今日は2008年の元旦、
”一年の計は元旦にあり”ってわけで、
本日は、”やることやって後はストレス解消”で過ごしました。
具体的には・・・
学習!!!!!
小6坊主→学校の宿題5ページ、中国語公文教材(香港の友人から船便で送られてきた)、
英語&数学の公文教材(こっちは日本版)
長男坊主→総合支援学習センターの宿題
母→ハングル学習
父→休まず仕事(だって、旧正月で休むんだも~ん)
お次は、子ども部屋の大掃除。
今まで見ない振りしてきたけれど、そうは行きません。
床に散らかっているものを大きな箒でレレレのおじさん風に掃いて
一箇所にまとめたら、「要る?」「要らない?」の二択で処分していきます。
長男坊主くんは、「要る」「要る」「要る」で結局どれも捨てられず(-_-;)でした。
そして最後にカラオケ三昧コース。
ついにJULEPSの【旅立つ日】を歌いました。
しかも採点付きでね(笑)
年末に本棚の掃除をしていたら、
20代の頃、応援していた香港の俳優・何 家勁(KENNY HO)の
FC会報が出てきた。
これは、当時、私が日本のファン向けに発行していたもの。
パソコンやワープロを使用せず、
自筆で小さな原稿のマス目ひとつ、ひとつに文字を載せて綴った。
記事をひとつアップするためにそれはそれは苦労をしたので、
数十年たった今でも処分することができずに持っている。
彼との出会いは、香港九龍Nathan Road沿いの
Jakie Chanのロケ現場だった。
以前、このブログにも書いたが、
私は、香港も映画もジャッキーも大好きだったので、
お金が貯まれば、第二の故郷へ足を運んでいた。
【言葉が通じようが通じまいが、ハートがあれば意思の疎通に問題ナシ】という
持論のもと、けっこう撮影現場には行ったかな。
撮影は【プロジェクトA 2】のロケ。
その時、初めて私はKENNYと会ったが、
1、2時間でその人柄に思いっきり惹かれてしまった。
昔っからB型に弱い・・・(-_-;)
KENNYは亜州テレビとの契約を経て、
当時、ジャッキーの所属する事務所に在籍していた。
映画では、新人同様の立場だったので、
ジャッキーとというよりも、
成龍班と言われるスタントマン、アクション補助隊の俳優さん達と
仲良かったことを覚えている。
その後、帰国し、熱烈なファンレターを書いて投函した。
そして再び香港を訪れる直前、彼から返事が来た。
「会いましょう」と。
もちろん、上へ下への大騒ぎで大喜びだったが、
後から聞いた話しでは、情け深い親友のDICKが
B型のKENNYに助言をしてくれた末のことだったらしい。
果たして、再会は済ませたものの
日本のファンに興味があるんだかないんだか・・・?
いつも肝心なところで、親友やお母さんやお兄ちゃん、お姉ちゃんが、
KENNYの代わりに協力してくれた気がする。
ある時などは、約束したのにも関わらず、
まる一日電話待ちということがあった。
「その日しかオフがないから電話するね」と言っていたので、
なんとか見つけ出さないと明日以降は会えない。
”会えない”と会報の記事は書けない!こりゃ、大変だっ!
ってことで本人を探すことにした。
友人、家族などに電話をして、
総合的にまとめてみると、うん、やっぱり仕事はオフ。
ならば・・・ってんで、いきつけのビリヤード場に行ったら
本当にそこにいたりして。
時間は夜の7時をまわっていた。
まさか本当にいたので、
私は怒り&半泣きの状態だったと思う。
それを見て、
「え?なんでココだってわかったの?」と
言いながらも、非常にバツの悪そうな顔をしていたKENNY。
今考えたら、それも迷惑な話だったと思う。
たとえ海を渡ってやってきたとしても、
オフの日までは面倒みきれないだろう。
でも、彼は私の機嫌をなだめるように
「もうすぐ終わるから、終わったら、ご飯を食べに行こう!」と言い、
一緒にプレーしていた友人たちに
「日本のベストフレンドだよ」と名前まで紹介してくれた。
彼のビリヤードは、プロ並にうまく
ルールをあまり知らない自分でさえ、
そのテクニックに思わずひき込まれるほどで、
ご飯までの時間はそんなに長く感じなかった。
というより、一日中電話を待っていたわけだから
それに比べればたいした時間ではなかったってことかな。
彼は料理を運んできてくれた人に「ありがとう」と必ず言う。
もしくは、会釈を忘れない。
ある程度の知名度があっても、ふんぞり返った部分がまったくなかった。
そこが好きだった。
あ、あと食事をいつもご馳走してくれたところ(す、すみません)
会報の発行部数が8冊目になった頃、
(知り合って4年ぐらい過ぎていた)
再び香港へ渡った。
その時、私はKENNYと初めて彼の仕事現場へ行くことになった。
新界にあるいささか古びたビルの中でビデオドラマの撮影。
九龍から車で1時間ぐらいはかかっただろうか、
通された部屋は朽ち果てたビルの一室で、
本当にこんなところで撮影をするのだろうか?と感じるほど
気味の悪い空間だった。
お友達の俳優さんが、傍にいてはくれたものの
KENNYの休憩時間がくるまではものすごく心細かったし、
そんな仕事をしていることがかわいそうに思えた。
その帰り道、KENNYに相談を持ちかけられた。
「実は台湾の中華テレビからオファーがきているんだけど、
君はどう思う?」と。
それは、彼にとって人生の転機になる話だった。
「プロジェクトA 2」の出演以来、パッとした作品に出演しておらず
今も、作品化されるかどうかもわからない環境の中での撮影をしている。
このまま、30代を過ごしてしまうのはまったく惜しい気がしていた。
「ジャッキーの事務所にいても、
彼と同じ作品に出演すれば、
主役は必ずジャッキーになると思う
でも、KENNYには主役を張るほどの
力量と才能があるのだから、
もしも、(相手が)望んでくれるのならば
今、チャレンジすることは大切なんじゃないだろうか」と
いうような内容で返事をした。
(本人には言わなかったけれど、”濃い”顔つきをしているので、
到底、脇役では務まらないというマイナス点もアリ)
当時、彼には仕事をマネージメントする人物はおらず、
そのすべてを本人がしていた。
友人からの伝手でオファーがきたのであれば、
それは十分に試してみる価値のあることだ。
それから、半年後に彼は台湾へ旅立った。
そして、彼は歴史ドラマ「包青天」の主役を演じ、
中華テレビのゼネラルマネージャーから賞を授与されるほどの
大ヒットをとばした。
って、ちょっと信じがたい話ではあるんだけど、
その後、台北へ行ってみると仕事の合間をぬって
ホテルのロビーまでKENNYは尋ねてきてくれた。
それから、二人で彼の行きつけのジムへ歩いていくと、
道行く人々が次々に彼に声をかけ、サインをねだる。
その人気ぶりに唖然、ボー然、歓喜の涙が、
ツツーッと流れた。
ものすごく疲れた顔をしていて、
恐らく十分な睡眠もとっていないはずなのに
「ねっ?やったでしょう?すごいでしょ?」と
笑った顔がキラキラ輝いて見えた。
その後、日本のファンへのプレゼントとして
たくさんのポートレートを手渡されたっけ。
あれから随分たった。
懐かしさに駆られ、
ネットで検索してみると
インターナショナルFCが中国で運営されている。
活動の拠点は中国本土になっているようだ。
随分老けたし、それなりの苦労を示す皺もある。
それはお互いさまだけど・・・(苦笑)
彼は私を覚えているだろうか?
私は今もこんなにはっきりと彼のことを思いだせる。
もしも、もしもチャンスが会って、
いつか彼と再会できたなら、
きっと私は笑って名乗り出るだろう。
そして、あの時の数々の無礼を謝って、
今でも、”KENNY HO”を大切に思っていることを伝えたいと思う。