40年前とずいぶん様変わりしていて驚いた。下がその画像で、真ん中を通っているのが「黄金道路」とも呼ばれる国道336号。国道を挟んで上が静内駐屯地で、下の海岸は対空射撃をする演習場だ。休みの日は海岸に出て釣りをしたり、冬の荒れた日の後では北寄貝を拾ったりできたものだ。当時は分屯地で今は駐屯地になったから当然だが、まず建物の数が違う。私が入隊した頃は隊舎がまだ一棟しかなくて、その後入る新しい隊舎を建設中だった。当時建設中だった隊舎が、駐屯地の真ん中へんにある大きな青屋根だ。当時はその隊舎の北側には何も建物がなかった。牧場で鹿が草を食っているのを見たのは、新しい隊舎に入ってすぐの頃だったと思う。それまでの古い隊舎は道に近いところにある右側の青い大きな屋根で、ここからはグランドの向こうの牧場は見えなかったのだ。しかし、今では私がいた頃より建物の数が倍以上になっているから、新しい隊舎の北にもいくつか建物があって、もう牧場が見えない。それどころか、隊舎北のグランドは消えてしまい、H田さんの牧場も自衛隊の土地になってしまったようで、ほぼ建物だらけになっていて、今では歯磨きしながら牧場の鹿を見ることはできそうにない。H田さんはこの分屯地を作る時に土地を提供してくれた人で、ある時の隊員相手の講演では「土地を自衛隊にやったら娘まで持って行かれた」と冗談ぽく言ってたが、もう牧場は残ってないんじゃないかと思う。部隊の東には小さな山があり、我々は「観測山」と呼んでいた記憶がある。部隊と国道をはさんだ海岸にある対空射場で演習するときは、この山の上からも観測するからだ。その山のふもとに墓地があり、なかにはアイヌの古い墓もあって珍しかった。写真で部隊の東側の、点々がたくさんあるエリアがそうだろう。私がここに来るちょっと前には、この墓地にヒグマが現れて大騒ぎになったそうだ。部隊と墓地の間には高い有刺鉄線の柵があるから、いくらヒグマでも中には入ってこれないが、すぐ間近で野性のヒグマを見た連中はさぞビックリしただろう。いくら自衛隊だからと言ってもやたらに銃を撃てるわけではないし、もし銃で撃ってもヒグマは簡単には死なない。陸上自衛隊では当時64式自動小銃を使っていて、弾は7,62mmだから今の制式銃の5,56mmよりは大きな弾だった。それでも猟銃と違って体を貫通しやすいようになっているから、ヒグマを倒すのには頭か心臓をピンポイントで狙わなきゃ無理だ。世間では軍隊を人殺し集団と勘違いしている人が多いが、軍事力の目的は相手を殺すことではなく相手の戦闘力を失くすことなので、相手にケガさせて他の誰かに介抱させたら二人分の戦闘力が減るから、威力がある銃より弾数をばらまける銃のほうが目的に適っているのだ。キタキツネもよく分屯地のなかをウロウロしていた。部隊から出るゴミを目当てに入っていたようだ。ある朝、分屯地の防火用水の水槽に狐が落ちて死んでいたことがあった。防火用水はコンクリートで囲われた3m四方ほどのプールで、水面からコンクリートの枠まで高さがあるから上がれないで溺れたのだろう。私がよく遭遇した野生動物はイタチだ。部隊の警備をする「警衛」は、小さな分屯地なので月に二回はあった。夜は部隊正門だけでなく、墓がある部隊の反対端でも立って警備しなければならず、真冬にたった一人で凍えながら警戒するのは大変だった。こっちのほうではよくイタチを見た。ある時イタチの大群がこっちに走ってきたような音が聞こえたので、何が起こった?とビックリして見たら、大群と思ったのはたった二匹で、縄張り争いかなにかで争って走り回っていたのだった。暗闇に独りぼっちでいると臆病になるものだ。
2021年04月04日
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日テレの朝の番組の「スッキリ」でアイヌ民族に関するドキュメンタリーを紹介して、その後で「脳みそ夫」という売れない芸人が謎かけをして「この作品とかけまして動物を見つけたときと解きます。答えは、あ、犬」と言ったというので大問題になった。この「脳みそ夫」という売れない芸人は今回初めて聞いたが、41歳にもなってこんな思慮に欠ける事を言ってるんじゃダメだ。これでもう社会的に抹殺だろう。脳みそ夫は千葉県出身だから知らないと思うが、北海道では昔からアイヌを「あ、犬が来た」と言ってバカにしていたらしい。こんなことをテレビで言えば大問題になるのは当たり前だ。司会の加藤浩次は北海道出身でアイヌ差別には敏感なはずなのに、どうして即座に反応できなかったのかわからない。私は昭和50年に陸上自衛隊に入隊して、54年までほぼ4年間、北海道の日高地方にある部隊で過ごした。最初は三重県の久居にある部隊で新入隊員の教育を3ヶ月弱受けたが、そのとき一緒に入ったのは北海道瀬棚町出身のN田で、この人は23歳だったから18歳で入った私より5歳上だが、自衛隊で齢は関係ないから同期はタメ口だった。と言うか、N田はドジな奴でしょっちゅう失敗ばかりしていたから、私が彼の面倒を見てやっていて、立場は私が上だった。その後北海道の日高地方にある部隊にも一緒に配属になり、彼が1任期2年で辞めるまでずっと付き合った。こいつはよく同じ話をする奴で「夏はサンマがおいしいね。サマーだから」とか「間違いとキチガイはどこにもある」とかくだらない駄洒落をよく言ってたが「子供の頃はアイヌの子が来るとあ、犬が来たと言ってからかったもんだ」と何回も自慢げに言うクズ野郎だった。日高地方は昔、アイヌ最大の抵抗運動「シャクシャインの乱」が起きた場所で、北海道内で阿寒地方と並んでアイヌ人が多い地域で、私が配属された部隊にもアイヌ出身の隊員が何人もいたが、やはり陰では差別されていた。北海道以外(内地と言っていた)から来た人も、現地にいると自然とアイヌ差別がわかるようになるから、アイヌとまったく関係ないところから北海道に来た人間が、話を合わせるために陰ではアイヌをバカにするようになっていく。私が後期教育を受けた教育隊の先任2曹(昔で言う軍曹)は九州の人だったが、売店の売り子がアイヌ人だったので、遠くからインデアンのように「ハオ」と手を挙げてからかっていた。私はそれを見て「いい年をしてみっともない野郎だな」と口には出せずに思っていた。あれからもう40年以上たったから北海道の人の意識もだいぶ変わって、今ではあんな差別はなくなったと信じたいが、差別というのはなかなかなくならないものだからなぁ。今回の脳みそ夫の発言は「知らなかった」では済まないぞ。ところで、我々の同期は5人いて、N田以外の4人は1任期で辞めずに自衛隊に残った。数ヶ月してN田から同期二人に手紙が届いたが、N田をよくイジメていた奴と、一番付き合っていた私には便りはなかった。N田にとっては、私もイジメていた奴と同じだったのかとショックだった。私はよく助けてやったが、容赦なくダメ出しもしてたから悔しかったのだろうな。今生きていればもうすぐ70歳になるN田が、自分がイジメられた過去ばかりじゃなく、自分がイジメたアイヌの子のことも覚えていればいいが。
2021年04月03日
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青森県の上北郡にある小学校に勤めている45歳の女性教師が、20年間も無免許運転をしていたのがバレて停職三ヶ月の処分を受けたという。最初から免許がなかったわけでなく、最初の更新をし忘れて失効した後そのままになってしまったらしい。20年間も無免許運転をしていたというのは凄い。当然その間にはたくさんの子供たちに「悪いことをしてはいけませんよ」とか「法律を守りましょう」とか教えていたはずだが、どんな顔でそういう教育をしていたのだろうか?もしかしたら彼女を尊敬している教え子もいたと思うが、先生がこんな人間だとわかったら人間不信になってしまうんじゃなかろうか。こういう倫理観が欠如した人間が先生をやっていたのが恐ろしい。そして、こんな悪質な法律違反をしたのに、処分は停職三ヶ月で済むのも恐ろしいことだ。先生たちの常識は世間一般とはだいぶ違うのだろう。全国に先生はたくさんいるから、中にはヘンな先生がいるのは仕方ないと思うが、それにしてもトンデモない先生が多い。私の子供時代は50年も前だから、もっとトンデモない先生がいた。我々の小学校6年生のときの担任は、担任になる2年前に酔っ払い運転をして他人の車に当てたあげく逃げてしまうと言う事件を起こしたが、その後も定年まで勤められた。今は昔より飲酒運転に厳しくなったから、今なら即クビだな。この先生が酔っ払ったのは、そのとき我々のクラスを担任していた女教師と衝突したからだという噂が流れていたが、この女先生も今から思えばかなりトンデモないことをしていた。他のクラスには体罰がひどい先生がいて、うちは田舎だから子供がひどい体罰を受けても保護者は「そういうもんだ」と思って黙っていたが、その後町の小学校に転勤して同じように体罰を加えたら保護者が騒いで、新聞に載るほどの体罰事件になった。中学校にもすぐ体罰をする暴力教師がいて、むちゃくちゃな先生だからさすがの不良たちもこの先生の授業では静かにしていた。私は幸い殴られずに済んだが、この先生はとにかく怖かった。中学校では前の学校で女生徒に手を出したと噂がある先生がいて、真偽はわからないがこの人はよく女生徒を触る先生だった。今も先生からのセクハラや性暴力がしょっちゅう話題になるが、聖職者なのか性職者なのかわからないクズも先生になっているようだ。この先生は我々が中学校を卒業する間際、校則で丸刈りなのに「もうすぐ卒業だからいいや」と思って髪を伸ばしていたら、髪が長い生徒の頭をバリカンで刈るという体罰をした。そのときは私ともう一人か二人頭を刈られることになって、私は最後だったので隙を見て教室から脱走して事なきを得た。後で床屋に行って髪を刈ったのでその後はお咎めなしになったような気がするが、教室で皆の前でバリカンで頭を刈られた奴には「マイタケはずるいぞ」と責められた。今バリカンで生徒の頭を刈ったりしたら大問題だな。
2021年04月03日
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15年前にヤフーブログと楽天ブログを始めて、ヤフーブログでは日常のあれこれを書き、楽天ではそれまで行った旅行のことなどを書いていたがそのうちネタが尽きてしまって、ヤフーブログだけ書いているちに楽天の方は忘れてしまった。ヤフーブログは一昨年の夏に終了してしまって、どこかに移らなきゃいけなくなってしまったときも楽天ブログの存在は忘れていたので、今まで貰ったコメントが残るFC2ブログに移動したのだが、最近「そういえば楽天でもブログを書いていたよな」と思い出して久しぶりに来てみたら、10年以上ほったらかしなのにちゃんと残っていたので驚いた。これからはこっちでもまた書いてみようと思うので、御用とお急ぎでない方はどうぞ見てやってください。去年までの十年間、東京多摩地域と埼玉県西部を灯油を巡回販売して回って、たくさんのお客さんに出会った。いまどき灯油を使うのは年寄りが多くて、なかでも印象深いのは、いつもピシッとした身だしなみできれいな白髪をカールさせて、小柄な体で背筋をシャンと伸ばし、毎日ハイヒールでコツコツ威勢よく散歩していた80歳ぐらいの可愛いおばあちゃんだった。彼女は一人暮らしなので、途中で私に会うと「今日はこれから回ってくるの?」と訊いて家に戻ったりしていた。年を取っても毎週ダンス教室に通っていて、ダンスがない日は必ず近所を散歩していて私の車を見ると手を振ってくれた。 ストーブのことがわからないと、よく私にあれこれ尋ねてきたりした。私が「誰かやってくれる人はいないんですか?」と訊いたときは「娘の旦那がたまにくるんだけどね。婿殿はあまり頼りにならないのよ~」とこぼしていた。ストーブの調子が悪くなったときは私の助言で新しいストーブを買い、その設置は私がやってあげた。「あまり知らない人を家に上げたらいけませんよ」と言うと「婿殿が頼りにならないからね」と答えていた。 彼女とは仕事以外のこともよく話した。一度彼女から亡くなった夫の衣服を貰ったこともあった。私はいらないと言ったのだが「けっこういいモノなのに誰も着る人がいないから貰って。灯油屋さんは背が同じぐらいだから着られると思うわ」と言って半ば強引に押し付けられたのだ。写真を見ると旦那さんは昔の人にしては背が高く、細身でスマートな人だった。「あの人は私の着せ替え人形だったのよ」と彼女はいたずらっぽく笑っていた。残念ながら貰った服は肩幅が狭かったので友人にやったが、彼女には「田舎でありがたく着ています」と言っておいた。 一度彼女が「お薬が合わないのかこの頃調子悪いの。アレルギーかしら?」と言っていたので、翌週会ったときに「お医者さんはなんて言ってました?」と訊いたら「〇〇さんはもうアレルギーになる年じゃありませんって言われたわ。失礼しちゃうわ」と口を尖らせていて可愛かった。いつもきれいにマニキュアをしていたので、お金を貰うときに褒めたら「そんなこと言ってくれるのはあなただけよ。ダンス教室に行ってるんだけどね。誰も触ってくれないのよ」と言いながら、私がお釣りを渡した手をぎゅっと握ってきたときは、私は熟女好きとは言え婆専ではないのに思わず抱きしめたくなった。 ストーブを新しくしたら燃費が劇的に良くなったそうで「灯油屋さんには申し訳ないけどあまり買わなくても良くなったわ」と謝ってくれて、毎週買ってくれていたのが二週間に一回になり、そのうち更に減り、去年は一度も灯油を買ってくれなかった。しばらく会わないので「どうしてるかな?」と思っていたら、ある日彼女の家から中年の男性が出てきて「灯油屋さんはマイタケさんですか?」と話しかけてきた。私が「そうです」と答えると男性が「私はこの家の○○の義理の息子です」と言ったので彼が噂の婿殿だとわかった。婿殿から聞かされたのは予想外の話で、彼女は少し前に亡くなったのだと言う。そして彼女の遺言で私に渡したいモノがあるとの事だった。それは数枚の古い写真で、彼女の若い頃の写真のようだった。写真はどこかの映画を撮っている現場のようで、そういえば若い頃の彼女の顔になんだか見覚えがある。私の記憶に間違いがなければ昔映画で大活躍して、その後「ファンのイメージを壊したくないから」という理由で引退し、ぷっつり消息を絶った大女優に似ている。もしかして彼女がそうだったのか?驚いて婿殿に「あの、○○さんは元女優さんだったんですか?」と聞いたら、婿殿はニヤッと笑い「今日は4月1日だから」
2021年04月01日
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四十五日目、10月1日大窪寺6時に起きた。また雨だったが、頑張って7時に出発。昨日買った食料はほとんど酒のツマミになったので、朝はビスケットしかなかった。途中で店が見つからなかったので、すきっ腹のまま八十八番札所「大窪寺」まで歩き通した。10時頃着き、それほど大きな感動もなく今まで通り納経して、納経帳に最後の朱印を貰った。これで結願。当時の私はなんの目的も無く、旅することに生きがいを見出していた。その2年前に日本を歩いて縦断したが、四国を通ってないのでそのうち行きたいなと思っていたのだ。元々宗教に凝っているわけでもなく、今回の旅は「まだ歩いてない四国を歩くならお遍路さんをしながら巡ればおもしろいだろう」という軽いノリで始めたことだから、八十八箇所巡りが終わったからといってそれほど感激することもない。今回の旅では「日本の坊主はただの商売人だ」と以前から思っていたことを再確認した。厳しい戒律を守ることもせず、欲望を貪る一般人と同じ暮らしをしながら、見たことも無い死後の世界をさもあるように話して金を稼ぎ、エラそうにしているのが日本のほとんどの坊主だが、宗教とはそんなものではないだろう。宗教に救いを求めて四国をお遍路したわけではないが、旅先で目にした醜い坊主どもには「お前ら何様だ!」とずっと腹を立てていた。(この気持ちは今も変わらない。むしろますます確信になっている。日本の既製宗教がそんなザマだから、いかがわしい新興宗教がはやるのだろう。)そんな風だからこの旅で得られたと思えるものはなかった。四国遍路をしたという達成感だけか。一心に般若心経を唱えてただ祈り続けていると、ときにふっと自分の存在が溶けて、何か大きな存在の一部になったような気がすることがあったが、それが何かはわからなかった。あるいはそれが神や仏と呼ばれるものなのかも知れないし、単なる脳内の作用なのかも知れない。(私にも人並みに神仏を畏れ敬う気持ちはあるが、そういう気持ちは世界共通で、おそらくは人類が生まれつき持っているものだろう。その信仰心と宗教は違う。信仰心は天然自然に人間が持っているものだが、宗教というものは人間が作ったものだからだ。宗教は人間が作ったものだから、絶対どこかに嘘や間違いがある。人間が作ったものは道具であれ思想であれ、完全なものはない。それに組織というものは、宗教の教団だろうが国家だろうがなんだろうが、巨大になると当初の設立目的とは関係なく、まずその組織を発展させ、生き延びさせるために活動するようになる。現在ある宗教団体の中で、本当に個々人の信仰にだけ支えられて活動しているところが一つでもあるだろうか?これが私が特定の宗教を信じない理由である。)記念写真を撮ろうと思って山門で10分ぐらい待ったが、誰もこないので写真に自分を入れるのはあきらめて山門の写真を撮った。門前の食堂で昼飯を食べて雨の道を下る。同じ道を引き返してもつまらないので、そのまま進んで1時過ぎバス道に出た。少し行ったら待合室があるバス停があった。もうこれ以上歩かなくてもいいので1時間ほどバスを待ち、2時半のバスに乗れたときに「これでお遍路さんも終わりだな」と思った。四国八十八箇所が終わってから淡路島経由で大阪に渡り、奈良を見てから和歌山の弘法大師が眠る高野山に向かった。10月6日「高野山奥の院」に行き、納経帳に寺印を押してもらって、お遍路のお礼参りが終わった。納経帳は家宝にするものらしいが、なんでも自慢話が好きな叔父にあげた。八十八箇所の寺のご本尊の札を表装して掛け軸を作り、実家にあげたので、今では盆正月に仏壇の横にかけている。この旅で残ったのはこのふたつと、今回ご紹介した思い出だけだ。
2010年08月14日
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四十四日目、9月30日屋島寺→八栗寺→志度寺→長尾寺ユースホステルの前に「四国村」という野外博物館があったので8時まで待って入場した。ここには四国各地から古民家を移築してあり、何百年も前の四国の人々の暮らしがわかるようになっている。実に貧しい生活ぶりで、「よくこれで生きていけたものだ」と当時の人にいじらしささえ感じたが、昔は日本中どこも似たようなものだったろう。水車と言えばくるくる回る大きなものしか知らなかったが、ここでは庭に置いてある「シシオドシ」のように、水を溜めて杵を上げて粉をひくものを初めてみた。少しの水でもうまく利用する昔の人の知恵に感心した。9時にユースホステルに戻って出発した。屋島の台地にある八十四番札所「屋島寺」に上がってみたら、門前に土産物屋がひしめいていていかにも観光地だった。下りは同じ道を引き返して、屋島とは「檀ノ浦」を挟んで向かいの五剣山にある、八十五番札所「八栗寺」まで歩いた。この檀ノ浦は平家が滅亡した山口の壇ノ浦と字が違う。八栗寺にはケーブルで登れるがその横に登山道があった。もちろん私は自分の足で登る。意外に早く着いて1時ころ後にした。朝から雨が降ったり止んだりの天気で、八栗寺を歩いていたころが一番降っていた。八十六番札所「志度寺」には2時半頃着いた。八十七番札所「長尾寺」には4時半に着いて、いよいよ残るはひとつだけ。山中に入るので早めに飯を食べて食料を買い込み、長尾の町を出たら、とたんに泊まれそうなところがなくなって心細い思いをした。車が止まって何回も「乗せてやる」と誘ってくれたが、ここまで歩いて来たのに車に乗る人はいないだろう。気持ちだけいただく。6時ころ道から外れた山の上の神社の鳥居を目当てに行ってみたら、神社の隣に公民館があり、公民館の大きな庇の下のほうが落ち着きそうだったのでそこをねぐらに決めた。「この苦労もあと少し」とゆっくり酒を飲んだ。ところが、早く寝て9時半ころザワザワするので目が覚めたら、村の人が公民館に集まって何か集会を開いていたので、あとはずっと眠れなかった。私を見て出て行けと言わないだけでもありがたい。
2010年08月13日
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四十三日目、9月29日久しぶりのちゃんとしたベッドも、疲れがたまったせいかあまり熟睡できなかった。右目のモノモライの腫れは昨日よりひいたが、核ができてゴロゴロした感じだ。8時にユースホステルを出発し、寒霞渓まで歩いていった。ユースホステルの犬がずっとついてきたのでお菓子をあげたりした。寒霞渓の売店の人が「昨夜はユースホステルに泊まったんですね」と言うので、どうしてわかったのかと思ったら、この犬はユースホステルに泊まった人を寒霞渓まで案内してから帰るのだと教えてくれた。寒霞渓で少し景色を見てから1時間以上ベンチに横になり、次にロープウェーで紅雲亭に下りたのが11時頃。歩き遍路のコースではないし、疲れていたので歩いて下山する気にはなれなかった。紅雲亭では気の荒い野生猿がいて、二人の白人娘が威嚇されて脅えていた。猿は大人の男には手を出さないが、大柄な白人でも女性は弱いとわかっているようだ。ノッシノッシ歩くボス猿のキンタマが、体の割に大きいのが印象に残った。バスで草壁に戻り、また1時半の船の時間までずっと横になっていた。草壁から高松までの船でもずっと寝ていたから、せっかく小豆島に行ってもほとんど寝ていたようなものだ。3時に高松に着いて、城跡を見てから屋島まで歩いた。屋島ユースホステルに5時に着いて、またぐったり休んでいた。たまった洗濯をして9時には寝た。
2010年08月12日
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四十一日目、9月27日高照院→白峰寺6時過ぎ、神社を掃除しに来たお婆さんと参拝に来たおばさんの、甲高い話し声で目が覚めた。この前から右目がゴロゴロした感じだったが、今朝は腫れてふさがってしまって、完全にモノモライになったようだ。ホコリが多い地べたに寝たからだろう。私はモノモライになりやすく、今まで何回も治療しているが、旅先ではどうしようもないからこのまま我慢するしかない。ちなみにモノモライの手術は、瞼の裏側を切開して患部を取り除くのだが、麻酔をかけてあるから痛くはないものの、視力が麻痺するわけではないので目は見えるので、目にメスが近づいてくるのが見えてとても怖い。医者からは「メスを見ないように反対方向を見なさい」と言われるが、目に刃物が近づいてくればどうしても見てしまうのが人情だ。神社のとなりの家のおじさんが「もらい物だが」と言って団子を持ってきてくれた。次はどこかのお婆さんが「遣ってくれ」と1000円お接待してくれた。お二人に感謝です。香川の人の印象として、四国のなかで一番ハシッこくて抜け目がない感じがしているが、一番豊かで余裕があるようにも見える。今まで1000円もお接待をされたことはなかった。雲辺寺の近くでも頂いたが、あそこは徳島県と言っても香川県の生活エリアで、喜捨してくれたのも香川の人だった。出発しようとしたら、外に出しておいたガスコンロがないのに気づいて、探しだすのに時間がかかった。いくら周辺を探しても無いので、掃除した婆さんが持って行ったと思って、彼女の家を探して訪ねると、「ゴミだと思って持ってきて捨ててしまった」と信じられないことを言う。私の寝ているすぐ隣に置いているのだから、私のモノだとわかりそうなのに聞きもしないで捨てるとはどういう人間なのか?どこに捨てたか聞いて取りにいこうと思ったら、その婆さんの旦那さんが「これはゴミではないだろう」と思って取っていてくれたので捨てられずに済んだ。旦那さんには感謝である。おかげで出発が遅れて8時に歩き出した。七十九番札所「高照院」に着いたのは9時前。団体の納経があって少し待たされた。順番通り八十番に行くと遠回りになるので、八十一番に先に向かった。五色台の上まで上るのにけっこう時間がかかった。途中でお爺さんがミカンをひとつお接待してくれた。近くのお堂にお供えしてあったものらしく、強烈に酸っぱかった。お供えものをくれるのはどうかと思うが、何もなくてもお遍路さんを助けてやろうという気持ちだけは伝わった。12時半、八十一番札所の「白峰寺」に着いた。山の上にある大きな寺で建物がなかなか良い。今日はすばらしくいい天気になり、五色台からの眺めも最高だった。白峰寺から遍路道を通って、八十二番札所「根香寺」に着いたのは2時半。ここからは鬼無に下りて県道を通って八十番に向かったが、6時前もう間に合わないことがわかったので、晩飯を食べて近くの無人駅に入った。ここで朝までゆっくりできると思ったら、夜駅の管理をしている人が来て「警察がどうの」と言うので、外の自転車置き場に移動した。今日も予定よりだいぶ遅れてしまった。疲れがたまっているようで歩くスピードが落ちている。モノモライも汚れだけが原因でなく、疲れているときになりやすい。四十二日目、9月28日国分寺7時半に駅を出発して八十番札所「国分寺」にはすぐ着いた。ここは平地にありながらずいぶん敷地が広い寺で、いい建物も多かった。八十三番札所「一宮寺」にはそこから2時間ほどで着いた。ここから高松に向かい、途中で昼飯を食べて「栗林公園」でゆっくり休んだ。いい庭園だが奥行きが足りなくて、道路の騒音がよく聞こえるのが玉に瑕だと思った。高松の市街を歩いて買い物をし、港に着いたらちょうど「坂手経由神戸大阪行き」のフェリーが出るところだったので、あまり考えずに乗ってしまった。せっかくここまで来たから小豆島も見たいという気持ちがあったし、疲れがたまったので休みたいという気持ちもあった。1時間半ほどで小豆島に着いた。すぐオリーブユースホステルに電話したら今は休業中とのことで、残る小豆島ユースホステルは山の上にある。そこに行くには土庄からのバスに乗らないといけないので、土庄までまずバスで行かなければならない。高松→坂手のフェリーは420円だったが、坂手から土庄までのバス代は、途中草壁に寄ったりしたので計650円かかった。初めからユースホステルに電話して、高松から土庄へのフェリーに乗れば何の問題もなかったのに大失敗だった。疲れて頭がよく動いてないようだ。ユースホステルには6時半に到着した。夕食後食器を洗うとき、自分で使った食器の他に、小麦粉みたいなモノが載っているお盆も洗ってあげたら、これが小麦粉ではなくて洗剤だったので、ペアレントさんに叱られてしまった。バカなことばかりした一日だった。
2010年08月08日
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三十九日目、9月25日大興寺→神恵院→観音寺→本山寺→弥谷寺6時に起きた。風はまだ吹き荒れているものの、雨はもう降ってない。床下には周りに壁がないので、雨はしのげたが一晩中風に吹かれ放題だった。あんな強風にさらされてよく寝たものだが、後で鏡を見たら目が真っ赤になっていた。目をつむっていてもホコリが入ったのだろう。7時過ぎにノロノロ出発。昨日も山道をずいぶん歩いたから脚の付け根が痛かった。2kmぐらいで六十七番札所「大興寺」に着いた。六十八番札所「神恵院」と六十九番札所「観音寺」は同じ境内にあり、納経所はひとつという変わった札所である。11時頃着いてお参りを済ませてから、弁当を食べてゆっくり昼寝した。疲れがたまって今日はもう歩きたくないと思ったが、天気がだんだん良くなるし、寝て元気が出たのでまた歩き出し、2時半ころ七十番札所「本山寺」に着いた。本山寺から次の七十一番札所「弥谷寺」までは遠くて5時半に着いた。ここには弘法大師が修行したという洞窟があって、なにやら神秘的な感じだった。今日は屋根の下に寝て風呂に入りたくて、この旅で初めて遍路宿に泊まった。七十二番札所の前の宿で名前は忘れた。遍路宿とは、その名のとおりお遍路さんを泊める宿である。安く泊まれて、お遍路さんの都合を考えてくれるので良いらしいが、私は節約旅行だから初めから眼中になかった。どうせ泊まるなら昨日泊まったほうが良かったようなものだが、昨夜はあんなに苦労することになるとは思ってなかったから仕方ない。相部屋の人のイビキがうるさかったのを覚えている。四十日目、9月26日曼荼羅寺→出釈迦寺→甲山寺→善通寺→金倉寺→道隆寺→郷照寺せっかく宿に泊まったが、他人のイビキのせいであまり熟睡できずに7時出発。いい天気になってくれた。すぐ目の前の七十二番札所「曼荼羅寺」に入る。七十三番札所「出釈迦寺」もこのすぐ側にある。七十四番札所「甲山寺」をお参りしてから、いよいよ七十五番札所「善通寺」ここは弘法大師が生まれたところだから、寺は大きく、参詣人もものすごい数である。善通寺から電車に乗って金比羅さんに行ってきた。せっかく近くまで来たのに見ないのはもったいないと思ったから出かけたので、本宮だけ見て帰ってきた。奥宮にも行こうと思えば行けたが、時間がないのでパスし、琴平にいたのは全部で1時間ほどだった。善通寺に12時頃帰ってきてまた歩き出した。七十六番札所の「金倉寺」は、納経所にいる大黒さんが愛想の良い人で好感が持てた。多度津にある七十七番札所「道隆寺」を参ってから、丸亀を通って七十八番札所「郷照寺」に向かった。丸亀では小学生のガキどもに囲まれて「風呂に入ってるんか?」とか「その服何日洗ってないんじゃ?」とかあれこれ言われた。道を訊いても「あっちにも、あっちにも、あっちにもあるよ」と大人をバカにしてまともに答えない。相手にするほど腹が立つので、無視していたら離れて行ってくれた。徳島、高知のあたりは人間が素朴な感じがしたが、瀬戸内海に面した地域の、特に香川県に来てからは人間がハシッこく、こすっからくなったように感じる。高知の室戸あたりで休憩したときは、子供たちが私に興味があるのか遠巻きに見ていたが、全然近寄ってこないので淋しく思ったものだ。香川に入ってよく見るのは「物も心も豊かな香川」という看板である。確かに香川に入ってからは、モノは四国で一番豊富なように見える。徳島、高知は香川や愛媛に比べると少し貧しい感じがする。しかし丸亀のガキどもや、この前の雲辺寺を下りてから会った薄情なおばさんたちを見ると「心はどうかな?」と思った。宇多津の七十八番札所「郷照寺」を参ったのが4時半頃。それから食料を買い、今夜の野宿場所を探した。なかなかいいところがなくて坂出まで来てしまい、街の中の大きな神社と小さな神社を見つけて、大きな神社はうるさいだろうと思って小さな神社で泊まることにした。ところがこれは失敗だった。晩飯を食べてから商店街に買い物に行って、神社に戻って寝ようとしたが、人通りが多くて、夜遅くでもお参りにくる人がいるのでゆっくり寝ていられなかった。しまいには床下に潜り込んだら、もう10月近いというのに蚊がわんさかいて、だいぶ血を吸われてしまった。
2010年08月02日
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三十六日目、9月22日香園寺→宝寿寺→吉祥寺→前神寺7時までぐっすり寝ていた。朝から曇りで、9時頃から雨がパラパラ降りだし、あとは降ったりやんだりの天気だった。10時半頃東予の床屋に入って散髪した。12時頃国道11号線と合流して、1時に六十一番札所の「香園寺」に到着。後は六十二番札所「宝寿寺」、六十三番札所「吉祥寺」、六十四番札所「前神寺」が近くにかたまってあるので、廻るには楽だった。先に一番厳しいと言われる六十番を片付けたのが良かった。宝寿寺からは、歩き遍路のおじさんと一緒になった。前神寺が終わってからは、もう今日の予定はないのでのんびり話しながら歩いた。おじさんは五十代に見えるガッチリした体型の人で、もう何回も四国八十八箇所を巡ったらしく、読経も聞いていて惚れ惚れするほど堂に入っている。服装も私のようないいかげんな「なんちゃって遍路」ではなくて、上から下までビシッと遍路の恰好で決めていた。おじさんは西条の手前のホテルに泊まるというのでそこで別れて、新居浜の手前まで歩き、「中萩」という無人駅に泊まることにした。駅なので列車が通るたびにうるさいが、雨風が強くても安心していられるので、そのうち寝てしまった。ところが10時頃、女子高生が二人来て待合室でおしゃべりを始めたので目が覚めた。彼女たちはお互いの家で話せないことをここで話しているらしい。彼女たちがひとしきり賑やかに、おしゃべりを楽しんで帰るまで私も眠れなかった。三十七日目、9月23日三角寺5時の始発列車に乗ってきた人の声で目が覚めた。7時過ぎ出発。右目がかゆくてモノモライの前兆のようだ。昨夜から降り始めた雨は一日中降り続いた。一日雨に当たりながら歩いていると精神的に参る。スニーカーは防水ではないので、ずっと足が濡れて気持ち悪い。午後4時前、やっと山の上にある六十五番札所の「三角寺」にたどり着いた。ここでもキンモクセイが香っていた。一昨日あたりからキンモクセイの香りがそこらじゅうに漂っていて実に好ましいが、雨の日はあまり匂わない。三角寺から下ったところにあるお店で今夜の食料を買ったら、ヤクルトを一本お接待された。ありがたし。国道192号線を歩いて半田を過ぎたあたりの神社に泊まった。三十八日目、9月24日雲辺寺前日からの雨が朝方だけ少し止んだが、出発したらまた降りだした。台風19号の影響らしい。境目トンネルを抜けて徳島県に入ってすぐのところで、車が停まって運転している人が1000円お接待してくれた。感謝です。10時過ぎ六十六番札所「雲辺寺」への登り口についた。寺までの山の中の道ばたには、柿とアケビがたくさん成っていていくらでも食えた。雲辺寺はずっと山の上にあり、周りに何もないのに、寺の中にも参拝者が雨のときに休めるような場所がない。しようがないのでお守り売りの箱みたいなボックスに入って、寒さに震えながら休憩した。雲辺寺を出たのは1時半。次の六十七番札所までは遍路道を通れば12kmということだったが、遍路道の標識を見なかったので車道を通ったらずいぶん時間がかかった。山の中の道を降りしきる雨に打たれながら歩き、長野、河内という集落を通って国道377号線に出たときは6時半にもなっていた。国道に出る前に野宿用の食料を買い、その店にいたおばさん達にどこか泊まれる場所がないか訊ねたのだが、「変なことを言って自分の責任になっては大変だ」と思ったのか、あちこち泊まれそうなところがある話をするが、はっきりしたことを言わないので埒があかず、結局自分で探していた。一般道と立体交差している農道のトンネルで湯を沸かして晩飯を食べたが、いつ車が通るかわからないようなところでは寝られないので、また雨の中を歩き出した。雨はいよいよ激しくなり、いつまでも野宿場所が見つからないので困ってしまった。8時頃小さな神社があったので、そこの床下に潜り込んで一夜の宿にした。いつもは縁側に寝るのだが、台風なので縁側だと雨がかかってしまう。床下も風が吹き込んで土ぼこりが大変だったが、雨で濡れるよりはマシだった。台風19号は午前1時ころに、愛媛の宇和島に上陸して瀬戸内海に抜けたらしい。
2010年08月01日
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三十五日目、9月21日延命寺→南光坊→泰山寺→栄福寺→仙遊寺→国分寺4時頃牛乳配達のバイクが来て目が覚めた。すぐ後でお参りに来たお爺さんがいて、寺の前の建物には誰でも入れるので、お遍路さんがよく泊まっていると教えてくれた。昨夜は暗くてわからなかったのだ。寺の縁側でもよく眠れたから問題はない。5時半に出発して五十四番札所「延命寺」には8時半到着。延命寺の前で休んでいたおじさんが、10円お接待してくれた。たった10円貰っても何も買えないが、知らない人間にわざわざ駆け寄ってきて喜捨してくれる気持ちが嬉しい。次の五十五番札所「南光坊」に行ってから今治城を見に寄った。城はもう残ってないが、再建した天守閣がなかなかいい感じだった。南光坊の裏手に引き返して五十六番札所「泰山寺」に向かう。泰山寺を出たのは12時頃で、ここから五十七番札所「栄福寺」までは3kmのはずだが、渡る橋を間違えて大きく遠回りしてしまった。今日はこの頃には珍しく、いい天気になって暑かった。栄福寺の前に着いたときは、疲れてぐったりしてしばらく休んだ。すると乗用車から降りてきた女が、私に「どうして八十八箇所巡りをしてるんですか?」と話しかけてきた。相手にするのが面倒くさいので「遊びです」と答えて寺の中に入ったが、お参りを済ませて外に出るとまだ待っていて、「この近くに心が安らぐ場所があるから来ないか」とかなんとか言う。どうも宗教団体の勧誘らしい。もう一人の女が運転する車に乗って、その心が安らぐ場所に行きませんかとしつこく誘われたが、うさんくさいので断って歩き出した。女たちはその後も少し車でついてきたが、相手にしないでいたらあきらめてくれた。私に話しかけてきたのは20代後半の不細工な女性で、車を運転していたのはブスではないが、もうかなりトウが立った年増だった。もっと若くてきれいな人に誘われたら、フラフラついて行ったかも知れない。松山でも「伊予鉄そごう」の前で休んでいたら、若い女性が近寄ってきて「あなたの健康と幸せを3分間祈らせてください」と言われたことがあった。そのときは「私はもうじゅうぶん幸せなので誰か別な人を祈ってください」と断ったのだが、やはりこういう旅をしていると宗教にはまりやすい人間に見えるのだろう。五十八番札所「仙遊寺」は今治を見下ろす山の上にあって、住職は感じがいい人だった。下りは遍路道を通った。4時過ぎ五十九番札所「国分寺」に着いて、すぐ近くにユースホステルがあるのに気がついたので、5時ころそこに行って泊まることにした。行ったのが遅いので夕食はないが、ちゃんとしたところで眠れるだけでありがたい。外で食事してからユースホステルに入り、風呂に入って下着を洗濯したらもう眠くなって眠くなって、9時には泥のように寝てしまった。
2010年07月31日
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三十三日目、9月19日浄瑠璃寺→八坂寺→西林寺→浄土寺→繁多寺→石手寺6時少し前、参拝に来た人の拍手の音で目が覚めた。前夜から雨が降り続いているので7時にポンチョを着て出発。2kmほど歩いて四十六番札所「浄瑠璃寺」に着いた。納経所のおばさんが、私が雨の中を廻っているのに感心してお寺の手拭いをくれた。感謝です。すぐ近くに四十七番札所の「八坂寺」もある。この寺の住職は若くて真摯な感じで良かった。それからはだんだん松山市に近づいて、四十八番札所「西林寺」と四十九番札所「浄土寺」がある。浄土寺の坊主が納経所にくるのが遅いのを、私は納経所の前で雨に打たれて立って待っていたのだが、朱印を押し終わった坊主が乱暴に納経帳を閉じたので、中でページが折れてしまった。それを直そうともせず、納経帳をこっちによこしもせず、私が納経帳のめくれを直すのを無表情に見ているだけなのだ。何様のつもりだ?この寺もあまり広くない境内を全部駐車場にしているので、参拝者が座るところもない。ただの金儲けのために坊主をやっている人間が多くてイヤになる。五十番札所「繁多寺」はすぐ近くだった。繁多寺から五十一番札所「石手寺」には遍路道を通ったが、途中で標識がなくなっていたのに気づかず、そのまままっすぐ行ってしまってよけいな時間を喰った。石手寺は門前市があるほどの大きな寺で、参詣人が多かった。あまり落ち着かないので、早々に退散して道後温泉に行った。道後温泉まではほんの10分ほどの距離だ。ここでは「坊ちゃん」の夏目漱石も入ったという「振鷺閣」に入りに行った。明治時代にできた建物らしく風情があった。風呂を上がってから窓口のおばさんに、コインランドリーの場所を聞いて洗濯をした。3時に洗濯乾燥を終わって松山の市街まで歩いた。雨は昼からやんでいたが蒸し暑かった。とりあえず城山に登ってお城と松山の街を眺めた。城山のベンチに横になって少し午睡した。5時頃またポツポツ雨が降ってきたので、お城を降りてアーケード街の方に行った。お城の人けのない石段で若い男女が熱烈なキスをしていて、私がすぐ側に行くまで離れなかったのでとてもうらやましかった。松山の街で買い物したり食事をしたりして、7時頃北に向かった。食堂にあった松山の詳しい地図に載っていた、聖稜高校の近くの三島神社が良さそうに思えたので1時間ほど歩いて行ってみたら、野宿するのに文句ないところだった。雨は降ってないが蒸し暑いのでまた蚊が出てきて、寝袋にすっぽり入ってないと蚊に食われる。それで寝袋に頭も入れていたら暑くて、せっかく風呂に入ったのにまた汗まみれになってしまった。蚊に食われ、寝るに寝られず、自分のしていることに疑問を感じてしまう。熱烈なキスをしているカップルを見たせいだろう。三十四日目、9月20日太山寺→円明寺昨夜は4時頃寝付いて8時に起きた。8時に起きたのは今までで一番遅い。ひどい雨が降っていたようだが、目が覚めたときには止んでいた。五十二番札所「太山寺」は本堂が国宝で、他の山門や鐘堂もいい感じで、しばらく見ていた。納経所はずっと下の方にあり、30代前半くらいの美人が受け付けていた。彼女がこの寺の大黒さんなら、うらやましい坊主もいるものだと思った。五十三番札所「円明寺」は対照的に町の中の小さなお寺だった。ここで朝茹でたさつまいもを昼飯代わりに食べて、出発したのが12時過ぎ。今はサツマイモが安くて、栗と違って茹でてもおいしくて腹持ちもいいので重宝している。北条を過ぎて菊間に着いたのが5時ころ。今日はずっとはっきりしない天気だったが、その頃から雨になった。菊間を過ぎて、石油会社の前のバス停で野宿の準備をしていたら、公衆電話に来た男性が「この近くに無人の寺があって、よくお遍路さんが泊まっている」と教えてくれた。その人は200円お接待してくれた。感謝です。そこのお寺は中には入れないが、縁側が広いのでゆっくり眠れた。
2010年07月30日
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三十一日目、9月17日横峰寺4時に起きたが、まだ暗いので出発したのは5時半。朝飯は前日に弁当で受け取っていたので、食べないで持って行くことにした。天気がだんだん良くなり、思っていたほど寒くない。1時間10分で、ロープウェーがある成就社からの道と合流して、二の鎖の下に出た。迂回路もあったが、もちろん鎖場を行く。鎖が普通の大きさでなく、一個一個がかなり大きいので、他の山の鎖場を登るのと要領が違った。二の鎖を登り終えて少し行くと三の鎖が待っている。ここは70mほどあって長い鎖場だ。これを登りきれば頂上社があるところで、一番高い本当の頂上は頂上社がある平地から少し降りてから、ナイフリッジのような細い岩稜を伝って行く先にある。飯を食べていないので、いったん頂上社がある小広い広場で休むことにした。ガスコンロで湯を沸かして、ゆっくり味噌汁を作って食べた。昨夜同じ国民宿舎に泊まっていた大阪のおっさんが登ってきたので、写真を撮ってもらって話をした。私が「頂上まで行く」と言うと、彼も「ほなワシも行こうかな」とついてきたが、距離は短いものの切り立った岩稜だから、途中危ないところもあるので、私は10分もかからないで山頂についたが、おっさんはだいぶ後になってやっとたどりついた。そして「イヤーッ大変やった。一人なら絶対これへんわ。これも兄ちゃんのおかげや。ありがとさん」と、とても感動していた。私も写真を撮ってくれる人がいないので、彼が来てくれたのはありがたかった。おっさんはカメラがないので、私に写真を撮らせてそれを後で大阪に送ってくれと、名刺と500円をくれた。写真一枚で500円は貰いすぎだと断ったが、頼むと言うのでありがたくいただき、後日送ってあげたところお礼の手紙が来た。(大阪の田路さん、あれからもう28年たったけれど元気でいるかな?)石鎚山の頂上からの眺めはさすがに素晴らしかった。前日より天気が良くて、すぐ近くの瓶ヶ森、面河山から四国カルスト、遠くは剣山のあたりまでよく見える。振り返ると、これから行く瀬戸内海沿岸もはっきり見えた。しばらく眺望を楽しんでから、荷物を置いた頂上社まで戻った。8時20分に下山した。また鎖場を通ったが、大きな鎖は握りにくくて滑るので下りづらいものだ。迂回路を通れば良かった。成就社まで意外に時間がかかって9時50分着。水を飲んで休んでから近くのおばさんに聞いて、ロープウェーから分岐する「今宮道」を下った。しっかりした道だが、皆ロープウェーを使って通る人がいないのか、クモの巣が張っていて顔にかかって大変だった。登山口の「河口」には11時35分着。下りてすぐの食堂で昼飯を食べてから、八十八箇所中一番の難関と言われている六十番札所「横峰寺」に向かった。食堂からはほんの800mほどで寺の入り口に着き、そこから舗装された急坂が3.5km続く。途中たくさんのお遍路さんに出会った。ほとんどが爺さん、婆さんだが、ここは車を使えないので誰もが歩いて行くしかないようだ。我ながら速いと思うが、1時には横峰寺に着いてしまった。寺で納経して少し休んでから、寺の人に山門の下に続く道がどこに行くのか尋ねたら、小松町に下りることがわかったのでそっちを行くことにした。そういう道があることを知らなかったので、今来た道を引き返して西条市の方に出てから松山に向かうつもりだったのだが、小松町から国道11号線に出た方が遠回りにならずに済む。この道は元々の正規の参道だったのだろうが、今では完全な登山道で、舗装道に出るまで1時間ほどかかった。小松町の山奥の村を歩いていたら、道端に手ごろな木が捨ててあったので拾って、近くの農家でノコギリを借りてちょうどいい長さに切り、その後皮をはいだらいい杖になった。ただ、この木の種類は何なのかやたら重くて、昨日落とした杖より細いのにずっと重かった。国道には3時半頃出た。もう山を二つも登ったから早目に休もうと思っていたが、いい野宿場所が見つからないので惰性で歩いていた。志川に熊野神社という、村社にしては立派な神社があったが、道から引っ込んだところにあり、木が鬱蒼と茂っていて何か出そうなのでやめた。そこから少し行った岡の上に小さな神社が見えたので上がってみると、さっきの神社より人家から離れているが、見晴らしがよく質素なお宮なのでここの軒先を借りることにした。三十二日目、9月18日前日の無理がたたって脚が痛く、体がだるいので7時半まで寝ていた。8時半に出発してノロノロ歩いた。午前中は休憩ばかりで10kmぐらいしか進めなかった。この国道11号線は四国の大動脈なので交通量が多い。大型トラックも多いのに、歩道がちゃんと整備されていないので神経を使う。昼寝を1時間ほどして、午後国道から県道に入ったら車が少なくなったのでホッとした。途中に神社やお堂がたくさんあったので「今夜の泊まり場所には困らないかな」と思っていたら、重信を過ぎてから見かけなくなって、かわりに小さなため池が多くなった。5時頃三島神社というかなり立派な神社があって、近所の人に聞いたらお遍路さんがたまに泊まっているというので、私も一夜の宿を借りることにした。この神社は南日本の方によくある壁がない能舞台のような神社で、玄関に照明があるので夜中でも明るくてありがたい。時間が早かったのでゆっくり休めた。
2010年07月27日
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二十九日目、9月15日大寶寺→岩屋寺昨夜は9時頃寝てからたびたび目覚めた。一応お遍路だから何か禁欲しようと思って、四国にいる間だけはタバコをやめようと一本も吸ってなかったが、この夜もタバコを吸って「しまった!四国ではタバコをやめていたのに吸ってしまった」と慌てた夢を見た。ところがその夢の後になぜか「もう禁煙は解けたんだ」と思ってしまって、目が覚めてから何本か吸ってしまい、「あれ?やはりここはまだ四国だった。でももう吸ってしまったからいいや」と思ったら、それも夢だった。よほどタバコが吸いたいのか、夢もだんだん手がこんでくる。5時半に起きて6時半出発。今日もいい天気。敬老の日で、近くの中学校では運動会だった。9時半、四十四番札所「大寶寺」に着いた。祝日なので参拝者が多く、納経所では順番待ちの長い列ができていた。次は県道を通って四十五番札所の「岩屋寺」へ。途中で遍路道に入ったら、だいぶ上り下りがあって大汗をかいた。遍路道は岩屋寺の裏手の奥の院から入って行く。1時頃着いた。奥の院の仁王像の前にはワンカップが7~8本お供えしていたが、その匂いにつられるのかスズメバチが寄ってきて、次々に入って溺れていく。カップの中は死屍累々の有り様だった。ありがたい仏様の前でこんなに殺生をしていいのか?スズメバチは危険な害虫だが、かわいそうなのでまだ死んでない蜂を一匹助けてやった。細い枝をカップに差し入れてやったら、その蜂が伝って登ってきて、まだ酔っているのかフラフラしながら飛んで行った。「もし俺が地獄に落ちたらこの蜂が助けてくれるかも知らん」と「蜘蛛の糸」の「カンダタ」のようなことを思った。岩屋寺から面河渓に行きたいと思っていたが、県道を通るとだいぶ時間がかかる。食堂のおばさんに聞いたら山越えの道があるというので、そっちを行くことにした。おかげで1時間ほどで面河川に出られた。面河川をずっとさかのぼり、中村という集落を少し登ったところにあるお堂に泊まった。三十日目、9月16日早く目が覚めたが、人が来ないところなので7時まで横になっていた。7時40分に出発して2時間ほどで関門というところに到着。ここから遊歩道を歩いた。まだ紅葉には早いが「面河渓」はいい雰囲気の渓谷だ。1時間ほどで上熊渕の歩道終点に着いた。五万分の一の地図ではこの先にも道があるように書かれているが、実際はもう廃道になってしまったようで通行禁止の看板がある。私は面河渓を見てから、石鎚山スカイラインを通って石鎚山に行こうと思っていた。ここから戻ってスカイラインに出て、普通に車道を歩いても時間はじゅうぶん間に合うのだが、行けるところまで行ってみようと思った。(これが私の悪い癖で、28年たった今でも、行けるところまで行ってみようと思って大変な目にあう。)看板を無視して先に進むと、手入れされてないのでひどい状態で、木道もほとんど腐って落ちてしまっていた。川原に下りて少し歩いたが、道を見失いそうなので山の斜面を高巻きすることにしたら、しばらく進んだところでとうとう道が完全になくなってしまった。川からはもうだいぶ上がってしまったので、いまさら下に降りる気持ちにはならず、そこから上を見たらスカイラインのガードレールが見えたので、標高差100mほどの急斜面をそのまま登ることにした。しかし、「言うは易し行うは難し」でこれが思ったより大変だった。木が密集しているところは登りにくいので、スカイラインから川原まで岩が露出しているところを、ロッククライミングのようによじ登って行ったら、杖が邪魔になってちょっと手を離したすきに、スルスルと滑ってはるか下までカランコロン落ちてしまった。せっかく新しく作った杖は、たった6日しか役に立たなかった。私は杖が跳ねながら落ちていくのを、ゾッとしながら見送るしかなかった。だが、おかげで杖を気にしなくてよくなったので登りやすくなった。途中危ないところもあったが、1時間ほどでスカイラインにたどり着いて、しばらくは無事に登れた喜びで顔が緩みっぱなしだった。私は子供の頃から木登りが好きだったし、大きくなってからは山登りをしているから岩場を登るのは得意だが、本格的な岩登りはしたことがないし訓練を受けたこともない。怪我しないで上まで登れたのは幸運だった。スカイラインに出た場所は「土小屋まで10km」という看板があるところから少し手前で、予定より2~3km前になったが、それでも一回遊歩道の入り口まで戻ってスカイラインに入るよりは、かなりの時間の節約になった。ここからは石鎚山の眺めが良かった。石鎚山は四国カルストから見たときは、ただ台形の一番盛り上がったところにしか見えなかったが、こっちから見ると、槍ヶ岳ほどではないがかなりの鋭鋒である。今日はずっと曇り空だったが、「晴れていればもっと景色が良いだろうに」と思われた。土小屋には4時に着き、国民宿舎「石鎚」に泊まった。ここからはすぐ近くの瓶ヶ森がよく見えた。曇って夕焼けも楽しめないので、後は1時間100円のテレビで相撲を見ていた。
2010年07月26日
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二十六日目、9月12日5時頃寒くて目が覚めた。外はすごい風が吹いていて、台風18号が四国に一番近づいて、徐々に関東方面に遠ざかって行った時間帯だった。7時半ころユースホステルを出発して、大洲城跡に登った。ここは子供の頃見たNHKの連続ドラマ「おはなはん」の舞台になったところだ。大洲の街並みを眺めてから、国道197号線を探して四国カルストに向かった。ますます遍路道から外れていく。昼ごろ鹿野川ダムに着いて、ダムに下る階段に座ってパンを食べていたら、遊覧船の手入れをしていたおじさんが「大野原に行くならこのまま197号線を行くよりダムの向こうの道を行ったほうがずっと近い」と教えてくれた。私は梼原まで行ってから北上するつもりだったが、それだとすごく遠回りになるのでこれはありがたい助言だった。感謝です。この山の中の県道の両側には栗畑が多くて、今が収穫シーズンなので畑の中だけでなく道にもよく落ちている。道に落ちているのはどうせ車にひかれてゴミになってしまうから、それなら俺が食った方がよほどいいと理屈をつけて、道にはみ出た栗を歩きながら拾ったらけっこうな量になった。これをガスコンロで茹でておやつにした。強い風のおかげで雲が吹き払われていい天気だったが、4時半ころからたまに雨が降るようになった。これも台風の影響で、この頃関東ではすごい大雨が降っていたのだった。知野という山の中の小さな集落に、能舞台のような屋根と柱だけのお堂があったので、そこを今夜のねぐらに決めた。ここで夜ラジオを聴いたら、日本語の放送が全然入らないので驚いた。全部朝鮮語か中国語で、たまに入る日本語は、朝鮮放送や北京放送の日本語放送だった。電波の関係か?二十七日目、9月13日6時に出発。台風通過のせいか最高の快晴で、風は秋のように涼しかった。風の涼しさと空の青さがなんとなく懐かしい。昨日からずっと山の中を歩いているが、どこまで行っても急斜面にへばりつくような家があり、わずかばかりの畑があちこちにある。澄んだ水が流れる清流があり、「この水なら飲んでも大丈夫かな」と思っても、しばらく行くと上流に集落があったりするので油断ならない。日本は狭いとつくづく思う。曲がりくねった山道を飽きるほど歩いて、12時半頃やっと大野ヶ原に着いた。台風のせいかたまに通行止めになっている箇所もあったが、歩いて通ったら別に問題なかった。上は広い高原になっていて、一面に牧場が広がり、牛舎がある集落がところどころに固まっている。標高は一番高いところで1400mぐらいで、下界と違って完全に秋だった。昼飯の後、展望台があったので上がってみた。四国カルストというと必ず登場する「源氏ヶ駄馬」もよく見えて雄大な眺めだった。景色は良く、天気も良く、しかも誰もいない。秋の高原を独り占めしたような気分だった。展望台を下りてからは高原の中の道をひたすら東に歩いた。天狗高原まで行くつもりだったが、意外に時間がかかり、疲れてきたので5時ころ着いた姫鶴平の村営「姫鶴荘」に泊まることにした。2食付で4000円でユースホステルに比べたら高いが、こんな高原では野宿できる場所がないので泊まるしかない。客が少ないのか建物は全体に掃除が行き届いてなくて、支配人というのか番頭と呼ぶのかおじさんが案内してくれたが、この人は接客態度が悪かった。私が若くてみすぼらしいせいもあるのだろうが、客を客と思ってないような態度だった。(今考えれば、宿の人にすると「夕方5時に予約もなしでいきなりやって来て泊めろという若い男を、こっちは仕方なく泊めてやったんだ」ぐらいの気持ちだったのかも知れない。)二十八日目、9月14日6時に起きたら寒かった。7時半出発。初秋の高原の朝で、冷たい風がススキの穂を揺らしていた。前日ほどではないがいい天気で遠くまでよく見える。「五段城」からは、四国の両端の足摺岬と室戸岬が見えた。四国は小さい。1時間ほどで国民宿舎「天狗荘」に到着。こんなに近いなら昨日ここまで来て、国民宿舎に泊まれば良かったと悔やんだ。昨日の姫鶴荘よりははるかにきれいで施設もよさそうだ。外に出ていた若い男が私を見て挨拶してくれたから、昨夜のように接客態度が悪いこともなさそうだ。天狗荘から四国カルストに別れを告げて、道は下りになった。標高が低くなったせいか、2~3時間歩いていたら暑くなってTシャツ一枚になった。柳谷村の本村がある落出に着いて、国道33号線に出たのは2時半頃。ここから面河川をさかのぼり、美川村目指して歩いた。今度はどうしたわけか右足の小指がつぶれてきて痛くて参った。左足も初めこうなってしだいに治ってきたから、歩き方に癖があるせいだろう。山の中の、石垣を積んで造った棚田に黄金色の稲穂が垂れ、ところどころに鮮やかな真紅の彼岸花が咲いていてきれいだった。美川村の本村の上黒岩で晩飯を食べ、そこから更に30分ほど歩いて、6時頃「上黒岩遺跡前」というバス停で野宿することにした。(今では柳谷村も美川村も合併して「久万高原町」になったようである。)
2010年07月24日
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二十四日目、9月10日朝6時に起きたら涼しかった。7時に雨の中を出発。ずっと雨が降ったりやんだりの天気で、ポンチョを着て歩いた。もう肉眼で九州が見えていた。三崎町に1時過ぎに着いた。この頃から晴れてまた暑くなり、長袖シャツを脱いでTシャツで歩いた。(以前「愛媛の思い出」http://plaza.rakuten.co.jp/maitaken49/diary/200608300000/という記事に書いた小学生の女の子たちとのエピソードは、たぶんこのあたりでのことだ。)途中で車に乗せてやるという人が現れて、私が何回断ってもしつこく勧める。後で考えたら伊方原発の関係者だろうと思われた。ちょうどその頃、伊方原発の建設話しが持ち上がっていて、得体の知れない人間が歩いているものだから見咎めたのだと思う。この2年前に新潟県の柏崎の原発の近くを歩いていたときも、「怪しい奴」と思われたのか警官に職務質問されたものだった。これは親切心からではなく、人を疑って監視するために車に乗せると言っているのだから、鬱陶しいとは思えど感謝する気にはなれなかった。途中で食料を買って、5時半に佐田岬の突端の燈台の展望台に着いた。ここから九州は本当に目の前で、こんなに近いのかと驚いた。もうすぐそこが大分県の佐賀関で、間の豊予海峡にはおびただしい船が行き来している。細長い岬のどん詰まりだが、最果てというイメージはない。「こんな所までよくもまあ」と思うぐらい、岬の先端の急斜面にへばりつくように人家が建っているからだ。ここで泊まって九州の夜景を楽しむつもりだったが、展望台はただの平地で屋根があるところはなかった。その下に旧陸軍の施設が残っていて、何に使ったのか奥がふさがったトンネル状の大穴がいくつか並んでいた。雨風をしのぐには最適だが、こんなところで寝たら絶対夜中にうなされると思って敬遠する。結局、遊歩道のかなり手前に戻って、海岸の売店近くの、閉鎖した海の家みたいな建物の軒先を借りることにした。休憩時間中もずっと新しい杖を削って、夜も寝るまで削ったのでだいぶ握りやすくなった。二十五日目、9月11日朝6時に起きた。いい天気だった。また展望台に行って九州や豊予海峡の眺めを楽しんで、三崎まで帰ってきた。三崎には10時半ころ着き、八幡浜までの高速船の切符を買った。また歩いて帰っても、同じ景色を見るばかりだから仕方ない。船が出るまで時間があったので売店のおばちゃんたちと話していたら、昨夜私が泊まった浜はよく溺死したり、死体が打ち上げられたりするところで、「怖くなかったか?」と聞かれた。そういう話を聞いてからでは怖いだろうが、昨夜は別に怪異現象はなかった。船は11時半に出て、わずか1時間ちょっとで八幡浜に着いた。さすがに高速船である。バスなら急行でも三崎から八幡浜まで2時間かかるのだ。ただ、波のしぶきが窓にかかって景色が楽しめないので、船の中では寝ていた。八幡浜も大きな街なので、靴屋を探して新しいジョギングシューズを買った。古い靴は去年から履いているもので、この旅ですっかり底が磨り減ってしまった。新しい靴はリーガルの「世界一軽い靴」と言われているもので、すぐ足になじんだ。4時に大洲に着き、「大洲城山郷生館ユースホステル」という長い名前のユースホステルに入った。ここを予約したのは午後になってからだが、ちゃんと夕食がついた。東京で最も人気がある四国のユースホステルの、第二位にここが入っていて、理由はここの晩飯がうな丼だからだという。私も久しぶりにうな丼を食べさせてもらって大満足だった。ちなみに第一位は足摺岬の白皇で、理由はミーティングが楽しいこと、三位は高知駅前で、理由が夕食にカツオのたたきが出るからだそうだ。夕食後、鵜飼いを市内の川でやっているというので、ペアレントさんに場所を教わって見に行った。橋の上でワンカップを飲みつつ待っていたら、上流から鵜飼いの船がやってきたが、すぐ川下に流れていったのであまり見えなかった。川に潜った鵜が引き寄せられて、飲んだ魚を吐き出させられているのがちょっとかわいそうだった。松尾芭蕉の句の気持ちがわかった。
2010年07月23日
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二十二日目、9月8日龍光寺→仏木寺→明石寺朝飯前にまた展望台に行って宇和島の景色を見てきた。久しぶりの快適な環境なのでゆっくりして、8時半頃出発した。朝方は天気が良かったが、そのうち曇った。また海を離れて内陸に入り、四十一番札所「龍光寺」には11時頃着いた。それから1時間で四十二番札所「仏木寺」。仏木寺からは山の中の道を登って行き、歯長トンネルを抜けてから下りになる。途中少し遍路道があったので、近道だと思ってそっちを通った。四十三番の「明石寺」には3時半着いた。4時に寺を出て宇和の町を通り、大江の国道と県道の分岐の空き地に、今は使っていないような工事用のプレハブ小屋があったので、また無断で泊めてもらうことにした。二十三日目、9月9日5時頃激しい雨音で目が覚めた。水がないので軒下にコッヘルを置いたら、たちまち一杯になるほどの雨だった。その水で朝食を作った。宇和島でガスカートリッジを買えたので心配なくガスを使えたが、残り少ないと思っていたカートリッジにはまだけっこうガスが残っていた。今日は遍路コースを外れて八幡浜に向かった。雨は小降りになり、そのうち止んだ。双岩駅を過ぎたあたりで縦二寸で横一寸、長さ六尺ほどの角材を拾ったので、これを杖にしようとナイフで削った。1時間ほどかけて何とか握れるほどの太さになったので、霊山寺で買った杖は捨てた。「杖は弘法大師の身代わりだから休むときは上座か床の間に置け」と遍路の案内には書いてあるが、材質が柔らかく細い角材なのですぐ減ってしまって、この頃は全然杖として役に立ってなかった。犬に吠えられたときに追い払うのに役立つぐらいだ。石突きがついていれば減らなかったのだろうが、ただの一寸角ほどの柾目の角材に「南無大師金剛遍照」と書いているだけのもので、力をこめて地面に突くと下から無残にどんどん折れていく。正統なお遍路をしている人からは「この罰当たりめ!」と怒られそうだが、私はこの杖を実用のために買ったので「高いだけで役に立たないものを売りつけやがって」と思ってなんの未練もなかった。杖のつもりで売っているなら石突きをつけろ。少し行ったところの家でノコギリを貸してもらい、新しい杖をちょうどいい長さに切った。八幡浜には11時頃着。それからお遍路とは関係ないが佐田岬の方に向かった。観光がてらの旅だから、日本一細長い岬の先端まで行ってみたかったのだ。伊方町の町見というところで食料を買って、そこから少し歩いたところに神社があった。ちょうど5時頃で、雨が降りだしたのでそこの軒下を借りることにした。夜は雨の他に突風がときどき吹いて目を覚ました。
2010年07月23日
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二十日目、9月6日観自在寺寝不足のまま6時に起きて出発。昨夜の雨は上がったが、どんよりした曇り空だった。8時頃高知と愛媛の県境を越えた。11時頃、四十番札所「観自在寺」に着いた。ここは本堂の中に納経所があるのだが、その納経所の係りと本堂の反対側にいる坊主たちが、拝んでいる人間を挟んで大声で話をするのでゆっくり拝めなかった。お参りする雰囲気としては今までで最低の寺だった。いくら坊主はただの商売だと思っているにしてもこれはひどい。無神経に大声で話している太った坊主が、宗教者でなく貪食な豚に見えた。境内にはゆっくり座れるベンチも置いてないので、灯篭に腰かけて昼飯をつかい、12時頃歩き出したが、御荘の町を外れたところに元バス停の待合所があったので、中でゆっくり昼寝した。3時までゴロゴロしていたら、外は本降りの雨になっていた。今夜はこのまま泊まるかと思ったが、まだあまりに早いのでポンチョをかぶって出発した。しかし、この先にはいい野宿場所はなく体だけが濡れていく。晩飯を食べたホルモン屋の先に工事用のプレハブ小屋があって、中には何もなくて戸を開けてみたら入れた。もう少し先まで歩いてみたがやはり野宿場所が見つからないので、今夜は無許可でそのプレハブ小屋に泊まることにして戻ってきた。それまでずっとTシャツだけで過ごしてきたが、雨のせいか寒いので初めて上に長袖のシャツを着た。二十一日目、9月7日7時に出発した。朝のうち少し曇ったが、そのうち晴れた。このあたりは海の眺めが良い。午後すぐ松尾トンネルを抜けた。全長1.7kmもある長いトンネルだが、ちゃんと歩道があるので怖いところはなかった。歩く旅ではトンネルが怖い。車を避ける場所がないし、音がワンワン反響するので、追い詰められているような心境になり、早く出たくてたまらない。トンネルの中でクラクションを鳴らせばものすごくうるさいのはわかるだろうに、それでも歩行者を見かけると鳴らす奴が多いので苦労する。3時過ぎ宇和島城に着いた。この城は宇和島の街の中にある、高さ100mほどの独立峰の上に築かれたお城で、江戸時代からの天守がそのまま残っている。城跡からは宇和島の街と港がよく見渡せた。宇和島は思っていたよりずっと都会で、中村市では見つからなかったEPIのガスボンベも、ここのスポーツ店には置いてあった。ユースホステルには5時頃着いた。街の高台にあり、たどり着くまで少し苦労したが、すぐ側に展望台があって、晩飯後、夕暮れの宇和島の街の景色を楽しむことができた。
2010年07月22日
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