伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2022年08月30日
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菅原大辺神社遺跡と刻まれている石碑
須藤刑部丞經俊(山内首藤刑部丞経俊(やまのうちすどうぎょうぶじょうつねとし)当時の伊勢、鎌倉時代二代目の伊賀の守護)が鎌倉から荏柄天神社. (えがらてんじんしゃ)を勧進
大野木清水(しょうず)地区に清水大邊神社と伊賀守護館も建立した。
その跡とされる石碑



平賀惟義から大内惟義(おおうち これよし)鎌倉時代初代伊賀守護1184~1186.
伊賀守護と大内の地頭を兼ね、地頭は直接年貢を取立てるので大内に住み大内を名乗ったのだと思われる。大山田伊賀平氏、平田家継に襲われ逃げる。平田家継は討ち取られる。

山内首藤経俊 伊賀守護1186—1204
鎌倉から荏柄天神社を勧進、菅原大辺神社に
元久元年(1204)伊勢・伊賀で平氏の余党平盛時らが蜂起(三日平氏の乱)のとき,守護所から逃亡し,守護職を罷免された。

藤原朝光 伊賀朝光,  伊賀守護1210~,伊賀守護任じられ以後 伊賀氏を称した。
娘、伊賀の方を後室に迎えた北条義時が鎌倉倉幕府の二代執権となった事から、朝光の子らは義時の外戚として活躍した。
義時没後の1224年(元仁1)、兄の政所執事(まんどころしつじ)伊賀光宗と謀り自子政村を執権にし、女婿(じょせい)一条実雅(いちじょうさねまさ)を将軍に立てて幕府の実権を握ろうとしたと北条政子より嫌疑をかけられ、伊賀氏一族は幕政から一掃された。


切込掻揚型式氏館 平地は掻揚型式、台地は切込で堀切を造る。
掻揚型式氏館 平地に壕を掘って土を掻き揚げ土塁を造る
「三国地志」には伊賀地方の城館について城、塁、宅を明確に区別して
城は大規模な土塁、堀などの施設をそなえたもので
塁はそれに準じる砦で
宅は土豪クラスの単郭式の方形城館とし、藤堂元甫もこれを意識していた。



竹島氏館
竹島氏館は、屋敷林に囲まれ古風な長屋門(門の脇に石碑があった)がある旧家だ。圃場整備で改変されてるが、屋敷林の外側にある水田は堀跡であろう。特に西側の水田は面影がある。  伊賀には多い単郭方形の居館が多いが、竹島氏館は方形の曲輪を二つ並べた縄張りで、伊賀では珍しい複郭式(ふくかくしき)の居館だ。現在は、土塁が居館の周囲に残り、空堀が北側と東側に残っていた。  竹島氏館は、室町時代に竹島氏によって築かれた。天正9年の伊賀天正の乱では竹島与左衛門は他の豪族と共に比自山城へ籠もり、織田勢と一戦交えた。







直居氏館  
直居氏館は、木津川西岸の自然段丘に築かれている。清水地区の中心部にある直居氏宅を取り囲むように土塁と堀の一部が残っている。土塁の西端は隣家と接しているが、高さ約3m程のある分厚い土塁であった。  直居氏館は、築城年代は定かでないが直居氏によって築かれた。直居氏は、天正9年の伊賀天正の乱では他の豪族と共に比自山城に籠城した。 明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。明治4年の伊賀農民騒動で,当村の大庄屋直井正助宅が放火された(伊賀大騒動記)。とある。







木津氏館
木津氏館は、大野木地区の木津川西岸段丘に築かれている。東出地区の水田の中に屋敷林で囲まれた旧家が木津氏館だ。  周囲を土塁と堀が廻らされた単郭方形の典型的な豪族居館であった。敷地の西側を除く三方に土塁が残り、特に東側の土塁が旧状を良く留めていた。また、現在は水田となっている堀は、発掘調査の結果、幅6m・深さ1.5mの薬師堀であったとか。   木津氏館は、築城年代は定かでないが木津氏によって築かれた。木津氏は、伝承に拠れば山城国木津より移住したとされている。 周囲を土塁と堀が廻らされた単郭方形の典型的な豪族居館であった。敷地の西側を除く三方に土塁が残り、特に東側の土塁が旧状を良く留めていた。また、現在は水田となっている堀は、発掘調査の結果、幅6m・深さ1.5mの薬師堀(やげんぼりは、.堀の形状の一つで、薬研(漢方で薬を細かくし煎じて飲むために,鉄製の細長い舟形で中が断面V字形)のごとく断面がV字形になっているもの)であったとか。








もう一つの木津家文書が発見された木津氏館
木津家文書は、2018年に、三重大学国際忍者研究センターに寄託をうけた文書。同家は2代目から5代目まで伊賀者の任にあり、それ以降は、平無足人に落ちたものの、その後、藤堂藩の坊主を勤めるなどしていた。2代目は、伊賀国における新田開発の候補者に挙がるほどで、同家の経済力や信望のほどを窺うことができる(すなわち、伊賀者を勤め得る家であった)。また、5代目が提出した忍術伝授起請文の正文が残っている。その内容から、伊賀者同士で忍術を伝授しあっていたこと、「万川集海」がそこで使われていたこと、「火器」という語が特に出ていることから「火術」を重視していたことを指摘した(「万川集海」でも「火器」の記録が多い)。



木津家文書


敬白天罰霊社起請文前書(けいびゃくてんばつれいしゃきしょうもんまえがき)
で、木津家の5代目の伊之助と(1716年)忍術の師匠とされる長井又兵衛
との誓約書

喩親子兄弟たりといふ共他見他言仕間敷候」(たとい おやこ きょうだいたりというとも たけんたごんつかまつる まじくそうろう)師匠の長井又兵衛宛





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Last updated  2022年08月31日 11時57分56秒
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