2011年11月06日
XML
カテゴリ: 秋山真之伝記
 明治37年8月10日早朝、

 ロシア太平洋艦隊は、敵味方が敷設した旅順港外の機雷を掃海して、

 その後、戦艦6隻、防護巡洋艦4隻、駆逐艦14隻が相前後して出港しました。


 日本海軍の連合艦隊哨戒艦艇は、ロシア艦隊の出港を知り、

 その状況を刻々連合艦隊旗艦「三笠」に報告していました。


 連合艦隊司令長官東郷平八郎中将は、午前8時50分、第1戦隊を率いて出立し、

 ここに、2月の開戦以来初めての大規模な海戦である「黄海海戦」の幕が切って落とされたのです。


 ロシア艦隊に対する連合艦隊の陣容は、

 戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻、防護巡洋艦10隻、駆逐艦18隻

 ですから、戦力的には連合艦隊の方が優っていたかもしれません。


 もし連合艦隊がロシア艦隊を撃滅し、

 連合艦隊の損失が半数であれば、黄海海戦は連合艦隊の大勝利なのでしょうが、

 戦略的には日本軍は敗北を認めざるを得ません。


 なぜなら、戦力が半減してしまった連合艦隊は、

 この後極東に回航されてくるであろうバルチック艦隊に対抗できるはずもないからです。


 したがって、連合艦隊はできるだけ味方艦隊の損失を少なくしてロシア太平洋艦隊を撃滅し、

 制海権を確保した後に、傷ついた艦艇を整備してバルチック艦隊を迎え撃つというシナリオしか無かったのです。


 当時の連合艦隊先任参謀秋山真之少佐は、

 後に黄海海戦を振り返り、次のように書いています。


 『今日より、戦役当時の戦勢を回想してみると、

 もし敵の第2、第3艦隊(すなわちいわゆるバルチック艦隊)が、37年中にいち早く東洋に到着するか、

 あるいはその第1艦隊(すなわち在来の東洋艦隊(太平洋艦隊のこと))が、

 その半分たりとも38年まで長く残存して、バルチック艦隊に合力するか、

 あるいはまた、この第1艦隊が自ら全滅するも、我が連合艦隊の勢力を半減するまでに力戦したんらば、

 いずれにしても我が海軍の勝算は立たなかったので、真に危ういことであった。』 





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011年11月16日 19時03分35秒
コメント(0) | コメントを書く
[秋山真之伝記] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: