2011年12月08日
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カテゴリ: 秋山真之伝記
 バルチック艦隊の位置を予測して(この予測は間違っていたのですが)、

 針路を変更したのが13時31分(明治38年5月27日)で、

 連合艦隊司令長官「東郷平八郎」大将の旗艦「三笠」が

 バルチック艦隊を発見したのは13時39分でした。


 この8分間は、

 東郷の司令部もそれまでの喧騒がうそのように、

 静かな時間が流れていたのではないでしょうか。


 この時、「三笠」の露天艦橋では、東郷と参謀長「加藤友三郎」少将との間で、

 次のようなやり取りがあったようです。


 『司令塔の中にお入り願いたい。

 今日は最も大事な戦いでありますから、

 ぜひとも司令塔の中から指揮されるように願いたい。』


 『東郷は老人じゃ。

 今日はこの位置を離れない。

 貴方がた若い者こそ将来ご奉公の前途が大切じゃから、貴方がたはお入りなさい。』


 明治37年8月10日の黄海海戦では、

 旅順艦隊(ロシア太平洋艦隊)旗艦「ツェザレーヴィチ」の艦橋に連合艦隊が放った砲弾が爆中し、

 司令長官「ヴィトゲフト」少将とその幕僚を吹き飛ばしてしまったのです。


 指揮官を失った旅順艦隊は迷走し、

 戦略目的である「旅順艦隊のウラジオストックへの回航」を達成することができませんでした。


 これを教訓とするなら、

 砲撃戦を行うにあたり、司令長官が露天艦橋に立って指揮をするなど、どうしても避けたいところですが、

 東郷はすでに老人で頑固であったでしょうから、

 加藤も東郷を司令塔に入れることを早々と諦めたようです。


 その後の加藤の指示について、当時の連合艦隊参謀「飯田久恒(ヒサツネ)」少佐は、

 後に次のように回想しています。


 『最上艦橋には、長官と自分と秋山(真之、先任参謀、中佐)といるから、

 副官の永田(泰次郎、中佐)と飯田と清河(純一、大尉)参謀はその次の甲板におれ。


 一弾のために怪我をしてはならぬから、

 なるべく分かれ分かれにして働け。』


 この飯田の回想は、当時戦艦「三笠」の砲術長「安保清種」少佐の回想とは少し食い違いがあるのです。

 『結局、三笠の最上艦橋には東郷司令長官と加藤参謀長がおられ、

 それ以外の幕僚は戦闘中は司令塔や、上甲板以下の防御部内に別々に位置を占め、

 時々戦況に応じて艦橋に顔を出すというわけでした。』


 飯田は、真之は露天艦橋に居たと言っているし、安保は居なかったと言っているわけで、

 何故、このような食い違いが生じたのかということについては、

 また次の機会に書きたいと思います。





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最終更新日  2011年12月09日 00時23分25秒
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