2011年06月20日
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 甲板の中央部の両舷に4門ずつ「40口径3インチ速射砲」を取り付けました。

 この速射砲は、全部で20門装備されていて、その役割は艦の周りをうろちょろする敵の水雷艇を撃滅することでした。



通風筒は、全部で12あって、竣工時は全て空気の取り入れ口はキセル型をしていました。

しかし、日本海海戦前に改造されて、キセル型の通風筒は4個になり、残りは栓をしたような形状になったようです。





40口径12インチ主砲の塗装を完了して船体に取り付けました。



 下瀬火薬のエピソード

 日露戦争が始まる5年前、日本海軍は、18インチの複合鋼板(当時の戦艦の装甲)に向けて12インチ徹甲弾の射撃実験を行ったところ、砲弾は複合鋼板を貫通できずに破壊してしまったそうです。

 実験者はこの実験結果にかなりショックを受けたようです。

 なぜなら、徹甲弾は、装甲を突きぬけて内部で破裂しなければ機能が発揮できないからです。

 そこで、海軍では徹甲弾の代わりに、鍛鋼榴弾(外殻を薄くして、中に大量の火薬を充填した破壊力の強い砲弾)が使われるようになりました。

 つまり、装甲を突き抜けることを諦めて、装甲の表面で爆発させて構造物の破壊、戦闘員を殺傷することを目的としたわけです。

 徹甲弾には12キログラム、鍛鋼榴弾には39キログラムの下瀬火薬が使用されていたそうですから、約3倍もの差があったわけです。

 当時、火薬は綿火薬(ニトロセルロース)が一般に使われており、ロシア帝国海軍もこれを採用していました。

 下瀬火薬(ピクリン酸)の爆発力は、綿火薬よりも3から4割高かったようですが、ピクリン酸の弱点は鉄と反応して不安定になるので、鉄製の砲弾の中に直接入れることができなかったことです。


 下瀬雅充(マサチカ)は、ピクリン酸を炸薬として使っただけなのに、発明と言って自分の名前を付けた変なヤツという人もいるようですが、それなりの創意工夫もあったようです。

 『一説によると砲弾内部に漆を塗り、和紙で特別に包装した下瀬火薬を入れたものであるといわれ、ここが下瀬火薬の創意であるとされている(吉田恵吾、創出の航海)。』


 日本海海戦で、下瀬火薬の爆発は猛烈を極め、ロシア将兵を恐怖させたのですが、

 昨日書いたように、火薬が過敏過ぎて、何時「とう発(砲弾の砲身内での破裂)」するか判らなかったのですから、日本将兵をも恐怖させていたのかもしれません。

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最終更新日  2011年06月21日 00時08分33秒
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