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藤堂家紋蔦紋は子孫繁栄の象徴として用いられます。ですが藤堂家の最初の家紋は「丸に片喰かたばみ」カタバミ夜に葉が閉じて半分になったように見えることからとされます「傍食(かたばみ)」または「片喰(かたばみ)」と書きます。「酢漿草(かたばみそう)」と書くこともあり」「ほおずき草」と表記されることもあり藤堂家の家紋は「ほおずき草」だったと挙げられている説もありますが「ほおずき草」という家紋はありません。 丸に片喰かたばみ 藤堂高虎最初の家紋 豊臣秀吉の五七の桐紋 藤堂蔦紋 通常の蔦紋 藤堂蔦 高虎は豊臣秀吉から桐の紋を許されたが 「それでは恐れ多い」と上の花を取り「蔦紋」として用いるようになったそうで従って普通の蔦紋より下に潰したような形になっている。藤堂蔦といわれるます。 白餅 高虎が旗指物に用いた「三っ餅」。白餅は、「城持ち」にかけられているともいう。流浪生活中には三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋で三河餅を無銭飲食して捕まったとようで、吉田屋の細君もたまたま近江の出であったとことから、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと路銀まで与えられたと言う。後日、大名にまで出世した藤堂高虎は、参勤交代の折に立ち寄って餅代を支払った。ゆえに藤堂高虎の旗指物は「三つ餅」なりました。なお参勤交代の際の主人は三代目中西与右衛門というもので、彼の先祖は織田信長に清州屋として仕え、本能寺の変の後吉田宿で酒問屋を始めたとされます。
2024年09月04日
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平井神社 本殿平井神社「由緒」を判読してみました。『「伊賀誌」に「孝謙天皇御宇天正勝宝三年(751)伊賀疫行天皇立使以小田庄祭大己貴命・事代主命於此疫鬼鎮焉」』とあり、疫病鎮めるため751年に創祀され『「平井神社由緒記」に「延長元年(923)九月事代主命平井天神宮と須氏神と崇める」』とあるので923年に事代主命(ことしろぬしのみこと)を氏神と祀り平井天神宮とされたのでしょう。『「伊水温故」「三国地誌」によれば菅原道真公縁の梅が九州大宰府より飛来したと云う縁起をもち飛来天神宮とも称され旧小田村字東出(往古は平井)に鎮座とある。』これがいまだに神社名、平井神社 通称、飛来天神宮とされる所以でしょう。現在は度会郡の白拍子が苗木を持って来たという説が有力です。『「兼右郷記」に永禄一一年(1568)伊賀国守護職仁木長政の招きにより吉田兼右が京都より上野丸山(旧小田村鉄砲場)の新城の地鎮祭を執行「幣串近所之天神内陣」に奉納とあり、当社の事であると思われる。』戦国時代の伊賀守護仁木氏の館の地鎮祭をおこなったようです。『明治三年九月稀有の大洪水に全村民家浸水流出の難に遇った。当村移居係村田順造は旧藩主藤堂家及び県知事に現在地の土地払い下げを嘆願し、明治六年許可なり、地名を明治屋敷と名付けた。村民移転の後、明治一〇年一〇月神社を建立、平井天神宮(八重事代主命)境内社津島社(素戔嗚尊)並に同村字西出の春日神社(天児屋根命,武甕槌命,経津主命,天鈿女命)境内社津島社(素戔嗚尊)更に同村字東出の疾追神社(疾風神)を合祀し、社名を平井神社と改称した。』とありこの場所には明治十年(1877)に村民移転の後、移築建立され飛来天神宮から小田地の神々を合祀し平井神社としたようです。明治四〇年五月、同村字往古川の山神社(大山祇神)を合祀した。又、白川白瀧稲荷社を祀り護国神社には日露戦争の御霊を祀られています。参道の階段を登り最後の鳥居◎安政二年(1856年)に二度の洪水、また明治三年には全村民家浸水流出の難に遭ったようです。西を流れる「木津川」、北を流れる「服部川」とに挟まれた地。いずれかが氾濫したようです。参道には往時の様子を物語る石碑が参道の左右に建てられていますが明治十二年の北側の碑には避水移居に奔走した小田村役場勤務の村田順造氏を称える言葉がある。しかし南側の三重県知事の碑には名前が無い、「伊賀市史 避水移居」にも記載が無い平成25年度伊賀市史編纂会議での発言に「村田順造の業績には賛否あるが」という個所があり行政側にはわだかまりがあったようです。平井神社 禰宜(ねぎ)の直井佳代さんが色々と熱心に手入れされています。階段参道左側の漢文石碑右側に説明文碑があります要約すると「移居世話係となった村田順造氏の卓越した指導のもと地区民は一致協力して工事をはじめ完了した。この人々の功績を後世に残すためこの碑が建てられた。」とあり小田村の移転には村田順造氏がただならぬ尽力をしたことが記されている。参道階段右側の耕地整理碑 三重縣知事石碑大正十一年のこの石碑には村田順造氏の名前が無い。また「伊賀市史 避水移居」にも記載が無い平成25年度伊賀市史編纂会議での発言に「村田順造の業績には賛否あるが」という個所があり行政側にはわだかまりがあったようです。
2024年08月27日
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服部宗家 本家服部半蔵が有名になり半蔵家が服部宗家のように取り沙汰されているが伊賀服部宗家はこの伊賀市高畠の服部家でその証に嘉暦二年(1327)に六波羅探題から黒田荘の悪党鎮圧を命じられたのもまた貞和二年(1346)将軍足利尊氏が夢窓疎石の勧めにより全国に安国寺利生塔の建立もどちらも伊賀高畠村の服部持法が命じられています。つまり幕府からすると服部持法が伊賀を代表する本家という認識があったと思われます。服部半蔵の祖は服部家長という伊賀荒木村に在していました。ここでまた分かり難くしているのは服部家長が伊賀一ノ宮、敢国神社の管理し、くろんど祭りなどを遺しています。というのも敢国神社は阿閉氏の氏神としていたが阿閉氏一族は壬申の乱(672年)で大海人皇子(天武天皇)に味方し奈良の都までついて行き官吏になり出世します。続日本紀によると708年正月に正六位上の阿閇朝臣大神は従五位下を授けられていますそれで敢国神社の管理は服部家長の家が先祖代々が任されていたようです。しかし服部家長は源平合戦で平家に味方し(伊賀は中立又は源氏に味方した)1185年壇之浦まで行っているが荒木に帰れず伊賀東西部の千賀地に隠れ住んだ。服部半蔵の父、服部半三保長は1500年代中頃京に出て足利に仕えたが、すぐ見切りを付け徳川家康の祖父、松平清康に仕えた。荒木村で五百年、千賀地で四百年の歴がある。伊賀越え後に配下となった伊賀同心は徳川家臣団の一部門であり、服部家の家臣ではない。正成はあくまで指揮官の一人であり「伊賀国の忍者の頭領」ではないとし、千賀地服部はそもそも分家であるとして良しとしなかった。高畠服部家の氏神神社は伊賀二之宮服部の小宮(おみや)神社です。
2024年08月17日
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阿保西部の太神宮常夜灯の西横にある初瀬街道阿保宿の道標「八鉢道」の道標「一光三尊如来道」左脇に「是より南四十丁」4,3632km裏に「兼行法師塚是より四十六丁」と刻まれている。常夜灯は市教委出典によると昭和46に道路整備のため移設、電気点灯(竿正面)「大神宮」猫脚 江戸中期、庶民の間に神宮参拝が盛行し、常夜灯建立の習俗を生み出した→信者が常夜灯講を組織し、講員が出資して常夜灯を建立し、輪番で灯明を点じ、神宮を遥拝したとあります。初瀬街道は現在の松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て奈良県の初瀬(長谷)へと至る街道です。青山中学校裏の舟形地蔵光背型道標地蔵の上に梵字 右側に「右愛宕山」左側に「左にょらい道三十二丁」(3,49km)1km程近づいたことになるます。「八鉢道」は阿保から老川への極楽寺を結ぶみちで本尊に因み「にょらい道」とも呼ばれました。延命地蔵 県道沿い地蔵上に梵字「右かわかみみち」「左にょらい道二十□丁」2,4km地蔵道標 旧道種生山立分校梵字「右たなをみち」「左にょらい道二十丁」2,18km老川旧道道標梵字「右にょらい道十四丁」約1.53km 「左ふくかわハワみち」これらの舟形地蔵光背型の道標は同時期(天明期1785年)に、同じ施主により建立されたと考えられる。老川バス停の道標「日本三躰如来」同じ老川バス停の道標左側に「左老川如来道是ヨリ四十丁」(4,36km)と刻まれている初瀬街道、常夜灯横の道標と同じ距離なのは八鉢道の始まりの地から移設されたからですが実際は一番近くになり十二丁1,3km程の所にあります。ここが老川如来、極楽寺 本尊が黄金秘仏の如来とされていて60年に一度開帳されます。極楽寺の如来ですので阿弥陀如来です。その始まりを善光寺尊仏に由来するという伝説で裏菊紋を許されている。
2024年07月05日
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公益財団法人「前田教育会」(伊賀市)で1999年以来の、大きさ縦横9メートル、重さは4キロの謝罪状が公開された。納軸が左側に表装されています、ギネス世界記録に申請したこともあるが、該当するジャンルがなく登録には至らなかったという。今回、教育会が映画や音楽などのイベントに使ってきた小ホール「蕉門ホール」が設備老朽化で6月末に閉鎖することになり、25年ぶりに最後の展示をすることにした。 送り主は伊賀地方の近代化の礎を築いた実業家で、旧上野町(現伊賀市)の町長も務めた田中善助(1858~1946)。 田中善助は伊賀地方に鉄道を通したり水力発電所や下水道を整備したりし、景観保護活動にも取り組んだ。手紙は新田開発用のため池を整備する際、他人の山林に道を造ってしまったことを謝罪する内容で、1899(明治32)年、山林所有者の寺の住職に送ったもの。 模造紙をつなぎ合わせ、漢字と片仮名交じりで「御寛大思召(おぼしめし)」でお許し頂ければ「感喜ノ至ニ御座候」などと約130字でしたためている。わらぼうきに墨を含ませて書いたらしい。冒頭の「謝罪状」の3文字はそれぞれ縦横1メートル以上ある。 「田中善助伝記」によると、檀家(だんか)が寺領を荒らされたことに怒り、謝罪状を書かせたが、その大きさに「住職はじめ檀家総代一同啞然(あぜん)たらざるを得」ず、平和的に解決したという。桐納箱が壁側に置かれています。上の消火器で大きさがはかれるでしょうか。前田会館は平成元年3月に三重県教育委員会より認可された公益法人です。平成4年11月に教育会館が竣工。前田会館ホームページ 「蕉門ホールは稼働から30年が経過し、ホール設備(空調・音響・照明)の各機器類は耐用年数を超えて使用しているものが多く、利用者へのサービス低下を招く恐れがあり、安定的なホール機能の提供を保障することができないため、2024年6月30日をもって、蕉門ホールを閉鎖(ホール機能の廃止)することとなりました。 長年、地域の皆さまをはじめ、多くの皆さまにご利用いただきましたこと感謝申し上げます。 尚、蕉門ホール以外の施設『講座室』『和室』につきましては、引き続き、ご利用いただけます。」とのことです。句碑 日本庭園前と裏門に4基の句碑があります。前田事務局長さんに案内して頂きました。 松尾芭蕉 宗房 『千宜要記』 「春や来し 年や行けん 小晦日」(はるやこし としやいきけん こつもごり)この句は収載された芭蕉の最も若い時の発句で俳号は宗房です。寛文二年(1662)芭蕉十九歳の年末の作小晦日12月29日に立春になり、春なのか年の瀬の年や行けんか、とした遊びに近い疑問を二つ重ねて興した勻。 これは『古今集』や『伊勢物語』の古歌に材を とったパロディーで、宗房は主の蝉吟とともに こうした貞門俳諧の滑稽に興じていたのでしょう。高浜虚子 「掛稲の伊賀の盆地を一目の居」一目の居 高浜虚子句碑高浜虚子が上野丸之内の菊山九園邸を訪 れたのは、昭和十八年十一月二十三日でした。 その前夜、友忠旅館(中町)に一泊した虚子は、「ここに来てまみえし思ひ翁の忌」と詠み、翌二十三日、日本文学報国会俳句部会長として、 愛染院故郷塚での芭蕉翁二百五十回忌大法要に出席されました。 そのあと、白鳳公園の増田公会堂での全国俳句大会に参加する 途次、九園邸に立寄り休憩、ここで「掛稲の伊賀の盆地を一目の居」(かけいねの いがのぼんちを ひとめのきょ)と詠みました。城山につづく高台にあった九園邸から、刈取りが済み 稲架(はさ)掛けされた田園風景が一望できたのです。こののち、九園邸は「一目の居」と呼ばれるようになりました。昭和 三十六年五月一日、虚子の二女・星野立子氏によって現地で除幕された この句碑は、その後、九園邸の処分によってこの前田会館に移設されました。 菊山九園 「梅さむし 岩より屋根へ 石たゝき」 菊山享女 「この月に 祈れる母は 吾のみか」上野丸之内の「一目の居」に住んだ菊山九園・享女はおしどり俳人 として 知られました。九園(本名・辰男)は明治二十五年上野町に生まれ。また享女 (本名・逸子)は明治二十八年、名張町生まれ、 この夫婦句碑は金婚記念として昭和四十年六月十三日に自邸に 建てられたものです。菊山有星 「掌に這はせ天道蟲の星七つ」菊山夫婦の三男裕生(俳号・有星)は三高京大ホトトギス会で活躍し ましたが、東京帝國大学在学中に学徒出陣、昭和二十年四月二十九日 にルソン島で戦死しました。この二基の句碑は、九園邸の処分によってこの前田会館に移設されました。
2024年05月20日
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草蒿寺跡には「兼好法師終焉の地」の石碑が建ち、森の奥には「南朝忠臣兼好法師」と刻まれた顕彰碑と、木々に囲まれた塚があります。遺跡地は東西20m、南北30mの平坦な雑木林で、高さ1.2mの遺跡碑が中央に建てられ、碑の前に土石がすこし高く積み上げられていて、これが兼好の塚と言われてます。遺跡碑の奥に兼好塚があります種生の国見山は、『徒然草』の作者として有名な兼好法師が晩年を過ごした地として広く知られています。幼少より和歌や文芸に秀でていた兼好は出家し、兼好法師と名乗って諸国を巡り歩きました。晩年はかねて相愛であった小弁の局の父、橘成忠の招きでこの地に庵を開き、余生を送る傍ら、徒然草を執筆したといいます。また、公園内には松尾芭蕉の高弟・服部土芳が1698年にこの地を訪れた時に詠んだ《月添いて かなしさこほる 萩すすき》の句碑が建っています。その奥には梅林がありますが、近年鹿の食害がひどいので柵が設置されています。元禄期に京都の公卿篠田厚敬がこの地を訪れ、篠田厚敬稿「種生伝」、土佐光成筆「兼好画像」、頓阿・弘融・兼好の和歌色紙などを寄付しましたが、現在は常楽寺に残されています。絹本著色兼好法師画像は三重県の文化財に、兼好塚と草嵩寺跡は市の史跡に指定されています。また塚の近くにある「種生のオオツクバネガシ」は伊賀市指定天然記念物で樹周囲3.5m、樹高20mで枝張りは東西方向に23m、南北方向に21mになり樹齢は不明ですが樹がゴツゴツした質感で樹勢は旺盛です。県下でもまれな樹木でその大きさからも大変貴重な樹木です。もしかしたら、兼好法師もこの樹を眺めていたのかもしれませんね。没年は正平5年4月8日(1350年5月14日)ともされ、また異説として観応元年2月15日に兼好が伊賀国名張郡国見山にて死去したとする記事を載せていることからこの日とする説もあったが、これらの日付以降の活動を示す史料が複数指摘され、その中でもっとも遅いものとして1352年8月の『後普光園院殿御百首』奥書に名前がみえることから、現在の通説ではこの年以後と考えられている。兼好法師「ありとだに ひとにしられで身の程や みそかにちかき 有明の月」の歌碑です。しかし「あけぼの々月」と刻まれています。
2024年03月12日
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「みな出て橋をいただく霜路かな」 北詰東欄干碑元禄7年冬の作。待ちかねた新両国の橋がようやく竣工したので誰も彼も出てきてこの清らかな霜の置いた橋をまるでおしいただくような気持ちで渡っている、との意。『泊船集』にでている。下友生小橋 上流の江戸へ向かう表記は漢字、反対の下流はひらがな表記芭蕉旅姿碑北詰西欄干最北北詰西欄干碑二番目しんとしせん元禄6年秋の作。小名木川に舟を浮かべて深川五本松付近で詠んだ句。「川上とこの川しもや月の友」北詰西欄干三番目しもとものはし芭蕉旅姿碑北詰西欄干四番目元禄7年夏の作。自分は生涯を旅に迎え旅に送ってきた。それはちょうど農夫が田を耕すのにいったりきたりするのと同じようだ、の意。「世を旅に代かく小田の行き戻り」「五月雨も瀬ふみ尋ねん見馴川」 北詰西欄干碑五月雨で見馴川も大変水かさが増して渡るに浅瀬が判りずらい。五月雨でさえ雨足で瀬踏みしているようである、の意。大和名所の見馴川と見慣れた川をかけている。寛文10年より前の作と推定される。北詰東欄干最北 新都市線北詰東欄干碑 下友生小橋芭蕉旅姿碑
2024年03月04日
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伊賀市依那具の三主の城依那具は古代朝鮮語の、鉄を表している説が有力。川沿いの地で砂鉄が採れたのだと思われます。依那具 三主の城伊賀十二人衆の一人、依那具荘地頭:小泉左京、一族の砦群と思われる。その三主の城への登り口国道から登ってすぐ右側に平地が城山城跡、右側に城山城跡への登り口城山城跡の平地崖の下は国道422号線(青山街道)城山城跡(しろやましろ)北の城城跡(きたのしろ)狭間城跡(ざまじょう)三主の城跡と呼ばれるが全て小泉左京一族の砦と思われます。北側へ向かい真っすぐ途中、祠がありそれの左を通過鉄塔の標を右にそこが北の城城跡北の城跡台地電力会社の鉄塔中部電力管内の地ですがどうゆう訳か関西電力の鉄塔です。引き返し西側に高い土塁がカルデラ蹄鉄(ていてつ)状に遺っているのが狭間城跡です。土塁に登ると壮観です。横が空堀になっていて土塁に登るとこの見晴らしです。
2024年02月25日
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本日の伊賀市上野日南町にある松本院という修験道寺院で行われた節分星供(ほしく)祭りの模様です。コロナ禍中はあまり盛大に出来なかったので久しぶりの数珠を回す「百万遍大念珠繰り」が行われた。長さ23mの大数珠繰りが行われました。今年は人数が40人程でしょうかここ数年十人程で数珠廻りも行われなかった年もあったので久しぶり盛況でした。星供とは一年の災いを除くため、各人に定められた「本命星(ほんみょうじょう)」「当年星(とうねんじょう)」等の諸星を祀る法要で、一年の始まりの節目である節分に行われます。松本院は、伊賀市上野地区にある多くの寺院と同じようにように藤堂高虎が今治から移封された時、祈願所として同行、のち真言宗、醍醐寺三宝院の修験道寺院として1616年、開山しました。最初は、天満宮の北側あったようですがその後、寺町の大超寺南に地福院としてありました。その後三之町筋、紺屋町、正宗寺西隣にうつり寿福院としました。享保十三年(1728)紺屋町を立ち退き現在の地、日南町に移り松本院となりました。真言宗醍醐派寺院の多くは檀家を持たず、広く一般市民からの参拝者が多い寺院で気軽に参拝したり、本堂にて気軽に護摩参加出来ます。檀家制度の信仰心を持たず形だけの礼拝の場所としての寺は必要ないとしています。豆をお配り戴き全員で豆まき、これも今年久々に撒かれました。
2024年02月03日
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国宝 三日月宗近(みかづきむねちか) 東京国立博物館2022年展示国宝 三日月宗近は、平安時代に作られたとされる日本刀(太刀)で天下五剣の一つ。日本の国宝に指定されており、東京国立博物館に所蔵されている。伊賀上野文化産業城展示脇差 銘 伊賀国宗近 年代 永正元年(1504)六月日わきざし めい いがのくにむねちか えいしょうがんねんろくがつひ所有者 財団法人 伊賀文化産業協会三重県指定種別 有形文化財(工芸品) 刃長33.0cm、反り0.8cm。茎部の表に「伊賀国宗近(いがのくにむねちか)」、裏に「永正元年六月日」の刻銘を持つ。 この脇差に見える「宗近」は、伊賀の刀工集団に受け継がれた名前で、現在の伊賀市音羽付近がその根拠地と考えられている。初代の「宗近」は室町時代の初め頃に活躍するが、本刀はその2~3代後に制作されたと考えられる。 本刀で特に注目されるのは、刻銘の存在である。現存例が少ない「宗近」の作品において、制作地の「伊賀国」、刀工名の「宗近」、制作年の「永正元年六月日」と具体的な活動を示す情報が多数盛り込まれている。また本刀は、保存状態も良好で技術的にも優れており、「宗近」の作風について雄弁に物語っている。 これらのことから、本刀は美術工芸品としての価値はもちろんのこと、中世伊賀国における刀の時代基準として極めて重要な資料といえる。三条宗近を有名にした能の演目「小鍛治」 ある時、霊夢をみた一条天皇(980~1011年)は勅使の橘道成(みちしげ)を刀匠として名高い、三条宗近のもとへ派遣し一条天皇の命で、刀をつくることを依頼したが、相槌は自分と同じ技量をもつ者でないと造れないと断ったが、道成もおれないので困った宗近は稲荷明神にお詣りした。すると不思議な少年が現れ剣に関する中国の故事やヤマトタケルの神話を話し相槌は自分が務めるので待っているようにと言い遺し稲荷山へときえていった家に帰ると稲荷明神の狐の精霊が現れる相槌を打つことになった。そのおかげで剣は完成し勅使に引き渡すことがこ出来た。その剣には「小鍛治宗近」と「子狐」の銘が彫られ名剣「子狐丸」として語り継がれることになった。三条宗近については伝説的な要素が多く史実とするのは難しいが、伊賀にも三条宗近の話がある。弘法大師が掘りあてたともいわれる井戸江戸時代の菊岡如幻の「茅栗草子」に一条天皇の時代小鍛治宗近というものが、京都白河橋の北に住んでいて、優れた刀を造るけとで知られていたが、ある時流浪の旅にでて伊賀国音羽にやってきて偽名を使いそこに住み音羽某氏に仕えた、刀鍛冶の技術で包丁を作り音羽氏に献上したてころその包丁で野菜と一緒に火箸も切ってしまったことに気付かず音羽氏に出してしまった音羽氏が気付きどういうことかと調べ宗近が凄腕の刀鍛冶であったことが判明した。その後宗近は上野の西清水、現在の福居町に井戸を掘り立派な刀剣を作り暮らしたとされます。同じ内容の話は旧阿山町が昭和55年に刊行した「故さとの歩み」にもあり建武年間の刀匠宗近は島ヶ原の生まれで音羽にやってきて野鍛冶となったとる。音羽の南には砂鉄のとれる層があり刀作りに適した土地とされる。阿山町「故さとの歩み」昭和55年刊行 包丁岩伝説 建武年間(1333)「故さとの歩み」の中に里住人が宗近の腕を試そうとあの大岩を切れるかと罵ったところ宗近は持っていた包丁で一刀両断にしたという。以来その岩を包丁岩と言う。昭和58年に阿山中学校の教師、山崎万里子氏が編纂した「阿山町の民話、伝説をたずねて」では一条天皇の時代の話として岩は菜切岩と呼び、昭和まで道路脇にあったとされるが道路拡張の際撤去されたという。阿山町「故さとの歩み」の話のみ南北朝時代(14世紀)とされるがの「茅栗草子」「阿山町の民話、伝説をたずねて」は一条天皇(1000年前後)の時代とされる。三条宗近と伊賀の宗近建武年間には音羽は伊賀の代表的な刀鍛冶の里とされその中で「宗近」の名前が見られる、伊賀の宗近の作、伊賀上野文化産業城展示の脇差は、平安時代の三条宗近とは時代が百五十年程後の作で別人とされる。伊賀の音羽では一条天皇の時代から500年ほど宗近の名前が遺っているどうやら伊賀では代々、宗近を襲名していたようだ。 菊岡如幻の「茅栗草子」で移り住んだとされる伊賀市上野福居町、清水谷(しょうずだに)に伊賀の刀工、宗近が掘り使ったとされる井戸。
2023年12月14日
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小田陸閘(市道運動公園新居橋線)閘門(こうもん)とは道路、鉄道がくぐつている門とのことです、市道があるので陸閘門です。小田の市街地から新居地区に向かう市道が中央を通っている。右側にあるのが監視カメラのようです。小田陸閘北側周囲提斜面にヤギが8匹ほど飼われていて草刈りをしてくれている。遊水地土手内側なので洪水時に避難場所があるのか心配になりました。長田橋から木津川内の白鷺の群れが撮れました。白鷺は伊賀市合併前の上野市の市鳥でしたのがこの様な群れが見られることから市鳥だったのでしょう。小田排水門管理橋遠隔監視を行っています。水門操作時には、複数のカメラ映像を見て安全の確認を行っています。コンクリートむき出しの越流提、一段低く坂道になっています。右側が遊水地、左側が服部川左岸朝屋排水樋門から木興排水樋門を望む。後方に伊賀上野城が見えます。各遊水地に一カ所づつ越流提を設け洪水時、河川流量以上になった場合、自然越流方式で遊水地に流入させます。排水門とは洪水の後、河川水位が低下したら排水門を開き排水させます。各支流には樋門があります。樋門とは本流に流入する支流の門で越流提から遊水地に流入した時には、閉鎖され流入を防止します。しかしそうすると支流が溢れる危険性がありますが遊水地、本流から支流に逆流して溢れる危険性を回避します。木興遊水地看板右に伸びる土手は遊水地と本流の間の周囲提と呼び越流提があります。遊水地の外側の土手は遊水地と河道を仕切るための堤防で囲繞堤(いぎょうてい)と呼ぶそうです。
2023年10月20日
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上野遊水地のしくみ通常期いつもは、特に変化なく、川に水が流れているだけですが、洪水初期 越流堤から洪水を遊水地に導き本流からの洪水を防ぎます。その越流提を遊水地の中の遊水地浮遊物流入防止網から撮りました。越流提はコンクリートがむき出しになり本川提の周囲提より低くなっており大雨時自然越流する方式です。小田遊水地です。普段はこの様にただの広い田園地帯です。しかし周囲提に囲まれれ洪水時には、池になり遊水地となります。霞堤跡 樋門霞堤とは、堤防のある区間に開口部を設け、その下流側の堤防を堤内地側に延長させて、開口部の上流の堤防と二重になるようにした不連続な堤防です。戦国時代から用いられており、霞堤の区間は堤防が折れ重なり、霞がたなびくように見えるようすから、こう呼ばれています。樋門の下を流れているのが野間川です。霞堤跡、野間川樋門から新居遊水地を撮りました。霞堤が溢水してこの住宅地が被害にあうことがあり三田霞堤を閉鎖して野間川樋門を設置しました。小田遊水地浮遊物流入防止網の場所です。越流提から流入した水の浮遊物(ゴミなど)をせき止める施設でオレンジ色の海の浮き玉の様な物が浮き網が上がる仕組みのようです。まだ資料がありますのでこれを第一回とします。
2023年10月20日
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伊賀市島ヶ原西念寺の榧(カヤ)平成23年2月(2011)伊賀市指定天然記念物推定樹齢500年 三重県のみえの樹木百選のサイト資料三重県のカヤでは最大幹周の「西念寺のカヤ」幹周6,16m 樹高 16m約200年前の寺の再建以前からこの地にあったらしい。西念寺、明応年間(1493)にこの同じ郷に建立と伝えられる西念寺は江戸中期、落雷による火災で堂塔を焼失し現在の地に移る。とありますので江戸中期に移った時にはこの地にあったということでしょう。伊賀市島ヶ原 正月堂 観菩提寺正月堂の修正会(しゅしょうえ)は奈良東大寺二月堂のお水取り、修二会(しゅにえ)に先駆けて行われます。修二会と同じ達陀(だったん)と呼ばれる行法が伝えられます。国宝 観菩提寺 本堂 桜門国宝とは重要文化財の中から特に価値の高い物として指定されたもの。本堂は室町時代前期、14世紀後半の建築、入母屋造、檜皮葺、正月堂は奈良時代の聖武天皇の時代実忠和尚が開基と伝わります。実忠和尚(かしょう)は奈良時代中期の752年(天平勝宝4年)に二月堂を創建し、同年2月1日から14日間にお水取りとも言われる修二会を始めたと言われるひとです。(現在は3月1日~14日お水取りは12日深夜)著書には、815年(弘仁6年)一生のうちに自らがたずさわった事業を列記した『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』があるが観菩提寺に関係したことは確認出来ない開基後、三百年ほど荒廃していたと言われ後に島ヶ原一族が再興、鎌倉時代よりの伝承が続いていますが途中荒廃していたことで正確なことははっきりしない。本堂の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)檜皮葺は、屋根葺手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工する 日本古来の歴史的な手法ですが、日本国外には類を見ない。文化財を含む、古い建物の屋根で檜皮葺を見ることができます。 2020年「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」がユネスコ無形文化遺産に登録され、この中に「檜皮葺・杮葺」が含まれています。国宝 観菩提寺 桜門通り抜け可能山号 「普門山」の扁額、「観菩提寺」の扁額天正伊賀の乱では島ヶ原党は恭順の意を示したため織田信長方は襲撃せず事なきを得たと「伊乱記」にあるが村内に残る古記には本堂と山門以外焼き尽くされたとある。昭和二十八年(1953)八月十四日ににっぱち災害と呼ばれる伊賀市西山地区、島ヶ原地区を中心に土石流、崖崩れが襲った祈念碑。この正月堂のすぐ東を流れる川を中心に襲いました。正面碑文 昭和28年8月14日夕刻からの降雨は夜半に至り沛然(はいぜん)たる大豪雨となり激しき雷鳴と凄絶たる稲妻は間断なく大地を震わせ遂に15日未明俄然地鳴を伴い北部山崚一帯において山津浪を起し濁流は無数の巨岩と立木を交えて奔騰し瞬時にして多くの家屋を押し流し尊い人命を奪い去りぬ豊沃(ほうよく)なる田畑は砂礫の河原と化し道路は寸断され交通通信は全く杜絶(とぜつ)するなど大自然の暴威の下に惨憺たる荒廃の地に変貌し村民齊(ひとしく)しく呆然たるものありしが克く廃墟の中より立ち上がり国県の力強き援助の下に営々辛苦の末災害前にも優り整備せられたる平和郷の再建成る茲(ここ)に後世災害の再び起こらざるよう不断の対策を怠るなきを念じ災禍の恐るるべきを末永く伝えんとしてこの碑を建つ 昭和44年8月15日 島ヶ原村建之裏面碑文死者行方不明15人 負傷者86人 流出家屋22戸 全壊家屋16戸 半壊家屋7戸 田畑流出埋没140町歩 道路決壊150ケ所 橋梁流出39ケ所 堤防決壊10ケ所 鉄道不通3ケ所 山林崩壊338ケ所 殉難者(死者2人行方不明13人)大道 南ことゑ(90) 桂六三郎(63) きよ(28) 寿美代(4)中村 中島タキノ(43) 平吉(20) 一二(17) 山島ちか(75) 實枝(26) 尾登はなゑ(49) 岡崎彰秀(3) 谷森はずゑ(30) 正樹(1) 松並ますへ(62)中矢 藤田吉一(51)
2023年07月24日
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江戸時代の伊賀山城国境幕府裁定時に大河原地区が主張した「かう谷川限」の神谷川、今は小山川と呼ばれる場所です。島ヶ原村が主張した「浅子川限」とは現在のJR月ケ瀬口駅を西に2km程行った所です。この川とは5km程離れています、元禄十年(1697)の裁定で中間の現在の県境とされている場所になりました。新島ヶ原大橋を伊賀上野から越えた小山川を挟んで西側にある行者堂です。行者堂には自然石の岩屋の中に役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られています。同じ岩屋の左隣に不動明王が祀られています。山城国大河原村(現、京都府相楽郡)と伊賀島ヶ原村(現、伊賀市島ヶ原)の間で争われ国境として提示された柳生藩と藤堂藩の間で折衝が進められたが柳生藩は一万石の小藩で三十二万三千九百五十石の藤堂藩とは不利とみたのか京都淀藩に裁定を願い元禄十一年(1698)に幕府の評定所で裁決され結果妥協点として中間のこの地を国境とした。柳生は現在奈良県奈良市柳生町「従是東伊賀国」これより東伊賀国「従是西山城国」これより西山城国の二本杭、国境が定まった後二本の杭を合わせて杭されたとあります。伊賀側の主張した「浅子川限」の浅子川、山道に入り木津川との合流点(弓ヶ渕)を探しましたが途中の道までしか行けませんでした。押原地区を流れる「浅子川」この地区辺りは現在でも商圏域は伊賀市です。
2023年07月13日
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三国越 石碑三重県知事 田川 亮三の名前が刻まれている、御斎峠の石碑にも田川 亮三氏の名前があり同時期に建立されたと思われます。三国越林道.を570m 地点から伊賀、京都、滋賀を結ぶ高さから三角点628mへ向かいます。高旗山は710mですので少し低いようですが距離200m標高58m登るのは結構、足にきました。三国塚三重県、京都府、滋賀県の三つの県境にある山で、滋賀県の最南端に位置し、近江百山の1つにあげられています。ということは山の名前が三国塚でした。この三角点の後、右側が滋賀県で左側が京都府、手前が三重県です山頂628mとありました。三国越展望台,標高600mのからは島ヶ原地区、月ヶ瀬ニュータウン、南山城村などが見渡すことができます。左側に島ヶ原カントリークラブ、その左に雉子の里ニュータウン、標定点とは、簡単にいうと「正確な座標(水平位置と標高)が分かっている地上の位置」のことだそうでこの標定点をドローン撮影時に写真に写り込ませ、データ解析をする際の基準点とするそうです。
2023年06月26日
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伊賀市広瀬のササユリの里広瀬は流水の広がって浅く流れているところを表しています。伊賀市の市花、ササユリ(笹百合、学名:Lilium japonicum)は、ユリ科ユリ属の球根植物。で日本を代表するユリである。地域によっては、ヤマユリと呼ぶこともある。本州中部地方以西から四国・九州に分布する。従って関東では見られない。ユリの花は、6枚の花びら(花弁)が印象的ですが、植物学的には、3枚が花びらで、3枚が萼(がく)です。萼は硬くて花を保護し花びらは誘引の役割を担っています。この開き曲がっている方が顎でしょう。6本のオシベの先端にある花粉の表面には、油の成分が含まれています。ですから花粉が衣服につくと処理が大変で、払い落とそうとすれば、よけいにへばりつきます。「乾くまで待って払い落としたり、乾いてから粘着テープで取り去ったりするのがいい」といわれます。「ユリ」という植物名は、ユリ科ユリ属の植物の総称です。ユリ属の学名に使われるラテン語は、「リリウム」で、「白い花」を意味します。ササユリは日本原産とされます。鳳凰寺廃寺680年に、伊勢国から伊賀分立。685年天武天皇から郡毎(ごと)に仏舎を作れとの命じられる。阿拝郡に三田廃寺、山田郡に鳳凰寺廃寺、伊賀郡に財良寺跡、名張郡に夏見廃寺の一郡一寺に分布し氏寺ではなく官寺とした。鳳凰寺廃寺三重県伊賀市鳳凰寺にある「薬師寺」の境内にある「鳳凰寺跡(ぼうじあと)」です。自然石を利用した礎石が20個ほど残っています。薬師寺は鎌倉~南北朝時代に開創されたと伝えられ、元禄年間に再興されています。三田廃寺が東西90m南北100mとされますので鳳凰寺も同規模だったのでしょう。賀采女宅子娘 (いがのうねめの-やかこのいらつめ)大友皇子の母親とされ伊賀の山田郡、鳳凰寺の出身とされ、この鳳凰寺は大友皇子を弔って建立した説があります。辻堂古墳墳丘はなく、横穴式石室の下部だけを見ることができます。2つの石棺がそのまま残されています全長9.8m(東側奥行5.2m、西側奥行4.95m、幅1.9m)の長方形の石室。6世紀後半。の山麓に所在。墳丘の殆どを流失しているが、直径20m程の円墳もしくは前方後円墳だったと推定されている。つまりこれは、20m程度の円墳の部分に在ったということです。天井石は失われている横穴式石室床面全体に敷石が並べられ、排水溝を備えるほか、玄室内に組合せ式石棺2基が残存していた。出土遺物は鉄鏃や馬具、須恵器など。市指定史跡、1973(昭和48)年指定。西之沢のノハナショウブ群落一帯に自生していたノハナショウブは、生息環境の悪化により見る事ができないが、近くの私有地に約2000株近く植えられており、地元の方により大切に保存されています。かつては西之澤平池周辺に自生していましたが、現在は主に約2,500㎡の私有地に約2,000株が植えられており、6月になると気品ある美しい花を咲かせています。1955(S30)年4月7日に県の天然記念物に指定されました。目を楽しませてくれます。
2023年06月12日
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伊賀市 旧大山田地区炊村の遊歩道マップ全長3kmの炊村全体図です。平成七年(1995)からの炊村景観整備事業の遊歩道計画により設けられたようです。伊賀藤堂藩「三国地志」に「山田郡の粟田屋輔に淅井戸があり古きより大神社(伊勢神宮)に献上する米を炊く「かくし」所で在った。炊村の起源となる。」とあります。粟田屋敷はこの井泉の北側台地に在ったと思われます。清水淅井戸(しょうずこめかし井戸) 伊賀地方では清水をしょうずと発音します。こめ‐かし【米淅】米を洗うこと。米をとぐこと。伊勢神宮に献上する米を炊く(かしく)所で炊村の起源。かしき【▽炊き/×爨き】 の解説「かしぎ」とも飯をたくこと。また、その人・場所。清水(しょうず)と呼ばれて地区の名水池でした。落葉に埋もれて忘れられていた、涌き水池を、平成七年よりの炊村景観整備事業の遊歩道計画により落葉等を渫(さら)えて復活されたようです。今では菖蒲が咲くこの様な池になっています。炊村 清水淅しょうずこめかし井戸 碑文「三国地誌「炊 按(しらべる)栗田屋鋪と云處に井泉あり俗に淅(こめかし)井戸と云是上古 大神宮へ献する所の御供米(おくまい)を炊く故に名くと云」とあり 近世この井泉は清水(しょうず)と呼ばれて地区の名水でした。しかし昭和四十六年よりの水田の基盤整備にともない整備除外地となり落葉に埋もれて忘れられていましたが、今回平成七年よりの炊村景観整備事業の遊歩道計画により井泉を渫(さら)えるとともに小公園として周辺を整備するに炊村の地名発祥の井泉として顕彰して後世に語り伝えるためにここに由来を刻む。平成十年三月吉日 炊村」東側端に在る、祠石碑の東側この祠の間には四阿(あずまや)が設けられています。昭和四十六年よりの水田の基盤整備にともない整備除外地となり落葉に埋もれて忘れられていました。減反政策の犠牲となったということです。今回平成七年よりの炊村景観整備事業の遊歩道計画により井泉を渫(さら)えるとともに小公園として周辺を整備し炊村の地名発祥の井泉としてこ顕彰して後世に伝えるために石碑が建立されたのが平成十年(1998)ということで三年経ています。炊 苗字の由来欠は人が背をかがめて口を開けてしゃがんだ様を表すので炊は火を吹き起こす様を表す。日本姓氏語源辞典によると炊(かしき)姓は、伊賀市炊村発祥とありますのでこの地の伊勢神宮へ献する御供米(おくまい)を炊く役職の家が発祥でごく少数の家が鈴鹿市におられるようですが伊賀市に十人おられるのがほとんどのようです。池の上に白い泡状のモリアオガエルの卵塊が木の枝にぶら下がっています。絶滅の恐れがあるとしてレッドデータブックに記載されているそうです。泡状の卵塊は外敵から守る役割があり、孵化したオタマジャクシは雨水などと一緒に池に落ちて成長します。
2023年05月30日
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伊賀市荒木の車塚古墳へハイキングに向かいました。登り坂コースとしては標高230m程度から出発し標高360mへ130m程頂上まで登り次の北の山方向へ向かい途中の丘まで(山と山の間の馬の鞍部と例えられる)40m程降りる行程です。その230m地点から少し登った地点からの登り坂「桜が丘団地」の東側にある山道を東北方向に登ります。 しばらく行くと右手に池があります。さらに進むと、道が細く急坂になってきます。急坂を距離250m高さ40m登った分かれ道の所で中部電力会社の黄色の鉄塔表示版があります。その黄色の鉄塔表示板の№86の方向、左側の坂道を進みます。その坂道早速迷いそうな道です。 この山道を上って行くと、左右に道が分かれるところに出ます。赤いテープを巻いた木を目印に右側の狭い坂道を行きます。このNo,86の鉄塔に出たら左上へ登ります。山頂に出るとNo,87鉄塔があります。No,87鉄塔の北側にこの鉄塔表示板があります。やや平坦なところを北側に進み、そのまま北側の稜線にそって下って行くと、溝のように掘られた奥に小高い部分があり、そこが前方部の端になります。車塚というので円墳が並んでいるように思っていましたが前方後円墳です。東側の面に「史蹟 車塚」と刻まれた石碑、後ろ側の窪みが盗掘跡の穴裏面には昭和十二年三重県ヨリ指定とあります。さらに、墳丘部分を北側に進むと大きな窪みがあり、後円部墳頂部の盗掘坑です。盗掘坑の東隣に「史蹟 車塚」銘の石柱が立てられ、大山田の地名が入っています。古墳の始まりの坂、前方後円墳の方の部分です。車塚と言われているので円墳が二つ並んでいるのかと思っていましたが前方後円墳でした。しかし前方の部分が余り広がりが無く帆立貝形古墳と呼ばれる古墳かも知れません。 荒木車塚古墳と呼ばれているこの古墳は全長約93mの前方後円墳で、2段に築成されている。墳丘には葺石とともに埴輪が巡らされており、円筒・朝顔形・楯形・家形の埴輪が採集されています。本格的な発掘調査は未実施ですが古墳時代でも前期後半、後円部の盗掘坑にあった埴輪から4世紀後半築造と推定されています。車塚古墳は伊賀の須知荒木神社の須智稲置説があります。荒木車塚古墳は数々の逸話がある古墳ですが、近代まで後円部の盗掘坑の中では旱天(かんてん、ひでり)に際し祈雨の焚き上げが行われてきた場所です。
2023年05月29日
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伊賀市高尾 千方窟ウォーキングに行きました。「太平記」に朝廷に謀反を起こした藤原千方が立てこもったといわれる砦跡が柱状節理状の岩が屏風のように並んで窟となっている天然の要塞があります。砦跡には千方将軍を「千方明神」として祀る小さな祠もあります。高尾地区市民センターから出発した角にあるマップ看板、ここから距離約1,2kmですが登り坂ばかりでとてもそんな距離の疲れ方ではありませんでした。舗装された道を登ると地道に入る看板があります、後から思うとこの舗装された道の方が脚にこたえました。数百メートル行くと分かれ道があり日本遺産、忍の里 伊賀、甲賀 道標千方窟への入口として千方明社の鳥居があります。2015年に創設された制度、日本遺産に2017年に追加承認された、日本遺産「忍びの里 伊賀、甲賀 リアル忍者を求めて」の看板この看板自体は2023年3月に創設されたそうです。『太平記』によると、天智天皇の時代、時の豪族藤原千方は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき)です。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になります。また、この四鬼は忍者の原型であるともされます。千方城郭への東門跡看板裏門とされていますので西に正門が在ったのでしょうか、そもそも城というイメージされるものではなくせいぜい砦跡とされるものでしょう。千方窟の柱状節理群、この場所を砦として立て篭もり戦ったとされる場所です。藤原千方は平将門討伐で功を成した藤原秀郷(ひでさと10世紀前半)の孫、という説があります、とすると、10世紀後半から11世紀前半の人ということになり、実在の人物となります。秀郷は近江三上山に潜む巨大な百足を退治する側の武将としても知られていますが、その孫であるはずの千方が、逆に退治される側の鬼に与した武将としてその名が知られています。藤原千方達を退散させた紀朝雄(きのともお)の和歌が正面の岩に昭和四年(1929)に刻まれました。紀朝雄が鬼たちに対して、たった一首の和歌を詠んだだけで、鬼たちを退散させたという、 その歌というのが、「草も木も 我が大君の国なれば いづくか鬼の 棲なるべし」というもので、 直訳すれば、「草も木も、全てこの世のものは天皇が治めているのだ。鬼の居場所など、どこにあるというのだ」ということでしょうか。その脇に藤原千方を祀った祠。大門跡とされる場所、やはり東を正門としていたようです。しかし後年設定されたものでしょうから、日が登る東を正門、西を裏門とする定説に従ったのでしょう。ここから柱状摂理群の上部に登りました。厩(うまや)跡です、この様な山上で馬を飼っていたのでしょうか。因みに一緒に歩いていた女の人は厠(かわや)跡と読んでいました。一番上部にこの看板があります。風穴です。覗くと柱状摂理の上の切り込み状の六角形が見えます。柱状節理はマグマが冷えて固まったものです。冷えて収縮する時、アルファベットの「Y」のような形の割れ目が出来、それぞれの割れ目がちょうど120度で交わり形成されるので六角形の柱が出来ることがほとんどです。柱の直径は3メートルから数センチメートルまで様々で、高さは30メートルのものもあります。この風穴がここから名張市まで通じていて、そこから奥伊勢での藤原千方伝説が遺ります。しかしこの高尾地区の千方伝承会の方はこの地で亡くなった説を説かれていました。「太平記」は軍紀物語としての側面があり藤原千方を天智天皇の時代(7世紀)の人とされている記述がありますが、8世紀に記された日本書紀には記述がありません。やはり平安時代の11世紀の人だと思われます。千方伝承会の方は藤原千方は重い課税を批判して朝廷と争ったとして朝敵とは着せられた汚名であるとされていました。
2023年05月29日
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竹島氏城跡 東西100m南北120m規模の山城。築城年代は定かではないが室町時代には築かれていたとされます。伊賀市愛田字構谷2116の竹島氏城は、「愛田公民館」を目印に行きます。愛田公民館横の道路に「竹島城跡」の案内があります。この案内版横の路地を入り丘陵先端に進みます正面の小山が城跡で、ここから歩いて行くと、城跡への案内標識が随所に出ているので、それに従うと辿り着けます。愛田公民館前の句碑 この左に案内版があります。「這い出でよ飼屋が下の蟾の声」(はいいでよ かいやがしたの日置弾正 ひきのこえ)奥の細道、尾花沢で詠まれた句です。飼屋とは蚕室のことです。蟾はヒキガエルです。地区とは直接関係が無い句のように思うのですが何か意味が込められているのでしょうか。会員の方からの指摘で蟾(ひき)は日置が(ひおき、ひき、へき)と読まれることから日置氏を想起させることからのようです。途中、崖が崩れた跡が在ります、地元の方にお聞きしたところ伊勢湾台風で崩れ芭蕉姉の墓石が現れ出たそうです。その墓碑がは現在、松栄寺の墓地にあります。その跡を進むと獣除けのゲートが在りますが開けて頂きました。少し登ると左の山側にこの説明版案内標識と句碑が在ります。芭蕉句碑「眉掃きを 俤にして 紅粉の花」(おもかげを おもかげにして へれにのはな)この句も奥の細道の尾花沢で詠まれた句です。案内標識の左へ行くと土塁があり虎口が見えます、それを入ると城郭跡の台地周りの土塁上に出ます。土塁上に石碑が在り「古城址 うちつへ春の 夕陽さす」地元の俳人の句のようです。堀切の土塁が切れている北側虎口、高さ2m程あります。城郭跡の台地、土塁上から撮っています。見渡せて開放感があります。この左側の北側土塁上には城址碑まであります。竹島城は室町期に北畠顕能に属した竹島景義にて築城したといわれます。竹島氏は平宗清の子、日置氏の一族で 竹島氏城は日置氏の一族である竹島景義によって築かれた城です。1581年(天正9年)に起きた「第二次天正伊賀の乱」では城主の竹島右衛門が「春日宮山の合戦」で討死しています。 芭蕉の姉は一人だけで甥の桃印が息子とされますが桃印は五、六歳位から松尾家で養育されました。桃印が江戸で結核になり病状が悪化した時兄が芭蕉に手紙で久居に知らせるかとたずねた折、要らぬ心配をかけるだけだから知らせないでと、返信しています。母は久居に居ることになるので説が分かれます。
2023年04月29日
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伊賀市 蓑虫庵茅葺屋根葺き替え工事見学会に行ってきました。葺き替えはまだ途中で茅葺き替えにはあと二ヶ月ほどかかるとのことでした。工事自体は2025年の芭蕉生誕三百八十年に間に合わせるとのことでした。足場の上に上げていただいて見学説明を受けました。固定方法は、茅を五十センチ前後の厚みに敷き並べ、長い竹(押し鉾竹、押え竹)を横に置き、屋根野地の垂木又はえつり竹で押さえる。葺き替えをしている職人さん本人からの実地説明で道具一つ一つの説明ではり 先の穴に藁縄を通して屋根の上から突き刺し屋根の裏の梁に固定して出してきて結ぶ、針縫いの大型版の使い方でした。つち 茅の先を叩いて揃える時に使う。すすきを主に使い今持っているのは稲で両方使うようです。上を押さえる竹は燻して黒く成ったもので木は令法(りょうぶ)という黒く皮もきれいな細い木でした。屋根の上からのロケーションは初めてでした。この三十代の職人さんは長野出身で、すすきも長野、山梨の物だそうで今は三重県に移り住まわれたそうです。茅葺き職人は全国で百人程度になっているそうで三重県では他に居ないのではないでしょうか。日本では1950年に建築基準法で『燃えやすい素材』だとされ 「市街地で新築が禁止」「高額な葺き替え費用」などで以後茅葺き屋根が増えることは無いということになります。
2023年02月11日
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三重県立上野高校明治校舎の耐震改修工事を終えたのを記念し、一般公開が1月21日にありました。門柱も折れかけていて危うかったのですが、修復されました。玄関はビザンチン様式、入母屋造り屋根、両脇に三本ずつ変形トスカーナ式のエンタシス(上部にかけて徐々に細くなる)の円柱その三本ずつの円柱柱間のア-チは唐草と若葉の彫刻で瓔珞(ようらく仏壇飾りに用いられる)飾り両端に若葉の持ち送り(壁や柱より外側に出た桁を支える板状部材)がある。玄関の天井は透かし菱目張り。教室の窓は二段、上窓は回転式、下窓は上げ下げ式を採用している。教室の天井近くに換気口を配列してある。教室の足元に塵(ちり)出し口が設けられている。廊下の天井も透かし菱目張りになっている。玄関から入った正面だけが天井がむき出しで和小屋組とトラスの組み合わせ。新しく造り直された鬼瓦、元の鬼瓦はひ東端校舎下の地面に埋めて遺しているそうですが従って見ることは出来ません。玄関入り口扉に乳白色のガラス製のノブが教室と共に付けられている。玄関の扉は折れ戸で木の素地を見せ、マホガ二-(ギターの素材で有名)、チ-クと校舎とは別の高価な木目を描く木目塗と呼ばれる西洋の技法を採用している。設計は清水義八氏、津市、四日市、に続いて県下三番目に伊勢を出しぬいて1899年に開校された。
2023年01月21日
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伊賀市荒木の松島組紐店の工房兼店舗、「くみひもstudio荒木」にお伺いしました。伝統工芸士会、会長の松島俊策さんに説明して頂きました。伝統工芸「くみひも」。その歴史は古く、起源は奈良時代まで遡ります。武具や仏具の紐に使われていた技術は、やがてきものの文化の上で開花し、沢山の組み方・技術が生まれました。高台、綾竹台、丸台など、組み台の種類もさまざま。松島組紐店では機械組みも手組みもやっています。ひも屋のほとんどがどちらか一方の中、この形態は珍しいそうです。昔は100人近くいた職人も、今では20人近くまで減ってしまいました。分業制のくみひもづくりにおいて、“作り方を教えてくれる師匠、一緒に作ってくれる職人”がいなくなることは、産地の危機です。糸をつむぐ職人がいて、糸を染める染め師がいるから、それを私たちが組むことができる。染め師の後継者がいないのであれば、その工程から自分たちでやらなければならない。私の時代より、息子二人の時代のほうがもっと大変かもしれまん。と言っておられました組紐で表された日本画機械組みの工房、古い機械なので壊れたら簡単にはつくり直せないパーツもあります。ひも屋の仲間から、古い機械のパーツを譲り受けたりするそうで8本の糸巻が猛スピードで回転し、くみひもが組まれていくそうです。息子さん兄弟、健太さん康貴さんが現在受け継いでいて下さっているそうですが、この日は残念ながらお会い出来ませんでした。染めの担当は弟の健太さんで市内で唯一になった染め専門店で修行中だそうです。オリジナルの日本の伝統色5色を見本に、まっしろな絹糸が手際よく・鮮やかに染められていきます見本と色があっているかどうか、半日蔭で確かめます。乾いた糸は「座繰り」と呼ばれる道具で、数本にまとめられる。テレビに何回も取り上げられた組紐を組み込んだ自転車、展示形態になっていました。機械組みで木の固まりを下からセッティングして突っ込むと周りを回って中に包まれていくそうです。曲がっている所は手で押さえながら曲げたそうです。
2022年12月12日
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敢国神社 黒党(くろんど)まつり三重県伊賀市の敢国神社で11月23日、黒党(くろんど)まつりがあった。参道のイロハモミジが見頃でした。まず新嘗祭(にいなめさい)があります、拝殿から本殿へ昇る。拝殿から本殿を望む。黒党まつり結印、九字護身法の印を切ってからショーが始まります。拝殿では「伝統忍者集団・黒党」(黒井宏光代表)のメンバーらが忍術の演武などを奉納した。プロのエンターテイメント「伝統忍者集団黒党」によるショーです。伊賀服部氏主宰神事として流鏑馬や芸能が奉納されていましたが戦国時代に途切れ廃止されていました。しかし平成七年(1995)当時の宮司さんの熱意により450年ぶりに復興されました。捕り縄術による捕獲奉納後、黒井代表は「新型コロナでステージイベントができないことが多いが、今年も祭りが催行できてよかった」と話した。
2022年11月23日
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宗清堂 宗清地蔵平宗清制作と言い伝えられる大小五体の地蔵像が安置されている。地元の有志によって祀られ維持されている。宗清堂前の敷石は古墳の石棺蓋石といわれる。梅が枝の手水鉢 という言い伝えがある。古墳から出土した石棺の蓋を手水鉢として見立てたもではないかといわれている手水鉢で『梅ヶ枝うめがえ』の名称は諸説色々あり、定かではない。夜哭石(よなきいし) 春日神社 梅が枝の手水鉢三国地誌によると二代藩主、藤堂高次が参勤交代で日置氏館(佐仲屋敷)で休息滞在した時、平宗清作の見事な手水鉢を見てこれを江戸屋敷に運ばせ置いていたが、夜になると帰りたい帰りたいと泣くので伊賀へ戻した。その後、川西地区(西川氏邸)の私邸に置かれていたが名阪国道が出来る時、川東の春日神社に移された。その春日神社の手水鉢日置氏館(日置弾正へきたんじょう氏館)愛田 「佐仲屋敷」その梅が枝の手水鉢が在った。館跡下柘植インターの愛田地区入口の台地に在ったが鎌倉時代からの日置氏館なのか日置弾正からの日置弾正氏館なのかはっきりしない。日置氏城跡奥の山が日置氏城跡下柘植インターから名阪側道の北側にこの日置氏城跡南側に日置氏南城跡があります。日置氏城は、築城年代は定かではないが日置氏によって築かれた。三国地誌に弥平兵衛宗清堡とあり柘植三方に数えられる有力国人日置氏の居城。春日神社 工事がほとんど終わりつつある。屋根は銅版拭きになった。平安神宮、東福寺などを手がけた奥谷組が施工しています。春日神社拝殿(県指定文化財)の2016年から7年をかけた解体修理事業が終わりました。 市教委によると、柱が傾くなど部材の劣化で建物がゆがんでいたことから大改修を計画。総事業費は約2億7000万円。半分(1億3500万円)は県が負担し、残りを市(5400万円)と氏子が払った。(8100万円)
2022年10月13日
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伊賀市下柘植の日置神社日置神社ひおきじんじゃ 下柘植日置神社については「三国地誌」に「按慶長年中(1596年から1615年)愛田ヨリ勧請ス」とあり『伊水温故』の下柘植村の条に「三所大明神」(さんしょ)氏社とある。 言い伝えには平宗清の長男日置太郎家清が父の後を継いで下柘植村に住んでいた時この神社(日置神社)を創建した。 平宗清の息子三兄弟、福地、北村、日置を名乗ると伝えられる。各々上柘植、中柘植、下柘植に館を構えた。 平宗清 生没年不詳(1135~1200) 「満済淮后日記」正長二年(1429) 二月十六日条に「伊勢国人ツケ三方ヘキ・北ムラ•福チ也。」とあり、日置氏・北村氏・福地氏ともに柘植三方(さんぽ)と名がある。 日置氏は江戸時代まではヘキと発音していたようです。 平宗清の長男日置太郎家清が父の後を継いで下柘植村に住んでいた時、日置神社を創建 (日置神社由来)下柘植 日置神社祭殿 奥が本殿「三国地誌」に「按慶長年中(1596年から1615年)愛田ヨリ 勧請ス」とありますので江戸時代までの日置神社の由来は全て愛田地区の日置神社の由来と思われるます。それで解り難くくなってしまいました。伊賀市愛田の愛田日置八幡神社跡元愛田日置神社については「伊水温故」に「信濃国諏訪郡健御名方命勧請」とあり「三国地誌」には「按神明、天王、諏訪の三座を祀る。弥平兵衛宗清(平宗清だから1190頃)造建す。」とある。言い伝えによると平宗清は後年愛田に住んでいた。天正九年(1581)織田氏の兵火にかかり全焼(天正伊賀の乱)しかしその後住民が協力して再建 、これも愛田地区のことか。つまり江戸時代は日置神社が下柘植と愛田に二柱在ったようです。 明治41年に下柘植の日置神社に合祀されるまで神社が愛田日置八幡神社と下柘植日置神社が在ったのでしょう。日置神社八幡社跡の石碑愛田日置八幡神社跡は愛田地区外れの高所にあります。愛田日置八幡神社跡から愛田地区を望むこの地に建造したのが理解出来る眺望です。
2022年10月11日
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勝手神社 相撲奉納2022年10月8日本祭り前夜に行われました。勝手神社のある伊賀市山畑地区は昔から旱魃に見舞われることが多く、つねに雨乞いの願をかけていました。それで、大和吉野の水分(みくまり)神社に願の火を受け御神体はその御分神とも伝えられています。この「神事踊り」は昭和38年1月に三重県無形文化財に指定されると同時に、勝手神社神事踊保存会を発足させ、より充実した踊りを継承するなかで、昭和41年1月NHKふるさとの歌まつりに出演し、この種の古代民族芸能の内、隋一と注目されました。2018年3月8日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。胸に「鞨鼓」という太鼓をつけて踊る「かんこ踊り」として、京都府や滋賀県など近隣のものとの関連性が感じられる事、多くの役で構成されていること、踊り子が疑似的な親子関係を結んで踊りの伝承を行うことといった特徴が認められ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。また、豪華な衣装や飾りを身に着けて踊る「風流踊り」の一種でもある勝手神社の神事踊。今年!!全国の他の風流踊りとともにユネスコ無形文化遺産に登録される見込みです!!!勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰されています。村社勝手神社の額が掲げられている祭殿では笛太鼓が加わる宮司さん、巫女さんの舞による家内安全、無病息災などの御祓いが行われていました。
2022年10月08日
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澤村甚三郎保武屋敷屋敷周囲は土塁が残る見事な中世城館です。ペリーの黒船を探索した忍者沢村甚三郎保祐の屋敷です。澤村氏館は川東城館群の中でも残存状態がよく、周囲を巡る土塁がほとんどそのまま残されている。沢村保祐(やすすけ。通称、甚三郎)当時の老中首座、阿部正弘は脅威を感じた黒船の情報を欲っしそんな時に白羽の矢を立てられたのが甚三郎です。代々狼煙(のろし)役の家柄だった甚三郎に、11代藩主、藤堂高猷(たかゆき)から、潜入調査を行うよう命がくだります。甚三郎はペリーの艦隊に潜入、乗組員からパン2個、煙草2葉、蝋燭2本、紙片2枚を入手し、高猷に報告しました。右が大深氏館左が田中氏館右に大深氏館東側の土塁(右側)が現存している。左が田中氏館跡 ほとんど、土塁などは遺っていない。川東地区は掻揚型式氏館の宅(館)群です。 五百田(いおだ)氏館 道路から少し離れた屋敷を土塁が囲んでいる。 北側半分の土塁がよく残っている(いおだ、推定では多くの田から) 五百田の姓の由来は三重県伊賀市川東が本拠となっているのでこの家が始まりでしょう。壬生野城壬生野城 川東には数多くの城館跡が所在するが、そのなかでも最大規模の東西90m×南北90mを測る城館跡です。川東公園の南側の比高20mほどの台地に土塁や堀切を周囲にめぐらしていて要害性を感じさせる。 土塁には等間隔の窪みが確認でき、防御用の石落としの施設と考えられる。さらに、北西隅の土塁上には櫓台跡と思われる小さな土塁も残されている壬生野城跡壬生野城跡 堀の一部には現在でも水が溜まっており、水堀であったと考えられる。 壬生野城の周囲の土塁はまるで砲台のようにあちこちが削られている。これは天正伊賀の乱時の破城によるものではないかと考えられている。 壬生野城のことを地元では「清水の城」と呼んでおり、地誌にも「清水宅跡」と描かれていることから、城主は清水氏だったのでしょう。壬生野城には、天正9年の伊賀の乱に際して、壬生野郷・愛田村・御代村の郷士たちが立て籠った。しかし多勢に無勢で、織田勢の猛攻を支え切ることはできなかった。壬生野城は落城し、多くの伊賀衆が殺害されたという。現在、城の北西麓にたくさん配置されている古い墓石群は、この時に死亡した伊賀衆のものであると伝えられている。春日神社「春日」を社名に持ち春日神を祭神とする神社。奈良県奈良市の春日大社を総本社とする。伊賀市川東地区の氏神として古くから鎮座していたと伝わる。主祭神は武甕槌命ほか四柱。第二次天正伊賀の乱において、織田軍に攻められ宝庫などが焼失したが、川東の里は大和国や春日大社の供物を調達する御厨であったため、春日大社の社人らが織田軍の将、滝川一益に訴えて焼失を逃れたと伝わる。春日山城春日山城は春日神社の背後に聳える春日山全体を「第二次天正伊賀の乱」にそなえ城塞化した山城。壬生野城では不十分として造ったと思われるが未完成に終わった。道路側に伊賀牛発祥之地石碑川東 阿弥陀寺伊賀一番の大きな五輪塔は2,4m 三重県下、白眉いわれる。阿弥陀寺の五輪塔は、花崗岩製で、高さ242cmの大型の五輪塔です。本堂前に建つ宝篋印塔には応長元年(1311)の銘が残っている。 塔身は失われていて六角柱が入れられているが 笠の幅が基礎の幅より狭く 隅飾も直立していて古様の宝篋印塔です。
2022年09月08日
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菅原大辺神社遺跡と刻まれている石碑須藤刑部丞經俊(山内首藤刑部丞経俊(やまのうちすどうぎょうぶじょうつねとし)当時の伊勢、鎌倉時代二代目の伊賀の守護)が鎌倉から荏柄天神社. (えがらてんじんしゃ)を勧進大野木清水(しょうず)地区に清水大邊神社と伊賀守護館も建立した。その跡とされる石碑平賀惟義から大内惟義(おおうち これよし)鎌倉時代初代伊賀守護1184~1186.伊賀守護と大内の地頭を兼ね、地頭は直接年貢を取立てるので大内に住み大内を名乗ったのだと思われる。大山田伊賀平氏、平田家継に襲われ逃げる。平田家継は討ち取られる。山内首藤経俊 伊賀守護1186—1204鎌倉から荏柄天神社を勧進、菅原大辺神社に元久元年(1204)伊勢・伊賀で平氏の余党平盛時らが蜂起(三日平氏の乱)のとき,守護所から逃亡し,守護職を罷免された。藤原朝光 伊賀朝光, 伊賀守護1210~,伊賀守護任じられ以後 伊賀氏を称した。娘、伊賀の方を後室に迎えた北条義時が鎌倉倉幕府の二代執権となった事から、朝光の子らは義時の外戚として活躍した。義時没後の1224年(元仁1)、兄の政所執事(まんどころしつじ)伊賀光宗と謀り自子政村を執権にし、女婿(じょせい)一条実雅(いちじょうさねまさ)を将軍に立てて幕府の実権を握ろうとしたと北条政子より嫌疑をかけられ、伊賀氏一族は幕政から一掃された。切込掻揚型式氏館 平地は掻揚型式、台地は切込で堀切を造る。掻揚型式氏館 平地に壕を掘って土を掻き揚げ土塁を造る「三国地志」には伊賀地方の城館について城、塁、宅を明確に区別して城は大規模な土塁、堀などの施設をそなえたもので塁はそれに準じる砦で宅は土豪クラスの単郭式の方形城館とし、藤堂元甫もこれを意識していた。竹島氏館 竹島氏館は、屋敷林に囲まれ古風な長屋門(門の脇に石碑があった)がある旧家だ。圃場整備で改変されてるが、屋敷林の外側にある水田は堀跡であろう。特に西側の水田は面影がある。 伊賀には多い単郭方形の居館が多いが、竹島氏館は方形の曲輪を二つ並べた縄張りで、伊賀では珍しい複郭式(ふくかくしき)の居館だ。現在は、土塁が居館の周囲に残り、空堀が北側と東側に残っていた。 竹島氏館は、室町時代に竹島氏によって築かれた。天正9年の伊賀天正の乱では竹島与左衛門は他の豪族と共に比自山城へ籠もり、織田勢と一戦交えた。直居氏館 直居氏館は、木津川西岸の自然段丘に築かれている。清水地区の中心部にある直居氏宅を取り囲むように土塁と堀の一部が残っている。土塁の西端は隣家と接しているが、高さ約3m程のある分厚い土塁であった。 直居氏館は、築城年代は定かでないが直居氏によって築かれた。直居氏は、天正9年の伊賀天正の乱では他の豪族と共に比自山城に籠城した。 明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。明治4年の伊賀農民騒動で,当村の大庄屋直井正助宅が放火された(伊賀大騒動記)。とある。木津氏館木津氏館は、大野木地区の木津川西岸段丘に築かれている。東出地区の水田の中に屋敷林で囲まれた旧家が木津氏館だ。 周囲を土塁と堀が廻らされた単郭方形の典型的な豪族居館であった。敷地の西側を除く三方に土塁が残り、特に東側の土塁が旧状を良く留めていた。また、現在は水田となっている堀は、発掘調査の結果、幅6m・深さ1.5mの薬師堀であったとか。 木津氏館は、築城年代は定かでないが木津氏によって築かれた。木津氏は、伝承に拠れば山城国木津より移住したとされている。 周囲を土塁と堀が廻らされた単郭方形の典型的な豪族居館であった。敷地の西側を除く三方に土塁が残り、特に東側の土塁が旧状を良く留めていた。また、現在は水田となっている堀は、発掘調査の結果、幅6m・深さ1.5mの薬師堀(やげんぼりは、.堀の形状の一つで、薬研(漢方で薬を細かくし煎じて飲むために,鉄製の細長い舟形で中が断面V字形)のごとく断面がV字形になっているもの)であったとか。もう一つの木津家文書が発見された木津氏館木津家文書は、2018年に、三重大学国際忍者研究センターに寄託をうけた文書。同家は2代目から5代目まで伊賀者の任にあり、それ以降は、平無足人に落ちたものの、その後、藤堂藩の坊主を勤めるなどしていた。2代目は、伊賀国における新田開発の候補者に挙がるほどで、同家の経済力や信望のほどを窺うことができる(すなわち、伊賀者を勤め得る家であった)。また、5代目が提出した忍術伝授起請文の正文が残っている。その内容から、伊賀者同士で忍術を伝授しあっていたこと、「万川集海」がそこで使われていたこと、「火器」という語が特に出ていることから「火術」を重視していたことを指摘した(「万川集海」でも「火器」の記録が多い)。木津家文書敬白天罰霊社起請文前書(けいびゃくてんばつれいしゃきしょうもんまえがき)で、木津家の5代目の伊之助と(1716年)忍術の師匠とされる長井又兵衛との誓約書喩親子兄弟たりといふ共他見他言仕間敷候」(たとい おやこ きょうだいたりというとも たけんたごんつかまつる まじくそうろう)師匠の長井又兵衛宛
2022年08月30日
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加納神社(かのうじんじゃ)美旗新田にある、『日本書紀』には、この辺り一帯は皇室の狩猟所ないし薬草採集地の禁野とある。江戸時代、ここで新田開発を提案したのが、加納藤左衛門直盛。直盛の父は藤堂髙虎に仕え朝鮮役や関ヶ原、大坂陣に活躍。その跡を継ぎ直盛は伊賀加判奉行として1800石を有し「伊賀者」を創設した人物だ。一方、美旗新田開発は直盛の最も大きな功績であったが、完成直前に死去。息子直堅が引き継ぎ、美旗新田を完成。ところが、延宝8年(1680)年、伊賀で銅山事件という大事件が起こる。その責任を取らされ直堅が切腹することになる。加納神社は享保16年(1731)に、新田村開発恩人加納直盛の遺徳を顕彰するために創建。村民の内心は表向きは直盛を祀るが、不遇の死を遂げた、直堅の霊を祀る心に、より傾斜していたのは想像にあまりある。加納大神頌顕碑加納直盛公は、慶長十五年(1610) 伊賀上野生まれ。藤堂藩に仕え、伊賀加判奉行職。家老職、侍大将二家は代々世襲ですが加判奉行職はその時代の一番優秀な人が給わります。 当時、水の便悪く荒野原であった新田地区の開発に尽力し、用水家としても名を残しました。 延寶元年(1673) 六十三歳で病死。 現・伊賀市上野寺町の大超寺に墓所があります。その大超寺の加納藤左衛門墓碑一際目を引きます。美波多神社(みはたじんじゃ)は、三重県名張市新田にある神社。美波多神社本殿向かって右に三柱神社 江戸時代の承応年間(1652年-1654年)に開発された新田村に、当時入植した村民が氏神として勧請された。 現在の社殿は、皇學館大學名張学舎にあったものを譲り受け、第六回式年造営(平成24年)の際に移築したものです。美波多神社 本殿その後、新田村開発の恩人である加納直盛を、その遺徳を顕彰するために、死後54年目となる享保16年(1731年)11月7日に勧請された加納神社を合祀。これが現本殿向かって左奥に鎮座する。現在も毎年12月7日を加納祭として、その功績を偲び感謝を続けており、地域に祖先崇拝、自然崇拝の信仰を根付かせている。その後、明治43年3月に村内東田原九頭神社、同中村国津神社、同小波田福田神社を合祀して美旗地域の氏神として現社号となった。明治の大合祀において、元伊勢の伝承が残っていた田村大明神も合祀されている。御祭神は、天照皇大御神、應神天皇、天児屋根命(以上が当初の三柱神社の御祭神)、加納直盛公、大山衹神、宇賀能御魂神、火之迦具土神、大物主神、建速須佐之男神、五男三女神、菊理比賣神、大綿津見神、菅原道真公、国津大神。平成10年(1998年)の台風7号で境内に大きな被害が出たが、その後再建されている。【ご利益】五穀豊穣、子孫繁栄、家内安全
2022年08月16日
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蓮池寺伊賀市上野恵比寿町蓮池寺までは恵比寿町、蓮池寺は蛭子宮を建て恵比寿神社の始まりとしたので恵比寿町でなければなりません。服部猪来菩提寺蓑虫庵三代目庵主菩提所大正4年(1915年)に旧友生街道よりご遷座された延命地蔵菩薩を祀る地蔵堂、そして右隣には、木造十一面千手観音像を祀る観音堂もある。観音堂は秘仏として閉められている。左、些中庵土芳居士供養墓 「正面」些中庵土芳居士供養墓「右面」享保十五年庚戌かのえいぬ(1730)正月十六日時世「左面」服部半左衛門保英 行年七十四右 服部猪来墓法名 「常誉光給禅定門」左に「池清濯道禅定尼」と刻まれているのは夫人でしょう蓮池寺は室町時代の永禄年間(1558〜1569)の頃、地元伊賀国印代村の豪族であった田中判官教近(教然大徳)が、 諸国を行脚した折、比叡山光明寺の智聖坊から、阿弥陀如来座像一体と、蛭子像一体を譲り受け、上野南の郊外、蓮池に草庵を結んだのがその始まりです。何故か上野地区の北部生まれの人が南部に庵を結び地名から蓮池寺とした。慶長十六年(1611)開基として現在地に開いています。しかし、江戸時代に2度火災に遭い、本堂を失った。その再建もままならぬときに、業火に遭い続け衰微した。それを寛永年間(1624〜1643)の心譽浄林上人の中興、文化年間(1804〜1817)の本堂再建を経て落ち着いた。本尊の阿弥陀如来は「伊水温故」に行基菩薩の作と伝える。(行基は8世紀の人で伊賀に赴任してはいるが時代に合わない)蛙方(あほう) 蓮池寺住職 法歴元年(1751)ー文政三年(1820)京都三条生まれ 寛政十年(1798)に芭蕉翁を慕うあまり当時無住の蓮池寺住職になり本堂を再建(玄長火事で焼失)した。蛙方は洛北芭蕉堂の高桑闌更(たかくわらんこう)に学んだが服部猪来の師成田蒼虬(そうきゅう)は高桑闌更の弟子なので京都の俳諧仲間だったと考えられます。蓮池寺に葬られています。法名 「祥蓮社瑞誉蔡華寛堂和尚」
2022年08月09日
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伊賀市東湯舟 手力神社藤林長門守の氏神様祭神は天の岩戸を開いた天手力雄命(あまのてじからおうのみこと)を祀っていて故の手力神社でしょう。正応年間(1288-1292)に戸隠神社(長野県戸隠村)から勧進し祀りました。この時代藤林家の先祖が戸隠で修業していたと言われています。伊賀服部氏は服部郷内に氏神を持つ惣領家を中心に黒田荘、石打荘、平柿荘、加茂荘に庶子をおいたとあり平柿は阿山地区とあるのでこれが藤林家の始まりでしょう。この手力神社勧進の時、藤林家は服部氏の分家から独立したと思われます。拝殿前の池神苑奥にに樹々があり古墳の形態を呈しています。境内正面左右に掘を巡らし錦鯉が泳ぎ、石造神橋の擬宝珠(ぎぼし)が水面に影、神明造りの本殿、神楽殿、参籠舎と二頭の狛犬、大鳥居。拝殿の中央に進むとそこには、昔から今日に至るまでの数十万人に及ぶ祈りの鐘の緒がさがり奉納者の願いが神に通じています。手力神社鈴の緒周りが4m、高さ3m、重さ2トンと全て日本一とテレビで放送されていました。以降何処からも異義が無いので間違い無いのでしょう。正覚寺(しょうがくじ) 上人がそう発音されていました。藤林長門守墓所中央が藤林長門守保豊墓 右隣が藤林長門守保高墓 この人まではこの地に住んでいました。保高の息子が「万川集海」を著した藤林左武次保武です。保武は延宝4年(1676年)に「万川集海」を著し元禄14年(1701)に正式に伊賀者に召された。しかし高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わります。保武の孫の第4世冨治林正直は『三国地志』の編纂で藤堂元甫に命じられ伊賀編を担当しています。正覚寺 『本誓山正覚寺』(ほんぜいざんしょうがくじ)と号し、永久3年(1115年)東大寺解案に『興福寺末寺正覚寺領七丁・・・』の文章が残っており、興福寺荘園の地にありました。ご本尊は阿弥陀如来座像で左右には観音菩薩・勢至菩薩の立像が安置されており、ここ東湯舟の地において地域の方々の信仰の拠点となっています。藤林長門守城跡 城跡は民家になっています、見学は出来ませんが背後に「藤林長門守城跡」の石碑があり前の道は甲賀市です。大きな土塁状になっていて一見ただの丘の様です。東端はコの字に囲まれた土塁箇所が城域なのでしょう。東湯舟地区は全て藤林家が関わっていると言っても良いほどで絶大な力が有ったことが分かります。藤林家墓所はこの場所にありましたが大正時代に正覚寺に移されました。 藤林家が藤堂藩に仕え上野地区に移る時に譲り渡しました。
2022年07月28日
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雨乞山 伊賀市 伊賀勢が籠った雨乞山、山上砦跡天正伊賀の乱(天正九年1581年)河合村の耳須弥次郎具明みみすやじろう(三重県伊賀市阿山町玉瀧)が手引きして山岡主計頭(かずえのかみ) 近江勢多城主山岡景隆の子、景以(かげもち)蒲生氏郷(当時日野城主)、脇坂安治(秀吉家臣、1584年滝川雄利を伊賀上野城から追放一年城主に)ら七千人で玉滝口から攻撃雨乞山城に集った上忍・藤林長門に山門左門、山尾善兵衛ら、滝野十郎、山内左衛門、孤立、比自山に女子供逃がす、捨て身で蒲生、脇坂、山岡主計頭(かずえのかみ)が陣をひく稲掛山(雨乞山の東向かい)に突出、山内左衛門死亡伊賀勢、春日山城(川東)に籠もるが中村丹波守重春、家喜下総宗頼、討ち死に蒲生、脇坂、山岡ら田屋掃部介(かもんのすけ)の田屋城(雨乞山南一里、河合)を攻める田屋、三蓋山(みかさ)城(阿山ハイツ入口の小山)に逃げる蒲生勢と激突、田屋打ち取られる。この雨乞山から天正伊賀の乱の戦闘が始まるが多勢に無勢、北伊賀勢、二日で壊滅的な状態になった。
2022年06月22日
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田矢(田屋)伊予守城跡雨乞山から落ち延びた面々日が落ちる頃になると、猛火の中を第二線である田屋の砦に集結して再挙を計った。しかし、部落を焼き尽す火煙の中で次々に一族は全滅し、女子供も容赦のない織田兵の刃にかかる。後世「蒲生氏が来る!」と聞くや、泣く子も黙ったと云われる惨劇となった。「伊乱記」 には城主田矢氏は討死したとされますが、「信長公記」には天正9年9月「河合の田屋と申す者、名誉の山桜の真壺、並びにきんかうの壷進上致し降参仕候」とあり、織田勢に降伏したことが分かる。 ところが後日、「河合の城主田屋、岡本等が頸を取られた」ともあり、結局は殺害されてしまったらしい。柏野城福地氏が織田方を手引きして柘植口から丹羽、滝川ら一万二千、福地城に陣、柘植を焼き払い柏野城(新堂と佐那具の間)へ霊山に陣を構えたのち丹羽、滝川が攻撃、柏野城落ちる。柏野城に集まった上柘植の富田、満田、中村、中柘植の西田、島、下柘植の松山、西川の郷士達は城に入ると懸命に戦ったが、所詮は衆寡敵せず半日足らずで落城した。
2022年06月22日
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御旅所古墳伊賀市 陽夫多神社南口御旅所には「御旅所古墳」という石室が剥き出しになったままの古墳が存在する。埋葬者は不明で盗掘されている。末横穴式石室、全長10m,玄室長5.2,幅2.6,高2.2m古墳時代末6世紀継体天皇から、横穴式になり石棺が下になった。新羅の造りといわれる。古墳時代中期の5世紀頃の築造の御墓山古墳は石棺が上に在ったが、古墳時代後期のこれは石棺が下になります以後仏教が伝来し古墳時代は終わります。鎮守の森として背後にそびえる宮山にも複数の古墳が確認されており、御旅所古墳も含めて宮山古墳群を形成している。山中には古墳の他に中世・戦国時代の城跡もあり、「やぶた古墳の杜」として散策道が整備されている。
2022年06月22日
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御墓山古墳三重県下最大の古墳 御墓山古墳(みはかやまこふん)大正時代までは(おはかやま)と言われていましたが 史跡指定運動で(みはかやま)になりました、三重県伊賀市佐那具町にある古墳。 形状は前方後円墳。国の史跡に指定されています。 前方部から後円部の写真 前方部高さ10m、後円部14mで高低差4m在りますが写真ではよく分かりません。 この御墓山古墳は、墳形・出土埴輪などから古墳時代中期の5世紀頃の築造と推定される。 被葬者は明らかではありませんが、考古学的には伊賀地域を代表する首長に位置づけられ、地元では第8代孝元天皇皇子の大彦命(伊賀市一之宮の敢國神社祭神)の墓と伝えています。御墓山古墳は柘植川流域において東山古墳 (古墳時代初頭)山神寄建神社古墳(前期)に時代的に次ぐ首長墓になりますが、それまでの古墳に比べ規模が大きく飛躍しました。 佐那具は「さなぎ(鐸= 鉄鐸)」を指すと見られることから、古代には一帯で鉄製武器の生産が盛んであった可能性が指摘されています。 鬱蒼とした森に見えますが全長188m、後円部径110m前方部80mという古墳です。 伊賀市佐那具のこの古墳は、5世紀前半としていて2km程南にある荒木の車塚古墳(全長98m5世紀初め)よりは少し後という事になります。 古墳内に立ち入ることもでき、歩いてみれは、その規模がわかります。 古墳は2段築造で、前方部に葺石があり見れは3段に見えます。後円部頂上は、径40m ほどの平坦面となっています。 三重県下2位の美旗の馬塚142mの1・3倍あります柘植川下流の服部川との合流地点に かけては 「万町の沖」といわれる穀倉地帯となっています。 この上野盆地を支配し東西交通の要所を押さえた強 大な権力が想像されます。 柘植川を挟んた対岸の丘陵地にある外山・鷺棚古墳群のうち4基の前方後円墳とキラ土古墳など5世紀後半とみられる継続的な首長墓があります。 ただ、これらの古墳は場所が対岸に移っていることと、御墓山に比べ、最大で も3分の1以下の規模しかないことから御墓山被葬者の支配下にあったのではないでしょうか。 外山丘陵の麓は、8世紀初めの奈良時代に国府(伊賀国庁跡)が置かれた坂之下であり、平城京遷都後の東海道「和銅の道」が通 っています。 飛鳥時代から、阿閉氏が、この地の支配者であったと思われます。 荒木の車塚古墳 と、服部川流域の山田郡とは別の勢力と考えられます。 壬申の乱(672年)の大海人皇子(天武天皇)の対戦相手、大友皇子(弘文天皇)の后は山田郡の出身とされます。 敢国神社の略史にも 「古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りおしています。」 と秦氏が先住していたことを認めています、としますと5世紀前半のこの古墳の被葬者が微妙になります、阿閉氏が敢国神社を創建したのが658年としていますので時代的に少し離れすぎています秦氏としましてもこれ程の古墳を造らせる力がある氏族が神社の土地を明け渡したのでしょうか。
2021年10月22日
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o伊賀市一之宮 敢国神社 表参道『延喜式』に記載され国史に「敢国津神」とあるように「敢(旧阿拝郡一帯)の国津神(あえのくにつかみ)」が本来の祭神であったと見られています。明治以降、大彦命 おおひこのみこと 併せて 少彦名命 すくなひこなのみこと ・ 金山比め(口+羊)命 かなやまひめのみこと 、の三神を祭神としています。しかしこの人達は神話の中の神々とされ現在の学説では存在自体否定されています。安倍氏は伊賀の国の阿拝(あえ)郡を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼称されました。壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に加勢し後、天武天皇の後ろだてを頂き伊賀国の統治者となったと思われます。10世紀から11世紀初頭までに一般化した一之宮という社格制度時に敢国神社を一之宮としたのではないかという説が有力です。当時、阿閉氏が伊賀一の勢力を誇っていたのでしょうがその阿閉氏も大海人皇子に付いて奈良に行き官吏になり、服部氏に、この敢国神社の祭祀権も渡しました。2008年10月版に記載されている106社の内、現住所の中に一宮(一之宮、一の宮などを含む)とあるものは17社しか無いそうです。裏参道祭神の大彦命を信仰する勢力は北陸地方から岐阜地方、東海地方に見られますのて阿閇氏の先祖もこの道を辿って伊賀国に来たのでしょう。しかし、阿拝郡は以前から居住する渡来人の秦氏が居住していました。秦氏は協調性のある氏族で、阿閇氏を受け入れて、共同で伊賀の地に暮すことにしたのでしょう。秦氏は2km西に既に神社を構える服部氏の先祖の一族だと見られます。斉明天皇4年(658年)に南宮山より少彦名命を降ろして、大彦命との2柱で現在地に社を建てたのが敢国神社の創建とされています。芭蕉句碑 書は三重県文化財委員、村治圓次郎(芭蕉研究家・郷土史研究家)。(句意)花盛りの梅の傍らで、無造作に手鼻をかむ音がする。そんなはしたない音さえも、野趣を感じさせて快い、静かな山里の春である。貞亨5年(1688)春。『笈の小文』で郷里伊賀で年を越して、いまようやく春になり参拝時に詠まれた句とされます。 この句碑に刻まれた『卯辰集』では、手鼻かむをとさへ梅の匂ひかな 「手はなかむ おとさえ梅の にほひかな はせを」 「手は奈可む 於と左へ梅乃 耳本ひか那 者世越」『笈の小文』では「手鼻かむ音さへ梅の盛り哉」と匂いでは余りに俗とし「梅のさかりかな」としています。芭蕉句碑を過ぎると市杵島姫神社 ( いちきしまひめじんじゃ )市杵島姫命いちきひめのみこと市杵島姫神は仏教の弁才天と習合したことから、社寺の境内に末社として祀られる場合も多い。天孫降臨にあたり、三女神は瓊瓊杵尊(ニニギ) アマテラスの孫にあたる神で、宮崎の高千穂に降臨した天孫降臨伝承は有名。 名は「天地が豊かに賑わう神」を意味し、降臨の際、稲作をこの地上にもたらし農の神とされる。その降臨を市杵島姫命(いちきひめきひめのみこと)が無事に見届けた神話の伝承から、子供の守護神(子供神社)として祀ることもある敢国神社鳥居 奥に参道階段と拝殿桃太郎岩古伝によりこの桃太郎岩ももたろういわは、今を去る五百五十年前、南宮山頂(前方に聳える山)からお遷し申し上げ、安産及び子授けの守護の霊岩。九所社(くしょしゃ) 九所社 祭神不詳 以前は甲賀三郎を奉っていた六所社(ろくしょしゃ)六所神社(ろくしょじんじゃ)・六社神社(ろくしゃじんじゃ)令制国の総社の中には「六所神社(六所宮)」という社名のものがいくつかある。これはその国の一宮から六宮までの祭神を勧請して総社としたことによるものである。若宮八幡宮社名の通り「八幡宮の若宮」という意味で、多くは宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請し、八幡神・応神天皇の御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀るもので源氏、ひいては後の武家全体の守護神たる八幡宮から分祀され、日本各地に存在する。子授け神文字通り子授けの神 祭神不詳明神社天照大神または伊勢内外宮の神を祀った神社大岩明神敢國神社南方200メートル付近に大岩(「黒岩」とも)が存在したことから、これを磐座(いわくら、信仰の対象となる岩)として南宮山を遥拝する形の祭祀が行われたものと推測されている。この大岩は現在は失われているが、付近には大岩古墳があり、古墳時代の祭祀の存在が指摘される。同地にはかつて大石明神(大岩明神)が祀られ、これがかつての祭祀の根本であったと見られるが、同社は現在は敢國神社境内に遷され「大石社」として祀られている。楠社その名の通り、大楠公(楠正成)を祭神とする楠社の創建は、創建されたのは藤堂藩三代目藩主の藤堂高久の代・ 1700年頃結社(ゆいのやしろ) 磐長姫(いわながひめ)瓊々杵尊(ににぎのみこと)が、大山祇命(おおやまつみのみこと)の娘・木花開耶姫(このはなのさくやひめ) 桜の如く華やかに咲いて、桜のように儚く散った絶世の美女。まさに美人薄命を絵に描いたような神様です)を娶られる時、木花開耶姫の母は姉の磐長姫(いわながひめ)も共に奉ろうとなさいました。 しかし、尊は木花開耶姫だけを召されたので、磐長姫は大いに恥じて、「我長くここにありて縁結びの神として世のため人のために良縁を得させん」と言われてこの地にお鎮まりになりました。大岩社付近には大岩古墳があり、古墳時代の祭祀の存在が指摘される。同地にはかつて大石明神(大岩明神)が祀られ、これがかつての祭祀の根本であったと見られるが、同社は現在は敢國神社境内に遷され「大石社」として祀られている。拝殿
2021年10月20日
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旧料理旅館九重旧となっているが現在も食事処として営業しています。大正十三年(1924)二軒の町家を料理旅館として創業(最後の写真の東西の通りに面した町家)昭和十八年(1943)土地を購入して一部三階建て四十八畳敷の大広間を持つ建物を本館とした。(この写真が本館)平成三十年(2018)五月十日国登録有形文化財に登録された。一部三階建ての、その三階建て部分庭から見た玄関広間から裏庭越しの別館広間の掛け軸裏側の平屋の別館数寄屋風の造りになっている。別館も同時に国登録有形文化財に登録された。別館は別々の玄関をもち「竹」、「翁」と名付けられた2室の座敷からなり、丸窓や竹を用いた天井などをもつ数寄屋風の造りとなっています。現在は使用されていないようです。これが最新に購入し料理旅館にした元町家。東西通りは町家の外観を残しつつ南北通りは前庭をもつ屋敷風として趣を異にしています。
2021年08月13日
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波多岐神社 伊賀市三之宮神社 『式内社調査報告』には 昔、境内に、真っ直ぐな樫の木があり、 これを朝廷に献上して、旗木(ハタキ:旗竿)にしたという話が載っています。 波多岐神社の名前の由来です。 秋の例祭では特殊神事として神事相撲が行われるそうで、 拝殿前の4本柱が土俵です。 拝殿内部には相撲の絵馬が掛けられていました。 神事相撲では村一番の大男が小さい男に負ければ、 豊作の祈願が適うとされたそうです。 式内社とは『延喜神名式』927年(延長5)(『延喜式神名帳』ともいう)に登載された当時の官社3132座(一社で複数の祭神が登載された神社もあり、社数では2861社)のことで、したがって1000年以上の歴史的生命のある宗教施設となる。 境内社は、宇都可神社、府中神社、英霊殿があります。 伊賀三之宮 伊賀一之宮、二之宮、三之宮は全て東西南北3,km位の府中地区内にあります。 次の国庁跡も同地区です。 伊賀国庁跡 三重県伊賀市坂之下(さかのした)字国町(こくっちょ) 史跡名勝天然記念物 平成元年の県営圃場整備事業の際に掘立柱建物の遺構が発見され、國厨(くにのくりや)と記された墨書土器が出土したことから、伊賀国庁跡と断定されました。 国府の所在地については、柘植川対岸の沖積地が推定されていたましたが、三重県埋蔵文化財センターと上野市教育委員会による発掘調査で判明しました。 それまでは、数百m南西の「さしがね」という地名の場所と推定されていました。 しかし国庁は大化の改新の詔(みことのり)645年で建立されたとされていますがこの国庁建立は発掘調査では百年位後になりますので最初は言い伝えの「さしがね」だったのかもしれません。 伊賀国庁に建てられた建物は、当初は掘立柱建物でしたが、10世紀になって礎石立(そせきだて)に変化しています。 伊賀国庁の存続時期は8世紀末〜11世紀中頃で、字名の国町(こくちょう)は、国庁の転訛と推定できます。 伊賀国は、天武天皇9年(680年)に伊勢国から分立して誕生。 国庁跡の真南、5kmに伊賀市西明寺に伊賀国分寺跡があり、その東にある国の史跡「長楽山廃寺跡」が伊賀国分尼寺跡だと推測されています。 国司が築いた総社は不詳ですが、伊賀市一之宮の敢國神社(あえくにじんじゃ)が伊賀国一之宮です。 木津川の支流、柘植(つげ)川右岸の段丘上に位置する国庁跡。 遺構については変遷があり、東西約41m、南北も同程度の掘立柱塀で区画された政庁域の中に、正殿・前殿・脇殿等が配される。主要建物は当初は掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)であるが、10世紀前半から後半にかけて礎石立(そせきだて)建物に建て替えられる。出土した墨書土器(ぼくしょどき)の中に「国厨」(くにのくりや)と書かれたものがあり、遺跡の所在地に「こくっちょ(国町)」と称する地名が残ることから、検出された建物群は伊賀国府の中枢部分である伊賀国庁を構成するものと考えられました。 このように、伊賀国庁は主要な施設の配置関係がほぼ判明し、遺構の残存状況も良好です。存続時期は8世紀末から11世紀中頃で、下国(げこく)「伊賀国」の国府中枢である国庁の造営と変遷の実態を良く示すとともに、古代伊賀の政治情勢を示す上でも貴重です。 現在の状態は史跡としての保存整備に入っています。 保存整備工事中 完成予定は令和6年度(2024)となっています。
2021年08月09日
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大村神社 伊賀市阿保 国指定文化財の本殿 伊賀国造の一族ともされる伊賀国を治めた豪族阿保氏が 祖人の息速別命を祀ったものと推定されます。 祭神:息速別命(いこはやわけのみこと) 日本書紀、古事記によると祭神の息速別命は垂仁天皇と薊瓊入媛(あざみにいり)の皇子です。 薊瓊入媛(あざみにいり)は丹波道主(たんばのみちぬし)の五人娘の4番目の娘で、 五姉妹とも垂仁天皇に嫁ぎましたが末子の竹野媛だけが器量が悪いとして里へ帰され、自害したといわれます。 伊賀天正の乱の折に以前の本殿が焼失、天正15年(1587年)に本殿として 建てられました。現在の本殿が明治23年 に建てられる以前までは本殿でした。 一間社(正面の柱間(はしらま)が一間のもの。)入母屋造、妻入、檜皮葺の建物で桃山形式の様々な彫刻と極彩色が施されています。 こちらは新しい明治23年(1890年)建立の本殿、 桃山時代の本殿の東側に並んでいます。 虫喰い鐘 神社に釣鐘があるというのは珍しいが、明治の初め頃までの、神仏習合で、この鐘は 大村神社の宮寺、今の駐車場のところにあった禅定寺(ぜんじょうじ)のもので、明治 3年(1870)神仏分離による廃寺の際に、大村神社のものとして残されたものだそうです。 鐘乳(こぶ)が落ちていて虫喰い鐘といわれる。 この要石は、地下深く広がり、大地を揺るがす大なまずをしっかりと押さえていると伝えられています。又大村の森全体が大きな岩盤におおわれ、この地域をしっかりと護っていると伝えられています。毎年、9月1日の防災の日に地震除災祈願大祭が斎行され、又秋祭り には大なまずが街中に引き出されます。 「巳の神木」とされる大杉 ふるくから白く見えると幸福が来るとあります。
2021年08月02日
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伊賀市に二つの猪田神社があります。 その一つ伊賀市猪田の猪田神社 本殿は、国指定重要文化財で、本殿は桃山時代の粋を集めた、極彩色を施す建物 三重県では最古の建物らしい。 伊賀市猪田5139 猪田神社本殿 近世以前 神社 室町後期 大永7(1527) 一間社流造、檜皮葺 棟札6枚 天真名井覆屋(あまのまないおおいや) 猪田神社鳥居の手前左の天真名井の扁額の鳥居をくぐり山道を200M程進むと竹藪の中に天真名井が 現れます。 各地にある「天の眞名井の水」伝説は天上より黄金の鉢に入れ持ち降った御神水で天村雲命 (あめのむらくものみこと)がその水を初めに日向の高千穂の井戸に遷し、次に当社奥宮の眞名井原の 地にある井戸に遷しました。その後、倭姫命によって伊勢神宮外宮にある上御井神社の井戸に遷さ れたと伝えられています。 真名井神社として奉られている。 横の石碑は真名井神社社号標 この天真名井は神事に使う神聖な聖泉で、 倭姫命(やまとひめのみこと)が穴穂宮(現在の伊賀市神戸神社)に巡幸された時に掘ったとされる 井です。 元旦の早朝、若水取りの神事・御井祭が行われる名井で、伊勢神宮外宮の忍穂井と通じており、 大旱にも枯れない井ともあります。 もう一つの伊賀市下郡の猪田神社 鳥居の型式は厳島神社の鳥居と同じ型式 日本中でも他に類をみないと言われます。 拝殿の後、坂の一番上に本殿があります。 猪田と下郡のこの二つの神社は、1kmとは離れていません。猪田の御祭神は武伊賀津別命、 下郡は伊賀津彦神といわれていますが、同じ神様ともいわれています。下郡の本殿は17世紀初頭の 建立とのことで、猪田よりも新しいですね。 下郡の猪田神社の本殿は、側壁の装飾が鮮やかで美しいです。
2021年04月14日
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千賀地城跡は伊賀市花垣にあります。千賀地服部家は元は荒木服部だと言われていますが源平の合戦の時、千賀地服部の祖、服部家長は平家側につき壇之浦まで行き、生き残りますが服部地区には戻れず隠れ里の花垣郷与野に移り住み地名の千賀地と名乗った。 道路端に入口石碑があります。千賀地宗家の分巣出国と足利幕府への仕官 服部半三保長は十二代将軍足利義晴に松永久秀を介して千賀地から京都に出仕した。 出国にあたり保長、当時三才の嫡子、保元を妻の実家である紀州、保田栄西(楠木正成の縁辺といわれる)の養子として保田家に送った。 保元の嫡子直宗は長男則宗に保田家を継がせ予野に帰り五男元則に千賀地服部家を継がせた、元則は大坂の陣で活躍、後に藤堂釆女家になり伊賀藤堂藩家老職を戴く千賀地城跡はこの丘を登った上にあります。「日本書紀」にみえる百済(くだら)(朝鮮)の王族。仁徳(にんとく)天皇41年(推定353年)紀角(きの-つの) 宿禰が百済につかわされたとき, 紀角に百済の王の族にあたる酒君が礼を示さなかった。そのことで紀角が百済王を責めると、王は鉄の鎖で酒君を縛り捕らえ,日本におくられた。その後罪をゆるされ,43年天皇から鷹の飼育を命じられた。鷹甘(たかかい)部のはじまりという。服部半蔵 藤堂釆女正 誕生地の石碑の裏側応神天皇の時代(270年~310年)呉国から来た人を呉服(くれは) 漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ。この渡来人が所属した部署を部(とり)と 言った。ゆえに 呉服部、漢服部と書く。呉機織り部(くれはたおりべ)この部とは衣服をつかさどる者に名付けられこの場所を服部という。そこを流れる川を前半を取って「くれは川」地名、姓は後半を取って「服部はっとり」としました。右から服部半蔵の故郷塔 藤堂釆女供養塔 伊賀乱横死者供養塔丘の上は少し開けています。伊賀市服部に小宮神社(おみや)がある。延喜式伊賀二十五座に列せられ 伊賀二ノ宮と称せられている。 服部氏の祖神「酒の君」をお祭している。
2021年04月11日
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伊賀市岩倉峡 伊賀盆地はマグマが噴火しないで地中で固まった花崗岩で地盤が出来ています。 その地盤が水流で削られ岩盤が露出してこの景観を造り上げたのでしょう。 水力発電所跡の社宅の井戸跡 岩倉発電所の水路跡 ここで左に曲がり落水して水車を回し発電していました。 その落水していた穴が奥に見えます。 田中善助は1904年(明治37年)あらゆる工業や電灯に用いる電気ことこそ公益になると考え許可を得 ずに無断で工事を始め何回も警察に止められましたが5kmの道を毎日徒歩で通い成し遂げました。 吊り橋からの絶景 上紅岩、下紅岩と言われる紅い部分がある大きな岩があり花崗岩の成分、雲母、長石、石英のうち雲母の鉄分が溶けて紅くなったものと思われます。 この吊り橋(しあん橋)は平成5年(1993)竣工となっているので岩倉峡公園が整備されたのはこの年だと思われます。 吊り橋から真下の写真 吊り橋を渡ったトリム広場にあったこぶしの花、調べたら花びらが開くのは、こぶしで開かないのが木蓮でした。 トリム広場から
2021年04月07日
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ハイエンドインバウンドモニターツアーなるものの案内をしました。 大学教授二人ALTの先生二人に市役所の職員の方三人旅行会社の方ニ人の九人でしたが終始英語案内 で疲れました。 最初の名刺交換で外国人二人が興味深そうに見ていたので Is that business card exchange strange? とお聞きしたら No nice とのことで日本好きの人には良い慣習、文化に見えるようでした。 ALTの二人はいろいろ聞いてくれましたが大学教授の二人特にジェフ・バーグランド氏は歴史に 付いて聞いてくれました。 中央のジェフ・バーグランド氏はこの日もテレビ番組に出演されていたそうです。 忍者同士の暗号文字、五色米はアルファベットを使う外国人にはかえって理解しやすかったようです。 忍者屋敷、英語案内の後、日本語で説明されました。 Can I post this photo on my weblog? Of course とのことでしたので、掲載出来ました。
2021年03月13日
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神戸神社 ここの鳥居は、伊勢内宮の式年遷宮毎に古材を頂き本殿としたあとその本殿の古材を20年経つと 西側のこの鳥居にします。 伊賀市神戸の神戸神社 穴穂宮神社(あなほのみやじんじゃ) 明治41年の一村一社令で村の社を合祀するまでこの名前でした。 倭姫命(やまとひめみこ)が各地を巡り伊勢に奉祀することになりますが、途中、伊賀では四年間滞在しました。 その滞在期間中、この神戸神社に天照大神がまつられていたという。 それゆえ「元伊勢」といいます。 倭姫命が4年間この地に御鎮座された際に、神戸神社の近くを流れる木津川で鮎を取り天照大神に 供進されたという伝承が残っています。 そして今でも、伊勢神宮へ近くを流れる木津川の岩鼻というところで、取れた鮎を 「初魚掛祭(はなかけまつり)」では神宮の月次祭に干鮎1800尾が奉納されています。 藤堂高虎が伊予より移封され伊賀に来られた時に伊予より持ってきた杉を植えられたそうで その「いよ杉」が拝殿手前のこの杉です。 伊勢内宮の古材を式年毎に頂き式年造替をこの本殿も行っています。 西側の鳥居もまた二十年経つと東側の鳥居とします。 つまり木材は合計60年伊勢内宮からは80年使用されることになります。 伊勢神宮領として、江戸時代まで神戸(かんべ)と神田(かみた)の2種があっりました。 神戸は神社に献ぜられた封戸(ふこ)(一戸、一家族の税を納める所)の意味で、伊勢神宮領の神社ということになります。
2021年03月13日
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三重県伊賀市川上地先の建設中の川上ダム 淀川水系木津川の左支川である前深瀬川に建設が進められている2023年完成予定のダムです。 1981年(昭和56年)より独立行政法人水資源機構(計画当時は水資源開発公団)が計画していて 完成すれば木津川流域に建設するダム群の中では最後のダムとなり2004年(平成16年)完成予定で した。 計画長期化の主因は反対運動による補償交渉の長期化によるものでしたが、水源地域対策特別措置法 の適用を受けて水没地域対策を進めた結果交渉は妥結され、代替地造成や三重県道29号松阪青山線・ 三重県道39号青山美杉線の付け替え道路の工事が進められ、このうち三重県道29号の付け替え工事 は2008年に完了した。 この工事現場に直接入る道です。 それらの反対運動の緩和政策の一つでしょうか観眺台(みてちょうだい)を設け、どなたでも登れる展望台となっています。 下の施設ではダムカレーも出されていました。 手前のタワークレーンが1号機、奥が2号機としマスト(中央の柱部分)を自ら吊り上げてクレーンの上に継ぎ足し継ぎ足し令和2年12月26日から12月31日に55mから75mにして8月にクライミング済みの 2号機とあわせてダム完了に向けて作業を進めているようです。 タワークレーンは川上側からは見えませんが川下側の下から積み上げて75mにしていますので見えて いるのはダムの上に出ている18m程です。 令和2年11月16日に高さは58,5mに達したとのことです。下に見える車は大型車です。 この川にはオオサンショウウオが生息していますので保全対策の一環として令和3年1月12日から14 日にかけてオオサンショウウオの幼生調査を行い計45個の幼生と5個体の成体が確認されました。 その高さが58,5mを超えて左右岸方面に打設面が広がったとのことで一番奥の右岸天端(てんば、ダムや堤防の一番高い部分) をクローラクレーンを設置してタワークレーンでは届かない範囲の打設をしているそうです。
2021年02月16日
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初瀬街道は奈良方面から伊勢に参宮するコースで阿保宿は宿場町として行き帰りの参宮客で大いに にぎわったそうです。 その阿保宿の中でもこの旅籠「たわらや」は大きな旅籠だったったようで「参宮講看板」を保存、展示 するため初瀬街道交流の館「たわらや」を跡地に建設しました。 その中に参宮講看板が幾つも展示されています。 78枚が三重県有形文化財民族資料に指定されています。 「たわらや清右衛門」の看板 入館料は無料てす。 「たわらや」から初瀬街道を東へ進むと「菅笠日記」記念碑があります。 初瀬街道は現在の国道の川の北側ではなく南側でこの記念碑の橋を渡って国道側に出ます。 江戸時代中期の明和9年(1772)に松阪の国学者・本居宣長が、吉野へ花見旅行に出かけた時の道中日 記『菅笠日記』で、阿保に訪れたときの思いが綴られています。作中には、宣長が阿保の川を歩いて 渡ったことが記されており、この日記のゆかりの場所として昭和31年に『菅笠日記の碑』が建立され ました 碑文 本居大人 菅笠日記抄 「河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら、かくいふはきの ふこえしあほ山よりいづる阿保川のほとり也、朝川わたりて、その河べをつたひゆく、岡田別府な ンどいふ里を過て左にちかく阿保の大森明神と申す神おはしますは大村ノ神社なンどをあやまりてか くまうすにはあらじや、なほ川にそひつゝゆきゆきて阿保の宿の入口にて又わたる、昨日の雨に水ま さりて橋もなければ衣かゝげてかちわたりす、水いと寒し、明和九年三月六日」
2021年02月14日
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息速別命(いこはやわけのみこと、おきはやわけのみこと)古事記や日本書記にも伝わる 古代日本の皇族。 その墓といわれる宮内庁管理の墳墓 第11代垂仁天皇の皇子とされます。 10代天皇までは神話の中の世界といわれ実質初代天皇です。 この天皇は3世紀後半から4世紀後半前半の人と思われます。 伊賀国造(いがのくにのみやつこ) 先代旧事本紀』「国造本紀」には、成務朝に垂仁天皇の皇子である意知別命の3世子孫・武伊賀都別 命が伊賀国造に任じられたとされます。 また同天皇の皇子・息速別命を祖とする説ある。允恭朝(5世紀前半)に4世子孫の須珍都斗王が阿保姓 を与えられました。 いずれにしてもこの息速別命が伊賀国造 (いがのくにのみやつこ)より一世紀ほど先に伊賀に、 入った皇室ということになり伊賀という言葉の元になった人ということになるかと思われます。 息速別命の墓(阿保親王墓) 奥に宮内庁所管の陵墓があります。 阿保氏(あぼうじ、姓は君)で、一時は建部(健部)氏を名乗る。雄略朝の意保賀斯が武芸に秀でて いたため武部(健部)と改姓するが、延暦3年(784年)に人上が阿保朝臣を賜り、同族が阿保公となった。 近江国の小槻氏も貞観年間に改姓するが、こちらは息速別命の異母兄弟の落別命の末裔。 国造の本拠は伊賀国伊賀郡阿保村で、現在の三重県伊賀市(旧青山町)にあたります。 阿保頓宮跡があります。 阿保頓宮跡は息速別命墓の東側にがあり、入口に標識がありました。 伊賀国に宮室を造って住んだということで頓宮跡が残っています。 阿保に宮室を築いてお住みになっていたことから、通称は『阿保親王』と呼ばれ、その子孫も代々 阿保の地に住み、第19代允恭天皇のとき居住地の名により『阿保』という姓を賜ったといわれます。 阿保頓宮跡碑 その標識を登ったら城跡のような台地があり石碑があります。 跡地は思ったより高く広いものでした。 この平地状の地が数カ所あり後の世には城郭としても使われていたと思われます。
2021年02月14日
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今年を締めくくり、 三年に一度の石垣伐採 久居陸上自衛隊員の皆さん50名で取り掛かってくださいました。 ダンジリの蔵出し踏切を渡りました。 桶子神社舊跡の微高地があり、「桶子神社舊跡」の石碑が立ってます。桶子神社は木興町の住宅街の 中に移転しています。町井氏一族は江戸期初期に現伊賀市枅川(丸山城跡の北側)に移り住み、庄屋として続き、江戸期家屋が現存しています。 曾爾高原のすすき原 曾爾とは古語で『やせ細った土地』とか『とがった土地』のこと とあります。 向かいの山、亀山に登って気がつきました、眼下のお亀池はカルデラ湖で古代の噴火口の縁の外輪山 が亀山ですすき原は噴火口内は土が酸性なのですすきしか生えてこなかったのでしょう。 「芒原(すすきはら)抜けて山々伊賀遠見」
2020年12月31日
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天正伊賀の乱激戦地、比自山に行ってきました。 伊賀が乱を起こしたのではないので「天正の伊賀攻め」とでも言うべきものですが。 常住寺を抜け松寿院供養塔の前を通りふるさと芭蕉の森公園から山の嶺を目指し最後の芭蕉句碑 には向かわず山道に入りました。 この階段はの登らず右に向かいました。 常住寺をスタートしふるさと芭蕉の森公園の山道から比自山城址を経て西蓮寺への道前まで行き、 引き返しましたが帰り道で迷い二筋ほど東の道に入ってしまい、笹や木をかき分ける薮漕ぎ(やぶこぎ) という、かき分けかき分け進む行為の連続になってしまいました。 『信長公記』『多聞院日記』には天正9年9月3日に攻撃開始との記述がありますが、伊賀の『伊乱記』では 9月27日に6か所から攻め入ったとあります。 伊賀の峠を越えて四日で平楽寺を攻め落とし五日目からは北伊賀てれは比自山のみの抵抗となった。 織田勢、蒲生(七千人)は比自山の東麓に陣、脇坂、山岡勢は東北の仏性寺に筒井勢(計三千七百人)は 南方西蓮寺に堀、多羅尾勢(二千三百人)は木根村山の口(西光寺口)に陣をひいた。計一万三千人の 大部隊が直接対戦さらに木津川東岸に丹羽長秀、滝川一益、藤堂将監景久(一万二千人)らが小田、 平井神社から木興にかけて布陣、計二万五千人が伊賀勢三千五百に備えました。 下に見えるのが堀切 五日目夜、門を開き、伊賀勢、富岡新八郎、町井清兵衛、加藤熊之助らが山を駆け下りる。富岡新八郎、 木根西光寺口を襲い堀勢の軍監安藤将監の首を取る、富岡新八郎、炮烙玉を撒き散らし突進、が織田方 に木根村から多羅尾軍に散らされる。 上から石や大木を落としたと言われる山から 七日目織田勢、十時頃比自山中腹で激突、仕掛け穴や伏兵などで抵抗、それでも織田勢一気に押し寄 せるが山上から追い落とされた。その間、横山甚助、長岡山の蒲生氏郷に切りかかるが逃げられる。 森四郎左衛門と高田郷助、後、槍森、薙刀郷助と語り継がれる伊賀方活躍。この戦いで織田勢、 二千五百の死傷者をだす伊賀勢にとって奇跡的な大勝利 九日目織田方、比自山に攻め上るが伊賀方全員ちりちりに逃げ、もぬけの殻だった。 帰り道で迷い薮漕ぎ(やぶこぎ)が40分以上続きやっと紅葉道が見えた時はほっとしました。 比自山方面から伊賀上野城を遠望
2020年11月09日
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