2011年12月16日
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カテゴリ: 秋山真之伝記
 これまで書いてきたように、

 バルチック艦隊との距離が8,000mになった時に取舵にするという「東郷ターン」を知っていたのは、

 戦艦「三笠」の乗員の中では、

 「東郷平八郎」司令長官と「加藤友三郎」参謀長、

 そして「秋山真之」先任参謀の3人であったと考えられます。


 つまり、真之が脚本を書き、

 加藤が演出し、

 東郷が見事に演じきった訳で、

 3人の絶妙な連携であったと言えるでしょう。


 第1戦隊の先頭艦は、連合艦隊司令長官の旗艦「三笠」であり、

 この戦艦の露天艦橋での緊迫した状況は、

 「安保清種」砲術長という正直な証言者のおかげで、

 何となく想像することができました。


 それでは、第1戦隊の後に続く第2戦隊は、

 いわゆる「東郷ターン」が行われていた時に、

 どのような状況判断のもとに行動したのでしょうか。


 第2戦隊の先頭艦は、

 第2艦隊司令長官「上村彦之丞」中将の旗艦、装甲巡洋艦「出雲」でした。


 この出雲には、上村の幕僚である参謀長「藤井較一(コウイチ)」大佐や

 先任参謀「佐藤鐡太郎」中佐などが乗艦していたのです。


 「東郷ターン」は、加藤と真之以外の東郷の幕僚にさえ知らされていなかったのですから、

 上村の幕僚には誰一人知らされていなかったのだろうと思われます。


 なぜなら、これまで書いたように、連合艦隊の戦策が藤井により少なくとも2回潰されていて、

 もしも、「東郷ターン」を事前に知らせていたなら、

 上村の幕僚は猛反対しただろうことは十分に想像されるからです。


 12月13日に書いたように、

 当時最新式の鋼板が使用され最も装甲が固いとされた戦艦「三笠」の艦長でさえ、

 左への正面変換を反対したのです。


 装甲巡洋艦とはいえ、しょせん巡洋艦です。

 戦艦の装甲の厚さにはかなうはずもなく、

 敵前での回頭時に、戦艦が敵の砲撃に耐えられたとしても、

 装甲巡洋艦がこれに耐えれるとは限りません。


 藤井に反対されることを危惧した加藤は、

 これを秘匿して、

 あたかも偶然行われたように装うとしたのではないでしょうか。


 日本海海戦の30年後に座談会で、安保は、次のように回想を締めくくっているのです。

 『この変換(東郷ターン)は、計画的に行われたものではなく、

 今述べた如く、

 混雑のうちに演ぜられた一つの偶然からの結果であることを申して置く次第である。』


 第1戦隊の左回頭(取舵)を開始したのが、14時5分。

 14時8分には、

 バルチック艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」より最初の一弾が三笠に向けて発せられ、

 バルチック艦隊の砲撃が、着弾による水柱のために、

 三笠の艦影が消えるほど凄まじいものであったとき、

 第2戦隊は、右に変針して、第1戦隊と距離を取ったのです。


 これは、例えば、車を運転していたら、前の車が左折して事故を起こしたのを見て、

 これを避けるために瞬時にハンドルを右に切った様なものであったのかもしれません。





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最終更新日  2011年12月16日 23時22分42秒
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