伊賀へいらっしゃい

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2020年04月19日
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芭蕉生家の離れ釣月軒

芭蕉には解明されていない事柄が余りに多い、それは芭蕉が生きていた時代にはあまり重要に思われ
ていなかったせいでしょうか、記録が詳しくなく、まず生年月日がわかりません死亡した年が数え年
51歳とあるので換算して正保元年(1644)としているだけで月日の記録がありません。

多くの弟子達がいて多くの記録を残しているのにた生年月日を記したものがないことを少し奇異な
ことに思うのは今の時代の考え方なのでしょうか。





母親の出自もミステリアスです、元は桃地氏(百地とも)で伊予の城を任されていた藤堂高吉が名張に
移るとき(寛永13年、1636年)共に移ったとの記録はありますが家柄の記録がなく、芭蕉が新七郎家と
いう侍大将の屋敷に仕えられたり後に妹が名張藤堂家下臣に嫁いだり兄が仕えたりしたのは母親がど
ちらかの家の隠し子ではないかとの説があります。

そして芭蕉が藤堂新七郎家に仕えた年も豊かでない家の次男が19歳まで働いていなかったのか、
仕えられたのは俳句をたしなんでいたからか、それとも仕えた後に俳句を学んだのかもはっきりしません。
「芭蕉は仕える前年の1661年頃から北村季吟に俳諧を学ぶことがあったか」と「上野市史芭蕉編」に記載されています。

芭蕉は新七郎家に仕える以前から窪田政好、保川一笑と俳句を通じて親交がありその縁で新七郎家に
仕えた。と伊賀市の(芭蕉翁顕彰会)のサイトにあり
伊賀市の「芭蕉と伊賀上野」でも同じ文章が掲載されています。

保川一笑は伊賀上野で紙屋を営む富裕な町人で本名は保川弥右衛門というが生年月日等年代は不詳。
貞門の同士として窪田政好らと藤堂新七郎良忠(蝉吟)の下屋敷に出入りし、 京都の北村季吟に
師事し本格的に俳諧の道をたしなむ蝉吟の相手をしたり、当初は貞門の先輩として芭蕉(宗房)に
俳諧の手ほどきもしたと思われる(伊賀上野町家みらいセンター)

どうやら伊賀の人達は俳句が縁で新七郎家に仕えた説のようです。

寛文二年(1662)千宜理記.(ちぎりき)に
「春や来し 年や行きけん 小晦日」
の句が掲載されていて、19歳 時のこの句が現在は一番古い句とされています。
この寛文二年が発行の年だとすると「こつもごり」は寛文元年の暮れということになり出仕前の作と
なり以前から俳句をたしなみその縁で新七郎家に仕えたということになります。

大垣市のサイトには
芭蕉は13歳のとき、父を亡くしたため、藤堂新七郎家に奉公に出ました。
藤堂家では、跡継ぎであった藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ)に小姓として仕えます。

良忠は俳諧が好きで、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていました。
蝉吟の師匠が北村季吟でしたから、芭蕉は、蝉吟の句の添削をしてもらうため、主人の代理で京都の季吟の元へ通うこともあったようです。

季吟から句の指導を受け、それを蝉吟に伝える役目を持っていたのです。
このとき、芭蕉は俳諧の妙味を知ったのでしょう。

京都の北村季吟中心のサイトも同じような文脈です。

しかし、芭蕉が23歳のとき、蝉吟が死亡しました。

蝉吟が亡くなった後の芭蕉も定かてでないことがありますがそれは次回。







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Last updated  2020年05月23日 11時30分58秒
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